生活知のくり出し方 : 「村の日記」のなかの調査
著者
古川 彰
雑誌名
先端社会研究
号
2
ページ
237-267
発行年
2005-03-25
URL
http://hdl.handle.net/10236/11453
1
はじめに
「江州知内村『記録』」(以下『記録』)は滋賀県北西部の小さな村で現在も 書き続けられている、村の日記である。その幕末分の冊子のなかに挟み込ま ────────────────── * 関西学院大学生活知のくり出し方
──「村の日記」のなかの調査
古川
彰
* ■要 旨 滋賀県北部の村で1745 年から現在も書き続けられている『記録』と記され た数十冊の史料がある。この文書を丁寧に読んでいくと、幕藩時代から今日ま で延々と、村が内からも外からもつねに調査され続けてきたことがわかる。村 は調査の歴史としても書かれ得る。村の歴史を調査の歴史と見た場合、調査さ れる対象としての村と、調査する主体としての村のはざまでひとびとの暮らし が営まれてきた様子が見えてくる。本稿では、「村の日記」ともいうべきその 史料から、おもに幕末から明治期にかけての水害にかかわる資料を取り出し、 家や個人と国家との中間組織としての村が、幕藩体制から明治維新をへて近代 国家へと変貌する過程をどのように受け止め、どのように対処したのかを、村 自身の「調査」をとおして考察する。またその考察を通して「調査」が持つ意 味を、村の側から考えてみた。考察を通して以下のことが明らかにされた。 1)村のローカルな知(生活知、日常知)は、必ずしもアナログな経験知とし てだけではなく、アナログな知とデジタルな知が溶解して伝承されているこ と。2)村自身が調査し、記録し、その情報を保持し、伝承することによっ て、村が近代化を急ぐ国家と交渉しつつ、あらたな自己を形成し続けることが 可能になったこと。 キーワード:村の日記、調査、無事、生活知、水害、国民国家れた紙片に、米山俊直氏が1967 年にこの村を訪れ、『記録』を読まれたこと が記されている。 記録補修について(昭和五十三年八月中川太重誌す) 昭和五十三年八月安養寺境内にある唐崎奥の院と伝へられる観音堂のお祭りが 近年淋しくなってゐるためこれらの復興をめざして知内老人クラブ有志相募り観 音堂の古事について調べてゐた処此の簿冊が一番古い記録帳である事が判った。 これ以前の記録は部分的にはあるが年次順にまとめられたものは見当たらない ので此の帳簿が記録第一号に当るらしい。表紙も破れてとれてゐるので新しいも のを綴ることとした。 この記録については日本放送出版協会発行のNHK ブックス 65『日本のむらの 百年』(著者甲南大学助教授米山俊直先生)の調査記録とも合致するので茲に同 書の一部分を将来の参考のため抜粋して記録する。 [以下、『日本のむらの百年』[米山,1967]の第 2 章第 2 節「むらの記録」部分 抜粋、省略]1) 『記録』の書き手は、現在では区長であるが、一貫してその時々の村の長 であったと思われる。『記録』は村の帳蔵に1745 年から 1973 年までの 14 冊、公民館に1974 年から 2003 年までの 30 冊、そして現区長が書いている 1 冊である。それらは、同じ種類の文書として書き手自身に認識されてお り、帳面が大部になると冊子を切り替える旨が記されている。たとえば、安 政6(1859)年の冊子は次のようにはじめられる。 此記録帳之儀古帳甚大帳ニ相成候ニ付当安政六己未年 相改新帳相認メ申故古キ事者古帳ヲ以相調可申候事 内容は徐々に変化しつつあるものの、おもに村の出来事である。つまり 『記録』は、すくなくとも250 年以上にわたって村の出来事を同じシリーズ の文書として書き継いできた村自身の「日記」なのである。 この文書を丁寧に読んでいくと、幕藩時代から今日まで延々と、村が内か らも外からもつねに調査され続けてきたことがわかる。村は調査の歴史とし
ても書かれ得る。村の歴史を調査の歴史と見た場合、調査される対象として の村と、調査する主体としての村のはざまでひとびとの暮らしが営まれてき た様子が見えてくる。 それらの調査は、おおきくは次の2 つに分類できるだろう。ひとつは統治 者が統治の必要のために村を知る必要があったために、直接もしくは村に行 わせた調査である。たとえば国勢調査などがそれに当たる。 [大正9(1920)年]一一月二十日滋賀県国勢調査ニ付大字知内之受持調査委員 左ノ如シ 一上知内 受持委員 中川源一 一下知内東 受持委員 鳥居五十七郎 一下知内南 受持委員 上川美代吉2) もうひとつは村自身が村をしることの必要に迫られておこなった調査であ る。たとえば害虫であるイナゴの数調べやのちに詳しく述べる風水害の被害 調査などがそれにあたる。 昭和十二年九月 近年蝗ノ発生甚シク為ニ稲作ノ蒙ル被害相当大ナルモノアルニ依リ之レガ駆除ノ 方法ヲ考究中ノ処本年度ニ於テハ大字全戸一戸当リ少クトモ乾蝗二升宛ヲ九月中 ニ集会所ヘ持参セシムル事トセリ而シテ蒐集セル蝗合計二石六斗一升四合ニシテ 右ハ村農会ニ於テ一升十銭ニテ買上ゲラルゝ事トナリ十月五日村農会ヘ送付シ代 金二十六円十四銭ハ翌二月二十日領収シ二十七日各自ヘ分配セリ もちろん『記録』の性質上、大半の記述が村で起こった出来事の調査の膨 大な記録でもある。そこで本稿では、おもに幕末から明治期にかけての水害 にかかわる資料を取り出し、可能な限り資料に語らせる方法で、家や個人と 国家との中間組織としての村が、幕藩体制から明治維新をへて近代国家へと 変貌する過程をどのように受け止め、どのように対処したのかを「調査」を とおして考察しよう。またその考察を通して「調査」が持つ意味を、村の側 から考えてみたい3)。
2
村の無事と「調査」
村は家とともに、永続、持続そのものを目的とする集団である。村や家の 機能的側面を論じることはもちろん可能だが、それらを独立の変数とし、村 の永続がそれに従属する変数になることはない。有賀喜左衛門[[1948] 1969 : 176]が村を家連合として捉えたことの意味は、大家族との関係を論 じたことの当否は別として、家の永続のためには村の永続が必要とされ、村 の永続のためには家の永続が必要とされたという意味において村は家連合で ある以外に存在のしようがなかったということなのである。 村が持続を究極の目的とする集団であるということは、村の内外の環境が 「持続」の一点において維持されていることを意味する。これが村にとって の無事ということである。内山節はそれを次のように指摘している。「固有 の人間としての『私』が無事であるためには、共同の時空である『村』や 『自然』が無事でなければならず、この時空とともにある相互的な関係が無 事に存在していなければならない」[内山,1998 : 52−53]。 つまり無事であることは村にとって、当たり前のことであるとともに、そ れ以上は過剰であり、それ以下は不足であるという意味で、無事は村のゼロ ポイントでもある。不足はそれ自身が災いであるが、過剰もまた不幸をもた らす前兆と見なされ、つねに村全体としてゼロポイントにむけての作業が行 われる。そのために村のあらゆることは知られておらねばならず、知られた ことは記録されなければならなかったのである。それぞれの村にそのための ノウハウがあり、知内村では以下に記すような調査がおこなわれたし、『記 録』が残されたのである。 本稿では、「村」の日記という資料的制約もあり、「固有の人間としての 私」には言及せずに家と村の無事がいかにして維持されてきたのかを村の調 査の様態を通して考えてみたい4)。 以下で主に使用する資料は琵琶湖西岸に位置する滋賀県マキノ町知内地区 にのこされている『記録』とタイトルの付けられた文書である。 