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講談と『近古実録』にみる「鬼神のお松」── 松林伯円作の継承と明治の「実録」──

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講談と『近古実録』にみる「鬼神のお松」── 松

林伯円作の継承と明治の「実録」──

著者

神林 尚子

雑誌名

鶴見大学紀要. 第1部, 日本語・日本文学編

57

ページ

715-746

発行年

2020-03

URL

http://doi.org/10.24791/00000887

Creative Commons : 表示 http://creativecommons.org/licenses/by/3.0/deed.ja

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講談と『近古実録』にみる「鬼神のお松」 七一五

講談

と『

近古実録

』に

る「鬼神

松」

──松林伯

継承

明治

「実録」

 

 

 

  はじめに 「 鬼 神 の お 松 」 は、 近 世 の 門 付 芸 能 の 一 つ「 ち ょ ん が れ 」 に 由 来 す る 題 材 で あ る 一 。 ち ょ ん が れ に 唄 わ れ た 原 拠 は、 奥州笠松峠で女盗賊「鬼神のお松」が道中の武士・夏目四郎三郎を殺し、のち四郎三郎の息子・千太郎に討たれると いう短い語り物であった。この題材は、文化一三年(一八一六)一月、堀江市之側芝居で上演された歌舞伎『 吾 あ づ ま 妻 海 かい 道 だう 茶 ちややのむすめ 屋娘 』を嚆矢として、合巻や読本など、様々なジャンルの文芸作品に扱われている 二 。 歌 舞 伎 に お け る「 鬼 神 の お 松 」 は、 『 吾 妻 海 道 茶 屋 娘 』 に 登 場 す る「 牙 の お 才 」 に 重 ね ら れ る 形 で 緒 に つ い た。 結 果 的 に、 歌 舞 伎 に お け る「 鬼 神 の お 松 」 は、 「 牙 の お 才 」 の 筋、 す な わ ち 夫 の た め に 女 盗 賊 と な り、 最 後 に は 自 ら 夫 の手にかかって死ぬという筋を踏襲することとなる。これは合巻の諸作にも継承されるが、一方で読本・切附本の作 例 で は、 『 水 滸 伝 』 の 枠 組 を 借 り て、 男 勝 り の 義 侠 的 な 女 盗 賊 と し て の 相 貌 も 与 え ら れ て い る。 本 来 ご く 短 く 断 片 的 な題材であった「鬼神のお松」は、種々の作品に扱われるにあたり、先行作品の筋立てやジャンルの特質、上演・刊 行当時の流行などを反映しながら、様々な脚色を加えられていったとも言えよう。 本 稿 で は、 「 鬼 神 の お 松 」 物 の 諸 作 品 の う ち、 講 談 と 明 治 期 の「 実 録 」 に つ い て 検 討 す る。 講 談 と し て の「 鬼 神 の

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七一六 お松」は、二代目松林伯円が幕末に脚色したものとされるが、伯円自身の口演記録は、速記術の普及以前のため伝わ っていない。ただし、伯円の弟子を含めた後世の講談師による口演速記として、明治後期から大正期に数種の単行本 および雑誌連載記事が確認できる。伯円の講じた内容は厳密には復元できないにせよ、弟子の悟道軒円玉らによる口 演の速記から、その内容を可能な限り辿ってみたい。 また、明治一八年に刊行された『近古実録』 (栄泉堂刊)にも、 「 鬼神のお松 」物の作例が収載される。その後、ボ ール表紙本など複数の刊行例があるが、 本文はいずれも同文。のち 『近世実録全書』 第十四巻 (昭和三年 〔一九二八〕 、 早稲田大学出版部)に収録されている。作者の考証を含めて、明治の「実録」としての脚色には不明の点も多々残さ れているが、これについても可能な限りの考証を試みたい。   講談速記本の検討 ―― 松林伯円とその後継者たち (一)松林伯円とその時代―― 「泥棒伯円」の活躍 講談師「松林伯円」の名は、今日ではほとんど知られていない。しかし幕末・明治初期においては、三遊亭円朝と 並 び 称 さ れ て、 舌 耕 文 芸 家 の 雄 と し て 活 躍 し て い た。 現 在 に も 残 る「 鼠 小 僧 」「 お 富 与 三 郎 」「 天 保 六 花 撰 」「 小 猿 七 之 助 」「 安 政 三 組 盃 」 等 の 演 目 は、 い ず れ も 伯 円 が 草 案 し、 あ る い は 潤 色・ 脚 色 を 加 え た も の が 成 功 を 博 し て 定 着 し た も の で あ る。 そ の 事 蹟 は 近 代 の 文 学 史 に お い て は ほ と ん ど 等 閑 に 付 さ れ て い た が、 近 年 に 至 っ て、 延 広 真 治 氏 の 「 松 林 伯 円 の 基 礎 調 査 」 、 吉 澤 秀 明 氏『 二 代 松 林 伯 円 年 譜 稿 』・『 松 林 伯 圓 作 品 集( 一 )』『 同( 二 )』 な ど の 論 考 や 資 料 集 が 発 表 さ れ、 以 後 も 研 究 が 進 め ら れ て い る 五 。 こ こ で は、 こ れ ら の 先 行 研 究 に 拠 り な が ら、 二 代 松 林 伯 円 の 伝 記 事 項 と、その活動について概観していきたい。

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講談と『近古実録』にみる「鬼神のお松」 七一七 伯円は天保五年(一八三四)生、明治三八年(一九〇五)没。元来は武家に生まれたが、講釈を好んで養子先を廃 嫡、講談師として立つ。初代伯円の前講を勤めたことから、その死後に二代伯円を継ぎ、幕末から明治にかけて講談 界の雄として活躍した。初代伯円から習い覚えた世話講談を得意とする一方で、創作にも才を発揮し、新作の創案や 既存の話柄の補綴を行って、現在まで残る多くの講談の型を完成させている。 伯円作の特徴として、白浪物が多数を占めることが指摘できる。関根黙庵は「伯円の作には鼠小僧の如き白浪物が 多く、 又これを得意として講演したから、 人呼んで泥棒伯円といった」と述べている 六 。こうした芸風を持つ伯円は、 や は り 白 浪 物 を 得 意 と し た「 泥 棒 役 者 」 の 四 世 小 団 次、 「 白 浪 作 者 」 の 河 竹 新 七( 黙 阿 弥 ) と 提 携 し て、 歌 舞 伎 に も 原 作 を 提 供 し た。 『 鼠 ねずみ 小 こ 紋 もん 東 は る の 君 新 しん 形 がた 』( 安 政 四 年〔 一 八 五 七 〕 正 月、 市 村 座 初 演 )、 『 網 あみ 模 も 様 よう 燈 とう 籠 ろの 菊 きく 桐 きり 』( 同 年 七 月、 市 村座初演)は、いずれもこの提携関係の所産である。 伯円の講談「鬼神のお松」は、まさにこうした時期に高座にかけられたものであった。関根黙庵は、 「鬼神のお松」 を 伯 円 二 一 歳 の 時 の 作 と し て い る が 七 、 伯 円 の 生 年 を 天 保 五 年 と す れ ば、 そ の 成 立 は 安 政 元 年( 一 八 五 四 ) に あ た る こととなる。ただし後年、伯円の高弟である悟道軒(松林)円玉が講じた「奥州娘白浪」の速記では、作品中に桜田 門 外 の 変 に 当 て 込 ん だ 台 詞 が あ る こ と に つ い て、 「 此 の 講 談 の 出 来 ま し た 年 は 万 延 の 元 年 」 と 解 説 を 加 え て い る 八 。 原型が安政元年に成り、口演を重ねられる中で万延元年(一八六〇)に当該の台詞が追加されたものか、それとも万 延元年を「鬼神のお松」成立の年とみるべきかは不明であるが、おそらく成立の年時は安政元年~万延元年前後の数 年間に絞り込むことができよう。 近 世 の 最 末 期 に 成 立 し た「 鬼 神 の お 松 」 の 講 談 は、 伯 円 の 代 表 作 の 一 つ と し て 演 じ ら れ、 「 松 林 派 の 読 物 で は 十 八 番 物 」 と 称 さ れ る ま で に 至 っ た。 更 に、 次 節 に 見 る よ う に、 明 治 期 に は 伯 円 高 弟 の 円 玉 を は じ め と し て、 他 流 の 講

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七一八 談師たちにも講ぜられ、大正期の速記例も確認できる。 (二)明治期の速記本の検討 伝本の整理 では、講談「鬼神のお松」は、どのような内容を備えていたか。特に速記術の定着以前の講談の研究には、技術的 な困難が伴う。舌耕文芸である講談は、文字資料とは異なって、一回性の語りを基本とする芸能である。従って文字 による記録に残りにくく、たとえ記述されたとしても、身振りや口吻を含めたその芸能の全貌を再現しきれないとい う憾みが残る。そうした技術的な限界を踏まえた上で、口演速記をはじめとした関連資料の検討から、可能な限りそ の内容の再構成を試みたい。以下、主として明治一〇年代後半から二〇年代に刊行された資料を通じて、そこに描か れた「鬼神のお松」の物語の型を抽出してみよう。 講談に基づく資料として、狭義の速記ではないが、まず次の作例が挙げられる。 ①   田辺南龍口演、伊藤専三編輯『 色 いろも 濃 こき 緑 みどりの 笠 かさ 松 まつ 』 明治一六年六月四日から『新編都草紙』 (著述堂)に連載、二三回(同年九月)で連載中断。 のち続編を増補、 全三六回として、 滑稽堂より単行本刊行 (前編明治一六年一〇月、後編明治一九年六月) 一〇 右は田辺南龍の口演に基づき、伊藤専三(橋 塘 )が稿を編輯して成ったもの。連載開始の時点では速記術が普及し ていなかったため、速記によらず戯作者が文章に書き起こした例である。次いで、速記による単行本または雑誌連載

