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鎌倉期仏教文献としての『教行信証』 題号の「真実教行証」に着目して

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Academic year: 2021

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一、問題の所在   親 鸞 (一 一 七 三 ─ 一 二 六 二) は 平 安 期 の 末 に 生 ま れ、 鎌 倉 期の中頃まで活動した仏教者である。この時代の中で親鸞 は修学し、思索をしたのであり、主著とされる『顕浄土真 実教行証文類』 (以下『教行信証』 ) も、当時の思想状況と無 関係に成立したものであるとは考えられない。   では、当時の仏教界において共有されていた課題とは何 であり、それを巡って、いかなる議論が交わされていたの だろうか。また、その課題を親鸞はどのように受け止め、 応答しようとしていたのだろうか。本稿が扱うのは、この ような問題である。   もちろん、これは様々な視点から議論されるべき問題で あり、ここでその全てを扱うことは不可能である。そこで 本 稿 で は 特 に、 『教 行 信 証』 の 題 号 に あ る「真 実 教 行 証」 と い う 言 葉 に 着 目 し た い。 鎌 倉 期 の 仏 教 文 献 に は、 「教 行 証」という用語が散見され、親鸞が「真実教行証」という

《研究論文》

鎌倉期仏教文献としての『教行信証』



──題号の「真実教行証」に着目して──

大谷大学真宗総合研究所東京分室PD研究員 

 

  

  

  

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言葉を題号に掲げたのも、このような当時の思想的動向が 関係していると、推測されるからである。   では、この「真実教行証」に対して、これまでどのよう な 研 究 が 行 わ れ て き た の だ ろ う か。 『教 行 信 証』 を 初 め て 註 釈 し た 存 覚 (一 二 九 〇 ─ 一 三 七 三) の『六 要 鈔』 で は、 次 のように述べられている。 「真 実」 と 言 う は 是、 仮 権 に 対 す。 「教 行 証」 と は、 所謂次いでの如く、所依・所修・所得の法なり。 (『浄聖全』四・九九七頁) 問う。題目の標する所、教行証に在り。三の外に更に 信と真仏土と及び化身土とを加う。首題の中に於いて、 此等を摂し難し。然らば題に於いて未尽の過有り、如 何。答う。教行証の三は、常途の教相なり。信と、真 と化との土は、今師の加うる所なり。常の教相に任せ て、其の三を標すと雖も、最要と為すに依りて今、後 の三を加う。但、題に余を摂し難しと云うに至りては、 行の中に信を摂し、証の中に広く真・化仏土を摂す。 〔中 略〕 是 の 故 に 且 く 相 摂 の 義 門 に 依 る に、 題 目 の 中 に於いて未尽の失無し。 (中略引用者『浄聖全』四・一〇〇七─一〇〇八頁)   存 覚 は「真 実」 を「仮 権」 の 対 義 語 と し、 「教 行 証」 は 「所依・所修・所得の法」であると、まず端的に定義する。 そ の 上 で「教 行 証」 は「常 途 の 教 相」 で あ り、 「教・ 行・ 信・証・真仏土・化身土」とは「相摂」の関係にあると理 解している。   この理解は、後の多くの研究が踏襲するものであり、定 説と言って良いものである。確かに鎌倉期の仏教文献には、 「教 行 証」 の 用 例 が 多 く 見 ら れ る。 そ の た め、 「教 行 証」 を「常途の教相」とした存覚の理解は、妥当なものである と 言 え る だ ろ う。 し か し 存 覚 は、 「常 途 の 教 相」 で あ る 「教行証」が題号に掲げられた意義を、積極的には論じて いない。また、鎌倉期に「教行証」という概念が注目され た理由についても、特に触れてはいない。   そこで本稿では、鎌倉時代における「教行証」の用例を 改めて調査し、親鸞が題号の中に「真実教行証」という言 ( )1

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葉を付さなければならなかった当時の思想状況について、 考察を試みたい。 二、天台本覚思想と「教行証」   親鸞が用いた「教行証」という表現の背景については、 大別すると二つの理解が挙げられている。一つは、天台本 覚思想の影響を指摘するものであり、もう一つは、末法思 想との関連を指摘するものである。そこで本節ではまず、 前者についての検討を試みたい。   こ の 説 を 初 め て 提 示 し た の は、 島 地 大 等 (一 八 七 五 ─ 一 九二七) であると思われる。 親鸞上人の教行証若しくは教行信証は固よりその意義 内容を異にすといふと雖も、而も亦是れ恵心流三重相 伝 よ り 暗 示 を 得 た る こ と 疑 ふ べ か ら ず。 〔中 略〕 又 そ の現当二益を分別して悪平等・悪円頓に堕せざるの用 意は上人独特の主張なりとするも、其の教学の内容に 立入りて之を抽象し来る時はまた中古天台の本覚思想 と極めて相近似するを知らん。 (中略引用者『天台教学史』 〔明治書院、一九一五年〕 五一三頁)   こ の よ う に 島 地 は、 「中 古 天 台 の 本 覚 思 想」 と 親 鸞 思 想 の 近 似 性 を 指 摘 し、 「教 行 証」 や「教 行 信 証」 と い っ た 表 現も、天台本覚思想の恵心流から「暗示を得た」ものであ ると断言している。同様の視座は近年においても、末木文 美士が提示してい る。   確 か に 親 鸞 は も と も と 天 台 僧 で あ り、 「教 行 証」 と い う 表 現 が す で に、 天 台 宗 の 事 実 上 の 開 祖 で あ る 智 顗 (五 三 八 ─ 五 九 七) の 著 作 に 見 ら れ る の も 事 実 で あ る。 す な わ ち、 以下の通りである。 乗 に 三 種 有 り。 教 行 証 と 謂 う。 〔中 略〕 初 心 は 教 の 所 詮に憑り、教を信じ、行を立てて、三界を出でること を得。無明は未だ破せざれば、未だ証する所有らず。 故に真を見ず。但、教乗に乗じて、此に来至するのみ。 我が円教の中、其れ誰か是ならんや。謂わく、五品の ( )2 ( )3

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弟子、能善く大心を発して、長く三界の苦輪海と別る るは、即ち其の人なり。教乗、既に息むれば、証乗未 だ及ばず。似解の慧を以て、進んで衆行を修するは、 即ち行を以て乗と為す。方便の三界の中より出でて、 初住の薩婆若の中に到りて住す。我が円教の中には、 其れ誰か是ならんや。謂わく十信心、六根浄の者、即 ち其の人なり。初住、乃至、等覚の更に増道損生する 者は、此は証を以て乗と為す。因縁の三界、乃至、無 後の三界の中より出でて、妙覚の中に到る。 (中略引用者『法華玄義』 『大正蔵』三三・ 七四〇・下─七四一・上)   ここで智顗は「教行証」を、三種の「乗」として段階的 に 論 じ て い る。 す な わ ち「教 乗」 を「五 品 弟 子」 (信 外) 、 「行乗」を「十信」 、「証乗」を「初住」以上の位に配当し、 「信外」から「妙覚」に到る仏道の階梯を収める言葉とし て「教行証」を用いるのである。そのため「教乗」の行証、 「行 乗」 の 教 証、 「証 乗」 の 教 行 と い う も の も 想 定 さ れ て い る。 し か し「証 乗」 は、 あ く ま で も「教」 「行」 の 両 乗 を経て到達するものであり、この階梯を基本構造としてい ると言えるだろう。   ただ、この智顗の説示が親鸞当時の日本において、注目 さ れ て い た と は 言 い 難 い よ う に 思 わ れ る。 ま た、 『教 行 信 証』における「教行証」の用例も、菩薩道の階梯を表わす も の で は な い。 そ の た め、 『法 華 玄 義』 の 記 述 が 親 鸞 に、 直接の影響を与えているとは考え難い。   では、中古天台本覚思想の「教行証」理解とは、具体的 にどのようなものなのだろうか。この問題に対して本節で は、 親 鸞 に 比 較 的 近 い 時 代 の 文 献 で あ り、 「教 行 証」 と い う表現が明確に見られる『漢光類聚』を取り上げ、調査を 試みた い。   本書は、南岳慧思 (五一五─五七七) が智顗に相伝したと さ れ る『略 義』 『略 文』 『心 要』 の 三 部 の 秘 書 の う ち、 『心 要』 (『天 台 伝 南 岳 心 要』 ) に 対 す る 注 釈 を ま と め た も の で あ る。 こ の『心 要』 の 伝 来 に つ い て、 『漢 光 類 聚』 は 次 の よ うに記している。 凡そ此の心要は、南岳が霊山浄土多宝塔中大牟尼尊に )4 ( )5

