• 検索結果がありません。

清朝順治初期における政治抗争とドルゴン政権:八旗制度からの考察を中心に

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "清朝順治初期における政治抗争とドルゴン政権:八旗制度からの考察を中心に"

Copied!
36
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)



清朝順治初期における

政治抗争とドルゴン政権

- 八 旗 制 度 か ら の 考 察 を 中 心 に -

磯 部 淳 史

はじめに

本稿は清朝順治(644 年~ 66 年)初期の政治抗争について考察を加 え、それを通じて当時の清朝内部に存在した派閥の構造と、八旗におけ る人間関係の究明を目的とするものである。また同時に、政治抗争の側 面から、順治初期のドルゴン(多爾袞 Dorgon)政権の支配構造の一端に 論及することも試みる。 順治期は、清が入関によって、その一大転機を迎えた時期であるが、 当時の皇帝であった世祖順治帝(フリン、福臨 Fulin)は幼少で、入関の指 揮を執ったのは太祖ヌルハチ(努爾哈斉 Nurhaci)の十四子で、順治帝の 叔父である摂政の睿親王ドルゴンであったことは周知の事実である。し かしながらこのドルゴンの摂政期は、清初①において非常に重要な時期 であったにも関わらず、該政権に関する専論は、日本では極めて少なく、 不鮮明な部分が多いように思われる②。 このような問題関心から、筆者はかつて「順治帝即位をめぐる黄旗旗 人の動向について-バブハイ断罪事件を例として-」(以下、前稿と略す) を発表し、順治帝即位時期の両黄旗(鑲黄旗・正黄旗)に着目し、彼らの 動向とドルゴン政権を関連づけて論じた。しかしながら前稿での考察

(2)

 は、主として皇帝の領旗である両黄旗の考察のみにとどまり、八旗全体 の考察には及ばず、またドルゴンをめぐる人間関係にはほとんど踏み込 んでおらず、はなはだ不十分なものであった。そこで本稿では、前稿で 明らかに出来なかった問題を踏まえ、清初順治期の政治抗争のうち、主 として入関前後のドルゴン派と反ドルゴン派の抗争について考察し、清 初政治史におけるドルゴン政権の展開を跡づけたい。また、各派閥の人 脈を整理することで、そこから窺えるドルゴン派、反ドルゴン派の特徴 についても論じたいと思う。すなわち本稿は、八旗制度における人的組 織の面について検討し、ドルゴン政権との関わりを明示するものである。 考察の手がかりとして、八旗制度の問題を取り上げるのは、すでに孟 森氏以来、清朝、就中清初においては、八旗を国家そのものとする指摘 が度々なされているように、ドルゴン政権とも密接に関わってくる問題 であるためである。清朝、ことに清初における国家体制は、八旗制度を 基調とした「連旗制」と通称される分権的連合体制であり③、皇帝とい えども両黄旗を領有する旗王の一人に過ぎなかったことは、従来の研究 でも度々指摘されている。また近年では、杉山清彦氏や鈴木真氏らが、 各旗の旗王と旗人の婚姻や主従関係、旗王の母系などの面に着目し④、杉 山氏は特に、こうした婚姻や母系を重要な要素とする清初の支配構造を 「旗王制」とした⑤。これに関する反論もあるが、筆者は本稿ではおおむ ね孟森氏や杉山氏の見解に従うこととする⑥。こうした連合体制に対し て、皇帝権力の強化を図ったのが太宗ホンタイジ(皇太極 Hong Taiji)で あり、太宗は一代を通じて皇帝=ハン権強化政策を推進した。その後を 襲ったのがドルゴン政権であり、ドルゴン政権とこの太宗朝の政策は深 く関わっており、続く順治朝でも、この皇帝権の問題は引き継がれてい る。ドルゴン政権は、すなわち太宗朝と順治朝を繋ぐ時期であり、「連 旗制」や清初の皇帝権力の問題とも密接に関連しているものと思われ、 本稿が特に八旗制度と関連づけてドルゴン政権を論じる理由もそこに ある。 以下、本稿で扱う順治初期の政治抗争の概要を述べておきたい。清朝

(3)

 の崇徳八(64)年八月に、二代皇帝太宗が後継者を決めぬまま没すると、 次の皇帝位をめぐって、諸王の間で熾烈な抗争が展開されるが、最終的 には、太宗の第九子である、当時六歳のフリンが即位するに至る。これ が世祖順治帝であるが、この時に摂政となったのが、太宗の従弟である 鄭親王ジルガラン(済爾哈朗 Jirgalang)とドルゴンであった。 先述したように、この順治帝の即位は、決して円滑に進んだわけでは なかったが、順治帝即位に至るまでの諸王の合議の様子は、清側の根本 史料である『大清世祖章皇帝実録』(以下、『世祖実録』と略称)にはほとん ど直接的記載がなく、この間のことについては、朝鮮李朝側の史料であ る『瀋陽状啓』や、『世祖実録』の断片的記述などによるしかない。そ れらをもとに、順治帝即位前後の人物関係を整理すると、清朝内部には、 大きく分けて以下のような三派が存在する。 ⅰ太宗長子のホーゲ擁立派:ダイシャン(代善 Daišan、ヌルハチ次子⑦) ⅱフリン擁立派:両黄旗の旗人 ⅲドルゴン擁立派:アジゲ(阿済格 Ajige、ドルゴン同母兄)、ドド(多鐸       Dodo、ドルゴン同母弟⑧)、ショト(碩託 Šoto、ダイシ       ャン次子)、アダリ(阿達礼 Adali、ダイシャン孫⑨) しかしながら実際には、この時期の派閥の実態は上で示したほど単純 なものではなかった。両黄旗がフリン擁立派とはいっても、同じ黄旗の 旗人の中にもホーゲを推す者も存在したし、ドルゴン擁立派も、同母兄 弟のアジゲ、ドドと、ダイシャン家に属するショト、アダリとでは、自 ずと立場に違いがあったはずである。 結局、この中からフリンが帝位を継ぎ、ドルゴンがその摂政になった ことは先述した通りであるが、即位出来なかったホーゲの不満は募り、 ついには翌順治元(644)年四月に、ドルゴンはホーゲを陰謀嫌疑にか こつけて処罰するに至るのである⑩。この順治帝即位からホーゲ処罰ま でを、ここではドルゴン摂政期の政治抗争の第一段階としたい。 そして清朝が入関した後も、内部の政争は続き、再びドルゴン派、反 ドルゴン派が形成されるわけであるが、ここでの各派閥に属する人物は、

(4)

4 第一段階のそれとはいささか異なっている。反ドルゴン派は、最終的に は順治五(648)年三月に、ドルゴンによって一掃され⑪、本格的にド ルゴンの独裁が始まるのであるが、この間の政治抗争を第二段階とする。 では、政権中枢部におけるかかる立場の違いは、どのようにして生じ たのであろうか。また各派閥に属する人物群の関係はどのようなもので あったのであろうか。 順治初期、ドルゴン摂政期の政治抗争を扱った先行研究には、代表的 なものとして、鴛淵一、阿南惟敬両氏の研究が挙げられ⑫、特に鴛淵氏 の研究は、政争の人物関係について網羅しているが、その見解は鴛淵氏 の主観や推測によるものを多分に含んでおり、問題点もあるように思わ れる。またその記述は簡略であり、ドルゴンに与する勢力とドルゴンに 反対する立場を取る勢力それぞれの大まかな枠組みは示しているが、反 ドルゴン勢力の人物構成がどのようなものであり、各派閥の結束要素が 何であったのかという問題の分析が、充分に明らかではなく、筆者が先 に挙げた政争展開の段階区分についても認識を欠くのである。 そこで、本稿ではまず、第一段階である順治帝即位をめぐる政治抗争 に着目し、各派閥の人物同士の関係について可能な限り情報を整理し、 しかる後に、入関後の第二段階の政争についても考察し、各派閥の性格 を明らかにし、そこから窺えるドルゴン政権の性格、そして政権がはら んでいた問題を示し、本稿の結論としたい。

1.順治初期の政治抗争とドルゴン政権の成立

 (1)順治帝の即位をめぐる各派閥の考察-ドルゴン擁立派について- 本節では特に、太宗崩御に際して、次代の皇帝にドルゴンを擁した勢 力と、その立場について考察し、政争の背景を明らかにする。 ドルゴンを推す勢力としては、先述したようにドルゴンの同母兄弟で

(5)