『記録』は1745 年に時の庄屋が記したものが、残されたもののなかでもっとも古く、現在も区長が継続して書き続けており、約250 年間の村の出来事 を知ることができる5)。 簡単に知内村(現在は知内地区)の村落構造の概要を記しておこう。知内 地区は幕藩体制のもとでは独立した村であり続けたが明治5 年の大区小区制 で犬上県第六大区高島郡第一区に、そして明治12 年の郡制を経て 18 年には 連合戸長制下で新保村ほか6 ヶ村戸長役場に入れられる。さらに明治 22 (1889)年の町村制においてついに知内村は他の 6 ヶ村と合併して百瀬村と なり、その後昭和30(1955)年の町村合併でマキノ町となった。このよう な行政の枠組みの変化を受けながらも知内村『記録』の存在が示すように、 知内「村」はなんらかの自律的な集団として存続してきたと考えられる。す くなくとも滋賀県の村の多くは行政範囲の拡大にもかかわらず明治以前の村 の枠組みが完全に崩壊してしまうことなく現在まで続いていることが確認さ れている。 知内村では大正期まで神事組織である「諸人」(宮座)が、村の支配的な 政治組織でもある「長分(おさぶん)」と重なっていた。つまり神事と政事 とが一致していたのである。しかし内圧・外圧のなかで政事と神事とが分離 し、かつての「長分」支配は形をかえていく。「長分」支配のもとでは神事 と政事とがそのまま村の政治であった。村の規約のなかに神事に関する規約 が入っており、神事も政事もともに「村事(むらごと)」としておこなわれ てきたのである。しかし押し寄せる近代化のなかで、「村事」は「家事(い えごと)」と「行政」に分離しつづけその役割を縮小し、ついにはほとんど 消滅したとさえ言われることもある。 町内会や区が単なる行政の末端としてのみ機能しているに過ぎず、基本的 には行政が直接個々の世帯とつながっている。そしてさらに家事の外部化に よって私事化がすすんでいるというのがその場合に描かれる図式である。し かし、そうした現在の日本社会全体の都市化、近代化の状況の説明図式は、 知内地区のように比較的コミュニティが重要な意味を持ち続けている社会が 示すように、かならずしも十分には説得的ではなく、近年かえって「村事」 「家事」「私事」が相互媒介してコミュニティを維持する方向に動いている事
例も多く見られるようにも思えるが、本稿の中心的課題ではないのでこれに ついてはあらためて論じてみたい6)。
3
幕藩期における水害と村の調査
現在発見されている知内村『記録』の最初の記事は「延享二年丑八月明細 帳」(1745 年)および「検地帳写シ」である。おそらく、これまで書かれて きた帳面が大部になり、帳面を新しくするにあたって、あらためて村の明細 を記したものと推定される。 以下、水害とかかわる記事を見ていこう。1803 年には幕府によって「勢 田川筋御見分」が行われ、琵琶湖岸一帯の村々の石高が確認されている。 1805 年には幕府による伊能忠敬(勘解由)の大々的な測量が行われる。 文化二年九月十三日 江戸より測量奉行 伊能勘解由殿 高橋善助殿 平山軍蔵殿 坂部貞兵衛殿 一、右の奉行東より廻られ大浦の宿まで年寄庄兵衛、甚右衛門の両人御見舞に参 上又海津泊り今津廻り浜道渚通被改候ニ付道法間数打西浜村!大川迄百廿五間四 尺五寸大川巾五拾七間壱尺大川!人取迄百八間六尺人取ノ川巾五間四尺五寸又百 瀬川迄六間四尺弐寸百瀬川巾拾五間三寸本ノ川迄弐百三拾六間壱尺弐寸同巾五間 四尺五寸新保村境迄三間弐尺壱寸合六百四拾間五尺八寸浜道長合六百三拾五間四 尺五寸唐崎様境内東西七拾四間南北六拾間 こうした幕府などによる地勢調査に対応するかのように、毎年のように水 害に悩まされてきた知内村は詳細なデータをつけて水害の状況を代官所に訴 え続けている。文化4(1807)年には大雨で堤防の普請をしたにもかかわら ず洪水の被害をうけ、大名によって備荒貯蓄されている囲米を獲得した様子 がわかる。 文化四丁卯五月廿三日水竹丸池砂入 此日此夜来段々大雨ニて大川又兵衛堤拾九間切蛭口村堤水竹ノ上四拾間斗茂切沢村横堤南へ五十間余切此普請岸防出来致<口米十八石六候処追々雨ふり又六月 初日二日三日と大雨ニて段々水込上り殊之外之洪水ニて当村之立毛も皆水腐致シ 漸く晩田壱町六反斗九升七合 口米廿石四斗六升五合 四畝拾弐歩損毛壱町八反九畝拾弐歩御免定米四拾四石五升九合三ケ一銀割共又 此年御囲米七拾俵返済仕候此囲米ハ蛭口村!出ル又外ニ六俵蛭口村!受取大津江 壱俵も不登候 右之洪水ニ付御殿様!御救米五拾被下候へ共寅年之直段ニ而五俵弐斗不足いた し四拾四俵弐斗被下置有難仕合奉存候普請役七拾八人壱斗八升宛端頭拾三人三介 共七升宛当申候 [以下略] この時期、村はしきりに川や樋にかかわる問題箇所を調査し、記録に残し ている。たとえば1815 年には決潰箇所が詳細に記される。 同年亥六月二十七日潰水ニ而所々川切印置 一百瀬川字八反田 長三拾間三尺 欠口、上下三間 一大川筋字水竹車堤 長拾五間半上下欠ケ口共堤半切 ・・・・[以下略] そして「切断御田地砂入ニ付御役所様ニ鍬下方色々相願申候処」、それに 対して代官所の見分が実施され、その決潰箇所に応じて「開発米御下ケ被下 候」という結果を得ている。 幕藩期『記録』のなかでは、このような村による問題箇所の調査と代官所 の見分のやりとりが延々と繰り広げられている。これらのやりとりは村方か らの「乍恐書付を以て奉願上候」という公式文書によって行われるが、『記 録』ではそれらの写しとともに調査の記録が残されている。 しかし当然のことながら、琵琶湖の水害問題にたいする村内部のこのよう な動きはその場その場を凌いでいくにすぎず、個々の村々に蓄積された同様 のデータを集積し、さらに大がかりな対応が必要とされていた。その対応の 様子を1831 年の次の記事から読み取ることができる。
文政十亥年七月 右勢田川浚深溝太郎兵衛年々江戸表江被願上候ニ付江戸御老中水野出羽守様始御 評定取沙汰相聞江御座候。然ル処湖浦ニ勢田川浚之儀ニ付為御見分関東より役人 五六人も御出被成見分之役人池水鉄之助様三七郎啓次郎百之助右同々ニ而御越被 成つき添之役人大津石原様手代舟橋作助様御同断ニ而御出被成湖浦々絵図帳面等 モ泊リ村江差上候様御触被仰出候。甲酉戌三ケ年之免定之写又ハ高付夫米口米口 銀并原山草刈札見取等迄帳面ニ相認差上申候。右御出役東村々大浦方!海津ヘ御 泊リ被成其夜御見舞役人弐人罷出候。夫より明日西浜分見分被成知内村江御越被 成役人領分境江出向いたし候。夫!村役人案内いたし右御出役舟ニ而夫々ニ御見 分あり。右高田之分御見分被仰付夫々舟ニ而本ノ川水田之処検分被致猶又首尾能 見分相済御座候。夫!新保村ヘ御出被成其昼今津重左衛門方ヘ御付被成其夜深溝 村江御泊リ被遊候。村役人始村中一統よろこび奉存候以上 村の水害のおおもとは、琵琶湖から流れ出る唯一の河川である勢田川(現 在は瀬田川)が浅いのが原因であるから、川を浚深(浚渫)してほしいとの 深溝村太郎兵衛の4 代にわたる長年の訴えが、ようやく聞き届けられ幕府か らの見分が行われた歓びが記されている。文中の海津は知内村などの代官所 所在地である7)。 そして翌1832 年 3 月には関係の村から絵図が差し出され浚渫工事への道 がおおきく開かれたと記される。6 月には浚渫による湖水の低下で湖岸の変 化が予想されるため、「湖水縁付寄洲其外為御見分」が実施され、「当村内縁 際水の境!西浜村境迄浜通リ間数御打被成」、つまり杭打ちが実施されてい る。 ところがその11 月に興味深い記事が記される。 大津石原清左衛門様一件之事 一 当六月御廻村ノ砌!見取一件ニ付浜畑見取場之処高外之趣ニ申上候処御国表 ヘ御代官様!被仰上候ニ付御国表!被仰出候ハ見取場之処高内無地高之場所ニ相 違無之候間大津表願下ニ致可申候様被仰付候趣ニ申付被成候。依之西浜村知内村 新保村中ノ庄村四ケ村庄屋年寄弐人つつ十一月六日立ニ大津御役所ヘ罷登リ願上 申候処聞済之上高内ニ無相違様被仰渡候。則願下ケ之書付之写帳面ニ聢有之。為
