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シラス台地の地形改変による海岸地形の変遷

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(1)シラス台地の地形改変による. 海岸地形の変遷. 教科・領域教育専攻. 社会系コース. 竹部嘉一 (M 945i81).

(2) シラス台地の地形改変による海岸地形の変遷 目次 序論. 1. 第1節研究の視点. 1. 第2節 研究の目的と方法. 4. 1.研究の目的 2。調査対象地域の設定理由. 3.研究方法 第3節 調査対象地域の概観. 8. 1.鹿児島県の地質と地形面. 2.吹上浜地区の概観 3.志布志湾地区の概観. 第1章研究の動向 第1節.シラス. 16. 16. 1.シラスの分布 2.シラスの土質工学的特徴 3.シラス台地の地形学的特徴. 第2節 海岸砂丘. 20. 1.地形学から見た砂丘形成に関する研究 2.考古地理学から見た砂丘形成に関する研究 3.砂防植林から見た砂丘形成に関する研究 第3節 歴史時代以降における開発に伴う地形改変. 25. 1.古代・中世における地形改変. 2.近世における地形改変. 第ll章調査対象地域での関連する研究 第1節 海岸砂丘の形成について. 1.吹上浜砂丘 2.志布志湾岸砂丘. 33. 33.

(3) 第2節 海浜砂と砂丘砂中のシラス砂. 40. 1.上内(1954)の分析結果 2.竹上(1971)の分析結果 3.成瀬(1972・1977)の分析結果. 4.シラス砂とシラス砂丘 第3節 耕地開発について. 52. 1.近世の耕地開発 2.明治以降の耕地開発 第皿章 吹上浜海岸のシラス砂丘の形成とシラス台地の開発 さこ. 第1節. 「迫」における水田開発. 69 69. 第2節 シラス台地の畑地化. 75. 第3節 シラス砂丘の形成. 76. 第IV章 志布志湾岸のシラス砂丘の形成とシラス台地の開発. 79. 第1節 水田開発の進展. 79. 第2節 シラス台地の開発の進展. 81. 第3節 シラス砂丘の形成. 83. 第V章 シラスの流出量の違いと砂丘の形成. 87. 第1節 吹上浜と志布志湾岸へのシラスの流出量の違い. 87. 第2節 近世以降の砂丘の形成. 87. 1.吹上浜砂丘 2.志布志湾岸砂丘 第3節 シラスの流出と砂丘の形成 結論. 92 98. 1.要約 2.今後の課題 (参考文献). 102.

(4) 図表目次. 第1図 吹上浜地区の概観. 6. 第2図. 7. 志布志湾地区の概観. 9. 第3図 鹿児島県の地質の概観 第4図. 11. 吹上浜地区の地形面区分図. 13. 第5図 志布志湾地区の地形面区分図 第6図. 33. 吹上浜砂丘遠景(日置郡吹上町入来浜付近). 第7図 万之瀬川河口から見た上流部(加世田市吹上浜海浜公園付近) 第8図. 35. 40. 熔結凝灰岩中の斜長石(鹿屋市荒平産). 41. 第9図 熔結凝灰岩中の角閃石(鹿屋市細山田産) 第10図. 熔結凝灰岩中の単斜輝石(鹿屋市細山田産). 41. 第11図. 吹上浜砂丘の砂丘列と火山ガラス含有率(成瀬,1994). 50. 第12図. 志布志湾岸砂丘の砂丘列と火山ガラス含有率(成瀬,1994). 51. 第13図. 「伊作庄内日置北郷堺絵図」 (三木,1971). 54. 第14図. 「伊作庄内日置北郷堺絵図」の水田用地(三木,1971). 55. 第15図. 阿多新田開田の石碑(川辺郡川辺町永田轟木付近). 59. 第16図. 迫田の様子(川辺郡川辺町宮付近). 69. 第17図. 塘の堰堤脇の記念碑(川辺郡川辺町宮付近). 70. 第18図. 改修前の用水路(川辺郡川辺町宮付近). 71. 第19図. 阿多新田の用水路のトンネル(日置郡金峰町白川付近). 72. 第20図. 阿多新田の用水路脇のガリー浸蝕(日置郡金峰町白川付近). 72. 第21図. 迫田の用水路に沿うシラス台地の急崖の崩壊(川辺郡川辺町宮付近)73. 第22図. 改修後の用水路(川辺郡川辺町宮付近). 第23図. シラス台地の浸蝕・崩壊の模式図(井尻,1978). 74 76.

(5) 第24図. 砂丘IHと遠見番所の碑(曽於郡大崎町益丸付近). 85. 第25図. 「吹土潰」 (r三國名勝圖會』より). 88. 第26図. 「有明浦」その1(『三國名勝圖會』より). 90. 第27図. 「有明浦」その2(r三國名勝圖會』より). 91. 第28図. 薩摩国の耕地面積の増加と吹上浜砂丘の形成期. 93. 第29図. 大隅国・日向国諸縣郡の耕地面積の増加と志布志湾岸砂丘の形成期. 94. 第30図. 浸蝕の進む志布志湾岸砂丘(肝属郡東串良町川東付近). 96. 第1表 吹上浜砂丘における従来の研究. 36. 出2表. 39. 志布志湾岸砂丘における従来の研究. 第3表 海岸砂・シラス砂の鉱物組成の分析結果(上品,1954) 第4表. 海岸砂・シラスの主成分鉱物の屈折率(竹上,1971). 42. 45. 第5表 薩摩国内における近世の耕地開発. 56. 第6表 大隅国・日向国諸訳郡内における近世の耕地開発. 60. 第7表 鹿児島県曽於郡における明治以降の耕地開発. 65.

(6) 序論. 第1節 研究の視点. およそ50億年といわれる地球史において、第四紀。は最後の200万年 弱の期間を占めるに過ぎない。この短期間中に、第四紀を特徴づける出 来事2)が集中した。その出来事として、まず最初に挙げられることは、. 急激かつ周期的な気候変化である。この気候変化は地球上に氷河の消長 をもたらし、 「氷河時代Jという別名を第四紀に与える由縁にもなった。. とりわけ、氷蝕や氷河性海水準変動は、地形の形成に多大な影響を与え. た。次に、人間の活動を挙げることができる。当初、人間は、急激な気 候変化に順応するだけのことが多かった。しかし、最近の1000年の聞に、 人間は積極的に自然に働きかけるようになったのである。. 気候変化を含めて、人間の出現以来経験してきた環境変化を大きく2 つに分けるならば、 「人間の作為とは関係しないところで変化する自然. 環境の変化」と「人聞が及ぼした自然改造に起因する入間自身と環境の 変化」ということになる(熊井,1993)。ここで注目すべきことは、人 間が「自然改造」に着手し、環境を変化させたという点である。 19世紀になって、地理学の分野に、 「環境決定論」と「環境可能論」 が登場した。前者はラッツエルを主唱者とし、 「人間の地域的な生活様. 式は気候・地形・植生などの自然環境によって必然的に決定される」と するものであった。一方、後者はブラーシュを主唱者とし、 「必然性と. いうものはなく、至るところに可能性があり、人間はその可能性を支配 するものとして、その利用の審判官である」とするものであった。現在 の最も権威ある地理学思想の根底をなすものは、後者であることは言う 一 1一.

(7) までもない。. 日本の場合、入間による地形の改変は、稲作の始まった弥生時代以降、. さまざまな形で行われ続けてきた。直接的な地形の改変は、特定の目的 を持って行われた結果生じたものである。この中には、耕地の造成・池 溝の掘削などに伴うものが含まれ、やがて大規模な築堤や古墳の造成な ども加わるようになった。現在では、鉱物資源の採掘・河川改修・港湾 の凌諜・道路や都市の建設などに伴う大規模な地形改変が著しくなって いる(日下,1980)。. 一方、人間による一定の行為の結果、間接的あるいは二次的に発生す る予想外の地形の変化の可能性も否定できない。たとえば、森林の伐採 や開墾などの流域の開発に伴って加速度化された地たり・山崩れや、河 川の浸蝕・運搬・堆積量の増加などである。また、湖面の干拓や地下資 源の採取の結果生じた地盤沈下・陥没も同様である。これらの間接的な 地形の変化は、時間的・地域的にズレがあるために、その要因を究明し 難いことが多い。いずれにせよ、人間は最初の引き金を引くという役割 を果たしており、後は人聞によって修正を加えられた自然の営力が地形 を造りあげていくのである。このようにして形成された地形は、純粋の 自然地形とは言い難い(日下,ユ980)。換言すれば、第四紀の地形形成. の営力として、水・風などの自然の営力のみならず、人間もその一つと して無視できないことを示していると言えよう。. 近年、環境倫理学という新しい学問領域から、人間と自然との関係に ついて、 「人間中心主義」から脱却して「入間非中心主義」の枠組みの. 中で見直す必要性が説かれている。この中では、自然を人闇と対立した ものとして捉え、かっ「人間が自然を支配する」という図式から脱する. ことを主張している(鬼頭,1994)のである。この環境倫理学からの提 一2一.

