知識論のためのノ―ト(
I
)
∗
飯田 隆
1985
年
「ひとが何かを知っているとはどういうことなのか」という問いは、基本 的な問いを問うことを事とする哲学においてさえ、きわめて基本的な問いで ある。われわれの時代において、この問いは、一方では、ひとが何かを知っ ているということが真であるための必要十分条件を求めるという形で問われ、 他方では、知の言明がどのような場合に適切であり、また、どのような場合 に不適切であるかということが、さまざまな言語的現象との関連で問われて 来た。だが、これら二通りの問いかけの方向がおたがいにどのような関係を もつものなのか、それらがたがいに相手を補足するものなのか、それとも、 両者のあいだには根本的な出発点の違いがあるのかは、一向に明らかではな い。この「ノ―ト」の主要な目標は、後者、すなわち、知の言明の適切性・不 適切性の探求は、前者、すなわち、ひとが何かを知っているということが真 であるための条件を求めるという形の探求に前もって先立たれていなければ ならないということを示すことにある。言い換えるならば、「知っていると言 明することはどういうことか」という問いへの答えを得るためには、われわ れは、「知っているとはどういうことか」という問いへの答えを必要とするの である。このように言うとき、われわれの主張は自明なもののように見える かも知れないが、断じてそうでないことは、知の言明の適切性・不適切性を 問題とする哲学者たちの多くがそうした言明許容性の条件を示すことによっ て知の分析へ至ろうという戦略をもっていると考えられることからも知られ よう。 私はまた、以下の考察を通じて、ある特定の概念についての哲学的分析の 中でそれと関連する言語的現象に対してどのような位置を与えるべきかとい う方法論的問題についても若干の見通しをつけたいと考えている。「観念」、 「概念」、「命題」といった存在者を無造作に措定することに対して哲学的良心 のとがめを覚える現代の哲学者にとって、言語的現象は恰好の代換物を与え てくれる。しかしながら、私にはそうした禁欲は不必要であるだけでなく、有 ∗この「ノ―ト」は、註 2 で挙げた拙論の続篇として最初書き出されたものであるが、「続 篇」と称するにはあまりにその方向を異にしてしまった感がある。しかしながら、いくつかの点 で、現在の「ノ―ト」は前論文を補足するものであると思いたい。また、ところどころで過度の vendlism( D.Dennett & K.Lambert (eds.), The Philosophical Lexicon (7th ed., 1978) の “vendle”の項を参照)に走る傾向があることを、前もってお詫びしておく。害であるとさえ思われる。哲学もまた理論的営みであり、十分な根拠がある 限り、理論的存在者を措定することにためらう必要はない。そうした理論的 存在者のひとつとして私がここで擁護したいと思うものは、「論理形式 logical form」という概念である。哲学的分析の直接の対象となるものは、決して、 われわれが現実に出会う文ではない。もちろん、現実の言語的現象は、哲学 的分析にとって、いわば「デ―タ」を与える。しかしながら、これらの「デ ―タ」の説明は、理論の形を取る他にはない。そして、こうした理論の不可 欠の要素として、私は、論理形式の存在を主張したいと思うのである。
「こと」と話者の前提
だが、まずは、おとなしく「デ―タ」である言語的現象を見ることから始 めよう。知っていることと知っていると言明することの区別は、くりかえし 指摘されて来た1 。もしも知っていると言明することへの着目から知の分析 が始まらなければならないとするならば、われわれは、そうした言明に典型 的に使われる語「知る」を含む発話を見ることから出発すべきであろう。ま た、そうした仮定を認めないとしても、語「知る」を知の分析の手掛かりと するならば、その語を含む発話を考察することから始める以外にないことは 明らかである。 ただし、ここで考察しようとするのは、「知る」の用例のうちのごく限定さ れた一部に過ぎない。それは、「名詞句+を+知っている」という形のものの うちで、「文+こと」といった、文から派生した名詞句を目的語にとるものに 限定される2 。この限定の理由は、この形の文が、伝統的な知の分析におい て中心的な役割を与えられて来たことによる。この形の文を使った発話につ いてのきわめて重要な指摘が、久野 によってなされている3 。久野は、「こ と」で終わる名詞節は、「その節が表す動作、状態、出来事が真であるという 話者の前提を含んで」おり、「知る」はそうした前提を含む動詞であると言う。 ここで使われている前提(presupposition)という概念については、多くの問 題があり4 、その点については後にわれわれも考察することになるが、当面 は上記のような特徴づけで十分である。 「こと」にこうした話者の前提が含まれていることは、久野の挙げている 次のような例を見れば一応うなづける。 1 次の二つを挙げておく。菅野盾樹「信じることと知ること」『哲学雑誌』766 号 (1979) 第 II 節、T・モラウェッツ(菅豊彦訳)『ウィトゲンシュタインと知』(1983、産業図書)第 4 章 2 拙論「『知る』は多義的か?」『哲学雑誌』770 号 (1983) 参照。 3 久野 『日本文法研究』(1973、大修館書店)第 17 章。4 言語学の中での presupposition の取扱の現状については、S.C.Levinson, Pragmatics
(1983, Cambridge U.P.) Ch.4が適切な見取図を与えてくれる。‘Presupposition’ という概 念自体へのきわめて説得力に富む攻撃としては、W.G.Lycan, Logical Form in Natural
(1)太郎は花子が犯人だと推定した。 (2)太郎は花子が犯人であることを推定した。 花子が犯人であるかどうかについて、われわれは、(2) の発話からは話者がそ れを真であると思っていることを知るが、(1) の発話からはどちらとも知るこ とができない。「こと」がもつこうした含みが「前提」と呼ばれて通常の「含 意 entailment 」から区別される理由は、(2) を否定5 して得られる文 (3)太郎は花子が犯人であることを推定しなかった。 の発話からも、(2) と同様に、話者が花子=犯人説を真と思っていることをわ れわれが知ることによる。 (1)・(2) に見られるような「と」と「こと」のあいだの対照は日本語の発 話の多くに見出すことができる。久野は、この二者の他にも、「ということ」 を挙げて、それが「と」と同じように働くとしている。たとえば、 (4)太郎は花子が犯人であるということを推定した。 では、話者は花子=犯人説に対して中立的である。こうした例は、「と」およ び「こと」にならぶ第三の場合と考えるよりはむしろ、「と」と「こと」との 相違から説明できるとする方がよいのではないかと思われる。つまり、「とい う」は、話者の断定を中立化する働きをもつと考えられる。 (5)花子が犯人だ。 (6)花子が犯人だという。 の二者を比較するとき、(6) は (5) の断定を中立化していると考えられる。こ こでの「いう」は引用を表し、それが「S +と」という形の補語をとること は、「こと」と「と」の対照から説明できる。さらに、「S +と+いう+こと」 という名詞句で、「こと」が話者の前提を含まないとする必要もない。たしか に、この名詞句を含む発話には、S が真であるという話者の前提は含まれて いないが、「S +と+いう」という文が真であるという話者の前提が含まれて いると言ってもいいであろう。その理由は、「という」がその前の文に対する 話者の態度を中立化する以上、「S +と+いう」を話者は常に真と見なすこと になるということにある。 しかしながら、「こと」がいかなる文脈においても常にこうした話者の前提 を含んでいるわけではないことは、久野も注意している。久野の挙げている 例は、次のものである。 (7)私は泳ぐことができる。 だが、むしろ、この文の否定形を考えるほうがよりはっきりするであろう。 5 ここでの「否定」の概念に問題があることについては、後述。