後日入用之節ハ右書付可被改候事。又諸国御高改ニ付京都御番所ヘ差上申候写書 是も帳面ニ有之候。 十一月十八日 大津石原清左衛門氏が上記の見分をおこなった際、石高の計算に入ってい ない土地が高内に繰り込まれたことへの抗議が認められたということであ る。この際に利用されたのが、これまで村内でいくども行ってきた調査の記 録とそれを公式のものとするために代官所に出されてきた差し上げ文書であ る。 村が調査を自分たちで行い、その記録を保持すること。そして、強いられ たものとはいえ、それらを「乍恐書付を以て奉願上候」という形でオーソラ イズしておくこと。そしてそれらを村のモノとして村の帳蔵に保管しておく こと。これらによって村はかろうじて自らの主張を維持しているのである。 データが一方的に代官所や幕府に握られることの恐怖をおそれてか、差し 上げ文書はその写しが村に残されていることが多い。しかし、それらが知内 村『記録』のようなところにも書き写され、そのバックグランドが記された 文書が残されていることは少ない。つまり知内村『記録』は、村の出来事を 記しているだけではなく、村が差し出してきた公式文書のインデックス、調 査の一覧にもなっているのである。そのために帳面が変わる毎に、帳面の最 初には、村明細とともに、帳面を改めたこと、以前のことは前の帳面に記さ れているので参照するようにと注記されるのである。 水害はその後、万延元申(1860)年 3 月、慶応弐丙寅(1866)年 5 月、慶 応三卯(1867)年 6 月と記され、明治を迎える。
4
災害と村の対応
明治にはいっても、『記録』を見る限りは、記述の仕方がかわるわけでも なく、村のなかでは何事もなく幕藩体制が続いているかのようである。明治 にはいって最初の記事は、村の回り神主の交代についてである。明治元年辰六月五日 神主源太夫弟死去ニ付組頭相談之上振籤致し候故則七左衛 門江落札致候故引渡シニ相成り七日之候間行中上下ニ而参勤可致候其処本装束ニ 而先規之通り参勤致申候則代神主へ送り物左之通り[以下、新しい神主への贈り 物リストが続くが省略]8) 明治4(1871)年になって、代官所の「御殿様御別れ」が記されている。 享保九年より御殿様後領分 御領主 和州郡山 柳沢甲斐守様 明治四年辛未年霜月!元郡山県相成明治五年壬申年二月晦日海津御出張所御殿様 御別れ之御立振舞御席西濱村西栄寺ニ於て御支配村毎ニ庄屋御身柄年寄夫々御馳 走ニ預申候[以下、戸長、副戸長、総代の氏名、省略] 明治6(1873)年の記事にようやく「滋賀県官員御廻村ニ而御調之写」と 橋の長さ調べが滋賀県行政官によって行われ、明治8(1875)年には地租改 正の調査が実施されている。そして明治9 年(1876)に『記録』の帳面が書 き換えられる際には次のように政治の変革が記録されている。 一、此記録簿ハ皇国一般一大変革ノ御変事ニ際シ村内依旧仕来候格合モ種々紛紜 トシ又旧記録帳モ紙数相嵩ミ候間簿ヲ新タニ別スル所也此簿制限前ノ事格ハ旧帳 ニ依リ熟一覧有ラン事ヲ希望ス それ以下に旧来の記録から幕藩時代のデータが詳細に書き写され、続けて 明治8(1875)年の地租改正によって「旧年ノ貢納法ヲ悉皆相廃シ更ニ調査 済ノ上ハ土地ノ代価ニ随ヒ百分ノ三ヲ以テ地租ト相定メ候義被仰出候事」と なったため、その地租のデータが長々と書き記される。 同時に、村は幕藩体制から明治政府への変化を次のようにたんたんと記し ている。 一、当村義ハ和州郡山領主松平時之助領地海津出張所支配ノ処明治三年一月一般 封建廃シニ相成就テハ同年一月ヨリ同四年七月マデ旧郡山藩ノ支配ト相成同七月
藩廃シ同年八月ヨリ同五年一月マデ郡山縣管轄ト相成同年一月郡山縣廃止ニ相成 同年二月三月ト長濱縣下ト相成同三月長濱縣廃シ同三月ヨリ犬上縣管轄ト相成同 縣廃シ同年十一月ヨリ滋賀縣管轄ト相成候也 時ノ令 松田道之殿 一、引渡戸籍人員書上 一、戸数 百〇三戸 内 寺三戸 一、人員総 五百二十一人 内譯 男 二百五十一人 内廃疾 壱人 僧侶 三人 右之通ニ御座候也 明治五年三月 庄屋 中川源五郎 年寄 鳥居市才茂 年寄 鳥居七治郎 惣代 前川勘五郎 〃 中川三四郎 犬上縣海津出張所御中 「引渡戸籍」とあるように、つまり村は、江戸幕府から明治政府に「引 渡」されたのである。これ以降、滋賀県などによる、田畑、山林、川、河川 敷、道路、衛生などの調査がぞくぞくと続けられていくが、差し上げ文書と いう形式は失われたにもかかわらず、それらの調査データの詳細が『記録』 に記されている。 これらの一連の調査と共に、政府からの一連の通達がなされる。 一、明治三年御達シニ付官費御普請所内耕地養水ニ係ル普請所ハ自分民費ニ相成 百瀬川伏樋三ヶ所知内川二ヶ所共民費普請所ニ相成候事 一、百瀬川知内川堤防修繕■破共官費之事 一、明治四年家門帳ヲ廃シ戸籍簿ト更正之事 一、今年滋賀縣管轄ト相成全国ノ全郡ヨッテ区別ヲ仰出サレ候ニ付即チ高島郡デ 十四区相定メラレ海津町西濱村蛭口村石庭村当村ト合シ一町四ヶ村ヲ第壱区ト成
サレ候事 区内合戸数七百五十戸余 一、明治六年地券御発行ニ付当村境内地所持主ニ者実地丈量致戸長役場ニ於テ野 帳整調ノ上滋賀縣庁エ上納致候事 一、同六年字殿田川耕地水吐ノ為唐崎神社乾ノ方ヨリ社地ヲ経テ湖水エ切開キ候 事就紙が縣許可相成候成 はやくも明治3(1870)年に、川普請にかかわる官民費用区分が上記のよ うに設けられ、知内村(大字知内)の南端と北端を区切る大きな河川、知内 川と百瀬川に関しては官費、その内側、字内を流れる小河川については民費 による普請とされる。戸籍より地券の発行よりもはやく、河川改修にかかわ る費用区分が出されているのは、差しあげ文書のなかでも、『記録』の中で も圧倒的に記述の多い河川や樋の改修こそが、まさにこの時期の農村社会に とって最重要課題であったことを示すのであろう。 水害と渇水が毎年のように繰り返される琵琶湖周辺の農村にとっては、こ の官民費区分は村の経済だけでなく、生活を大きく左右するものであった。 同時に昭和14(1939)年の記事(【資料 11】)に出てくる民費区分にされた スタ川改修問題などもこの区分によって蒔かれた種がその後70 年近くもの ちに噴出する問題であったのである。 水害の記事に戻ろう。 明治にはいっても、瀬田川の浚渫による水位調節が十分ではなく、知内村 は水害に襲われ続ける。明治3(1870)年 9 月の台風による堤防の決壊の訴 え先は、「見聞之事二付直様海津御役所へ御注遣申上」といまだ代官所であ る。そこにも被害箇所調査の詳細なリストが添付される。そしてその状況が 下記のように記されている。 右九月十八日大風雨ニ而湖水凡六尺斗込上り御田地皆々水底に相成勘取、芝原、 五反坪、町田、委しく厄押御検見前の間故度々御見分有之役人昔甚困候夫ニ付厄 押之分別段立札いたし刈取御願申上候其他水中深水の刈取歎出来皆々水魔仕候実 に取落し候義前代未聞之事故あらん 書残し候