(8) 言は、 「環境可能論」に立つ地理学思想の根底をも覆しかねないほどの. 重要な意義を持つと言えよう。また、環境に関する人々の関心は高まり を見せており、 「自然保護」や「環境保護」を求める声も大きくなって. きている。たとえば、学校教育の場でも、環境教育の重要性が認識され っっある。とくに地理の分野では、 「開発と保全jというテーマで教科. 書にも記述されるなど、重要な部分を構成している。このテーマの授業 では、教材として日本や世界各地のさまざまな事例を示しながら、結果 的に「開発か保護か」という二者択一を迫る展開になりがちである。し かし、環境教育で必要なことは、感情的な議論に陥って問題の本質を見 失ってしまうことなく、科学的事実認識に基づく客観的な判断を下すこ とのできる資質を育成することであると言えよう。. ところで、日本における人工地形に関する研究は、諸外国に比べて著 しく立ち遅れている(門村,1982)。地形形成の過程における人間の役 割や人工地形などに関する研究は少なく、 r地形学辞典』には関連する 項目として、 「土壌侵食」が取り上げられているに過ぎない(門村他,. 1983)。したがって、人間が地形の改変者、すなわち一つの営力として、. 大きな役割を果たした過去2500年間の地形形成の研究例は極端に少ない 状態(日下,1983)である。現在の景観を構成する地形を、自然と入間 の両者によって形成された「歴史的地形」あるいは「二次的地形」とし て捉え(日下,1980)、その形成過程を明らかにすることは、自然と人 間の関係を考察する地理学にとって意義深いことである。本稿では、こ のような視点に立って、地形の形成過程についての考察を進めることに する。. 一3一.

(9) 第2節 研究の目的と方法. 1.研究の目的 かんな 人聞を地形形成の1つの営力として考える具体的な例として、鉄穴流. し3>と平野の形成との関係を挙げることができる。日本で、1600年前後 たたら (慶長年間頃)に始まったとされる鉄穴流しは、鑓製鉄が一応終焉した. 1923(大正12)年まで、およそ300年の間、中国山地の各地で行われて いた4)。鉄穴流しでは、花崩岩頚の中に僅かに含まれている砂鉄を採取. するために、極めて大量の土砂を掘り崩した。このため、鐘製鉄の核心 地域であった中国地方の斐伊川・日野川・高梁川などの上流地域では、. 跡地が平坦化されて農地に利用されるなど、大規模な地形改変が生じた. (貞方,1982)。1704∼1920(元禄14∼大正9)年の200年を超える期 間に掘削された土砂量は、文献・史料などから推定して、約15億m3に 及ぶ。この量は、東京50km圏の1960∼79年の20年間の総地形改変土量に 相当する(赤木,1982)。このうち、鳥取県西部の日野川流域では、近. 世初頭以来の鉄弓流しによる掘削量は2億m3を上廻り、その多くが河 川に押し流された(貞方・赤木,1982)。日野川下流域にあたる弓が浜 半島では、 「外浜」の浜堤群の堆積物の全土量のうち、1億8000万m3 が鉄穴流しに由来するという。すなわち、明色の花醐岩砂からなる海岸 と、松林によって特徴づけられる弓が浜の「白砂青松」の景観は、ほと. んどが人為的な生産活動の所産であることになる。したがって、近世に 盛んに行われた鉄穴流しによる廃土が平野形成に大きく関与しており、. 中国地方の平野は近世に急速に拡大したと考えられる(貞方,1991)の である。. この例のように、地形学の面から自然と人間の関係を考察するために 一4一.

(10) は、古くから人間の生活の場になり、上流部における地形改変の影響が 河川を通して下流部に及ぶという、沖積平野が最もふさわしいと考えら れる。平井(1991)は、北海道網走湖南部の網走川で、上流域における 畑地開発や河川改修によって河道の直線化が進み、土砂流出量が増大し て三角州の前進が現在も進行していることを述べている。これも、人為 によって、沖積平野を形成するという自然の営力が加速度化されたもの と言えよう。しかし、現在の沖積平野は、都市化の進展や圃場整備など により、表層地質の擾乱が著しいために、地下から必要な情報を得にく. い状態にある。そこで、もう一度、日本の海岸平野を概観すると、沖積 平野の一部として、海岸砂丘が分布していることが多い。このことは、. 砂丘地帯の形成と沖積平野の発達とが、深い関係にあることを示してい る(角田,ユ975a)。 このようなことから、本稿では、上流部における. 地形改変が下流部の地形形成に与えた影響について、海岸砂丘を中心に 考察することにする。. 2.調査対象地域の設定 調査対象地域を設定するにあたり、近世以降になって、河川上流部で の地形改変が下流部の地形形成に影響を与えた地域で、かつ顕著にその 影響の現れている地域が、調査対象地域として最良である。しかも、沖 積平野の一部である海岸砂丘の発達している地域を選定することが望ま しい。そこで、鹿児島県吹上浜砂.丘(第1図)と志布志湾岸砂丘(第2 図)を、調査対象地域として設定した。. これらの地域に共通することは、それぞれの砂丘の後背地にシラス台 地が拡がっていることである。サなわち、砂丘を構成する砂は、その背 後の地質を反映しており、珊瑚礁地域では石灰質砂、花歯岩地域では石 一5一.

(11) (等高線の間隔は100mごと). 第1図. 吹上浜地区の概観 一6一.

(12) (等高線の間隔は100mごと). 第2図 志布志湾地区の概観 一7一.

(13) 英砂というように、それぞれ主体となる砂が異なる(成瀬,1989)。. したがって、調査対象地域として設定した2っの砂丘では、シラスが 砂丘を構成する砂に含まれていると考えられる。そこで、それぞれの砂 丘の形成過程を明らかにし、砂丘砂に含まれるシラスの量の割合の変化 とシラス台地に地形改変が加えられた時期を解明することによって、砂 丘形成にかかわる人間の営力の影響を捉えることが可能になると考えら れる。. 3.研究方法 研究目的を達成するために、4万分の1の空中写真から、調査対象地 域内の地形面区分図を作成し、地質と地形面との関連を考察する。次に、. 文献等によって、調査対象地域内における各砂丘の砂丘列の形成期を明 らかにする。同時に、形成期の異なる砂丘列と砂丘砂の鉱物組成との関 係を把握する。. 一方、文献等によって、調査対象地域内での近世以降における耕地開 発の進捗状況を整理する。現地調査では、近世以降の耕地開発の面的拡 がりを確認するとともに、人間による耕地開発が間接的にシラス台地の 地形に及ぼした影響を確認する。この調査結果をもとにして、近世以降 のシラス台地における耕地開発が、砂丘砂の供給量を増加させ、結果的 に砂丘の形成に影響した状況を検討する。. 第3節 調査対象地域の概観5). 1.調査対象地域の地質と地形面 一一 8一.

(14) 凡圏1繍灰岩礁四升層群 例匡ヨ灘類㎜・南層群. g. t ん. 彰・’. ・㎜安山主醗第三紀層群. ミ■7’. 1. ・、、. P男亀. 潔. ma. 醗扇状地. ssrAma;e’・」i’i’Q.,4ny. ・. itiErwlf. 鯉灘. p’」. □1中積平野. ・・、・ラ、ε. 磯骸. 61臣. g... 懸. ’. ・彰. .2t .z L“ s. ⊂.話、 ・》こ. 、『1’ノ1. 鰯飯i鷺. ` t. 詰㌧kl y,s,. 潔. 溝v−f .,発 訟・. ,5だ、、’. 一馨・鷺,.. 罎Q:.’姦て窺跨、獺 “. 畠∼’脳詮’. 1,lyTiV,il,‘3,.. くε・灘. 繍’ ue. 辱 ;. 婁. g.,ewA’. 覇 1誓’. ttlibgl,//:,{li’li/,. 竜. き }. 椿. t’;:. 象、“’. 灘§・. 、、「鎖. .1τ、、》,、」6鷹. .N. もエ コノ ロ ロ. 6. N. 匹. ’購. 石‘鷺こ,赴き’. 、ご. :’一1号訟宮。、、、. ’. 謬, 一. oim20 k.. 第3図 鹿児島県の地質の概観 一9一.

