41 【研究論文】
村落祭祀をめぐる自治会組織の役割とその歴史的背景
―八重山諸島石垣島新川の事例を中心に―
石川恵吉
∗ 要旨 本稿は,八重山の自治会組織の上層役員が,村落祭祀の日選りに関わり,また女性司祭に対 して祈願の依頼をおこなうなど,祭祀の実施・運営の中心的な役割を担っていることについて, 組織の歴史的背景に注意を向けながら検討したものである。 上層役員の果すこうした役割の背景には,上層役員と系譜的につながる琉球王国時代の村役 人「世持」「田ぶさ」の存在があった。各地の口頭伝承や歴史資料を照合していくと,彼らは 百姓層の社会生活に関する指導・監督役を担う一方で,村落祭祀にも深く携わり,祭祀を滞り なく実施する役割を担っていたのである。 キーワード:村落祭祀,自治会組織,祭祀の担い手,組織の役割と歴史,琉球の国家制度 はじめに 八重山諸島では,村落の自治会組織が地域住民の生活向上を目的に敬老会や運動会など の活動をおこなう傍ら,御嶽やそれに準ずる聖地でおこなわれる村落レベルの祭祀(以下, 村落祭祀と略記)の実施・運営に深く携わっている状況がみられる。特に自治会組織の上 層役員については,祭祀の日選りやツカサ(女性司祭)への祈願の依頼,そして毎月おこ なわれる祭祀への参加など,村落祭祀の執行責任者としての役割を果たしている。そのた め与那国島では,自治会長はその任期中「司やティディビとともに「神の信者」となる」 [杉島 2010:p.158]といわれるほどである。自治会組織の上層役員が,これほどまでに 村落祭祀に関わるのはなぜか。本稿では,村落祭祀と自治会組織,特に上層役員の関わり について,組織の歴史的背景に注意を向けながら検討する。 さて,八重山の事例を通して村落祭祀と自治会組織の関係を論じた先行研究は,これま でいくつかの成果が発表されている。その多くは保仙[1979],玉城[2000],小林[2002・ 2008],上井[2005]等にみられるように,特定の村落をめぐる個別的な調査報告である。 そのうち上井[2005]は,村落祭祀における公民館長(ここでいう自治会組織の会長に相 当する)の関わりとその立場について検討しており,次のような指摘をおこなっている。 上井によれば,沖縄島とその周辺離島の村落では,根人と根神という男女の神役が御嶽の 祭祀をつかさどっており,先島(宮古・八重山の総称)では「トネと司」がそれに相当す るという。その理由として,西表島祖納で公民館行事のことをトニモト行事と呼んでいる ∗ 名桜大学環太平洋地域文化研究所係員島嶼地域科学第 1 号(2020) 42 ことや,与那国島のマチリで公民館長とツカサがトネでお籠りをしていることをあげ,「〔公 民館長の役職は〕かつてのトネの立場を継承しているとみることができるようである」[上 井 2005:p.83]と指摘する。すなわち,上井は現行の村落祭祀における公民館長の位置と 役割は「トネ」(沖縄島では根人に相当する)に由来するというのである。 しかし,沖縄島およびその周辺離島の根人・根神という神役は,村落の草分け筋の家の 長男とその姉妹が担うことになっており,八重山の「公民館長」と「司」は,根人と根神 のような兄弟姉妹の関係にはない。また,筆者がおこなった西表島祖納調査では,公民館 行事を「トニモト行事」と呼ぶことや,公民館長のことを別名「トネ」と呼ぶことについ ての証言は得られず,その他の村落においても同様の事例を見出すことはできない。さら に,この上井の論考は先の 2 地点の事例をもとに解釈したものであり,八重山の他の村落 の事例や組織の歴史的背景については全く目配りされていない。 そこで,本稿では石垣島新川の事例を中心に検討しながら関連する八重山の他の村落の 事例にも目を向けてこの問題について考えてみたい。 なお,本稿で依拠する調査資料は 2011(平成 23)年から 2016(平成 28)年にかけて筆 者が現地で収集したものを基にしている。 1.石垣島新川の概況 沖縄島から南西に約 430 km 離れた八重山諸島は,北西の多良間島と南西の台湾島の間 に点在する島々で,行政および商業の中心地である石垣島を中心に,竹富島,小浜島,黒 島,新城島,西表島,鳩間島,波照間島,与那国島などからなる。本稿でとりあげる新川 は,石垣島に所在し,島の南西部に拡がる通称四箇字(登野城・大川・石垣・新川の 4 つ の字の総称)の西端に位置している。 人口は,石垣市役所の統計資料によれば,2018(平成 30)年 4 月末時点で世帯数 4,103 世帯,人口 8,503 人とある。だが,新川字会作成資料「平成 28 年度 新川字会通常総会」 によれば,平成 27 年度の字会費徴収戸数は計 516 戸となっており,先の統計資料の比率(世 帯数:人口=1:2)を考慮すると実際に新川字会の活動に関わっている人口は 1,000 人ほ どとみられる。 新川の主な産業は,農業で水稲・甘蔗・野菜・果樹類を生産しているほか,畜産もおこ なわれている。 2.自治会組織の構成 新川では,現在自治会のことを「新川字会」と呼び,その組織を「字会組織」と称して いる。字会組織の構成は表 1 のとおりである。 新川字会は,会長,副会長からなる四役(ヨンヤクという)を筆頭に,部会,町内会, 外郭団体から構成される。 四役は,別名ヤクシャ(役者),ムラヤクシャ(村役者)とも呼ばれ,会長については別 名ユームツ(世持)とも呼ばれている。四役の構成は,会長 1 人,副会長 3 人の計 4 人か ら成り,副会長については総務担当,会計担当,祭事担当と職務が分掌化されている。
