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日本古代の文字資料と写本の字形をめぐって ―真福寺本『古事記』の例を試みに―

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(1)

日本古代の文字資料と写本の字形をめぐつて

1真福寺本﹃古事記﹄の例を試みにー

罪者はこれまで、、チに奈良時代の出土文字資1きーを小心とする、当 代の文字資料を対象として、その形を収染してきた中で、では、 ほ{住時期に成立した写本にし力遺されない字形との距簾はどの程 度なのか、というあまりにも浩熊とした興昧を持っている。ナ星の ことながら、作品の成立年代と、現在にその内容を伝える与木が成 立した年代は、必ずしも一致するわけではないからである。この興 叶に対しては、朗査の面でも、字形の解釈の而でも、両力の資料群 それぞれの分析を進めたうえで対照させていくことが正攻法である ことは一言うまでもないが、ただ、それに着乎する前に、優一とした 中にも、何か切り口はないか、また、そこから見えるものは可かを 勺11〒fる゛^く、上ι 1.、 t戸U小: i己E一の町t え又としてf勺ヨーミさオ る古傘寸本から、幾つかの取例を搾告する。 ﹃古事記﹄は、周知のとおり、奈良時代(七一二午)に成立し、 は、中1旦 0)]ι︹ノ、ネ高ミ、÷オ又 Cご L^ーニ^ S 一一イF1ー?j!、一ノに干.る。 その為、近世の本居{長﹃古事記伝﹄をはじめ、近年の一校木古J 記、などにょって校合作業が進められ、安定したテキストが提供さ 一、はじめに れて久しい。 その巾で、L羊の形そのものについては、一十Π小記塗示引(本文 (',こ 桝)﹄﹁命<を出さない楳岩らびに逓用字の表﹂、﹁型一莞﹂i< 福当本文字一覧﹂に残緑恩として、不明な字形などがまとめられ ている。そこには、写木岡の校合だけでは川何にくい、そ、れぞれの字 形に対する検証かいまだ残されたままである。本稿では、これまで の写本冏の校介作業とはや、呉なる立場から、当時の文字資科を用

いて、その形呈在の1蓊よび当蒔の使用状況を照し合せなが

ら、写木に残るル,形の背宗をさぐつていく必要があると思わτる0 木発表で用いる、古代の文字資料は、主に、次に挙げる平城京出 ーの木葡や正<院文i!Pという、後世のⅡぢにょるものではない、当 塒の姿をそのままとどめた文疹萪群である。本稿では、その用例 J条げる上で、その少'の形一当内容まで深く立、ち入った分析まで 及んでしないガ両資利群の内{谷は、主に次のような内がをもち、 これら力ら用例を採取した。 オ僧・・・*刃良時代の平城宮出士の、、王に、名地からの荷札や、灸

寸し.ー[ 0

Ⅱマ了弌コリとりさオー犬:二立:寸k1

-67ー

(2)

や写収院での活動内容の勺綜を中心とする帳箔や戸籍な ど、日常的な社会経済,韓が大部分をしめ、その他、印を 有する国家珍{吸などの正式的な文者もわずかに残ってい る。 これらの資料は、近年、資料の公開およびψ節版の刊行か進み、 以前では不可能であった検証が行えるようになり、文字および古代 < 1主3︺ 語全般においても,笑証的な研究が進められつっある。書記目的など の位相の述いの問題があるが、当時の文字使用の器一;基盤とし ての文字世界0 を兇握する上でも、作品の成立年代と写本の時朝を ー[Nめる上でも好一昇である。そこで、木稲では、特に字形につぃて、 古代の文字資料の器署把握することにょって、百輩寸本﹃古小記﹄ と古代の文字資料の字形における距航をはかることを△鞍におきつ ?写本研究では検証できなかった字形の問題につぃて具体例を挙 げ報告する。 木表そのものには、詳しい指南か沓いていなしカアU小記絵立 (本文編)﹄の凡例として、次のようにふれられている。 3文字について四一一異体七腎られるものは、﹁校駅を出 さない異体字ならびに通用字の表﹂を別に尓し、異体と認めら れないものは﹁別字一覧﹂として別に示した。異体文字、別字 については今後研究すべきものを含む。 これらは、逐一荏ハには出していないか、異なる形があるものとい ニ、挙例 ニーー校異を出さない異体字ならびに通用字の表より