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講談と『近古実録』にみる「鬼神のお松」 七一九 の例として、現時点までに確認した一覧を掲げる。 ②   田辺南龍講演・今村次郎筆記『奥州娘白波/鬼神お松』 明治二九年九月五日印刷、同年同月一七日発行。求光閣刊。 本文二五一頁。口絵三葉。竹陰居士序。国立国会図書館蔵。 ③   揚々舎鶴燕自講自記『 〈仇討講談〉鬼神お松』 明治三二年九月五日印刷、明治三二年九月一〇日発行。国華堂刊。 本文四七頁。口絵一葉。天野機節序。国会図書館、延広真治氏蔵。 ④   松林円玉講演・石原速記事務所員速記『鬼神のお松』 明治三二年一二月二六日印刷、明治三二年一二月二一日発行。今古堂分店刊。 本文三〇頁。口絵一葉。国会図書館蔵。 ⑤ 桃流舎至孝口演『笠松峠仇討』 (内題「笠松峠の仇討」 ) 明治三三年一二月二八日印刷、明治三四年一月二日発行。求光閣刊。 本文四四頁。口絵一葉。天野彩霞序。架蔵。 ⑥ 田辺南龍講演・今村次郎筆記『奥州娘白波/鬼神お松』 明治四一年三月二七日印刷、同年四月一日発行。求光閣刊。 本文二五一頁。口絵三葉。竹陰居士序。延広真治氏蔵。 ⑦   悟道軒円玉(松林円玉)口演・浪川義三郎手記「奥州娘白浪」

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七二〇 『講談雑誌』二巻四号(大正五年四月)~三巻九号(同六年九月)連載。 右に挙げた速記本のうち、⑥は②の後刷りで、版面は同一と考えられるため、都合六種の本文を参照し得たことに なる。これらは、全体の構成としては概ね類似した筋立てを備えているが、取り上げる挿話の数や脚色、全体の紙数 など、細部については個々に異なっている。また、⑦は雑誌連載のみで単行本化されていないが、④と同様に伯円の 直弟子円玉の口演記録であり、かつ④では部分的な挿話のみを講じているのに対して、完結した筋を伝える資料とし て重要である。 な お、 吉 沢 英 明『 講 談 作 品 事 典 』 中 巻「 鬼 神 の お 松 」 項 一 一 で は、 揚 々 舎 鶴 燕 に よ る 速 記 本( 明 治 三 二 年、 銀 花 堂 版 ) に 基 づ い て 梗 概 を 記 す ほ か、 右 ⑦ の「 奥 州 娘 白 浪 」 連 載 に 言 及。 ま た 同 書 で は、 「 骸 骨 お 松 」 と し て も 立 項 し て おり、後者の例として、次の四点を挙げている。 ・小金井蘆洲口演「骸骨お松」 (『文芸倶楽部』一七─ 一四号、明治四四年一〇月) ・西尾鱗慶「骸骨お松」 (『週刊朝日』二二─ 二三号、昭和七年一一月。 「古今妖婦十人伝」の一) ・悟道軒円玉「川越の仇討(日の出の松吉) 」( 『講談倶楽部』一二─ 三号、大正一二年三月) ・大谷内越山「鬼神のお松(女賊張本) 」( 『講談倶楽部』一四─ 一号、大正一三年一月) 「 骸 骨 お 松 」 の 称 は、 後 述 す る よ う に、 講 談 の 定 型 と し て、 亡 父 の 髑 髏 を 大 切 に し て い た と い う 逸 話 が あ る こ と に よる。以上の速記例から、明治一〇年代~三〇年代にかけて田辺南龍、松林円玉、揚々舎鶴燕らが「鬼神のお松」を

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講談と『近古実録』にみる「鬼神のお松」 七二一 得意ネタの一つとしていたことが窺える。また、明治四〇年代から大正、昭和初期にかけて、小金井蘆洲や大谷内越 山、西尾鱗慶などにも引き継がれて口演を重ねられていたことも知られよう。 梗概の整理 ―― 講談としての「定型」の抽出 では、講談として語られた「鬼神のお松」は、どのような筋を備えていたのだろうか。吉沢氏は、先掲の『講談作 品事典』 「鬼神のお松」項にて、連載「奥州娘白浪」の冒頭を引用している。 時代は徳川九代将軍家重公と十代家治公の治世、明和安永天明に跨りました、江戸全盛期の出来事で、是を劇に いたしますと彼の鬼神お松が大泥棒になって居りますが、 講談の方では深川仲町の 芸 げい 妓 しや でそれが伝吉と云ふ亭主 の為に知らず知らず悪事を 為 す る事に成って居ります … 右の言葉は、講談「鬼神のお松」の粗筋を約言したものと言えよう。時代設定については、田辺南龍の口演(先掲 ①、②等)では八代将軍治下の享保元文期とするなど、多少の揺れがみられるが、お松を深川の芸妓として、夫の伝 吉のために強請などの悪事を働き、やがて女盗賊となるという筋をとる点は一致している。 更 に 詳 し い 梗 概 に つ い て、 こ れ ま で に 確 認 し た 速 記 本 の う ち 最 も 長 い 本 文 を 持 つ ② に 即 し て ま と め て み よ う。 な お、内容の区切り毎に、私に(ア)~(キ)までの仮番号を付した。 (ア)八代将軍吉宗の御世、藤掛伝次郎は、弁天小路で口入稼業を営む吉田屋菊三郎の養子に入って侠客となり、

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七二二 弁天小僧伝吉と綽名されていた。伝吉は品川の州で偶然水死体を見つけ、手厚く葬る。 ( イ ) 深 川 の 芸 者 松 吉 は、 品 川 の 州 で 拾 っ た 骸 骨 を 慈 し ん で「 骸 骨 お 松 」 と 綽 名 を 取 り、 客 に 肌 を 許 さ ぬ こ と で 評判。この骨こそ、伝吉が葬った死体のもので、松吉の父の遺骨であった。松吉の父・稲毛甚三郎は、仙台藩の 剣道師範であったが、同家中の武士・夏目四郎三郎に逆恨みされて殺害されていた。父の死後、母おそめは内弟 子の早川 丈 じょうごろう 五郎 と駆け落ちし、松吉は芸者に売られて今の境涯。父親の夢告で伝吉に会った松吉は、伝吉が父の 遺骸を埋葬したことを知って深く感謝し、いつしか深い仲となって、身請されて夫婦となる。 ( ウ ) お 松 と 名 を 改 め た 松 吉 は、 伝 吉 と 睦 ま じ く 暮 ら し て い た が、 歳 末 の 借 金 に 逼 迫 し、 呉 服 商 白 木 屋 で 強 請。 それが伝吉に露見し、人目を避けるため暫時別々に江戸を離れる。 ( エ ) お 松 は 川 越 の 知 人 の も と に 向 か う 途 中、 母 の お そ め に 再 会。 お そ め は 癩 病 を 病 み、 早 川 に 疎 ま れ て い た。 お松は母を引き取ろうとするが、その直前に、母は早川とその情婦に殺されてしまう。お松は隣家の男を蕩しこ んで協力させ、母の敵の早川を討つ。 ( オ ) 早 川 を 殺 し た 科 で お 松 は 投 獄 さ れ る が、 伝 吉 か ら お 松 の 助 命 を 頼 ま れ た 土 地 の 侠 客 鰐 わに 鮫 ざめ 又 右 衛 門 と 妾 お 藤 の助力によって、脱獄して奥州笠松峠に至り、盗賊の首領となる。河原で旅人を襲っていたお松は、父の仇の夏 目四郎三郎をそれと知らぬまま騙して川中で刺し殺し、敵討を果たす。 ( カ ) 笠 松 峠 の 山 塞 に 追 手 が か か り、 お 松 は 素 性 を 隠 し て 諸 国 を 遍 歴、 の ち 江 戸 に 戻 っ て 裕 福 な 質 屋 の 伊 勢 源 と 夫婦になる。しかし、川越の牢で出会ったお藤が度々強請に現れるため、お松はお藤夫婦を殺し、夫伊勢源をも 殺して路銀を奪い、駿州 静 しず 機 はた 山 やま へ立ち退く。 ( キ ) そ の 頃 伝 吉 は、 駿 州 の 妓 楼・ 結 城 屋 お 糸 の も と へ 聟 入 り し て い た。 再 会 を 望 む お 松 は、 伝 吉 を 婚 家 か ら 密