 あるアジゲ、ドドの他、太祖ヌルハチの次子で、諸王中の最長老ダイシ ャンの次子ショト、ダイシャン三子サハリャン(薩哈廉 Sahaliyan)の子 アダリが挙げられる。このうちショトとアダリは、順治帝が即位した後 もドルゴンの擁立を謀り、ついにはドルゴンによって死罪に処せられて おり⑬、アジゲとドドについても、順治帝が即位するとそれを不満として、 アジゲは病と称して引きこもり⑭、ドドは一時的にではあるが、ドルゴ ンの政敵であるホーゲに接近している⑮。 このように、彼らがドルゴンの即位にこだわったのには、どのような 理由があったのであろうか。アジゲとドドについては、すでに指摘があ るように、必ずしもドルゴンと一枚岩ではなかったにせよ⑯、ドルゴン の同母兄弟であり、結束要素が一応は存在するが、ショトとアダリは、 ホーゲを支持したダイシャンの子と孫である。以下、彼らがドルゴンを 支持した理由を考えてみよう。 この勢力がドルゴンを支持した理由として、まず第一に挙げるべき は、太宗から受けた抑制であり、太宗への不満から、その子のホーゲや フリンではなく、ドルゴンを支持するに至ったものと思われる。実際に、 ショトとアダリは太宗が死ぬ直前の、崇徳八年正月に、太宗によって処 罰されており⑰、アジゲやドドも、その素行の悪さから、度々太宗によ って処罰されていた。ことにアジゲは、鑲黄旗人のホーゲ擁立派と、崇 徳年間から反目していたし⑱、太宗の夫人の一人である元妃の喪の最中 に、歌舞音曲に耽っていたことからも⑲、彼が太宗に対して良くない感 情を持っていたことが窺える。またダイシャンとショトは、ヌルハチ時 代から不和であり、ダイシャンが継室にそそのかされて、ショトを殺そ うとしたことさえ過去にはあった⑳。ダイシャンとショトは、親子では あったがその関係は必ずしも親密であるとはいえず、ショトとアダリが ダイシャンに賛同してホーゲを支持しなかったのは、こうした感情的な 理由もあったものと思われる。 しかしながらアジゲやドドと異なり、ドルゴンとの特別な結束要素が ないショトとサハリャンについては、単に太宗への不満やダイシャンへ

(6)

6 の悪感情というだけでは、ドルゴン支持の理由を説明するには不十分で あろう。恐らく、そこにはショトとアダリの婚姻関係と母系が多分に作 用しているように思う。 ショトの夫人、およびアダリの母は、フルン四国の一つ、ウラ国王家 のウラ = ナラ(烏喇納喇 ula nara)氏の出身であり、ともにウラの最後の 国主ブジャンタイ(布占泰 Bujantai)の娘である㉑。すなわちショトはウラ = ナラ氏と婚姻関係を持ち、アダリの母系もまたウラ = ナラ氏であっ たのである。そしてまた、ドルゴン兄弟の生母もウラ = ナラ氏(ブジャ ンタイ兄マンタイ〔満泰 Mantai〕の娘)であるから、ショト夫人、およびア ダリの母とは、血縁的にも近い関係にあった。またドルゴン属下の正白 旗人で、ドルゴン生母の弟であるアブタイ(阿布泰 Abtai)が、順治十(6) 年に断罪された際に、ショトらと共謀してドルゴンを擁立しようとし たことがその罪状の中にあることからも㉒、ショト、アダリとウラ = ナ ラ系の繋がりが窺える。清初の政治史における母系の重要性は周知の事 実であり㉓、近年の研究でも、八旗の属人関係には、旗王の母系や婚姻 関係が色濃く反映されていることが確認されたように㉔、母系や婚姻が 清初の政治史において果たす役割は大きいといえる。すなわち、ショト とアダリがドルゴンを支持した理由には、この同じ「ウラ = ナラ閨閥」 に属していたということがあったのではないだろうか。のみならず、こ のウラ = ナラ閨閥と、先述した太宗への不満は、密接に関わっていた 節がある。 太宗朝崇徳年間の後半期には、太宗が病勝ちというせいもあって、諸 王に対する抑制がより露骨になっていく。その中で処罰の対象になった 主な諸王達としては、ショト、アダリの他に、ショトの同母兄である ヨト(岳託 Yoto)の長子ロロホン(羅洛宏 Lolohon㉕)、ヌルハチの庶子で 第十一子バブハイ(巴布海 Babuhai㉖)、ヌルハチの長子チュイェン(褚英 Cuyeng)の長子であるドゥドゥ(杜度 Dudu)と、その子ドゥルフ(杜爾祜 Durhu)兄弟ら㉗が挙げられるが、このうち、ドゥドゥの夫人(ドゥルフら の母親)もまたウラ = ナラ氏の出身で、ブジャンタイの娘にあたる㉘。筆

(7)

 者はかつて、この太宗による抑制は、八旗のうち両紅旗の旗王であるダ イシャン系とチュイェン系への圧迫と捉えていたが、婚姻関係に注目す ると、同時にウラ = ナラ閨閥への抑制という見方も出来るように思う。 上述のショト、アダリ、ドゥドゥ、およびドゥルフ兄弟が処罰された際 に、同時に夫人や母がともに処罰されているのはその表れであろう。す なわち太宗の晩年に、ウラ = ナラ閨閥への弾圧があり、そのことでシ ョトらは太宗に不満を抱き、太宗の死後に同じウラ = ナラ閨閥に属す るドルゴンを支持した理由となったものと思われるが、では何故太宗 は、ウラ = ナラ閨閥を排斥したのであろうか。 太宗が意図したのは、ウラ = ナラ閨閥で最大勢力の、ドルゴンに対 する牽制と思われる。ドルゴンは太宗時代には吏部を司り、政権にも参 与し、太宗の信任も厚かったようであるが、元はヌルハチの領旗であり、 八旗中最有力軍団の白旗を領有するドルゴンは㉙、皇帝権強化を図る太 宗にとっては、最も警戒すべき存在であったであろう。太宗にとって は、ドルゴンの白旗勢力は「潜在的な最有力者㉚」であったわけであるが、 ドルゴンは太宗の生前はひたすら彼に協力的な姿勢を示していたため、 太宗も妄りに処罰することが出来なかった。そのため、将来的にドルゴ ンの協力者となり得るようなウラ = ナラ閨閥に、打撃を与えておく必 要があったのではないだろうか。 つまり見方によっては、ショトとアダリのドルゴン支持は、太宗時代 に圧迫されていたウラ = ナラ閨閥の巻き返しということが出来、同じ ように太宗による抑制を受けたドゥルフや、やはりウラのブジャンタイ の娘を夫人に持ち、後に順治帝への不敬行為から死罪となった鑲藍旗の アイドゥリ(愛度礼 Aiduri、ヌルハチ同母弟シュルガチ〔舒爾哈斉 Šurgaci〕の次 子アミン〔阿敏 Amin〕の子で、ジルガランの甥)もまた、太宗の死に際して はドルゴンを支持していたのであろう。ドルゴンが摂政となった後の順 治二(64)年に、太宗時代に処罰されて爵位を削られていたドゥルフ らを、ドルゴンが復爵させたことからもそれは窺える㉛。 そしてもう一つ、ショトらがドルゴン支持に傾いた理由には、候補者

(8)

8 の一人であるフリンが、当時六歳であり、幼帝即位に対する彼らの不満 もあったように思われる。アジゲは順治帝に対して「孺子」と発言して いるし㉜、アイドゥリは順治帝即位後、幼帝の即位を不本意とする誓文 を密かに作成し、ウラ = ナラ氏の夫人とともに死罪に処せられている。 ショトとアダリもまた、順治帝即位直後に、父のダイシャンに対し、「今 稚児立つ。国事知るべけんや。速やかに処置を為さざるべからず。」と 述べており㉝、幼帝の誕生を快く思っていない様子が窺える。 北アジアの国家では、モンゴルのクリルタイに代表されるように、衆 を率いるに足る能力を持ったものが、国主として選出される形式が多く 見られることは周知の事実である。満洲もそれは同様で、現に太宗も、 その経緯について諸説あるものの、ヌルハチ死後に諸王の合議で選出さ れた国主である。フリンは確かに太宗の正夫人から生まれた嫡子であっ たが、太宗崩御の時点で六歳の幼児であり、皇位継承制度が整い、幼帝 も珍しくない中国王朝とは異なる清朝の諸王達にとっては、フリンは皇 帝として仰ぐに足る人物とは思えなかったのであり、実力者であるドル ゴンの方が、自分達の利益を保証するに足る君主と映ったのではないだ ろうか。また明との抗争が激化している当時の清朝の状況を考えれば、 幼帝を頂くということに、諸王が不安を感じていたということもあるだ ろう。 加えて、前皇帝の子ではなく、弟であるドルゴンを皇帝とする正当性 も、一応は存在していた。海西フルン四国の王位継承過程に関する近年 の研究によると、明末清初当時の女直・満洲では、父子継承が一般的で あったが、後継者となる子が幼年であったり、問題があったりする場合 は、兄弟が継承するケースも見られるという㉞。太宗の後の皇帝位を継 ぐべき人物としては、最年長者で軍功も多いホーゲと、嫡子としては最 も年長のフリンの二人が存在したが、フリンは幼年であり、後述するよ うに、ホーゲはそれほど多くの支持を集めていたわけではなく、太宗か らドルゴンへの兄弟相続が正当化される可能性も存在したといえる。シ ョトやアダリら、ドルゴンの即位を支持した人物達は、こうした満洲の

