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北 島 信 子
Nomura Yoshibee and the Relationship between Religion and Science
Nobuko K
ITAJIMA ɂȫɔȾ 本研究において、野村芳兵衛(1896‒1986)が彼の生活指導論における科学と宗教をどのよ うにとらえていたのかについて、協働自治による「生活訓練」を通して検討することを目的と する。野村芳兵衛の生活指導論の先行研究として竹内常一の大著、『生活指導の理論』(明治図 書、1969年)を挙げることができる。竹内はそこにおいて、集団主義における生活指導論を 探究し、生活綴方や生活訓練の系譜における生活指導論についても詳細に検討されている。竹 内は野村を「生活訓練論的生活指導」とし、野村の生活指導観の基底となる科学と宗教のとら え方についても論じている。野村の生活指導論についての先行研究において、野村の信仰の基 底となっている宗教である親鸞(浄土真宗)と科学との関係性を中心に扱われているものはみ られない。そこで本研究では竹内の指摘に学びつつ、今日の生活指導論における野村評価につ なげていきたい。 竹内の先行研究を中心に検討するにあたって、竹内が『生活指導の理論』において批判した、 全国生活指導研究協議会(以下、全生研と表記する)常任委員会代表であり、竹内自身の大学 時代からの指導教官でもあった宮坂哲文の生活指導論の検討も、今日の野村研究に大きな手掛 かりがあると考える。それは、宮坂においても宗教(禅宗)を基底にした生活指導論のあり方 を探究していたからである。 ところで、野村の生活指導論における「生活訓練」とは、野村が児童の村小学校(1924∼ 1936年)の教師時代に提案した生活指導論および実践である。野村は「生活訓練」である「協 働自治」訓練の展開について、「協働自治は、生活信仰と生活科学の上に立つが故に、よく生 活を計画し得るのである。然も生活を計画し得るが故に、生活を指導し得るのである。」(1)と述 べている。このように、野村の生活指導論の特徴として、宗教と科学を大乗仏教に見られる「不 二一体」としてとらえられていることが挙げられる。こうした「生活訓練」は、「客観功利」(「国 民道徳」)に向かう「協働自治」であり、そこにおいては「生活信仰」と「生活科学」が相互 関係にあるととらえられる。竹内常一(1969)によれば、「生活訓練」を提唱した時期の野村 の研究関心と信仰の関連について、野村は「宗教的生命主義」から「客観的功利主義」に、協力意志にたつ教育を協働自治にもとづく訓練に組みかえていったのであるが、こうした野村の 転回は、信仰から科学的な行動主義への転回を意味するものではなく、野村が生来もっていた 信仰が深まり、それを教育実践において具体化していったものと考えられる(2)。 本研究ではそうした竹内の指摘に学びつつ、野村の宗教観を基底とした生活指導論を深めた い。具体的には、竹内(1989)による宮坂哲文の「教科をとおしての生活指導」(「機能論」) の再評価を手掛かりにしたい。竹内(1969)は野村、宮坂を評価しつつも検討課題を挙げてい た。宮坂についてはその後再評価したが、野村について竹内(2010)は、「生活訓練」を生活 指導の源流であり、「生活指導の今日的な実践形態」であると評価しつつも、宗教観を基底と した実践理論については具体的に示していない(3)。そこで、本研究においては、宮坂による野 村論、竹内による宮坂再評価の内容を手掛かりにし、宮坂と野村の宗教と科学のとらえ方の共 通点を探究し、宗教観を基底とした生活指導論を考察し、生活指導論の今日的理解につなげて いきたい。 ᴮǽరᓺчᚖɁႆ๊߳ᝲ ḻǽႆ๊ᜡᎃȻɂ 野村芳兵衛の生活指導論を検討していくにあたって、野村の「生活訓練」とはどのようなこ とであるのかについて戦前の生活指導の系譜から述べていく。 「生活訓練」は、明治中期に谷本富らによってヘルバルトの教育理論が紹介されたなかで、 教科外教育の原理を管理と訓練という概念で構成していたのであるが、「日本においては、訓 練が管理の一部として理解されたがために、教師の人格的感化による自主的な行動などはなく、 教師の直接的な管理や、その代行機関としての級長、班長、当番などの権力的組織による間接 的な管理をとおして、学校や教師が決めた規則を子どもに強制していた。こうした管理主義教 育にたいする反発から生活指導は生まれてくる」(4)のであった。 そこで、「管理主義教育」への反発としての生活指導が生まれたのであるが、戦前の生活指 導の系譜が㧞つあり、それが生活綴方と生活訓練である。 生活綴方は「現実にたいする子どものありのままの意識や感情や態度そのものを指導の対象 とし、ものの見方、考え方、感じ方を育てる指導としての生活指導である。そして、この系譜 は、教科・教科外の両方の領域にわたる思想、態度、価値観など生き方にかかわる教育として 発展していく」(5)とされる。一方、野村の生活訓練は、「子どもを野性的存在としてとらえ、子 どもの生活の中心を遊びとし、子どもの遊びを指導することが生活指導と呼ばれた。生活指導 のこの系譜は、教科外における子どもの野外生活や交友生活の指導、学級文化運動の方向や、 子どもたち自身の自主的な集団活動と集団組織化をめざす集団主義的な方向に発展していっ た」(6)とされる。 野村は、雑誌「綴方生活」「生活教育」をともにリードし北方教育にも影響を与えたが、先 行研究において、野村は「生活訓練」の系譜とされている(7)。
1960年前後に全生研常任委員会代表として生活指導理論をリードした宮坂哲文(1962)に よると、「生活訓練」は当時の「管理」的な「学校訓練」とは異なるものであり、そしてそれ には、しつけとしての生活訓練(第一の型)、自治訓練としての生活訓練(第二の型)の二つ の型があるとしている(8)。宮坂はいずれの型について以下のように述べる。 「近代公教育機関に一般的であった観念的『訓諭的』干渉主義の訓練状況のなかで、大正以 降の第一次新教育運動およびそれに続くいわゆる生活教育運動の影響を受けて、あらたに生活 訓練の主張があらわれてきた。すでに明治の末に谷本富は当時の学校訓練がすべて皆教授に なってしまっていると批判したが、生活訓練の主張はこのような在来の訓辞、訓諭のみに終始 する学校訓練にたいして、子どもの具体的な生活実践の場に下り立った指導であり、そのよう な方法によらなければ、実際の訓練の成果をあげることはできないという認識に立っている。 ところでこのような生活訓練の主張にも大きくわけて二種類のものがみられる。その一つは、 教師が高いところから訓諭やお説教をこととしているのでなく、直接子どもの具体的な行動に ふれながら、直接的に訓練をはかるという立場のもので、全体としてしつけ的性格の濃厚のも のである。他の一つは子どもの『自治訓練』ないし『自治会』を生活訓練の実質的内容とみな す立場である。」(9) ここにおいて「生活訓練」が管理主義的な「訓諭」ではない「生活訓練」が標榜されてくる。 野村芳兵衛は「自治訓練」の型であるので、「自治訓練としての生活訓練(第二の型)」に類別 されると考えられる。 宮坂は生活訓練論について、野村芳兵衛のそれが「きわめて重要な意味をもっている」とし ている。それは、野村の生活訓練論が他の実践者らと同じく生活訓練を標榜しながらも、その 概念内容は大きくことなっていたためであるからである(10)。 