43 総務担当は,公文書などの受付と発送を担っている。会計担当は字会費の納入と諸々の 行事の収支を担っている。祭事担当は,祭祀ごとの供物の準備やツカサとの段取りなどの 事務的な作業を担っている。四役の任期は 2 年で,後任がいない場合は再任となる。 四役の選出方法は次のとおりである。会長は,字会会員の中から前任の四役の推薦によ って選出され,新暦 1 月開催の通常総会の場で会員の承認を得て正式に就任となる。副会 長は,会員の中から新会長の推薦によって選出され,同じく通常総会の場で承認を得て就 任する。四役は,基本的に男性が担い,会長は 60 歳後半から 70 歳前半くらいまでの者, 副会長は 50 歳後半から 60 歳前半くらいまでの者から主に人選される。そのうち,副会長 の祭事担当に限っては 4,5 町内在住の者1)から選出される傾向があるという。それは,4, 5 町内は通称マフタネーといわれ,かつては百姓層の居住地域であったことが関わってい る。資料 1 からうかがえるとおり,村落祭祀は農耕のサイクルに沿った祈願が主で,かつ ては百姓層を中心に祭祀が営まれていた。そのため,その末裔にあたる 4,5 町内の住民は 現在でも祭祀への思いは強く,関心も高い。そして祭祀への素地もあるという 2)。このよ うな事情からその他の町内に住む住民はなかなか祭事担当になりたがらない状況があるよ うである。 部会 3)は,産業部,文化部,体育部,青少年健全育成部からなる。各部には正・副部長 が 1 人ずついる。産業部は,農畜産物の増進奨励を進めており,年に一度,産業共進会を 催して優良生産者を表彰する活動をおこなっている 4)。文化部は,文化教養の修養を図っ て様々な研修を企画しているほか,広報紙「新川字会だより」を発行して会員に向けて各 種行事の周知をおこなっている。体育部は,新暦 4 月開催の新川字会運動会の企画・実施 のほか,八重山郡民大会や八重山毎日駅伝大会などへの参加をおこなっている。青少年健 全育成部は,主に青少年・町内子ども会の活動支援をおこなっている。 町内会は,新川に 5 つ存在する。各町内会には正・副会長が 1 人ずつおり,そのほか評 議員が 4 人から 7 人程度いる。彼らを中心に様々な活動をおこなっており,字会費の徴収 も上記の役員が担っている。 その他,外郭団体に老人クラブ,婦人会,青年会などがあるが,本稿とは直接関わらな いためここでは詳細を割愛する。 上層役員 四役:会長,副会長(総務担当・会計担当・祭事担当) 部会 産業部 文化部 体育部 青少年健全育成部 町内会 1 町内~5 町内 外郭団体 老人クラブ,婦人会,青年会など 表 1 新川字会の組織構成 (筆者作成)
島嶼地域科学第 1 号(2020) 44 資料 1 平成 26 年度新川字会活動報告 月 日 曜日 事 項 5 日 役員会 7 火 臨時評議員会 12 日 新川字会通常総会・新年祝賀会 15 水 評議員会 19 日 掲示板の取替え 25 土 公民館学級閉級式 26 日 石垣島マラソン大会(交通整理要員として参加) 31 金 生年祝い 1 土 役員会 2 日 育成部GG大会 9 日 防災設備貸与式 石垣中学校・生涯学習フェスタ(中ホール) 16 日 評議員会 18 火 ションガズニガイ(長崎・真乙姥御嶽)~19日 5 水 役員会 14 金 ニンガズタカビ(長崎・真乙姥御嶽) 15 土 評議員会 22 土 フサバニガイ(長崎御嶽) 2 水 役員会 15 火 評議員会 21 月 フサバムヌン(長崎御嶽) 23 水 新川地区地域福祉ネットワーク推進会(新川公民館) 27 日 新川字会運動会・市防災訓練 16 金 ナカニガイ(長崎・真乙姥御嶽) 1 木 役員会 11 日 フルズムヌン(長崎御嶽) 15 木 評議員会 22 水 春の大清掃 25 日 評議員会 1 日 役員会 15 日 評議員会 21 土 豊年祭に向けての四ヶ字・双葉意見交換会(大川公民館) 29 日 真乙姥嶽修繕 1 火 役員会 2 水 産業共進会の審査委員会 6 日 評議員会、準備委員との打合せ 9 水 村揃い 11 金 ユヌシュビ ~12日 13 日 豊年祭に向けての大掃除 19 土 長崎嶽修繕 ~20日 21 月 フバナアギ 22 火 ユーヌニガイ 23 水 サンダミ 26 土 牛馬の碑整備 ~9月14日 1 金 役員会 15 金 評議員会 1 月 役員会 15 月 ウスンマヌヨイ 20 土 ハツンガズニガイ(長崎・真乙姥御嶽)~21日 1 水 役員会 4 土 八重山郡陸上競技大会総合7位 ~5日 12 日 敬老会 23 木 秋の大清掃 1 土 役員会 2 日 第50回石垣島まつりパレード参加 15 土 評議員会 29 土 ジュンガズタカビ(長崎・真乙姥御嶽) 7 日 タニドゥルニガイ(長崎御嶽)・毎日駅伝大会 総合7位 2 火 役員会 14 日 国立劇場おきなわ公演 17 水 評議員会 30 火 会計監査 平成26年度新川字会活動報告 1 2 3 4 5 6 7 12 11 10 9 8 (「平成 27 年度 新川字会通常総会」より作成)
45 字会組織の年間の活動は,資料 1 のとおりである。資料1は,新川字会が作成した公式 の活動報告である 5)。資料内の網掛け部分は,村落祭祀および関連する活動を示している (網掛けは筆者が施した)。多彩な行事と一体となって伝統的な祭祀が展開していることに ついて,筆者が調査に入った 2018 年当時の会長は「年間行事の中には運動会や敬老会など の字民に直接かかわる行事と,祭祀のように間接的にかかわる行事があるが,どちらも字 民の健康,生活,そして生産の安定を求めるもので,両者を並行してやっていかないとそ の目的は実現できない」と話している。 3.村落祭祀をめぐる自治会組織の今日的役割 字会組織は以上のような構成からなるが,そのうち村落祭祀と直接かかわっているのが 四役である。四役は,任期中,村落の御嶽である長崎御嶽と真乙姥御嶽の祭祀に携わって いる[石川 2013]。ここでは,村落祭祀をめぐる四役の役割について紹介する。 まず,四役は祭祀の実施日を決めるため,新暦 1 月の通常総会までに祭祀に詳しい男性 古老らと共に祭祀日の日選りをおこなっている。祭祀日が仮決定されると,通常総会の場 で会員に提起され,承認を得て正式に決定となる。四役は,その結果をもとに各御嶽のツ カサにその旨を伝えて年間の祈願の依頼をおこなっている。 副会長の祭事担当については,先述のとおり祭祀ごとに用いる供物の準備を各御嶽の補助 役の婦人らと共におこなっているほか,儀礼実施の時間についてはツカサと調整している。 さらに,四役は村落祭祀の中で最も規模の大きい豊年祭(資料1で示すと 7 月の「村 揃い」から「サンダミ」までの期間をいう)に,臨時組織として豊年祭準備委員会を立 ち上げ,準備委員長を選出し,数名の委員をつけて豊年祭の準備および運営にあててい る。祭事担当の副会長については,豊年祭のムラズルイ(村揃い。