怖・階

木簡(宮一1四五八) 一コーJ うことである。ここに掲載されている文字約三五0文字のうち、古 代の文字資料(木項では、木簡に限定)で大まかに見枯もったとこ ろ、古代の文字資料に(1)散見するとみられるもの約一五0例、 (2)逆にはあまり見られないもの約五0例が認められる。(他は、 現段階では不明としかいぇないJ (住3︺ 次に挙げるのは、その具体例として、直補寺本﹃古事記﹄にみら れる{形と平城京木簡にみられる字形を対照させたものである。 (])散見する例(真福寺本/張京内出士の木簡の例の順) ①乙

レ七如

木簡(京二ーニ0八五) ②乞

/木簡(城十二1十凶上(九九))

③虫 量1'4 i

.'木簡谷旦 1三エハ) , ④庭

,虚一速、 1一TΞt

⑤赫

(3)

-68-これら木簡での例は、決して稀有な例ではなく、正倉院L強や他 の文字資料でもよく使用されるものである。もちろん、各例の字形 が唯一というわけではなく、例えぱ、①乙・芋には、これよりさらに 左右ヘの張り出しが大きく均等になっている例や、⑤傍。用0 の 部分が。卵になる例もある。 十希寺木のこれらは、まさしく校異を出さないまでもその¥と認 定できるものであるが、,ノ、当時の資料にょって器岫できるものであ る。さらにいえぱ、当弦与本における偶発的な字形というよりも、 当時の使用例を反映しているようにみぇる。 ここには、以上の数例にとどめるが、古代の革資料においては、 この範囲に限っていぇば、古代の文'谷料の字形が、十希寺本﹃古 亊記﹄の字形とほぼ一致する場合が多くみられる。写本書写者の意 図であったかどうかは別として、当時、よく使用されていた形が、 写本に保持されている状一業垣問見られるのではないかと推測する。 また、次の⑥肥字については、本表の他、字体不明として、﹁真 福寺本文字一覧表﹂に収枝されている。 真福寺木の書写においても混乱を危奥したのか、﹁肥﹂字のイーF に小さく﹁ヒ﹂とする例(上巻一七オ)もある。現代の書き様から みると、勞の﹁巴﹂の中絵画を欠くものであるが、以上の例もみ られることから、不明というよりも、当時から使用されている字形 の一っとして鯛釈し、校合にょる文{需定にさらに硫度を加えるこ とができる。ちなみに、当時はこの中央一奇が轍画になったものも みられる。 その一方で、次の例のように、古代の文{妥料では未だみられな いーヲーもある。 (2)散見しない、あるいは米見の例 ー'ー ニー2 別字一覧(問題となるもののみを掲ぐ)より

木簡(11三三九七)

, ニ、、木飾(城一九1九下(九))

/,ー

木簡(城一五1十四上(六0))

いずれも木簡において使用顎度白体が高い文字ではないが、今 後、新出の資料をまつ必要がある。現時貞での観測では、少なくと も、当時、よく使用された字形ではないことが予想される。 このように、写本冏においては、小さ六京画の異同にすぎないも のもあるが、古代の文小姿料と一致するところ、しないところを看 取することができる。 いわゆる別字とは、逃ナの形音義のうち、一見、形は同じである が才甚が異なる字である。しかし、﹁Wとなるもののみを掲ぐ﹂ というように、本一覧で、対吋する共掲の一方と別字でありながら、 何らかの繊を含むものである。収録例からみると、この。問題0

月巳"

,/

耳驫

(4)

-69-とは、本来、別字でありながらも、ある工疋の手紕きを経て、両者 が別字としてではなく、同字であることを認定した、あるいは、そ の可能性が残っていることを示唆するものという指摘であるとみら