宮坂は以下のように述べる。 「大正十年代から昭和初頭にかけてのころに、生活指導概念の検討のうえからみて、かなり 重要な意味をもつと思われる訓練関係の理論があらわれている」(11)として、野村芳兵衛、篠原 助市を挙げ、野村の著書『新教育に於ける学級経営』(1925)から『生活訓練と道徳教育』(1932) にいたる野村芳兵衛の所説を中心に以下のように述べている。 「本稿(─引用者注 雑誌『現代教育科学』)にとって重要なことは、野村がこの本(─引用 者注 『新教育に於ける学級経営』)で学校教育の機能的構造を学習指導と生活指導という二つ の概念で説明したことである。これは従来行われてきた教授と訓練という二つの概念にたいす るたんなることばのおきかえではない。そこには学校観と児童観との根本的な転換が企図され ていた。」(12) 野村は著書『新教育に於ける学級経営』(1925)において、生活指導の実際として、「子供の 生活の中心をなすものは、遊びが主で、それに学習がある」(13)とし、「子供の遊びは大別して 二種となる。一つは野外の遊びで、他は交友上の遊びである」(14)と述べる。 宮坂はこのことについて、以下のように述べる。
「原始の野外生活と交友生活の二側面を遊びの生活とみなし、その指導を生活指導と規定し、 学習生活にたいする指導としての学習指導に対置され、しかも『遊びは学習の母である』とす ることによって、生活指導を学校教育の基盤をなすものとしてとらえ、そのうえに学習指導が 位置づくという考えかたをうちたてた。」(15) そして、宮坂は野村の生活訓練が生活綴方の系譜のものと異なっているとし、その理由とし て、以下のように述べる。 「野村がここでつかった生活指導ということばは、綴方教育の領域でつかわれ形成された生 活指導の概念とは明瞭にことなっている。この書(引用者注―『新教育に於ける学級経営』) でのかれの用語法を吟味すると、生活指導をときには生活の指導ともいっており、綴方教育の ばあいとひとしく、生活を指導するという当時の一般的な問題意識を、野村は野村なりに綴方 教師たちとはちがった方向で、生活指導概念にまで結晶させようと試みたものであろうと推測 される。綴方教師たちが生活指導の対象を、子どものものの見かた、考えかた、感じ方として の態度の領域に求めたのにたいして、野村は生活指導の対象を子どもの具体的な遊びの生活、 いいかえれば教科外の生活 4 4 のなかに見出したといえる。」(16) そして、野村は『生活訓練と道徳教育』(1932)以降に刊行した著書においては、「生活指導」 ということばを使用しておらず、宮坂はその理由として、「かれの学校論の構造が大きく変化 したことにもよっていると思われる」(17)としている。宮坂が述べるように、野村は『生活学校 と学習統制』(1933)において、「学習指導と生活指導」ではなく、「学習指導と倶楽部指導」 という用語を試みているのである(18)。それは、「かれが以前に生活指導ということばで呼んだ 同じ対象を、対象そのものを正確にあらわすために倶楽部指導ということばで呼び、生活指導 ということばでよぶことをやめた背後には、生活指導ということばが、当時、別なある一定の 意味(前節でのべたそれ)をもってひろくつかわれはじめていた事情があったとみることがで きる。」(19)と宮坂は述べる。 宮坂は、この点を明らかにしているのが『生活訓練と道徳教育』(1932年)であるとし、以 下のように述べる。 「かれはここでかれが従来主張してきた解放の原理を基本的には守りながらも、観念的な開 放理論の限界を指摘し、教科による科学的認識力と集団の組織化をとおしての社会的能力の統 一的形成を内容とする『生活訓練』の構想を立て」、「生活訓練はここではもはや教授と対応さ せられる概念ではなく、教科と教科外の両面を統制する教育原理そのものにまで高められてい る。そしてそのような生活訓練の目的が『協働自治』だとされた。」(20) このように、野村の「生活訓練」にいたる展開を宮坂に学びながらみてきた。そこにおいて、 野村が『新教育に於ける学級経営』(1925)での「生活指導」ということばを、『生活訓練と道 徳教育』(1932)では、「生活訓練」としている。このことは宮坂が述べたように、用語が置き 換わったということではない。観念論から科学的認識へと変化するなかで、それは学習指導と
生活指導、教授と訓練、すなわち教科と教科外を二項対立的にとらえるということではなく、「生 活訓練はここではもはや教授と対応させられる概念ではなく、教科と教科外の両面を統制する 教育原理そのものにまで高められている」のである。そしてそのような生活訓練の目的が「協 働自治」なのである。 また、野村が他の生活訓練の実践者らや生活綴方の系譜とも異なった生活指導論であったと いう宮坂の指摘も、野村の宗教を基底にした生活指導観の独自性に関わっているととらえるこ とができる。 Ḽǽᜊॡᄑႆ๊߳Ȟɜᇼޙᄑႆ๊ᜡᎃɋɁࠕᩒ ここでは野村の『生活訓練と道徳教育』(1932)において、それまでの「生命信順」の教育 から「客観功利主義」の教育になり、「観念的生活指導」から「科学的生活訓練」を提唱して いく過程を中心に検討する。 先に、野村は『生活訓練と道徳教育』(1932)以降、「生活指導」ということばを使用しなく なったと述べた。それは野村が観念論の限界を感じたため、観念的生活指導から科学的生活訓 練へと転回していったのであるが、このことは野村の生活指導論において、重要な転換期であ ると考えられる。しかし、転回といっても野村の生来もっていた生命信順の生活指導が観念的 生活指導であったということではない。本節では、その転換期にあたる著作を所収した『野村 芳兵衛著作集㧟 生活訓練と道徳教育』(1973年、黎明書房)で「解説」を担当した竹内常一 の論考に学びながら野村の「科学的生活訓練」とはどのようなものであるのかについて論じて いく。 野村の戦前の教育活動をみていくにあたって、竹内常一による活動期の区分けを参考にする と、大体㧟期に分けることができるとして、以下のように述べられている。 第㧝期(児童の村小学校に参加するまでの教師時代(1918∼1924年))は『文化中心修身新 教授法』(1925年)・『新教育に於ける学級経営』(1926年)、第㧞期(児童の村小学校時代(1924 ∼1936年))は『生活訓練と道徳教育』(1932年)、『生活学校と学習統制』(1933年)、第㧟期 日出学園、日本女子大附属高等女学校及び付属豊明小学校、茨城県立下妻高等女学校、終戦ま で)は『自然観察のさせ方』(1942年)・『家庭の教室』(1943年)である(21)。 そして竹内は、「本書『生活訓練と道徳教育』は、まず第一に、野村の信仰告白の書ともい うべき第一期の著作群をひきつぐものである。第二に、それは、児童の村小学校主事、雑誌『綴 方生活』『生活学校』の中心メンバーとして戦前民間教育活動に大きな影響を及ぼした第二期 の著作群の序論をなすものである」(22)としている。 本研究において、重要なことは第㧞期である『生活訓練と道徳教育』は、野村が観念論から 決別し、生命信順の教育から科学の教育へと転回したということではなく、第㧝期からの一貫 した、野村の親鸞への信仰について表した著作を引き継ぐものであるという竹内の指摘である。 そして、竹内は野村が『生活訓練と道徳教育』の「小序」において、観念論と決別し、「科 学こそ生活の力」とし、「観念的生活指導から科学的生活訓練へと、生活教育の方法を展開さ