御田地砂入開発米 一 米三拾七俵一斗九升弐合五勺被下候 右之米切所三ケ所に割雇いたし相渡し候ニ付砂入田畑共皆之開発仕り候ゆえ書記 す つづいて明治13(1880)年に小規模なものが記されたあと、明治 18 (1885)年に大規模な水害に見舞われる。 明治十三年十月大風雨ニテ字中勢中川伊七中川ゐとナル者自宅潰シ候段官エ御相 願候処救助金トシテ壱名ニ金五円宛利足ナシニテ壱ヶ年金壱円宛ノ崩シテ下賜ル 明治十八年 五月ヨリ雨降続キ六月引続キ雨量多ク六月三十日強雨ノ為湖水氾濫 シ田地八分通浸水シ自宅ノ庭モ最上壱尺浸水シタリ/浸水家屋七十三戸(中川家 文書) 100 戸あまりの村の大半が浸水する大水害にたいして村は次のように対応 する。 同[明治18(1885)年 5 月]七日追々水込上リ貧民糊口難渋救助ヲ乞候ニ付長 分協議ノ上社倉米囲籾当秋迄貸与ノ議決ニ相成候事 同[明治18(1885)年]九月村民水害ニ罹リ糊口ヲ凌稼方無之キニ付三ヶ村立 会字平戸山下リノ協議ヲ致シ三ヶ村ニ割合当村ハ組頭オサブンハ除キ一同立込之 レ亦格別ノ救助ニ相成候立木ニ不拘様長分二名隔日目付ニ出張候事 ここでは村の決済で、窮民の救助に社倉米が使用され、さらに9 月には通 常の利用期間ではない入会林での柴や下草の利用を許可しているのである。 それに対して行政側の対応は次のようである。 同十八年七月大洪水ノ節水検査トシテ高島郡長大塚杉三御巡視ニ相成田中魯ニテ 案内ス水当ノ家屋ニ御覧有テ憫然ト思召家屋ノ破損者小屋掛住居ノ者可申出御上 旨ニ付戸長役場ヲ経テ届出シ処救助金百参拾九円四拾五銭九厘小屋掛料金参拾九
円御下金ニ相成候ニ付右窮民ニ賦課ス其小別救助簿ニ記ス 同十八年七月勧業課ヨリ水害畑二三度蕎麦適当ノ種ニ付山陰道ヨリ御回送相成当 村ハ七斗申請候処遠国ノコト故運送費嵩ミ地種ヨリ五割増ノ代価ニ相成候故幾計 ノ補助ヲ願残額上納仕候 同十九年三月水害田畑種穀料トシテ自作地五反歩以下ノ者並小作人タリトモ水害 田一反歩ニ付籾六升ノ価ヲ以テ御下金ニ相成其小別救助簿ニ記ス 右人名七拾壱 人金額六拾九円〇六銭六厘同二月金六円七拾五銭朝廷様ヨリ救助割方救助簿ニ記 ス 同月金弐拾七円余官員ノ給ノ内又ハ警察又ハ京都平民ヨリ水村ニ之救助ノ割 賦此小別救助簿ニ記載ス しかし、今回の水害の被害は甚大で、こうした村の通常の対応や、行政の 援助ではどうしようもないほどの被害をもたらした。つまり村の無事は危機 に瀕しているのである。知内村はこのとき、これまでの村のシステムを崩し て、災害対策、窮民対策をまずは第一に打ち出す。それは「貧民漁業制」と いうこれまでにはまったく存在しなかった村財産の分配方法であった9)。 知内川ノ簗漁業ハ従来村稼ト称シ知内住民ハ貧富ノ別ナク斉シク漁業ニ従事シ其 収益ハ平等ニ配當シ来レリ、爾ルニ明治十八年六月湖水氾濫シ大字内ノ民家ハ悉 ク浸水ノ不幸ニ遭遇シ殊ニ貧民ノ困難名状スヘカラザルモノアリ。相当ノ活路ヲ 得セシメズンバ遂ニ飢餓凍餒ノ惨境ニ陥ルヲ免カレズ。当時ノ総代中川源吾鳥居 五與茂為メニ痛心苦慮種々協議ノ末、大字民ヲ会シ同年後期ヨリ従来ノ村稼ヲ廃 シ無資産ノ細民ニノミ漁業ヲナサシメ其収益ヲ該漁業民ニ配當シ以テ活路ヲ得セ シメント議ル大字民悉ク之ニ賛ス、依テ爾来之ノ貧民漁業ノ制ヲ実行シ以テ今日 ニ至レリ。尤モ取締上必要アルヲ以テ大字民全体ノ選挙ニヨリ二名ノ総代ヲ置キ 金銭出納其他諸般ノ事務ヲ取扱ハシム。而シテ該漁業民ヲシテ漁具其他ノ使用料 トシテ漁獲収益金ノ内ヨリ非漁業者タル有資産者ノ人員ニ相當スル貯蓄組合規約 第三条第二項貯蓄金(一人一ケ年参拾六銭以上)ヲ代積セシメツツアリ[知内漁 業組合沿革誌:31] この貧民漁業制度の要件は「従来ノ村稼ヲ廃シ」「無資産ノ細民ニノミ漁
業ヲナサシメ其収益ヲ該漁業民ニ配當シ以テ活路ヲ得セシメン」とする点で ある。知内村の北端、西浜村との境を流れる知内川にはアユやビワマスが遡 上する。その魚を河口から100 メートルほどのところにワナを仕掛けて捕る 仕掛けが簗である。その簗での収穫はこれまでは、「村稼」として村人全員 に平等に分けられてきた。その村の財産を、無資産の細民のみの稼ぎにし て、今回の窮状を乗り越えようというのである。しかもそれは今回だけの事 ではなく、その後も長く続ける仕組みとして制度化が図られる。 ではこれは有資産者から無資産の細民への施しであろうか。今回の村の大 幅なシステムの変更を施しとしてのプランと読むかどうかは、村の定常的な システムのあり方をどのように考えるかのおおきな分岐点となるのですこし 内容に立ち入って検討しておこう。 先の文の最後に出てくる「知内村貯蓄組合規約」の第3 条では「貯蓄金額 ハ左の制限ニ依リ毎年貯蓄スヘシ」として貯蓄金額が規定されている。その 第二項に金額の区分が示される。 一 簗漁者一ヶ年収穫金高百分ノ二以上 二 其他漁業者ハ一ヶ年金参拾六銭以上 三 前二項ヲ兼ヌルモノハ各其金額 これまでの規約では簗漁者は1 年の収穫金の 2 パーセントを貯蓄しなけれ ばならなかったが、今回の措置では二の「其他漁業者」と同じ年参拾六銭を 貯蓄することという規定になっている。では「其他漁業者」というのはいっ たい何ものか。第2 条の組合員規定を見てみよう。 第二条 当組合ハ水産保護漁業取締ノ為メ設クルモノトス故に知内村ニ居住スル モノハ必ス加盟スヘシ。故ニ営業者ト休業者ノ二類ニ分チ毎年一月之レカ 加除訂正ヲ為シ稼人員ヲ定ヘシ こういうことである。この規定では知内村の居住者「全員」を組合に加入 する漁業者とする。そして漁業者を「休業者」と「営業者」のふたつに分類
しておき、通常は休業者であるが、生活困難になった場合にはいつでも「営 業者」になることができる。「休業者」か「営業者」かは、毎年1 月に決め ようという規約なのである。 現実的にはありえないとしても村人全員が可能性としてはいつでも細民に なることがあるものと仮定し、細民になった場合には、権利としてこの「稼 ぎ」によって「活路ヲ得セシメン」とするのである。村の中での生活保障が 権利として措定されているということは非常に重要な意味をもっている。つ まり、知内村のこのシステムにおいては、細民・貧民と称されたとしても、 それは村人の一時的な姿にすぎず、その人びとは絶えず村からのサポートを 当然の権利として享受できるようにシステム化されていることを意味するか らである。 また同時に、このような制度化幕藩体制の村のなかに仕込まれていた村の さまざまな安定装置は、村が近代国家の中におかれることによって、国家と の相対的な位置づけを村自身が明示的に行い、村の永続もしくは村の無事へ の営為へと動きはじめたとみることができよう。
5
国家と村の調査
ふたたび水害に戻ろう。その後、ちいさないくつかの水害を経験した知内 村には明治28(1895)年末に天皇の名代が視察にやってきたりもする。その 後の大きな水害には必ず視察にやってくることになる天皇の名代であるが、 天皇という用語が使用されるのは『記録』では下記が最初の事例である。 天皇陛下御名代トシテ明治(空欄)年(空欄)月(空欄)日片岡侍従提塘潰壊及 家屋ノ惨状視察 翌明治29(1896)年は『記録』が新しい帳面に変えられた年である。あ たらしい帳面は「第三号記録簿ニ記載スルノ紙数尽キタルヲ以テ第四号記録 簿編纂スルモノナリ」とはじめられる。その年の7 月、知内村は未曾有の大水害に遭遇する。 明治二十九年七月中旬ヨリ隆雨打続キ八月十日頃ニ至リ字大川宅地ヘ浸水ス同月 三十日大字宅地概ネ浸水加フルニ未曽有ノ東南ノ暴風起リ為ニ潰家屋二戸半潰六 戸ノ大破壊数十戸九月六七日ノ大雨諸川出水八日午前〇時頃知内川筋字栗駒提塘 五十間破壊田地土砂入反別四段六畝十九歩同日午前四時頃知内川筋字井ノ尻提塘 三十間破壊田地土砂入反別八畝二十五歩同八日午前〇時頃ヨリ同五時ニ至ル百瀬 川筋提塘数ヶ所欠崩レ危険タルモ人民ノ尽力ニヨリ漸ク防御ス同十一日ニ至リ湖 水暴張シ宅水ヨリ高キ事一丈二尺余ニシテ当字最低ノ家屋床上ニ七尺余最高家屋 一尺余浸水セサル家屋一戸モナシ然ルニ同日午後四時頃ヨリ東南風吹起リ人民家 屋ノツシニアルモノ出サントスルモ怒濤ノ為ニ漕寄スルヲ不得不止得遺憾ナガラ 其儘ニ逃タルモノアリ又壮ナルモノハ船漕寄セ諸道具回漕スルアリ又婦女子ノ泣 クアリ宛然船戦争ノ如シ又百瀬川提防ヲ観レバ大字沢大字新保ヘ請道具ヲ負ヒ逃 レタル様ハ実ニ火事場モ啻ナラズ夜ニ入リテ風強ク吹荒ビ如何ナルモノモ逃ケタ リト見ユ翌十二日午前三時頃ニハ風モ止ミテ六時頃船ニ乗シ字浜畑字大川字中勢 ヲ巡視スルニ怒濤ノ為ニ流亡セル家屋二十四戸半潰七戸其他概ネ大破土蔵納家等 流失大破アリ流亡セザル家屋ト雖モ家屋ニ居ルモノ稀ナリ田畑ハ悉皆植付除草モ 再三度迄除キ引キ肥迄済シタルニ前記ノ次第田ノ収穫一粒モ見ル事ナシ偶々見ル モ水底ニ長リ有ルヲ以テ不合格ナリ畑作ハ麦ハ収穫セルモ豆類ハ夜盗虫ノ為収穫 ナシ大字中ニ野菜ノ類一切ナシ 一親族知巳ニ寄寓スルモノ 六十八戸 一一時小屋掛ヲナシタルモノ 四十三戸 但(大字沢山林)(百瀬川提塘字八ノ坪)(字スタ破壊所高シ) 一資力ナク小屋掛ヲナシ能ハサルモノ 一三戸 但(大字沢長法寺、光明寺) 一一時備荒諸蓄金救助金ヲ受ケタルモノ 四十六戸 此人員 一百七十六人 内訳 壮男 六十四人 壮女 五十八人 老幼 五十一人 一家屋浸水八月十日ヨリ尤最底宅ヲ記シタルモノ 同退水十月三十日迄