れる。この'る工疋の手続,については、梦空器方法が考

えられるが、その第一には、諸本との校合作業であろう。 次に挙げる﹁橘﹂字の例は木表において、﹁柚﹂と共掲され、 Ⅱ 字とする根拠として﹃大字典﹄の出典を挙げている。今、諸橋徹次 ﹃大漢和辞典﹄にょって、両者の関係を鵄ルすると次のようにある。 A橘またちばな︹集嶺︺訣律切

B楴・糸まき鴛眼︺丁歴切

とあり、形音熊ずれも異なる加子0 であるが、以下のように、 ﹁橘・たちぱな﹂と解される文字は、古傘寸木では、引一 0例のうち、 ①橘の形が8例と②楠の形か1例ある。その他に③の形か1例みら れる。以下にその例を挙げる。 腎蚕寸本での使用例︼ 5 ③ ]上を1十裂(以下巻略)、 2小1二七、投、 3巾1ご工 1 411一一ノリ 5下1三0表、 6下1三0雲、 7下三0衷、 8下三一裏 4

② ②形は、他木との焚口作業にょって、①形と同様に,橘たち 字であると校訂されている。 ば夕とLて使用され、つまり ノノ 雨 0 こに疑う余地はない。ただし、﹃古耶記総索引ノ本文編)^の@)の 例の頭注では、真福寺本のこの字形が,誰0 とされている。たしか (江7︺ "代の古舌辛書^羽i撰字鏡、一で採用される字形はq)の力(^ 、 こ 州橘加志﹂)であるが、以下の例でみるように、古代において 1J伊力な Vわけて予はなし ^モ倉院文冉・木簡等、当時の文字資制での使用例^ ①(正倉院文沓) 2 1 小1二Ξ厶※﹁橋﹂字忠字占みられる ちなみに真郁司本の他の紬所の﹁衞﹂才 8 、 ^ 1 ; ーー惨別狸一.0喪1而﹁食物川吐﹂︹人肝木ト"文当﹄(以下一大﹂とし文当乞も よる) 1一:h巻三八一ニロへ 2門礼力修トーニー四1一、九﹁ハレリノ御十k餐"曾ノー'HⅢ セ,糾文﹂一大﹂ 1六赤﹂四h八0 3城十二ート四ドニ 0九)、 4城二四1二六下(一四九) (詑0) の地1こも、聖武天・¥勅旦U 〒孫打綾)の枯佃M論Uノしの苛勿もある ﹁楠大郎女﹂←諸本より﹁橘大郎女﹂と校訂。

上1川衷﹁犬一'﹂とある 3 (木簡)

御抽・柄

②(正<侵文智) 1 4

本禽赫,

6 2 式、X 亀 3 7

補桃

4 8

補才罵

① -

0-鰯キ昌

輪イ為

f登{旦

1ゐ

(5)

三ノ{ノ¥1四﹁向T司太述小送解徐帆﹂一大﹂一十Ξy工﹂二↓ノし﹂、、 21;C々 ﹂'ナーリー ブ﹁'ーノ、二割火般若H料鉞1ーー帳﹂一火.一十六巻九六頁、 3銑々彪叫 1一: 1三﹁造東大寺塁文案帳﹂一火﹄卜六巻一1 0、貞、 4鞍々修叫一二1一 0 、﹁k↓、?ブ,一部大般若経料粋物収納帳L-^、火主一十六巻一一 RⅡn、 5靴々*ノ川三1 、二01五﹁大1ぢ1丁捌大般若野11卸物収納帳﹂一大一十六巻一二八一異、 6靴々怯1 ー、ノーー九﹁ーコ功舒翆鉱川散﹂﹁大﹂十し巻一六ヒ,,貝、 7靴修人1 一﹁抗前 剖僻川辺1篇﹂↓大一一嬰三 ノ﹄ 城二 1一一云ド(四0七)、 9城十八1上.ト C: 9 一)、玲城一二ー、二しトロ 八9 ︹﹂拘︺ この他にJーリ驫﹁火般叫力絲赤﹂第hi,j七十ヒ﹂(鯏人蔵)、戯J 司 i j、ー;]﹁ の都分 例は、'女(Ⅱ:的にはq)も(亘)もプく差はなく、両用されていた感 か強し記される資料は、正八器文沓や木仙ともこ、同兼の文 i 帳都群であるし、その他とし系げた資料については、.いずれ も文書や帳御群よりも正式的なものでもある。つまり、゛畔におい ては、両形いずれもが使用されて、ほほ同価価であったことが廻ル される。このような状況から推測すれぱ、﹃十呈、製成立当埒にお いて、②の形で書かれていた可牝佳は、全くないわけではなく、む しろ立奄寸本のψ晟個所に、当時の姿を保持している、一面をみるこ とができるのではないだろうか。他木と校合して五奄1独,Uの (オ佃) 5