(15) 調査対象地域の中心は、島喚部を除いた鹿児島県である。県の中央部 をほぼ南北に走る霧島火山帯によって、西側の薩摩地区と東側の大隅地 区に分けることができる(第3図)。. 薩摩地区と熊本県との県境付近には、輝石安山岩から成る旧期火山区 と、花崩岩類を主体とする時代未詳中生層の四万十層群から成る旧期火 山区が分布する。九州第2の大河である川内川の南側には、薩摩半島が ある。この薩摩半島では、四万十層群から成る薩南山地が鹿児島湾の西 岸に沿って南北に走っている。薩南山地の西側斜面は比較的緩傾斜して 東シナ海に至る。南西部に位置する野間半島から枕崎市までの海岸は、 リアス式海岸となっている。最南部の開聞岳や池田湖周辺は、霧島火山 帯に属している。薩摩半島の付け根部にあたる部分と薩摩半島南部には、. シラスと呼ばれる特殊土壌とシラスが固結した熔結凝灰岩が分布してお り、鹿児島県の地質を特徴づけている。. 大隅地区の北部には、北東一南西の方向性を有する二二山地があり、 きもつき. これにほぼ並走して曽於丘陵地帯と肝属山地が南東側に順次配列してい. る。三二山地は、時代未詳中生層の四万十層群と、これを貫く二二岩類 から成り、北部は霧島火山帯に続く。中央部の曽於丘陵地帯はシラスに 被覆されており、河川によって笠野原・鹿屋原などのシラス台地を形成 している。最南部の肝属山地には花歯岩が露出している所が多く、太平 洋側に急傾斜、鹿児島湾側に緩傾料となっている。. 2.吹上浜砂丘の概観 吹上浜砂丘は、鹿児島県日置郡東市来町江口付近から加世田市小湊付 近に至るまでの、全長約28km、最:大幅約3km、最高所の標高が47mを超 える砂丘である(第1図)。現在の砂丘はほとんどが松林に覆われてお 一 10 一一.

(16) .ざ. 凡例. 國山地 ∈ヨ台地面. 醗台地斜面. ㎜駈面 慶]駐地/砂丘 も. y’×. [憲鱒野/灘 wa ma/河川. i>〈v’f ・〉・(. c/v’c /. )t/Xr. 0. 5. ヒ==二=== ==i㎞. 第4図. 吹上浜地区の地形面区分図 一11一.

(17) り、海岸寄りではハマユウやハマグルマが咲いている。また、砂丘の内. 陸側には、薩摩湖・中原池など6っの堰塞湖がある。風光明媚なことか ら、1953(昭和28)年3月には吹上浜県立自然公園に指定され、ツツジ ・バラなどが植えられて公園化している。 いざく まのせ. 砂丘は、大川・永吉川・小野川・伊作川・万之瀬川などの諸河糾によ って分断されており、いくつかの断続した砂丘群に分かれている。河川 の中で、最大のものは万之瀬期である。この万之瀬川は、薩摩半島の脊. 梁部にあたる熊ヶ岳(標高590m)付近に源を発し、麓川・永里川・大 谷川・長谷川・加世田川などと合流して、加世田市万世で東シナ海に注 ぐ。薩摩半島では最大の河川で、延長約30km、流域面積381km2である。. 最上流部には錫鉱があり、島津氏によって経営されていた。中流域の川 辺盆地を流れる聞は・広瀬川とも呼ばれている。河口の部分の「新川」. と呼ばれている部分は、1802(享和2)年の洪水時に、現在のような流 路となった部分である(中原,1989)。河口付近の砂丘の内陸側には沖 積低地が発達しており、流域のほとんどの部分にシラスが分布している (第3図)。このような特徴は、神之川・大川・永吉川・小野川・伊作 川などの、薩摩半島から東シナ海に注ぐ諸河川にも共通する。また、薩 きんぼう. 摩半島中部地域には、金峰町金峰山周辺と日吉町草見・笠ヶ野付近のよ うに、花歯岩類が露出している所がある(波多江他,1961)。. 3.志布志湾岸砂丘 志布志湾岸砂丘は、肝属川河口から志布志に至る長さ約33km、最大幅. 約Llkm、最高所の標高約27mの砂丘である(第2図)。宮崎県境から こうやま. は あ. 肝属川河口南側の肝属郡高山町波見に至るまでの海岸と、亜熱帯植物の 群落を伴って志布志湾に浮かぶ枇榔島が、1955(昭和30)年、日南海岸. 一12一.

(18) 、\. _ !. 一 一. 一 }. 、. ?Y ’. @、 A. 、. 、. ×へ. ’∴ぐ・・;ゴ呂ひ:ド㍉=’=・’国. 一 一. _. 一. 多多、、蒸.竃’ ・.. .」 D’. D…. を鷲. 塗i霧無. 一 }. チ灘:響. 冨ず味’、 @’、’』』’:’. @麗騨ゴ ゚三ミ;’... D・.、・『. A∵. 憩’∵ 煤G=二1;:、、 ≠イ’:芋∴・・. .二_. 』. 凸髄. @. ,’∴.∵. N. @ , ※ 、. n. 5. q=コ=====ロコ==f㎞ \. 第5図 志布志湾地区の地形面区分図 (凡例は第4図参照) 一 13 一一.

(19) 国定公園の一部に指定された。その一方で、1971(昭和46)年に「新大 隅開発計画」が発表され、砂丘地帯の一部に石油コンビナートが誘致さ れている。. 志布志湾岸砂丘も、安楽川・菱田川など10余の河川が流入しており、. 砂丘が分断されている。大隅半島における最大の水系は肝属川で、延長 34km、流域面積485km2、.2 4の支流と合流する。この肝属川は、高隈山地. の御岳(標高1182m)の東斜面を源とし、鹿屋市街地を南流して向きを 東に変え、肝属郡東串良町股瀬で最大の支流の串良川と合流する。中流 域には笠野原台地などのシラス台地を擁しており、台地上に畑地灌溜用 水の供給をするために、1972(昭和42)年、串良川上流部に高隈ダムが 建設された。. 菱田川は、大隅半島第2の河川であり、白鹿岳(標高6041n)付近に 源流を持ち、志布志湾岸砂丘のほぼ中央部の曽於郡有明町菱田で志布志 湾に注ぐ。延長約46km、流域面積40ekm2、大鳥川・月野川・前川などの 支流を持つ。下流部では、この川の水を利用した水田灌漉が行われてお ふつはら. り、蓬原新田・野井倉新田と呼ばれている。. 最後に、安楽川は、宮崎県境の日南山地を上流部に持ち、曽於郡志布 志町安楽付近で志布志湾に注ぐ、大隅半島第3の河川である。その河口 の約2km東側に志布志市街地があり、そこから海岸砂丘が肝属川河口方 向に発達している。安楽川の延長は約18km、流域面積は136km 2で、途中、. 尾野見川と合流する。肝属川同様、菱田川・安楽川の中流域にも、シラ ス台地が拡がっていることは言うまでもない。. ところで、大隅半島北部の高隈山地は、時代未詳の中生層とこれを貫 く花崩岩類から成っている。一方、大隅半島南部では、北東の内之浦町 波見から根占町伊坐敷にかけての範囲で、花醐岩類が西南日本地域最:大 一14一.

(20) 規模で露出している(波多江他,1961)。したがって、大隅半島を志布 志湾に流入する各河川は、源流域で花崩岩が露出する地域を流れ、中流 域ではシラス台地を刻み込むように流れている。. (注). 1)第四紀の編年に関する用語として、かつては「洪積世・沖積世」が用. いられ、現在では「更新世・完新世」が用いられたりしている。本稿 では、慣用的に用いられている用語以外、 「更新世・完新世」に統一 して用いることにする。. 2)1992年に開催された京都万国地質学会議での第四紀層序委員会では、. 第四紀について、①ホモ属の出現、②急激な気候の周期変化、③レス の堆積の3つを、第四紀の特徴を示すものとして挙げている。 3)花醐岩類の中に風化層を掘り崩して水路の中に落とし込み、水洗比重 選鉱によって砂鉄を得る方法である。. 4)1923(大正12)年以後も、水質汚濁法の施行された1973(昭和48)年 に至るまで、日本刀や特殊綱の需要に応じて、鉄穴流しが行われた。 なお、鑛製鉄は、日本刀の原料として、今日まで続いている。 5)この項目は、 r鹿児島県の地質』・r角川日本地名大辞典』及びrコ ンサイス地名辞典』によるところが多い。. 一15一.