村の集会)を開催し て各人の役職を決め,シュククバリ(職配り)と称して担当者へその役割を通知してい る。四役は豊年祭の期間中,芸能の練習会場や道具・供物の準備会場などをまわり,関 係者を激励しながら各所の進捗状況の把握に努めている。また,サンダミ(収支決算) では,準備委員会から豊年祭の決算に関する報告を受けているほか,その晩におこなわ れる役職ごとの慰労会にも顔を出して,労をねぎらうとともに参加者から反省点なども うかがっている。 次に,儀礼(祈願)場面における役割をみてみよう。 儀礼では,基本的にツカサと御嶽に所属する婦人らが先に御嶽へ入り,場を整え,供物 の準備などをおこないつつ,四役の到着を待っている。すなわち,四役の到着がなければ 儀礼は始まらないのである。四役は,線香・御米・祝儀の入った一重の重箱(コーハナと いう)を持参して長崎御嶽,真乙姥御嶽の順にまわる。 四役が御嶽に到着すると,ツカサが御嶽内の各香炉に線香を供えて祈願がはじまる。四 役は,祈願中ツカサの後方に座して合掌しながらともに祈願をおこなっている。それが済 むと神前に供えた御酒をおろして,ツカサ,四役でまわして飲み,そのあと参加者にもま わされる。このような一連の祈願が儀礼ごとにおこなわれるのである。 その他,四役は豊年祭において次のような役割も担っている。新川では,豊年祭の世願
島嶼地域科学第 1 号(2020) 46 イでおこなわれるスナイ(奉納行列)で四役がユームツ(世持)と呼ばれる役を担い,村 落の男性古老らを従えて,女性司祭の水ヌ主の後方から合掌しながら次の儀礼歌謡ヤーラ ーヨーをうたいつつ,御嶽の庭を一巡する6)。 ヤーラーヨー7) 〔詞章〕 〔訳〕 一、ヤーラーヨー ヤーラーヨー (囃子,以下同じ) ヤーラーヨー ヤーラーヨー(以下,*) きゆぬ ひーば むとぅ し 今日という日を基にして ヤーラーヨー ヤーラーヨー(以下,**) 二、* くがにひーば にーつき し ** 素晴らしい日を拠りどころにして 三、* みるくゆーば たぼられ ** 豊饒をください 四、* ふくぬゆーば たぼられ ** 豊饒をください また,その後におこなわれる綱引きでは,雄綱と雌綱を貫棒で接合させるブルピトゥ(ブ ルヌキィピトゥともいう。貫棒役のこと)の大役を会長が務めている。 このように,自治会組織の上層役員は,村落祭祀の企画から運営に至るまでの執行責任 者として様々な役割を担っているのである。 4.上層役員の歴史的背景―新川の「四役」の検討から 自治会組織の上層役員の役割は,資料 1 からうかがえるとおり多岐にわたるが,その 中でも特に重きを置いているのが村落祭祀の実施である。なぜ上層役員はここまで村落 祭祀に関与しているのか。まずは,上層役員の歴史について確認することからはじめた い。 4-1 新川字会の成立過程 現在の新川字会の成立は,新川字会作成資料「平成 27 年度 新川字会通常総会」による と「大正期」とある。字会の創建当初の役員は,初代会長に宮良長扶,第 2 代(大正~昭 和 17 年まで)会長に宮良長庸,副会長に富田安伴,第 3 代(昭和 9 年)会長に浦崎永珍, 副会長に富田安伴と続いている。役員の体制は,当初会長 1 人の一役制からはじまるが,2 代目は会長と副会長の二役制となり,1943(昭和 18)年からは副会長に会計担当が加わっ て三役制へと移行している。そして 1985(昭和 60)年からは,副会長に祭事担当が加わり 現在のような四役制へと変わった。この祭事担当については,1985 年以前までは三役と並 んで「祭事係」という別の役職が設けられていた。祭事係の任期や職務内容は,現在の祭 事担当と同じであるが,当時は無報酬であったようである。だが,後に多忙な役職であり ながら報酬がないのはおかしいという意見が字民から出たため,祭事係から副会長に昇格 させ,報酬を得られるようにした経緯がある。 さて,新川字会の設立初期の状況について村落の古老によれば,字会の設立はかつて士 族層によっておこなわれたという 8)。実際に,先に挙げた字会創建初期の役員の状況を探
47 ると,初代会長の宮良長扶は名前の名乗り頭に「長」の付く山陽氏の一門である。1885(明 治 18)年から 1886(明治 19)年にかけて新川の士族層について調査した田代安定の「八 重山島管内石垣島新川村巡検統計誌(士族之部)」にもその名前がみえる。また,第 2 代目 会長宮良長庸も同じく山陽氏であり,副会長富田安伴は名乗り頭に「安」の付く毛裔氏, 第 3 代目会長の浦崎永珍は名乗り頭に「永」の付く嘉善氏で,副会長は先に同じである。 このことから,いずれも先の口伝のとおり新川字会を築いたのは士族家系の人々であった ことがわかる。 新川の歴史を遡ると,現在の四箇字はかつて石垣村と登野城村の 2 つの村落からなって いたが,1757(乾隆 22)年に石垣村の人口増加にともなって分村し,新川村が誕生してい る。『八重山島年来記』(成立年代不明)には,村建て当時,道を境として士族と百姓を分 けて分村したことが記録されている[石垣市総務部市史編集室編 1999]。すなわち,新川 村は創建当初から士族と百姓が共生する村落であったのである。また,両者の居住区域や 自治組織もそれぞれ分かれていた[石川 2018]。 士族層の組織(以下,士族組織と略記)については,現時点で具体的な情報を得ること はできない。しかし,先述のとおり旧慣制度が廃止される 1903(明治 36)年ごろまでは士 族組織は存続していたとみられ,その後は代替組織として新川字会を創建し,士族組織か ら字会組織へと変わっていったことは明らかであろう。 一方,百姓層の組織(以下,百姓組織と略記)については具体的に次のような話を複数 の話者から聞くことができた。 新川在住の男性古老(昭和 6 年生)によれば,1948(昭和 23)年頃までムラヤクシャ(村 役者)あるいはビギドゥンヤクシャ(男役者)と呼ばれる男性の組織があったという。村 役者はマフタネーに住む人々からなり,主に村落の祭祀に従事していた。組織は年齢順に 上からシジャヤク(兄役。70 歳以上の者)2 人,ナカヤク(中役。50 歳から 70 歳程度の 者)2 人,ウトゥドゥヤク(弟役。30 歳から 50 歳程度の者)2 人の計 6 人から成っていた。 