(8)私は泳ぐことができない。 明らかに、ここには誰かが泳ぐということが真であるといった話者の前提は 含まれていない。次の例も同様である。 (9)彼女はお金に不自由したことがない。 だが、こうした例に現れる「こと」で終わる名詞節がどれも文から派生し たものではないということに注目すべきではないだろうか。(7)・(8) での「こ と」は、動詞から名詞句を作るのに用いられており、(9) での「こと」も、「彼 女がお金に不自由した」といった文に続くと考えるよりは、「お金に不自由し た」という述節に続くと考える方が妥当のように思われる。(7)–(9) において 話者の前提が含まれないのは、そもそもそこに現れる「こと」で終わる名詞句 が文から派生したものではないことから、真と見なすかどうかという問題が 生じない故であろう。それは、たとえば、「大きいことはよいことだ」といっ た文について話者の前提を云々することが的外れであるのと同様であろう。 こうした例の他に、より微妙なケ―スが存在する。ここでは、二種類のケ ―スを挙げておく。第一のケ―スは、「望む」、「祈る」といった動詞の目的語 となる場合である。 (10)私はかれらが別れることを望まない。 (11)試験が無事に終わることを祈っています。 このどちらの例においても、「こと」がその前に来る文が真であるとする話者 の前提を含むとは考えられない。久野は、別の脈絡で、 (12)花子は太郎が来ることを期待していた。 という例文を挙げているが、ここでの「こと」に話者の前提が含まれている かどうかを問題にはしていない。しかし、私には、「期待する」は「望む」や 「祈る」と同種の動詞であって、(12) での「こと」には話者の前提は含まれて いないと思える。そのことは、次のようにこの例を拡張してみることで明ら かになると思う。 (13)花子は太郎が来ることを期待していたが、それは無駄だった。 第二のケ―スは、前提が問題となるときに常に議論の的となることである 6が、複合文のなかでの「こと」である。次の二つの文を比較されたい。 (14)花子は、太郎が来たことを知っている。 (15)花子は、太郎が来たことを知っていると言っている。
(14)には明らかに「太郎が来た」を真だとする話者の前提が含まれている。 しかし、(15) についてはどうであろうか。私には、(15) にはそうした前提が 含まれていないように思える。だが、私とは異なる判断も当然可能であろう。 このように、「S +こと」を含む発話が常に、S が真であるという話者の前 提を含んでいるわけではない。しかしながら、「S +こと」が「知る」の目的 語として使われているときには、こうした話者の前提の存在は否定できない もののように思われる。(ただし、(15) のようなコンテキストについては疑 問が残る。また、「かれは手加減することを知らない」といった文に現れる 「こと」で終わる名詞節は、上で述べたように、文から派生したものとは思 われないので、「S +こと」の形の目的節を取るものとは見なさない。)次の (16)–(19)のいずれが発話された場合でも、われわれは、「太郎が来た」を話 者が真と見なしていることを知る。 (16)花子は、太郎が来たことを知っている。 (= (14)) (17)花子は、太郎が来たことを知らない。 (18)太郎が来たことを花子が知ったならば、. . . 。 (19)花子は、太郎が来たことを知るだろう。 ところで、先に進む前に、ひとつ厄介な問題に触れておかなくてはならな い。「と」と「こと」のあいだの対照は、以前に別の場所で予告したように7 、 いわゆる「命題的態度 propositional attitude 」を表す日本語の動詞を分類す る際にきわめて示唆的である。目的節として、「S +こと+を」という形のも ののみが可能であるもの、「S +と」という形のもののみが可能であるもの、 および、双方ともが可能であるものという具合に、こうした動詞を三種に分 類することができる。 (A) 「S +こと+を」という形の目的節のみをとるもの 学ぶ 証明する 立証する 忘れる 思い出す 恥じる 無視する 考慮する (B) 「S +と」という形の目的節のみをとるもの 思う 考える 感じる 言う 早合点する 勘違いする (C) 「S +こと+を」および「S +と」の双方が目的節として可 能なもの 7 前掲拙論の註 (13) において。
推定する 仮定する 主張する 論じる 教える 信じる 嘆く 後悔する 反省する 望む 願う 祈る 期待する 心配する 知る この表を見るとき、(A) と (B) に現れる動詞のあいだの相違は歴然としてい る。(A) に属する動詞は、その目的節に現れる文 S が真であると話者が見なす 必要があるのに対して、(B) に属する動詞に関しては、「早合点する」や「勘 違いする」の場合のように、むしろ S が偽であると話者が見なす必要がある か、あるいは、そこに属するその他の動詞の場合のように、S の真偽に対し て話者はコミットしていないことを示す必要があるものである。これに対し て、(C) に属する動詞は、より大きな多様性を示している。「推定する」以下 「反省する」までの動詞は、例文 (1)・(2) ですでに見たように「S +こと+を」 の形の目的節をとる場合と「S +と」の形の目的節をとる場合とでの違いは はっきりしている。さらに、もうひとつ例を挙げておこう。 (20)太郎は花子に親切でなかったことを後悔している。 (21)太郎は花子に親切でなかったと後悔している。 「望む」から「心配する」までの動詞については、先に若干論じたように、「S +こと+を」の形の目的節をとる場合でも、S が真であるとする話者の前提 を含んでいるとは思えない。そして、問題の「知る」であるが、これについ ては、「望む」などの動詞とは逆のことが成り立つように思える。(ただし、 久野も言うように、「S +と」という形の目的節が許されるのはある特定のコ ンテキストのみである。その故に、次の例文は、正確には、「と+知る」とい う形のものではない。) (22)花子は太郎が帰って来たとは知らない。 (23)花子は太郎が帰って来たことは知らない。 これらと、次とを比較されたい。 (24)花子は太郎が帰って来たとは信じていない。 (25)花子は太郎が帰って来たことは信じていない。 (24)と (25) では、「太郎が帰って来た」を話者が真と見なしているかどうか をわれわれがその発話から知りうるかどうかについて、(1) と (2)、あるいは、 (20)と (21) に見られるような相違があることは明らかである。これに対し て、(22) と (23) ではどうであろうか。(23) に、(25) におけるような話者の前 提が含まれていることは明らかであろう。問題は (22) であるが、私にはこれ にも (23) と同様な話者の前提が含まれていると思われる。(22) 以外にも、
(26)私は花子が耳が不自由だとそのとき知った8。 (27)かれがパ―ティに来ると知っていたならば、ぼくも出席した のに9。 のどちらにおいても、「と」は、「ことを」を使った場合と同様の話者の前提 を含んでいると思われる。つまり、「望む」や「祈る」といった動詞が、「こ と」をとろうが「と」をとろうが、話者の前提を含んでいないのとは反対に、 「知る」は、「こと」をとろうが「と」をとろうが話者の前提を含んでいる(た だし、今は、(15) のような場合の問題は未解決としておくしかないが)と考 えられる。 この辺で、このいくぶん長過ぎた感もある文法的考察を要約しておくべき であろう。 (i) 「S +こと」という名詞節を含む発話は、多くの場合、S が 真であるという話者の前提を含む。これに対して、「S +と」 を含む発話には、そうした前提が含まれていないことが通例 である。 (ii) (i)を用いて、命題的態度を表す動詞を分類することができる。 (iii) しかし、「S +こと」や「S +と」を含む発話が、S が真であ るという話者の前提を含むかどうかは、後続する動詞によっ て決定される場合もある。「望む」や「祈る」といった動詞が こうした節に続く発話には、話者の前提は含まれていない。 これに対して、「知る」が続く場合には、「S +こと」、「S + と」のどちらを目的節にとっても、話者の前提が含まれてい ることには変わりがないと考えられる。
一人称現在形の「知る」を含む言明の特異性
次には、こうした文法的検討が、知の言明の分析にどう役立つかを見るべ きであろう。ここでまず取り上げようと思うのは、「知る」が人称の違いに よって働きを異にするという説である10。そうした説によるならば、一人称 現在形の「知る」を用いた言明は、話者による知の主張 (claim) にかかわる のに対して、それ以外(一人称過去形・二人称・三人称)の形の「知る」を 用いた言明はむしろ知の主張を裏書 (endorse) したり是認 (allow) することに かかわるという11。この説の是非を直接論ずる前に、一人称現在形(そして 8 久野の挙げている例。ただし、表現を一ヵ所NHK風に改変した。 9 前掲拙論中で挙げた例。10A.R.White, “On claiming to know” The Philosophical Review 66 (1957) 180–192.