(21) 第1章 研究の動向. 第1節 シラス. 1.シラスの分布 シラスとは、南九州P一帯に広く分布する軽石質・火山灰質の白色堆 積物の総称である。非熔結火砕流堆積物・降下火砕流堆積物、およびこ れらの二次的堆積物など、起源・成因・時代を問わず、白っぽい非固結 堆積物がシラスと呼ばれてきた2)。主として現在の鹿児島湾奥にある姶. 良カルデラ・鹿児島湾口にある阿多カルデラ・霧島北部の加久藤カルデ ラ等から噴出された火砕流の一種である軽石流堆積物の中の非熔結性な いし弱熔結部にあたる。地質学の分野では、噴出源・噴出時期・分布場 所等によって細分されている。. シラスの分布は、基盤岩山地や河谷等に分断されながらも、南九州一. 帯から熊本県水俣市の一部に及んでいる。その分布面積は約4700km2に 達し、分布標高は概ね400m以下で、体積200km3以上、最大層厚:は約160. mである(山内他,1983)。南九州で「原(ばる・ばい・はい)」と呼 ばれる台地は、ほとんどがシラス台地である。この台地は、平坦面と縁 辺部の急崖の組み合わせが特徴となっている。シラスの大半を占め、シ ラス台地の主体を成しているのは、約22000年前に姶良カルデラの位置 い と. から噴出した入戸火砕流堆積物である。. 2.シラスの土質工学的特徴 シラスはシャベル等で容易に削り取ることができ、水を含むと強度が 極端に低下する。したがって、豪雨のたびに崩壊を起こしやすく、土質 一 16 一一.

(22) 工学上の特殊土でもある。たとえば、1993年6月から9月にかけての全 国的な多雨傾向は、鹿児島県下でも例外ではなく、記録的な大雨となっ. た3)。とくに、8月1日と6日の2回の豪雨によって、姶良・隼人地区 と鹿児島市地区に、大規模な土砂崩れなどの災害がもたらされたことは 記憶に新しい4>。このため、防災上の見地から、シラスの崩壊に関する 研究が進められている。. シラスは、降雨量が100∼300mmを越え、この間に10∼60mm以上の時間. 雨量が発生すれば、その数時間後に斜面崩壊を起こし、日雨量が250mm 以上になると大規模な崩壊を起こしやすくなることが認められている。 シラスの代表的な浸蝕崩壊の形態として、台地面上における面状浸蝕と. 台地周縁部におけるガリー浸蝕がある。面状浸蝕は降雨時の表流水が台 地上一面を低位凹部に向かって流下することによって発生し、ガリー浸 蝕は台地周縁部に集中した表流水が台地の最端部やその直下および斜面 を浸蝕することによって発生5)する(井尻,1978)。また、シラス台地 の浸蝕谷のタイプは、ガリー状の谷(Type l)と皿状・箱状の谷(Type II)に分類されている。この分類によると、ガリー状の谷は、シラス台 地を撰型に刻み、谷頭浸蝕が盛んである。垂直に近い谷壁を持つなど、. 他の地域には見られない、シラスの分布地に特有の形態を持った谷を形 成する。一方の皿状・箱状の谷は、シラスのつくる丘陵・台地を刻んで いる谷で、比較的平坦な谷底と緩斜面の谷壁斜面を持ち、現在は消滅の 過程にある。このようなことから、入戸火砕流堆積後、その堆積地形を 浸蝕してType Hの谷が形域され、その後、この谷を固定・保護するよう. に降下火山灰に覆われた。ところが、崩壊の防護効果のある降下火山灰 が剥ぎ取られてシラスが露出すると、一挙にシラスが洗掘されてType I の谷がType IIの下流あるいは谷壁から侵入してくる(星埜,1974)とさ 一17一.

(23) れている。. さらに、シラス地域の災害については、発生する場所別に、造成中の のり 土砂の流出・自然斜面の崩壊・切取法面の崩壊・盛土法面の崩壊・渓流. 土砂の流出の5っに分類されている。その上で、シラスを直接雨水や流 水に晒さない・台地上の地表水の処理を完全にする・法面などの排水対 策を講じることなどの災害対策について述べられている(菅原,1969)。 シラス災害の特徴について、戦後の社会的背景を加味した研究もある。. これによると、1948∼55年頃のシラスの崩壊は、戦後の食糧難に対処す るために、シラス台地を崖際まで開墾したことによって誘発された。シ ラス台地の耕地化にともなう崩壊は、耕地の排水処理の不備によって崖 際での落水型浸蝕型に起因するものが多発していた。ところが、1960年 代以降は、都市近郊部に多発しており、宅地造成地に関する人的・物的 被害が増加した。このような被害をもたらす崩壊の形態は、宅地造成地 周辺の斜面での新期火山噴出物から成る表層すべりが多く、次いで自然 斜面の法尻を切り取った場所でのパイピングが多くなっている6)(春山, 1983)。. 3。シラス台地の地形学的特徴 横山(1993)は、典型的なシラス台地である笠野原台地の生成過程に ついて、次のように述べている。笠野原台地において流水の作用で生成 した水成面7)のうち、台地面の約6割を占める笠野原面は、台地の西半. 部を中心に広く分布する。この面を構成する笠野原砂礫層は、流水で運 ばれて再堆積した水成シラス8)である。このことは、シラス堆積面の高 度で広い範囲にわたって一様な流水が生じたことを示す。したがって、. 火砕流が堆積して生じた平原状の堆積地形(火砕流原)上を、豪雨時に 一18一.

(24) 一様に流れた浅い流水による布状洪水があった9)と推定される。また、. 新堀面は台地北東部に分布する数段の河成段丘面で、この面を構成する 新堀砂礫層は、旧串良川による段丘堆積物10)である。新堀砂礫層は旧 串良川によるシラスの開析が進み、旧地表・基盤などの基底にまで下刻 が及んで、永久河川が生じる前の過渡的段階の間欠河川による堆積物で ある。両砂礫層とも共通の火山灰層に被覆されており、笠野原砂礫層の 直上にある暗褐色火山灰層の年代が、約18000年前であることから、両 砂礫層の生成時期は、約22000年前のシラスの堆積以降、18000年前の問 ということになる。さらに、流水に対するシラスの浸蝕のされ易さや火 砕流堆積直後の堆積面の植生を欠いた状況を勘案して、笠野原台地の生 成は短期間に完了したと結論づけている。. 次に、シラス台地の開析過程について、横山(1988)は、笠野原台地 を流れる菱田川11)中・下流域の河成段丘12>の調査に基づいて、旧河川. はシラス内を流れ、地下水の供給のない間欠河川であったと推定した。 河成段丘の生成時期は、テフラ層の被覆関係から、1万数千年より古く、. 最古のテフラはエ万年以前程度である。シラスの堆積面が乎坦面である と、浸蝕谷の発生・発達は最下流末端部から上流に進行する。下流末端 部では、海水準や熔結部までの下刻が、ごく短期間に達成される。谷底 まで達すると、地下水の酒養で永久河川となる。谷頭浸蝕が波及しない 限り、上流部の堆積面上では熔結部に達する浸蝕谷は形成されない。上 流部の堆積面上では、永久河川の谷頭浸蝕が到達するまで、間欠流によ る布状洪水が繰り返されて浅い河谷が形成される。段丘の生成時期は永 久河川の谷頭浸蝕速度と関係する。火砕流堆積後の無植生で上流に広大 な流域をもつ谷頭浸蝕では、現在よりも急速にガリーが発達13>し、10 数年以下の短期間で河成段丘の形成が完了した。さらに、大隅半島を流 一19一.

(25) れる串良川・安楽川・大淀川、薩摩半島を流れる万之瀬川など、流域の 大半がシラスで占められている河川についても、菱田川と共通した特性 が認められることから、それぞれの河川沿いに発達する河成段丘も菱田 川と同様の形成過程を示す。これらのことから、シラス地域の地形の大 勢は、火砕流堆積直後の短期間に、急激な開析によって形成され、その 後の方が時間的には遙かに長いにもかかわらず、地形変化をほとんど蒙 っていないと報告している。. 第2節 海岸砂丘. 砂丘とは、風によって運搬された砂が堆積して形成する丘や堤状の地 形のことである。しかし、風成砂のみから成る単純な砂丘ではなく、海 成層・古土壌・泥炭層・段丘堆積物・基盤岩などの複雑な組み合わせか ら成ることが多い(三位,1969)。砂丘の形成条件は、砂粒の供給源が ある・ある程度の強い風が吹く・飛砂を止める植生がないことなどを挙 げることができる。形成される場所によって、内陸砂丘・海岸砂丘・河 畔砂丘・湖畔砂丘等に分類されている。日本列島の砂丘の大部分は、海 岸砂丘であり14)、地図上で海岸線が直線的で単調な所に、海岸砂丘が 発達していると見なすことができる。日本列島の海岸線全体の約7%(. 1900km)に海岸砂丘が発達し、その面積は約224万haに達している(赤 木,1991)。. 1969年、鳥取大学での臼本地理学会のシンポジウムでは、日本の海岸 砂丘がテーマとして取り上げられた。このシンポジウムでは、自然地理 ・人文地理の分野だけにとどまらず、農学・地質学などの隣接諸科学か ,一 20 一.