(9)

 慣習に倣うつもりだったのであろう。 しかしながらドルゴンは、結果的には皇帝にはならず、また順治帝即 位直後にショトらが企てた計画にも賛同せず、逆に二人を厳罰に処し た。これはすでに世祖の即位が定まった以上、ドルゴンに協力したフリ ン擁立派の両黄旗人の疑いを防ぐためにも、二人を死罪という重い処 分にすることが効果的であったといえる。また張玉興氏は、ドルゴンは 初めから即位する意思は見せず、フリンを立てて自身は摂政となったと し、その理由を、摂政となることで巧妙に政権を握るという、いわば「名 を捨てて実を取る」というものであったと論じている㉟。筆者も、ドル ゴンが自分を擁立する諸王の誘いを受けて皇帝となる意思を示した場 合、ホーゲ擁立派やフリン擁立派と争うことになり、それによって生じ る不利益の方が大きいために、初めから即位の意思はなかったように思 う。ドルゴンがフリンを擁立したのは、自身は摂政となるが表面上はフ リンを立てることで、黄旗の旗人を懐柔し、かつ合法的に実権を握るこ とを目的としたものであり、確かに張氏のいうように巧妙な方法であっ たといえる。後述するように、二派双方と争う不利を避け、ひとまずは 黄旗勢力と結ぶことで、ドルゴンは当面の敵であるホーゲを失脚させる ことに成功するのである。  (2)順治帝の即位をめぐる各派閥の考察  -ホーゲ擁立派、フリン擁立派について- 前節では、ドルゴン擁立派について述べたが、次に本節では、ホーゲ 擁立派とフリン擁立派、およびその両派の対立について考察していく。 ホーゲを擁立する勢力については、ダイシャンの他に、鑲黄旗人で ある内大臣のトゥルゲイ(図爾格 Turgei)や正黄旗人のタジャン(塔瞻 Tajan)、ホーゲの領旗である正藍旗人のヤンシャン(楊善 Yangšan)、ヌ ルハチ庶子のバブハイらがいたと考えられる。彼らのホーゲとの結びつ

(10)

0 きや婚姻関係については、前稿においてすでに述べているのでここでは 省略するが㊱、その後に判明した事実を、まずは述べておきたい。前稿 ではバブハイ家とタジャン家、バブハイ家とトゥルゲイ家の婚姻関係に ついて述べたが(系図2参照)、『旧満洲檔』(以下、『旧檔』と略称)天聡九 年九月二十五日の条には、 先にアジゲ = タイジの部下の大臣のチェルゲイの娘をヤングリ = エフの子に妻として迎えたいといったが、アンバ = ベイレ(ダ イシャン)が強迫し、正藍のマングルタイ = ベイレを唆し争わせ て『汝の子マイダリに先に妻として迎えたいといっていた。汝が 言わないならば、我は我の子マジャンに娶りたいと言うぞ。』と 唆した。 という記述がある㊲。チェルゲイ(車爾格 Cergei)はトゥルゲイの同母兄 であり、ヤングリ(楊古利 Yangguri)はタジャンの父である。この記事だ けでは、実際に両家の間に婚姻関係があったかどうかは、にわかに判断 し難いし、ヤングリの子がタジャンを指すものかどうかもわからない が、少なくともトゥルゲイとタジャンの家の間にも婚姻があった可能性 はあるといえる。 これを上述の婚姻関係と重ね合わせると、ニュフル(鈕祜祿 niohuru) 氏エイドゥ(額亦都 Eidu)家出身の女性が、シュムル(舒穆祿 šumuru)氏 ヤングリ家に嫁ぎ、タジャンの姉がバブハイに嫁ぎ、バブハイの姉がト ゥルゲイに嫁ぐというように、ホーゲ擁立派のこの三家は、互いに婚姻 関係があり、強い結びつきがあったのではないかということが窺える。 三者のうち、タジャンはホーゲとは母方の従兄弟同士であり、トゥルゲ イはホーゲと親しく、バブハイは太宗の晩年に抑制を受けた諸王の一人 であり、太宗属下の黄旗の旗人が支持するフリンの即位は受け入れ難い ものがあったであろうから、やはり三者が共通して支持する人物は、ホ ーゲ以外には考えられないであろう。

(11)

 ホーゲを擁立する勢力として他に考えられるのは、彼の領有旗である 正藍旗の旗人が挙げられる。しかしながらホーゲ領有時代の正藍旗は、 後述するように、ドルゴン時代の鑲白旗との換旗によって消滅し、以降 の史料で正藍旗人として記される人物は、ホーゲ時代の正藍旗人ではな い。そこで、筆者は『内国史院檔』や『満文老檔』(以下、『老檔』と略称)、『大 清太宗文皇帝実録』(以下、『太宗実録』と略称)などに「正藍旗人某」とし て、正藍旗に所属していることがわかる旗人、および前後の状況から明 らかに正藍旗に属していると思われる旗人を抜き出し、それを『八旗通 志初集』(以下、『初集』と略称)や『欽定八旗通志』(以下、『続集』と略称)、『八 旗満洲氏族通譜』(以下、『通譜』と略称)の記述と照らし合わせて、ホー ゲ時代の正藍旗人の復原を試みた。その結果、全部で 4 1人の旗人を 人物比定することが出来たが(表参照)、その中で、最も多い氏族が、ジ ャン河地方のゴロロ(郭絡羅 gorlo)氏(7人)であり、次いでスワン地方 のグワルギャ(瓜爾佳 gūwalgiya)氏(5人)であった。この二氏以外では、 それほど突出して多く正藍旗に所属している氏族は見られない。 このうち、ゴロロ氏については、大きくわけて三つの系統があり、一 つは崇徳五(640)年まで正藍旗のグサ = エジェンを務めた、ダルハン(達 爾漢 Dargan)の系統であるが、この系統はヌルハチの六子で、ホーゲと 同じく正藍旗の旗王であるアバタイ(阿巴泰 Abatai)との関係が深い。ダ ルハンの夫人はアバタイの同母姉であり㊳、この系統はホーゲよりもア バタイとの主従関係が強かったように思われる。アバタイの娘は、ドル ゴンの腹心であるイングルダイ(英俄爾岱 Inggūldai)の夫人であり㊴、ま たアバタイの子であるボロ(博洛 Bolo)は、順治年間にはドルゴンの与 党であった㊵。このことからすると、アバタイ家はホーゲの正藍旗に属 していたとはいえ、ドルゴン寄りの勢力であったと考えられ、当然、ダ ルハンの系統もホーゲ支持とは考えにくいであろう。 二つ目の系統は、フラクタ(富喇克塔 Fulakta)、イェシ(葉喜 Yesi)、シ ライ(席頼 Sirai)らであり、彼らは皆、ダルハンの父であるヤンシュ(楊 舒 Yangšu)の兄チャンシュ(常舒 Cangšu)の孫である。彼らとダルハン

(12)

 系の関係は定かではないが、元々この系統は、鑲紅旗の旗王であるドゥ ドゥの属下で、ドゥドゥの家と婚姻関係があり、崇徳五年に鑲紅旗から 正藍旗に移って来た旗人達である㊶。それゆえ正藍旗に属して日が浅く、 また近い同族のダルハン系がホーゲと疎遠だったことからすると、ホー ゲとはそれほど強い関係はなかったのではないかと思われる。 そしてもう一つの系統は、ドゥンダリ(敦達礼 Dundari)、ダバイ(達拝 Dabai)らで、彼らは同じゴロロ氏であっても、前者の二系統とは異なり、 正藍旗改組の際に、太宗が特にホーゲに着けた側近的存在であり、ドゥ ンダリは太宗の崩御に際して殉死し㊷、ダバイも、後年、ホーゲが幽禁 の末に没した時に自害している㊸。この両者は確かにホーゲとは深い主 従関係にあったのであろうが、列伝を見る限りでは、ゴロロ氏の傍系で あって前者二系統のような大きな勢力であったとはいい難い。 また、ゴロロ氏に次ぐ勢力であったと思われるスワン地方のグワルギ ャ氏は、ヤンシャンがホーゲに連座して死罪になっていることからして も、ホーゲの有力な支持者であったのであろう。しかし正藍旗の旗人の 中では、この勢力とオモクトゥ(卾穆克図 Omoktu)らウラ地方のグワル ギャ氏くらいしか、はっきりとホーゲの与党と断定出来る氏族が見当た らない。そもそもホーゲ時代の正藍旗自体が、元々ヌルハチの五男マン グルタイ(莽古爾泰 Manggūltai)系の領有であったものが、天聡九(6) 年に一度解体されて、翌年に黄旗の旗人などを多数編入して改組された ものであって、それほど統一された勢力であったとは考えにくいのであ る。復原状況が不十分なこともあるので、にわかには断定は出来ないが、 ゴロロ氏ダルハン家やサビガン(薩必漢 Sabigan)とその一族、また、ア バタイの護衛を務めていたコルコン(科爾坤 Korkon)のように㊹、アバタ イと関係を持つ旗人も含まれていたわけであるから、正藍旗全体がホー ゲを推していたわけではないと考えられ、ホーゲ擁立派というのは、そ れほど大きな勢力になり得なかったのではないだろうか。 それゆえにホーゲは、皇帝になる意志を持ちながらも、「福小にして 徳薄く、当たるに堪える所に非ざるなり」といって㊺、即位を辞退せざ

