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宮古島の巨大津波石の分布から読み解く明和大津波の唯一性とその挙動特性: 沖縄地域学リポジトリ

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Academic year: 2021

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(1)

一性とその挙動特性

Author(s)

仲座, 栄三

Citation

沖縄科学防災環境学会論文集 (Coastal Eng.), 5(1): 1-11

Issue Date

2020-07-22

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/24606

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宮古島の巨大津波石の分布から読み解く

明和大津波の唯一性とその挙動特性

仲座 栄三

1琉球大学 工学部技術部(〒903-0213 沖縄県中頭郡西原町字千原1番地) E-mail:enakaza@tec.u-ryukyu.ac.jp 沖縄県宮古島(周辺の小島を含む)を取り巻く沿岸には,周長が数十mに達し,高さが10 mを超えるよ うな巨大な津波石が散在している.特に,下地島や宮古島周辺に存在する津波石は,世界最大級の大きさ の津波石と判断される.本研究は,これらの津波石が,1771年に発生した明和大津波によって生じたこと を明らかにし,さらにそれらの分布状況から明和大津波の宮古島における挙動特性を推定している.それ らの結果は,宮古島東平安名崎から南沿岸,そして西沿岸における津波の高さが30 mをゆうに超えていた と推定し,内陸部に3 kmほども津波石を運び浸水域を発生させたと推定している.また,今日から過去 3000年ほどの間に,巨大津波の発生が数回あったと推定する従来の巨大津波7回以上発生説を明確に否定 し,沖縄先島地方に発生した巨大津波は明和大津波のただの1回であると結論づけている.最後に,世界 に類を見ない津波石群など津波痕跡及び古文書記録を重要文化財や世界遺産として登録すべきことを提案 し,津波教訓を防災教育や観光に活かすことの発案を行っている.

Key Words : tsunami buolder, Meiwa tsunami, Miyako islands, tsunami height, inundation area

1. はじめに

沖縄県の八重山地方の沿岸や内陸部に点在する巨大な 岩塊は明和津波よるものとされ,八重山郷土歴史研究家 の牧野清氏によって“津波石”と命名されている1).沖 縄県宮古島(周辺に存在する伊良部島,下地島,来間島, 池間島などを含む.以下,適宜宮古島で代表する.)の 沿岸には,津波によって発生したと判断される巨大な岩 塊(津波石)が数多く散乱している.それらの中には, 周長50 mを超え,高さは10 mを超えるものも存在する. 例えば,下地島南西側の高さ10 mほどの断崖上に打ち上 げられている津波石(帯大岩,あるいは帯岩と呼ばれて いる)の大きさは,周長約60 mであり,高さは12 mにも 達する.その重量は,6,518トンと推定され(直径19.0 m, 平均高さ10.0 m,平均密度2.3 t/m3に設定した場合),世 界最大級の大きさの津波石と判断されている2), 3), 4), 5) しかしながら,宮古島の東平安名崎の沿岸に目を向け て見ると,そこには目を見張るほどの数の巨岩が岬の北 側のリーフ上に存在しており,中には上で述べた帯大岩 の規模に匹敵するもの,あるいはそれ以上の規模と判断 されるものも多数存在している.これまで,これらの巨 岩は,1771年に発生した明和大津波とは無関係で,約 2000年前に発生したと推定される仮称“沖縄先島津波” によるものとされてきた6) 明和大津波に関しては,その来襲の様子や被害の状況 を克明に記録した古文書などが発見されており,その記 録と関連付けて,いくつかの特徴ある巨大津波石につい ては,これまで研究の対象とされてきている.例えば, 石垣島の南側の大浜にある巨大津波石(津波大石)は, 牧野氏の著書“八重山の明和大津波”で紹介されたこと もあり,その発生の要因はこれまでに議論されている. また,下地島の帯大岩の発生要因についても,様々な議 論が行われている2)~7) しかしながら,東平安名崎の津波石群など,宮古島を 取り巻く沿岸沿いに無数に存在する巨大な津波石群の発 生要因に関する研究は,上記の津波石の議論ほどには行 われていない.一部が,河名・中田らによって議論され ている程度である6) 本研究においては,著者のこれまでの発掘調査結果2) ~ 5)などと関連づけて,宮古島を取り巻く沿岸沿いに無 数に存在する巨大な津波石群の発生要因について明らか にする.また,その分布の様から,それをもたらした津 波の規模や挙動特性を推測する.最後に,調査結果から 浮かび上がる津波石群の稀有さと貴重さとを勘案して, 古文書記録と共に,重要な文化財としての指定,さらに は宮古諸島,八重山諸島,沖縄島の沿岸に存在する津波

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石群(巨石群)を古文書と共に一体的に保全して,世界 遺産に登録すべきことの提案を行う.