せねばならなくなった」と述べていることについて、以下のように述べる。 「この宣言は、本文にも見られるとおり、大正期自由教育と明治絶対主義教育にたいする挑 戦状であるが、しかし、同時に、これは第一期の野村自身の宗教的教育指導の『科学化』の宣 言であると見てよい。中内敏夫は、第一期から第二期への展開を人間学への展開とよんでおり、 わたしはそれを宗教的生命主義から客観的功利主義への展開とよんできたが、その実質は一体 どのようなものであったかを明らかにする必要がある。」(23) 竹内が指摘するように野村の著作第一期においては親鸞への信仰が語られた教育論であり、 第㧞期以降は「生活訓練」の科学的展開ということが主軸になってきているものの、その教育 論や実践論の基底にあるものは野村の信仰心であると考えることができる。一般的に、「観念論」 から離れていくということは科学主義へ傾倒したととらえることもできるが、野村の場合、「観 念論」と決別し「科学」へと移行するものの、竹内が述べるように第㧝期の信仰を基底に、む しろ信仰が深まっていったのが第二期の提言だと考えることができる。そして野村は「観念的 生活指導から科学的訓練へ」というスローガンを掲げたので、観念主義から科学主義へと転回 していったように見えるが、竹内が指摘した第㧞期は「第一期の野村自身の宗教的教育指導の 『科学化』の宣言」という指摘に学び、野村の第㧝期から第㧞期への展開を「宗教的生命主義 から客観的功利主義」とはどのようなことであるのかについて検討していく。 野村は『生活訓練と道徳教育』の「小序」において、当時の「生活訓練」を批判し、以下の ように述べる。 「内的必然が外的必然を統制して行くための科学的認識力と組織的協働力とを与へることこ そ、最も進歩せる生活訓練であらねばならぬ。学級自治を目的及方法とし、愛と組織の一致を 実現すのがそれだ。 観念論は、人々の頭の中に一つの夢を建設することは出来る。けれども本当に人間生活の上 に、自治組織を建設する力を持たない。それをなし得るものは科学だ。科学こそ生活の力だ。 科学の力によって鍛えられた認識と行動、それだけが生活の血であり肉であるのだ。 今日、観念的生活指導から科学的生活訓練へと、生活教育の方法を展開させねばならなくなっ た理由がそこにある。 私がこの書で観念的理想主義と観念的知行合一説に挑戦したのも、全くそのためである。」(24) このように野村は、「最も進歩せる生活訓練」のために、「科学的認識力と組織的協働力」が 必要であるとしている。具体的には、「学級自治」(協働自治)が目的であり方法であるとし、 愛と組織の一致を実現させることであるとする。そして、「観念論は自治組織を建設する力を 持たない」とし、「科学の力」だとしている。そのようなことから、「観念的生活指導から科学 的生活訓練へと、生活教育の方法を展開させねばならなくなった」とする。そして、「教育と は一つの生活技術の訓練だ」(25)と述べている。
次に、野村はこのような生活訓練は主観的な功利ではなく客観的な功利(「客観功利主義」) であるべきだとして論を展開していく。 野村は「功利は個人のものでもなく組織のものだ」(26)、「何処までも吾々4 4であって、吾4でな いことに注意せねばならぬ」(傍点野村)(27)のように、「功利」は個人のものでなく組織のもの であるとするため、「吾」ではなく「吾々」としている。このとらえ方は実践においても一貫 しており、「児童の村」小での実践について述べた『生活学校と学習統制』(1933)においても、 「生活は常に連帯だ」としており、「学習訓練スローガン」の一つとして、「ボクタチ ノ コト ボクタチデ」が挙げられている(28)。ここにおいて、以下のように述べる。 「遊び道具も一人で独占してはならない。仕事も一人一人でやるよりも助合ってやるがいゝ。 仕事を分担してやることがあってもいゝが、然し早く出来たら、他を助けてやるえらさ 0 0 0 がない といけない。分業するのは、早くらく 0 0 がしたいから、その利己のために分業するのでなく、全 体の期待を引受けて分担しやふのでる。 (中略) 『自分のことは自分でせよ』ではいけない。 『僕達 4 4 のことは僕達 4 4 でする』のである。 『仲間の仕事は仲間で』である。」(傍点野村)(29) このように野村は実践においても、「客観功利主義」の実際について述べていることがわかる。 野村の協働自治にもとづく教育実践の基底にあるのは「ボクノコト」ではなく、「ボクタチノ コト」なのである。野村は「協働自治は客観的自治であり、理想主義自治は主観的自治である」(30) と述べ、「客観的自治」を目指すのであるが、ここにおいて「客観」とは「僕達」「仲間」のこ とで、「主観」とは「僕(個人的なこと)」を示していると考えられる。そして「功利」におい ても、個人的なものではなく、組織のものなのである。野村はそのような協働自治にもとづく 「生活訓練」にあたって「客観功利」を目指し以下のように述べる。 「吾々は、幸福と言ふやうな主観的なものを標準としないで、協働して生活すると言ふ客観 的事実に基準を置いて功利を決定する。」(31) こうして、「協働して生活する」ことが「客観的事実」であり、そのことに基準を置いて「功 利」を決定するとしている。 そして、そのような功利に向けての生活訓練について、以下のように述べる。 「吾々は功利説に於いて、かくの如き主観的標準を完全に捨ててかゝらねばならぬ。そして 客観的な標準としての社会的功利(生活と言ふ問題の協働性)によってのみ道徳(社会的意志 活動)が訓練づけられて行く事実を認識せねばならぬ。」(32) 野村が述べる「客観的功利」とは、利己的な個人主義ではなく、つねに「吾」ではなく「吾々」 の功利のために協働で生活するということ、そしてそのことを実現するにあたっての科学的な
生活訓練が必要であるとしているのである。 ᴯǽቩюࢠˢȾɛɞ٪ѓΙɥਖ਼ȞɝȻȪȹɁరျᜓ ḻǽȈޙศᄑႆ๊߳ȉᴥൡᑤᝲᴦɋɁ੧Ҝ 竹内常一は『生活指導の理論』(1969)における野村の科学のとらえ方についての批判を、 その後具体的に再評価している著作は管見の限りみられない。今日の生活指導論について言及 する上で、かつては批判した宮坂哲文の生活指導論を再評価(1989年)したことは大きな転 機と考えられる。ここでは、竹内による宮坂再評価を検討するなかで、野村の再評価につなげ ていきたい。 先に、戦前生活指導概念の㧞つの系譜として、生活綴方と生活訓練があることを述べてきた。 そして、この㧞つは教育史研究では、生活綴方の系譜を「学習法的生活指導」、生活訓練の系 譜を「訓練論的生活指導」と呼び分けられている(33)。「学習法的生活指導」では、教科・教科 外の両方にわたる思想、態度、価値観など生き方にかかわる教育として発展し(「機能論」)、「訓 練論的生活指導」では、教科外活動の指導において、子どもたちの集団組織化をめざすもの(「領 域論」)であった(34)。 竹内常一は『生活指導の理論』(1969)において、全生研常任委員長であり、東京大学教育 学部時代からの指導教官でもあった宮坂哲文の生活指導論を「学習法的生活指導」であるとし て批判した。竹内の立場は行為・行動の指導を中心とする「訓練論的生活指導」であった。 竹内(1969)によれば、宮坂は㧟つの研究源泉(禅林の教育史的研究、ガイダンス・特別教 育活動、生活綴方)から日本型生活指導の構想をおし出すと、一躍にして生活指導運動の理論 的リーダーとして世に迎えられたという(35)。