(菅野、前掲論文、pp.109–112. をも参照。)
未来形)の「知る」を含む言明はたしかに他の形の「知る」を含む言明とは 異なる振舞をすることをまず観察しておく必要がある。次の (28)–(33) を見 ていただきたい。(「*」は、それが付された文が非文法的であることを示すの に用いられる。より軽い非文法性を示すのには、「?」を用いる。) (28)私は太郎が帰って来たことを知っている。 (29) *私は太郎が帰って来たことを知らない。 (30) *私は太郎が帰って来たことを知るだろう。 (31)花子は太郎が帰って来たことを知っている。 (32)花子は太郎が帰って来たことを知らない。 (33)花子は太郎が帰って来たことを知るだろう。 (29)と (30) がなぜ非文法的であるのかは、「知る」の目的節中の「こと」が 話者の前提を含むということから説明できるだろうと考えるのは当然である。 まず、次のような説明を試みてみよう。(28)–(33) のいずれにおいても、話者 は「太郎が帰って来た」が真であることを前提している。ところが、(29) は、 その前提と反する主張をしている。また、(30) の非文法性は、「知るだろう」 が「今は知らない」を含意することから (29) の非文法性に還元できる。これ に対して、(32) および (33) が文法的であるのは、(29)・(30) におけるのとは 違って、これらの言明の主語が話者とは一致しないことによる。 しかし、この説明にはまだ不明確な点がいくつかある。第一に、「前提と反 する主張」と言うときの「反する」の正確な意味は何か。これを明らかにす るためには、第二に、「話者が『太郎が帰って来た』が真であることを前提し ている」の中味がより明確にされる必要がある。 「S +こと」を含む発話で、話者が S が真であることを前提しているとは どういうことなのか。話者が S が真であると思っていること、より簡単に、 話者が S だと思っている(あるいは、S だと信じている)ということだろう か。言い換えるならば、話者のもっている思いあるいは信念 (belief) の組の 中に S が属している、ということだろうか。こうした特徴づけは、次の (34)・ (35)の非文法性(ただし、(34) の非文法性の度合いは (35) にくらべると低 い)を説明するには十分である。 (34) ?私は太郎が帰って来たことを信じていない12。 (35) *私は太郎が帰って来たことを信じるだろう。 だが、この特徴づけは、(29) の非文法性を説明するには不十分であると思わ れる。なぜならば、(29) における話者の前提がこうしたものにとどまるなら ば、それは、 12この例文は問題なく文法的であると言われるかも知れない。だが、これが文法的に何ら問題 なしとされるコンテキストは、「知ってはいたけれども信じられなかった」といった発言が示す ものと同種のものであるように思われる。
(36)私は太郎が帰って来たと信じているが、知っているとは言え ない。 と同じ内容をもつ言明のはずで、(29) がなぜ非文法的と感じられるのかを説 明できないであろう。また、次の二つを比較されたい。 (37)私は太郎が帰って来たと信じている。 (38)私は太郎が帰って来たことを信じている。 もしも、「S +こと」に含まれる話者の前提が、単に S が話者の信念の一部で あるということならば、(37) と (38) とには単なるシンタクティカルな相違し かないことになるだろうが、私にはそうは思えない。 したがって、話者の前提の特徴づけはより強い条件を含むものでなくては ならないと思われる。私が提出しようと思うのは、「S +こと」を含む発話に 含まれる話者の前提とは、話者が S を知っていると思っていることであると いう仮説である。言い換えるならば、話者の前提とは、たしかに話者の思い (信念)であるが、それは、知の思い(信念)なのである。この仮説が、これ までに言及された言語的現象をどう説明するかを見てみよう。 まず、この仮説が (37) と (38) のあいだの相違を説明するのに役立つこと は明らかであろう。(37) には信念の表明だけがあるのに対して、(38) の発話 からは、その聞き手は話者がそこで表明されている命題を知っていると思っ ている(信じている)ことを推測できる。(29) が非文法的と感じられること の説明は次のようになる((30) の非文法性が (29) のそれに還元されること は認めてよいと思われる)。(29) における「こと」の出現から、(29) の発話 の聞き手は、話者が「太郎が帰って来たことを知っていると思っている」と いうことを推測することができる。ところが、(29) 全体は、話者が「太郎が 帰って来た」を知ってはいないということを表明しようとしているのである から、聞き手はこれから、話者が「太郎が帰って来た」を知らないと思ってい ると推論できる。そして、聞き手の得ることのできる二つの結論は論理的に 矛盾するわけではないが、話者が明らかに矛盾する二つの信念を同時にもっ ているという結論に導くのである。たしかに、ひとがたがいに矛盾する信念 を同時にもつということは、別に稀なことではない。しかし、(29) の発話か ら聞き手が行うような推論は、話者にとってもすぐに再構成できるものなの であるから、自分がたがいに矛盾する信念を同時にもっているという結論に 直ちに導くような (29) を発話することはきわめて奇異なことと感じられるの である。 今述べたような聞き手の推論は、回りくどく、かつ、きわめて複雑なもの のように見えるかも知れないが、実際はそうではない。若干の記号法を用い て上の推論を一般化してみればそのことがもっとよく見て取れるであろう。 いま、話者が命題 p を知っているということを「Kp」、話者が p を信じてい るということを「Bp」で表そう。
(39) *私は+ S +ことを知らない。 で「S」の表す命題を p とする。「こと」の出現から聞き手が推測することは、 (40) B(Kp) と表すことができる。(39) 全体は、 (41)¬Kp を表明しようとしており、話者がこの表明をなそうとしていることから聞き 手が推論することは、 (42) B(¬Kp) である。(話者がその発話において表明していることがらは、特別な理由(た とえば、話者が嘘をついているといった)がない限り、話者の信じているこ とがらであると見なしてよいという原則は、われわれの言語使用の基礎をな すものである。)(40) と (42) とは合わせて、話者に「Kp」と「¬Kp」という 明らかに矛盾する信念の組を帰属させることになる。こうした推論を話者自 身が行えないと考える理由はない(これぐらいの推論は誰でも無意識のうち に(?)やっているはずである)。したがって、(29)(もっと一般的に (39) の ような形の文)を日本語の話し手が使うことはないと思われるのであり、そ れが (38) の形の文が非文法的であると感じられることの理由である。 (「S +こと」に含まれる話者の前提の不十分とされた特徴づけは、(40) の 代わりに、「Bp」を聞き手に推測させることを許すだけである。これからは、 上のような推論を組み立てることはできない。) 一人称現在形(および未来形)の「知る」と他の形の「知る」との相違を はっきりさせるためには、われわれの簡単な記号法をほんの少しだけ拡張す ればよい。「K」および「B」を、命題を変項として取る一項述語としてでは なく、ひと・命題・時点の三者のあいだの関係を表す三項述語として考えよ う。そうすると、「Kapt」は、「ひと a が命題 p を時点 t において知っている」 を表し、「Bapt」は、「ひと a が命題 p を時点 t において信じている」を表す ことになる。 三人称の「知る」を用いた (32) が、一人称の「知る」を用いた (29) とは 違って問題を生じさせないのは、次の理由による。一般的に、 (43)かれ(彼女、かれら)は+ S +ことを知らない。 という形の文を用いた発話の話者を a、この文の主語がその発話の場面にお いて指すひとを b、「S」の表す命題を p とする(時点は、ここでは一定と考 えてよいので、わざわざ明示する必要はない)。(43) での「こと」の出現か ら、その聞き手は、