2. 津波石群の特徴

本章においては,Google Earthが提供する航空写真をベ ースとし,現地調査によって得られた写真及び測量デー タを分析し,宮古島沿岸に散在する巨大な津波石群の特 徴とそれをもたらせた津波の挙動特性を明らかにする. 2.1 東平安名崎周辺の津波石群 写真-1 東平安名崎周辺の沿岸の様子及び調査領域区分 写真-1に示すように,東平安名崎周辺の沿岸を,I~ IVに領域区分し,それぞれの領域内に分布する津波石群 の特徴を述べる.領域 I からIVに区分される沿岸に散乱 する津波石群の分布特徴からそれらをもたらした津波は, 岬に対して,南側から〔写真下側から上側に向けて〕来 襲したものと判断される.岬の地上標高は大よそ20 mで ある.写真から判別される比較的大きめの津波石に,識 別番号を付した. Google Earthのスケール機能を利用して,津波石の大よ その大きさを読み取ると,例えば,番号S.3の場合, 10.5𝑚 × 7.5𝑚の平面形状として読み取れる.これらの 写真に示すとおり,いくつかの津波石は元の状態から上 下逆さまとなって存在しているものもあり,津波によっ て移動させられる前に受けていたと判断される波の侵食 痕がノッチの存在として判別される(例えば,S.9及び S.10).この領域において,岸から最も遠方にある津波 石S.13は,その移動方向に岸から大よそ450 m離れた位置 にある. 岬に来襲した津波は,岬先端部を迂回しその反対側に 至る.そのため,津波は岬を越える部分と迂回する部分 とに分かれ,岬先端部の津波高は,岬の断崖が長く続く 沿岸に沿う津波高よりも低めとなることが推測される. 岬の地上(標高約20 m)には,写真-5に示すように,巨 大な岩塊がいくつか点在している.それらの内で,写真 写真-2 調査領域 I 付近における津波石の散乱状況 写真-3 調査領域 I 内における津波石の概形と識別番号 写真-4 津波石識別番号⑦~⑩の散乱の様子 写真-5 岬の地上に点在する津波石 (左側に見える丸い形の津波石の左側面には洞の形が見える.) I II III IV

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左側に位置する岩塊は,通称“マムヤの墓”と呼ばれて おり,「地元にかつて生存した絶世の美女の墓」とされ ている.岩の大きさはその側にいる人の寸法などから大 よそ判断される.この岩塊の左側面には,かつて波の侵 食を受けていたと判断されるノッチの部分が存在する. その部分を下側にしてこの岩は存在している.したがっ て,かつては岬の南側の海側に海面に触れる形で存在し, 波の作用による侵食を受けていた根付岩が津波によって 破壊され,岬の地上に打ち上げられたものと判断される. 写真に見るように,その右側にもさらに大きめの巨岩が 存在する.これら岬の地上に存在する岩の大きさから判 断して,岬先端部を越流した津波の浸水高(地表面上高 さ)はその岩の高さ程度であったと判断される.なぜな ら,岩塊は完全水没した状態でもっとも浮力を受け,そ の一部が水面上に現れた時にその分が津波に対しては岩 石の自重が増える形となり,地面上への着地と摩擦抵抗 が増えることによる.したがって,この岬先端部を越流 した津波の津波高は,海面上30 m程度(地表面上10 m程 度)であったと判断される. 一方,岬先端部を越流した津波と岬を迂回した津波と は,岬の背後で合流することになるため,岬の背後のリ ーフ上の流れは,写真-2に向かって左側(西側)によっ たものとなることが推測される.そのため,津波石の並 びも,そのような流れを反映したものとなっていること が推測される.確かに,写真-2に見る漁港の航路の右側 のリーフ上では津波石は,西側に傾いた直線状の並びを 形成している.これは,津波の挙動を表すと解釈できる. 次に,領域IIにおける津波石の分布状況を写真-6~9に 示す.まず,領域IIとIIIとを合わせて眺めてみると,岬 に南側から来襲した津波は,岬を越えて北側に越流する 津波と,岬の根元に沿って湾状に開いたリーフ上を伝播 する津波とに分けられよう.したがって,岬を越流する 津波は,湾状リーフの先端(湾口)付近で途切れること になる.確かに,領域II内の津波石群の散乱はこの位置 付近で途絶えている.ここに見る湾状のリーフ海岸は, 地元ではマイバー海岸と呼ばれている. この領域IIで特徴的なことは,巨大な岩塊が岬北側の リーフ先端部まで運ばれ,そこに安定して存在している ところにある.リーフ先端部は,波浪による影響を最も 大きく受けるところであるが,安定してそこにあること は,これまでそこに発生したいかなる波浪をもってして もそれらを移動させ得ないという意味を持つ8).ここに 示す津波石群の中でも比較的大きなS.17及びS.23の平面 形状は,それぞれ大よそ14.0 m × 9.0 m及び12.0 m × 8.5 mであり,石の比重を2.5 t/m3程度とすると,それ ぞれ1,260.0 t/m3及び638.0 t/m3と見積もられる.こ 写真-6 岬の北側のリーフ上及びその先端部に止った津波石群 写真-7 リーフ先端部に留まる津波石の様子 写真-8 リーフ先端部に留まる津波石左側から撮影 写真-9 リーフ先端部に留まる津波石右側から撮影 (津波石はリーフ先端部で止っている.リーフ先端部を越え てさらに沖側に沈んでいる岩石も存在する.リーフ先端部の津 波石の波による侵食量は高々50 cm程度と判断される.)