その次の記事では「風水害ニ付恩賜金受ケタルモノ及金額」が氏名ととも に羅列され、さらに被害状況が克明に記されている。「同月十七日郡長水害 視察」があるまでには、ほぼすべての被害状況が把握されていた。 さらに明治32(1899)年の水害の場合も同様に 14 箇所の被害状況が列記 され、それに続く記事には困難な復旧工事が竣工したことが記される。 明治三十二年九月六日ヨリ大雨降リ打続キ同八日午前四時ヨリ益大雨相成両川筋 ヲ保護致居リ候処同日午后三時ニ左ノ所破壊セシ(以下略) 右ノ工事ハ誠ニ困難シ工事等モ土木委員(出張員小林外六名)厳重ニ付再三度モ 取直シモ致シ三十三年四月五日落成仕同月十日竣功検査ト相成設計金ハ同月二十 一日ニ下付相成候 四月十六日両社ヘ御酒供ヘ正月休日シ唐崎社境内ニ於テ普請上リ祝ヲ致シ酒二斗 八升大豆五升■五升肴トス 三十三年四月十二日 一四撰区長 兼/学務委員/衛生組長 中川市三郎 同 代理者 兼衛生組長 鳥居七五郎 相次ぐ水害のためもあり、県からの「設計金」による復旧工事は半年あま りに及んだ。 明 治18 ( 1885 ) 年 の 水 害 と 明 治 29 ( 1896 ) 年 の 水 害 の 間 の 明 治 22 (1889)年には町村制が施行され、知内村は他の 5 つの村と合併して百瀬村 となっている。つまり知内村は消滅したのである。しかし、その翌年3 月に は知内村規約を改正し、「百瀬村大字知内住民申合規則」をつくり、その意 図を前文で次のように述べる。 町村制施行ハ明治二十二年四月ニシテ役場ヨリ発布ナル条例規則ヲ確守スルハ住 民タルモノゝ権利義務ニシテ公民タルモノハ公共事業ヲ興有尽力セラルゝト雖ト モ町ト異ナリ在野ノ村落ニ至テハ種々ノ事情アリ且各住民ニ於テ申合規約ヲ設ケ 本年ヨリ向六ヶ年此規則ヲ履行実践スル事
知内村の事情があるので、これまでどおり知内村としての独自の自治をつ づけていくことの宣言なのである。知内村にはそれ以前に規約はなく、規約 の内容は、これまでに『記録』に綴られてきたさまざまな出来事にかかわる 「 村 事 」 の 見 事 な 役 割 体 系 と な っ て 表 現 さ れ て い る10)。 さ ら に 明 治30 (1897)年、35(1902)年にはその規約が改正され、次第により詳細なもの になり、大正6(1917)年の規約では 100 条以上にのぼっている。 それらの規約に表現された村の役割体系が示すのは、幕藩体制の村がこれ ら一連の規約と規約改正によって近代国民国家の村へと自覚的に変貌したと いう事実である。町村合併によってより大きな行政枠組みに取り込まれなが ら、逆にここで自分たちの村を自覚的に創り出していく営為は、先に見た 「貧民漁業制度」のような創造の延長線上にある。それが志向するのは、村 の永続、村の無事であるが、そのための基盤はこれまでの経験、あえていえ ば調査によって培われてきた、村や村人についての知識の体系であるがゆえ に、たとえ大字知内と称されようとも百瀬村ではなく知内村が選択されなけ ればならなかったのである。
6
村の持続と国家
水害に戻る前にもうすこし、規約を通して村の支配構造の変化を追ってお こう。 明治35(1902)年にはさらに規約が改定される。明治 30(1897)年規約 では、下記のように幕藩期以来の長分、諸人(神事入席者、宮座のメンバ ー)が村の政治のなかに位置づけられていた。実は長分と諸人はほぼ重なる メンバーからなっていた。 一長分ト称スルハ年齢二十五年ニシテ一戸ヲ構ヘ地価四百円以上ノ地所ヲ所有ス ル者ニ限ル 但無妻ト雖モ所役人ノ被撰挙権ヲ有ス 一神事入席者ハ諸頭規則ノ料金ヲ徴収スルトキハ協議費中ヘ組込ム者トス 但再三入席者ハ足洗トシテ酒二升出サシムしかし、明治35(1902)年の改正では長分、諸人ともに姿を消すことに なる。 此規約ハ従来慣例ニヨリ長分ヲシテ組頭ト称シ総テ協議決定成来リ候処明治三十 五年四月二十六日当字総会ノ決議ニヨリ前顕ノ組頭ヲ廃シ其際起草員六名ヲ選出 シ左ノ改正条案ヲ組織シ同年五月八日総会ノ認定ヲ得テ此規約ヲ履行実践スル条 項左ノ如シ つまりそれまで政事と神事が一体となった祭政一致の幕藩体制の村がより 近代的な自治区へと変貌を遂げたのである。それは、下記のように、村を把 握しようとする、より強固な国家統制への村の組み込みへの形式的な対応で もあった。 此規約ヲ明治三十七年六月ニ郡衙ヘ報告セヨノコト付第五条六条代・ニ関スル区 長ハ代理者ハ曽テ総代ト打紙代ノ通リ仝年七月十六日ニ通報シ置候コト当字ニ於 テハ右規約ノ通リ施行スルコト こうした動きは、一方で村の旧来通りの村の自治を維持しようとする力と 国家統制の力とのせめぎ合いと見ることも可能である。しかし、国家が議会 をはじめとして徴税、教育、軍隊、祭祀、生産など国民国家として装置を配 備しつつ、空間・時間・習俗・身体の国民化を強力に推し進め、村を国家の 末端として位置づけようとするのに対して、村自身には、その国民化の力に 強烈に対抗しようという自覚的な動きはない11)。 規約の中にも『記録』のなかにも、それらに準拠したあらたな、生活体 系、役割体系の再編への動きが随所に見られる。にもかかわらず、国家の意 思とは裏腹に村は総体として自律への意思が明確に見られる。それは村自身 が培ってきたさまざまな知識の体系こそが、村の永続、村の無事を約束する のであって、茫漠とした国家の官僚を介した政治によって実現されるもので はないことを、村が敏感に感じ取っていたからに違いない。そしてその知識 の体系の見える形でのインデックスこそが『記録』であったのである。
水害にもどろう。 大正元(1912)年 9 月 23 日の降雨の記事はこれまでとはやや趣を異にす る。 大正元年九月二十三日午前八時降雨ニテ知内川追々増水ト相成字栗駒堤防修繕箇 所同所保護ノ為代理者鳥居大蔵堤防移築委員鳥居七五郎中川与七鳥居五三郎堤防 保護委員前川孫七中川源太郎中川源一上川美代吉ノ八人出場保護ニ尽力セラレシ ニ午后三時頃ニ至リ少々小降ト相成リ一先集会所ヘ帰所セラレシ時区長中川太七 村長中川市三郎ハ今津工営所ヘ該工事ノ件ニ付出張セラレシモ同時ニ帰所シ村長 ヨリ工営所ト交渉ノ結果報告致シ居ラレ候処又大雨トナリ到底捨置難直チニ八人 モノ現場ヘ馳セ付保護セシモ追々増水トナリ大雨トナリ到底役員ニテハ防ギ難ク 夕方ヨリ区民一統ヲ出場致サセ古俵及縄ヲ運搬致サセ土俵ニテ保護セシニ午后十 時頃ヨリ伊吹風防風雨ト相成大字西浜ヨリモ応援ニ出夫セシメ必死ニ尽力セシニ 翌二十四日午前三時頃ヨリ又々南風ト変ジ為メニ追々増水シ百瀬村消防組出場シ 尽力セラレシニ午前六時頃ニ少ニ小風トナリ何分皆々一夜保護ニツカレ居候為集 会所マデ一先引取ラセ朝飯ヲ与ヘ居シニ若シ不都合アリテハ如何ト年行司ヲ使シ 候所豈計ランヤ栗駒神主橋詰ヨリ約十間斗上ニテ破壊シ田地ヘ土砂入大字西浜ノ 田地浸水シ猶又西浜墓地橋ヲ落シ通行止メトナリ船渡シテ西浜ヨリ人夫ヲ以テ実 行ス然ルニ諸大風雨ノ事トテ今津工営所及郡役所警察署モ二十三日午后八時頃ヨ リ出張二十四日モ出張ノ上切口土砂止工事ヲ施行 被害調査は迅速に村のなかで実施されつつも、これまで年行事を中心に 「区民一統」で行ってきた防災出動に、「今津工営所及郡役所、警察署」が村 に出張して対応にあたった。災害対策がようやく行政の管理下に置かれつつ あるようにも見えるが、村の中では神事組織(宗教)である諸人、神事と政 事(政治)の中間的存在である年行司、そして農事(生産・生活)にかかわ る総代(区長)や協議員が場面々々で動く様子が記されていく。 知内では降雨が続けば、まずは「年行司」が出役し(昭和14(1939)年 では「堤防保護員及年行司【資料9】)、かつて問題になった箇所の調査をお こなう。のちに決潰などの問題が起こった場合も、まずは年行司をはじめと する村執行部が実地調査をおこない、内部で処理すべき問題と陳情を行う問