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講談と『近古実録』にみる「鬼神のお松」 七二三 か に 連 れ 出 す が、 伝 吉 の 心 は 戻 ら ず、 お 松 は や む な く 伝 吉 を 山 塞 に 置 い て 逃 げ る。 夏 目 四 郎 三 郎 の 息 子 仙 太 郎 は、敵討を志して諸国を放浪、駿州を通ったところを、お松の一味と誤解されて捕らわれる。仙太郎の主君陸奥 守はこれに怒り、詫びとして十日以内にお松を捕らえるよう求める。駿州の町奉行は一計を案じ、伝吉が獄門に かけられたとの偽の情報を流し、伝吉の首を一目見ようと現れたお松を捕らえる。伝吉や手下の助けを得て脱獄 するも、既に死を覚悟したお松は、最後に伝吉に一目会うことを望むが叶わず、一人静機山で自害を果たす。 右に見た通り、②の田辺南龍口演はかなり錯綜した筋立てを備えている。夫に操を尽くすお松の造形や、お松が父 親の敵討を志し、その敵討として夏目四郎三郎を殺すことなどは先行作品にも見られた脚色であったが、講談におい て初めて取り入れられた要素も多く見られる。 ま ず は お 松 の 境 涯 に つ い て、 仙 台 藩 士 稲 毛 甚 三 郎 の 娘 と す る 設 定 や、 「 骸 骨 お 松 」 の 綽 名 な ど は、 講 談 に 独 自 の も のである。父親の骸骨を許嫁のものと偽り、操を立てるためとして男に肌を許さなかったという描写も他のジャンル にはみられない。芸者ながら男を知らずに通したお松が、初めて恋仲となったのが夫となる伝吉であった。生活苦に 迫られての強請の場面については、夫を思う一心から道義を外れた行動に出るという点で、歌舞伎をはじめ先行作品 とも一脈相通ずるものがある。ただし、強請が原因で夫と一旦別れ、遍歴中も夫を思い続けるが、遂に心が戻らない ことを知って絶望する、という流れは講談独自と言えよう。講談におけるお松の造型として、女盗賊としての酷薄な 面を持つ一方で、夫の伝吉に対して、一貫して思慕を寄せ続けている点が指摘できる。 また、講談においては、本筋から外れた挿話についても話を膨らませ、脱線とも思われるような挿話を多く積み重 ねている点が特徴的である。お松の夫「弁天小僧伝吉」の生い立ちや、お松の継母との再会とその敵討の挿話、笠松

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七二四 峠の山塞を追われたお松が駿州へ至るまでの遍歴など、直接本筋と関わらない、いわば傍系の物語がかなりの分量を もって語られている。先行作品には見られない脚色として、特に人物の来歴にあたる部分を新しく加え、更に傍系の 筋を大きく膨らませている点が大きな特徴と言えよう。 もう一つ、講談において大きな焦点となるのは、お松の亡父による夢告である。講談では、芸者お松の夢に父が現 れ、四郎三郎に殺されたこと、遺骸を本所の男伊達(伝吉)が見つけて葬ってくれたことを語り、敵討を願う。これ を 受 け て、 お 松 は さ っ そ く 父 の 遺 骨 を 集 め て 回 向、 こ れ が「 骸 骨 お 松 」 の 渾 名 の 因 と な る。 ち ょ ん が れ の 祖 型 に も、 四郎三郎が息子の千太郎の夢に現れ、お松に殺されたことを告げて敵討を頼む場面があり、講談での脚色はこれを踏 まえたものとも考えられる。 吉沢英明氏は、先掲『講談作品事典』にて、殺された父による夢告の挿話は講談「夢と寝言の敵討」にも見られる こ と、 ま た 自 身 の 埋 葬 地 を 告 げ る 趣 向 は「 花 扇 駒 次 郎 」 に も 出 て く る こ と を 指 摘 さ れ て い る 一 二 。 こ れ ら の 夢 告 の 挿 話 は、 講 談 に お け る 効 果 的 な 手 法 と し て、 題 材 の 枠 を 超 え て 援 用 さ れ て い た も の と 思 わ れ る。 特 に 本 作 で の 夢 告 は、 後段の伝吉との出会いと敵討につながる伏線としても機能しており、作品構成の上でも効果を挙げている。屋根船の お 松 と 髑 髏、 そ し て 夢 の 取 り 合 わ せ は、 後 述 す る 錦 絵「 講 談 一 席 話 」( 明 治 八 年 刊 ) の 填 詞 に も 引 か れ て お り、 講 談 としての「鬼神のお松」の定型の一画を形成していたものと覚しい 一三 。 諸本の異同と共通の枠組――「語り物」としての特質 これを踏まえて、諸本の異同を整理していきたい。まず、同じ田辺南龍の口演に基づくものの、速記ではなく伊東 専三が稿をまとめた①『色濃緑笠松』について見てみよう。第一回の冒頭には「世の人口に膾炙する鬼神お松が事は

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講談と『近古実録』にみる「鬼神のお松」 七二五 し も 諸 説 区 まち 々 〳〵 に し て 一 定 な ら ね ど 其 が 中 うち 実 説 に 近 し と 想 ふ 此 笠 松 の 枝 ぶ り を 愛 し て 写 し 殖 る 物 か ら …」 一 四 と あ る が、 その内容は、ほとんど速記本②の内容と共通している。発端の伝吉の境涯、お松の身の上から、川越での継母との出 会 い と 敵 討、 脱 獄 し て 笠 松 峠 に 至 る 筋 ま で 同 一 で あ る。 た だ し 全 体 に、 ② に 比 し て 個 々 の 挿 話 を 丁 寧 に 述 べ て お り、 特に(カ)の部分は、②が比較的簡単に述べているのに対して、丁寧に説明を加えながら描写している。駿州に入っ て か ら の 展 開 は、 ② の( キ ) と ほ ぼ 同 様 で あ る が、 ② で は 伝 吉 が 女 盗 賊 と な っ た お 松 を 疎 む 素 振 り を 見 せ る の に 対 し、 『 色 濃 緑 笠 松 』 の 伝 吉 は、 山 塞 に 連 れ 行 か れ た 際 に 懐 か し く 夫 婦 の 語 ら い を 持 っ て い る。 ま た お 松 の 最 期 も、 捕 らわれて移送される途中で伝吉に助けられるが、その場で覚悟を定めて自害することとなっていた。 次いで、他の速記本の検討に移る。速記本③~⑦は、基本的には②に準ずる筋立てを備えており、同一の話型のバ リエーションとみなすことができる。まず③は、 (ア)~(ウ) 、即ちお松の境涯と伝吉との出会いから、窮迫に思い 余っての強請、その露顕による江戸出奔まではほぼ同一の筋立てを備えている。お松の継母の名を「およし」とする など細部が異なり、また全体に②よりも簡略な語り口であるが、筋立てとしては同様である。ただし、③は(エ)に あ た る 挿 話 を 持 た ず、 江 戸 を 離 れ た お 松 が す ぐ に 笠 松 峠 に 至 る こ と と し て い た。 ( エ ) が 省 か れ て 未 消 化 と な っ て い た継母に関わる筋は、笠松峠で盗賊となったお松の前に継母およしと愛人が偶然現れたため、不義密通の罪とお松を 芸者に売り払った怨みを晴らそうと、お松が手下に命じて二人を責め殺させる、という形をとる。また、夏目四郎三 郎を討って敵討を果たした後は急速に終息に向かい、自らの命運が尽きたことを悟ったお松の自害で幕を下ろす。 速記本④は前二点とは異なり、②の梗概に掲げた(エ)の部分のみを詳細に語っている。その前段である、お松の 生 い 立 ち と 伝 吉 と の 出 会 い、 江 戸 を 離 れ る ま で の 事 情 は 極 め て 簡 潔 に 説 明 さ れ る の み で、 川 越 に お け る 母 と の 再 会 と、早川丈五郎とその情婦による母の殺害、それを知ったお松の敵討を主眼とした口演と言ってよい。

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七二六 一方、速記本⑤は全体の筋を簡単に辿った、ダイジェストの如き作例である。お松の父稲毛甚三郎と夏目四郎三郎 の確執から語り起こし、お松の自害までを全七席で語っているが、そのため粗筋に終始した観が強く、講談特有の逸 話でも取り上げていないものが多い。たとえば「骸骨お松」の異名は挙げるものの、その理由となった、父親の遺骨 の件には触れない。お松の母「お綱」も、夫甚三郎の死後間もなく病死しており、従って後段での再会と敵討の逸話 はない。表紙に「敵討講談」と銘打つように、本作はお松による父の敵討、即ち夏目四郎三郎を討つまでの経緯を主 軸とした作例とも言いうる。四郎三郎の息子仙太郎も敵討を志して駿州へ向かうが、駿州の「御奉行」山城守は、捕 縛 さ れ た お 松 の 申 し 立 て を 聞 い て、 「 仙 太 郎 は 又 仇 き 」「 天 下 の 御 法 度 」 と の 裁 き を 下 す 一 五 。 お 松 は 江 戸 表 へ 護 送 さ れ る こ と に な る が、 道 中 で 伝 吉 に 救 わ れ て 脱 出、 静 機 山 に 戻 っ て 自 害 し た と 語 り お さ め る。 な お、 仙 太 郎 の 仇 討 を 「又仇き」とするのは、 「鬼神のお松」物の系譜上ほぼ先例が見えず、独自の記述として注目される。 最 後 の ⑦ も、 ② の 筋 と 基 本 的 に 一 致 し て い る。 ( ア ) ~( オ ) の 部 分 ま で は、 人 名 等 の 細 部 の 異 同 を 除 い て は ほ ぼ 同様の筋をとる。ただしその後、速記本②では(カ)の部分でお松が江戸に戻るまでの流浪を長く語っていたのに対 し、 「 奥 州 娘 白 浪 」 で は 江 戸 に は す ぐ 戻 る も の の、 そ の 後 駿 州 に 辿 り 着 く ま で に 各 所 を 放 浪 す る こ と と な っ て い る。 こ の 間 に 細 か な 挿 話 が 多 く 語 ら れ る が、 中 心 に 据 え ら れ て い る の は、 流 浪 の 過 程 で 何 人 も の 浪 人 者 の 妾 と な り つ つ も、一貫して伝吉を慕い続けるお松の姿であった。細部の異同はあれ、大きな物語の枠組は、速記本の諸作と基本的 に共通していることが確認できる。   松林円玉は、⑦「奥州娘白波」の連載予告の中で、次のように語っている。 是は明和の頃の出来事で深川が全盛の時代、仲町の羽織衆( 芸 げい 妓 しや )日の出家の松吉後に鬼神のお松是を主人公と