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のような巨大な津波石がリーフ先端部で止っているケー スは,世界でも類を見ないのではないかと想定される. リーフ先端部に位置する津波石は,岸側から約150~200 m程度離れている.また,津波石は,岬の岸側から約80 m程離れたところから現れており,岬を越流した津波の 流れの勢いが激しく,岸から約80 m以内には津波石を残 さなかったものと判断される.これと似た事例に,2011 年に発生した東北地方の大津波によって引き流された沿 岸の松の木の分布がある9).例えば,宮城県名取市沿岸 においては,引き流された松の木は,その発生源となる 海岸部から1 km内には殆ど残されてなく,それ以上離れ た内陸部に殆どが残された. この岬の北側の崖直下には,リーフ上に運ばれた津波 石よりもさらに大きめの岩が数多く存在し,これを津波 石(津波で移動した石)に含めるかどうかは今後検討を 要する.領域Iの岬の先端部を除いて,津波石は岬の地 上には殆ど残されていない.したがって,この領域IIを 越流した津波高は,海面上30 mを越えて40 m内外であっ たのではないかと推測される. 領域IIIにおける津波石の状況を写真-10~13に示す. 写真-10において,①に示す枠内は津波が来襲する側 (内側),すなわち津波が岬の断崖に乗り上げる側に当 たり,海食崖が破断された形跡が見られる.さらに,破 断された断崖の断片はその場にはあまり残されていない. ここで生じた断崖の破断塊が岬を越えて,②の領域側に 写真-11 マイバー海岸に侵入した津波による津波石の分布 写真-12 遡上津波の引きによって発生した津波石 写真-13 マイバー海岸の左先端部に残された津波石群

写真-10 津波の打ち上げ越流箇所及び湾状海岸(マイバー海岸)への津波伝播方向 (①の領域は津波が打ち上げた箇所,②の領域は越流した側,③は湾状海岸のリーフ上を津波が左回りに伝播した方向)