しかしながら、集団主義運動が展開されるなかで、 宮坂が1957年に提起した生活綴方的教育の仲間づくりの「定式化」は、集団の組織論にまで至っ ていないと大西忠治らによって批判された。その後、宮坂は日本型生活指導概念を1958年に 定義し、竹内や大西忠治をはじめとする集団主義教育実践から批判を受け、1962年に再定義 を行った。 宮坂が1958年に提案した生活指導概念は以下のようである。 「生活指導とは、教師が子どもたちと親密な人間関係を結び、一人一人の子どもの現実にい となんでいるものの見かた、考えかた、感じかた、ならびにそれらに支えられた行動のしかた を理解し、そのような理解を、その子どもたち自身ならびにかれら相互のものにすることによっ て、豊かな人間理解にもとづく集団をきずきあげ、その活動への積極的な参加のなかで一人一 人の生きかたを(生活認識と生活実践の双方を、つまり両者をきりはなさずに統一的に)より 価値の高いものに引き上げていく教師のしごとである」(36) 竹内は1959年頃に、「宮坂の生活指導観の底流にガイダンス的志向を感じとっていた」とい う。したがって、竹内は以下のように述べる。
「宮坂が日本型生活指導といっていたもののなかにガイダンスを、生活綴方的な仲間づくり とよんでいたもののなかにヒューマン・リレイションズを見て」おり、「1961年から生活綴方 的な仲間づくりを批判すると同時に、現場から登場してきた集団主義的教育を擁護し、その主 張を展開した」という。そして「竹内の批判は生活綴方的教育そのものにむけられていたとい うよりは、生活綴方的な仲間づくりのなかに混在していたグループ・ガイダンス、ヒューマン・ リレイションズ的要因にこそむけられて」おり、「そのことによって間接的に宮坂の生活指導観、 集団指導観を批判した」(37) このように竹内がした批判は、大西忠治をはじめとした全生研の実践者が行った批判である 生活綴方的教育における仲間づくりに対してということではなく、宮坂の生活綴方的な仲間づ くりのなかに混在していたグループ・ガイダンス、ヒューマン・リレイションズ的要因をもっ た宮坂の生活指導観、集団指導観に対してであった。竹内や集団主義教育実践からの批判を受 けた宮坂は、1962年に先の定義を再定義した。 「(生活指導は―引用者注)個々の子どもおよび子ども集団の現実に直接はたらきかけ、かれ らじしんが自己をふくめた環境(集団)を民主主義的原理に立って変革的に形成しうる能動的 な、集団的組織的態度、能力をかくとくするようにみちびき、それによって人格の全面発達を 可能にする独自の道をひらくしごとであり、教科指導と相俟って、学校教育の基本目標の達成 に寄与すべき教育作用にほかならない」(38) 1958年と1962年の定義を比較すると、後者には「子ども集団」「集団的組織的態度」という 集団主義教育を表すことばが入っており、竹内らからの批判を受けての再定義といえる。しか しながら、重要なことは竹内も指摘するように、1958年定義が1962年定義に変更することに よって、1958年定義が破棄されたことではないと宮坂自身注釈において述べていることであ る(39)。 この注釈について、竹内は「1962年以降の生活指導の実践構造の把握と関連しているとし、 宮坂はこれ以後、生活綴方的な意識づくりと集団主義的な体制づくりの二側面からなるものと して集団づくりをとらえようとする」(40)とする。 このように、竹内は宮坂の生活指導論を集団主義教育との関係で批判してきたのであるが、 宮坂のそれを全面的に否定してきたわけではない。1960年代当時においても、竹内は宮坂の 生活指導論を批判しつつも、「宮坂のいうように、生活綴方的教育と集団主義的教育とはそん なに教育原理的に、教育思想的に相対立するものだろうか」(41)とも述べている。 宮坂は生活綴方と集団主義が対立するものではないという見方をしていて、竹内はそのこと を「宮坂の生活綴方的な仲間づくり、意識づくりにはガイダンス的な傾斜があると同時に、生 命主義綴方、禅的人間形成の反映がある」と述べている。 そして「宮坂の綴方理解には、小砂丘忠義の生活綴方から村山俊太郎、佐々木昴らの北方性
教育へとつらなる系譜と、芦田恵之助の随意選題綴方から田上新吉、田中豊太郎、五味義武ら の生命主義の綴方へとつらなる系譜とが混在しており、しかも後者をつうじて宮坂は、自分の 禅的人間形成論の復権をはかっている」としていて、「したがって、そのようなものとしての 生活綴方的意識づくりは、本質的に集団主義的教育とならびたつことができなかった。」(42)と する。 ここにおいて、野村芳兵衛の名前は出てきていないが、宮坂が述べた野村論に示されていた ように、宮坂自身の綴方理解においても、他のどの系譜ともいえず宗教的な人間形成の復権と いうところに野村との共通点があるといえる。 ḼǽቩюࢠˢȾɛɞ٪ѓΙ 竹内は1989年に雑誌『生活指導』において、「教師のための授業入門―教科を通しての生活 指導再考―」を発表し、この論文が宮坂再評価とされている(43)。 そこにおいて、竹内がかつて宮坂の生活指導論を「学習法的生活指導」であるとして厳しく 批判した、いわゆる「機能論」での「教科をとおしての生活指導」について述べている。 竹内は以下のように述べる。 「宮坂にあっては、生活指導とは、具体的な行動のしかたを支えているものの見かた、感じ かた、考えかたを指導することであった。いいかえれば、それは、『毎日の生活のなかでゆれ うごいている個人的特殊的、ないしは主観的な生きかた』(『宮坂哲文著作集Ⅰ』明治図書、 1968年)を引きだし、それより価値あるものにまで高めていくことでもあった。 かれはこのように生活指導をとらえていたから、それは教科外のみならず、教科の領域にお いてもはらたく機能だとしていた。つまり、生活指導は、学習指導とともに、学校教育の全体 にはたらく機能であるとしたのである。これが、いわゆる生活指導=機能説である。」(44) 竹内はここにおいて、宮坂は「生活指導は、学習指導とともに、学校教育の全体にはたらく 機能だとしていた」とし、宮坂が「機能論」であったことを述べる。 そして、その立場から「教科をとおしての生活指導」にあたっての㧟点(①子ども一人ひと り、②教材、③教材を介して、個人的な事情やものの見方・感じ方・考え方を授業において引 きだす、引き上げていくということ)を挙げ、「このような三つの機能をとおして、知識・技 能を身につけさせる狭義の学習指導を、人間形成としての真の学習指導に発展させていくもの であるとしたのであった」(45)とする。 そして、竹内は宮坂が「教科をとおしての生活指導」(機能論)を展開していたとき、その 論を「教科の系統性を否定する」として批判した「領域論」を主張した小川太郎について以下 のように述べる。 「かれ(引用者注―小川太郎)にあっては、生活指導とは、日常的な問題にそくして個人と 集団の生き方を指導するものであり、教科外をその実践領域とするものであるととらえられて