題とを区分する。 たとえば【資料2】の記述では、前半の「樹木并ニ田畑作物ノ被害」につ いては誰が何をしたのか記されていないが、後半の「日吉神社ノ上家半分破 壊」については「当分ノ内諸頭総出シテ」修繕にあたっている。村民による 人夫であったり【資料3、5】、「堤防決潰ノ為損ジタル個所」を「応急修繕 ニ奉仕中ノ百瀬村青年団員」であったり【資料7】、区民総出動【資料8】し て対応するのにたいして、百瀬川、知内川などの決潰の場合には、県土木課 長の実地踏査がおこなわれ官費による改修が実施される【資料10】。 いかなる権力が村を支配しようが、あくまでも、あらゆることが村の執行 部によって調べられ、把握され、記述されるスタイルはこの200 年間変わる ことなく続けられてきた。必ずしも彼らは積極的に抵抗するのではない。そ れどころか形式を通して、自分たちの調べたデータに基づいて、代官所に文 書を出し、知事を通して内務省に陳情する。これらのデータは多くの場合、 数値で表されたデジタルデータであるが、その調査項目を詳細にみていくと デジタルなデータの背後にあるこれまでの経験的でアナログな膨大な知(生 活知、日常知)に裏付けられている。ローカルな経験知を直感的に私たちは アナログなものと考えがちだが、実際にはデジタルとアナログとが溶け合っ たもの、時に図となり地となるような関係にあるものと考えた方がよいとい うことを示唆している。 村が固定的にアルのではなく、知内村はそれぞれの時代に応じた村にナリ 続けている。資料に見られたように、かれらは村を固定した何ものかとして 維持するだけではなく、ときに知内の枠を越えて、町村合併で作られた新し い百瀬村の範域やさらに琵琶湖全体を自分たちとして認識し、主張すること で自在にボーダーを変化させながら水害の状況に対応していく。 たしかに国民国家論が論じたように12)、知内村民も国民化された時間と空 間とをさまざまな形で経験するのだが、果たして国民化をとおして村もまた そのまま国家によって均質化され平準化された村になったのかといえば、そ うではないであろう。村自身が村を知ること、細部の細部までを調べ、記述 すること、そうして彼ら自身が情報をストックし伝承することによって国家
とわたりあう術を、すくなくとも昭和戦前期までは持ち得たのである。 村の調査する力(情報収集力)、情報を継承する力(情報の記述と伝承)、 情報と行動を結びつける力(情報処理と実践)などを併せて、村の情報力と 呼ぶとすれば、まさに村の持続を支えているのはこの情報力ではなかった か。日本の村の持続力の強固さについてはさまざまなかたちで強調されてき たが13)、それを可能にしていたひとつのおおきな力はこれまで見てきた村の 情報力であったのではないか。知内村をひとつの事例とするような彼ら自身 のコアとしての「むら」が情報力を支え、コアとなる「むらむら」の間で、 ときにその情報が共有され、よりおおきな集合体であるかのようにも行動す ることを可能にもしたのである14)。 【資料1】明治八年地券再検査有之ニ付一統協議ノ上長分立会四組ニ分シ実地丈量 致即チ更正野帳整調滋賀縣本庁エ上納致候事 但 地籍村内図面共調整致役場ニ備エ有之候事 [中略] 一、知内川堤敷川敷合反別 六町八反四畝九歩 南堤ノ長 蛭口村境ヨリ字大川畑限リ 五百六十三間五尺 北堤ノ長 同 ヨリ字中勢畑限リ 五百三十五間三尺 外ニ川敷反別二反二畝二歩西濱ト当村ト川中央境ノ分 但四十二間 一、字百瀬川堤敷川敷合反別 三町六反九畝一九歩五厘 南堤ノ長 沢村境ヨリ字濱畑同限リ 六百十九間五尺 北堤ノ長 沢村境ヨリ字八反田中川市治郎畑限リ 六百〇九間二尺 一、字殿田川 川敷反別 四反九畝廿六歩七厘 川長 蛭口村ヨリ唐崎社乾ノ方新川分レ迄 四百三十六間 同社乾ノ方ヨリ字大川湖水マデ即新川 百八十六間 同社乾ノ方ヨリ字ジク田限リ即古川 百八十四間五尺 川幅 蛭口村境迄六尺 字井尻堰九尺下ニテ壱丈壱尺 新保道四間三尺上ニテ一丈二尺字丸池堰九尺下ニテ壱丈壱尺 字丸池曲リ角ニテ一丈字丸池新川古川分レニテ壱丈二尺 庚申塚ニテ 壱丈二尺 大道石橋ニテ壱丈二尺 ○古川分レ唐崎社裏ノ橋マデ壱丈壱尺 旧字広割堰六尺下ニテ壱丈 一、前川 川敷 不別
川長 蛭口境ヨリ字八反田鳥居利七持田之柳二本目迄 七百〇二間五尺 川幅 蛭口村マデ 壱丈三尺 字安又鳥居七次郎田ノ辺ニテ 壱丈壱尺 字スタ小橋溝尻辺マデ壱丈二尺 字八反田俗ニ云フ久作橋マデ 壱丈五尺 字八反田鳥居利七田ノ辺ニテ 壱丈四尺 一、スタ川 川敷反別 五反二畝十四歩九厘 川長 沢村境ヨリ字八反田中川三四郎持ノ葭地迄 五百六十八間 川幅 沢村境ニテ 壱丈 字スタ旧字上ノ町石橋ノ辺ニテ 壱丈四尺 字八反田旧六反田石橋迄ニテ 壱丈二尺 字八反田学校前ニテ壱丈七尺 字八反田旧濱田堰ニテ 壱丈二尺 字八反田葭地ニテ 壱丈二尺 一、馬糞川 字井ノ尻村中持田ノ頭ヨリ 字サクラ海津通路石橋迄 幅 三尺五寸 同所ヨリ字丸池新路マデ 同 三尺 同所ヨリ字ジク葭地マデ 同 四尺 同所ヨリ人通川マデ 同 六尺 一、俗ニ云フサクラ中溝 字ジク高田卯平治持田頭ヨリ馬糞川マデ 幅 三尺 一、マゴセ渠 字前田鳥居七次郎持田尻ヨリ字同鳥居太三郎持葭地マデ 幅 四尺 同所ヨリ古川五四郎葭地マデ 同 壱丈五尺 一、泓 反別 四反四畝歩 曰ク本ノ川ト云フハ右泓ノ内新保村境界添テ湖水ニ流レテ有シガ往古百瀬川 切レ 込水吐悪敷ユエ田地崩レテ泓ガ出来夫ユエ本ノ川泓ト一本ニナルトモ本ハ別 ナリト云フ依テ明治八年ノ地券民有ノ区域判然トシ地券モ交付ニ相成候事 一、本ノ川 川長 字前田鳥居吉郎次持葭地ヨリ新保村境界ニ添テ湖水迄 川幅 葭地ヨリ湖水迄見通シ 六尺 一、字安又横路ヨリ字スタ石橋マデ 溝幅 三尺 一、字スタ石橋ヨリ字スタ前川マデ 同 四尺 一、字スタ百瀬川北堤ニ添フ溝 同 三尺 一、字スタニ有ル字ミソジ長堰溝 同 三尺 一、字ミソジ裏堰溝 同 三尺