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値い奉り、相伝したまえる法門なり。此の法門は南岳 が天台に授け、天台は章安に授く。南岳天台の時は、 只口宣のみ有りて章疏無し。章安、正しく今の法門を 記録するなり。本朝の高祖伝教、道邃和尚に値い奉り て、面授口決せる法門なり。 (『大正蔵』七四・三七三頁・上)   このように『心要』は、南岳慧思が「霊山浄土多宝塔中 大 牟 尼 尊」 か ら 相 伝 し た 法 門 で あ り、 智 顗、 灌 頂 (五 六 一 ─ 六 三 二) 、 道 邃 (生 没 年 不 詳) 等 を 経 て、 最 澄 (七 六 七? ─ 八 二 二) に ま で 伝 え ら れ た も の で あ る と さ れ る。 そ し て 『漢 光 類 聚』 は、 そ の 相 伝 の 内 容 を、 「教 行 証」 と い う 枠 組みを用いて説示するのである。 尋ねて云わく。天台伝南岳心要は、教行証三度目録の 中には何れぞや。答う。教行の二途は今の相伝なり。 証分は心要の更に相伝するに非ず。証は他に由らざる が 故 に。 〔中 略〕 総 じ て 教 行 証 の 三 度 の 血 脈 を 意 得 る に、教分の血脈は、正しく法華涅槃に依る。行分は十 二分教を離れ、正しく所修の行体を授く。証分は不伝 の一句に習い留むるなり。此の趣を以て、天台伝の悟 を意得べし。 (中略引用者『大正蔵』七四・三七四頁・中─下)   す な わ ち、 『法 華 経』 や『涅 槃 経』 の 文 意 に 依 る も の が 「教分」の相伝、経典の文字を離れて「所修の行体」を授 けるのが「行分」の相伝であり、この二つは他者から伝授 されることが可能である。しかし「証分」は他人が教示で きるものではないため、 「不伝」とされる。   ただ、これは証の相伝が無いということではない。 尋ねて云く。今の心要の法門は、教行証の三度の相承 の中には何と心得べきや。答う。今の心要に、具に教 行 証 の 三 度 の 意 有 り。 〔中 略〕 第 三 重 に は、 法 自 性 自 爾 の 一 言 に 相 伝 し 留 む る な り。 〔中 略〕 悉 く 法 の 自 性 を直に云う計りなり。教行は、沙汰すべき処之無し。 故に教行証の三度の血脈、具に之有りと意得るべきな り。乃至一切の文義も、是の如く相承すべし云々。

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(中略引用者『大正蔵』七四・四一六頁・中)   こ の よ う に「第 三 重」 (証) の 相 伝 は、 「法 の 自 性 を 直 に 云 う」 こ と で あ り、 「法 自 性 自 爾 の 一 言」 の 他 に は、 相 伝 すべき何ものも無いと示すことである。以上を整理すれば、 テ キ ス ト の レ ベ ル で の 相 伝 が「教 分」 、 修 行 の 在 り 方 を 示 す の が「行 分」 、 言 葉 を 超 え た 法 性 の 世 界 を 示 す の が「証 分」の相伝である、と言うことができるだろ う。   しかしこれは『法華玄義』のように、教・行・証を段階 とするものではない。そもそも「教行証」は、本質的に別 個のものではないのである。 教 に 重 重 の 不 同 あ り。 一 に は 応 同 局 情 の 教。 〔中 略〕 二 に は 破 開 局 情 の 教。 〔中 略〕 三 に は 本 覚 の 教。 〔中 略〕 四 に は 直 顕 真 実 の 教。 謂 く、 今 の 心 要 に 書 き 顕 す 所の六即十章の文字言句、皆是、不思議法然の自用、 難思本妙の形にして、教門始本の相を絶す。今の心要 の教とは即ち是なり。所説の諸義、正しく仏意内証の 所志にして、教門教道の義に非ず。行に於いて重重あ り。謂く、爾前、迹門、本門乃至観心なり。今の行と は、本迹教門を捨てて不思議未分なる自体なり。一心 三観、一念三千、並びに四性推検等、皆是未分の上の 実体なり。 (中略引用者『大正蔵』七四・三七四頁・中─下)   こ こ で は「心 要」 の 教 が「直 顕 真 実」 と さ れ、 そ れ は 「不 思 議 法 然 の 自 用」 「難 思 本 妙 の 形」 で あ る と 述 べ ら れ る。すなわち、真如法性そのもののはたらきであり、あら われであるとされるのである。同様に「心要」の行につい て も、 そ れ は「不 思 議 未 分 な る 自 体」 「未 分 の 上 の 実 体」 であり、仏の証果と一体のものとして位置付けられている。   つ ま り、 『漢 光 類 聚』 は『心 要』 の 教・ 行 を、 証 と 不 可 分のものとして捉えていたと言えるだろ う。類似した記述 は、 『漢 光 類 聚』 と 同 時 期 の 著 作 と さ れ る『修 禅 寺 決』 に も見られ る。 開 元 荊 州 の 玄 師 の 相 伝 に 云 く、 「言 を 以 て こ れ を 伝 ふ る時は行・証共に教と成り、心を以てこれを観ずる時 ( )6 ( )7 ( )8 ( )9

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は教・証は行体と成り、証を以てこれを伝ふる時は、 教・行もまた不思議なり」と。後学、此の語に留意し て、更に忘失するなかれ。宛もこれ宗の本意、立教の 元意なり。 (『天台本覚論』七二頁)   このように「教行証」相互の連関が強調され、これこそ が「宗の本意」 「立教の元意」とされるのである。   以上の点を整理するならば、中古天台の本覚法門におけ る「教行証」は、①相伝の内容を語るものであり、②それ ぞれ別個のものではなく、不可分の関係にあるものとして 把握されていたと、言うことができるだろ う。 三、末法思想と「教行証」   一 方、 「教 行 証」 と い う 表 現 の 意 義 は、 末 法 思 想 を 介 し て説明されることが多い。たとえば、近世の大谷派の学僧 で あ る 慧 琳 (一 七 一 五 ─ 一 七 八 九) は、 『教 行 信 証 文 類 六 要 鈔補』において、次のように述べている。 浄土真宗は是、弥陀清浄願心の回向成就したまう所な り。正像末の三時に於いて、教行証の三つ、欠減有る こと無し。此の義を顕わさんと欲するが故に、題に浄 土真実教行証と曰う。 (『真宗全書』三七・四頁)   釈尊の入滅後に、時代が正法から像法・末法へと変遷し て い く と す る 思 想 は、 『大 集 経』 を 通 し て 中 国 仏 教 に 取 り 入れられたものであ る。そして「教行証」という概念は、 この歴史観と関連させて論じられるようになる。その嚆矢 となったのは、基 (六三二─六八二) の『大乗法苑義林章』 であるとされる。 仏滅度の後、法に三時有り。正像末と謂う。教行証の 三を具するを、名づけて正法と為す。但、教行有るを、 名づけて像法と為す。教有りて余無きを、名づけて末 法と為す。 (『大正蔵』四五・三四四頁・中)   このように基は、教行証の三つが全て揃っている時代を 正法、教行だけが残った時代を像法、教だけが残って行証 ( )10 ( )11

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の無い時代を末法と規定している。   そ し て『教 行 信 証』 の 中 に は、 『末 法 灯 明 記』 の「然 れ ば則ち、末法の中に於いては、但言教のみ有りて行証無け ん」という記述が引用されており、また「化身土巻」の末 尾 で は、 「窃 か に 以 み れ ば、 聖 道 の 諸 教 は 行 証 久 し く 廃 れ、 浄 土 の 真 宗 は 証 道 今 盛 な り」 と 述 べ ら れ て い る。 親 鸞 が 「正像末」と「教行証」を関連させる思想を持っていたこ とは、確実である。そのため、題号の「教行証」を末法思 想と関連させる慧琳のような理解は、従来、多く語られて きた。   た だ、 鎌 倉 期 に お け る 末 法 思 想 の 受 容 は 一 様 で な く、 「教行証」の用例についても、末法思想と併せて論じられ る場合と、そうでない場合とが見られる。そこで本節では 以 下、 末 法 思 想 と の 関 連 の 有 無 を 軸 に、 鎌 倉 期 に お け る 「教行証」受容の諸相を概観してみたい。 三─Ⅰ、時機を問題とする立場       ─日蓮を中心にして─   現 在 の 時 代 (時) や 衆 生 の 機 根 (機) に 着 目 し、 そ れ ら に合致した法門を求めるという思索自体は、決して鎌倉期 特有のものではない。中国では南北朝期から見られるもの であ り、日本においても、平安初期の仏教者である最澄が、 以下のような言及を残している。 当今の人機、皆転変して、都て小乗の機無し。正像稍 過ぎて、已に末法は太だ近きに有り。法華一乗の機、 今正しく是、其の時なり。 (『守護国界章』 『大正蔵』七四・一七七頁・中)   最澄は自身が生きる時代を、末法に極めて近い像法の末 であると認識している。そして、このような時代には小乗 の教えに適した機類は存在せず、全て「法華一乗の機」で あるとするのである。すなわち、像末の時代に依るべき法 ( )12 ( )13 ( )14 ( )15