任期は 1 年である。新川在住の入嵩西清佐も同様の話を伝えているが,入嵩西[1991]は シジャヤクのことを別名ウイヤク(上役)あるいはウヤヤク(親役)と称し,ウトゥドゥ ヤクのことを別名ファーヤク(子役)とも称したと伝えている。また,1948 年に最後のウ トゥドゥヤクをつとめた話者(昭和 6 年生)によると,当時 17 歳でウトゥドゥヤクになっ たと話している。ウトゥドゥヤクの年齢は,元々30 歳から 50 歳程度だったものが,年々 低年化していったのであろう。村役者の選出方法については,入嵩西[2001]の報告によ ると「男子役の選出は豊年祭の翌日(サンダミという)バラザンでそれぞれの役を決める」 [p.131]とある。この男子役とは,ここでいう男役者=村役者に相当し,バラザンとは藁 算の意である。 以上のことから,新川にはもともと士族組織と百姓組織が存在し,村落祭祀の実施につ いては百姓組織がその役割を担っていた。しかし,1948 年以降は祭祀執行の主体が百姓組 織から新川字会へと移行したことを契機に百姓組織は解消され,その後は新川字会が祭祀 実施の担い手としてその役割を引き継いだ経緯があったのである。
島嶼地域科学第 1 号(2020) 48 4-2 「四役」の歴史的背景 次に,村落祭祀に直接携わっている四役の歴史的背景について探ってみたい。まず,四 役の別称となっている「村役者」あるいは「役者」という名称に注意を向ける。八重山各 地の村史や地誌を参照すると,たとえば石垣島登野城・大浜・川平,竹富島,西表島網取, 鳩間島,波照間島,与那国島などでも自治会組織の上層役員を村役者あるいは役者と称し ている(いた)ことが報告されている9)。では,この村役者とは何に由来する名称なのか。 1898(明治 31)年から 1904(明治 37)年までの間切島会に関する書類を集録した竹富 村事務所作成の『間切島会関スル書類』に,次のことが記されている。 記/惣代理 前我那釜多/仝 金城山多/仝 東門於座/田ボサ 高嶺加那/仝 古 堅比屋久/加治工山多/札持頭 上勢頭保久利/村筑 大松/筑小 勢頭松/田福三 良/寄原山多/根原次良/村佐事 仲里加那/入阿(佐)伊真津/内根原加那/幸本 山多/右ハ明治三十三年度村役者人申渡候也/明治三十三年六月/竹富村事務所 [竹富町史編集委員会町史編集室編 2005: pp.310-311,下線筆者] 上記の記事は,明治 33 年度の惣代理・田ボサ・札持頭・村筑・筑小・村佐事といった行 政職の担当者を申し渡したもので,引用文の下線部から上記の役職者を「村役者」と称し ていたことが確認できる。同様の記述は,宮良殿内の当主宮良當整が 1900(明治 33)年か ら 1901(明治 34)年にかけて記した『日誌 宮良記』や,1904(明治 37)年に竹富村事務 所が記した『村日記』にも確認できる。 また,八重山の郷土史家である喜舎場永珣も次のことを報告している。 村役者は土地出身の者から選ばれ,一年交代の制となっているが,その役者の名称に は数多くある。仕事の性格上名称が各々に付せられている。すなわち,総代,世持, 田補佐,仲シィス,山当,原当,牧当,村佐事等の役者がいる(中略)これらの役者 が,役人の村行政の補助機関として御奉公したのである。[喜舎場 1967: pp.236-237] 上記の報告で注目されるのは,「村役者」が「土地出身の者から選ばれ」る人々で,「〔蔵 元役人や番所役人が統括する〕村行政の補助機関として御奉公した」人々であると明確に 記されている点である。 このことから村役者や役者という名称は,かつての自治組織の役職者を総称する行政用 語に由来していることがみえてくる。 4-2-1 会長と世持 そのことを踏まえたうえで,次に会長の別称である「世持」に注目してみたい。 八重山各地の報告に目を向けると,自治会組織の会長を世持と称するのは新川に限った ことではなさそうである。 たとえば,石垣島登野城ではかつて会長のことを総代(ソーダイ)と呼んでいたといい, さらにさかのぼると総代の前は「世持」と呼んでいたという[牧野 1975]。 小浜島では,村落を成す北部落と南部落の自治会長のことを「ユームツ」(世持)と称す
49 るという[竹富町史編集委員会編 2011b]。山城[1972]によると「(小浜)島の祭行事を 進める中にあっては,厳然として世持の格が保持されているが,行政運営に当っては,総 代(すうたい)と称し,行政構造の変革によって,部落会長と称するようになってきてい る」[p.49]と伝えている。筆者の小浜島調査 10)では,豊年祭のときは世持,結願祭のと きは総代と呼び分けていると聞いており,そのことは森田[1999]も報告している。 与那国島は,現在,久部良・東・比川・島仲・西の 5 つの村落から成り,各地の自治会 長を「ドゥムティ」(世持)と称しているという[与那国町史編纂委員会事務局編 2010]。 では,この世持という名称は何に由来しているのか。 1875(同治 14)年に布達された『富川親方八重山島諸村公事帳』(以下,『富川諸村公事 帳』と略記)を参照すると,世持とは近世期に王府が定めた百姓役目のなかの一役職であ ったことが確認できる。百姓役目とは百姓層から選出される行政職のことである。『富川諸 村公事帳』には,八重山各地に置かれた百姓役目の役名,人員,職務内容に関する定めが 記されている。それによると,世持は各村に 1 人ないし 4 人ずつ置かれており,51 歳以上 の「頭迦」(貢租や夫役の負担義務から除外された人々のこと)から選出することになって いる。世持の職務内容については,次のように規定されている。 世持・田ふさ之儀、毎朝百姓等面引合させ作場江追出、耕作方相働せ、跡追ニ而致下知 方、役人江首尾申出所中万事之差引入念相働候也 [石垣市総務部市史編集室編 1992:p.18] 上記の史料によると世持の役割は,主に毎朝百姓を直接照合して耕地へ向かわせ,作業 を監督し,村役人へその首尾を報告することとなっている。そして,村中の様々な指導と もある。上記の「所中万事之差引」(村中の様々な指導)には,たとえば次のようなことが あった。次に掲げる記事は『目差役被仰付候以来日記』(1878-1879 年成立)所収の「証文」 の記事である。 