(44) Ba(Kap) を推測する。(43) 全体が表明していることは、 (45)¬Kbp であり、聞き手は、このことから話者について、 (46) Ba(¬Kbp) と結論できる。(44) と (46) に現れる命題「Kap」と「¬Kbp」とは、何ら矛 盾するものではない。((39) の場合には、a = b が成り立つことから、これら はたがいに矛盾するものとなったのである。) 一人称過去形での「知る」についても、(29) におけるような非文法性が生 じないことの理由は今や明らかであろう。念のため、この練習問題もやって おくことにしよう。 (47)私は+ S +ことを知らなかった。 で、発話の場面において話者と (47) の主語の指すものとは一致する(「私」 の意味から!)から、ここで考慮すべきは時点である。(47) が発話された時 点を t、(47) の過去時制が指している時点を t′ (t′ < t)とする。(47) での 「こと」の出現から、その聞き手は、 (48) B(Kpt)t を推測する。(47) 全体が表明していることは、 (49)¬Kpt′ であり、聞き手は、このことから話者について、 (50) B(¬Kpt′)t と結論できる。(48) と (50) に現れる命題「Kpt」と「¬Kpt′」とは、何ら矛 盾するものではない。((39) の場合には、t = t′が成り立つことから、これら はたがいに矛盾するものとなったのである。) ところで、これら二つの練習問題は、同時に、一人称過去形あるいは二人 称・三人称の「知る」を用いた言明が、なぜ知の主張を裏書したり是認した りすることにかかわるのかということをも教えてくれる。 (51)かれ(彼女、かれら)は+ S +ことを知っている。
は、話者が S の真偽をどう考えるかとは独立に、かれ(彼女、かれら)に何 か S の知といった状態を帰属させているのではない。(51) の形の文を用いた 発話は、話者が自らもっている S の知の思いが、かれ(彼女、かれら)にも 共有されていることを表明しているのである13 。 その意味で、(51) の発話 は、「裏書」であり「是認」なのである。それに対して、(43) の形の文を発話 することは、かれ(彼女、かれら)が話者のもつ S の知の思いを共有してい ないことを表明しており、「非難」というのは強すぎるとしても、話者の側か らは「欠陥」と思える事態を表しているのである14 。同様に、 (52)私は+ S +ことを知っていた。 は、現在の話者と過去の話者とのあいだの S の知の思いの共有を表明してお り、(47) はその欠如を表明している。 では、一人称現在形の「知る」を用いた言明についてはどうであろうか。 まず、菅野も指摘しているように15、この場合には、裏書とか是認といった ことは考えにくい。話者が、自分のもっている知の思いを自分自身と「共有」 していることをもう一度確認するなどということは、まったく意味をなさな い。また、一人称現在形での「知る」が「S +こと」という目的節を取る場 合には、その否定形が使われうる場所がないことが示すように、裏書や是認 を拒否する可能性のないところでは、裏書や是認ということ自体がそもそも 意味を失うであろう。 一人称現在形の「知る」は、また、「こと」に含まれる話者の前提について のわれわれの仮説に対しても困難を提起するように見える。 (53)私は+ S +ことを知っている。 は、 (54)私は+ S +ことを信じている。 とどう違うのであろうか。もしも「S +こと」に含まれる話者の前提の実質 が、話者が S の知の思いをもっているということであるとしたわれわれの仮 13ここでの「知の思いの共有」という言い方は、いくぶん不正確である。むしろ、次のように 言い換えよう。話者は、自分が S の知をもっていると思っている。それは、(51) に含まれる話 者の前提である。そして、(51) の発話によって表明されていることは、S の知が、かれ(彼女、 かれら)にも所属しているということである。(かれ(彼女、かれら)は、必ずしも S の知の思 いをもっているとは限らないであろう。少なくとも、それが言えるためには、知が知の思いを含 意するということの論証を必要とする。)つまり、(51) 全体がもつ含みは、話者が自分が所有し ていると思っている S の知が、かれ(彼女、かれら)がもつと話者が思っている S の知と呼応 しあうということになる。こうした事態を指して、「知の思いの共有」と呼ぶことは許されるの ではないかと思われる。 14念のために付け加えておくが、ここで「是認」と言い「欠陥」と言うのは、何か倫理的な意 味での「よい・わるい」といった価値判断を伴うものではない。たとえば、当然知っていてはい けないことを知っている人物について、われわれは、「あいつは、あんなことを知っている」と、 何らか倫理的な(?)意味での非難をこめて言うこともあろう。ここでの「是認」や「欠陥」に は、もちろん、そうした含みはない。 15菅野、前掲論文、p.111。
説が正しいならば、(53) と (54) とのあいだにはほとんど違いはないことに ならないだろうか16 。つまり、(53) と (54) がともに、話者の前提として S の知の思いを含むのであるならば、(53) と (54) との違いは、(54) では話者 の前提として聞き手が推測できる S の知の思いを、(53) ではもう一度明示的 に表明しているだけということにならないだろうか。(われわれの「記号法」 にもう一度舞い戻るならば、こうした疑惑は次のように表現できよう。一方 で、(53) の発話から、聞き手は「B(Kp)」を推測し、(53) が明示的に表明し ている「Kp」から、話者の前提と同じ「B(Kp)」をもう一度引き出すことに なる。他方、(54) の発話から、聞き手は、(53) の場合と同様に「B(Kp)」を 推測し、(54) が明示的に表明している「Bp」から、「B(Bp)」を引き出すが、 「Kp」が「Bp」を含意するとすれば(ここには問題がないわけではないが)、 聞き手が (54) から得る情報は「B(Kp)」に含まれていることになり、結局、 聞き手が (54) から得る情報は、(53) から得られるものと同じということに なってしまう。) まず、第一の問題を解決するためには、一人称現在形の「知る」は、やは り、その他の形の「知る」とは異なる働きをすることを認めざるをえないと 思われる。(ただし、「知る」が、こうした人称の違いによって意味を異にす るわけではない。この点については、後述。)そして、これを認めることは、 われわれの仮説にとっての困難をも自然に解消することになる。 ここでわれわれが援用しようと思うのは、(予想にたがわず、あるいは、意 外にも?)オ―スティンの「know」をめぐる有名な議論17 に含まれている論 点である。かれによれば、「I know」と言明することは、他人に対して請け合 うことであり、自分の言明の責任を引き受ける用意があることを示すことで ある。オ―スティンのこの論点は、記述と行為との対照というより遠大なも くろみを背景としてもつが、それとは独立にその正しさを認めてよいと思わ れる。きわめてエレガンスに欠けることになるのは承知のうえで、このオ― スティンの洞察をわれわれの言葉で言い直すならば、次のようになろう。 一人称現在形(および未来形)以外の形の「知る」を用いた発話には、話 者の知の思いが話者の前提として含まれている。しかし、そうした発話にお いて、話者は、その思い(知の思い)を正当化する用意があることを表明し ているわけではない。(このことは、(54) の形の文の発話についても言える。) そうした知の思いの正当化を行う用意があることの明示的な表明が、一人称 現在形の「知る」を含む発話なのである。ここに、一人称現在形の「知る」を 含む言明の特異性がある。 一人称現在形の「知る」を含む発話のもつこうした働きは、また、そうした 発話での知の否定が、なぜ、特別な形を取るのかをも説明する。すでに、十 分過ぎるほど説明したように、一人称現在形での知の否定には、「S +こと」
16Cf. White, op. cit ., p.186.