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門は、 「法華一乗」のみであるということだろう。   同様に、時機の問題を通して『法華経』の意義を強調し た 仏 教 者 に は、 日 蓮 (一 二 二 二 ─ 一 二 八 二) を 挙 げ る こ と が でき る。たとえば『顕仏未来記』には、次のような記述が 見られる。 小乗経を以て之を勘うるに、正法千年には、教行証の 三つ、具さに之を備う。像法千年には、教行のみ有り て証無し。末法には、教のみ有りて行証無し等云々。 法華経を以て之を探れば、正法千年に三事を具するは、 在世において法華経に結縁せば、其の後正法に生まれ て、小乗の教行を以て縁と為し、小乗の証を得るなり。 像法に於いては、在世の結縁之薄きが故に、小乗に於 いて証無し。此の人、権大乗を以て縁と為し、十方の 浄土に生まる。末法に於いては大小の益、共に之無し。 小乗には教のみ有りて行証無く、大乗には教行のみ有 りて、冥顕の証之無し。 (『日蓮遺文』七三九頁)   こ の よ う に 日 蓮 も、 「教 行 証」 と「正 像 末」 を 組 み 合 わ せる時機観を有してい る。しかし、その把握の仕方は独特 である。衆生が証果を得る前提には『法華経』との結縁が あり、正法の時代に小乗の証果を得るのか、像法の時代に 浄土に往生するのか、それを決めるのは結縁の度合いであ るとするのであ る。つまり日蓮にとって正・像・末という 時代の変遷は、在世における『法華経』との結縁が微薄に なっていく過程として、把握されていたと言える。   そのため末法という時代は、在世結縁の機が全く失われ、 小乗経や大乗の方便経を縁として証果を得る者は、一人も いない時代となる。しかし日蓮は、このような時代の衆生 に こ そ、 『法 華 経』 の 題 目 は 与 え ら れ た と 考 え る の で あ る。 『教行証御書』を取り上げてみたい。 されば正法には教行証の三つ倶に兼備せり。像法には 教行のみ有て証無し。今末法に入りては教のみ有て行 証無く、在世結縁の者、一人も無し。権実の二機悉く 失せり。此時は濁悪たる当世の逆謗の二人に、初て本 門の肝心寿量品の南無妙法蓮華経を以て下種と為す。 (『日蓮遺文』一四八〇頁) ( )16 ( )17 ( )18

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  末法の時代に「在世結縁」の衆生は一人もなく、よって あらゆる方便の教えは意味を失う。その衆生に証果を実現 す る も の は、 「南 無 妙 法 蓮 華 経」 だ け で あ る こ と が、 こ こ では端的に示されるのである。そのため日蓮は、末法の衆 生 の た め に 説 か れ た 経 典 こ そ、 『法 華 経』 で あ る と ま で 述 べる。 法華経の流布の時二度あるべし。所謂在世の八年。滅 後には末法の始の五百年なり。 (『撰時抄』 『日蓮遺文』一〇〇九頁) 法華経は誰人の為に之を説くや。在世衆生は傍なり。 滅後を以て之を論ぜば、正法一千年、像法一千年は傍 なり。末法を以て正と為す。末法の中、日蓮を以て正 と為す。 (『法華取要抄』 『日蓮遺文』八一三頁)   このように日蓮は、釈尊の在世と並ぶ「法華経の流布の 時」 が 末 法 で あ り、 『法 華 経』 は「末 法 為 正」 の 経 典 で あ るとして、末法という時代に積極的な意味を与えている。 だからこそ『教機時国鈔』では、 当世は末法に入りて二百一十余年なり。権経念仏等の 時か、法華経の時か、能く能く時刻を勘うべきなり。 (『日蓮遺文』二四二頁) と述べて、末法の時代に依るべきは「念仏等」の方便経で は な く、 『法 華 経』 で あ る こ と を 暗 に 示 す の で あ る。 す な わち末法とは、真実である『法華経』の価値が明らかにな る時代として、理解されたと言うことができるだろ う。   しかし末法とは、教だけが残って行証の無い時代である。 それにも関わらず『法華経』は、どうして衆生に証果を実 現 す る の だ ろ う か。 こ の 問 題 に 関 し て、 『観 心 本 尊 抄』 に は次のような記述が見られる。 釈尊の因行果徳の二法は、妙法蓮華経の五字に具足す。 我等、此の五字を受持して、自然に彼の因果功徳を譲 与さる。 (『日蓮遺文』七一一頁) ( )19

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  日蓮にとって「妙法蓮華経」の五字は、単なる経典の名 称ではない。それは「釈尊の因行果徳」を、全て具備した ものであるとされる。つまり『法華経』の教法の中には、 仏の行証が自然に具足されているのであ る。   そうである以上、時代の変遷に伴って「教行証」が欠減 す る こ と は 有 り 得 な い。 だ か ら こ そ 衆 生 は、 「此 の 五 字」 を信受することによって、仏の「因果功徳」を与えられ、 証果を得ることができるのであ る。   以上の点を整理すると、日蓮における「教行証」とは、 ①末法という時機の問題に関連した概念であり、②「妙法 蓮華経」の五字の中に具足されたものとして、考えること ができるであろう。 三─Ⅱ、末法思想を方便説とする立場       ─道元を中心にして─   一方で日本仏教の中には、時機によって法門の有効性が 左右されるという視座自体を、疑問視する例も古くから見 ら れ る。 ま ず、 真 言 宗 の 開 祖 と さ れ る 空 海 (七 七 四 ─ 八 三 五) は、 『教王経開題』において、 人法法爾なり、興廃何れの時ぞ。機根絶絶たり、正像、 何ぞ別たん。 (『大正蔵』六一・六頁・中) と 述 べ て お り、 ま た、 新 義 真 言 宗 の 祖 と さ れ る 覚 鑁 (一 〇 九五─一一四四) の『五輪九字明秘密釈』の中には、 顕教は正像末の興廃あり、真言は常住不変の法なり。 (『大正蔵』七九・一二頁・上) 正像末の異を論ずること無し。之を修する時、是即ち 正法なり。悉地、時を簡ばず。信修、是時なり。 (『大正蔵』七九・二〇頁・中) と い っ た 記 述 が 見 ら れ る。 こ の よ う に、 「正 像 末 の 興 廃」 が生じるのは顕教の話とされ、真言密教においては「之を 修 す る 時」 が「正 法」 で あ る と し、 「正 像 末」 の 実 体 視 を 否定するのであ る。 ( )20 ( )21 ( )22