(26) らの参加者もあって、総合的な討論が行われるなど、研究者の関心が高 かったと報告されている(谷岡,1969)。. 砂丘研究については、砂丘の形成・発達史・内部構造などに関する文 献が集約されている(角田,1’973b・1975a)。また、地形学の立場から、. 日本の砂丘の研究史が、概観的にまとめられている(多田,1975)。日. 本の海岸砂丘は、地域差や時代差が認められるものの、第四紀の更新世 と完新世に形成されたものに大別されており、後者は形成された時期に よって、旧砂丘と新砂丘の二つに分類されている。このうち、旧砂丘は 7500∼3000年B.P.に、新砂丘は2000年B.P.∼現在に形成され、それぞれ. 3∼4の形成期に細分される。クロスナと呼ばれる黒色腐植質層は、砂 丘地域では普遍的に分布しており、主として3000∼2000年B.P.の間に形. 成された。これらの砂丘と土壌形成の過程は、海水準変動・河川の作用 ・気候条件に関連している(Endo,1986)。. ところで、日本列島のうち、本州や九州に見られる海岸砂丘の多くで は、約2000年前以降、河川流域での耕地の開発などの地形改変が進み、. 河川への土砂流出量が増加して、砂丘が大型化することになった(杉谷 他,1993)。見方を変えれば、増大した流出土砂は飛砂となって、海岸 地域に住む入々に被害を及ぼすようになり、砂防工事が本格化すること に通じる。したがって、今日の日本の砂丘の多くは、歴史時代以降のた ゆまぬ平野の地形改変と砂防工事の結果として生じたものとみなして差 し支えない(成瀬,1989)。. 1.地形学から見た砂丘形成に関する研究 日本海沿岸に分布する海岸砂丘のうち、藤(1969)は、北陸:地方の15. の海岸砂丘15)の形成時期を6期に区分し、縄文中期初頭頃に形成され. 一21一.

(27) た中列砂丘が最大のものであると述べている。また、縄文後期∼弥生期 に形成された後に消滅したLost sand dunei6)についても述べている。. その後、藤(1975)は、北陸地方の17の砂丘17)の調査から、砂丘の形. 成期を更新世後期を含めた7期に分類し、砂丘の形成期・砂丘形成期の 環境・砂丘形成期と海水準変動という三つの観点から考察を加えた。こ れによると、砂丘の形成期と気候変化とは直接関連せず、砂丘が形成さ れるためには汀線の固定が必要であるという。藤によるいずれの報告も、. 北陸地方の海岸砂丘の形成は、海水準の変動に伴う各時期の汀線の位置 に規定されると結論づけられている。しかし、室町時代末以降の砂丘の 形成については触れられていない。. 青森県の津軽半島の日本海側に位置する屏風山砂丘について、角田( 1978)は、砂丘砂層中に挾在するクロスナ層と砂丘地域に分布する遺跡 を手掛かりにして、その形成史を明らかにした。これによると、完新世 に堆積した新砂丘砂層内に2層のクロスナ層が挾まれ、下位のクロスナ 1層からは、縄文後期・続縄文後期時代頃の土器が出土する。屏風山砂 丘でこの層に覆われる砂丘砂層は、冷水沼遺跡のみで観察されるにすぎ ず、その層厚も薄い。屏風山砂丘の南部では、上位のクロスナll層を挾 む新砂丘砂層の基底から、弥生時代の土器が出土する。これは、基底を 構成する出来島段丘上では、弥生時代までに砂丘地が分布していないこ とを示している。屏風山砂丘の北部では、新砂丘砂層にクロスナ層は挾 まれず、砂層の基底や黒色腐植質火山灰層の上部から室町時代までの土 器が出土する。したがって、室町時代以降に砂丘が移動・形成されたこ とを示していることになる。さらに関連して、葛西(1992)は、近世に. 至るまでの屏風山砂丘の形成について詳述している。これによると、こ の地域を支配していた津軽藩は、津軽平野の沖積低地の新田開発を進め 一22一.

(28) るために、屏風山砂丘からの飛砂を鎮める必要が生じ、1682(天和元) 年から砂丘地帯に植林を始めた。ところが、ユ780年代の天明の飢饅の際、. 領民救済のために乱伐が行われた。その結果、砂丘地はほとんど裸地に 近い状態となり、卓越風のなすがままに風蝕され、砂粒が運搬されるよ うになり、 「天明砂丘Jが形成されるようになった。天明時のまま放置. され、裸地に近い状態であったために、1832∼40(天保3∼10)年の天 保の飢饒の頃にも「天保砂丘」が形成された。また、江戸時代頃が「小 氷期」にあたることから、低温期に伴う海水準の若干の低下による新た な砂丘砂の供給があり、かつ、優勢な大陸の高気圧からの卓越風が強く. なったと推定される。したがって、江戸時代の後半から現在までの約2 00年間に、現在の屏風山砂丘が形成され、冷害が砂丘形成に関与してい た点が、屏風山砂丘形成の特色であると指摘している。すなわち、江戸 時代の屏風山砂丘は、人為的営力と自然的営力の結合によって形成され、 今日のような規模の砂丘となった見なすことができるのである。. 2.考古地理学から見た砂丘形成に関する研究 考古地理学の立場から、小野(1969・1984・1986)は、人類の遺物や 遺構ユ8)を用い、地形や地層の鍵層との関連から、海岸砂丘の発達期と. 固定期をとらえるという方法で、砂丘の編年を試みた。この編年による. と、西日本の海岸砂丘の形成時期は、更新世に3回、完新世に5回あっ た19)。このうち、更新世に形成されたものに古砂丘、完新世に形成さ. れたものに新砂丘という名称を与えた。この編年では、西日本の完新世 の新砂丘の形成時期を、4期に分類している。このうち、最も古いもの は、縄文早期の遺物を含む極く薄い風成砂層で、クロスナ化しており、 .新砂丘1と呼んでいる。次に、縄文後期の土器を含むもので、山口県潮 一23一.

(29) 待貝塚の砂層や鹿児島県志布志砂丘の第1砂丘などがこれにあたり、新 砂丘[[[と呼んでいる。続いて、上位にクロスナ層が覆う丘状の風成砂層. があり、クロスナ形成の直前の、奈良・平安時代頃に形成されたと推定 される。これが新砂丘皿で、豊島他(1965)の指摘する「新砂丘1」に 相当する。最後に、中世末から近世以降の時期に、古砂丘に次いで巨大. な丘状地形を呈する新砂丘Wが形成され、形成時期から前後の2期に分 けられる。まず、新砂丘IV。は、中世末期から近世前半頃に形成され、. 江戸時代の中期から砂防林による固定化が成功し、江戸後期から明治中 葉までに飛砂が鎮まった。中世初期の五輪塔を埋積し、砂層中に近世の 墳墓が営まれていることから、中世末か近世初頭以後に吹き上げられた ことになる。さらに、新砂丘IVbは、明治時代の末頃から再び飛砂が激 しくなったことにより形成され、低いながらも丘状地形が発達したこと. が、砂層に埋まっていた明治末年頃の墓碑や砂防林の樹齢から判断でき るものである。また、新砂丘IVの形成が全国的に分布することから、汎 日本的な飛砂期と推定している。. 3.砂防植林との関係からの研究 日本の海岸砂丘は、人為的な影響がない限り、すべて植生によって被 われている。植生は海側から内陸側へ明かな成帯構造をなしており、そ の成帯構造は、土地の不安定さ・風による砂の移動の程度によって決定 されている(福本,1987)。植生の成帯構造の要因として、気候・海況 ・堆積物の供給源などがあり、このことは、海浜地形の地域性にも反映 されている(成瀬他,1992)。. いずれにせよ、砂丘上に植物が生育するようになると、砂丘は固定化 される。ところが、何らかの原因によって植物による被覆が破壊される. 一24一.