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講談と『近古実録』にみる「鬼神のお松」 七二七 してそれに弁天小僧伝吉と云ふ侠客が絡みまして色気あり強い処もあり、愁嘆場もございまするし 却 なか 々 〳〵 面白く出 来て居りまして 先師伯円が是を始めて読み一躍して 後 ご 座 ざ 読みになつたといふ、松林派の読物では十八番と申しま しても宜しい品物 … 一六 こ こ か ら は、 伯 円 の 直 弟 子 で あ っ た 円 玉 が、 師 の 芸 を 継 承 し、 「 松 林 派 」 の 得 意 の 読 物 と し て「 鬼 神 の お 松 」 を 語 ろうとする姿勢を読み取ることができる。伯円の芸の継承者であるという自負は、しかし高座での排他的な、あるい は固定的な姿勢を意味するものではない。既に確認したように、円玉の語る⑦「奥州娘白浪」は、田辺南龍や揚々舎 鶴燕の口演速記である②、③等と、基本的な展開は同一であった。また④の例を見れば、円玉が全体の筋立てを大幅 に省略し、ごく一部のみ演ずる場合もあったことが知られる。講談師の間には、流派や師系の意識も存在していたで はあろうが、しかし「鬼神のお松」ものの講談を見る限り、演者や流派による差異を超えて、ある程度共通した定型 に則っていたことが窺える。基本的な話の構造を共有しつつ、時間的条件や観客の様子など、その時々の状況によっ て細部に改変を加えていくことこそ、舌耕文芸である講談の特質であったと考えるべきではないだろうか。 「 続 き 物 」 と し て 幾 晩 も 連 続 し て 高 座 に か け ら れ た 講 談 は、 そ の 時 々 で 異 な る 上 演 時 間 や 回 数 の 中 で う ま く 語 り 納 められるよう、様々に伸縮させながら語っていたものと思われる。速記本②~⑦が、語り方の精粗や挿話の数におい て異なるのは、そうした口演の実情を反映したものであったろう。緩やかな物語の枠組を共有した上で、口演の度に 改変や創意を加えつつ演じていくことが講談の本質であり、各種の口演の記録の間に見られる共通点と差異は、それ を雄弁に語るものと考えられる。

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七二八 (三) 「講談一席話」――明治八年の錦絵填詞 速 記 法 以 前 の 講 談 の 口 演 内 容 を 知 る た め の 重 要 な 資 料 と し て、 明 治 八 年 前 後 に 刊 行 さ れ た 錦 絵 の 揃 物「 講 かう 談 だん 一 いつ 席 せき 話 わ 」 が あ る。 こ の う ち の 一 点 に、 伯 円 の 講 ず る「 鬼 神 の お 松 」 も 取 り 上 げ ら れ て い た 一 七 1】 。 こ の 揃 物 に は 仮 名垣魯文が填詞を寄せて当該講談の粗筋を述べており、講談の内容を知る手がかりになる。次にその全文を掲げる。 巽 たつみふ 婦 言 げん の名にしおふ客を南へ送り船。州崎の芦間に髑髏の怪談。夢にも 夫 それ としら浪の。始めて知りし父の仇。う つゝに諭す夏目が旧悪。思ふ念りき深川のげいしやお松が内心は。夜叉に等き鬼神が。刀の詮議 報 ふく 讐 しう の。 二 ふた 道 みち か けし 三 み 筋 すぢ の世渡。ひくや妹背の縁の糸。白はに 因 ちなみ の弁天小僧が鬼の女房の鬼神となれり    呂文記 こ の 梗 概 は、 速 記 本 の 検 討 か ら 抽 出 さ れ た 物 語 と ほ ぼ 一 致 し て い る。 お 松 が 深 川 の 芸 者 と し て 登 場 し、 「 州 崎 の 芦 間」に髑髏を見出して父の仇を知ること、夏目某をお松の父の仇とすること、お松が「弁天小僧」の女房となること など、固有名も含めて共通している。 一 方、 『 色 濃 緑 笠 松 』 お よ び 速 記 本 の 作 例 と 相 違 す る の は、 「 刀 の 詮 議 」 と い う 要 素 の 有 無 で あ る。 宝 刀 の 行 衛 詮 議 の 筋 は、 歌 舞 伎 『 新 しん 板 ぱんこしのしらなみ 越 白 浪 』( 嘉 永 四 年〔 一 八 五 一 〕 初 演 ) 以 来、 こ の 題 材 の 大 き な 要 素 と し て 継 承 さ れ て い た。 錦 絵 の 填 詞 か ら も、 明 治 八 年 前 後 の 口 演 で は、 こ の 点 が 重 要 な 位 置 づ け を 占 め て い た こ と が 窺 え る。 明 治 八 年 の 錦 絵「 講 談 一 席 話 」 か ら 明 治 一 六 年 刊 の『 色 濃 緑 笠 松 』 ま 【図版 1】「講談一席話 松林亭伯円」 (松雪斎銀光画。国立国会図書館蔵)

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講談と『近古実録』にみる「鬼神のお松」 七二九 での間に、この要素が失われていったとすれば、背景となった時代相とも関わって興味が惹かれる。 宝 刀 詮 議 の 有 無 を 別 と す れ ば、 講 談 に お け る「 鬼 神 の お 松 」 は、 「 講 談 一 席 話 」 か ら 明 治 三 〇 年 代 に 至 る ま で、 ほ ぼ同様の形で継承されていたと見ることができる。明治八年の時点で、明治末年まで継承されていく定型がある程度 確立されていたとすれば、伯円の口演もこれと近い内容を備えていた可能性が高いのではないか。伯円の講じた幕末 の原型と速記本の時代とを繋ぐ資料として、この錦絵填詞は重要な意味を備えている。   『近古実録』から『近世実録全書』まで――明治期の「実録」 (一)伝本の整理 一 方 で、 明 治 期 の『 近 古 実 録 』 に 扱 わ れ た「 鬼 神 の お 松 」 の 資 料 群 も 存 在 し て い る。 こ の 系 統 の 作 例 と し て は、 現 時点までに、 『近世実録全書』 を含めて八点を確認している。簡単な書誌を含めて、次にその一覧を掲げる。 ①『近古実録   鬼神お松譚』 明治一八年(一八八五)四月刊。栄泉堂刊。出版人広岡幸助、社主山内文三郎(刊記) 。 和装活版。半紙本一冊。摺付表紙。口絵無。挿絵有(歌川芳幾画) 。 全一七丁。本文二段組。序文なし。国会図書館蔵。 ②『笠松峠鬼神お松伝』 【図版2~4】 明治一八年八月刊。野村銀次郎刊。 和装活版。中本一冊(摺付表紙) 。口絵有。挿絵無。

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七三〇 全二八丁。薫仙宗祐序。架蔵。 ③『鬼神阿松譚』 明治一九年三月刊。栄泉堂刊。 和装活版。中本一冊。摺付表紙。口絵有。挿絵無。 全五六丁。 薫仙宗祐序。 ロバート キャンベル氏蔵。 ④『近古実録   笠松峠鬼神敵討』 【図版5 6】 明治一九年三月刊。永昌堂刊。 洋装活版。ボール表紙。表紙「近古実録/笠松峠鬼 神敵討 全/東京   永昌堂版」 。 口 絵 有。 挿 絵 無。 全 八 〇 頁。 竹 葉 舎 晋 升 序( 「 明 治 十九年三月」 )。架蔵。 ⑤『笠松峠鬼神敵討』 明 治 一 九 年 三 月 刊。 永 昌 堂 刊。 『 敵 討 高 田 馬 場 』 と 合本一冊。 洋装活版。ボール表紙本。口絵有。挿絵無。 全八〇頁(ノンブルに欠落あるも、内容は連続) 。 竹葉舎晋升序。国文学研究資料館蔵(玉川玉吉旧蔵 本) 。 【図版 2】『笠松峠鬼神お松伝』 (明治 18 年、野村銀次郎刊)表紙 【図版 3】『笠松峠鬼神お松伝』(同前)序文 【図版 4】『笠松峠鬼神お松伝』(同前)口絵