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  末法思想に対する類似した理解は、鎌倉期においても散 見 さ れ る。 た と え ば、 日 本 曹 洞 宗 の 開 祖 と さ れ る 道 元 (一 二〇〇─一二五三) は、次のような発言を残している。 なほ大乗実教には、正像末法をわくことなし、修すれ ばみな得道すといふ。 (「弁道話」 『道元全』上・七四二頁) 又云く、世間の人、多分に云く、学道の志あれども、 世のすゑ也、人くだれり、我根劣也、如法の修行に堪 ふべからず。只随分にやすきにつきて、結縁を思ひ、 他生に開悟を期すべしと。今云く、此の言全く非也。 仏法に正像末を立つる事、しばらく一途の方便也、真 実の教道はしかあらず。依行せん、皆うべき也。 (『正法眼蔵随聞記』 『道元全』下・四七五─四七六頁)   こ の よ う に 道 元 は、 「正 像 末」 を「一 途 の 方 便」 と し、 大乗の真実教には無関係であるとす る。さらに言えば、時 代 に よ っ て 欠 減 の あ る「教 行 証」 は、 「真 実 の 教 道」 で は ないということであろう。そのため、道元の著作には「教 行証」の用例が多いものの、それらは基本的に末法思想を 論 じ る 文 脈 の も の で は な い。 こ こ で は 一 例 と し て、 『正 法 眼蔵』 「諸悪莫作」の一節を挙げてみたい。 古仏云く、諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教。 これ七仏祖宗の通戒として、前仏より後仏に正伝す、 後 仏 は 前 仏 に 相 嗣 せ り。 た だ 七 仏 の み に あ ら ず、 〔中 略〕 すでに是諸仏教なり、百千万仏の教行証なり。 (中略引用者『道元全』上・二七七頁)   「諸 悪 莫 作、 衆 善 奉 行、 自 浄 其 意、 是 諸 仏 教」 は、 一 般 に「七仏通戒偈」と呼ばれるものであ る。これを道元は、 過去七仏のみが相承したものではなく、あらゆる仏によっ て「正伝」されてきた「教行証」であるとするのである。 これは明らかに、末法思想に関連した文脈ではない。   では、この「教行証」という概念を、道元はどのように 捉えていたのだろうか。この問題を考える際に注意される のは、道元が行と証との一体性を強調しているという点で ( )23 ( )24

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あ る。 「弁道話」では、次のように述べられている。 それ修証はひとつにあらずとおもへる、すなはち外道 の見なり。仏法には、修証これ一等なり。 (『道元全』上・七三七頁)   こ の よ う に、 修 (行) と 証 を 別 と す る の は「外 道 の 見」 であり、仏法において「修証」は一つであることが、明確 に述べられている。   また、 『正法眼蔵』 「仏教」には、 三者菩薩乗。 六波羅蜜の教行証によりて、阿耨多羅三藐三菩提を 成就す。 〔中略〕 六波羅蜜といふは、檀波羅蜜、尸羅波羅蜜、羼提波 羅蜜、毘梨耶波羅蜜、禅那波羅蜜、般若波羅蜜なり。 これはともに無上菩提なり。 〔中略〕 波羅蜜といふは、彼岸到なり。彼岸は古来の相貌蹤 跡にあらざれども、到は現成するなり、到は公案な り。修行の彼岸へいたるべしとおもふことなかれ。 これ彼岸に修行あるがゆゑに、修行すれば彼岸到な り。 (中略引用者『道元全』上・三一〇─三一一頁) とある。ここでは「六波羅蜜の教行証」という表現が使わ れ て お り、 ま た「六 波 羅 蜜」 (行) は「無 上 菩 提」 (証) そ の も の で あ る と 述 べ ら れ る。 そ の た め、 「修 行」 と い う 手 段 に よ っ て 彼 岸 (証) へ 到 ろ う と 考 え る べ き で は な く、 証 の世界にこそ修行はあるのだとされる。以上のように道元 は、行と証を不離のものとして見るのである。   では、教についてはどうであろうか。道元の著作に、教 と行証の関係を主題的に論じる箇所は見られない。しかし な が ら『正 法 眼 蔵』 「諸 悪 莫 作」 に は、 次 の よ う な 記 述 が 見られる。 しるべし、諸悪莫作ときこゆる、これ仏正法なり。こ の諸悪つくることなかれといふ、凡夫のはじめて造作 してかくのごとくあらしむるにあらず。菩提の説とな れるを聞教するに、しかのごとくきこゆるなり。しか ( )25

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のごとくきこゆるは、無上菩提のことばにてある道著 なり。すでに菩提語なり。ゆゑに語菩提なり。無上菩 提の説著となりて、聞著せらるるに転ぜられて、諸悪 莫作とねがひ、諸悪莫作とおこなひもてゆく。諸悪す でにつくられずなりゆくところに、修行力たちまちに 現成す。この現成は、尽地・尽界・尽時・尽法を量と して現成するなり。その量は、莫作を量とせり。 (『道元全』上・二七八頁)   「諸 悪 莫 作」 と い う 教 言 は、 凡 夫 が 作 っ た も の で は な い。 菩提が教言となったものを聞くとき、このように聞こえる の で あ る。 そ う で あ る か ら、 こ れ は 菩 提 が 語 る 言 葉 (菩 提 語) で あ り、 こ の 言 葉 が 菩 提 そ の も の (語 菩 提) で あ る。 無上菩提が教言となっているから、これを聞くことによっ て転じられ、 「諸悪莫作」と願い、 「諸悪莫作」を実践する ようになるのであ る。   このように道元は「諸悪莫作」という教言を、菩提その ものとして捉えている。つまり道元の思想においては教と 証も、決して別個の概念ではなかったと言うことができる であろ う。   以上の点を踏まえるのであれば、道元の思想において、 ①時代によって欠減する「教行証」は方便説であ り、②真 実 の「教 行 証」 は、 「教 → 行 → 証」 と 次 第 す る 段 階 的 な も のではなく、菩提・涅槃と一体のものとして把握されてい たと、考えることができる。 四、浄土教と「教行証」   本節以降では、親鸞自身が立場としていた浄土教の中に おいて、どのような「教行証」の用例が確認できるのかを 調査する。   親 鸞 の 師・ 源 空 (一 一 三 三 ─ 一 二 一 二) は、 末 法 と い う 時 機の問題を背景に、専修念仏を宣揚した仏教者として知ら れる。たとえば『無量寿経釈』の中には、以下のような記 述が見られる。 抑も三乗四乗の聖道は、正像既に過ぎて、末法に至り てより、但教有りて行証無きが故に、末法近来断惑証 ( )26 ( )27 ( )28

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理無し。断惑証理無きが故に、之を以て生死を出ずる の 輩 無 し。 〔中 略〕 往 生 浄 土 の 法 門 は、 未 だ 煩 悩 の 迷 を断ぜずと雖も、弥陀の願力に依って極楽に生ずる者 は、 永 く 三 界 を 離 れ て 六 道 生 死 を 出 ず。 〔中 略〕 末 代 の出離生死は、往生浄土なり。 (中略引用者『昭法全』六八頁)   こ こ で 源 空 は 末 法 を、 「但 教 有 り て 行 証 無 き」 時 代 で あ ると定義し、その末法において衆生に「出離生死」を実現 するのは、 「三乗四乗の聖道」ではなく、 「弥陀の願力」に よる「往生浄土の法門」であることを端的に示している。 す な わ ち 末 法 と は、 「教 行 証」 の 三 つ が 具 足 し な い と い う 修道上の問題に他ならず、この問題を超える方途を源空は、 「往生浄土の法門」に見出していたと言える。   ただ、源空の思想において「教行証」という概念は、そ れ ほ ど 重 要 な 位 置 を 占 め る も の で は な い。 『無 量 寿 経 釈』 よりも後の著作である『選択本願念仏集』の場合、浄土門 が 末 法 相 応 の 法 門 で あ る こ と を 示 す の は、 『安 楽 集』 の 引 用文を通してであり、そこで「教行証」の有無という問題 は触れられていな い。   しかし源空の弟子世代では、親鸞の他にも「教行証」と いう概念に着目する例が見られる。西山義の祖とされる証 空 (一 一 七 七 ─ 一 二 四 七) は、 「教 行 証」 に 関 し て 次 の よ う な言及を残している。 一、教、とら云ふ事。問ひて云く、諸教の習、能詮を 教と名付けて、所詮に教の名を付けず。是に依りて、 法相宗には教、理、智、断の四法を立て、天台宗には 教、行、証の三を立てたり。是等の師の心皆教外に所 詮の理を立てたり。今何ぞ、二尊教、と云ひて、所詮 の念仏を弥陀教と云ふや。答へて云く、弘教の大士等 しく経の心を述べ給ふ事一にあらず。人師経を釈する 其の心亦同じからず。依りて、教外に行、証を用ゐざ る人師あり。所謂法相、天台等是なり。教、行、証共 に立てざる人師あり。達磨宗是なり。然るに、今師の 心は教外に行、証を立てず。教位即ち行、証なり。依 りて、所詮の念仏を即ち弥陀教と立て給ふなり。問ひ て云く、教即証なる、其の心如何。答へて云く、諸教 ( )29