いた。これが、いわゆる生活指導=領域説である。」(46) そして、「教科をとおしての生活指導」を、「人類の文化的遺産を計画的、組織的、系統的に 子どもに与えることを固有の課題とする教科指導のなかに、日常的な生活問題の指導をまぎれ こませるものであると批判した」(47)としている。 こうした論争において、「教科をとおしての生活指導」は理論的には否定されていった。そ して、教科指導の研究は、「教科をとおしての生活指導」や生活綴方的教育方法などではなく、 「しだいに教科内容と教材側から展開されるようになってい」き、「そうした動向のなかには、 教科の系統性こそが、人格の教育と学力の教育とを統一した教科指導を生み出すといういささ か楽天的な信念があった」(48)と竹内は述べる。そして、竹内は当時の論争を振り返って、「し かし、いまから考えてみると、教科をとおしての生活指導についての批判は、それを理論的に 批判するというよりは、運動論的に批判するという性格を強くもっていたということができ る」(49)と述べる。 再評価として、以下のように述べる。 「宮坂が教材をとおしての生活指導ということで問題にしたことは、子どもはその子なりの、 ものの見方、感じ方、考え方を授業のなかにもちこんでくるという事実、また授業のなかでそ の子なりの、ものの見方、感じ方、考え方をもつという事実である。この事実は、その授業が おそらくどんなに系統的な教科内容にもとづこうと、否定することのできない事実である。」(50) このように、「子どもはその子なりの、ものの見方、感じ方、考え方を授業のなかにもちこ んでくるという事実」から授業づくりをしていくという意味をあらためてとらえなおしている。 そして竹内は宮坂が「子どもたちはその生活現実のなかで、その子なりのものの見方、感じ 方、考え方をつくりだし、それによって生活現実に対応しているというとらえかたをしてい た」(51)とし、そうした現実を基底に授業があるととらえている。以前はそこにおいて竹内は授 業における「系統性」が課題となり、教科外において教科同様の人格形成は困難であるとの小 川の論に傾斜していたが、1980年代末における竹内の教育課題のとらえ方(「制度化された知」 「公定された知」「かくされたカリキュラム」)から、あらためて宮坂が提起した「教科におけ る生活指導」ということ、いいかえれば「機能論」「領域論」を超えたなかでの「生活指導」 に竹内が向かい始めたと考えられる。 また竹内は、宮坂が「教科をとおしての生活指導」を提唱したのは、先に述べた「子どもの ものの見方、感じ方、考え方」のとらえ方だけではなく、教材のとらえ方からでもあったとい うことを見過ごされてならないとしている(52)。 「かれにあっては、教科指導というものは、どんなに教科内容や教材を現実的なものとして 構成したとしても、子どもにとっては、『客観性』をもってあらわれてくるものであるという 考え方があった。だから、かれは、この『客観的』な教科内容や教材を、一人ひとりの子ども の個人的、主観的な事態に、また子どもの、ものの見方、感じ方、考え方に引きおろして、再 構成をしなおす必要があると提言したのである。」(53)
次に、竹内は宮坂の教科内容や教材の客観性のとらえ方についての課題を述べる。 竹内の理解によると宮坂は、「教育内容や教材というものは、子どもの必要とは関係なく、 社会がみずからの必要から子どもに強要するものであるととらえられていた」ため、「それらは、 子どもにとっては、外在的で、よそよそしいものとしてあらわれてくるととらえられていた」(54) とする。そして、宮坂の子どもにとっての「客観的」な教材の意味とは以上の二つの意味があ るという。したがって、教材が子どもの生活と距離があるという意味においての「客観的」で あるため、宮坂は「教材は子どもの個人的な事情やものの見方に引きおろされなければならな いとしたのである」(55)という。 しかし、竹内は「教科内容と子どもが生活のなかでつくりだすものの見方、感じ方、考え方 がまったく異種のものであろうか」とし、「教科内容である文化は、これまでの人間が世界に 対処し、世界を変革するための実践と省察からつくりだしてきたものである」ため、教科内容 と子どもが生活のなかでつくりだす「ものの見方、感じ方、考え方」と同種であるとしている(56)。 そのことについて竹内は「教科内容」と「教材」をわけて論じるなかで「教科内容」と「教材」 の共通性を明らかにしている(57)。「教科内容である文化は、これまでの人間が世界に対処し、 世界を変革するための実践と省察からつくりだしてきたものであ」り、「教材」は、「レベルの 異なる教科内容と、子どものものの見方、感じ方、考え方とを媒介するものであり、それによっ て子どもがより意識的に世界にたちむかっていくことができるようにするものであるというこ とができる」(58)とする。したがって、「教材」は子どもにとって外在的なものであるとはいえ ないと述べる(59)。 そして、宮坂再評価にあたって重要なことは、なにより「授業」が「教材」を媒介にして、「子 どもが生活を切り拓くなかでものの見方、感じ方、考え方をつくりだしている過程に介入し、 それらをより世界に開かれた知へとたかめていくことである」(60)としている点にある。そのこ と自体は宮坂の「教科における生活指導」と同義であると考えられる。 さらに竹内は以下のように述べる。 「ものの見方、感じ方、考え方をより世界に開かれた知にしていくことは、いいかえれば、 意識が世界とそのなかにある自分をこえる位置にたつということである。これによって、意識 はそれらをつきはなし、これらを対象化し、これらを構造的に知ることができるようになると いうことである。そして、それは、世界とそのなかにある自分を変革していく自由を手にいれ るということである。 この意味において、授業は教材を介して子どもの、ものの見方、感じ方、考え方を世界に開 いたものにしていくのであり、それによって、世界とそのなかにある自分を変革していく主体 性を子どものなかに育てていくのである。授業が訓育性をもつというのは、なによりもまず世 界に開かれた知を子どもたちのなかに育てていくことをつうじてである。 このようにみてくると、さきの、教材を一人ひとりの子どもの個人的な事態やものの見方、 感じ方、考え方に引きおろすという宮坂の提言は、いったいなにを意味しているのだろうか。 もしかすると、それは、教材を子どもの閉ざされた個人的、主観的な事態に、また子どもの未
分化な意識に引きおろすことを意味しているのではないか。」(61) このように、竹内は宮坂の「教材を一人ひとりの子どもの個人的な事態やものの見方、感じ 方、考え方に引きおろす」という提言を教材が外在的なものではなく、また個人的、主観的な ものではなく、「客観的」なものとなることによって、「世界とそのなかにある自分を変革して いく主体性」が育つととらえ直している。 竹内は宮坂再評価にあたって、「対話としての授業」を提言するのであるが、「授業というも のは、教材を媒介にして、教師と子ども、子どもと子どもとが世界にたちむかい、そのヴェー ルをはぎとり、それを変革するために、出会い、対話し、協同することである」(62)と述べてい る。そして、授業というものは、「教師と子ども、子どもと子どもの対話を組織するものでな ければならないと同時に、学習集団の指導は、そうした対話を可能にするちからをもった関係 性を教師と子ども、子どもと子どものあいだにつくりだすことであるということができるだろ う」(63)とする。ここにおいて宮坂によって提唱された「教科をとおしての生活指導」は、以下 のように翻訳されるべきだとする。 「教師が、教材を媒介にして、子どもとともに世界に立ち向かうような授業のなかで、また、 対話をとおして、世界を対象化していくような授業のなかで、はじめて子どもはそのものの見 方、感じ方、考え方を世界に開いていくことができるとともに、世界を変革する自由と希望と 勇気をみずからのなかに育むことができるようになるのであると。」