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講談と『近古実録』にみる「鬼神のお松」 七三一 ⑥『鬼神お松譚』 明 治 一 九 年 一 一 月 刊。 誾 花 堂 刊。 翻 刻 出 版 人、 野 村 銀 次 郎。 『 善 悪 草 園 生 咲分』と合本一冊。 洋 装 活 版。 ボ ー ル 表 紙。 口 絵 有( ① と 一 致 )。 挿 絵 無。 本 文 二 段 組。 国 会 図書館蔵。 一八 ⑦ 『笠松峠鬼神於松伝』 【図版7】 明治二〇年三月刊。銀花堂刊。刊記「編輯人 未詳/出版人 野村銀次郎」 。 洋 装 活 版。 ボ ー ル 表 紙 本。 表 紙「 KOKONDOKUFUDEN / 笠 松 峠 鬼 神 於 松伝/銀花堂梓」 。 口絵有。挿絵無。薫仙宗祐序。本文四一頁(丁付ノンブル、奥付有) 。 表紙は石版にて「毒婦」六人の図像を配する。架蔵。 一九 ⑧『近世実録全書』十四巻所収「鬼神のお松」 昭和三年(一九二八)八月刊。早稲田大学出版部。河竹繁俊解題。 右のうち、⑥の総序には、 「此譚の演述者   談州楼燕枝」とあるが、 「鬼神お松 譚 」 の 本 文 は 他 の 七 点 と 一 致 し て お り、 燕 枝 の 口 演 に 係 る の は、 『 善 悪 草 園 生 咲 分』のみと推定される。右の八点とも、本文は基本的に同一であり、おそらくは 『近古実録』の本文が翻印を重ねられたものとみるべきか。 『近古実録』以前の祖 【図版 6】『近古実録/笠松峠鬼神敵討』 (同前)口絵 【図版 5】『近古実録/ 笠松峠鬼神敵討』(明治 19 年、永昌堂刊)表紙 【図版 7】『笠松峠鬼 神於松伝』(明治 20 年、銀花堂刊)表紙

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七三二 本が存在した可能性も想定しうるが、現時点での伝本は確認できない。 『近世実録全書』所収本文の底本は明記されないが、同叢書の他の例から推しても、 『近古実録』を底本とする可能 性 が 高 い も の と 考 え ら れ る。 言 い 換 え れ ば、 確 認 し え た 限 り の「 鬼 神 の お 松 」 実 録 の 作 例 は、 い ず れ も『 近 古 実 録 』 に 基 づ く 同 系 統 の 本 文 を 備 え て い る。 そ も そ も、 こ の 系 統 の 本 文 が 近 世 に 写 本 と し て 行 わ れ て い た こ と は 確 認 さ れ ず、 狭 義 の「 実 録( 実 録 体 小 説 )」 と み な す べ き か 否 か、 な お 検 討 の 要 が あ ろ う。 以 後、 本 稿 で は こ の 系 統 の 本 文 を 仮に「 『近古実録』系統」と称することとする。 作者については不詳ながら、右の諸本のうち、銀花堂系(②③⑦)の序文に手がかりが示されている。序者は「薫 仙宗祐」名義で、いずれも同文、ともに年記はみえない。薫仙宗祐の事績は不明、他の著作も知られていない。序文 の冒頭には、 「作者氏者山川謂字結司 松風亭愛調者其前号也」との記述が見える 二〇 。即ち、作者は山川結司なる人物 で、かつて「松風亭愛調」の号を用いたというのである。山川結司、松風亭愛調ともに、他の著作や伝記は知られな い が、 松 風 亭 の 号 に つ い て は、 安 政 三 年( 一 八 五 六 ) に 刊 行 さ れ た 読 本『 笠 松 峠 鬼 神 於 松 伝 』 の 作 者「 松 風 亭 琴 調 」 と の 関 連 が 想 定 さ れ る 二 一 。 琴 調 に つ い て も、 他 の 作 例 や 事 績 と も に 全 く 伝 わ ら な い が、 そ の 号 か ら、 講 談 師 な ど 舌 耕 文 芸 の 徒 で あ っ た 可 能 性 も 考 え ら れ よ う。 愛 調 は、 お そ ら く そ の 弟 子 と 想 像 さ れ る が、 序 に「 前 号 」 と あ る 以 上、 明治一〇年代後半には既にその門を辞していたものか。 ま た、 永 昌 堂 系 の 諸 本( ④ ⑤ ) に は、 「 明 治 十 九 年 三 月 」 の 年 記 を 持 つ 竹 葉 舎 晋 升 の 序 が み え る( 二 書 と も 同 文 )。 序文の末尾には、 「 今 こ た び 回 永昌堂の主人が発兌するに臨み」 「 口 こうじやう 演 を頼まれて」記した旨が記されており、永昌堂版の刊 行 に 際 し て 寄 せ ら れ た も の と 推 定 で き る 二 二 。 こ の 竹 葉 舎 晋 升 序 に つ い て も、 内 容 の 点 で は 若 干 不 審 が 残 る が、 こ の 点は本文の内容を見た上で後述したい。

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講談と『近古実録』にみる「鬼神のお松」 七三三 (二) 『近古実録』系統の梗概 以 下、 『 近 古 実 録 』 系 統 の 本 文 の 特 徴 に つ い て、 「 鬼 神 の お 松 」 関 連 作 品 の 中 で の 位 置 づ け を 含 め て 考 え て み た い。 まずは梗概を見ておこう。    奥州仙台城下、伊達家の武術指南役である早川文右衛門は、藩主の命で川越藩の浪士・山木伝七郎と武術試合 をし、山木に勝利。山木は文右衛門を恨み、早川の門下であった 稲 いな 毛 げ 甚 じん 裁 さい ・ 立 た て め じ ょ う ご ろ う 目丈五郎 ・ 部 ぶ が き ゅ う べ え 賀久兵衛 と共に文右 衛門を狙う。 文 右 衛 門 の 死 後 に 家 督 を 継 い だ 早 川 文 蔵 は、 文 事 に 心 を 寄 せ て い た が、 立 目・ 稲 毛 ら に 恥 辱 を 受 け た こ と か ら、一子文次郎に家督を譲って武道の修行に励む。安永二年、文蔵は仙台の城下で立目・部賀の両人を殺害して 意趣を晴らす。 立目の妻・お松は、元は深川の遊女であったが、夫の敵を討つべく、娘のおやすと共に、京都に転じた稲毛を 頼る。稲毛はお松に恋慕、お松はこれを拒んで稲毛を殺す。以後、お松は諸国で人を騙して金品を奪い、やがて 奥州金岳山で盗賊となる。おやすはこれを憂い、母を諫めるために自害。お松はその死を嘆くも、もはや改心も ならずと夜盗を続ける。 時に安永三年、武者修行に出た早川文蔵は 金 きん 岳 がく 山 さん にてお松と出会う。お松は夫の敵と知らぬまま、文蔵を騙し て背に負わせ、衣川の川中で殺す。文蔵の一子文次郎は、文蔵の下人・忠三と共に敵討に出立。一方、お松は駿 河国 蓼 たで 原 はら の山に身を隠す。文次郎・忠三主従は、駿河の曾我兄弟の社へ参詣する途中でお松一味の隠れ家に泊ま り合わせ、お松の手下三島権左衛門を殺すが、お松はその場を逃れる。文次郎主従は一旦仙台へ帰国。

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七三四 お松は盗賊の張本となり、再び奥州金岳山に戻る。仙台の太守はお松一味の捕縛を命じ、文次郎が指揮を願い 出る。時に天明三年三月、仙台藩の捕手が金岳山を固める中、十八才の文次郎は父の形見の 頼 らい 国 くに 光 みつ の刀を帯して 山塞を攻め、お松の首を取って敵討を果たす。 以上、内容としては、先に見た講談と重なる点が多いが、年時や人物名、細かい設定などの点で随所に相違も見ら れる。いずれも敵討物としての大枠を持つ点は共通するが、講談では亡父の敵・夏目四郎三郎を討つのが悲願であっ たのに対し、 『近古実録』系統では夫・立目丈五郎の敵を討つこととされている。 あ わ せ て 大 き く 異 な る の が、 お 松 の 夫 に 関 わ る 部 分 で あ ろ う。 講 談 で は、 お 松 は「 弁 天 小 僧 伝 吉 」 と 恋 仲 と な り、 離別を経ながらも思いを寄せ続ける。言い換えれば、講談の「鬼神のお松」は、敵討物だけでなく、恋物語としての 要素も備えていた。しかし『近古実録』系統では、夫は同家中の早川文蔵に殺され、この敵を討つためにお松が諸国 を遍歴することとなっている。重なる部分もある一方で、講談と『近古実録』系統では、物語全体の枠組が大きく異 なっているのである。 (三)講談と『近古実録』系統本文の比較――共通点と相違点 お松の前歴と継母・娘に関わる挿話 「 鬼 神 の お 松 」 物 の 講 談 と『 近 古 実 録 』 系 統 と の 相 違 点 と そ の 背 景 に つ い て、 更 に 詳 し く 考 え て み た い。 登 場 人 物 に関する設定として、お松の夫に関わる相違については既に触れたが、主人公たるお松の造型についても大きな違い がある。お松がもと深川の遊所にいたとする設定は共通するものの、講談では芸者であり、かつ亡父の仇を討つべく