女人共小袖・袴致着候様御定被置候処、不守之者罷在哉ニ被聞召、此節御取締被仰渡 趣逐一奉拝聞、所中堅取締仕、随分仰渡通相守させ可申候、自然不守之者於有之者、人 体者勿論、親兄、私共ニも可蒙重科候、為後証如斯御座候、以上 盛山村世持白保村松本や赤頭 桃里村松本や赤頭 寅七月 松本にや 松本にや [石垣市総務部市史編集室編 2006:pp.90-91] 上記の記事は,村の女性にスディナ(胴衣),カカン(下裳)を着用するよう指導する旨 を述べたものである。ここで注目されるのは,この証文が盛山村の「世持」から発出されて いることである。またこの証文には,着用義務をもし守らない者がおれば,本人はもちろん のこと親兄弟をはじめ世持も重罰を受けると記されており,世持の職責の重さがうかがえる。 このことから,会長の別称であるユームツとは,近世期に百姓層の農事や社会生活に関 わる指導・監督の役目を負っていた行政職の世持に由来することが確認できるだろう。
島嶼地域科学第 1 号(2020) 50 4-2-2 副会長と田ぶさ 自治会長とかつての世持が繋がる状況は上記に示したとおりであるが,副会長の状況は どうだったのか。八重山の旧俗を伝える『慶来慶田城由来記』を参照すると世持と共に行 動する,ある役職が浮かび上がってくる。次に掲げる記事はそのことをよく伝えている。 種子取之日、稲種取蒔入(中略)村中之老人幷役人衆、おはま・うなり相揃,田ふさ・ 世持役人衆御供ニ而始終銘々祝ひ仕 [石垣市総務部市史編集室編 1991:p.10] また,次のような記事もある。 (前略)村人数、腰よこい迚、穂花神酒呑祝ひ持立、五六日先ゟ日を見合、戊己庚辛 ニ相限、田ふさ・世持・村之老人相揃打相談之上相極(後略) [石垣市総務部市史編集室編 1991:p.12] はじめの記事は,稲の播種にあたる種子取について記したものである。それによると稲 の播種後,村中の老人,役人,そしておはま(ブバマ。叔母のこと),うなり(ブナリィ。 姉妹のこと)が揃って祝いをするとあり,その際,田ぶさと世持は終始役人のお供をして 共に祝うと伝えている。 次に掲げた記事は,農耕の腰休めとして 5,6 日前から戊己・庚辛にあたる日を田ぶさ, 世持そして村の老人の間で相談して決めたことを伝えるものである。この記事は,現行の 四役が種々の自治会行事や村落祭祀の日選りを,村落の男性古老らとともに決めている状 況と重なるものがある。 上掲の記事から世持と共に行動していたのは「田ぶさ」11)という役職であり,この田ぶ さと現行の副会長がつながることが想定される。『富川諸村公事帳』によれば田ぶさは,世 持と同様に百姓役目のなかの一役職で,「頭迦」から選出されていた。田ぶさもまた各村に 1 人ないし 4 人ずつ置かれており,世持と同様に百姓層の農事や社会生活の指導・監督を おこなう役目を担っていたのである。 以上のことから,四役の別称である「村役者」,会長の別称である「世持」,副会長とつ ながる「田ぶさ」は,いずれも琉球王国時代に百姓層から選出された王府公認の行政職に 由来することが明らかとなる。 5.上層役員の役割をめぐって さて,自治会組織の上層役員は,村落祭祀の日選りに携わり,ツカサに祈願の依頼をお こなうなど,祭祀の執行責任者としての役割を担っている。本節では,前節で確認したか つての世持・田ぶさとのつながりを考慮しながら現行の上層役員の役割について考えてみ たい。 村落祭祀をめぐる四役の主な役割には,①祭祀の日選りをおこなうこと,②祭祀を滞り なく実施・運営すること,があった。本節ではこの 2 点を中心に検討する。
51 5-1 村落祭祀の日選りに携わることについて まず,四役が祭祀の日選りに携わっていることについて検討するが,はじめに四役と 祭祀の日選りの今日的な状況を確認しておきたい。次の資料 2 は,副会長の祭事担当が 保管する「平成 5 年度新川字会祭祀執行日程調整会」の記録である(資料内の「出席者」 の項には個人名が記されているため筆者がイニシャル表記に書き改めた)。この資料は今 から 27 年前のものであるが,祭祀の日選りの実際の様子を伝えており参考になるので紹 介する。 資料には,平成 4 年 12 月 13 日に祭事宅(祭事担当宅のこと)にて祭事執行日程調整会 が開催されたことが記されている。出席者の内,T.A,M.A,I.Yは当時の四役で,そ の他は 70 歳以上の男性古老である。当時の四役によれば,実際の日選りは古老によってな され,その結果が四役に伝えられたという。資料の後半部には,祭祀ごとに定められた日 干支や旧暦が記されており,それに基づいた日選りがおこなわれたものと推測される。現 在は,祭祀の日選りに詳しい古老が年々少なくなっているが,上記のような日選りをめぐ る過程は変わっていない。 だが,次の入嵩西[2001]の文字記録をみると現在の状況とは若干異なっていたことが うかがえる。 祭事を実施する為に男子役六名(親役二名,中役二名,子役二名)と女子役六名を選 任する。(中略)/役人の任期は一年で以上の十二名が中心になって一年間の祭事を取 りしきる事になっているが,男子役がそれぞれの祭事の日取りを定める。とはいって も,大方の日取りはあらかじめ定められてはいる[p.132]。 上記の内容は,大正末期から昭和初期ごろの状況を述べたものであろう12)。それによる と,祭祀の日選りは「男子役」がおこなっていたとある。この男子役とは,先にみた男役 者にあたる。かつての百姓組織の幹部で,先述の世持・田ぶさとつながる役職である。こ 平成五年度新川字会祭事執行日程調整会 平成四年十二月十三日 日曜日 祭事宅 出席者 O.K T.S D.A F.N I.S T.A M.A I.Y 懇親会 寿司盛合わせ 二つ ビール 十本 酒 祭事 日取りの取り方について 豊年祭は旧月六月に入ってから取る 十二支十干 きのえの かんぴゆる(寅 亥 酉 辰 午) みずのと きのえ 等で取る 牛馬祭(つちのと 丑 午) 獅子祭り(旧盆の送る日) 正月願い 健康願い(みずのと みずのえ) 資料 2 平成 5 年度新川字会祭祀日程調整会 (「平成 4,5 年度 祭事関係記録」より作成)