(13)

 るを得なかった。ホーゲが即位出来なかったのは、自旗における与党が 少なかったことに加え、彼を支持した黄旗の旗人は、トゥルゲイら一部 の者であって、両黄旗全体の支持が得られなかったことが大きな理由と

してあるだろう。このホーゲの支持をしなかった旗人が、ソニン(索尼

Sonin)、オボイ(鰲拝 Oboi)、タンタイ(譚泰 Tantai)らであり、フリンを 擁立した勢力であるが、次に、このフリン擁立派について述べていきた い。 ソニンらが太宗の諸子の中で、ホーゲにはこだわらず、むしろ当初か らフリンを推していたということは、すでに前稿で指摘した通りであ る。従来の中国の研究者が、ソニンらが太宗崩御の時点では、ホーゲを 擁立していたとし、その根拠として、『世祖実録』にある、 索尼、粛王を立てて君と為さんと謀り、又譚泰、図頼、鞏阿岱、 錫翰、鰲拝等と相に一処に生死するを誓う。 という記述を挙げているが㊻、これは恐らくはドルゴンによる反ドルゴ ン派追い落としのための作為的なものであり㊼、ホーゲの擁立に賛同し たとは思えない。 では何故ソニンらは、ホーゲの擁立に不熱心だったのであろうか。こ の点は、前稿では説明が不十分だったので、改めてここで整理してみた い。フリン擁立派の代表的人物であるソニンが、フリンの生母の実家で あるモンゴル・ホルチン部と清との交渉で、中心的役割を果たしており、 ホルチンとソニンの間に強い結びつきがあったことを、筆者はかつてフ リン擁立の理由の一つとして挙げた㊽。だが、ホルチンと関わりについ ては、単にソニン一人の問題にはとどまらない。ホルチンと清室は相 互に婚姻を繰り返しており、また太宗はモンゴル諸部を自らの強い影響 下におき、八旗体制における太宗自身の軍事力の補完を意図していた㊾。 皇帝権力の強化を図る太宗にとっては、ホルチンを始めとするモンゴル 諸部を、自身の影響下に取り込み、その関係を維持する必要があったの

(14)

4 である。その点から考えると、ホルチンの血を引くフリンを皇帝とする ことは非常に効果的と思われ、それゆえ、太宗は生前に、フリンの嗣立 を考えていたのではないだろうか。太宗の長子であるホーゲは、必ずし も太宗に従順ではなく、またホーゲの母系もまたウラ = ナラ氏であり㊿、 それほど近い血縁ではないにせよ、太宗が最も警戒していたドルゴンの 母系と共通するものである。こうしたことから、太宗がホーゲを後継者 とするのに熱心でなかったと思われ、この推測が妥当であるなら、太宗 の側近であったソニン、タンタイらがフリンの即位を指示するのは、極 めて自然な成り行きであろう。また楊珍氏が指摘するように、黄旗の旗 人達としては、ホーゲが即位して、彼の領旗である正藍旗の旗人達が政 権に介入し、黄旗の旗人と肩を並べることを考えれば、ホーゲの即位は 避けたかったのではないだろうか。すなわち自分達の利害の面でも、ソ ニンらにとってはホーゲよりもフリンの即位が望ましかったといえる。 このことからすると、同じ黄旗に属していても、ソニン、タンタイら 太宗の側近的人物と、ホーゲに親しいトゥルゲイ、タジャンら旗人との 間には、その立場に違いが生じており、この立場の違いによって、両者 は太宗崩御の際に袂を分かつという結果になった。阿南氏が述べている ような、トゥルゲイを中心にして反ドルゴン派が結束しているという状 態では決してなく、両者はそれぞれ皇帝候補者を擁して対立する関係 にあった。この対立の背景には、前述のような立場の違い以外にも理 由があったものと思われる。 その理由とは、同一家系内における、分支の問題である。フリン派と ホーゲ派それぞれに属する旗人を見てみると、タンタイとタジャン、ト ゥライ・オボイとヤンシャン兄弟というように、同じ家系でありながら、 異なる分支にわかれているケースがあり、自ずから主流と傍流の区別が あった。 タジャンは、ヌルハチ以来の功臣ヤングリの次子であり、ヤングリの 死後はその爵位を継承したように、シュムル氏ヤングリ家における嫡流 である。対してタンタイは、ヤングリの従弟であり、ヤングリ家を本家

(15)

 とすれば、やや傍流に当たる。それにも関わらず、彼は崇徳期を通じて 正黄旗のグサ = エジェンの職にあり、また太宗の側近的存在でもあっ た。これはもちろん、タンタイ個人の能力によるものであり、タジャ ンは『初集』に独立した伝がないことからもわかるように、それほど 目立った軍功を挙げているわけではないようであるから、彼が爵位は高 くとも、要職に就けなかったのは、彼個人の能力がタンタイに劣ってい たからであろう。が、タジャンにしてみれば、自分を差し置いて傍系で あるタンタイが旗内の要職を務めていることには、少なからず不満があ ったであろうし、タンタイにしても嫡系というだけで能力としては劣る タジャン家に対して良い感情を持っていなかったように思える。『内国 史院檔』にはタンタイとタジャンの悶着の記事が散見されるし、『太宗 実録』には、タンタイが、ヤングリの弟であるナムタイ(那木泰 Namtai) の夫人を告発し、そのために夫人は死罪となったという記述があり、 タンタイがタジャン個人だけでなく、ヤングリを中心とする嫡系そのも のと不和であったことが窺える。 こうしたフリン派とホーゲ派の対立を、ドルゴンが巧みに利用して、 ホーゲ派を牽制したのが、崇徳八年九月のバブハイ断罪事件であること は、前稿で指摘した通りである。そしてドルゴンは、翌順治元年四月に は、ソニン、トゥライらを味方にして、ついに政敵のホーゲを陰謀嫌疑 で失脚させることに成功し、政争の第一段階はドルゴンの勝利で終わる のである。

 2.入関後のドルゴン派、反ドルゴン派の抗争と

   その展開

前章では、主として崇徳八年から翌順治元年までの政争について、各

(16)

6 派閥の人物や人物の婚姻、母系、属旗に検討を加えつつ見てきたが、本 章では、入関後の、政争の第二段階について考察していきたい。ここで 扱うのは、入関から順治五年三月に、ドルゴンによって、ソニンを中心 とする反ドルゴン派が一掃されるまでの時期とする。  順治初期、ドルゴン摂政期における政争の第一段階では、ホーゲ擁立 派がいわば反ドルゴン派であって、フリン擁立派は、この時点ではドル ゴンに協力的であった。それが入関後、ドルゴンの権限が強まり、皇帝 権力に迫るほどになると、それまでフリン派であった黄旗の旗人達の立 場にも変化が生じるようになる。すなわち、一方は事実上の皇帝であ るドルゴンにより接近し、一方はドルゴンに反対する立場を取るのであ る。入関前は、ホーゲ擁立派とドルゴン、フリン擁立派の抗争という面 が強かったが、ホーゲ派の有力者のトゥルゲイは順治二(64)年、タ ジャンも順治四(64)年に没するから、入関以前とこの時期の反ドル ゴン派は区別して考える必要はあるだろう。この時期の反ドルゴン派の 中心人物は太宗の側近中の側近であり、またホルチンとの関係から、フ リンの即位を強く主張したと思われるソニンであり、彼は早くも順治二 年八月には、ドルゴンの抑制を受けていたと考えられる。ソニンは入 関後の政争においては、終始反ドルゴンの立場を取っていたようである が、では、彼以外の反ドルゴン派には、どのような人物が属していたの であろうか。また黄旗でありながら、ドルゴンに接近した旗人にはどの ような人物がいたと考えられるのか。ここでは主に黄旗の旗人を中心 に、八旗の旗人がいずれの派閥に属したのかを、改めて整理してみたい。 まず、黄旗のドルゴン派旗人としては、鑲黄旗では宗室のバイントゥ (拝尹図 Baintu)、グンガダイ(鞏阿岱 Gunggadai)、シガン(錫翰 Sigan)、覚 羅のセレ(色勒 Sele)などが挙げられ、前三者は、ヌルハチの異母弟バ ヤラ(巴雅喇 Bayara)の諸子である。鴛淵氏もこの三人はいずれもドル ゴン派であったと述べており、この三人が順治九(6)年にドルゴン に迎合し国政を乱したという罪状で処罰されているということからも、 ドルゴン派であったことは間違いないであろう。セレは、特に列伝な