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講談と『近古実録』にみる「鬼神のお松」 七三五 肌を汚さずにいたものが、 『近古実録』系統では遊女であったものとする。 ま た、 講 談 で は お 松 の 継 母 と の 挿 話 が 大 き く 扱 わ れ て い る が、 『 近 古 実 録 』 で は 娘 の お や す が 登 場 し、 母 を 諫 め て 自 害 す る と い う 挿 話 が 見 ら れ る。 講 談 に お い て は、 継 母 に よ っ て 芸 者 に 売 ら れ た お 松 が、 継 母 と 再 会 し て 和 解 し た 後、継母を騙し殺した相手を討つという筋をとる。いわば、講談ではお松の孝養が描かれ、父の敵討に加えて継母の 敵討も大きな焦点となっていたが、 『近古実録』系統でのお松は、むしろ悪逆な盗賊として娘に諫められるのであり、 孝養を担うのは娘の方になっている。当然ながら、継母の仇討というモチーフは後者には登場しない。 作品の舞台として、奥州と駿府を中心として諸国を遍歴する点は共通しているが、講談では奥州笠松峠・駿州静機 山 で あ っ た も の が、 『 近 古 実 録 』 系 統 で は 奥 州 金 岳 山・ 駿 州 蓼 原 山 と さ れ る。 ま た、 講 談 で の 継 母 と の 挿 話 は 川 越 を 舞 台 と す る が、 『 近 古 実 録 』 系 統 で は 川 越 は 描 か れ ず、 一 方 で お 松 が 一 時 身 を 寄 せ る 場 と し て、 講 談 に は な い 京 都 が 登場している。 仙台城下での家士の対立 更に微妙な錯雑が見られるのが、奥州仙台城下での家士の対立に関わる部分である。講談では、剣術師範であった お松の父「稲毛甚三郎」が、同家中の夏目四郎三郎に殺され、これを契機にお松が敵討を志すこととされていた。ま た、甚三郎の弟子「早川丈五郎」は、甚三郎の死後にその後妻(お松の継母)と出奔するが、のち若い情婦ができた ためにお松の継母を殺し、このためお松に討たれている。 一方『近古実録』系統では、剣術指南役の「早川文右衛門」と山木伝七郎の対立から説き起こされる。忠義にして 武勇兼備の文右衛門に遺恨を抱いた山木は、門下の「稲毛甚裁」 ・「立目丈五郎」らを率いて文右衛門の命を狙い、文

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七三六 右 衛 門 の 死 後 に は 嫡 子 の 文 蔵 に 恥 辱 を 加 え る。 文 蔵 は 意 趣 返 し と し て 立 目 ら を 殺 す が、 お 松 は こ の 立 目 丈 五 郎 の 妻 で、夫の敵を討つために遍歴を重ね、やがて奥州金岳山の女盗賊となるのである。なお『近古実録』系統では、この 題材に定型的な「夏目四郎三郎」父子の名がみえない点も、大きな特徴の一つと言えよう。 右の通り、 「早川」 「稲毛」あるいは「丈五郎」の名など、姓名については講談と重なるものも見られるが、作中で の位置づけやお松との関係性などは大きく異なっている。そもそも『近古実録』系統では、節義を備えているのは明 らかに早川父子の方であり、稲毛・立目らは武道に背いた不徳の士である。描写の筆も、一貫して早川父子の側に立 つものであり、山木・稲毛・立目らの邪智奸佞を繰り返し描いている。お松は立目の死後はじめて物語に登場し、夫 の敵討を志すが、その決意は、冒頭からの経緯を考えれば容易には正当化しがたい。責められるべきはむしろ、早川 父子に嫌がらせを重ねた立目らの方であり、その意趣返しとして殺されている以上、お松の敵討の決意には、十分な 道義的裏付けが見出し難いのである。 お松の敵討の「正当性」――先行作品との比較 「鬼神のお松」物の一として、主人公たるお松に読者が感情移入しがたい構成を取る点は、 『近古実録』系統本文の 大 き な 特 色 と 言 え よ う。 も っ と も、 「 鬼 神 の お 松 」 物 の 合 巻・ 読 本 な ど の 先 行 作 品 で も、 お 松 の 敵 討 を 大 き な 軸 に 据 えながら、実はその敵討自体が理を欠いていたことが判明するという展開は複数見られる。たとえば、合巻『笠松峠 雨 夜 菅 蓑 』( 文 政 九 年〔 一 八 二 六 〕 刊 ) で は、 お 松 の 娘・ お 夏 が、 母 を 殺 し た「 辰 巳 専 太 郎 」 を 敵 と し て 狙 う が、 お 松が専太郎の父「辰巳城三郎」を殺していたこと、専太郎がお松を討ったのはその敵討であったことを知り、自らの 非 を 悟 る 二 三 。 ま た、 読 本『 笠 松 峠 鬼 神 敵 討 』( 安 政 三 年〔 一 八 五 六 〕 序 刊 ) で は、 父 が 夏 目 四 郎 三 郎 に 殺 さ れ た と 聞

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講談と『近古実録』にみる「鬼神のお松」 七三七 いて敵討を志したお松は、それと知らぬ間に四郎三郎を討つが、後に父が生きていたことを知り、四郎三郎の子・千 太郎に討たれる覚悟を決める。 ただし、これら二作品では、結果としてお松(お夏)の敵討の根拠が崩されるものの、そこに至るまでの描写の筆 は、 お 松( お 夏 ) に 寄 り 添 う も の で あ る。 『 笠 松 峠 雨 夜 菅 蓑 』 で は、 母 の 敵 討 を 志 し な が ら、 夫 へ の 思 い と の 狭 間 で 苦悩するお夏が描かれ、また読本『笠松峠鬼神敵討』では、父の敵討のために女盗賊として跳梁するお松の描写が中 心となっている。夫への思いに悩む姿と、男優りの果断な女盗賊という違いはあれ、いずれも主人公として魅力ある 人物造型とみなしうるものであり、読者の感情移入を誘う要素は十分に備えている。 これに対して『近古実録』系統では、お松は邪智の士・立目丈五郎の妻として登場しており、その行動を正当化す ることは、感情的にも道義的にも困難である。夫の敵を討つためとはいえ、我が娘による命を懸けた諫言も耳に入れ ないお松の姿は、およそ読者としては共感しがたい造型と言えるのではないか。こうした脚色の背景について、節を 改めて考えてみたい。   講談と『近古実録』系統の交渉――成立をめぐる一試論 ここまで、講談と『近古実録』系統の相違点を主に見てきたが、一方では人名などを含めて共通する点も多く、相 互に無関係に成立したとは考えがたい。仙台城下での藩士の抗争を発端とする点をはじめ、ある程度の影響関係があ ることは確実であろう。資料的な制約の大きい中ではあるが、以下一試論を試みたい。 ま ず は、 明 治 八 年 刊 の 錦 絵「 講 談 一 席 話 」 の 填 詞 を 再 度 見 て み よ う。 先 に 全 文 を 引 用 し た が、 こ の 填 詞 で は、 「 巽 たつみ 婦 ふ 言 げん の 名 に し お ふ 客 を 南 へ 送 り 船 」 の「 髑 髏 の 怪 談 」 と い う 書 き 出 し に 続 け て、 「 父 の 仇 」 と し て の「 夏 目 が 旧 悪 」

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七三八 を 知 っ た「 深 川 の げ い し や お 松 」 が、 「 刀 の 詮 議 」 と「 復 讐 」 を 志 す と と も に、 「 妹 背 の 縁 の 糸 」 に よ っ て「 弁 天 小 僧」の妻となることが語られている。即ち、深川の芸者お松が、州崎の海中で見出した髑髏を手がかりとして、父が 夏目某に討たれたことを知り、敵討と刀の詮議を志すのが講談の骨子とされているのである。あわせて、夫・弁天小 僧伝吉との「妹背の縁」もまた、一方の主軸であった。この填詞を見る限りでは、父の死の詳細、すなわち奥州仙台 での反目については、具体的には触れられていない。 続 け て、 講 談 速 記 本 の 記 す 父 の 死 の 経 緯 を 見 よ う。 奥 州 仙 台 城 下 に て、 剣 術 の 試 合 で 負 け た 四 郎 三 郎 が お 松 の 父・ 稲毛甚三郎に遺恨を抱き、これが原因でお松一家は江戸に移住。四郎三郎は一家を追って江戸に出、遺恨を捨てて親 交を結ぶと見せて、二人で夜釣りに出た際に稲毛甚三郎を殺すのである。仙台城下での描写にはそれほどの紙幅は割 か れ ず、 む し ろ 江 戸 に 出 て か ら 四 郎 三 郎 が 稲 毛 甚 三 郎 に 近 づ き、 油 断 さ せ て 殺 す ま で の 描 写 に 主 眼 が 置 か れ て い る。 講談でお松の郷里を奥州仙台としたのは、のちにお松が山塞を構えるのが奥州笠松峠であることからの発想とみられ よう。遺恨の根が生じたのは確かに仙台の地ではあるが、一家はほどなく江戸へ移住、お松の父が殺されるのも江戸 での出来事である。釣りの最中に殺された父の遺骸が、品川沖で見出され、深川芸者・お松の手に渡るという筋立て にも不自然はない。 これに対して、 『近古実録』系統の本文では、前半の仙台城下での武士の反目と、ちょんがれ以来の「鬼神のお松」 の定型との間に、有機的な接点は見出せない。早川父子に遺恨を含む山木・立目・稲毛らの抗争には、後半の「鬼神 のお松」の物語につながる必然性は見出せないのである。お松が深川に身をおいていたという設定も、講談とは違っ て、全体の展開には関わってこない。 以 下 は 想 像 に 留 ま る も の で は あ る が、 『 近 古 実 録 』 系 統 は、 仙 台 城 下 で の 藩 士 の 対 立 に 関 わ る 話 柄 と、 「 鬼 神 の お