島嶼地域科学第 1 号(2020) 52 のことから,祭祀の日選りは百姓組織の幹部が中心となっておこなっていたことが明らか となる。この入嵩西の報告は,現在の状況とは異なるが今のところその変遷に関する詳し い事情を筆者は得られていない。その点については今後の課題としておきたい。 では,なぜ「男子役」が「祭祀の日取りを定め」ていたのか。また,その背景には何が あったのか。ここでは,沖縄の暦の歴史的変遷を検討している中鉢[1993]の見解を参考 にこの問題を考えてみたい。 中鉢によれば,宮古・八重山における日選りの実態については未だよくわからないとし ながらも,『富川親方宮古島公事帳』(1874 年)の「往古ヨリ由来有之毎年蔵元ヨリ相渡候 祭祀定ノ外,旧俗ト申祈願祭事ヶ間敷儀,所中ノ造作不大形段ハ勿論,所俗ノ故障,衰微 ノ基候間,右定ノ外ハ一切可留事」という条文や,1884 年成立の『旧慣調査書』「宮古島 近古文書」の「年々蔵元ヨリ其祭日ヲ文ヲ例トシ之ヲ祭記定メト云フ」という記事を引い て,近世末期の宮古では「祭祀定」による王府公認の日選り,および祭祀日の指定がおこ なわれていたという[中鉢 1993:pp.57-58]。そのうえで「一般に,遠島における,王府祭 祀以外の土着の祭祀には「間切日撰」13)が用いられる傾向が『〔琉球国〕由来記』段階に みられるので,先島でもなんらかの日撰書の通達による「間切日撰」できめられたのでは ないか。このことは「間切公事帳」段階の「祭祀定」から,近世末期まで一貫していたと 思われる」[中鉢 1993:p.58]と指摘している。 さらに,中鉢は『目差役被仰付候以来日記』の 1877 年 3 月の記事「此日新川より白保迄 物忌之事」の「同廿五日辛巳,両村共芋かつらニくわく相付,為去方物忌支度,各百姓等 申出趣有之候付,先例通慎方□□,拙者幷筆者ニも卯時浜下,桃里村老□男女面引合いた し,物忌之掃除相働(後略)」を引いて,その中の「〔盛山・桃里村の〕各百姓等申出趣有 之候付」という記述について,これは「百姓側からこの日に物忌をおこないたいとの申し 出が,図らずも多くの村の日取りと一致したということではあるまい。物忌行事をしたい との申し出はあったが,日撰は,在地役人がなんらかの日選書または暦で共通の日を選ん だということだろう」[中鉢 1993:p.58]とも述べている。 このことから,近世期の先島における祭祀の日選りは,「祭祀定」による王府公認の日選 りか,「間切日撰」による日選りであった可能性があり,各村における祭祀の日選りはこれ らの日撰書を用いながら行政の主導によっておこなわれていたことが想定される。 前節でみたように,現行の会長や副会長とつながる世持・田ぶさは行政機関の末端に 位置する村番所へ出勤し,与人や目差などの番所役人から様々な事項を通達されて,そ れを百姓層へ伝え,実施させる役目を負っていた。その通達のなかには,祭祀の日選り に関することも含まれていただろう。また,『目差役被仰付候以来日記』の記事に「各百 姓等申出趣有之候付」とあるように,世持・田ぶさは百姓層からの祭祀に関する要望も 番所役人へ伝えていただろう。そのような過程において村落祭祀の祭祀日が決定されて いたのである。 また,そのことと関連して波照間島では,1972 年時点において年に 3 回,バンユーレー と呼ばれる村落祭祀の日選りの行事が実施されていたことが報告されている。その行事に は各ムラのツカサとオーセーピトゥと呼ばれる区長・町議員・総務・幹事が参加したとい
53 う[宮良 1972]。オーセーピトゥのオーセーは村番所の意で,ピトゥは人の意である。波 照間島で,祭祀の日選りに関与する区長・町議員・総務・幹事のことをオーセーピトゥと 呼んでいることは,かつて村番所に関係する人々が祭祀の日選りに携わっていたことを物 語っており,この問題を解く上で参考となる。 以上のことから,現行の自治会組織の上層役員が村落祭祀の日選りに携わっているのは, 先述した近世期の日選りをめぐる世持・田ぶさの役割が大きく関わっているとみられるので ある。 5-2 祭祀を滞りなく実施・運営することについて 次に,現行の四役の役割である村落祭祀の実施および運営について考えてみたい。 八重山各地の村誌や地誌に目を向けると村落祭祀における世持・田ぶさの役割がみえて くる。 石垣島川平では,明治の中頃まで世持・田ぶさという役職がおり,世持と田ぶさは「一 心同体で村の行政,特に祭事を遅滞なく推し進める役職」[川平村の歴史編纂委員会編 1976:p.172]であったと伝えている。 石垣島大浜では,かつて総代を頂点にして,その下に「田ぶさ世持」という役職が置か れていた。この「田ぶさ世持」という名称は,1879(明治 12)年の廃藩置県以降に起った 総代制への移行過程において,従来の組織に総代の役職が加わったことにより,世持が下 位に退き,後に「田ぶさ世持」という名称が新たに誕生したものと推測するが今のところ その詳細は不明である。字誌によれば「総代は部落を代表し,部落の祭事やその他の諸般 の行事を執り行い,(中略)田ブサ世持は,総代の補佐役であった」[上間・小底 1977:p.4] と伝えている。 また西表島祖納では,旧暦 4 月の物忌の願いにおいて「古くは田補佐が百姓代表だから 夜明を指示し鶏の鳴声を偽ねると皆の者は夜が明けたと言い起きるならいであった」[星 1981:p.101]という。さらに新暦 10,11 月におこなわれる節祭では「(かつて)海浜桟席 には神司始め,一般民(長老)及び来賓が並席」し,「田補佐役(現在は部落公民館長)が 発会を示〔した〕」[星 1981:p.115]という。祖納の節祭は,現在村落の南西部に位置す る前泊海岸を主祭場としてツカサ,古老,来賓の参集のもと様々な祈願と芸能がおこなわ れている。先の引用はそこでの祝宴を田ぶさの進行でおこなったということであろう。 さらに与那国島では,豊年祭に上演する各ムラの芸能の演目を世持との相談で決定する ことになっていて,その後,各座(獅子座,棒座,組踊座,狂言座,舞踊座,三味線座な ど)で芸能の練習がおこなわれるという。また,世持は祭祀の 1 か月ほど前から練習会場 をまわって各座の関係者を激励し,盛大な豊年祭の実現に向けてまとめて行く役とされて いる[保仙 1979]。 以上の報告から,世持・田ぶさは祭祀の実施と運営の中心的な役割を担っていたことが うかがえるだろう。 また,それと関連して次の石垣島伊原間の節祭で演じられていたシチ狂言の内容にも注 意を向けておきたい。以下は,伊原間公民館編[1999]に採録されている詞章と訳である。