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は簡機の行なるが故に、必ず教を受けて行じて其の上 に証を得と習ふなり。今師の心は、弘願の一行は簡機 の行にあらず、仏体即ち衆生往生の行なり。此の謂を 聞きて即ち往生を得。此の聞の外に全く行を用ゐる事 なし。此の謂顕はして衆生に願心を発さしむ。故に、 教と云ふ。教即願なり。願即仏体なり。仏体即往生な り。依りて、教の位にて証を得れば、諸教の教、行、 証と共に同じ、とは心得べからず。 (『観経玄義分他筆抄』 『西山叢書』五・四七─四八頁)   こ の 文 は、 善 導 (六 一 三 ─ 六 八 一) の『観 経 疏』 「十 四 行 偈」 の、 「今 乗 二 尊 教」 に 対 す る 註 解 の 一 部 で あ る。 こ こ で 証 空 は ま ず、 「教、 行、 証 の 三」 は 天 台 教 学 の 枠 組 み で あ り、 教 は「能 詮」 、 行・ 証 は「所 詮」 と い う 区 別 が あ る と述べる。その上で、どうして釈尊の教説の「所詮」であ る念仏を、弥陀・釈迦の「二尊教」 (「能詮」 ) とするのか、 それでは「能詮」と「所詮」が混乱するのではないか、と いう問いを立てている。   こ れ に 対 し て 証 空 は、 「教 行 証」 の 用 い 方 は「人 師」 に よ っ て 様 々 で あ り、 「今 師 の 心」 (善 導 の 意) で は、 「教 位 即 ち行、証なり」と述べる。   衆生の機根に左右される「諸教」は、教によって修行し、 証 果 を 得 る も の で あ り、 「教 行 証」 の 三 者 は 別 個 の も の で あ る。 し か し、 「弘 願 の 一 行」 で あ る 念 仏 は、 衆 生 の 機 根 に 左 右 さ れ る も の で は な く、 「仏 体 即 ち 衆 生 往 生 の 行」 で あ り、 「教 即 願」 「願 即 仏 体」 「仏 体 即 往 生」 と さ れ る。 す なわち証空は、 「弘願の一行」における「教行証」が、 「諸 教」 の よ う に 段 階 的 な も の で は な い こ と を、 「即」 と い う 言葉を使って明示したと言えるだろ う。   こ の よ う に 源 空 の 門 下 に お い て も、 「教 行 証」 が 不 離 の 関係にあるとする理解が見られ、しかもそれは本願を根拠 に論じられるものであっ た。 五、親鸞と「教行証」   ここまで取り上げて来た「教行証」の用例は、A「末法 思 想 に 関 わ る 文 脈」 (日 蓮・ 源 空 な ど) か、 B「相 伝 に 関 わ る 文 脈」 (『漢 光 類 聚』 ・ 道 元 な ど) か の い ず れ か に 見 ら れ る ( )30 ( )31 ( )32

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場合が多かった。そして、どちらの場合であろうとも、真 実の「教行証」は段階的なものではないという理解が、共 有されていたと言える。   では、この結果を踏まえて親鸞の用例を見た場合、どの よ う な 特 徴 が 見 出 さ れ る の だ ろ う か。 『教 行 信 証』 の 本 文 中 で、 「教 行 証」 と い う 概 念 が 明 確 に 見 ら れ る の は、 以 下 の三箇所である。 ①   爰に愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月支の 聖典、東夏・日域の師釈に、遇い難くして今遇う ことを得たり、聞き難くして已に聞くことを得た り。真宗の教行証を敬信して、特に如来の恩徳深 きことを知りぬ。 (番号引用者『浄聖全』二・七頁) ②   然れば則ち、末法の中に於いては、但言教のみ有 りて行証無けん。 (番号引用者『翻刻篇』五五七頁) ③   窃かに以みれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、 浄土の真宗は証道今盛なり。 (番号引用者『翻刻篇』六六五頁)   こ の う ち ② は、 「化 身 土 巻」 所 引 の『末 法 灯 明 記』 の 文 章 で あ り、 「教 行 証」 と い う 概 念 を 用 い て 末 法 と い う 時 代 を定義するものである。同様の理解が源空や日蓮にも見ら れたことは、先に言及した通りである。   ま た、 ③ は「化 身 土 巻」 の 末 尾 の 文 章 で あ り、 「聖 道 諸 教」 が「行 証 久 廃」 で あ る の に 対 し て、 「浄 土 真 宗」 は 「証道今盛」であることを示したものである。ここに直接 末法という表現は無いが、 「化身土巻」には、 信に知りぬ。聖道の諸教は在世正法の為にして、全く 像末法滅の時機に非ず。已に時を失し、機に乖けるな り。浄土真宗は在世・正法・像末・法滅・濁悪の群萌、 斉しく悲引したまうをや。 (『 翻 刻 篇 』 五 四 二 ─ 五 四 三 頁 ) という記述が見られるため、③の一文も現在が末法である という認識を前提としたものであろう。つまり、②と③は どちらも、Aの用例であったと言える。

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  な お、 親 鸞 に と っ て 時 機 が 問 題 と な る の は「聖 道 の 諸 教」 の み で あ り、 「浄 土 真 宗」 は 時 代 を 問 わ ず に「濁 悪 の 群 萌」 を「斉 し く 悲 引」 す る も の で あ る。 し か し 末 法 は 「聖道の諸教」が時機不相応となるため、時機に左右され ない「浄土真宗」の真実性が、かえって明らかになる時代 であったと言え る。   一 方、 ① の「総 序」 の 文 章 は、 『教 行 信 証』 の 中 で 最 も 明確に「教行証」という言葉を使う箇所でありながら、末 法思想との直接的な関連を見出すことができない。ここの 「真 宗 教 行 証」 は 文 脈 上、 直 前 の「西 蕃 月 支 聖 典」 「東 夏 日域師釈」の内容であ る。つまりこの箇所では、親鸞自身 が「遇うことを得」 「聞くことを得」た仏法が、 「教行証」 という言葉で確かめ直されていると考えられる。   こ の よ う な 用 例 は、 『末 法 灯 明 記』 等 の 記 述 か ら は 距 離 が あ る と 言 わ ざ る を 得 な い。 む し ろ、 道 元 が 諸 仏 の「正 伝」 で あ る「諸 悪 莫 作」 等 を「教 行 証」 と 呼 び、 『漢 光 類 聚』が相伝の内容を「教行証」として語る例と、親和性が 高いものである。つまり「総序」の用例は、Bに近いもの だと見ることができる。   以 上 の よ う に、 『教 行 信 証』 に お け る「教 行 証」 と い う 言葉は、AとBのどちらの文脈においても、使われている も の で あ っ た。 そ の た め、 『教 行 信 証』 に お け る「教 行 証」の意義を、末法思想からのみ論じる慧琳のような理解 は、一面的であると言わねばならな い。   す な わ ち 親 鸞 は、 「聖 道 の 諸 教」 が 末 法 に お い て「行 証 久 廃」 に な っ た こ と を 論 じ る と 同 時 に、 本 願 の 仏 道 が 印 度・中国を経て「正伝」されたものであることを、示そう としていたのだと思われる。そして、その際に「教行証」 という言葉を用いたのは、当時の仏教界の思潮を意識して のことであったと、言うことができるであろう。   ただ、当時の仏教界において真実の「教行証」は、段階 的なものではなく、涅槃と不可分のものとして捉えられて い た。 し か し な が ら『教 行 信 証』 の 中 に は、 「真 宗 教 行 証」が本質的に一体であるという理解を、直接には見出す こ と が で き な い。 こ の 点 を 表 現 し て い る の は、 「教 行 証」 で は な く「教 行 信 証」 と い う 概 念 で あ る と 考 え ら れ る。 『教 行 信 証』 の 中 で、 「教 行 信 証」 と い う 表 現 が 見 ら れ る のは、以下の二箇所である。 ( )33 ( )34 ( )35