梱松

6

倫,ヤ祐

0 8 以上、前節のとおり、写木問の校合だけでは硫証を但寸ない、子形で あっても、ψ畔の使川例から検証できる例を挙げた。交合乍業の過 程で、校邪<を出さずともその字であると確証できる字形であって も、確証をえられな父形であっても、ψ畔の文{姿料をみること にょって、さらに確証が得られるものがまだ夕夕くある。また、現代 の字形からも火きく鑾<なる災口は;誰'と判断されがちであるが、 このように、当畍の資利を顧みれぱ、、一既にそ、つとはいえない場合 がある。テキストを求めるということについては、すでに厳・密に校 介されたテキストか存在するので、屋上屋を重ねる必要はないが、 当時の文字資料を通して、写木に遺る文字の様相から見えるものは まだ小ノなからずあると思われる。 また、不明な字形を収集した冥導本文字一覧﹂所収の各文字 につぃても、古代の文・一書料一美証し得るものはないか、さらに探 ノノ七 デ一﹁U "コ と処理しなくとも、同時代の他の文字資料と照△口することに よって、むしろ、本来は別字ながら通用されていることがわかり、 一戸何,元がに怖定できるのてある。ただし、武市寸本の築名か、意 ﹁刈的にそれを保村したかという問題は、これとは全く別切題で、そ のまま写Lたか、中世の古詐.﹃類聚名義抄﹄(佛本末一 0六)に 三、まとめと今後の課題 ②の類﹁ とあるように写本ψ屏の使川の一附で理畔され与されたとみる力 ι上1典七マアι立)ろう。 タチ花﹂

弔身

ーフ1-寺商

(6)

していきたい。 もちろん、本稿で使用した正倉院文書や木簡と、記紀万葉集など の資料との位相の差もはかる必要があるが、近年、一経を中、心とす ,・、庄n) る当時の。標準字体0の研究および策定作業も進められているので、 これらの兼十もみすえ、各資料の位置づけを試みていきたい。 今後二ー]での対照作業をさらに進め、写本と古代の文字資料 との距離をはかる下作業の蓄積を進める必要がある。これには、当 時の文谷料そのもの倫査も不可欠である。また、本稿ではほと んど考感しなかった、写本当時の文字使用の要素も加味あるいは排 除したうえで、梨且を加える段階が必要である。これらの作業か行 われたうえで、刈.昭籍果を分析しなければならない。 ところで、古代の文字資料そのものについても、ニー2で取りー げた別字の問題など、まだ個別に吟味しなけれぱならない問厄もあ る。挙例した﹁橘﹂字の場合のように、元々別の文字であっても、 異なる形で同じ土嫌の速1して使用している例もあれぱ、同じ形 で曼厶る意味の一撃として使用している例もある。これらの例は多 くはないが、当時の当羊の使用例の{馨度やなぜ定着できたのか という背景など、文客一聖探る上でも重要な問即を含んでいる。 <11︺ まったく別の問題ではあるが、当時の{玉をはかる上でも、同一資 料群内での同定識別作業はさらに精確に進められなければならない と思われる。 つとに、鈴木一男氏にょって、﹃様{玉﹄の正字に属するものが、 奈良時代の使用例と一致するというよりも、俗・通字に属するもの の力が多いことを指摘されたように、古代の文字のあり様は、これ までの業白や写本からだけでは中征い場合が多い。全ての復原は不 5 可能にしても、写本と古代の文字資料との距離をはかりながら、写 本に遺された各字形にまつわる当時の背景を探っていきたい。 [付記1]本稿の骨子は、韓国日本文化学会第三九回学術大会 (二0一一年四月二三日於白石学校)での口頭発表の内容にょるも のであり、成稿にあたり、ブく幅に加筆修正した。 [付記2一希は、二0 工二年・郭俳究贅補助金(奨励研究 課題番号二五九0二00七)の成果の一部である。 6 1 、王