(30) と、再び砂は移動を開始する。この原因として考えられることは、気候 変化・海水準の変化・海岸浸蝕などである。しかし、立石(1974・1983 ・1984・エ989)は、自然現象よりも入為的な植生破壊がより大きな原因. であったとし、山形県の庄内砂丘での研究を続けた。これによると、海 岸砂丘の汀線沿いでは、塩焼きを生業とする村落が立地するようになり、. 砂丘林は燃料として伐採され、さらに戦乱や野火によって著しく荒廃が 進行した。より低湿な沖積低地にも新田開発が及ぶようになると、海岸 砂丘からの飛砂の防止と生活・生産資材の確保が極めて重要となった。. そこで、海岸砂丘の砂防植栽が本格的に開始され、庄内藩では苛酷な出 費や労働を農民に課して海岸砂丘の固定に努めてきた。明治期・第二次 世界大戦後も同様の努力がなされてきた。この結果、庄内砂丘には、現 在みられるような海岸砂丘に整形され、その形態は断片的に残されてい る砂防植栽の記録とすべての点が一致するという。したがって、庄内砂 丘の形成は土師期時代以前であったとしても、現在の形態に整形された のは、砂防施設の築設にともなう人工改変と、これと並行して実施され た砂防植栽によって人工砂丘が固定された藩制時代以降になってからで ある。このことから、立石は、庄内砂丘には純然たる自然現象によって 形成された海岸砂丘は存在せず、藩制時代以降の入工改変が加えられた. 砂丘であると結論づけている2ω。さらに、日本の海岸砂丘の多くは荒 廃と復旧を繰り返しており、その結果、現在の海岸砂丘が形成されたと 言及している。. 第3節 歴史時代以降の開発に伴う地形改変. 一25一.

(31) 今日では、大型土木機械を駆使することにより、大規模かっ短期間の 地形改変を可能にさせた。開発に伴う地形改変の研究は、戦後の日本に おける国土総合開発事業に関連して、河川改修・ダム建設・砂利採取に よる河床変動や、海岸線変化、低地での地盤沈下現象に向けられた。ま た、農耕地の拡大による土壌浸蝕や、大規模住宅団地の宅地造成に伴う 地形改変による環境変化・災害についての事例研究が進められた。近年 では、ゴルフ場の開発による土砂流出災害など、レジャー開発に伴う地 形改変の研究も見受けられるようになった(門村,1981・1983)。 ところで、地形改変は、最近に限ったできごとではない。ここでは、 歴史時代以降の人聞による地形改変についての研究を概観する。. 1.古代・中世の開発に伴う地形改変 9 文献などの文字資料の存在しなかった時代の古環境を復元する方法と して、地形面上の微地形や堆積物の組成を丹念に調査する方法と、堆積 物中に含まれる花粉・珪藻・プラントオパールなどの微化石を実験室で 分析して考察する方法とがある。. 井関(1979)は、沖積平野面上に分布する自然堤防を構成する物質に 注目した。自然堤防の地形発達が活発化しはじめる直前の沖積平野面に は、腐植質シルト層・泥炭層が広範囲に存在し、これを被覆して自然堤 防が堆積している。腐植質土壌は湿地性の環境のもとで静穏な堆積作用 によって形成されたものであり、自然堤防は洪水性堆積物である。とこ ろが、自然堤防は洪水性堆積物であるにもかかわらず、自然堤防構成物 質は、掃流物質よりも懸濁物質が主となっている。このことは、懸濁物 質のような浮遊性の細粒物質が、極めて短期間に、帯状の微高地を形成 するほど急激に堆積したことを示す。この原因について、井関は、日本 一26一.

(32) の自然堤防の発達が弥生時代後期以降に拡大した人為的な森林破壊を主 な条件とし、大規模な豪雨を契機として進行したと述べている。. 日下(1991)は、現在の土地景観の多くが「自然そのものの状態」を 示すものではなく、自然と入為の両者によって形成されたものとして、. とくに古代の景観の復原21)という作業を進めた。空中写真の判読や現 地調査、さらにはr記紀』やr万葉集』などの古典類を手掛かりにして、 過去のさまざまな時代の地表景観の復原を試みたのである。この方法に. よって、日下は、6∼7世紀頃の摂津・河内・和泉の景観の復原図を作 こんだ やま. 成した。この図の中に、誉田山古墳(伝応神陵)を中心とする古市古墳 よさみ 群と大仙古墳(伝仁徳陵)を中心とする百舌鳥古墳群、依網池や狭山池 はりおのたいこう. などの溜池、古市大溝・針魚大溝・住吉堀割などの溝渠を書き込み、当. 時新しく生まれた人工景観も復原している。また、5世紀中葉から6世 紀初頭にかけて、上町台地以東の低地の排水条件を良くし、難波乃海と 草深江を結ぶ新しい航路を開くことを目的にして、 「難波堀江」が開削. されたことを明らかにした。さらに、当時の国際港である「難波津」の 位置を、 「難波堀江」と天満砂州に挟まれたラグーンとの接点付近(現. 在の大阪市中央区高麗橋)に比定し、この港が計画的人工港であるとい う説を導いた。. 安田(1975・1990)は、河内平野22)に分布する弥生時代の遺跡の中 うりゅうどう. の1っである瓜生堂遺跡の露頭観察と花粉分析を行い、沖積平野の洪水 と人間のかかわりを考察した。弥生時代の人々の居住する以前の河内平 野には、内湾ないし潟湖の環境であった。縄文時代晩期には、稲作を行 う人々の居住に適した環境となり、大きな集落が立地するようになった。. ところが、弥生時代中期に数百基の方形周溝墓を造成し、3世代は続い たと推定される大集落が、中期末に突然放棄された。瓜生堂遺跡の遺構 一27一.

(33) 面を弥生時代中期に埋積する泥炭層から、水性植物の花粉や胞子が多く. 検出された。このことは、瓜生堂遺跡が放棄された後、冷涼・湿潤な気 候下で、遺跡周辺が水性植物の生育する湖沼・沼沢地となったために、. 土地条件が悪化したことを示す。また、泥炭層の上に堆積する砂層と粘 土層の互層は、洪水によってもたらされたことを示している。これらの ことから、弥生時代後期になってから、河内平野では洪水が頻発するよ うになり、それまでの集落は地下に埋積されたことが推定される。さら に、安田は、大規模な集落の水没・埋没が畿内全体に社会的変動をもた らしたと推測し、 r魏志倭人伝9にある「倭国大乱」の時期に一致する と論じている。. 2.近世における地形改変. r,. 千葉(1991)は、 「はげ山」を研究対象とし、荒廃林地の形成過程に. ついて、社会的・経済的側面からの研究を進めた。この研究によると、. はげ山型荒廃を起こす原因は、人為的に植生がしばしば破壊されるため に、土壌の物理科学的性質が変化して、植生の生育に不良な状態になっ. たことにあるとしている。とりわけ、入会林地の過度使用による林地荒 廃は、植生衰微の影響以上に土砂流出を発生させ、近世初期と末期に天 井川を形成させることになったという。. 貞方(1993)は、中国地方の鉄穴流しと地形改変・平野形成の研究に よって、中国地方の主要平野における最新期の平野形成・海岸環境変化 の特質が、人為的作用である鉄穴流しによる多量の廃土供給と、それを 利用した干拓の進展にあると結論づけている。この貞方の一連の研究で は、島根県飯梨川下流の扇状地性三角州の形成に関して、人為作用が「 自然環境」を創りあげた大きな営力になったこと(貞方,1985)と、鳥. 一28一.

(34) 取県日野川流域の鉄穴流しによる廃土が弓が浜半島の「白砂青松」の景 観を成立させたこと(貞方,1991)を指摘した点が注目される。. さて、近世は土地経済の時代であり、日本史上でも最大の開発時代で あった。 「和名抄」から推定される平安時代初めの総耕地面積は約103. 万町歩23)であり、16世紀末の太閤検地の結果から推定される総耕地面 積は約206万町歩である。さらに、近世末にの総耕地面積は、 323万町. 歩にまで増加した。すなわち、近世の275年の期間に、約117万町歩の 新田が開発されたことになる。近世のうち、新田開発の隆盛期は3回、. その中間に衰微期が2回あった。溜池・用水路・干拓を総合すると、近 世の新田開発の隆盛期の第1回は寛永一寛文(1624一 1673年)頃で、幕. 藩体制の確立期である。第2回は元禄一延享(1688−1748年)頃で、畿 内に始まり享保の改革によって全国的に拡大された。第3回は寛政一安 政(1789・一 1860年)頃で、寛政の改革・天保の改革が新田開発と結びつ. いている。反対に、衰微期の第1回は、延宝一元禄(1673−1704年)頃 である。この頃は、諸藩が財政難の甚だしくなってきた時にあたる。第 二回は、元文一天明(ユ736−1789年)頃である。新田開発の衰微した理. 由として、町人請負新田の弊害と古村の人口減少に原因があると、当時 の農書に述べられている(菊地,エ963)。このような新田開発を始めと. する様々な開発に伴って、地形改変も盛んに行われるようになったもの と考えられる. (注). 1)本稿では、鹿児島県本土の全域・ほぼ宮崎平野以南の宮崎県および人 吉盆地以南の熊本県を、 「南九州」と呼ぶことにする. 一29一.