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謹んで浄土真宗を按ずるに、二種の回向有り。一には 往相、二には還相なり。往相の回向について、真実の 教行信証有り。 (『浄聖全』二・九頁) 夫れ真宗の教行信証を案ずれば、如来の大悲回向の利 益なり。故に若しは因、若しは果、一事として阿弥陀 如来の清浄願心の回向成就したまえる所に非ざること 有ること無し。因浄なるが故に、果また浄なり。知る べしとなり。 (『翻刻篇』三四一頁)   前者は「教巻」の往相回向段の冒頭であり、後者は「証 巻」の往相回向段の結釈である。つまり、親鸞の言う「教 行信証」は往相回向の内容に他ならず、しかもこれらは全 て「大悲回向の利益」であるから、それぞれが別個のもの ではないと考えることができ る。   以 上 の よ う に 親 鸞 は、 「教 行 証」 と い う 言 葉 を 末 法 思 想 や相伝に関わる文脈に用いるのに対し、阿弥陀仏の往相回 向の内容を論じる際には「教行信証」という独自の枠組み を用い、これらが一体であることを示していた。このよう な使い分けは、鎌倉期の他の仏教文献には見られないもの であり、親鸞における「教行証」理解の特徴として、捉え ることが可能であろう。 六、結びにかえて   以上のように「教行証」という概念は、鎌倉期の──特 に天台周辺の──仏教文献に多く見られたものであ り、し かも真実の「教行証」は段階的なものではないという、共 通の認識を見出すことができた。   では、このような認識はいつ頃、どこから生まれて来た のだろうか。この問題について確かなことは言えないが、 忠 尋 の 弟 子・ 皇 覚 (一 〇 九 〇 ─ 一 一 六 〇 頃) の 撰 述 と さ れ る 『三十四箇事書』には、すでに次のような記述が見られ る。 即解・即行・即証にして、一念の頃に証を取ること、 掌を反すがごとし。 (『天台本覚論』一八〇頁) 円頓教の意は、聞思修の行と証とはただ一時なり。一 ( )36 ( )37 ( )38 ( )39 ( )40

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位 よ り 一 位 に 移 ら ず。 教 に 遇 ふ 時、 即 ち 証 な り。 万 行・万善は果後の方便なり。故に一家の意は、教に遇 ふを以て証となし、教のごとく知つて、偏好の心を息 めしめる上は、なんの惑をか断ぜん。故に教のごとく 知るを、仏と名づくと云ふ。 (同上)   本書は天台本覚法門の初期の著作であり、親鸞の在世以 前の成立と考えられる。しかしここでは、解・行・証の相 即性が明確に主張されており、また、教に遇う時が、証果 を得る時であるとも述べられている。そのため、このよう な思想が基盤となって、真実の「教行証」は段階的なもの でないという認識が、天台を中心に醸成されていった可能 性は、十分に考えることができるであろう。   ただ、鎌倉期における「教行証」の用例は、末法思想と 関連したものが少なくない一方、天台本覚法門自体には、 末法という時代に対する問題意識が希薄であ る。天台本覚 法門が「教行証」の一体性を主張した背景に、末法思想の 影響を見出すことは困難であると思われる。   しかしながら、真実の「教行証」は段階的でないとする 思想が、天台の枠を越えて鎌倉期に広く受容されたのは事 実であり、その背景には末法思想の影響を見る必要がある だろう。   末法という概念は経典に説かれているものであり、これ 自体を否定することはできない。しかし末法思想を全肯定 するのであれば、一切の仏教は意味を失ってしまう。そこ で当時の仏教者たちは、末法において行証を失うのは方便 教に限られ、真実の「教行証」は本質的に一体であるから 欠減することは有り得ないという理論を、構築したと考え ることができる。   この場合、真実の「教行証」は一体であるとする思想を 末法思想への対応に用いた仏教者と、天台本覚法門との間 には、一定の距離があったと推測される。つまり、末法に おいても欠減しない真実の「教行証」という概念は、天台 本覚法門の中から直接現れたものではないと、考える必要 があるであろう。   ま た、 鎌 倉 期 に お い て 末 法 は、 「方 便 教 が 無 効 に な っ た 時代」として、把握されていたと見ることができる。その 場合、真実の「教行証」であるということが論証できない ( )41

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のであれば、当時の思想界において仏教を語るということ は意味を持たない。   だからこそ証空、道元、日蓮らは、このような問題を念 頭に講説や著作活動を展開したのであり、同様に親鸞も、 このような思想状況に向かって発言し、阿弥陀仏の本願こ そ が「真 実 の 教 行 証」 で あ る こ と を 開 顕 す る べ く、 『教 行 信証』を著していったと見ることが、可能なのではないだ ろうか。   以上は決して確証のあるものではないが、このような推 論を示して、本稿の結びにかえたい。 凡例 一、漢文を引用する場合には原則として書き下し文に改め、読 み易さを考慮して適宜整文した。 一、和文を引用する場合には、仮名は全て平仮名に統一し、左 訓等は省略した。 一、漢字は原則として、全て現行の字体に改めた。 一、主な引用文の出典は、次のように略記した。 『顕浄土真実教行証文類   翻刻篇』 (東本願寺) →『翻 刻篇』 『浄土真宗聖典全書』 (本願寺出版社)→『浄聖全』 『大正新脩大蔵経』 (大蔵出版)→『大正蔵』 『昭 和 新 脩 法 然 上 人 全 集』 (平 楽 寺 書 店) →『昭 法 全』 『昭 和 定 本 日 蓮 聖 人 遺 文』 (総 本 山 身 延 久 遠 寺) → 『日蓮遺文』 『道元禅師全集』 (筑摩書房)→『道元全』 『浄土宗全書』 (山喜房仏書林)→『浄全』 近世の大谷派の学僧である深励(一七四九─一八一七) は、 「教 行 証」 が「常 途 の 教 相」 で あ る 根 拠 を、 天 親(四 〇〇─頃四八〇頃)の『十地経論』や源信(九四二─一〇 一 七) の『往 生 要 集』 、 あ る い は「化 身 土 巻」 所 引 の『末 法 灯 明 記』 等 に 見 出 し て い る。 『仏 教 大 系』 教 行 信 証 第 一・六二─六三頁、参照。しかし、鎌倉期の仏教文献には 注意を払っていない。この点は、問題であろう。 『親 鸞 ─ 主 上 臣 下、 法 に 背 く ─』 (ミ ネ ル ヴ ァ 書 房、 二 〇一六年)一二二頁、参照。 智顗の思想を通して『教行信証』の題号の意義を論じた 研 究 に は、 岡 本 法 治 の「 『教 行 証 文 類』 撰 述 の 意 図 ~ 三 法 と四法の関係を通して」 (『行信学報』二八、行信仏教文化 研究所、二〇一五年)がある。 『漢光類聚』の著者は、天台座主四十八世の忠尋(一〇 ( )1 ( )2 ( )3 ( )4

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六五─一一三八)とされる。しかし偽撰とするのが定説で あり、実際の成立は鎌倉中期以降であると考えられる。硲 慈 弘『日 本 仏 教 の 開 展 と そ の 基 調』 (三 省 堂 出 版、 一 九 五 三年)下・三五七─三六〇頁、 『天台本覚論』 (岩波書店、 一九七三年)五七六─五七七頁、参照。 なお、 「略義」と「略文」は現存しないが、 「心要」は現 存しており、翻刻されたものが『天台本覚論』の中に収録 されている。四一一─四一三頁、参照。また『漢光類聚』 は、 「天台伝南岳心要」を「天台が伝える南岳の心要」 「天 台 に 南 岳 の 心 要 を 伝 え る」 な ど と 訓 読 し て い る が( 『大 正 蔵』七四・三七三頁・上、参照) 、「心要」は全文が智顗の 『摩訶止観』の抄略文によって構成されている。そのため 「心 要」 は「南 岳 の 心 要」 で は な く、 「天 台 智 顗 の『摩 訶 止観』の心要」として、理解するべきとされる。池田魯参 「抄 略 文 か ら み た『天 台 伝 南 岳 心 要』 」( 『駒 沢 大 学 仏 教 学 論集』二八、駒澤大学仏教学部、一九九七年) 、参照。 天台本覚法門の恵心流では、後に口伝法門が体系化され、 七箇の大事を教行証の三重にわたって伝授するということ が行われる。しかし、その場合も第三重(証)の口伝は、 ただ一言であったとされる。島地前掲書・四六八─四六九 頁、参照。 ち な み に、 「応 同 局 情 の 教」 は『法 華 経』 以 前 に 説 か れ た 方 便 の 諸 教 を 指 し、 「破 開 局 情 の 教」 は『法 華 経』 の 迹 門 の 所 説 を、 「本 覚 の 教」 は『法 華 経』 の 本 門 の 所 説 を 意 味する。 な お『漢 光 類 聚』 は、 「解 行 相 修 機」 と い う 機 類 に つ い て、 教に依って解を起し、解に依って行を立つれば、証有 り。此の如きの機は、正しく章段の建立に依って得度 すべきなり。 (『大正蔵』七四・三七六頁・中) と述べており、 「教」 「解」 「行」 「証」を段階的に論じる場 合がある。しかしこのような在り方は、真実とはされない。 解行証の三つ各各にして、解は初め証は後と文言の面 にては聞こえども、真実、法の自性を尋ぬれば、解行 証一体にして二つも無く別も無し。故に雖言初後無二 無別と云うなり。解行証一徹の法門、此の文より出で たり。 (『大正蔵』七四・三八五頁・下) こ の よ う に「解 行 証」 は 各 別 の も の で は な く、 「一 徹」 で あることが主張されるのである。 本書は最澄の作と伝わるが、偽撰とする説が有力である。 実際の成立は、一二五〇年から一三〇〇年頃と推測される。 『天台本覚論』五三二頁、参照。 小方道憲「中古天台における教行証について」 (『印度学 仏 教 学 研 究』 二(二) 、 日 本 印 度 学 仏 教 学 会、 一 九 五 四 年)参照。 こ れ を 親 鸞 は「三 時 教」 と 呼 ん で い る。 『翻 刻 篇』 五 四 ( )5 ( )6 ( )7 ( )8 ( )9 ( )10 ( )11