700m 800m

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運ばれたと判断される.また,これと同時に,岬を越流 する流れは,岬の北側断崖下に存在した転石を海側に押 し流しリーフ上に運んだと想定される.岬の付け根辺り には湾状のリーフ海岸(マイバー海岸)が見える.写真 には湾状海岸の大よその開口幅と奥行を示してある.そ の湾内に,③で示す矢印付の破線は,岬の内側断崖に沿 い湾状リーフ海岸奥部に至るまでの津波石の散乱の方向 を表しており,マイバー海岸のリーフ上に乗り上げた津 波が湾内を左回りに伝播したことが推測される.事実, マイバー海岸のリーフの奥部左端には直径数mに達する ハマサンゴが数多く打ち上げられており,このことから も津波が湾奥を左回りに伝播したことが想定される.写 真-11に,津波石の散乱の状況を示す.写真-12に,③の マークの位置付近の津波石の分布の様子を拡大して示す. 写真-13に,湾状リーフの左端沿岸を左向きにそしてや や沖向きに(点線矢印方向に)津波が引いたことを推測 させる津波石の分布を示す.津波は,領域IIIの湾状リー フに侵入した後,湾奥部の海岸急斜面を遡上し,その引 きによって巨大な津波石を発生させたと判断される.写 真-12には,巨大な津波石の背後にそれよりも小さな津 波石が寄り添う形に止っており,引き波に対して,巨大 津波石背後の後流域に止った津波石と判断される.湾内 を満たした津波は,後に,湾状リーフ海岸の左先端を南 西側向けに引き,伝播したものと判断される.以降,宮 古島の南から西に向けた沿岸には,断崖から崩れ落ちて 発生した巨大な津波石群と,沿岸に沿って西向きの津波 伝播によって引き流された津波石群がリーフ上に連続的 に見られる.しかし,その傾向は,宮国元島前面の海岸 を過ぎたところ辺りから見られなくなる.これは,それ 以降の沿岸においては,古い琉球石灰岩からなる海食崖 が存在しないためである. 次に,領域IVにおける津波石の散乱状況を写真-14に 示す.パナリは,写真に見るように,本島側から離れた 位置にあることからパナリ(離れた地の意)と呼ばれて いる.現在のパナリはサンゴ礁のみからなるが,「かつ ては茂った森で覆われていたが,ナン(波)によって森 は流され,その森が流れ付いた場所に来間島(後述)が できた」と言われている〔1995年頃,著者の父(享年90 才)から聞いた話〕.生前の父は,「パナリの岩石群の 海底は砂地やサンゴ礫質でなく,泥が堆積していて,不 思議な所,そこに行く際にはそのことに注意しなければ ならない」とも話していたため,そこに森がかつて存在 したことを示唆するものと判断される.この楕円形のサ ンゴ礁の長軸長は約1.8 kmであり,短軸長は約1 kmであ る.このサンゴ礁上には,破線矢印で示す方向にほぼ一 列を成して巨大な津波石群が存在する.その様子を,写 写真-14 通称パナリにおける津波石群 (a) 津波石群列の後端付近の様子 (b) 津波石発生源付近から伸びる津波石の列 写真-15 東平安名崎パナリ上の津波石群 写真-16 東平安名崎先周辺に到達した津波の挙動推定 (パナリを迂回した津波は,島の北側海岸に到達して北上する とともに,岬北沿岸側を岬先端に向けて逆流している.この逆 流によって,写真-10 に示す④の領域では,岬を越流した津波 石が岬先端側に押し戻されている.)

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真-15に示す.この一列に並ぶ津波石群は,津波の来襲 が写真-14の矢印で示す方向にあったことを表している. 写真-16に,これまで議論した津波石の分布から東平 安名崎周辺に来襲した津波の伝播方向を示す.基本的に は津波は南側から来襲し,岬を乗り越え,津波石をもた らせた.さらに,岬を左回りに迂回した津波は,パナリ 上に乗り上げ津波石をもたらせた.また,パナリを迂回 した津波は,東平安名崎の北側海岸に到達し,一部は島 沿いに北側へ,また一部は逆流し岬沿いにその先端側へ 流れ,岬の南側からの越流によって運ばれた津波石を岬 先端側へ戻している(写真-10の④の領域).北向に伝 播した津波は吉野村の吉野海岸を始点として宮古島の北 側海岸沿いに津波石をもたらせた.こうした津波石の分 布は,宮古島の北端に位置する大神島及び池間島の沿岸 まで続く.一方で,岬の南側沖から来襲した津波は,岬 を乗り越えると共に,島の南沿岸を西向き右回りに伝播 し,その沿岸に断崖の落石など巨大な落石群をもたらせ た.しかし,その傾向も宮国元島前面の海岸や旧上野村 の博愛漁港を過ぎた辺りから途絶える.これは先に述べ たように,これまでの沿岸に見られた標高40 mをも超え る琉球石灰岩の断崖(津波石発生源)が途切れるためで ある.古文書記録によれば,明和大津波の場合,津波は 途中,友利元島,砂川元島,新里元島,宮国元島と呼ば れる村をほぼ全滅させている.これまでの著者らの研究 からは,友利元島で,明和大津波の遡上高は20 mに達し ていたことが明らかとなっている.また,発掘調査によ って,この地方に来襲した巨大津波は,明和大津波のた だの1つであることを明らかにしている.これらの詳細 については,文献2)~5)を参照して頂きたい. 2.2 来間島周辺に来襲した津波 写真-17に,上野博愛海岸を経て,来間島周辺から与 那覇前浜海岸に至るまでの沿岸の状況を示す.写真-18 は,標高5 mから25 mまでの標高コンターを示す(5 m間 隔).また,黄色の直線は4 kmの距離を表す.来間島は 長軸長が約2.8 km,短軸長が1.6 kmの島となっており,沿 岸を除きその大半が25 mを超える高所となっている.一 方,与那覇側は沿岸の大半が標高標高5 mから10 mの低 地となっている.この低地の広がり状況から判断して, 与那覇湾側に伸びる低地は,宮古島側の西の淵から伸び る巨大な砂嘴によって形成されたと判断される.来間島 と前浜側とには直線状のリーフが形成されており,津波 はこのリーフ先端で砕波し,一部与那覇側を浸水させて 北進する流れを形成させたと想定される.来間島に来襲 した津波は,島を取り囲むサンゴ礁によって砕波し,流 れとなって島の沿岸を洗いながら北側に通過したものと 写真-17 来間島から与那覇前浜海岸辺りのサンゴ礁 写真-18 来間島及び与那覇前浜辺りの標高(5m間隔) 写真-19 与那覇に存在する明和津波被害者をまつる石碑 判断される.明和大津波に関して,古文書は,来間島に 対して特別な例を除き津波遡上による被害の発生につい ては触れていないので,明和大津波の際の津波高は,与 那覇側共に沿岸の標高から判断して高々10 m程度であっ たと想定される.このように,来間島が明和津波から難 を逃れ得たのは,津波を直接受ける島の幅が1.6 km程度 と,先に紹介したパナリの場合よりも狭かったことが功 を奏したと言える.また,リーフ先端部で砕波した津波 が高地を遡上する要素が無く,そのまま流れとなって島 を回り込むように通過したと推測されることも,その一 要因として挙げられよう. 写真-19は,与那覇沿岸に流れ着いた明和大津波被害