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講談と『近古実録』にみる「鬼神のお松」 七三九 松 」 と い う 別 個 の 題 材 を、 奥 州 と い う 地 縁 を 介 し て 結 び つ け た も の で は な い か。 「 鬼 神 の お 松 」 の 定 型 で あ る、 夏 目 某( 四 郎 三 郎・ 千 太 郎 ) の 名 が 見 ら れ な い こ と も、 そ の 傍 証 の 一 つ と も み な さ れ よ う。 主 人 公 で あ る は ず の お 松 が、 物語の中途から唐突に登場し、しかもその境涯が読者として感情移入しがたいものであることも、こうした綯い交ぜ の結果と考えれば、ある程度説明がつくようにも思われる。 講談と『近古実録』系統の先後は容易に決し難いが、伯円の講ずる講談「鬼神のお松」の祖型が幕末に成立してい る以上、奥州仙台にお松の故地を設定する行き方は、おそらく講談において先に行われていたのではないか。これを 踏まえて、仙台城下での藩士の抗争という話柄を新たに取り入れ、後者をより詳しく描き込んで作品の前半に据えた のが『近古実録』であったとする方が、蓋然性が高いように思われる。 先述した『近古実録』銀花堂系の序文にて、作者の前号として挙げる「松風亭愛調」が講談師を思わせることにも 改 め て 注 意 し た い。 講 談 師 な い し そ の 周 辺 の 人 物 で あ っ た「 松 風 亭 愛 調 」 が、 講 談 を も と に 読 み 物 と し て 手 を 加 え、 『近古実録』の一編としてまとめたという可能性を考えることもできるのではないか。 「松風亭愛調」の事績を含めて 不明の点が多く、厳密な検証は難しいが、一つの仮説として記しておきたい。   結びに代えて――「毒婦」と「女丈夫」像の交錯 本 稿 で は、 「 鬼 神 の お 松 」 物 の 講 談 と『 近 古 実 録 』 系 統 の 成 立 に つ い て 検 討 し て き た。 講 談 と『 近 古 実 録 』 系 統 で は、奥州仙台にお松の故地を設定する行き方や、作中の人物名などに類似も認められるが、細かい設定や人物の造型 などはそれぞれに異なる。講談においては、松林伯円の脚色をもとに口演を重ねられる中で、逸話の付加や脇筋の拡 充など、話芸として錬磨されていったものであろう。その一方で、講談の影響下で仙台城下での武家の抗争という話

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七四〇 柄を掘り下げ、これをお松の敵討の筋と取り合わせた『近古実録』系統本文が行われたものと考えられる。 ここまで述べてきたように、講談と『近古実録』系統では、主人公であるお松の境涯や人物造型は大きく異なって いる。講談では、夫への一途な思いを持つ一方で、生活苦のために強請などの悪事にも手を染める女盗賊として造型 さ れ る。 『 近 古 実 録 』 系 統 で も 夫 の た め に 敵 討 を 志 す の で は あ る が、 そ の 夫 が 邪 智 の 士 と し て 登 場 す る た め、 敵 討 の 正当性はもとより危うい。なおかつ後者では、娘の命を賭した諫めをも聞き入れず悪事に泥むという描写もあり、理 非の筋目で言うならば、理を認めがたいのが『近古実録』系統のお松と言えよう。では、右のように錯綜する脚色を 経て、明治期の「鬼神のお松」の人物像はどのようにイメージされていたのだろうか。この点についての展望を示し てまとめに代えたい。 『近古実録』系統のうち、永昌堂系の序文(竹葉舎晋升序)の一部を左に掲げる。 鬼の女房に鬼神とやら 俚 こと 諺 はざ にいへれど   夫は鬼にあらで   主家の為に頗る忠節を尽す善人にして   其女房たるお 松は鬼神の綽号を得て   醜名を永く笠松峠の 口 くち 碑 ぶみ に伝ふるも   其実は夫を助け親兄の仇を復する一個の女丈夫   此は是れ外面如菩薩内心如夜叉ともいはんか… 二四 「 鬼 の 女 房 に 鬼 神 」、 「 外 面 如 菩 薩 内 心 如 夜 叉 」 の 俚 諺 は、 読 本『 笠 松 峠 鬼 神 敵 討 』 を は じ め、 近 世 の 戯 作 に 常 套 的 に 引 か れ る 文 言 で あ り、 そ れ 自 体 は 特 段 珍 し い 筆 法 で は な い。 こ こ で 注 目 し た い の は、 『 近 古 実 録 』 系 統 の 本 作 に し て、 夫 の 立 目 丈 五 郎 を「 忠 節 」 の「 善 人 」 と し、 お 松 を「 女 丈 夫 」 と し て い る 点 で あ る。 既 に 見 て き た 通 り. 『 近 古 実録』系統では、立目は邪智の士として描かれており、 「忠節」 「善人」の称は到底与えられない。更に、お松につい

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講談と『近古実録』にみる「鬼神のお松」 七四一 ても「夫を助け親兄の仇を復する」というが、作中では夫の敵討は語られるものの、親や兄の敵討という要素は出て きていない。即ち、この序文は『近古実録』系統の伝本に寄せられたものでありながら、該書の伝える内容には対応 していないのである。 右の序文は、むしろ近世以来の歌舞伎や読本に描かれた「鬼神のお松」の類型に照らして、はじめて了解可能なも のである。夫を「忠節」の善人とする点も、歌舞伎の脚色に近い行き方と言えよう。親の敵討を設定するのは「鬼神 のお松」の定型であるが、 「兄の仇」は先行作品には見えず不審。なお、 『近古実録』系統のうち、銀花堂系の序文で も、お松について「忠孝貞節」の言を与えている。どちらの序文も、 「忠孝」 「貞節」を言挙げする明治期の世相を反 映した一面もあろうが、 「鬼神のお松」物の展開に即して見るならば、 『近古実録』以前に成立していた諸作品の影響 が強いものとみなされる。 『 近 古 実 録 』 系 統 の 伝 本 は、 確 認 さ れ る 限 り 明 治 一 八 年 の 刊 本 が 最 初 で あ る。 そ れ 以 前 に 遡 り う る と し て も、 お そ ら く は 明 治 一 〇 年 代 の 成 立 に 係 る も の と 推 定 さ れ る。 こ れ よ り 前 に、 歌 舞 伎 や 読 本、 講 談 な ど で 既 に「 鬼 神 の お 松 」 は知名度を得ており、主人公のお松や夫の造型も、これらの作例を通じて形成されたイメージの方が支配的であった ものと思われる。明治の『近古実録』系統は、これらを踏まえた変奏に過ぎないことを、当の伝本に寄せられた序文 が物語っているのではないか。 も う 一 つ、 先 掲 の『 近 古 実 録 』 系 統 ⑦ の 伝 本( 明 治 二 〇 年 刊 ) は、 表 紙 に「 KOKONDOKUFUDEN 」 の 文 字 を 冠 し、 「 姐 妃 於 百 」「 高 橋 於 伝 」「 鬼 神 於 松 」 な ど 六 人 の「 毒 婦 」 の 肖 像 を 描 い て い る 7】 。 こ れ だ け を 見 れ ば、 「 鬼 神 の お 松 」 も 明 治 に 叢 生 し た「 毒 婦 伝 」 の 一 画 を 占 め て い た こ と に な る が、 果 た し て お 松 は「 毒 婦 」 に 該 当 す る のだろうか。

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七四二 夏目漱石の『坊っちゃん』には、次のような一節がある。 「其マドンナが不慥なマドンナさんでな、もし」 「厄介だね。 渾 あだ 名 な の付いてる女にや昔から碌なものは居ませんからね。さうかも知れませんよ」 「ほん当にさうぢやなもし。鬼神の御松ぢやの、姐妃の御百ぢやのてゝ怖い女が居りましたなもし」… 二五 明 治 三 九 年 の 時 点 で、 お 松 は「 姐 妃 の 御 百 」 と 並 ん で「 怖 い 女 」 に 数 え ら れ て い る の で あ る。 「 渾 名 」 の 付 い た 怖 い女、という点で、ここには「毒婦」像が重ねられていると見るべきか。 こ れ を 考 え る た め に は、 「 毒 婦 」 の 定 義 を も 改 め て 検 討 す る 必 要 が あ る。 ち ょ ん が れ に 歌 わ れ た お 松 は、 笠 松 峠 で 旅 人 を 殺 す 女 盗 賊 で あ り、 色 香 で 男 を 蕩 か す 明 治 以 後 の「 毒 婦 」 像 と は 質 を 異 に し て い る。 歌 舞 伎 で の 脚 色 を 経 て、 夫への思いのために死を選ぶという命運を与えられたという点では、 「悪婆」に近い性格を持つものとも言えようが、 「悪婆」と「毒婦」との接続については、慎重な議論が必要であろう。 講談の「鬼神のお松」では、芸者時代には客に肌を許さず、夫の伝吉と相識って後は、別離を経ても夫への思慕を 抱 き 続 け て い る。 も っ と も、 継 母 の 敵 を 討 つ に あ た っ て 隣 家 の 男 を 誑 し こ ん で 協 力 さ せ る と い う 挿 話 も 見 ら れ る が、 こ れ は 明 治 の「 毒 婦 」 像 の 確 立 後 に、 新 た に 付 与 さ れ た 可 能 性 も 考 え ら れ よ う。 ま た、 『 近 古 実 録 』 系 統 で も、 夫 の 朋輩に恋慕されたお松はこれを拒絶、言い寄る相手を殺している。これを契機にお松は盗賊稼業に手を染めることに な る が、 亡 夫 へ の「 貞 節 」 を 貫 い て い る 点 で、 「 毒 婦 」 像 と は 一 線 を 画 し て い る。 即 ち、 お 松 は 確 か に「 渾 名 」 を 持 つ「怖い女」とは言えようが、同時に「貞婦」 「節婦」とも言い得るのである。