(64) 竹内はかつて宮坂を「学習法的生活指導」として批判してきたが、全面的に宮坂を批判して いたわけではなかった。しかし、宮坂が述べた「教科における生活指導」を当時の運動論的な 論争のなかで、理論や実践で答えることができなかったとし、フレイレの『被抑圧者の教育』 への問題関心と関わって、改めて全生研として、「教科における生活指導」を教師と子どもが 教材を媒介にした、対話をもった協同的な授業を通して検討していこうとする竹内の表明とと らえることができよう。 竹内による宮坂再評価から野村理解につながる点がいくつか明らかになった。一つは、子ど もの生活現実からの学習観、生活指導観の構築である。野村は、「学習指導と倶楽部指導」(『生 活学校と学習統制』)ということばで教科と教科外をわけているようにみえるが、その根底の 子どもたちの生活現実はつながっているとしているため、指導で区分をわけていないと考えら れる。もう一つは、宮坂の「客観的」という意味について、子どもの生活から遠い「教科内容」 であるということであるが、宮坂が述べた「客観」とは、「ものの見方・考え方・感じ方」を 授業において子どもたちが深めていくなかで内面化された「教育内容」や「教材」であり、そ れはもはや子どもたちにとって「遠い」ものではない。宮坂の述べた「客観的」とは教材、授 業を通して、子どもたちに主体性を育てていくことにあると考えられる。そこは今日の野村の 生活指導論の理解にとって重要な共通点であると考えられる。
ᴰǽޭଡ଼ȻᇼޙNJరᓺчᚖȻ٪୫ɁцᣮཟNJ ḻǽరɁႆ๊ᜡᎃᝲȾȝȤɞޭଡ଼Ȼᇼޙ これまでの章において竹内による先行研究を中心に宮坂と野村の生活指導論を検討してきた が、本章においては宗教という意味において両者の共通点をさぐり、野村の生活指導論理解に つなげていきたい。 野村芳兵衛と宮坂哲文にはともに宗教(仏教)への信仰があることはよく知られている。野 村芳兵衛は親鸞(浄土真宗)への信仰があり、宮坂哲文は禅宗である。二人の研究史をみてい くと、野村は著書において、一貫して親鸞への篤い信仰を述べている。宮坂は第一作の著書が 『禅における人間形成』であり、そこにおいて禅林における人間形成の研究の集大成が表され ている。 野村における生活指導論における宗教観の反映として、以下のものが考えられる。野村は「生 活指導の反省」として、自由教育における意味においての児童中心主義での教師としての「教 育意識」があったことを反省し、以下のように述べている。 「本当の意味に於て、生活を導くものは、如来であって、私たち教師ではないと信じている。 子供が導かるゝやうに、私も導かれるのである。だから教師としての私が生活指導を考へると 云ふことは、どうしたら子供と共に如来に信順し得るかと云ふことになるのである。」(65) このように野村の場合、著作集の全編にわたって、親鸞への篤い信仰が教育論や実践を語る 際に表されている。 次に野村が述べた宗教と教育における科学の関係性について、述べていく。 野村は「客観功利主義」を生活指導実践の基底においた、科学的な教育学について述べた著 書である『生活訓練と道徳教育』(1932)において、観念論や理想主義と決別した。そこにお いて、「科学的」ということばを使いながらも、野村が生来もってきた宗教(親鸞)への信仰 は捨象されたのではなく、竹内が述べたように、『生活訓練と道徳教育』(1932)以降はより深 まっていった過程と考えることができる。同書において、野村は「反宗教の功利性はどこにあ るか」という節において、野村の宗教と科学のとらえ方は以下のように述べられている。 「神秘的と言ふことが宗教であるならば、科学的生活を中心とする近代人には最早宗教は不 要であらう。 然し宗教とはその本質に於て神秘的と言ふことではないと思ふ。それが本質はどこまでも愛 であると思ふ。愛に於ける興奮、それを私は宗教であると観る。茲に於て、人間の生活認識が 如何に科学的となるとも、そのことで人間の宗教は亡びないと私は信ずる。否、科学的認識力 を持てば持つ程、吾々の愛は、明るさと力とを持つが故に、吾々の宗教は、いよ〳〵力強くなっ て行くと信ずる。 吾々の科学的認識力は、今日、唯心的な神秘主義を捨てると一しょに、唯物的な抽象科学主
義をも捨てた。そして宇宙を生きたる実在として動的相対的に把握することを得た。それは確 かに科学が吾々の生活に愛への希望と実践力とを約束するものであらねばならぬ。 だから科学は宗教を亡ぼしたのではない。今こそ科学が宗教を克ち得たのだと観ねばならぬ。 なるほど科学は神秘主義、主観主義、唯心主義の宗教を亡ぼした。然しその一方では、益々科 学的、客観的、生活的宗教に、その実践力を与へたと言はねばならぬ。」(66) このように野村は科学と宗教の関係性を離れているものだとはせず、むしろ人間が「科学的 認識をもつほどに、宗教はいよいよ力強くなって行くと信ずる」としている。 そして科学的認識力は、神秘主義や唯物的な抽象科学主義を捨て、「そして宇宙を生きたる 実在として動的相対的に把握することを得た」のであるが、そのことによって野村は宗教を離 れたということではない。野村は「だから科学は宗教を亡ぼしたのではない。今こそ科学が宗 教を克ち得たのだと観ねばならぬ」と明言する。科学は神秘主義、主観主義、唯心主義の宗教 を亡ぼしたが、「益々科学的、客観的、生活的宗教に、その実践力を与へた」としている。 野村は「観念的生活指導」から「科学的生活訓練」と転回した。そこにおいて神秘主義、主 観主義、唯心主義を決別し、科学的、客観的な生活訓練へと発展したが、宗教が捨象されたわ けではなく、宗教と「生活」が一致したと考えられる。 「本当の意味に於て、生活を導くものは、如来であって、私たち教師ではないと信じている」(67) と野村が述べていたことからも、野村の示す科学や客観ということばの意味は、宗教と同義で あると考えられ、「如来に導かれること」が「客観」ということであると考えられる。 そして、野村が反宗教運動に同感する理由として、それは「生活に於ける愛の否定を根拠と してではない」とし、「全くその反対に、宗教が神秘主義にかくれて、人間の愛を殺してゐる 事実に対して、既成宗教に戦はうとする」ためであるとする(68)。そして、以下のように述べる。 「宗教は真実には、協働への情熱と知慧とであらねばならぬ筈だ。それが事実は神秘による 依頼心の陶酔によって、私利をみたし、人間の協働を忘れさせてゐるのが現在の事実なのだ。 吾々はかくの如き宗教の阿片性に対して反対せざるを得ぬ。 反宗教運動の功利性は、そこにあると信ずる。 では今後の宗教はどうなるであらうか。私はその点では親鸞の考へた如く、宗教は、寺院と 僧侶の手を離れて、人間の協働生活それ自身となると思ふ。 みよ。命がけで戦ってゐる味方の群の中を、如何に力強く宗教が貫くかと言ふ生活事実を。 そこにのみ宗教はある。神はある。神は人間だ。神は人間の協働だ。それ以外に、抽象的絶対 的神はない。 又身体と心の統制、社会組織と人間の生物的必然性との統制、そこに宗教を観る。 その理想を実現するために、吾々の宗教的憧憬と、宗教的努力とは白熱化する。かくして人 間の生活のある限り宗教は亡びない。」(69)