島嶼地域科学第 1 号(2020) 54 シチ狂言 〔詞章〕 〔訳〕 バヌド クヌムラヌ 私がこの村の ユームチ カナユ 世持職加那でございます キユヌ ハイピユルナ グユバ 今日の佳い日に御用を ウイシキラレウル シキンナ おおせつけられておりますけれど バン ピトルセ ナラナハリ 私一人では(催事)成りませんので シチブドリ キヨンギンヤ 節踊りや狂言は ムラヌ バハハル ビヒドン ミヒドン 村の若者である男女が アチマリワリ ウチソダンヤ シ 集って相談し ケラシ ギンミ シ マチリユ 全員で吟味し,祭祀を トリムチタボリテ シサリント ト 取りもっていきたいと思うのです [伊原間公民館編 1999:p.160] 上記の狂言は,これからはじまる舞台芸能の最初に演じられていたもので,その内容 は世持職の「加那」が舞台に登場して自らの名のりをし,今日の良い日に節祭をするようにと の御達しを仰せつかったが,私一人ではこなすことができないので,踊り・狂言は村の 若い男女で相談して,全員で祭りをしてもてなしてください,と唱えるものである。世 持が,誰から御達しを仰せつかったかということについては不明であるが,世持が村落 の若者に対して踊りや狂言をするよう指示して物語が展開している点は注目に値する。 このシチ狂言と同系統の狂言には,石垣島川平の初番,石垣島宮良の祝儀番,新城島の 一番狂言,小浜島の初番狂言などがあり,いずれも世持あるいはそれに相当する総代が これから祭祀をおこなうので眷属の者に供物の準備や芸能を仕込んでおくことを命じる 内容となっている。 最後に『八重山島諸記帳』「島中奇妙」の項に採録されている次の記事にも注意を向けて おきたい。以下に引用する。 上代古見島三離嶽に猛貌之御神,身に草木の葉をまとい頭に稲穂を頂,出現立時は豊 年にして出現なく時は凶年なれは,所中之人世持神と名付崇来候,終に此御神會て出 現なくして凶年相続候得は,豊年之願として人に彼形を似せ供物を備ひ,古見三村よ り小舟壹艇つゝ賑に仕出しあらそはせ祭之規式と勤候,利生相見豊年なれは,彌其瑞 気をしたひにて無懈怠祭来候,今村々に世持役と申役名も,是に準て祈申由候 但此 時由来傳噺有之候也 [野田編 1940:p.37] 上記の記事は,西表島古見でおこなわれているアカマタ・クロマタ祭祀の由来譚である。 世持の役割をうかがう上で示唆的な情報を伝えている。内容は,上代,古見の三離御嶽に, 草木を身にまとい,頭に稲穂をさした神が現われるときは豊作になり,出現しないときは 凶作になった。村の人はその神を「世持神」と呼んで崇めていたが,ついにその神の出現 がなくなり凶年が続いた。そのため,豊年の願いとして人に神の姿を真似させて供物を供
55 え,古見の 3 つの村から小舟を一艇ずつ出させて競わせ,祭りをおこなうようになった。 その結果,村は豊年に恵まれた。そして,いま村々にいる「世持役」という役名はこの世 持神になぞらえて呼ぶようになった,というものである。 ここでいう「世持役」とは村の行政職にあたる世持のことであろう。ここまでみてきた 世持の役割を踏まえてこの記事を読み直すと,信仰する神の出現がなくなり凶年が続いた ので,村の世持職が豊年の願いとして人に神の姿を真似させ祭りをおこなわせた,と読め る。すなわち,村の世持は村落の祭祀および神信仰の継続的な実施とその運営に尽力して いたのである。 以上のことから,現行の上層役員が村落祭祀の執行責任者としての役割を果たしている 背景には,上記でみてきたような上層役員とつながる世持・田ぶさがかつて村落祭祀の滞 りない実施・運営といった重責を担っていたことが関係しているものと考える。 おわりに 本稿では,自治会組織の上層役員が村落祭祀に深く関わっていることについて,組織 の歴史的背景に注意を向けながら検討した。現行の自治会組織の上層役員は,村落祭祀 の執行責任者として祭祀の日選りに携わり,祭祀の滞りない実施・運営を担っていた。 その背景には,上層役員と歴史的につながる世持・田ぶさの役割が大きく関わっていた のである。 先述の上井[2005]は,八重山の村落祭祀に関与する公民館組織(本稿でいう自治会組 織に相当)について,公民館長は沖縄島の根人に相当する「トネ」に由来するとしていた。 しかしながら,本稿の検討結果から明らかなように,現行の自治会組織の上層役員は近世 期の世持・田ぶさとつながる役職であり,上井のいう「トネ」とのつながりは考えにくい だろう。 ところで,これまでの琉球の村落祭祀研究では,かつて惣地頭・脇地頭・夫地頭から祭 祀の供物の供出がなされていたことや,祭祀の日選りが王府布達の「祭祀定」や「撰日通 書」などによっておこなわれていたことはよく知られている。惣地頭・脇地頭・夫地頭ら はいずれも王府直属の地方役人であり,惣地頭については王府からの辞令書をもって就任 していた役職であった。また,祭祀の日選りについては「祭祀定」や「撰日通書」を通じ た王府の直接的な指示によるものであった。すなわち,これまでの研究では,王府と地方 との直接的なつながりが主にクローズアップされてきたのである。それに対して本稿は, 王府と直接的なつながりをもたない現地の百姓層から選出される行政職と祭祀との関わり であり,いわば各村落における祭祀の実質的な担い手とその役割についての具体的な状況 といえる。その点において,本稿はこれまでの研究とは異なり,今後地方における村落祭 祀と行政との関わりを議論する上での実証的な事例になるものと考える。 今後は,八重山の事例にとどまらず,奄美や沖縄そして宮古の状況にも目配りしつつ個 別的な事例研究を進めながら,島嶼国家琉球が地方において展開してきた祭祀・信仰のシ ステムの実態を体系的に明らかにしていきたいと考えている。