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九頁、参照。 『翻刻篇』五五七頁。 『翻刻篇』六六五頁。 鎌倉期の末法理解の整理は、すでに先学によって試みら れている。まず、佐藤弘夫は「日本の末法思想」 (『歴史学 研究』七二二、青木書店、一九九九年)において、 中世の末法思想=正像末三時説に相異なる二つの解釈 があったことを知ることができる。一つは専修念仏者 によって主張されたもので、正像末を通じた法の衰退 を強調することによって、末法を伝統的教行の効力の 喪失する時代=「経道滅尽」の時と捉える見方である。 もう一つの立場は専修念仏に反対する旧仏教者が示し たもので、末法における法滅尽を否定し、たとえ末法 が証果を表わすことが困難な時期であったとしても、 人間の側の主体的な努力によってそれを可能にしうる と い う 立 場 で あ る。 以 後 前 者 を「末 法 法 滅 論」 、 後 者 を「末法証法論」と呼ぶことにしたい。 (『歴史学研究』七二二・四頁) と 述 べ、 鎌 倉 期 の 末 法 理 解 を、 「末 法 法 滅 論」 と「末 法 証 法論」の二つに分類している。また、木越康は「親鸞と末 法(上) 」( 『親 鸞 教 学』 九 九、 大 谷 大 学 真 宗 学 会、 二 〇 一 二年)において、佐藤の所論を踏まえた上で親鸞当時の末 法理解を、以下の四つに整理している。 a、正像末三時にわたる仏法滅尽的歴史観そのものを 認めない態度 b、三時思想を認めつつ、いまだ末法は来ていないと する態度 c、末法を実感しつつも、それに抗して仏弟子は一層 奮励すべきであるという態度 d、末法を実感し劣機を反省しつつ、時機相応の教と して浄土教に帰依しようとする態度 (『親鸞教学』九九・四三頁) ただ、本稿が主題とするのは「教行証」であるため、これ らについての詳細な検討は他日に譲り、時機の問題が教学 の前提となっているか否か、という点だけに着目し、以下 の考察を行うものとする。 信行(五四〇─五九四)の三階教や道綽(五六二─六四 五)の浄土教は、この問題を極めて重視したことが知られ ている。南北朝期から隨代にかけての中国仏教における末 法思想の受容については、鎌田茂雄「中国における末法の 自覚とその克服」 (『仏教思想 5   苦』 〔平楽寺書店、一九八 〇年〕 )にまとめられている。 日蓮は『守護国界章』の「正像稍過已末法太有近」とい う 文 章 を、 『開 目 抄』 『撰 時 抄』 『観 心 本 尊 抄』 等 に 引 用 し ている。 た だ し 日 蓮 は、 「教 行 証」 と「正 像 末」 を 組 み 合 わ せ る ( )12 ( )13 ( )14 ( )15 ( )16 ( )17

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理 解 よ り も、 『大 集 経』 が 説 く 五 五 百 年 説 を 重 視 し た と す る研究も見られる。小松邦彰「日蓮聖人の時機観」 (『仏教 における時機観』 、日本仏教学会、一九八四年) 、参照。 ちなみに『教行証御書』では、次のように述べられてい る。 夫れ正像二千年に小乗・権大乗を持依して、其功を入 れて修行せしかば大体其益有り。然りと雖、彼々の経 を修行せし人々は、自依の経々にして益を得ると思へ ども、法華経を以て其意を探れば一分の益なし。所以 は何ん、仏の在世にして法華経に結縁せしが其機に熟 否あり。円機純熟の者は在世にして仏に成れり。根機 微劣の者は正法に退転して、権大乗経の浄名・思益・ 観経・仁王般若経等にして其証果を取れること在世の 如し。 (『日蓮遺文』一四七九─一四八〇頁) このように『法華経』との結縁が前提にはなるものの、在 世で成仏するのか、正法に退転するのかは、機根の優劣に よって決まるとしている。つまり、どの時代で証果を得る か は、 『法 華 経』 と の 結 縁 の 度 合 い と 共 に、 衆 生 の 機 根 も 関連してくると、日蓮は考えていたのであろう。 日 蓮 は、 『法 華 経』 が 真 実 で あ る こ と を 強 調 し て い る。 し か し、 こ れ は 日 蓮 の 独 創 で は な い。 『法 華 経』 の 開 経 で ある『無量義経』には、 四十余年、未だ真実を顕わさず。 (『大正蔵』九・三八六頁・中、 ただし脚注❿によって文を改めた) とあり、また天台大師の智顗(五三八─五九七)はこれを 受けて、 成道已来四十余年、未だ真実を顕さず。法華に始めて 真実の相を顕わす。 (『法華玄義』 『大正蔵』三三・七三八頁・中) と述べている。このような理解を、日蓮も継承しているの である。一例として、ここでは『開目抄』の記述を挙げて おきたい。 但し仏教に入て五十余年の経々八万法蔵を勘へたるに、 小乗あり大乗あり、権経あり実経あり、顕教密教、軟 語麁語、実語妄語、正見邪見等の種々の差別あり。但 法華経計り教主釈尊の正言也。三世十方の諸仏の真言 也。大覚世尊は四十余年の年限を指て、其内の恒河の 諸経を未顕真実、八年の法華は要当説真実と定め給し かば、多宝仏大地より出現して皆是真実と証明す。 (『日蓮遺文』五三九頁) 釈 尊 の 教 え は「八 万 法 蔵」 と 言 わ れ る よ う に 様 々 だ が、 『法 華 経』 以 前 の 教 え は「未 顕 真 実」 で あ り、 『法 華 経』 こ そ が「釈 尊 の 正 言」 で あ っ て、 「真 実」 で あ る と 日 蓮 は 述べるのである。 執行海秀「日蓮聖人における証の問題─中古天台の教行 ( )18 ( )19 ( )20

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証三重説と関連して─」 (『日本仏教学会年報』三一、日本 仏教学会、一九六六年) 、参照。 また、日蓮は親鸞と同様に、信心を重視したことで知ら れる。ただ、親鸞は信心を如来の回向としたのに対し、日 蓮の言う信心は、あくまでも衆生が自ら発起する心である。 花 野 充 道『天 台 本 覚 思 想 と 日 蓮 教 学』 (山 喜 房 仏 書 林、 二 〇一〇年)第三篇・第六章、参照。 このように言い得るのは、真言密教が三世常住なる大日 如来の教説とされるからである。 像法や末法の時代における行証の欠減を方便説とする理 解は、高弁(一一七三─一二三二)の『摧邪輪』にも看取 される。 夫れ仏日没すと雖も、余暉未だ隠れず。法水乾くと雖 も、遺潤なお存せり。三印、邪正を分かち、五分、内 外を別す。我等、之に依って甘露を嘗め、毒酔を醒ま す。良に梵音を聞くが如し。金容に対するに似たり。 之を以て種智の円因とし、之を以て無常の覚芽を萌す。 豈に幸いに非ずや、豈に喜びに非ずや。 (『鎌倉旧仏教』 〔岩波書店、一九七一年〕三一七頁) 正像末の三時を分つことは、証行の興廃に約する一途 の説なり。惣じて仏法住世の時を尽くすには非ざるな り。 (『鎌倉旧仏教』三四二頁) 正像末の三時は、多く証行の興廃に約して説く。然る に聖教の大綱は、正為・兼為等の五為、皆本意たり。 悉く皆、果道を成ずるが故に。 (『鎌倉旧仏教』三四六頁) なお、ここに見られる「正為・兼為等の五為」については、 法蔵(六四四─七一二)の『華厳経探玄記』 (『大正蔵』三 五・一一七頁・上─下)に出る。 この四句は、 『増一阿含経』などに見られる。 『大正蔵』 二・五五一頁・上、参照。また「七仏通戒偈」という呼称 は、 『法華玄義』などに見られる。 『大正蔵』三三・六九五 頁・下、参照。 衛藤即応『正法眼蔵序説』 (岩波書店、一九五九年) 、榑 林皓堂「道元禅における行について」 (『道元思想大系』一 二、同朋舎出版、一九九五年)等、参照。 春日佑芳『正法眼蔵を読む』四(ぺりかん社、二〇〇〇 年)一六〇─一六一頁、参照。 なお、道元と天台本覚思想との関係を巡っては、実に多 様な議論が見られる。花野前掲書・六六二─六六七頁、参 照。 た だ、 石 川 力 山 は「 『末 法 燈 明 記』 と 道 元 禅」 (『印 度 学 仏 教 学 研 究』 四 五(一) 、 日 本 印 度 学 仏 教 学 会、 一 九 九 六 年)において、道元が末法思想を「一途の方便」とするの は壮年期であることを指摘し、この理解が晩年まで一貫し たことを疑問視している。確かに『正法眼蔵』には、 ( )21 ( )22 ( )23 ( )24 ( )25 ( )26 ( )27 ( )28