17J.L.Austin, “Other minds” in Philosophical Papers ( 2nd ed., 1970, Oxford U.P.)
という形の目的節を用いることはできない。一人称現在形での知の否定は、 次のどちらかの形を取ると思われる。第一のものは、他人が(多くの場合、 「S +こと」という形の表現を用いて)知の思いを表明するのに対して、「そ んなことは知らない」と答えるような場合である。この場合に、知の思いは 他人のものであり、「そんなこと」という表現は、他人から借りてこられたと いう意味で、いわば「引用符つき」であると言ってよい。第二のものは、 (55)私は太郎が帰って来たことを知っているとは言えない。 といった例に見られるように、自分がもっている知の思い(「こと」の出現!) を正当化する用意がないことを表明する場合である。ここで、「知っていると は言えない」を「知らない」と言い換えることができないことが示すように、 一人称現在形での知の否定は、一人称現在形での知の肯定がもたらす責任を 引き受けないことを明示的に表現するという形を取らざるをえないのである。 しかしながら、一人称現在形の「知る」を含む言明のこうした特異性は、 それを他の形の「知る」を含む言明から切り離すことにはならない。重要な ことは、次の点である。すなわち、一人称現在形以外の形の「知る」を含む 言明に話者の前提として含まれている知の思いに対して正当化が要求される ときに登場して来なければならないのは、一人称現在形の「知る」を含む言 明なのである。こうした意味で、一人称現在形の「知る」を含む言明は、「知 る」を含むさまざまな言明のなかでも一種特権的な地位をもつことになるの であるが、人称の違いにかかわらず、「知る」を含むさまざまな言明をたがい に結び付けているものは、話者のもつ知の思いなのである18。
知識と真理
伝統的な知の分析の対象は、もっぱら「命題的知識」とよばれるものに限 られてきた。そして、伝統的分析の目標は、「ひと a が命題 p を知っている のは. . . ときかつそのときに限る」の「. . . 」の部分を充填するような条件を 求めることにある。ここで、現代の哲学者の多くは、この目標を次のように 言い換えたいという誘惑にかられる(そして、多くの場合、その誘惑に屈す る)。すなわち、 (56)「文『a は p を知っている』が真であるのは . . . ときかつそ のときに限る」の「. . . 」の部分を充填するような条件を求める こと。 18菅野(前掲論文、p.112)は、人称を異にする知の言明のあいだの「類同性を保持する」も のは、「知の言挙げ」であると論じているが、これが、一人称現在形の「知る」を含む言明の「特 権性」を指すものであるならば、私も賛成である。しかしながら、「人称によらず『知る』の作 る文脈が知の言挙げを表出する」といった箇所から推測するに、氏の主張は、私のものとは相違 するように思われる。私は、むしろ、「人称によらず『知る』の作る文脈は話者の知の思いを含 む」と主張したい。しかしながら、この一見無害に見える言い換えは、多くの厄介な問題にわれ われを巻込むことになる。こうした「意味論的上昇 semantic ascent」(クワ イン)、あるいは、「material mode から formal mode への転換」(カルナッ プ)は、現実の言語的現象の精査を言語的分析の出発点とする哲学者の手に かかるとき、いかに多くのもともと予期されていなかった問題を引き起こす ことになるかを記述すること、それがまず本節の課題である。 (56)のような形で分析の目標が設定されるとき、そこでの分析の対象とな る文は、三人称の「知る」を使った文であり、また、そうした文における「知 る」の目的語は、典型的には、「S +こと」といった名詞節である。つまり、 分析の対象は、「a +は+ S +ことを知っている」という形の文であり、ここ で「a」は、ひとを指す語句(固有名、記述名、代名詞など)であり、「S」は 文である。現実の言語使用において出会われる文を分析の対象とする限り、 そうした文の真偽は発話の場面に依存すると考えざるをえない。だが、発話 の場面において文の真偽を考察するという方針を取るとき、知の伝統的分析 中のもっとも異論の余地がないと思われる要素ですら、疑惑の眼を向けられ ることになる。 「命題的知識」とよばれる種類の知においては、知られていることがらは 真でなくてはならない。これは、すべての伝統的な知の分析に共通するもの であり、ゲティア以後の今日においても、大勢において19 そのことに変わり はない。伝統的分析のこの要素を「formal mode」で言い換えようとするな らば、それは、文「a +は+ S +ことを知っている」は文「S」を含意すると いう、文のあいだの論理的関係として表現されることになる。ここでの「含 意」は、ふつう、「論理的含意 entailment 」と考えられている。論理的含意 の特徴のひとつは、それが正しいときにはその対偶も正しいことである。と ころが、これを現実に出会われる文に適用しようとするとき、われわれは困 難に遭遇する。 二つ、例を挙げよう。 (i) まず、次の文が発話されたとする。 (57)花子は太郎が帰って来たことを知らない。 (= (32)) これに続けて、(57) の発話者が、次の三つのうちのいずれかを発話し たとする。 (58)なぜなら、彼女はそんなことを思ってもいないから。 (59)なぜなら、彼女はちゃんとした証拠をもっているわけで はないから。 (60)なぜなら、太郎は帰って来ていないから。
19少数派については、次を参照。 R.K.Shope, The Analysis of Knowing (1983,Princeton
(58)・(59) に関しては、それが (57) に続けて言われたからといって別 段奇異ではない。むしろ、自然である。それに対して、(60) が、(57) に 続けて、しかも (57) の発話者と同じ発話者によって言われるとき、そ れはきわめて奇異である。S の知が S の真を含意するならば、その対偶 を取ることによって、S の偽は S の知の否定を含意することになる。し たがって、(57) のような知の否定の理由として、知られているとされ ていることが偽であることを申し立てるのは、何ら問題がないはずであ る。それにもかかわらず、(57) に続けて (60) を言うことは奇妙である。 (ii) われわれは、ひとつ新しいことを知るたびに、同時にひとつ新しいこと を、われわれが知らないこととして認めなくてはならない(知の量と無 知の量とは常に相等しい20 )ということが、次のようにして「論証」 できる。 たとえば、花子が、 (61)月はチ―ズからできていない。 ということを知ったとしよう。そうすると、「月はチ―ズからできてい る」は偽であるから、われわれは次のように結論してよいであろう。 (62)花子は月がチ―ズからできていることを知らない。 この推論は、容易に一般化できる。つまり、花子の知の量が増すごと に、彼女の無知の量も同じだけ増すのである。 これらの例を奇異なものとしている原因が何であるかは、ほとんど言うま でもあるまい。それは、「S +ことを知っている」に話者の前提として含まれ ている、話者のもつ S の知の思いに他ならない。(i) で、(60) が (57) に続け て言われることが奇異と感じられるのは、(60) の話者と (57) の話者とが同一 のときに限られるのである。同様に、(ii) の「論証」で奇妙なのは、(61) か ら (62) への移行というよりも、(61) が真であることをわれわれが知っている ときに、(62) を言うことが奇妙であることによる。 だが、こうした例はたしかに奇妙であるけれども、別に知の伝統的分析と反 するものではないと主張されるだろう。(最終的には、私もそう主張したいの 20せめてこう結論したいのは山々であるが、事態はもっと悲観的である。次の三つの「事実」 を使う。(ただし、(a) においては、二値性の仮定をおくものとする。) (a) 真な命題と偽な命題とは同数だけある。(いかなる命題に対しても、その否定 命題が一義的に存在することから。) (b) 命題が真であることは、その命題の知を含意しない。(われわれは全知では ない。) (c) 命題が偽であることは、その命題の無知(不知?)を含意する。(命題の知は その命題の真を含意することの対偶。) この三つから得られる結論は、「知の量が無知の量にまさることはありえない」であろう。