このように野村は、宗教は「協働への情熱と知慧とであらねばならぬ筈だ」とし、宗教のと らえ方自体も「人間の協働」であるべきだとしている。今後の宗教についての言及においても、 親鸞が考えたように、寺院と僧侶の手を離れて、「人間の協働生活それ自身となる」とする。 そのことは、野村において宗教が科学化したことではなく、宗教という「協働生活」に科学(客 観=自己を超えた)のとらえ方が発展を遂げていったのだと考えられる。野村は「客観功利主 義」に向かって協働生活をする姿に宗教があるととらえているといえる。 Ḽǽ٪ȻరɁцᣮཟ 本節では、宮坂と野村の共通点について、宮坂の宗教のとらえ方を見ていくなかで明らかに したい。 宮坂の信仰の対象であったのが禅宗であったため、広義にいえば仏教ということだけでなく 同じ宗教であるにもかかわらず、生活指導論理解の上では宮坂と野村の宗教観を並列に検討さ れることはなかった。竹内も宮坂の野村論を検討する際において、野村と宮坂の信仰対象であ る浄土真宗と禅宗の共通点については言及していない(70)。ただし竹内は後年の宮坂が生命主 義的生活綴方から生活指導論を探究するなかで、禅的人間形成論の復権をはかっていたという という指摘をしている(71)。この指摘は、野村が『生活訓練と道徳教育』(1932)以降、親鸞へ の信仰がより深まっていったとしたところと類似点があると考えられる。 確かに、個別宗教としての浄土真宗と禅宗は異なっている。しかしながら、野村は自身を「親 鸞教徒」としつつも、他の宗教、たとえばキリスト教についても言及している(72)。宮坂は『禅 における人間形成』(1947)において、禅宗を中心に検討されているが、禅宗以外の宗門への 言及があり、宮坂と野村の宗教そのものへのとらえ方に重要な共通点があると考えられる。 宮坂は『禅における人間形成』の序において、「本書は教育史の立場から禅における人間形 成の問題を取扱つた私の試論集であるとしている」(73)としている。そして、「禅の修行者たち の生活集団としての禅林社会を選び、これを対象として僧侶教育に関するさまざまな問題に入 ることになつた」(74)としている。 また、「もしも教育を主体と客体との間における個人的相互交渉の問題に限定する教育解釈 の立場をとるならば、禅林における教育問題の領域は著しく限局されることになる」としてい ることから、禅林研究を教育学とは異質のものととらえず、教育学研究に発展しうることを読 み取ることができる。 『禅における人間形成』は、禅林の歴史や特質、教育的意義への言及はもちろんのこと、「禅 林における生活教育の研究」「禅林における童児とその教育」「禅林教育史における学と行との 関係」「茶道的教養の性格」「禅とプロテスタンティズム」という章構成となっている。禅宗以 外に触れているのが、「禅林教育史における学と行との関係」における「親鸞、日蓮との対比」 と、章の題目にもあるように「禅とプロテスタンティズム」である。 野村との関連でいえば仏教と考えるので、ここでは「親鸞、日蓮との対比」を引用する。 宮坂は、「鎌倉時代の新宗教として禅宗は経典に対する態度において注目に値するものであっ
たが、禅宗とならんで隆興した親鸞の浄土真宗と日蓮の法華宗とにおいて何等か共通した動向 がみられるのではないであらうか」とし、「若しそこに一貫したものがあるとすれば、われわ れはそこに仏教学道の中世的特質を見てとることができよう」とする(75)。浄土真宗における 経学のあり方と禅宗でのそれとの間に共通点があるとする。 宮坂は教行信証の教文類を引用し、以下のように述べる。 「それ真実の教をあかさばすなわち大無量寿経これなり。其の経の大意は弥陀誓を超発して、 ひろく法蔵をひらきて、凡小を哀れみてえらびて功徳の実を施すことを致す。釈迦世に出興し て、道教を光闡して群朋をすくひ、恵むに真実の利をもてせむとおほすなり。是をもて如来の 本願をときて経の宗致とす。即ち仏の名号をもて経の体となすなり。 とあるのは、親鸞の浄土真宗における基本的な経典観を示すものと云へる。大無量寿経にお いて彼は弥陀の誓願を知り、弥陀の名号を見出すのである。この経典は彼にとってその外の何 等の用をも持つものではない。この経によって彼の信仰が育まれるのは経の一一の字義的な学 解によるのではない。経そのものが信仰の対象となる。」(76) 宮坂は親鸞の信仰を法然の浄土三部経による立場より純粋であるとし、道元(禅宗)との共 通点を以下のように述べる。 「浄土門の念仏者にとっては真実なる他力への信行に生きること自体がとりもなほさず、聖 教に正しく参ずることにほかならず、経教の学習はこのことのためにこそ要求せられるものと なってゐる。従って経教は念仏者の信行において始めて生きて来る。そしてそれが『聖教の本 意をこゝろえ』ることなのである。われわれはここに『佛教のこゝろ』(正法眼蔵見佛)をあ きらめることを要求し、『佛経もしなげすつべくば佛心なげすつべし』(「正法眼蔵見佛)といっ て佛教の本意に立つて、しかも真実の座禅辨道に精進した道元との著しき類似を発見する。」(77) 宮坂は、親鸞にとって信仰とは「経の字義的な学解」によるのではなく、経そのものが信仰 の対象であるとし、信仰とは「真実なる他力への信行に生きること」であると述べている。そ して、そのこと自体が「聖教に正しく参ずることにほかなら」ないのである。また「経教の学 習はこのことのためにこそ要求せられるものとなってゐる」ことは、「経の字義的な学解」が 信仰であることではなく、「聖教に正しく参ずること」と「経教の学習」は同義であると考え られる。宮坂は親鸞と道元の共通点として、道元が述べた「佛教のこゝろ」をあきらめること を要求し、仏教の本意に立ち、そのことは真実の座禅辨道に精進することと親鸞の信仰のとら え方を同義であるとし、「著しき類似を発見する」と述べている。 このように宮坂は禅宗と浄土真宗の教えに共通点を見出しており、このことを彼の教育観、 生活指導観への反映を考えると、教科と教科外を分断しない「教科における生活指導」の今日 的意義を提起しているといえる。子どもが「教科」を深めるということは、それだけが独立し
た教育活動、指導ではなく、教科・教科外を含めた「生活」を子どもたちと教師が協働で深め るなかで、「教科」を深めていくということと考えることができないであろうか。 野村と宮坂は信仰を基底にもちながら、教育実践や教育学研究を探究していった。二人の信 仰していた対象は浄土真宗と禅宗であった。しかしながら、二人は信仰をもった宗門宗派の宗 教の教義のみを深めていたわけではなかった。同じ仏教という枠組みだけではなく、キリスト 教についても言及していた。そして異なっているはずの宗教において、宮坂も野村も共通点を 見出していた。彼らの宗教のとらえ方は非常に酷似しており、そのことが彼らの生活指導論の とらえ方にも基底にされていたと考えられよう。 ɑȻɔ 本研究において、野村芳兵衛が彼の生活指導論における科学と宗教をどのようにとらえてい たのかについて、協働自治による「生活訓練」を通して検討してきた。 そこにおいて、とりわけ野村の親鸞(浄土真宗)への信仰を基底とした生活訓練論を検討す るために、先行研究である竹内常一の『生活指導の理論』(1969)を中心に検討してきた。そ して、竹内が『生活指導の理論』において、かつて批判した宮坂哲文を1989年に再評価した 論文の検討をすることによって、野村の再評価につなげる試論を試みた。最後に、野村と宮坂 の宗教のとらえ方が彼らの生活指導論にどのような影響を与えているのかについて、両者の共 通点を探った。以上を通して、野村芳兵衛の宗教をとおした生活指導論のあり方の再評価と今 日の生活指導論の理解につなげる手がかりを得た。 