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写真-20 下地島と伊良部島の地形及び標高(5 m間隔) 写真-21 下地島と伊良部島における津波石位置及び遡上高 写真-22 佐和田の浜前面の干潟上に運ばれた津波石群 写真-23 下地島 T3 位置に座す津波石(2 mほどの高さ) 写真-24 下地島 T1 位置に座す帯大岩(周長 59 m,高さ 12 m) (案内版は,著者によるはめ込み) 者を埋葬したことを伝える石碑を示しており,与那覇側 の標高10 mほどの丘の上にある.古文書は,ここの地に 多くの溺死者が漂着したことを伝えている.このことか ら,先に説明したパナリの森もここに漂着したと考えら れて,その森で来間島が形成されたと伝えられたようで ある.直線距離で約17 kmもある保良村—与那覇村間(そ れぞれ乏しい1村であった)を,当時,歩いて行き来す ることはおそらく非常に稀なことであり,溺死者多数漂 着の大騒動の噂を聞くに及び,保良村から当地を訪ねた 者達が初めて目にした来間島は津波以前のパナリの様に 見えたに違いない.事実,1995年頃,来間島を与那覇前 浜から初めて眺めた著者の父は,「うやーし,まーんち, パナリやながりきし,うまんど,びぃゆうさいが(聞い ていたように,本当にパナリの島は流れ着いて,ここに 座っている)」と感心していた.このようなことから判 断すると,パナリに津波石を発生させた津波は明和津波 と判断される.なぜなら,2000年にも及ぶ時間を経た事 が,まさに生きている間にでも出会ったかのように語ら れるはずはないと考えられるからである. 2.3 下地島に存在する津波石群 写真-20及び21に,下地島(左)及び伊良部島(右) の地形及び標高を示す.標高を表すコンターは,5 m~ 35 mまでを5 m間隔で表す.下地島は,標高が大よそ5~ 10 mとなっており,その西海岸部から伊良部島側にかけ て緩やかな勾配のほぼ平地からなる.伊良部島とは狭い 自然の水路によって隔てられている.下地島は,パナリ や来間島と同様に比較的小さな島であるが,津波を受け たと想定される島幅はそれらの幅の2倍ほどにも達する. このことが津波遡上を高めたと想定される. 明和大津波に係わる古文書記録では,伊良部島におけ る津波遡上高が3丈5尺(大よそ10.5 m)であったと伝