倉顎司他編、紗群吉類従完成会一九六五年

高木市之助、富山民蔵編、平凡社一九七四"(聖版)

﹃正倉院文書の訓一腎袈1確不参解編(こ﹄際祐子他

編、二00五年(奈良女子大学一三世紀COEプログラ倫

止至をはじめとして、同種の報告お刊行か熊ている。

宗撃テキストとしての十号記﹄杣野志隆光若、東京大学出 版会、二00七年

五導本古乎記一小彦慧之解説怯枇社一九七八司

木簡の検索は、奈艮文化財研究一所木偽データベース 亘日\\乏乏冬.岳ぴΞ欠曾.狗P弓\0で含\ヨ0冥曾\ヨ0罫讐.Ξヨ一、 木簡画像データベース・木簡字典巨日\\三曾.邑仁芽曾 如P弓\にょり、出典の略号は、城・﹃平城宮発掘調査出士木 簡槻報﹄、宮・↓平城宮木簡﹄、京・﹃平城京木簡﹄を表す。 ずれも奈良文化財研究所刊行。画像転載にあたっては、奈 1i 2 3 4

(7)

・ーフ2-良文化財研九九所にご協力いただいた。 天治木にょる。(京都大学鼎川国文学研究会綸、 .﹂Ⅱ 1 ー、.﹂一ゞー、 一九七三年) 右1は、゛参才会と羽モ習万. 1糸氏打トデ.J、﹂.ι一1 =ヲンk:Hオミ^ロ L釜﹄にょるL善名、﹃大日本古文古﹄米﹂頁を表す。画像は、 一正倉院古文甫杉印集成﹄(八木沓店)、続々修のみ曾内庁正 <院耶務可マイクロフィルム五子複写版)にょる。画像恢候 にあたっては、正倉院歩粉所にご力幼力いただいた。 ﹃国宝古顕﹄、文化庁島修毎日新脚社、一九六三年 ﹃奈良朝ア嘉﹄奈良圈立博物鯲、一九八、二午 観智院木にょる。(正宗救夫編、風剖Ⅱ凶房、、︼九五川年) 石塚啼通編、﹃漢字字体史研究一勉誠社、三9 二年所収の 三Ⅱ二、" 拙稿﹁飛,い雁惇示と平城京出士木鮪の所川撃一覧盆﹂﹃文 化財論彬﹄(奈良文化財研究所、弓三年)<市販版﹃,父 化財の所地平﹄吉川弘文館、二0 一三年> ﹁上代人の正{玉識について﹂一国,国文学﹄妬1 1、 1 および、他の古代文{姿料で追認したものに、 L、ー、 fo ﹁日木古代の使用・様と中国の字冉における字体、発との関 わりをめぐつて1下慈・正倉院文轡と﹃様工﹄﹃.上名要録﹄ を小、心に1﹂﹃ことは倫文集二姦隆一先生古稀記△需文 集﹄(おうふう、二00七年)、﹁日本古代の使川松と小凶 の蛋凹における字体注記との関わりをめぐつて二1谷一 火上 原京平城京木仙と﹃千禄字小昌を中、心に1﹂﹃水門﹄第二 四号、勉誠社がある。 7 8

何f暁三jり子1寺牙Ⅱh升多t上1、、

14 13 12 H I0 9 ーフ3-拙 稿九

参照

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