(35) 2)薩摩半島の一部および南九州東半部の広い地域では、堆積物の一部が. 熔結している。この熔結部は暗灰色の岩体で「灰石」と呼ばれ、シラ スとは区別されている。 3)鹿児島市における1993年の年降水量は4022mm(平年値は2236.8rnm)、. 7月の月降水量は1054.5mm(平年値は303.7mm)であった。なお、平年 値は理科年表による。. 4)地頭薗(1995)によると、今回の異常な豪雨では、一般に安定してい. るとされる崖錐も流動化して「鉄砲水」が発生するなど、シラス以外 のさまざまな地質で斜面崩壊・土石流が発生した。 5)ガリー浸蝕については、①台地腹部斜面の飽和による崩壊、②ガケ脚. 洗掘による崩壊、③落水型による崩壊、④地下水の流動浸蝕による崩. 壊に分類している。. 「. 6)崩壊メカニズムを考慮した斜面崩填の形態には、他に表層落下・円弧 すべり・落水型浸蝕・流路浸蝕・剥離・陥没などがあるという。 7)水成面以外に、流水による表面削剥を受けていない“シラス堆積面”. が、笠野原台地の南東部にまとまって分布していることをを指摘して いる。. 8)笠野原面および後述の新堀面を構成する堆積物は、軽石片、安山岩・. 頁岩・砂岩などの岩片、結晶粒や火山ガラスで構成される砂層・砂礫 層・礫層などである。これらの堆積物は、下位のシラス層を構成する 軽石・石質岩片・それらの細流物質と岩質が一致する。この堆積物に は全体としてほぼ水平な層理面が顕著に発達し、砂礫層や砂層などに は斜層理がしばしば認められる。軽石は水磨されて円∼亜円礫である ことが多いが、安山岩や砂岩・頁岩礫などはほとんど角礫である。以 上のことから、水成面を構成する堆積物は、流水で運ばれて再堆積し 一 30 一一.

(36) た水成シラスであるとされている。. 9)笠野原砂礫層は、シラス堆積面より数m以内程度に低いレベルで連続 して広く一様に分布しており、全体として数m以内の水平層である。 10)旧串良川による段丘堆積物の堆積物の下位には少なくとも厚さ50m のシラス層があり、旧串良川は厚いシラス層のかなり上のレベルを 流れていた。. 11)大隅半島中央部を流れる菱田川は、姶良カルデラの東側カルデラ縁 付近に源を発し、志布志湾に注ぐ。本流の長さは約50km、流域面積 は約400km2である。菱田川水系の本・支流は、入戸火砕流堆積物を 深く刻み、河谷壁・河谷底に熔結部が露出している。. 12)菱田川の段丘は、シラスの開析過程で生じた非輪廻性の浸蝕段丘で あり、段数は場所ごとに異なる。上流側の非対称性段丘の詳細な対 比や区分は困難である。. 13)現在のシラス地域では、1回の豪雨でガリーが最大100m以上伸長 する。. 14)日本では、河畔砂丘は、利根川・木曽川などで知られている。湖畔 砂丘の存在は確認されていない。. 15)富山県氷見砂丘・放生津砂丘、石川県蛸島砂丘・宇治砂丘・富来砂 丘、高浜砂丘・羽咋砂丘・内灘砂丘・安原砂丘・小松砂丘・大聖寺 砂丘、福井県北潟砂丘・三里浜砂丘・敦賀浜堤状砂丘・河原市砂丘 の15の砂丘を扱っている。. 16)当時の海水準が現海水準以下になった時期で、当時の汀線は現水深 一3∼一5mの所にあり、その付近に砂丘が形成されていた。古墳時代. 初頭の小海進によって、この砂丘は浅海底に没し、波浪のために浸 蝕・破壊を受け、消滅あるいは現砂州と化した。この砂丘の砂は海. 一31一.

(37) 水準の上昇で漂砂となり、外列砂丘砂の供給源となった。. 17)15)に掲げた15砂丘に、石川県大川砂丘・剣地砂丘を加えた17砂丘 を扱っている。. 18)ここでは、遺物や遺構を文化史的な資料としてのみとらえるのでは なく、自然化石と同様の性質をもつ示準化石として扱っている。. 19)完新世の5回の砂丘の形成時期のうち、丘状に発達したのは3回で あったとしている。. 20)多くの場合、藩制時代に改変された人工砂丘は天然砂丘と誤認され. ている。庄内砂丘では林野当局が藩制時代の人工改変砂丘を第1天 然砂丘、明治年間の人工砂丘を第ll天然砂丘と呼んでいる。. 21)日下は、土器や家屋などの単独のものを元どおりに戻すことに対し て「復元」、過去のさまざまな時代の合成景観である原風景を再構 成することに対して「復原」という用語を用い、それぞれを区別し て用いている。. 22)大阪府の生駒山地と上町台地に挟まれた平野をさす。. 23)この数字は、弥生時代から8世紀末までに開拓された総耕地面積を 示す。. 32.

(38) 第ll章 調査対象地域での関連する研究. 第1節 海岸砂丘について. 調査対象地域には、薩摩半島の東シナ海側に吹上浜砂丘、大隅半島の 志布志湾1)側に志布志湾岸砂丘が分布する。これらの海岸砂丘では、シ. ラス起源の火山ガラスや軽石、すなわち「シラス砂」が多く含まれる砂 丘列が一部に認められる(成瀬,1994)ことが特徴である。. 1.吹上浜砂丘(第6・7図,第1表) 騨 …肝脳’t‘』梱・勘‘” ’. ’・tr. @一一” ”vwyepm’. ・副詞} .♪..・£.軌.’、ボ ; tt鋼、ト9. ・x. h、ハF ?. ’. 第6図 吹上浜砂丘遠景 (日置郡吹上町入来浜付近). 吹上浜砂丘に関する研究は、昭和の初期に、小川(1928)によって端. 一33一.

(39) 緒が開かれた。この中で、 r(万之瀬川北岸の上山集落付近の)大松林 は、島津齊彬公時代に植付けたもので、當時砂丘の東縁であったらしい。. 約八十年間に千米鯨、即ち平均一年間に約一二米ずつ移動したことにな り、海岸砂丘の移動速度としては鯨程大きい。』と述べており、江戸時 代末期以降も著しい砂丘の移動があったことを伺い知ることができる。 続いて、吹上浜砂丘を詳細に観察した小牧(1934a,1934b)は、 「萬瀬. 川2>から多量の砂が運搬流下せられ、それが南より北に向ふ海流によっ. てその方向に運搬せられ、それが波浪によって海岸に打上げられるによ るのであるが、一度海砂が陸上に打上げられた後は、その砂は西北卓越 風によって南東に吹送られる」とし、砂丘の形成過程について述べた。 また、小牧(1934b,1934c)は、1890(明治30)年に謄写印刷された、 宮内長盛によるr吹揚潟砂防始末』を掲載した。そこにはrs 「延寳年中 3)村民火ヲ失シ七三夜ヲ徹シ燃焼シタリト、夫ヨリ廣萢汐ル砂漠二愛ジ. 毎年冬季ヨリ初春ノ候二至ル迄西北ノ風烈シク吹キ荒ム時ハ海中ノ遠干 潟ヨリ真砂ヲ吹キ揚ケ遠ク飛散シテ十数町ノ外二達シ年々田畑ヲ埋没ス ルコト彩シク数十年ヲ出スシテ村落附近迄埋没シ來リ貞享年間4>二至リ. テハ其害殊二甚シク」というように、砂防林の焼失による飛砂の増加に 関する記事が掲載されている。また、 「安政六年5)ヨリ文久元年6)迄三. ヶ年間如斯村涯二砂垣ヲ爲シタル上烈風ノ際ハ常二砂漠ヲ巡廻シ禍害ノ. 根源ヲ探求セシニ盤屋掘ヨリ高橋村迄一齊二吹キ來ル砂先キハ次第二加 世田境ナル萬奈瀬川7)へ吹入リ霧雨洪水ノ際更二又海中二流出シ其土砂. 再ヒ遠干潟ヨリ吹揚クルモノナルヲ獲見シ」というように、砂丘が形成 されていく様子を観察した記事も掲載されており、今日の砂丘研究の一 助となることは言うまでもない。. 中原(1967)は、吹上浜砂丘が形成された原因について次のように説. 一34一.