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写真-25 宮古島内陸部に残る津波痕跡 えている.下地島では,遡上高を12~13丈と伝えている ので,36~39 mほどとなるが,下地島の最高標高が20 m 程度であるから,これは,後に示すように長さの単位を 尋で測ったものの誤記載でないかと推測される.これを 仮に,尋として換算すると,18~19.5 mとなり,下地島 の最大標高値とほぼ一致する. 写真-22に,佐和田の浜前面の干潟上に運ばれた津波 石群を示す.航空写真そのものでは,色合いの加減で津 波石の位置判別が難しいため,大きめの石を白色の○, 小さ目の石を赤色の○で囲ってある.しかし,判別が難 しいところもあり,すべてが拾われているわけではない. 写真に示すように,大きめの石に目を向けるとそれらは 数本の直線状配列を成しているようにも見える. 2011年の東北地方大津波によって引き流された松の木 の分布を調べた際にも,松の木の分布は複雑に散乱する 中にも,高密度本数帯がいくつかの筋状に見いだされて いる 9).この事例と重ねて考えると,岩石群や流木など は,まったくばらばらに散乱するのではなく,平面上に それらの線状配列の規則性が現れることが示唆される. ここに見る津波石群は,その発生源と推定される海岸 部から大よそ2 km内かつ,標高 5 m 以下に殆ど止ってい る.明和津波に関する古文書には,伊良部島の伊良部 村・仲地村・佐和田村に被害が及び,遡上高は3丈5尺 (10.5 m ほど)であったと記録されている.したがって, 下地島の西側海岸から伊良部島の間を,津波は大よそ 3 km も伝播遡上したことになる. 写真-23 は,下地島における T3 地点(写真-21 参照) に位置する津波石を表す.下地島内陸部には,その大き さ程度の津波石が他に多数現存する.写真-24 に,帯大 岩の様子を示す.この岩は,周長が大よそ 59 m ほどで あり,高さは最大12 m,標高 10 m ほどの位置に座して いる.先にも述べたように,この岩は世界最大規模の津 波石と判断される.明和大津波に係わる古文書は,高さ 9 尋の位置に,周囲 40 尋の石が津波によって打ちあげら れたと記載している.この高さ9 尋は標高 13.5 m に,周 長40 尋は約 60 m に値し,帯大岩の座す標高とその周長 にほぼ一致する.この岩のくびれの部分,すなわち波に 写真-26 東平安名崎南側断崖下で荒波に洗われる津波石 よる侵食箇所(ノッチ)を表す付近から採取された貝の 化石の年代は13 世紀代を示しており(14C 測定による), 約 2000 年前ほど前に発生したと仮定される先島大津波 によるとする説は,ここに明確に否定される.化石年代 及び古文書記録,さらには発掘調査から明らかとなった 友利元島での明和津波痕跡線の存在,そしてさらに本研 究による津波石群の調査結果との整合性から,この世界 最大級の帯大岩は,1771年に発生した明和津波によって 発生されたものであると結論される. 牧野の八重山の明和大津波によれば,小浜島は明和大 津波の来襲の際に浮いた(津波はほとんど遡上していな い)ことによって被害を免れたと伝承されているようで ある.これに対して,これまでに説明したパナリ島は津 波によって沈み,来間島は浮き,下地島は沈んだ島とし て比較される. 2.4 宮古島内陸部に残された津波痕跡 写真-25 に,宮古島の内陸部に残る津波痕跡(伝承に よる)位置を示す.M1 地点は,新城村の下手に広がる 低地にあり,津波石と思われる岩塊が在し,伝承では津 波がそこまで来たため,新城村はそれよりも高い位置に 村建てされたと伝えられている.他の一つは,海側から 続く断崖に沿って残された津波痕跡線である(M2 地 点).40~50年ほど前までははっきりとその線を認める ことができたのだが,現在は茂みに隠れてその線を目視 することはできない.これらの痕跡が,明和津波による かどうかは現在のところ定かではない.しかし,これら の痕跡点から断層にそって海側に出ると,そこは高々15 m 程度の標高の海食崖海岸となっている.上で述べたよ うに,宮古島南海岸の海食崖下に巨大な津波石を残した 津波の津波高が 30 m を超えていたとする判断からは, このような低地においては,津波の内陸部への遡上が十

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写真-27 グラスボート等による津波石とサンゴの遊覧観光 写真-28 津波石と植生を取り込んだ世界初の防波堤 分に想定される.