であるが、当面は問題をもう少し紛糾させたいのである。)「a +は+ S +こと を知っている」という形の文が真であるためには、「S」が真でなければならな いということを疑う理由が、こうした例から出て来るわけではない。問題は、 文「S」が偽であるときに、文「a +は+ S +ことを知らない」が真であると言 うことにある。ここで問題を引き起こしているのが、「話者の前提」であるこ とからも推察されるように、こうした問題は意味論(semantics)というより はむしろ語用論(pragmatics)の領分であるように見える。しかしながら、語 用論の混沌とした現状を見るとき、多くの「形式化好きな formally-minded」 哲学者が、こうした問題を語用論というリンボに追いやることを潔しとせず、 有力なパラダイムの確立している(少なくとも哲学においては)意味論のな かで処理できないかと考えることは、ある程度理解できる。意味論の枠内で この問題を処理しようとするときには、二つの方向が考えられる。ひとつは、 「前提 presupposition」を、含意とは異なる種類の意味論的関係と考える方向 であり、もうひとつは、「a +は+ S +ことを知っている」の否定に二種を区 別しようとする方向である。以下、この二つを順次見て行くことにしよう。 よく知られているように、含意関係とは異なる前提関係が哲学の議論に登 場したのは、半世紀近くも君臨していた哲学的分析のパラダイム(ラッセル の記述の理論)を引きずりおろそうとしたストロ―ソンの 1950 年の論文21 においてである。ストロ―ソンにおいては、前提が問題となるのは、文に対 してではなく、ある特定の発話に対してであった。したがって、そこでは、前 提関係は、文と文とのあいだの意味論的関係ではなかった。意味論的関係と しての前提関係は、むしろ、ストロ―ソンの論文よりもずっと後に、ファン・ フラ―センによって、「supervaluation」という形式的装置とともに導入され た22 と言ってよい。 文のあいだの意味論的関係としての前提関係は、次のように特徴づけられ る23 。 (63) Aは B を前提する ⇔ A が真ならば B は真であり、 かつ、 ¬A が真であるときも B は真である。 この定義からのひとつの帰結は、前提関係については、含意関係において成 り立つような modus tollens (64) A→ B かつ ¬B ならば ¬A が成り立たないことである。A が B を前提しており、B が偽である(¬B が 真である)ときには、A は、偽となるのではなく、真でも偽でもないという
21P.F.Strawson, “On referring” in Logico-Linguistic Papers (1971, Methuen) pp.1–27. 22B.van Fraassen, “Singular terms, truth value gaps and free logic” The Journal of Philosophy 63 (1966) 481–495 ; “Presupposition, implication, and self-reference” The Journal of Philosophy 65 (1968) 136–152.
意味で真理値を欠く(truth value gap)のである。 われわれの問題への応用は明らかであろう。「a +は+ S +ことを知ってい る」という形の文も、また、その「否定」と考えられる「a +は+ S +こと を知らない」という形の文も、S が真であることを前提している。S が偽であ るときには、「a +は+ S +ことを知っている」は偽となるのではなく真理値 を欠くのであり、また同様に、「a +は+ S +ことを知らない」も真となるの ではなく真理値を欠くのである。先に挙げられた例について言えば、(i) で、 (57)に続けて (60) を言うことが奇異であるのは、(57) が真理値をもつことと (60)の主張とが矛盾するからであり、(ii) の「論証」は、真である (61) から 真理値を欠く (62) へと移行しており、「仮定が真ならば結論も真」という正 しい論証のための条件を満たしていないということになる。 ところで、前提関係がそもそも問題となったのは、いまさら言うまでもな く、指示対象を欠く単称名を含む文に関連してであった。対照のために、「知 る」を含むこうした文を考えてみよう。たとえば、次のものである。 (65a)太郎は黄金の山を知っている。 (65b)太郎は黄金の山を知らない。 ここで「太郎」には歴とした指示対象が存在するが、もちろん、黄金の山な どは存在しないとする。(65) の「黄金の山」は、指示対象を欠く単称名24 で ある。(65) の二つの文の真理値についてどう評価すべきかを考える前に、同 じく「黄金の山」を含むいくつかの文を見ておく必要がある。 (66a)太郎は黄金の山を買った。 (66b)太郎は黄金の山を買わなかった。 (67a)太郎は黄金の山を見た。 (67b)太郎は黄金の山を見なかった。 (68a)太郎は黄金の山を探している。 (68b)太郎は黄金の山を探していない。 (65)–(68)のうちで、「黄金の山」が指示対象を欠くにもかかわらず、真とか 偽とか言うことにためらいが生じないのは、(68) のみである。また、(66a) a は、「黄金の山」が存在しないときには、決して真ではありえない((66) の 「黄金の山」は比喩的表現ではないと仮定している)。では、それは偽である と言ってよいだろうか。また、(66b) は、したがって真であると言ってよい 24「黄金の山」を単称名とするのには問題があるかも知れない。それが、ある特定の伝説中に 出て来る山を指すとするならば、(65) の二つの文に真理値を付与することに何ら問題がない読 みがあることが言えよう。(フィクションに現れる名前がどういう資格をもつものであるかは、 きわめて興味深い問題であるが、ただでさえ余計な(?)議論の多いこのノ―トをさらに錯綜さ せるのは得策ではあるまい。)「世界一大きな黄金の山」とでもするのが無難かも知れない(し かし、世界一大きな黄金の山がひとつしかないという保証がこの句に含まれているのか、と問わ れるだろう)。定冠詞をもたない日本語において「単称名/一般名」の区別をどのように扱うか は、今後の課題としたい。