一、字スタニ有ル旧六反田堰表溝 同 三尺 一、字旧六反田堰裏溝 但旧字又毛頭迄 同 三尺 一、字人通川 川敷不別 五反三畝一九歩二厘 此外養水溝悉皆弐尺之事 但 渠溝詳細敷ハ更正画図面ニ有之事 【資料2】大正七年九月十四日暴風アリ樹木并ニ田畑作物ノ被害アリ又々仝月二十 四日午前二時頃ヨリ風ツヨク雨大イナリ故ニ各方面ニ注意致居リシニ仝十時ヨリ后 二時半頃迄大暴風雨トナリ家屋ノ倒壊田畑作物ノ損害甚大ナリ日吉神社ノ上家半分 破壊シ当分ノ内諸頭総出シテ藁ヲ以テ修繕ス大正八年六月二十六日ヨリ三日ノ間屋 根後片屋根丈葺替ス此ノ代金三十八円ニテ三宅嘉平ニ請負シム外金一円酒手トシテ 呈ス 【資料3】大正七年九月二十四日大暴風雨ノ為メ日吉社境内ノ北角ノ松一本倒レタ リ其松金二円五十銭ニテ沢倉辻彦太郎氏ニ売却ス 墓地ニ建設アリシ合龍■堂ハ大暴風雨ノタメ倒壊セリ大日如来ハ墓ヨリ落タレドモ 破損セズ仝日二十八日人夫七人ヲ以テ倒壊セシ建物ヲ取方付ケ大日如来ヲ墓ノ上ヘ 安置シテ安養寺住職竹田隆晴氏ヲ頼ミ如来ニ向ツテ読経ヲス其他ノ民家古川半次郎 全壊ス半壊家屋鳥居冨治郎上川新右衛門前川喜市外ニ納屋ノ倒壊六棟半壊多シ知内 川百瀬川共出水セシモ大字知内所属ニ於テハ損害ナシ百瀬川筋ニハ出水ノ多キ故大 字沢所属字中ノ町ニ於テ堤防凡ソ四十六間決壊シテ百瀬小学校々舎全部土砂入トナ リ室内ニテ土砂ノ深サ五尺以上アリタリ当集会所ヲ仮教所トナシ十一月一日第四学 年生以下全部入所スルニ付十月二十八日当安養寺ノ本堂東ノ間ヲ借受テ仮集会所ト ナス 【資料4】[昭和 9(1934)年]九月二十一日ニ(彼岸ノ入リ)午前七時ヨリ大伊吹 風起リ七時半ヨリ八時迄ノ間ハ大颱風セリ八時ヨリ九時迄ニ西北大吹返シノ為住宅 ハ荒木増吉潰屋セリ納屋ハ中川駒吉、前川孫右衛門、前川太七ノ孵化場ノ建物、中 川梅次郎半潰、中川太吉、鳥居五三郎ナリ唐崎社小枝又ハ桜、杉、松、ヒノ木ハ沢 山三尺以上(周リ)六本打折タリ総会所樟ハ根起キセリ各戸毎クズ家、瓦屋根吹飛 セリ日吉社ハ何ノ害ナシ昭和電力ノ鉄塔丸池分潰セリ其稲田ノ損害ハ別記ノ通リ 一丸池ノ田建設鉄塔一台及川向西浜ノ鉄塔ト中庄ノ六町ノ二台潰滅セリ其一時的ノ 修繕ハ稲田荒シニ対シ一坪六十銭塔足ハ一台四十円トス
金額千二百円余ヲ領収セリ 一桟橋損害 一宮松樹損害 一総倉 二棟損害 一集会所ノ 右ノ通リ未曽有ノ風害セリ 【資料5】[昭和10(1935)年]仝十年六月二十九日朝大豪雨ノ為メ七時ニ大字沢光 明寺林ノ上ノ北堤決潰シ一時ハ大動キ二十六間決潰土砂入田地ハ凡三十反知内ノ田 地ヘ入水ハ凡五十反上ケ家屋ヘ入水ハ五戸即時大字中ヨリ人夫ヲ日ヲ割リ当テ百三 十八人出夫セリ此料金ハ知内ヨリ定メノ三十銭ト沢ヨリ五十銭ヲ合シ一人八十銭ト ス帰リニ小食トシテ沢ヨリ握飯二個ヲ受ク 決潰一時的ノ費用凡金五十円 其后ノ費用金四十七円五十銭 合計金九十七円五十銭ハ栗駒堤防水災費ト共ニ十月二十五日賦課徴収ス 【資料6】昭和十年七月十七日正午過ギヨリ驟雨アリ午後一時四十分頃橋本藤吉納 屋ニ落雷沛然タル雨中ニ出火折柄知内澤間道路(堤防決潰ノ為損ジタル個所)応急 修繕ニ奉仕中ノ百瀬村青年団員ヲ始メ村内消防組員ノ救援ヲ得テ防火ニ努メタル結 果二時十分頃仝納屋ヲ半焼シタルノミニテ鎮火セリ 隣村ヨリノ応援ハ鎮火ニ付各方面ニ断リニ赴カシメタリ時ヲ経ズシテ今津警察署ヨ リ巡査部長等出張実地検証ヲ済サレタルニ付消防手ノ手ニテ灰掻キヲ了シタリ同日 大字澤ヨリ見舞トシテ握リ飯三櫃ヲ受ケタリ 【資料7】昭和十三年七月五日 夜来ノ豪雨ニ引キ続キ午前中降雨続キタル為知内 川百瀬川共増水ス午前十一時四十分頃百瀬川流域沢地区二反田ノ堤防約五十間決潰 ス水勢猛烈ニ当字ヲ襲ヒ上知内三十戸ニ浸水市左衛門橋ヲ流失シ各道路破損個所多 ク一時交通途絶スルニ至ル決潰ト同時ニ泥土ヲ流入セシ為字スタ字サクラ字八反田 字ジク方面ノ田面泥海ト化シ甚ダシキハ約九寸ヲ置キ植付セル田面全滅セリ尚仝時 ニ百瀬川下流中川弥治郎住宅裏ノ一部モ崩壊セリ 八日、九日区民総出動ニテ応急作業トシテ百瀬川下流ノ崩壊個所ニハ土俵ヲ積ミ 沢方面ノ災害ニ対シテハ取敢ヘズ蛭口道路及ビ蛭口橋ヨリ六反田ニ至ルスタ川畦畔 ニ土俵ヲ積ミテ泥土ノ侵入ヲ防ゲリ県社会課耕地課農事試験場等ヨリ技術者派遣慰
問ト今後ノ対策ニ付懇切ナル指示アリタリ 【資料8】[昭和13(1938)年 7 月]今次水害ニヨリ泥土ヲ流入セシ字ジクサクラス タ方面其他約五町歩ノ田面植付セルモノ全部埋没セシニ依リ郡村農会ノ尽力ニ依リ 郡内農家一戸当リ二把宛ヲ義務的拠出セラレ遠ク滋賀郡各村農会ヨリモ多数恵与ヲ 受ケ計一万把ヲ以テ被害田地ノ殆ンドヲ植付セリ 【資料9】昭和十四年三月十一日 前夜来ノ豪雨ニ因リ百瀬川知内川共増水ス依テ 十一日早朝ヨリ堤防保護員及年行司出役ス百瀬川流域右岸弥四朗ノ上ノ所堤防ニ破 損ノ虞アリ人夫ヲ督励シ防禦ノ作業ヲナス降雨激シク増水ヲ辿リツゝアリ警戒ヲ厳 ニセシガ午後五時百瀬川流域大字澤所属墜道上流約四十間決潰ス水勢猛烈ニ当字ヲ 襲ヒ上知内家屋数戸浸水シ泥水田面ニ拡濫シスタ川流域蛭口橋ノ下中川七郎平所有 内田ノ畦畔決潰(約四間)ス 【資料10】[昭和 14(1939)年]三月十一日百瀬川決潰ノ実況ヲ県土木課長実地踏 査セラレシニ因リ十二日ニ大字被害ノ状況及河川改修ノ曩ニ陳情セシ実地ニ付キ当 字エ出張ヲ依頼シ午後課長ノ一行来知セラレ種々希望意見ヲ上陳ス 【資料11】昭和十四年二月二日、昭和十三年七月五日ノ増水ニ依リ決潰セシ沢、二 反田堤防其後復旧ナラズ、内務省補助ヲ仰ギスタ川ヲ根本的ニ改修サル由聞キ其ノ 後ノ経過ヲ注視シツゝアリシモ計画ノ内容判然トセズ測量サレシ線ヨリ想像スルニ 大字ノ不利益多大ナルニ依リ大字総会ノ決議ニヨリ左記陳情書携エ村長ヲ経テ今津 土木出張所ニ出頭旧スタ川河線利用相成様懇願セリ 陳情書 昭和十三年七月五日ノ豪雨出水ニ依リ本村大字沢地先ニ於ケル百瀬川支流高川堤防 決潰シ土砂礫流下シ河床ノ上昇河状ノ変化等氾濫決潰ノ厄ニ遇ヒ沿岸関係字民ハ疲 弊ノ一路ヲ辿リ極度ニ怯エツツアル状態ナレバ再ビ天災ノ脅威ヲ受ケザル様根本的 改修ニ依リ下流沿岸民ノ危害ナク更生シ得ル様曩ニ挙村一致速カニ改修成被下様村 会ノ決議ヲ経テ陳情セラレタル次第ニ有之候 然ルニ改修河線那辺ニ決定セラルゝヤ今以テ窺知スルヲ得ザルモ現在測量セラレア ル線ニ決定セラレンカ左記ノ如シキ欠陥ヲ生ズル懸念之有様思考セラレ候 一、大字知内百二十余戸ノ中上知内三十余戸ノ飲料水ハ地下水ノ水質悪シキタメ西 庄村湧出前川ノ流水ヲ使用致シ居ル現状ニ有之降雨毎ニ増水ノ際ハ濁水浸透又ハ氾
濫シ合流点ノ上流ニ迄其害ヲ及ボシ為ニ欠乏ヲ生ジ日常生活ニ脅威ヲ受クル事甚大 ナリ 一、一朝豪雨ニテ出水ノ際一方知内川堤防決潰センカ忽チ上知内及ビ下知内百瀬川 以北ノ住家ハ浸水ハ勿論家屋流失ノ惨状ヲ来ス虞アリ 一、現今耕地水田ノ中字スタ字八反田及ビ百瀬川堤ヲ貫通セル伏樋ニテスタ川ヲ利 用給水セル百瀬川以南ノ水田全部ハ涸渇シ大字耕地水田約七百反歩ノ中約半数ハ給 水不能ニ陥ルハ火ヲ観ルヨリ明カニシテ従来スタ川ノ水量ハ全部三個所ノ伏樋ニテ 百瀬川以南ニ給水シアルモ尚不足ヲ生ジツゝアル現状ナリ 一、現在測量シアル線ハスタ川旧河線ヲ利用改修ニ比較シ所要面積多大ニシテ為ニ 耕地ノ減少ヲ来シ苦痛ヲ覚エル事大ナリ依而今ニシテ河状ノ変化等百年ノ大計ヲ誤 ラバ区民ノ生活ヲ脅威シ住家耕地田等荒廃ノ運命ニモ到達スルモノト思考致シ候ニ 付最モ安全ナルスタ川旧河線ヲ利用相成様特別ノ御憐憫ヲ以テ改修成被下度大字知 内区民一致熱望措カザル所ニ有之候条別紙略図相添ヘ連署ヲ以テ此段及陳情候也 昭和十四年二月一日 高島郡百瀬村大字知内 総代 中川梅治郎 滋賀県知事 平 敏孝 殿 区民一同 連名 捺印す 添付略図ノ概況 左記(省略) 付記 本研究の一部に文部科学省科学研究費補助金(No. 9410057, No. 14510238)を利 用した。 注 1)[ ]内は筆者による。 2)以下、『記録』からの引用のなかで[ ]は筆者による注記。 3)本稿では、資料的価値も考慮して『記録』のなかから水害について直接言及さ れているものすべてを提示することとした。 4)村が無事を維持するために創り出してきた仕掛けについては古川彰[2004]2 章4 節「村の災害と無事──『貧民漁業制』という仕掛け」において論じた。 5)伊藤康宏と共同で「村の日記──江州知内村『記録』(1)−(12)、(補)」を 『中京大学社会学部紀要』2−1−8−1 に、また伊藤・鎌谷かおると共同で「村の日