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講談と『近古実録』にみる「鬼神のお松」 七四三 近世以来の「鬼神のお松」は、少なくとも歌舞伎での脚色以降、思う男への誠を貫く一面を備えていた。その意味 では「貞婦」 「節婦」であり、親の敵討を果たす点では「孝女」でもある。また「女白浪」としての造型においては、 義侠的側面を備える作例もあり、幕末の歌舞伎では「女自来也」の別称を与えられて、赤子を庇う慈愛も見せる。し か し、 こ れ ら の 類 型 は、 近 代 以 降 は ほ ぼ 失 わ れ て い く。 「 怖 い 女 」 は「 毒 婦 」 に、 逆 に 規 範 的 行 動 を 示 す 女 性 に は 「忠孝貞節」の徳目が付与されて称揚される。 「鬼神のお松」の備えていた多彩な相貌は、近代以降の女性像の類型に は 合 致 し な い も の で も あ っ た。 「 鬼 神 の お 松 」 を「 古 今 毒 婦 伝 」 に 数 え 入 れ た 伝 本 の 存 在 は、 明 治 期 の 文 芸 が、 か つ て持ち得ていた複層的な女性類型を失いつつあることを端的に示しているのである。 (かんばやし   なおこ・本学准教授) [ 付 記 ] 本 稿 を 草 す に あ た り、 ロ バ ー ト キ ャ ン ベ ル 氏、 高 橋 圭 一 氏、 延 広 真 治 氏 に 御 架 蔵 資 料 の 借 覧 お よ び 御 恵 与を賜りました。記して深謝申し上げます。 一 ち ょ ん が れ に つ い て は、 中 村 幸 彦「 浪 花 節 に つ い て 」( 『 中 村 幸 彦 著 述 集 第 十 巻 舌 耕 文 学 談 』 中 央 公 論 社、 一 九 八 三 年 )、 吉 田 伸 之「 身 分 的 周 縁 ―― 勧 進 と 芸 能 」( 『 日 本 の 歴 史 十 七 巻 成 熟 す る 江 戸 』 講 談 社、 二 〇 〇 二 年 ) を 参照。なお、 「ちょんがれ節」 「ちょぼくれちょんがれ」など複数の称があるが、本稿では「ちょんがれ」の表記に統 一する。 二「 鬼 神 の お 松 」 物 の 諸 作 品 に つ い て は、 前 田 裕 子「 「 鬼 神 の お 松 」 の 展 開 」( 『 青 山 語 文 』 二 五 号、 一 九 九 五 年 三 月 ) の ほ か、 拙 稿「 「 鬼 神 の お 松 」 の 起 源 と 変 容 ―― 歌 舞 伎 に お け る 脚 色 を 中 心 に 」( 『 近 世 文 芸 』 八 八 号、 二 〇 〇 八 年 八

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七四四 月) 、同「合巻における「鬼神のお松」像の変遷――「牙のお才」の影響と後日譚の創出」 (『鶴見日本文学』二四号、 二〇二〇年三月)を参照されたい。 三『名古屋大学教養部紀要』十七輯(名古屋大学教養部、一九七三年三月) 四いずれも眠牛舎発行。 『年譜稿』は一九九七年、 『作品集』 (一)は一九九八年、同(二)は一九九九年刊。 五菊池真一「松林伯円をめぐって」 (『江戸の文事』ぺりかん社、二〇〇〇年) 、中込重明「松林伯円と筒井政憲」 「松 林伯円をめぐる人々」 (初出は前掲『松林伯円作品集(一) (二) 』。いずれも中込重明『明治文芸と薔薇』 (右文書院、 二〇〇四年)に収録)ほか。 六『講談落語今昔譚』 (雄山閣、一九二四年。本稿での引用は東洋文庫版(平凡社、一九九九年)による) 、二四五頁。 七『講談落語今昔譚』 、二四三頁。 八『講談雑誌』第二巻四号(博友社、大正五年四月) 、一〇二~一〇三頁。 九「奥州娘白浪」の連載開始の予告文( 『講談雑誌』第二巻三号、大正五年三月、二〇頁) 。 一 〇『 新 編 都 草 紙 』 連 載 は、 一 号( 著 述 堂 刊。 明 治 一 六 年 五 月 二 四 日 御 届、 同 年 六 月 四 日 出 版 ) ~ 二 三 号( 明 治 一 六 年 九 月 二 四 日 出 版 ) ま で。 単 行 本 は 前 後 編 二 冊。 前 編 刊 記「 明 治 十 六 年 五 月 廿 四 日 御 届   同 十 月 四 日 別 製 本 御 届 」。 後 編「明治十七年一月十四日御届、同十九年六月十五日出版」 。連載・単行本ともに、国会図書館蔵本を参照。 一 一「講談作品事典」刊行会、二〇〇八年刊。 「鬼神のお松」項は五一八頁、 「骸骨お松」項は四〇一~四〇二頁。 一 二注一一前掲書、四〇二頁。 一 三「鬼神のお松」物の合巻『薄緑娘白波』 (仮名垣魯文作、歌川芳幾・歌川芳虎画、慶応四年~明治四年刊)でも、初 編 の 巻 頭 を 芸 者 お 松 の 夢 か ら 書 き 起 こ し て い る が、 こ れ は 講 談 か ら 想 を 得 た 可 能 性 が 高 い も の と 思 わ れ る。 『 薄 緑 娘

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講談と『近古実録』にみる「鬼神のお松」 七四五 白波』は、初編の序文でも伯円作の講談に言及しており、講談との関連という点でも注目される。 一 四「色濃緑笠松」第一回、一頁(原文は総ルビ) 。 一 五本文四三頁。引用に際してルビを省略した(原総ルビ) 。 一 六『講談雑誌』第二巻三号(大正五年三月) 、二〇頁。原文は総ルビ。なお、ここで円玉が言うように、明和期に「日 の出家の松吉」なる芸妓が実在したとすればお松の実説として興味深いが、現時点では不明である。 一 七松雪斎銀光画、具足屋刊。刊年の考証は、揃物のうち数点に捺された改印に基づく。国立国会図書館蔵(国会デジ タルコレクションよりダウンロード) 。 一 八刊記には、 「明治十九年五月二五日笠松峠鬼神お松伝[翻刻] (上から墨字抹消)御届、明治十九年八月三十一日合 本 御 届、 同 年 十 一 月 出 版 」 と あ る。 ま ず は「 笠 松 峠 鬼 神 お 松 伝 」 の「 翻 刻 」 の 計 画 が 先 行、 そ の 後『 善 悪 草 園 生 咲 分』との合本として刊行されたものと推定される。 一 九表紙の図像、右上から順に「姐妃於百」 「夜嵐於衣」 「鬼神於松」 「高橋於伝」 「洋妾於花」 「写真於衣」 。口絵有(見 開き半葉二図。 「魁一書」 )。挿絵無。尾題「鬼神お松譚」 。後ろ表紙に墨筆書き入れ「北会津郡神指邨/大字北四合/ 皆川応助/明治三十一年八月求之」 。 二 〇引用は⑦による。本文第一頁(②・③も同) 。 二 一歌川国芳画、伊丹屋善兵衛・河内屋茂兵衛板。中村幸彦氏旧蔵本および学習院大学所蔵本を参照(ともに国文研マ イ ク ロ 資 料 )。 版 元 に つ い て は、 中 村 幸 彦 旧 蔵 本 の 奥 付 に「 伊 丹 屋 善 兵 衛 」、 学 習 院 本 の 奥 付 に「 群 玉 堂 河 内 屋 茂 兵 衛」とある。中村幸彦旧蔵本は学習院本より早印と判断され、伊丹屋板が本来かと推定されるが、刊行事情について は今後更に考察したい。 『絵本稗史小説』第十巻(博文館、一九一九年)にも活字翻刻が収載される。

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七四六 二 二引用は④による(一頁) 。引用に際して適宜ルビを省略した(原総ルビ) 。以下も同。 二 三墨川亭雪麿作、 歌川国安画、 文寿堂丸屋文右衛門板。 『笠松峠雨夜菅簑』については、 注二に挙げた拙稿(二〇二〇 年)も参照されたい。 二 四引用は④による(一頁。原総ルビ) 。 二 五『ホトヽギス』第九巻第七号(ほとゝぎす発行所、明治三九年四月。復刻・日本近代文学館、一九七三年) 、七七~ 七八頁。

参照

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