(17)

 どにはドルゴン派を思わせるような記述はないが、内大臣、メイレン = エジェンを務め、ドルゴン摂政期は移動なくその地位にあり続けたこと からも、ドルゴンとの関係が良好であったことを表しているといえ、ド ルゴン派と見なして良いであろう。彼は元々は正藍旗の旗人であって、 マングルタイの属下であったが、正藍旗が解体された時に鑲黄旗に組み 入れられた人物である。彼がドルゴン派となったのは、元々鑲黄旗へ の帰属意識が弱かったためと思われる。あるいは、セレは崇徳年間に、 ドルゴンが司っていた吏部参政(侍郎)を務めていたから、その時にド ルゴンと個人的な繋がりが出来たのかも知れない。 正黄旗では、タンタイ、イルデイ(伊爾徳 Ildei)、レンセンギ(冷僧機 Lengsenggi)などがドルゴン派として考えられる。タンタイは先述のバ ブハイ断罪事件では、ドルゴンの意を受けて行動したと思えるところが あり、入関後はソニンら反ドルゴン派の旗人をしばしば告発しているか ら、ソニンとは逆に、終始ドルゴン派として行動した人物である。また タンタイはドルゴン派の鑲白旗の旗人アサン(阿山 Asan)の女婿であり、 ドルゴン派との婚姻による繋がりも存在した。イルデイはタンタイの 同族で、ドルゴン摂政期にはメイレン = エジェンや護軍統領といった 要職を務めており、反ドルゴン派であったオボイと不和であったことか らもドルゴン派と思われるが、ドルゴン死後に死罪となったタンタイ とは異なり、正黄旗のグサ = エジェンに昇進していることを考えると、 タンタイほどドルゴンに近づいたのではないようである。レンセンギは セレと同じく元々は正藍旗人であったが、彼はマングルタイの謀反事件 を告発したことで、太宗に信任され、ドルゴンが摂政となると今度は彼 に近づき、ドルゴンと「アンダ」(anda、盟友の意)の関係になるなど、 実に変わり身の早い人物であった。しかしながら、彼らはいわば「裏切 り者」であるゆえに、ドルゴンの側近達以上に反ドルゴン派の憎しみを 買っていたようで、タンタイ、レンセンギ、あるいは先述のバイントゥ 兄弟などはドルゴンの死後、最終的には皆、死罪などの重い処分となっ ている。イルデイがオボイと不和であったのもそのためであろう。

(18)

8 このような人物とは逆に、反ドルゴン派と考えられる黄旗の旗人は、 鑲黄旗ではオボイ、トゥルゲイの弟のエビルン(遏必隆 Ebilun)、正黄旗で はトゥライ(図頼 Tulai)が挙げられるが、このうち、トゥライ、オボイ に関しては、ドルゴン寄りの立場を取っていたと思われる時期もあり、 またドルゴン派のバイントゥ兄弟や、やはりドルゴン派と思われるチュ イェンの系統と婚姻関係があったから、終始ドルゴン派とはいえない 部分もある。恐らくソニンのように最初からはっきりと反ドルゴンの立 場を取っていなかったのであろうが、列伝の記事や、順治五年にソニン らとともに処罰されているところからすると、最終的には反ドルゴン派 になったと見なして良いであろう。 次に両白旗であるが、正白旗は、順治期にはドルゴンの領有旗であ り、鑲白旗はアジゲとドドが旗王を務めているため、旗全体をドルゴン 派と見なすことも可能であろう。そのうち正白旗の旗人は、ドルゴンの 側近集団というべき存在で、それぞれが要職についており、鑲白旗の旗 人も、六部関係の職についている者が多い。この中で正白旗のウバイ(呉 拝 Ubai)については、エイドゥの娘を妻としており、白旗の中では例外 的に、反ドルゴン派であるエイドゥ家との関係が深かったようである。 ドルゴン死後に、その側近達が処罰され、死罪となる者もいた中で、ウ バイ、スバイ(蘇拝 Subai)兄弟は比較的軽い処分であり、その後まもな く要職に復帰したことなどは、あるいは彼の家とエイドゥ家との婚姻関 係が理由としてあるのかも知れない。 これ以外の旗であるが、両紅旗については、ダイシャン系が旗王であ り、旗人はダイシャン家と密接な関わりを持っていたせいか、積極的な ドルゴン派も、反ドルゴン派も特には見当たらない。ただ、ダイシャ ンの後を継いで正紅旗の旗王であったマンダハイ(満達海 Mandahai)が、 ドルゴン寄りであったから、旗全体としてもドルゴン寄りの傾向があっ た可能性はある。また鑲紅旗は、順治五年以降にグサ = エジェンとな ったカルチュフン(喀爾楚渾 Kalūcuhūn)が、ヨトの子であり、鴛淵氏は ヨトが太宗擁立に力を尽くしたことから、彼を反ドルゴン的立場の人物

(19)

 としている。しかし、ヨトがその晩年には太宗の抑制を受け、兄のロ ロホンもまた抑制を受けていたことを考えると、むしろカルチュフンは ドルゴン寄りの人物と見た方が良いように思う。 正藍旗は、前述したように、全体がホーゲを支持したわけではなく、 その点では反ドルゴン勢力が多かったとはいえず、鑲白旗との交換まで グサ = エジェンを務めていたバハナ(巴哈納 Bahana)のように明らかに ドルゴン派と考えられる旗人も存在した。また前節で述べたように旗 王の一人であるアバタイ家はドルゴン寄りであったようであるから、こ の系統と関係の深いゴロロ氏などはドルゴン派とも考えられる。 鑲藍旗は、旗王がドルゴンとともに摂政となったジルガランであり、 彼の家は反ドルゴン派のニュフル氏エイドゥ家や、グワルギャ氏フュン ドン家と婚姻を結んでおり、ジルガラン自身、順治五年にソニンらと ともに失脚させられていることからも、反ドルゴン的立場の人物と考え られる。あるいは、太宗に従順であり、その信任を得ていたから、ドル ゴンに対抗する宗室の有力者として、反ドルゴン派の旗頭的な存在だっ たかも知れないし、順治期の政争におけるジルガランの存在を重く見な す意見もある。ただジルガラン自身は、ドルゴンに比べ政治的手腕は 劣っており、ドルゴンにとって脅威的な存在たり得たかどうかは疑問で ある。加えて、ジルガランの領旗である鑲藍旗全体が、反ドルゴンでま とまっていたわけではない。ジルガラン以外のシュルガチ系の者は、太 宗時代には冷遇されており、それがジルガランへの不満にも繋がった ようで、順治五年にジルガランを告発して、反ドルゴン派一掃の口火を 切ったのは、ジルガランの甥のトゥンチ(屯斉 Tunci)らであった。 以上、八旗全体を概観して、それぞれの旗のドルゴン派、反ドルゴン 派について整理してみた。ここで指摘しておきたいのは、第一段階の時 と異なり、入関後の政争においては、必ずしも婚姻関係や母系が派閥を 分ける要素にはなっていない点である。上述したようにオボイやトゥラ イは、終始ドルゴン派であったわけではないとはいえ、最終的には反ド ルゴン派になっているし、逆に彼らと婚姻関係を持つバイントゥらはド

(20)

0 ルゴン派である。 これまで見てきたように、入関後のドルゴンは、自らが領有する両白 旗に加え、他の旗においても自派を増やしていった。そしてついに順治 五年三月には、ソニンら反対派を一掃し、ホーゲもこれに連座する形で 幽禁させることに成功するのである。