(40) 第7図 万之瀬川河口から見た上流部 (加世田市吹上浜海浜公園付近). 明している。海岸線背後が開析の進んだ広い低平地であれば、砂丘の進 入は容易で、入来浜から万之瀬川河ロ付近にいたる南部地域のように大 砂丘が形成されやすい。一方、神之川河口付近のように、その南北両岸 に基盤の頁岩が露出して台地の開析を阻み、わずかな低地しか見られな い所では、砂丘の発達は微弱である。いずれの砂丘も、その砂は、砂丘 形成に必要な砂粒を運搬する大河川がないことから、万之瀬川・神之川 などの諸河川の流域が水に極めて崩壊しやすい火山灰台地8》であり、こ. れが豊富な砂粒の供給源である。このことは、砂丘地を貫いて流れる諸 河川の流域に広く分布するシラスを、砂丘砂の供給源としていることに 他ならない。さらに、海岸線近くの砂浜地帯で河川が南下して海に注ぐ ことが、この付近の永久河川の河口付近で見られる共通性であると指摘. 一35一.

(41) し、その原因を冬季に卓越する北西季節風に求めている。これによると、. 北西季節風が西に直進しようとする河川の北岸(右岸)部に海浜の砂粒 を大量に吹き込み、河川が浸蝕の攻撃斜面を南下させ、河口北岸部から 南下する河口砂州を形成するとしている。. 角田(1973a)は、 吹上浜砂丘の形成過程を説明し、砂丘中に埋没す. るクロスナ層を鍵層にして、形成期・固定期を明らかにした。これによ ると、流下した入戸火砕流は、山地内や山地の前面に堆積し、谷の出口 に扇状形の平坦な火砕流台地を形成した。その後、山地から流下する延 長河川によって台地の一部に分級の悪い砂礫層が堆積し、同時に河川の 下刻作用によって火砕流台地は不規則に浸蝕され、角礫河成段丘が形成 された。段丘形成の一時期に小野浜では古砂丘が形成され、古砂丘形成 前後に火山灰の降下があった。完新世の海進により海岸部にラグーンが 形成され、万之瀬川河口右岸や小野川河口左岸にある泥炭層を含む泥層. が約5500年前に堆積した。さらに海面の上昇により、4∼6mの沖積段. 第1表 吹上浜砂丘における従来の研究 角田(1975). 成瀬(1977). Endo(1986). 第1列砂丘. 入来浜砂丘地. 成瀬(1994). 新砂丘. 砂丘IV シラス砂多量. Dyn1・Dy皿 騨. 冒. − −. 一 響 一 層. 騨 一 −. − 雪 一. 璽 層 一 7■. 冒. ■. 一. 一. }. ,. 一. ”. 一. 山ノ上砂丘地. 璽. −. 一. 一. 層. 一. 曹. 曹. −. 一. 一. 一. 一. 一. 曽. 砂丘m. 現在∼400y.B.P.. 寛政年間(1789−1800年). シラス砂多量. 延宝年間(1673−1681年). 飛砂が激しくなる 一 卿 9. 騨. − 曹 雪 璽 冒 ■. ■. 一. 一. 一 一. 一 一. }. ロ. 一. ,. 一. 曽. 一. 一. 卿. 一. 一. 一. }. ,. ,. 一. 騨. ,. 一. 一. 一. 一. 一. 一. 第2列砂丘. 一. ■. 薗. ■. 一. ,. 響. _. ,. 一. 一. _. 一. 塵. _. 一. 騨. 一. ,. 冒. _. _. 一. 零. 一. 一. 甲. 〇. 一. 響. 一. 冒. ■. 璽. 一. 砂丘H. 新砂丘. DyH. シラス砂少量. 1000y.B.P.前後. cyI P800y.B.P.頃 層. 冒 冒 一 }. 璽 ,. 響 一 一 一. 一 ,. 曽 ■ ■. 一 ■ 響 騨. 高橋砂丘地. 一. 一. 一. 璽. ,. 一. 響. 一. ■. ■. 一. 一. 一. 冒. 響. 一. 一. 暢. 一. 一. ,. 第3列砂丘. 璽. 一. 9. 一. 一. 一. −. −. 徊. ,. 騨. 一. 一. 一. 響. 響. 一. 一. 曽. 旧砂丘 5200−4000y.B.P.. 一36一. 曽. 一. 一. ,. 一. 層. 一. 一. 一. 一. −. ■. 一. 璽. }. 一. 砂丘1 シラス砂少量.

(42) 丘が形成された。その後の海退により、万之瀬川以北や唐仁原の沖積段 丘面上には旧砂丘が形成され、前村・荒田集落ののる砂丘などが形成さ れたという。さらに、旧砂丘を覆う状態の新砂丘の形成や、新砂丘形成 中の人為による砂丘の固定期が推定されること、1893(明治35)年以降 も砂丘が移動して山脈状砂丘・UV砂丘群9)・小横列砂丘が形成された ことを述べている。. 成瀬(1969)は、吹上浜砂丘の発達過程や形成環境を考察するために、. 砂丘砂の分析を試みた。すなわち、形成期の異なる5つの層に砂丘砂を 分類して、各砂層から採取した試料についての各種の分析を行った。こ. のうち、粒度組成分析結果から中央粒径値(Mdφ)によって砂丘砂を. 見ると、第1列砂丘(Al層)砂よりも第II列砂丘(A2層)砂の方が細 粒化である。また、黒色層i。)上の砂(A3層)は、1.7φを境に粗粒・. 細粒のものに二分することができ、黒色層に覆われた層(A4層)の砂 では粗粒化する。尖度(δφ)は形成期が古いほど低い値となり、新し いものほど高い値となる。次に、鉱物組成の結果によると、 Al砂は石. 英砂が主で、ガラス・軽石が2∼3%、重鉱物は19.1%である。 A2砂 は淘汰度はよいものの、ガラス・軽石は検出されない。 A3砂は石英が 主で、重鉱物の含有が30%となる。A4砂ではガラス・軽石が全くなく、 重鉱物が45%と多くなる。さらに、粒形の測定の結果は、 円磨度はA1 砂で2.46∼3.36、A2砂で2.76∼3.36、 A3砂で2。84∼3.82と形成期が古. くなるにつれ円磨度が高くなる傾向を示す。 A4砂では3.06∼3.69、洪. 積世の風成砂(D層)で3.35という値となる。これらは、砂丘形成後の 時間経過とともに円磨作用を受けていたことを示す。このように、吹上 浜砂丘における砂丘砂の分析結果は、たんに粒度組成や鉱物組成の特徴 だけでなく、砂丘の形成時期によって砂の供給源が異なることを示唆し 一37一.

(43) ている。このことは、吹上浜砂丘砂に関するほとんどの研究が砂丘砂の 起源をシラスに求めているのとは異なる見解である。. 2.志布志湾岸砂丘(第2表) 志布志湾岸砂丘についても、小牧(1934d、1934e)の現地調査に基づ いた、先駆的な研究が行われている。この研究によると、黒色層(腐植 土質砂層)と砂丘砂層の層準や、腐植土質黒色砂層中に包含される弥生 式土器破片から砂丘の形成過程を述べている。また、旧大崎村(現在の 大崎町)付近の砂丘での、飛砂を防止するための植林の状況についても 記録している。. 大矢他(1959)は、砂丘を第1期砂丘から第4期砂丘に分類し、砂丘 の形成過程を明らかにした。これによると、最も内陸側の第1期砂丘が 縄文後期に形成された後に、これを覆って黒色火山灰層が堆積した。そ. の後の海退の過程のある時期に風蝕期があって、5世紀後半∼6世紀ま での期間に第2期砂丘が形成された11)。第2期砂丘形成後に、再び風 蝕があって第3期砂丘が形成された。田原川河口に西北西では、第1期 砂丘の上に弥生期の集落が存在する所がある。その上に飛砂が積もって. 第3期砂丘が形成されたのは、弥生式中期以降と推定される。最も海岸 に近くに位置サる第4期砂丘の形成時期は、第3期砂丘形成以後のごく 最近の時代であると考えられる。. 大矢・市瀬(1960)は、志布志湾岸砂丘と肝属川河口から約1.5∼2km. 内陸に分布する砂州の粒度分析・鉱物分析を行っている。砂州の砂の粒 度分析からは、平均粒径が南部ほど大きく北に行くほど小さいことから、. この砂州の砂が南からの沿岸流によって北へ運ばれたとした。一方、砂 丘の砂の粒度分析の結果は、粒径変化に一定の傾向が見い出せず、不規. 一38一.

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