島嶼地域科学第 1 号(2020) 56 注 1)4 町内については,主に農業に携わっている(いた)者から選ばれるという。 2)2018 年に新川在住の男性(昭和 16 年生)からうかがった話である。 3)筆者の聞き取り調査によると,産業部・文化部・青少年健全育成部は 1985(昭和 60)年に 新たに創設されたという。 4)同部の部長は 4,5 町内在住者から選出されるようで,それは農業従事者をたたえる産業共 進会との関わりがあるからだという。 5)同資料は,2015 年 1 月 11 日に配布された「平成 27 年度 新川字会通常総会」(新川字会作 成)に収録されているものである。 6)スナイの時の四役の立ち位置は,向かって前方右側に会長,左側に祭事担当,後方に総務 担当,会計担当と決まっているという。 7)同歌は,2011 年 7 月 18 日の豊年祭(世願イ)でうたわれたものである。筆者採録。訳も筆 者が付した。 8)2012 年に新川在住の女性(昭和 8 年生)からうかがった話である。 9)石垣島登野城の事例は牧野[1975: p.430],石垣島大浜の事例は上間・小底[1977: p.6],石 垣島川平の事例は川平村の歴史編纂委員会編[1976: p.172],竹富島の事例は竹富町史編集委 員会編[2011a: p.366],西表島網取の事例は山田ほか[1993: p.75],鳩間島の事例は加治工 [2011: p.10],波照間島の事例はアウエハント[2004: p.134],与那国島の事例は与那国町史 編纂委員会事務局編[2010: p.149]に確認できる。 10)2016 年に小浜島在住の男性(昭和 24 年生)からうかがった話である。 11)田ぶさの語源については今のところ不明であるが,「田補佐」「田夫作」という漢字を宛て て解釈されている。 12)入嵩西清佐は大正 5 年生まれで,入嵩西[2001]に「子供の頃から祭事に参加して見聞き してきた事を,ここに記録しておきたい」[p.125]とあることから,大正末期から昭和初期 ごろの話であると推定した。 13)間切で所持している「年中祭祀定」によって日を選び,これを祭日の 3 日前に各村に通達 する日選りのことである。 参考文献 アウエハント・コルネリウス(2004)『HATERUMA』榕樹書林,宜野湾. 石垣市総務部市史編集室編(1991)『石垣市史叢書 1 慶来慶田城由来記・富川親方八重山島諸 締帳』石垣市,石垣. 石垣市総務部市史編集室編(1992)『石垣市史叢書 3 富川親方八重山島諸村公事帳』石垣市, 石垣. 石垣市総務部市史編集室編(1999)『石垣市史叢書 13 八重山島年来記』石垣市,石垣. 石垣市総務部市史編集室編(2006)『石垣市史叢書 15 目差役被仰付候以来日記』石垣市,石垣. 石川恵吉(2013)「石垣島新川の村落祭祀と祭場」『琉球アジア社会文化研究』第 16 号,pp.1-29. 石川恵吉(2018)「沖縄・八重山の村落祭祀と婦人組織―石垣島新川の事例を中心に」『国際琉
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島嶼地域科学第 1 号(2020)
58 【Scholarly Article】
The Role and Historical Background of the Village Community Organizations
for Village Rituals: From the Case of Arakawa, Ishigaki Island, Yaeyama
ISHIKAWA Shigeyoshi
Institute for Pacific Rim Studies, Meio University
(Received on 31 December, 2019; Accepted on 9 July, 2020)
This paper examines the involvement of senior members of the village community and village rituals, which play a central role in the implementation of the villages rituals of Yaeyama. This paper notes, for example, that senior members of the village community are involved in the work of scheduling village rituals and play a central role in implementing village rituals, and consideration was given to the historical background of the senior members of the village community.
The historical background of the role of senior members of the village community was the presence of village officials "Yomochi" and "Tabusa" during the Ryukyu Kingdom era. When comparing oral traditions and historical materials in each region, they were instructors and directors on the social life of the villagers' peasants, but were also deeply involved in village ceremonies and played a central role in carrying out the ceremonies without delay.
Keywords: village rituals, village community organizations, bearers of village rituals,
role and historical background of the village community organizations, national system of the Ryukyu Kingdom