結びに代えて

本稿では、順治朝初期の政治抗争を検討することで、ドルゴン政権の 成立とその展開、そして八旗制度の人的組織としての面について考察を 試みた。以下、本稿で述べてきたことを改めてまとめてみたい。 順治帝即位に際しての派閥抗争には、三つの派があり、そのうちドル ゴンを支持した人物達には「ウラ = ナラ閨閥」に属し、また幼帝の即 位に不満を持っているという共通点が見られた。またホーゲ擁立派のト ゥルゲイ、タジャン、バブハイの間には相互に婚姻関係が存在し、強い 繋がりがあったように思われるが、ホーゲの領旗である正藍旗の旗人達 を見ると、必ずしもホーゲの支持者ばかりではなく、ホーゲはそれほど 大きな存在になり得なかったように思われる。そしてソニンらがフリン を擁立した背景には、太宗の意向が多分に反映されていると考えられ、 その立場の違いから、ホーゲ派とは反目していて、決して一枚岩の存在 ではなかった。ドルゴンはこのような対立を巧みに利用し、強引に即位 する愚を避けて、まずはフリン派と結んでホーゲ派に打撃を与え、続く 入関後の政争では、フリン派と対立することになったが、ここでもドル ゴンはタンタイらフリン派の一部を味方につけ、八旗において自派を増 やし、ついにはソニンら反ドルゴン派を追い落としたのである。 しかしながら、ここで最後に指摘しておきたいのは、元よりタンタイ らは政争を有利に展開させるためにドルゴンが懐柔した者達であった

(21)

 ということである。「諸臣が摂政王の下に慴伏」している状態であって、 ドルゴンにとって、彼らは白旗の旗人達同様、心を許せる存在では必ず しもなかったであろうし、タンタイらもドルゴンに心服していたとも思 えない。すなわち見方によっては、この時期のドルゴン政権は不安定な 要素を持っていたといえる。ゆえに、反対派一掃後のドルゴンは、自己 の政権基盤の確立に努めたことは想像に難くない。 その代表的政策が、順治六(64)年の鑲白旗と正藍旗の換旗であろう。 「換旗」とは、文字通り旗を交換することであり、清初において、恣意 的な換旗は数例確認出来るが、順治六年の換旗は、同年三月に鑲白旗王 である同母弟ドドが没したことを契機として、同年六月から七月にかけ て、ドドの鑲白旗と正藍旗を交換し、ドドの子のドニ(多尼 Doni)を正 藍旗に封じ、自らは領旗の正白旗に鑲白旗を加え、両白旗を掌握しよう と図ったものである。もっとも、実際にこの換旗が実現し、ドルゴン系 が両白旗の旗王を兼ね、ドニが正式に正藍旗王となるのは、ドルゴンの 死後、養子のドルボ(多爾博 Dorbo、ドドの子)の代になった順治八(6) 年のことである。ドニを正藍旗に封じたとはいえ、彼は若年であった から、実際には元の鑲白旗である正藍旗もドルゴンの手中にあったと見 て良い。すなわちこれによってドルゴンは、三旗を領有することになり、 単純に領旗の数だけでいえば、諸王の中で突出した存在になったといえ る。ドドの死をドルゴンの痛手のように解釈する見方もあるが、ドド はドルゴンにとっては必ずしも扱いやすい弟ではなく、ドルゴンが彼を ジルガランに代えて輔政王としたのは、弟であるゆえに兄のアジゲより も操縦がしやすいというだけであって、ドドへの信任を表すものとは思 えない。それゆえドドの死は、鑲白旗を握るために、むしろ好都合であ ったとする解釈が妥当であろう。 換旗によって三旗の掌握を図るのは、太宗の政権とも共通し、そのこ とはドルゴン政権が八旗制度の枠組みの中で展開し、ドルゴンもまた、 旗王として立場から権力拡大を図っていたということを意味する。楠木 賢道氏や杉山清彦氏が指摘するように、太宗もまた、旗王と旗人との

(22)

 主従関係を完全に排除するのではなく、あくまでも旗王としての立場か ら、皇帝=ハン権力の拡大を図っていたのであり、崇徳元年の大清皇帝 即位の直前には、マングルタイ家の領旗であった正藍旗を勢力に取り込 み、両黄旗と合わせて三旗を掌握することによって、他の旗王に優越 する存在となっている。加えてドルゴンは、領旗と数では太宗の時と同 じであるが、八旗中の最有力旗である正白旗を領有しており、内容の充 実度では太宗に勝っている。有力氏族を含むホーゲの正藍旗も属下にお き、これを自己の権力基盤である両白旗に加え、より権力を強固なもの にすることは、政争を勝ち抜く必要上不可欠であった他旗の旗人の依存 と、それに起因する不安定性を克服するのに寄与したであろう。以下は 憶測の範囲を出ないが、三旗を掌握したドルゴンは、その後も自分の家 系が三旗を領有して突出した存在となることで、八旗諸王の中で最有力 者たる地位を、恒久的に維持しようと意図していたのではないかと思わ れる。 すなわちドルゴン政権は、太宗死後の権力の空白によって生じた、「あ だ花」的な特異な政権であったというよりも、むしろ政権の性格として は、太宗のそれと共通する部分を持っており、三旗を掌握して諸王から 抜きん出、皇帝の領旗数をもしのいだドルゴンは、実質的な皇帝という べき存在であり、彼の政策もまた清初の皇帝権力形成過程の一つと捉え るべきでないだろうか。清朝、就中清初においては、皇帝といえども旗 王の一人に過ぎないことは、しばしば指摘されているところであるが、 これは結局、必ずしも皇帝が独裁的権力の保持者とは限らず、八旗諸王 の中での最有力者であってこそ、実質的な権力者たり得たということで あろう。 この問題については、より実証的研究を積み重ねていく必要がある が、八旗中の三旗を掌握し、諸王から突出した存在になるという構想は、 その後の順治帝に引き継がれ、順治帝が親政後に、両黄旗にドルゴンの 正白旗を加えた「上三旗」を皇帝の領旗とし、それが以降の皇帝達の領 旗となっていくのである。すなわち太宗朝と順治朝以降を繋ぐという点

(23)

 で、ドルゴン政権は大きな意味を持った政権であったといえ、ドルゴン 政権は清初の皇帝権形成過程の流れの中に位置づけることが出来るで あろう。  以上、本稿では、順治初期の政治抗争について考察しながら、その背 景にあった八旗制度内部の人間関係と、そこから窺えるドルゴン政権の 性格の一端について論じてきた。最後に言及したドルゴンの政策につい ては、未だ検討が不十分で、今後より慎重な検討を要する問題であり、 また本稿でドルゴン派と見なしたバイントゥ、タンタイらの旗人は、グ サ = エジェン等の八旗の要職に就いている者が多いように思われ、ド ルゴン政権について考察するには、そうした個別の官職の実態について も検討を加える必要があるだろう。これらの問題については、今後の課 題とし、別稿に譲りたいと思う。 注 ① 「清初」の時期については、本稿では便宜上、清初という言葉を入関前、ある いは入関前後の時期を指すものとして使用する。 ② ドルゴン政権そのものについて取り上げた研究は、日本では少ないが、ドル ゴン時代に関わる研究としては、鴛淵一「清初に於ける清室内紛に関する研究 -特に太宗を中心として-」(『石浜純太郎博士還暦記念東洋学論叢』、関西大 学東西学術研究所、0 年)、「鄭親王擬定阿布泰那吉哈出罪奏に就いて」(『人 文研究』6-、 年)、「睿親王多爾袞と皇父摂政王の称号に就いて」(『史学 研究』64、6 年)、「睿親王の人物素描」(『人文研究』8-、 年)、「清 朝順治初世の派閥的抗争に就いて-特に睿王派の結成について-」(『人文研究』 8-、8 年)といった一連の論考があり、中国の研究としては、張玉興「多 爾袞擁立福臨考実」(原載『故宮博物院院刊』、84 年、『明清史探索』〔遼 海出版社、004〕所収)、許曾重「太后下嫁説新探」(『清史論叢』8、8 年)、 姚念慈「多爾袞与皇権政治」(『清史論叢』、6 年)、杜家驥『清皇族与国 政関係研究』、(五南図書出版、8 年)などがある。 ③ 「連旗制」という語が最初に用いられたのは、孟森氏の「八旗制度考実」(原載・ 『歴史語言研究所集刊』6-4、6 年、『明清史論著集刊』〔復刻版、河北教育 出版社、00 年〕に所収)中においてである。 ④ 杉山氏の代表的研究としては、「八旗旗王制の成立」(『東洋学報』8-、

(24)