3. 津波石群が語る統一的見解

ここまでに,宮古島の沿岸に存在する津波石群の特徴 や 1771 年に発生した明和大津波に関する古文書の記録 について説明してきた.著者らはすでに,石垣島及び宮 古島沿岸に来襲した巨大な津波(巨大な津波石を発生さ せるほどの大津波)は,1771年に発生した明和大津波の ただの1つであるとする判断を与えている2)~5) これまでに見て来た宮古島の沿岸に散乱する津波石群 の特徴から浮かび上がることは,「これらの津波石群は ただの1回の津波によるものである」とする事実である. これらの津波石群に刻まれている波の侵食量によれば, 波による年間侵食量を0.5~2 mm 程度とすると,例えば 2000 年の間には 1~4 m という侵食量を示し,200 年に対 しては0.1~0.4 m 程度という侵食量を示すことになる. 津波石群に刻まれた津波石発生前の侵食量は(例えば, 写真-24に見るノッチの深さなどは)1 mを越えて深い. これに対して,現在の海面位置において波の作用を受け ている津波石群の侵食量は数 cm 程度となっている(例 えば,写真-2~9や写真-26など).すなわち,これらの 津波石群は,今日から大よそ250年前に発生した 1771年 の明和大津波によるものと判断される. こうした判断に加えて,現存する津波石群は散乱して いると言えども,その中に規則的な配置や直線状の並び などが存在し,複数の津波を受けて散乱しているという 状況ではない. 著者らのこれまでの調査結果からはすでに,沖縄先島 地方に来襲した巨大な津波は明和大津波のただの1回で あるとする結論が与えられている 2)~5).本調査結果にお いてその特徴を述べられた津波石群は,著者らのこれま での結論の正しさを後押しするものと結論される.

4. 沖縄先島地方の沿岸に残る津波石群の世界遺

産としての登録の提案

宮古島諸島沿岸の津波石群,そして八重山諸島沿岸に 残る津波石群,さらには沖縄本島沿岸に存在する岩塊群 を,世界にも稀有な事象の生きた遺産として世界遺産に 登録することを提案したい.その上で,津波防災など世 界が学ぶべき教訓と観光資源としての保全と活用を推奨 したい. 宮古島の東平安名崎から七又海岸に至る沿岸などは, 絶景の断崖海岸であり,かつ世界最大規模の津波石が残 されている.これらを防災の生きた教材や観光資源とし て活かすことは人類の自然との共存に大いに貢献するも のと考える.観光としては,断崖から伸びるスカイウオ ークによる世界最大規模の津波石や絶景の観光,グラス ボートなどを利用した津波石とサンゴの遊覧船観光など も想定し得る.また,リーフ先端部に「留まり」いかな る荒波にも耐えている姿の津波石の稀有さも活用できよ う(写真-27).こうした観光拠点としては,現存する 津波石と植生を取り組んだ世界初の防波堤を有する漁港 の活用が図られよう(写真-28). 津波石という天然記念物の設定に加えて,現存する古 文書との一体的保全と活用は立体的であり,人類共通の 財産として世界遺産への登録に十分に値するものと考え る.

5. おわりに

本調査の発端は,Google Earthを用いて,下地島の津波 石群や東平安名崎の津波石群を調べる過程において,東 平安名崎のリーフ先端部に「止っている」巨大な津波石 を見つけたことにある.いかなる波の作用下にあっても, 「止りつづけている姿」の稀有さが,本研究を勢い立ち 上がらさせた. 遊覧船コース例

(11)