だろうか。指示対象をもたない単称名が出現する文は真理値を欠くというス トロ―ソン流の分析は、(68) のような文に対してではなく、(66) のような文 に当てはまる。つまり、こうした分析によれば、(66) の二つの文はどちらも、 「黄金の山」が指示対象をもつこと、すなわち、黄金の山の存在を前提してい る。この前提が満たされていない以上、(66a) は、偽であるというよりはむし ろ真理値を欠くのであり、(66b) もまた同様に真理値を欠くのである。では、 (67)はどうか。 「見る」は、「知る」に劣らず多くの問題を抱えている動詞であるが、こ こでは、その用法のうちの少なくとも二つを区別する必要がある25 。「見る」 は、時には、体験内容だけにかかわる仕方で使われる。もっとも端的な例は、 「太郎は夢の中で花子を見た」といった場合である。こうした「見る」の用法 に特徴的なことは、第一に、「見る」の目的語が指すものは必ずしも存在する 必要がないことであり、第二に、目的語の指すものが存在する場合でも、こ うした「見る」の作る文脈は「指示的に不透明 referentially opaque 」であ ることである(たとえば、「花子=去年のミス日本」が真であるとしても、先 の例文から「太郎は夢の中で去年のミス日本を見た」と推論することはでき ない)。これに対して、こうした特徴をもたない「見る」の多くの用例があ る。そうした用例に共通なのは、「見る」の主語が指すものと「見る」の目的 語が指すものとのあいだの何らかの因果的相互作用(causal interaction)が 含まれていることである。「人ごみの中で太郎は花子を見た」での「見た」が こうした使われ方をしているとき、「花子」の指すものは存在しなければなら ず、太郎が「花子=去年のミス日本」ということを知らなくとも、そのこと を知っている話者は「人ごみの中で太郎は去年のミス日本を見た」と推論し てよい。つまり、こうした用法での「見る」は、「探す」といった類の動詞よ りも、「買う」といった類の動詞と似た論理的振舞を示すのである。(67) での 「見る」は、「見る」のより普通に出会われる用法、すなわち何らかの因果的 相互作用を含むものであると解釈しよう。そうすると、(66) に対してストロ ―ソン流の分析を受け入れる限り、(67) もまた、黄金の山の存在を前提する と考えるのが自然であろう。 そして、この点に関する限り、(65) は (67) とまったく同様である。第一に、 「a +は+N+を知っている」(「N」は単称名)という形の文は、(多くの留保 と精致化が必要であることは論をまたないが)a とNのあいだの何らかの因果 的相互作用を含んでいる26 。したがって、第二に、この形の文が真であるた めには、「N」の指示対象が存在しなくてはならない。第三に、単称名を目的 語として取る「知る」の作る文脈は「指示的に透明 referentially transparent」 25「見る」をはじめとする、知覚にかかわる日本語の動詞については、別稿で検討する予定で ある。 26前掲拙論、註 (18)。
である27 。いま挙げた第二の点、つまり、「a +は+N+を知っている」とい う形の文が真であるためには、「N」の指示対象の存在が必要であるというこ とを、単なる論理的含意関係として解釈せずに、前提関係として解釈するな らば、この形の文のみならず、「a +は+N+を知らない」という形の文も、 「N」の指示対象の存在を必要とするという結論に導かれるであろう。 「知る」の目的語が単称名であるときにも、前提関係の存在を主張できる とするならば、これを手掛かりとして、「知る」のより包括的な分析が可能で ないか試みることは自然であろう。ここでは、そのような試みとしてもっと も単純なものをスケッチしてみよう。そうした試みの検討は、論理的含意関 係とは異なる前提関係を意味論的分析にもち込むのではなく、より伝統的な 二値性の原則のもとで意味論的分析を行おうとする第二のアプロ―チを導入 する機会ともなるであろう。 より包括的な分析を得ようとするためのもっとも単純な方策は、次の二つ のテ―ゼから成るものであろう。 (i) 「S」を文とするとき、「S +こと」は名詞節である。そして、 「S +こと」は単称名である。 (ii) 単称名としての「S +こと」が指示対象をもつための基準は、 次のものである。すなわち、「S」が真であるとき「S +こと」 は指示対象をもつが、「S」が真でない(「偽である」ではな い!)ならば「S +こと」は指示対象を欠く。 これら二つのテ―ゼの出て来た理由は明らかであろう。(i) は、「a +は+ S+ことを知っている」という形の文もまた、「a +は+N+を知っている」 (「N」は単称名)という形の文の一種である28 とすることによって、より 包括的な分析のための文法的枠組みを用意しようとするものである。(ii) は、 「知る」に含まれる前提関係をすべて、その目的語の指示対象の存在・非存在 に集約しようというものであり、これは、「S +こと」を単称名とする第一の 27単称名を目的語として取る「知る」が指示的に透明な文脈を作るということについて補足し ておく。このことは、三人称の主語の場合には比較的見易いのであるが、一人称の主語の場合に は(いつものことであるが)取扱に注意を要する(このことは、丹治信春氏から指摘されて気付 いた点である)。(a)「太郎は花子を知っている」が真であり、(b)「花子=去年のミス日本」が真 であるならば、(c)「太郎は去年のミス日本を知っている」は真である。同様にして、(a’)「私は 花子を知っている」が真であるならば、(b) から、(c’)「私は去年のミス日本を知っている」も 真である。太郎が (b) の真であることを知らなくとも、太郎について (a) が真である限りは (c) も真であることは容易に見て取れる。同様に、(a’) の話者が (b) が真であることを知らなくと も、(c’) もまた、(a’) の話者について真である。このことにもし疑念が生じるとするならば、そ れは、次の事情からであろう。すなわち、(a’) の話者が (b) を知らないときには、(c’) を((a’) を根拠にして)言明することはできない。このように、具体的な発話を問題にしている限りは、 話者の思いを考察から除外することはできない。しかし、この「ノ―ト」が徐々に明らかにして 行くはずであるが、「指示的に透明」あるいは「指示的に不透明」といった意味論的概念の働くレ ベルは、発話者の思いを無視できない具体的発話行為からははるかに抽象されたレベルである。 28前掲拙論、pp.114–116, 126 およびその註(11)を参照。
テ―ゼと、普通の単称名を目的語とする「知る」の前提の性格を考えるとき、 もっともストレ―トに出て来るものである。 しかしながら、このごく簡単な提案でさえ、三つのたがいに独立な理論的 選択を含むものであることを、まず指摘しておかなければならない。その三 つの選択とは、次の (α)–(γ) の各項から成るものである。 (α) 基礎となる論理の選択 (α1) 二値(bivalent )か、それとも、
(α2) 真でも偽でもないという意味での truth value gap を認