4 00 年)、「清初八旗における最有力軍団-太祖ヌルハチから摂政王ドルゴン へ-」(『内陸アジア史研究』6、00 年)、「大清帝国支配構造試論:八旗制 からみた」(平成16~18年度科学研究費補助金研究成果報告書、『近代世界 システム以前の諸地域システムと広域ネットワーク』)、鈴木氏の代表的研究と しては、「雍正帝による旗王統制と八旗改革-鑲紅旗旗王スヌの断罪事件とそ の意義-」(『史境』 4、00 年)、「旗王家の継承と新設-雍正朝の両紅旗を 例に-」(『東方学』0、004 年)などがある。 ⑤ 前掲・杉山清彦「八旗旗王制の成立」 頁。 ⑥ 連旗制や旗王・旗人間の主従関係の存在に対する批判的意見については、谷 井陽子「八旗制度再考(一)―連旗制論批判―」(『天理大学学報』6-、00 年)を参照。なお、本稿の性格上、ここでは谷井氏の見解について特に言及は しないが、前掲・杉山氏の研究で用いられている諸史料、特にイエズス会宣教 師の書簡などを見る限り、孟森氏や杉山氏の見解の方が妥当のように思われる。 ⑦ 『瀋陽状啓』癸未年、八月二十六日啓に、 (八月)十四日、諸王皆大衙門に会す。大王(ダイシャン)発言して曰く「虎口(ホ ーゲ)王は帝之長子にして、当に大統を承すべし云云。」と。 とある。 ⑧ 『世祖実録』巻二十二、順治二年十二月癸卯の条にあるドルゴンの言葉に、 昔国家に喪有りし時、予朝門に在りて、帳房中に坐し、英王(アジゲ)、予王(ド ド)、皆予の前に跪きて、尊位に即くを請う。 とあり、また巻六十三、順治九年三月癸巳の条には、 皇上(順治帝)即位の時、英王、予王、跪きて睿王に、当に大位に即くべしと勧む。 とあり、アジゲとドドはドルゴンの即位を推していたことがわかる。 ⑨ 『世祖実録』巻一、崇徳八年、八月丁丑の条に、 多羅郡王阿達礼、往きて和碩睿親王に謂いて曰く、「王大位を正さば、我当に 王に従うべし。」と。・・・固山貝子碩託、呉丹を遣わし和碩睿親王の所に至らせ、 内大臣図爾格、及び御前の侍衛等、皆我の謀に従う、王自立して君と為るべし、 と言う。 とある。なお、『瀋陽状啓』癸未年、八月二十六日啓にも同様の記述がある。 ⑩ 『世祖実録』巻四、順治元年四月戊午朔の条。 ⑪ 『世祖実録』巻三十七、順治五年三月己亥の条。 ⑫ 前掲・鴛淵一「清初に於ける清室内紛に関する研究」、および「清朝順治初世 の派閥的抗争に就いて」。阿南惟敬「八旗通志旗分志「鑲黄旗」考」(原載・『防 衛大学校紀要』、 年)、および「八旗通志満洲管旗大臣年表「鑲白旗」考」 (原載・『防衛大学校紀要』8、4 年)。なお、阿南氏の論文は、いずれも『清 初軍事史論考』(甲陽書房、80 年)所収。 ⑬ 『世祖実録』巻一、崇徳八年、八月丁丑の条。

(25)

 ⑭ 『瀋陽状啓』癸未年、八月二十六日啓に、 八王則ち、心其の幼を立つるを非とし、退出自りの後、病と称して出ず。 とある。 ⑮ 『世祖実録』巻一、崇徳八年、八月丁丑の条に、 多羅予郡王(ドド)曽て我(ホーゲ)に語りて曰く、「和碩鄭親王(ジルガラン)、 初め爾(ホーゲ)を立てて君と為すと議すも、王性柔に因りて、力衆に勝る能 はずして、議遂に寝む。其の時我亦曽て勧めて立つこと勿ら令む。今由り之を 思はば、殆だ失計なり。」と。 とあり、ドドがホーゲを立てなかったことを悔やみ、それをホーゲに洩らして いたことがわかる。 ⑯ 前掲・杉山清彦「清初八旗における最有力軍団」、0 頁。 ⑰ 『内国史院檔』崇徳八年檔、崇徳八年正月十三日の条。および『太宗実録』巻 六十、崇徳八年正月戊申の条。 ⑱ 後述するホーゲ擁立派のトゥルゲイとその兄弟は、元々はドルゴンが領有す る 鑲白旗の旗人であったが、太宗の崇徳四年にアジゲと悶着を起こして、鑲白 旗から鑲黄旗に移っている(『太宗実録』巻四十八、崇徳四年九月壬申の条)。 ⑲ 『太宗実録』巻六十三、崇徳七年十月丙寅の条に、   阿済格元妃の喪の時に値り、篇古(フィヤング Fiyanggū、鑲藍旗人でジルガ ランの弟)の帳内に在りて、歌舞して楽を作し、伊の帳内に在りて、復た弾絃 して戯を為す。 とある。 ⑳ この事件については、『旧満洲檔』天命五年檔、および岡田英弘氏の「清の太 宗嗣立の事情」(『山本博士還暦記念東洋史論叢』、山川出版社、 年)に詳 しい。 ㉑ 『愛新覚羅宗譜』丁冊、玉牒之末、40、8 頁。 ㉒ この事件について取り上げた研究としては、鴛淵一「鄭親王擬定阿布泰那吉 哈出罪奏に就いて」(『人文研究』6-、 年)がある。 ㉓ 前掲・岡田英弘「清の太宗嗣立の事情」。 ㉔ 前掲・杉山清彦「八旗旗王制の成立」。 ㉕ 『太宗実録』巻六十四、崇徳八年正月辛酉の条、および同巻六十五、崇徳八年 八月丙寅の条。 ㉖ 『太宗実録』巻六十二、崇徳七年八月癸卯の条。 ㉗ ドゥドゥへの抑制としては、『太宗実録』巻五十三、崇徳五年十二月丁未の条、 ドゥルフ兄弟に関しては、『太宗実録』巻六十三、崇徳七年七月丙寅の条を参照。 ㉘ 『愛新覚羅宗譜』乙冊、 頁。 ㉙ 前掲・杉山清彦「清初八旗における最有力軍団」。 ㉚ 前掲・杉山清彦「清初八旗における最有力軍団」、 頁。

(26)

6 ㉛ 『世祖実録』巻十四、順治二年二月甲子の条。なお、『続集』巻百三十二のド ゥルフの伝には、 (順治)二年二月、復た輔国公に封ぜられ、宗室に入る。   とある。 ㉜ 『世祖実録』巻二十、順治八年八月丁未の条。 ㉝ 『瀋陽状啓』癸未年、八月二十六日啓 ㉞ 増井寛也「海西フルン四国王位継承考-ヌルハチ・シュルガチ兄弟の確執に 寄せて-」(『立命館史学』、006 年)6、 頁。 ㉟ 前掲・張玉興「多爾袞擁立福臨考実」、、 頁。 ㊱ 拙稿「順治帝即位をめぐる黄旗旗人の動向について-バブハイ断罪事件を例 として-」(『立命館東洋史学』、006 年)、、80 頁。 ㊲ 『旧満洲檔』天聡九年九月二十五日の条。なお、訳文は神田信夫等訳の『旧満 洲檔 天聡九年』(Ⅰ・Ⅱ、東洋文庫、 年~  年)に従った(以下の 訳文も同様)。 ㊳ 『星源集慶』太祖諸子の項。 ㊴ 『初集』巻百五十四のイングルダイの伝に、 多羅饒餘貝勒(アバタイ)の女を娶るを以て、授けて多羅額駙(エフ、皇帝の 婿の意)と為す。 とある。 ㊵ 『愛新覚羅宗譜』丙冊のボロの項に、 順治十六年十月、曽て和碩睿親王に附するに因りて諡号及び碑を奪わる。   とある。 ㊶ 『太宗実録』巻五十三、崇徳五年十二月丁未の条に、 原告・・・傅喇塔(フラクタ)、葉什(イェシ)、石頼(シライ)・・・等、断出させ、 一牛彔(ニル)満洲人丁を帯し、又五十人を加え、往かせて和碩粛親王に随わ せしむ。 とある。 ㊷ 『初集』巻二百二十四のドゥンダリの伝に、 (崇徳)八年、太宗賓天す。敦達礼朝衣を服し哭踊し、匐伏して叩首し、死を 以て殉ぜんことを請う。諸王等允さず。・・・敦達礼遂に蒙古帳房内にて従容 として自経す。 とある。 ㊸ 『初集』巻二百三十八のダバイの伝に、 (順治)五年に至り王(ホーゲ)薨じ、達拝哭泣して哀を尽くし・・・即ち自 経して以て殉ず。 とある。 ㊹ 『国朝耆献類徴初編』巻四十二のサビガンの伝に、

(27)