著者は,これまでの調査結果から,過去2000年以上に 遡っても,沖縄先島地方には明和大津波の痕跡しか見い だされず,巨大な津波石を発生させるほどの大津波は, 明和大津波のただの1回のみであるとする判断を与えて いた.このような調査結果からは,巨大な津波石の発生 源なども明らかにされてきた. しかしながら,そのような判断をさらに後押しする証 拠を求めていた.このような折に,先に述べた「リーフ 先端で止っている津波石」が見いだされたと同時に,そ れらが現在受けている波の作用下の侵食量を調べること で,著者の主張する明和津波ただの1回説がさらに根拠 づけられると判断された.調査結果は,すでに述べたよ うに,「明和津波ただの1回説」を大いに裏付ける実証 と判断される.また,いつの日か津波調査に関連づけた いと考えていた著者の父が教えてくれた明和津波に係わ る伝承をも調査結果に関連付けることができた. 沖縄先島地方に来襲した津波に関する研究としては, これまでに数多くのものが存在する.しかしそれらは, 沖縄先島地方に巨大な津波が数多く来襲したことを主張 している.また,最近,明和大津波以外にも他に大津波 が発生していたことを説明する著書も出されている10) しかし,それらの結論は,著者のこれまでの調査結果か らは否定されなければならない. 著書「八重山の明和大津波」をもって明和大津波の実 態を初めて明らかにした八重山の郷土歴史家牧野清は, 「明和大津波以外にも大津波が発生し,現存する巨大な 津波石の発生はそれによるものである」とする発言に対 して,「(そのような想像津波があったのならば)同時 に明和大津波に由来する津波石はなかったという結果と なる.まことに不条理な話である」「根拠のない,又価 値もない典型的机上の空論」「明和大津波石の否定は明 白な誤謬」と断じている10) 写真-29(次項)は,著者が幼少の頃,海に降りると 決まって遊んだ吉野のパラムツ(断崖)海岸の汀線付近 にある岩場を示している.子供達は,親が漁に出ている 間,その岩の上から飛び降りたりしてその周りに遊んだ ものである.その他,保良海岸に見る岩塊群なども子供 達の遊泳場付近に見られた.当時,それらの岩石群が津 波と関連しているなどみじんにも話しに聞いていない. しかし,いまそれらが,明和大津波によることが明らか となった.身近にあるこうした津波石が,津波教訓を語 る教材として,そして島の観光資源として活用されるこ とを期待したい. 今後,ドローンなどを活用した調査にもとづいて,津 波石群に番地を持たせて石の平面分布や石の持つ特性な ども付記したデータベースを整理する必要がある.その 構築と活用を進めたい.また,津波石挙動に関する実験 結果及びコンピュータを用いた数値計算に基づく津波と 津波石の挙動特性については,別の機会に説明する予定 である. 謝辞:これまでの調査研究には,多くの方々の協力を得 ている.特に,宮古島の仲間利夫氏,川上和宏氏,砂川 一博氏,株式会社地建社長砂川博昭氏には長年に亘り多 大な協力を頂いた.ここに得られた成果は全てこうした 方々の協力の賜物である.また,本研究の一部は尾崎次 郎奨学基金の援助を受けている.ここに記し感謝の念と 感謝の意を表す. 参考文献 1) 牧野清:改訂増補八重山の明和大津波,発行者牧野 清, 462p.,1981,(初版 1956). 2) 仲座栄三:古文書・津波堆積物が示す世界最大規模 の津波の実態と対応策,土木学会,水工学委員会・ 海岸工学委員会,2014 年度(第 50 回)水工学に関す る夏期研修会講義集,B-8-116,2014. 3) 仲座栄三:八重山明和大津波と沖縄の巨大地震津波 の想定について,日本自然災害学会オープンフォー ラム,pp.13-19, 2014. 4) 仲座栄三:堆積物から推定される琉球諸島における 歴史・先史津波について,土木学会論文集 B3(海洋 開発),Vol.69,No.2,I_515-I_520,2013. 5) 仲座栄三:南西諸島における津波石の起源と発生メ カニズムに関する研究,土木学会論文集 B3(海岸工 学),Vol.71,No.2,I_193-I_198,2015. 6) 河名俊男・中田高:サンゴ質津波堆積物の年代から みた琉球列島南部周辺海域における後期完新世の津 波発生期,地学雑誌,103,pp.352-375,1994. 7) 加藤祐三・木村政紹:沖縄県石垣島のいわゆる「津 波石」の年代と起源,地質雑誌,89,pp.471-474, 1983. 8) 仲座 栄三, 津嘉山 正光, 松田 和人, 日野 幹雄:リーフ 上に打ち上げられたサンゴ礁岩塊位置による歴史大 波の推定,海岸工学論文集,36 巻,pp.65-69,1989. 9) 稲垣賢人・仲座栄三・入部綱清・渡邊康志:東北地 方大津波によって引き流された仙台市沿岸の松の木 の 分 布 特 性 , 土 木 学 会 論 文 集 B3 (海洋開発), Vol.68,No.2,I_120-I_125,2012. 10) 後藤和久・島袋綾乃編:最新科学が明かす明和大津 波,南山舎,197p.,2020. (Received July 22, 2020)

(12)

写真-29 宮古島城辺吉野・パラムツ海岸の汀線部に散乱する津波石群 (点線で囲む辺りに散乱する津波石の周りが子供達の遊び場であった.そこには,沖に見るサンゴ礁縁の凹部に向かう 流れの白濁と汀線部に小さな砂嘴(砂浜の凸部)が見られる.大人達は,潮が引くにつれ,この砂嘴の浅瀬を渡り我先 にとサンゴ礁縁付近に向かった.冬場の海は,たいまつの灯りでにぎわった.帰りは,海の幸を担ぎ高さ 100m 程もあ る断崖の獣道を登るのだが,その途中で振り返り海を見下ろすと,眼下の海は潮で満たされ,先ほどまでに遊んだ岩場 は深い海と化していた.)

参照

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