記──江州知内村『記録』(13)−(14)」を『関西学院大学社会学部紀要』97−98 に掲載した。とくに注記しない場合は『記録』からの引用である。 6)知内地区、および「知内村『記録』」については古川彰[2004]に詳しい。あ たらしいコミュニティの動きについては古川・松田編[2003]でも論じた。 7)この間の瀬田川浚渫にかかわる事情は嘉田由紀子・古川彰[1984]に詳しい。 8)この時期は定神主ではなく籤を振って村人から一人神主を選ぶ廻り神主制であ る。ここでは神主になれる者を「諸頭」と呼び、諸頭は宮座の名称でもある。こ の廻り神主制は明治5(1872)年にいたって制度的には廃止され定神主制にな る。 9)詳しくは古川彰[2004 : 102−113]参照。 10)村の構造的変化については古川[2004 : 75−101]参照。 11)地租改正(明治8(1875)年)、軍隊の演習にともなう村内宿泊(明治 31 (1898)年 10 月 3 日記事が最初)、知内小学校の百瀬小学校への統合(明治 39 (1906)年3 月 31 日 記 事 )、 神 饌 幣 帛 料 ヲ 進 献 ス ヘ キ 神 社 の 指 定 ( 明 治 41 (1908)年 4 月 29 日記事)、農会米雑穀疏菜品評会の開催(明治43(1910)年 12 月5 日記事)など。 12)たとえば西川長夫[1995]。 13)桜井徳太郎は、その強さを「ゴム鞠原理」と表現し、次のように説明してい る。「つまり外部から圧力が加わると、民衆はそれに抵抗する無駄を省いて、自 分のほうで凹んでしまう。外部からの圧力は決して永続的ではないから、やがて リタイヤーする。(中略)しばらくして外圧が引っ込むと、その機をみてとっ て、再びもとのごとく表へ出て行きフルに機能する。無理をしないのであるか ら、鞠の生命力は永つづきする」[桜井,1974 : 190]。ここまで述べてきた知内 村の外圧への対応をこの原理で説明することも可能である。 14)しかし、この情報処理のありようは、村を全体として持続させる力ではあり得 ても、例えば戦地に赴く村人ひとりひとりを守ることは出来ない。冒頭に記した 『日本のむらの百年』で米山俊直の知内村の記述が、知内村の出征兵士の墓の記 述からはじまるのは、この日本の「むら」がひっそりと閉じられた系であり続け たのではなく、つねに外に開かれていたことの証左としてのことであった。いっ けん矛盾するように見える、外に開かれ国家の翼賛体制に動いていく村と国家と 渡り合う情報力を持った村とが、同じものとしてあり得たのである。この点につ いては、稿を改めて論じたいと思う。 文献 有賀喜左衛門,[1948]1969,「都市社会学の課題──村落社会学と関連して」『有 賀喜左衛門著作集』衄,東京:未来社,147−204. 『地内漁業組合沿革誌』,1905,この文書の発行元などは不明。
古川彰,2004,『村の生活環境史』京都:世界思想社. 古川彰・伊藤康宏,1988−1993,「村の日記──江州知内村『記録』(1)−(12)、 (補)」『中京大学社会学部紀要』2−1−8−1. 古川彰・伊藤康宏・鎌谷かおる,2004−2005,「村の日記──江州知内村『記録』 (13)−(14)」『関西学院大学社会学部紀要』97−98. 古川彰・松田素二編,2003,『観光と環境の社会学』東京:新曜社. 嘉田由紀子・古川彰,1984,「水と村」鳥越皓之・嘉田編『水と人の環境史』東 京:御茶の水書房,25−46. 西川長夫,1995,「日本型国民国家の形成」西川長夫・松宮秀治編『幕末・明治期 の国民国家形成と文化変容』東京:新曜社,3−42. 桜井徳太郎,1974,「結衆の原点」鶴見和子・市井三郎編『思想の冒険──社会と 変化の新しいパラダイム』東京:筑摩書房,185−234. 内山節,1998,「近代的人間観からの自由」内山他著『ローカルな思想を創る』東 京:農山漁村文化協会,46−68. 米山俊直,1967,『日本のむらの百年』東京:日本放送出版協会.
■Abstract
A village in northern Shiga Prefecture boasts dozens of historical documents containing records dating back to 1745, records which continue to be kept even today. A careful reading of these documents shows that the villagers have been continuously examined by people both inside and outside of the village numerous times since the Edo period. The village history can also be read as a history of surveys. When looking at the village history as a history of surveys, one learns about the way people spend their lives in the village as the subject of study and in the village as the conductor of the survey. This article examines the materials re-lated to flooding that occurred between the end of the Edo period into the Meiji period based on the historical records provided in the “Village Diary.” It uses the village’s own “surveys” to examine how the village, as an intermediate organiza-tion between the household or individual and the state, perceived and dealt with the process of transitioning from the Bakufu system to the modern state through the Meiji Restoration. Given this, I try to discuss the significance of “surveys” from the village perspective. Through these efforts, I show the following. (1) The village’s local knowledge (knowledge of everyday life) is not only retained as analog experience knowledge, but is passed down as a fusion of analog and digital knowledge. (2) The village itself conducted surveys, kept records, and maintained that information. By passing that information down, the village was able to con-tinue to reorganize itself while negotiating with a state that was quickly undergo-ing modernization.
Key words: village diary, surveys, a quiet life, local knowledge, floods, nation state ──────────────────
*Kwansei Gakuin University