野村が「生活訓練」の提唱にいたる展開を宮坂、竹内の両者に学びながら検討した。野村の 生活訓練は「教授と対応させられる概念ではなく、教科と教科外の両面を統制する教育原理そ のものにまで高められている」(宮坂)ものであった。また、生活訓練において野村が述べる「客 観功利」とは、利己的な個人の功利ではなく、つねに「吾」ではなく「吾々」の功利のために 協働で生活するということであった。 次に、竹内常一による宮坂再評価を手掛かりとしての野村理解として、竹内がかつて批判し た宮坂の「学習法的生活指導」(機能論)と自身のとった立場である「訓練論的生活指導」(領 域論)、「小川―宮坂論争」について述べた。竹内は宮坂再評価において、宮坂の述べた「教科 における生活指導」を当時の運動論的な論争のなかで、理論や実践で答えることができなかっ たとし、改めて全生研として、「教科における生活指導」を教師と子どもが教材を媒介にした、 対話をもった協同的な授業を通して検討していこうとする竹内の表明ととらえることができ る。 そして最後に、野村と宮坂の宗教のとらえ方の共通点を探り、彼らの生活指導論への反映に ついて述べた。野村は「観念的生活指導」から「科学的生活訓練」と転回した。そこにおいて 神秘主義、主観主義、唯心主義を決別し、科学的、客観的な生活訓練へと発展したが、宗教が 捨象されたわけではなく、宗教と生活が一致したと考えられる。野村は、宗教は「協働への情
熱と知慧とであらねばならぬ筈だ」とし、宗教のとらえ方自体も「人間の協働」であるべきだ としている。そのことは、野村において宗教が科学化したことではなく、宗教という「協働生 活」に科学(客観=自己を超えた)のとらえ方が発展を遂げていったのだと考えられる。野村 は「客観功利主義」に向かって協働生活をする姿に宗教があるとらえているといえる。 宮坂は禅における人間形成を研究するなかで、浄土真宗との共通点を挙げていた。宮坂は、 親鸞の主著を検討し、親鸞にとって信仰とは「経の字義的な学解」によるのではなく、経その ものが信仰の対象であるとし、信仰とは「真実なる他力への信行に生きること」であると述べ ている。そのことは、禅宗において「佛教のこゝろ」をあきらめることを要求し、仏教の本意 に立ち、そのことは真実の座禅辨道に精進することと同義である点として親鸞の信仰のとらえ 方を「著しき類似を発見する」と述べている。このことを生活指導観で考えたとき、教科と教 科外の構造において、両者を分断しない「教科における生活指導」の今日的意義を提起してい るといえる。 野村と宮坂は信仰を基底にもちながら、教育実践や教育学研究を探究していった。二人は仏 教だけではなく、キリスト教についても言及していた。そして教義が異なっているとされる多 様な宗教において、宮坂も野村も共通点を見出していた。彼らの宗教のとらえ方は非常に酷似 しており、そのことが彼らの生活指導論のとらえ方にも基底にされていたと考えることができ よう。 今後の課題について述べたい。野村の宗教を基底とした生活指導論を引き続き検討していく が、生活綴方との関連についても検討していきたい。そして、宮坂の教育学における宗教につ いてのあらわれを本稿では詳細に立ち入ることが紙幅の関係上困難であったので、さらに検討 をしていき、今回得た宗教のとらえ方の共通点という手がかりを今後の生活指導論研究につな げていきたい。 า ⑴ 野村芳兵衛『野村芳兵衛著作集㧠 生活学校と学習統制』黎明書房、1974年、29頁。 ⑵ 竹内常一『生活指導の理論』明治図書出版、1969年、232頁。 ⑶ 日本生活指導学会編・竹内常一編集代表『生活指導事典』エイデル研究所、2010年、67頁。 ⑷ 山本敏郎・藤井啓之・高橋英児・福田敦志『新しい時代の生活指導』有斐閣、2014年、28∼ 29頁。 ⑸ 山本敏郎・藤井啓之・高橋英児・福田敦志『新しい時代の生活指導』有斐閣、2014年、29頁。 ⑹ 同上。 ⑺ 山本敏郎・藤井啓之・高橋英児・福田敦志『新しい時代の生活指導』有斐閣、2014年、33∼ 34頁。 ⑻ 宮坂哲文『生活指導の基礎理論』誠信書房、1962年、50∼53頁。 ⑼ 宮坂哲文『生活指導の基礎理論』誠信書房、1962年、50∼51頁。 ⑽ 宮坂哲文『生活指導の基礎理論』誠信書房、1962年、57頁。 ⑾ 宮坂哲文『生活指導の基礎理論』誠信書房、1962年、70頁。
⑿ 宮坂哲文『生活指導の基礎理論』誠信書房、1962年、71頁。 ⒀ 野村芳兵衛『野村芳兵衛著作集㧞 新教育に於ける学級経営』黎明書房、1973年、38頁。 ⒁ 同上。 ⒂ 同上。 ⒃ 宮坂哲文『生活指導の基礎理論』誠信書房、1962年、72頁。 ⒄ 同上。 ⒅ 同上。 ⒆ 宮坂哲文『生活指導の基礎理論』誠信書房、1962年、72∼73頁。 ⒇ 宮坂哲文『生活指導の基礎理論』誠信書房、1962年、73頁。 竹内常一「解説」(野村芳兵衛『野村芳兵衛著作集㧟 生活訓練と道徳教育』黎明書房、1973年) 410∼411頁。 竹内常一「解説」(野村芳兵衛『野村芳兵衛著作集㧟 生活訓練と道徳教育』黎明書房、1973年) 411頁。 竹内常一「解説」(野村芳兵衛『野村芳兵衛著作集㧟 生活訓練と道徳教育』黎明書房、1973年) 411∼412頁。 野村芳兵衛『野村芳兵衛著作集㧟 生活訓練と道徳教育』黎明書房、1973年、㧞頁。 同上。 野村芳兵衛『野村芳兵衛著作集㧟 生活訓練と道徳教育』黎明書房、1973年、16頁。 野村芳兵衛『野村芳兵衛著作集㧟 生活訓練と道徳教育』黎明書房、1973年、17頁。 野村芳兵衛『野村芳兵衛著作集㧠 生活学校と学習統制』黎明書房、1974年、91頁。 野村芳兵衛『野村芳兵衛著作集㧠 生活学校と学習統制』黎明書房、1974年、91∼92頁。 野村芳兵衛『野村芳兵衛著作集㧟 生活訓練と道徳教育』黎明書房、1973年、46頁。 野村芳兵衛『野村芳兵衛著作集㧟 生活学校と学習統制』黎明書房、1973年、18頁。 野村芳兵衛『野村芳兵衛著作集㧟 生活訓練と道徳教育』黎明書房、1973年、19∼20頁。 山本敏郎・藤井啓之・高橋英児・福田敦志『新しい時代の生活指導』有斐閣、2014年、29∼ 30頁。 同上。 竹内常一『生活指導の理論』明治図書、1969年、13頁。 宮坂哲文『生活指導と道徳教育』明治図書、1959年、23頁。初出:「生活指導の本質と特設道 徳時間」『教育科学』創刊号、1958年10月。 竹内常一『生活指導の理論』明治図書、1969年、13頁。 宮坂哲文『生活指導の基礎理論』誠信書房、1962年、序 ii 頁。 宮坂の脚注は以下のようである。「筆者が試みた新しい定義は、以前の定義にかわって提起さ れたものであり、そのかぎりでは以前の定義は破棄されることになるにしても、それはけっし て以前の定義にふくまれている生活指導の意味の全面的否定を意味するものではないことであ る」(竹内常一『生活指導の理論』明治図書、1969年、15∼16頁。宮坂哲文「生活指導概念の 再編成」『生活指導』1963年㧝月号) 竹内常一『生活指導の理論』明治図書、1969年、16頁。 同上。 竹内常一『生活指導の理論』明治図書、1969年、17頁。 船越勝「学習集団における『自治』の再検討―戦後の授業実践史における争点を中心に―」『和 歌山大学教職大学院紀要 学校教育実践研究』No. 1、2016年、74頁。 竹内常一「教師のための授業入門―教科を通しての生活指導再考」全国生活指導研究協議会編 『生活指導』No. 393 1989年㧝月、10頁。