めるか。 (β) 命題的態度を表す文のシンタックスの選択 (β1) そうした文は、単称名と文にオペレ―タを作用させたも のであると見なすか、それとも、 (β2) 二つの単称名と一つの二項述語から成るものと見なすか。 (γ) 「S +こと」の意味論的分析の選択 (γ1) こうした句の意味論的構成要素として、S が真であるこ とを要求するか、それとも、 (γ2) Sが真であることを要求しないか。 現在考察している提案が、(α2)、(β2)、(γ1) を選択していることは、明ら かであろう。ここで、この提案を、可能な他の7通りの選択の各々と対比さ せて検討することは、まったくの無駄ではないと思われるが(実際、現在考 察中の提案をも含めて8通りの選択のいずれについても、それをいちおう支 持するような議論を考案することは不可能ではないと思われる)、問題を手 頃な大きさに収めるため、および、ここでの議論の脈絡上、当面、少なくと も「知る」を含む文の文法的分析については、(β2) を採用しておくことにし よう29 。 (β2)を採用するならば、「S +こと」は単称名であり、したがって、確定記 述句(definite description)であると見なすことになろう。このとき、(γ)の 問題は、こうした記述句の構成要素となる述語として何を取るかという問題 となり、(α)の問題は、指示対象をもたない単称名(ここでは確定記述句) を含む文をどう扱うかという問題になる。 まず、(γ)の問題から考えよう。「S +こと」を確定記述句と見なすとき、 その指示対象としてもっとも適当と思われるものは、フレ―ゲの Gedanke と 29ただし、この選択は、きわめて大きな選択である。また、(β1)・(β2) のいずれを選択するか は、命題的態度を表す動詞の種類によって異なりうるとも考えられる。この点については、「S + と」という形の目的節を取る動詞と「S +こと」という形の目的節を取る動詞の相違のもつ含 みとも合わせて、より詳細な検討を必要とする。この検討は、またもや、別の機会に譲らなけ ればなるまい。こうした選択の重要性については、次に含まれている議論がきわめて啓発的で ある。 T.Burge, “Critical notice of Hintikka The Intentions of Intentionality and Other
類似したものであろう30 。これを、「命題 proposition 」とよぶことにしよ う。「a +は+ S +ことを知っている」の、(γ2)の線に沿った分析(もちろ ん、(β2)を認めたうえで)は、次のようなものとなろう。 (69)知っている(a,Ix[表現する (S, x)]) ここで、「I」は述語に作用して単称名を形成する記述のオペレ―タ(この「I」 は、さかさまの(!)「I」である31 )であり、「表現する (S, x)」は、「文 S は 命題 x を表現する」と読まれるべきである。ここに現れている確定記述「Ix [表現する (S, x)]」が指示対象を欠く場合が存在すると考えることはできる が、それは、たとえば、嘘つきのパラドックスに出て来る文32のようなきわ めて pathological なケ―スであるか、それとも、カテゴリ―・ミステイク、 あるいは、タイプの制限を犯しているような文は何らの命題をも表現しない とするといった理論を採用する場合に限られる。つまり、(γ2) を選択すると きには、「知る」の分析固有の問題として、(α) の問題が考察されなければな らないということはあまりないと思われる。これに対して、(γ1) の線に沿っ た分析を採用するならば、確定記述が指示対象を欠く場合はより一般的にな る。だが、少し先走ったようである。ともかく、(γ1) の線に沿った「a +は+ S+ことを知っている」の分析を提示しておこう。そのためには、命題を三 つのクラスに分類することが可能であると仮定しなくてはならない。すなわ ち、真である命題のクラス Πt 、偽である命題のクラス Πf 、そして、真でも 偽でもない命題のクラス Πn である。そうすると、(69) の代わりに、次のも のが「a +は+ S +ことを知っている」という形の文の分析となる。 (70)知っている(a,Ix[表現する (S, x)∧ x ∈ Πt ]) ここに現れる確定記述 Ix[表現する (S, x)∧ x ∈ Πt ] は、「x∈ Πt 」という述語が付加されたために、(γ2) の場合とは違って、ひ んぱんに指示対象を欠くこととなる。すなわち、(α) の問題が、「知る」の分 析固有の問題としても考察される必要が生じるのは、この場合なのである。 先にも述べたように、(β2) のような文法的分析を受け入れたとき、(α) の 問題は、結局、指示対象を欠く確定記述句を含む文の真理値をどう考えるか という問題に帰着する。さらに (γ1) を選択し、(70) のような分析を受け入れ たときには、(α1) および (α2) のいずれを選択した場合でも共通に、次のこ とが言える。すなわち、(70) の形の文が真であるためには、 30Cf. Burge, op.cit .
31D.Scott, “Existence and description in formal logic” in R.Shoenman (ed.), Bertrand Russell: Philosopher of the Century. (1967, George Allen & Unwinn) pp.181–200.
32文が表現する命題の存在・非存在という方向で意味論的パラドックスを扱うことについては、
次を参照。C.Parsons, “The liar paradox” in Mathematics in Philosophy. (1983, Cornell U.P.) pp.221–267.
(71)∃!x[表現する (S, x) ∧ x ∈ Πt ] が真でなければならない。(∃!xϕx ⇔ ∃x[ϕx ∧ (y)(ϕy → y = x)]。)言い換え るならば、「a +は+ S +ことを知っている」という文が真であるためには、 Sは、ある真な命題を一義的に表現していなくてはならない。こうした形式 的扱いの際の常として、S の多義性の問題は、何らかの便法によって既に解 消されていると考えるならば、この条件は、結局、S が、真な命題を表現し ていることである。 (α1)と (α2) の相違は、もちろん、(71) が偽であるときの (70) の真理値の 指定の仕方にある。すなわち、(α1) を採用するときには、(71) が偽であるな らば (70) も偽であるが、他方、(α2) を採用するときには、(71) が偽である ならば (70) は真理値を欠くと見なされるのである。 (α2)に特徴的なことは、(70) の否定 (72)¬ 知っている(a,Ix[表現する (S, x) ∧ x ∈ Πt ]) が真であるためにも、(71) が真でなければならないことである。つまり、(71) は、(70) および (72) の前提なのである。(70) のみならず、その否定である (72)からも、(71) が帰結するというこうした前提関係がトリビアルなものと ならないためには、二値性の原則が犠牲にされなければならない。 他方、二値性の原則を保持するには、二つの方法が考えられる。ひとつは、 フレ―ゲにおいて既に見られるような、そのままでは指示対象を欠くと考え られる確定記述句(より一般に単称名)に対して一律に何らかの指示対象を 付与する方法である33 。もうひとつは、もちろん、ラッセルの記述の理論に 他ならない。ここでは、より広く知られている後者の方法をわれわれの問題 に適用できないか考えてみよう。(ちなみに、二値性の原則にしたがえば、真 でも偽でもない命題のクラス Πn は空である。)よく知られているように、記 述の理論のもとでは、(72) のような否定命題は、そこに現れている否定詞の 作用が及ぶ範囲(scope)の違いによって、二通りの解釈が可能となる。いま、 事態をもう少し見やすくするために、二項述語「表現する (S, x)∧x ∈ Πt」を ET (S, x) と略記することにしよう34。 まず、(70) のような確定記述を含む文は、存在文 (73)∃x [ET (S, x) ∧ (y)(ET (S, y) → y = x) ∧ 知っている (a, x)] に書き直される。そして、(72) の二通りの解釈とは、 33Cf. Scott, op.cit . 34「ET」は、もちろん、「Expresses Truth」の略である。念のため。