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まことに、返地にうまれ、末法にあふといへども、相 伝あると相伝なきと、たくらぶることあらば、相伝の 正嫡なるを信受護持すべし。 (「伝衣」 『道元全』上・二八七頁) まことにわれら辺地にうまれて末法にあふ、うらむべ しといへども、仏仏嫡嫡相承の衣法にあふたてまつる、 いくそばくのよろこびとかせん。 (「袈裟功徳」 『道元全』上・六二四頁) など、現在が末法であることを肯定するような言説も見ら れる。しかし、これらは現在の困難な状況を表わす文脈の も の で あ り、 こ れ ら を 根 拠 に 晩 年 の 道 元 が、 「教 行 証」 の 一体性を否定して、時代によって欠減することを肯定する 方向に、思想を転換させたとまでは言えないだろう。 『浄聖全』一・一二五三─一二五四頁、参照。 『浄聖全』一・六五六頁。 証空の著作における「教行証」の用例については、中村 玲太氏からご教示をいただいた。 な お、 「教 行 証」 の 用 例 は 鎮 西 派 の 良 忠(一 一 九 九 ─ 一 二八七)の著作にも見られるが、証空のように本願と関連 さ せ る 議 論 は 展 開 さ れ て い な い。 『般 舟 讃 私 記』 『浄 全』 四・五四八頁、 『選択伝弘決疑鈔』 『浄全』七・一九四頁、 参照。 安冨信哉「親鸞の歴史意識」 (『新訂増補親鸞と危機意識 ─新しき主体の誕生─』 、文栄堂書店、二〇〇五年) 、参照。 深 励『教 行 信 証 講 義』 『仏 教 大 系』 教 行 信 証 第 一・ 二 〇 七頁、参照。 た だ し、 「総 序」 に お け る「教 行 証」 の 用 例 が、 島 地 や 末木が指摘した中古天台本覚思想の影響であると、ただち に結論付けることは難しいであろう。もちろん親鸞の著作 に は、 「生 死 即 涅 槃」 (「行 巻」 『翻 刻 篇』 一 四 二 頁) 、「煩 悩・ 菩 提 体 無 二」 (「高 僧 和 讃」 『浄 聖 全』 二・ 四 二 〇 頁) といった記述が見られるため、親鸞もこのような大乗仏教 の真理論は受容している。しかし親鸞は、衆生の現世成仏 を認めない。 『末燈鈔』の中で、 弥勒におなじくらゐなれば、正定聚のひとは如来とひ としとまふすなり。浄土の真実信心のひとは、この身 こそあさましき不浄造悪の身なれども、こゝろはすで に如来とひとしければ、如来とひとしとまふすことも あるべしとしらせたまへ。 (『浄聖全』二・七八三頁) と述べているように、真実信心を獲て正定聚の位に住し、 「弥勒におなじ」 「如来とひとし」と言われようとも、 「不 浄造悪の身」であるという現実は寸分たりとも変わらない のである。また、相伝に関して「教行証」という言葉を使 う例は、道元の著作にも見られたものであった。この点を 考 え 合 わ せ る の で あ れ ば、 「総 序」 の「教 行 証」 の 用 例 を、 天台本覚思想に直接結びつけることは、困難であると思わ ( )29 ( )30 ( )31 ( )32 ( )33 ( )34 ( )35

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れる。むしろ「総序」の用例は、当時の仏教界の一般的な 「教行証」の使い方であったと、見るべきではないだろう か。 では、親鸞の言う「教行証」と「教行信証」との関係は、 どのように理解すべきだろうか。これについて深励は、 爾るに「教行証」とありて「教行信証」となきは如何 と云ふに。これは。開けば教行信証の四法。合すれば 教行証の三法。開合の異なることを顕したものなり。 〔中略〕四法の中の信の一法は。もと教行証の三法の 中の行の一つを開き出したるなり。もと行から開出し たるなり。それゆへに又合するときは信の一つを行の 中へおさめてしまふなり。 (中略引用者『教行信証講義』 『仏教大系』 教行信証第一・六六頁) と述べており、両者を「開合」の関係としている。すなわ ち、 信 を 行 に 収 め れ ば「教 行 証」 、 開 出 す れ ば「教 行 信 証」になるとして、両者の同一性を強調しているのである。 確 か に、 「教 行 証」 と「教 行 信 証」 が、 全 く 別 の 概 念 で あ る と は 考 え ら れ な い。 し か し な が ら、 「教 行 信 証」 が 往 相 回向の内容を指すものであり、他者に類例の無い概念であ る 一 方、 「教 行 証」 は 末 法 思 想 や 伝 承 に 関 わ る 文 脈 で 用 い られたものであり、当時の仏教者の多くが用いた表現であ る。そのため、両者は文脈によって使い分けられていたと 考えることも可能であり、そうであるならば深励のように、 両者の同一性ばかりを強調することは、親鸞の意図を不明 瞭にする可能性があるのではないだろうか。ただ、この問 題を追及する際には『浄土文類聚鈔』を扱うことが不可欠 であり、本書と『教行信証』との成立前後論等にも踏み込 む必要があるように思われる。そのため、この問題は今後 の課題としたい。 ただし、鎌倉期にだけ見られる概念ではない。最澄の著 作 に は、 「教 行 証」 を 三 種 の「乗」 と す る 例 も、 末 法 思 想 に対する言及も見られる。 若し当果の涅槃を以て体と為すは、証乗に約す。若し 理を以て乗体と為すは、教乗、行乗の体性に約す。 (『守護国界章』 『大正蔵』七四・二一〇頁・中) 其の修行の道に、迂回歴劫直道有り。其の修行は、歩 行 の 迂 回 道、 歩 行 の 歴 劫 道、 飛 行 の 無 碍 道 な り。 〔中 略〕此の二の歩行道は、教のみ有りて修人無し。当今 の人機、皆転変し、都て小乗の機無し。正像稍過ぎて、 已に末法は太だ近きに有り。法華一乗の機、今正しく 是、其の時なり。 (『守護国界章』 『大正蔵』七四・一七七頁・中) こ の よ う に 最 澄 に は、 「教 行 証」 に 対 す る 二 通 り の 言 及 が 見られる。しかし、最澄が両者の関係をどのように考えて いたのかは定かでない。今後の課題としたい。 ( )36 ( )37

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花野前掲書・五五五頁、参照。 花野前掲書・第四篇・第一章、参照。 『三十四箇事書』についても、中村玲太氏の指摘を受け て検討したものである。 ただし『漢光類聚』には、 末代の行者、各各意楽に随いて、三師の行法の如く止 観行を修すべきなり云々 (『大正蔵』七四・三八七頁・下) という記述が見られるため、末法に対する意識が全く無か ったわけではないのかもしれない。しかし、この「末代」 が末法を指しているという確証は無い。また「教行証」が 段階的でないことを示す文脈で、末法思想に言及する箇所 は 見 ら れ な い。 そ の た め、 天 台 本 覚 法 門 に お け る「教 行 証」の思想が、末法思想を意識して展開したものであると は、言い得ないだろう。 ( )38 ( )39 ( )40 ( )41

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