  薩璧漢(サビガン)の族属、初め碩託の下に隷するも、是に至りて命を奉じ、 改めて饒餘貝勒阿巴泰に隷す。  とあり、また『初集』巻百六十六のコルコンの伝に、 初め饒餘貝勒の護衛に任ぜらる。 とある。 なお、これらアバタイ家属下の旗人達は、後述する順治六年の鑲白旗 と正藍旗の換旗後も、そのまま正藍旗に留まっている。ドルゴン家とは別の旗 王家に属する旗人に関しては、ドルゴンも恣意的に移動させることが出来なか ったということであり、このことは、旗王と旗人との間に排他的主従関係が存 在したことの傍証になるであろう。 ㊺ 『瀋陽状啓』癸未年、八月二十六日啓。 ㊻ 『世祖実録』巻三十七、順治五年三月己亥の条。 ㊼ 『世祖実録』巻五十六、順治八年四月丁巳の条では、オボイはこの盟約について、 若し朝廷宮殿の瓦色を換え、旗幟を変易すれば、我等即ち此に於いて死せん。 という内容であったとし、ホーゲを立てようとしたという内容は、レンセンギ の誣告としている。 ㊽ 前掲・拙稿「順治帝即位をめぐる黄旗旗人の動向について」、6 頁。 ㊾ 楠木賢道「天聡八年のチャハル部・華北遠征とマンジュ国の構造」(平成 4 年~平成  度科学研究費補助金研究成果報告書、『清朝における満・蒙・漢の 政治統合と文化変容』、006 年)、 頁。 ㊿ 『愛新覚羅宗譜』甲冊、 頁、および『星源集慶』太宗諸子の項。  楊珍『清朝皇位継承制度』(学苑出版社、00 年)、60 頁。  前掲・阿南惟敬「八旗通志満洲管旗大臣年表「鑲白旗」考」、464 頁。  前掲・拙稿「順治帝即位をめぐる黄旗旗人の動向について」、8 頁。  『旧満洲檔』天聡九年八月六日の条に、

Sure Han(太宗)は超品一等公 Yanggri という大臣の弟(正しくは従弟) Tantai を・・・Han の側近として用いていた。 とある。  例えば、『内国史院檔』崇徳三年五月十六日の条では、タジャンが汚職事件 に関与した際に、タンタイはこれを弾劾する側に回っており、順治三年正月 二十二日の条では、タンタイがタジャンを罵る場面も見られる。  『太宗実録』巻四十三 崇徳三年八月癸巳の条に、   固山額真譚泰、其の故兄の固山額真納穆泰(ナムタイ)の妻を告す。・・・上(太 宗)命ずるに納穆泰の妻、并びに女巫、皆正法とす。 とある。  『世祖実録』巻二十、順治八年八月丁未の条、および『内国史院檔』順治二年 八月二十八日の条には、ソニンが不敬発言などを口実に、処罰される記事が見

(28)

8 られる。  前掲・鴛淵一「清朝順治初世の派閥的抗争に就いて」、8 頁。  『世祖実録』巻六十三、順治九年三月癸巳の条にある順治帝の諭旨に、   朕(順治帝)初め即位し、睿王摂政の時、拝尹図、鞏阿岱、錫翰・・・朕に背 き睿王に迎合し、以て国政を乱す。 とある。  『太宗実録』巻二十六、天聡九年十二月辛巳の条に、   宗室拝尹図、鑲黄旗固山額真と為す。正藍旗固山額真覚羅色勒を降し、拝尹図 下の梅勒章京と為す。   とあり、この時に、セレが降格されて鑲黄旗に移ったことがわかる。なお『続集』 巻百三十六セレ伝にも同様の記事がある。  『世祖実録』巻二十三、順治三年正月の条に、また『内国史院檔』順治三年正 月十三日の条にも同様の記述がある。  『世祖実録』巻五十九、順治八年八月壬戌の条に、   護軍統領巴図魯侯鰲拝、列款して伊爾徳を訐く。一に上南苑に痘を避けし時、 擅に内直員の役を更番せ令む。一に私に守門の護軍の額数を減ず。一に鰲拝、 巴哈を嫉忌し、上に為して効力す。  とあり、イルデイがオボイを良く思っていなかったことが窺える。なお、『続集』 巻百四十八のイルデイ伝にも同様の記述がある。  『世祖実録』巻五十六、順治八年四月丁巳の条に、 睿王、冷僧機を以て安達(アンダ)と為し、厚く寵遇を加う。   とある。なおアンダについては、増井寛也「満洲〈アンダ〉anda 小考」(『立 命館東洋史学』8、00 年)参照。  『内国史院檔』順治二年八月二十八日の条によると、ソニンが弾劾された際に、 トゥライはソニンを告発したタンタイの言を支持し、また同条でアジゲが弾劾 された際には、オボイはアジゲに従った者として、タンタイとともに名が上が っている。  バイントゥ兄弟の母は、トゥライの父で、オボイの伯父であるフュンドン(費 英東 Fiongdon)の娘である。  『鑲黄旗鈕祜祿氏弘毅公家譜』(乾隆十八年初修、同三十年続修、東洋文庫所蔵)  前掲・鴛淵一「清朝順治初世の派閥的抗争に就いて」、8 頁。  『続集』巻百六十八、バハナ伝に、   部議するに、巴哈納の睿王に阿附し、私に白旗の兵丁に厚くして、給餉絶えず、 黄旗の兵丁は刻待し、屡屡発せざらんことを請い、應に論死して籍没すべし。   とある。  『愛新覚羅宗譜』丁冊、80 頁。これによると、ジルガランの夫人はエイド ゥの娘である。

(29)

  閻崇年「順治継位之謎新解」(『承徳民族師専学報』6 - 、006 年)、4 頁。  杜家驥『清皇族与国政関係研究』、4、46 頁。  『世祖実録』巻三十七、順治五年三月己亥の条に、 貝子(ベイセ)呑斉・・・共に鄭親王済爾哈朗の罪状を訐告す。   とある。  婚姻関係を持つバイントゥ兄弟とトゥライが最終的には別派となった理由は、 彼らが属する旗が右翼と左翼に分かれていたことが関係しているものと思われ る(八旗の内、鑲黄、正白、鑲白、正藍旗は左翼に、正黄、正紅、鑲紅、鑲藍 旗は右翼に分かれていた。これについては、『初集』巻二、旗分志二、八旗方位 を参照)。バイントゥの属する鑲黄旗は、ドルゴン兄弟の領旗である両白旗と同 じ左翼であった。同じ翼に属する旗の旗人は戦場や巻狩りで行動をともにする ことも多く、そこから派閥関係に影響が生じることは、鈴木真氏が雍正朝の鑲 紅旗の旗王スヌ(蘇努 Sunu)の例をもって指摘しているが(前掲・鈴木真「雍 正帝による旗王統制と八旗改革」、0、 頁)、バイントゥのドルゴン派接近の 一因にも、同じ左翼に属していたということがあり、同様にトゥライが最終的 にはドルゴン派とならなかったのは、彼の属旗である正黄旗は右翼であり、ド ルゴンとそれほど戦場での接触を持たなかったことが関係あるのかも知れない。  前掲・阿南惟敬「八旗通志満洲管旗大臣年表「鑲白旗」考」、464 頁。  『世祖実録』巻五十二、順治八年正月甲寅の条、および、前掲・杜家驥『清皇 族与国政関係研究』、8、8 頁。  前掲・姚念慈「多爾袞与皇権政治」、0 頁。  前掲・杜家驥『清皇族与国政関係研究』、8 頁。  前掲・楠木賢道「天聡八年のチャハル部・華北遠征とマンジュ国の構造」 頁、 および、前掲・杉山清彦「清初正藍旗考」8、 頁。 参考文献 阿南惟敬   80『清初軍事史論考』甲陽書房  磯部淳史   006「順治帝即位をめぐる黄旗旗人の動向について-バブ        ハイ断罪事件を例として-」『立命館東洋史学』 内田尚文   00「清朝康煕年間における内廷侍衛の形成-康煕帝親政        前後の政局をめぐって-」『歴史学研究』4  閻崇年    006「順治継位之謎新解」『承徳民族師専学報』6- 王思治    8「多爾袞摂政后之満洲貴族間的矛盾与冲突」『中国史研        究』4

参照

関連したドキュメント

学的方法と︑政治的体験と国家思考の関連から︑ディルタイ哲学への突破口を探し当てた︵二︶︒今や︑その次に︑

After that the United States warned Egypt, in cooperation with the Soviet Union, not to initiate hostility while hinting to Israel that she would not, unlike on the occasion of the

「権力は腐敗する傾向がある。絶対権力は必ず腐敗する。」という言葉は,絶対権力,独裁権力に対

強者と弱者として階級化されるジェンダーと民族問題について論じた。明治20年代の日本はアジア

[r]

第四。政治上の民本主義。自己が自己を統治することは、すべての人の権利である

79 人民委員会議政令「文学・出版総局の設立に関して」第 3 条、Инструкция Главлита его местным органам, I-7-г 1922.11.「グラヴリット本部より地方局への 訓示」第1条第 7 次、等。資料

[r]