• 検索結果がありません。

社会科古代史教育における稲作文化の教材研究

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "社会科古代史教育における稲作文化の教材研究"

Copied!
12
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)Title. 社会科古代史教育における稲作文化の教材研究. Author(s). 遠藤, 芳信. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. C, 教育科学編, 45(1): 203-213. Issue Date. 1994-10. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/5347. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 北海道教育大学紀要 (第1部C) 第娠巻 第1号. 平成6年10月. lo f Hokka i do Un i i f Educa i i l Journa ty o t t ve r s on(Sec onIC)Vo .45 ‐l , No. oc tober ,1994. 社会科古代史教育における稲作文化の教材研究. 遠. 1. 藤. 芳. 信. はじめに--日本古代史学習の計画--. 筆者は, かつて, 日本古代史学習を国際的な環境・条件に注目して展開するために, 学習計画のテーマとして 以下 , の三つがとりあえず重視されるべきことを指摘しておいた‐ すなわち, ①弥生時代において,「倭国」 と称された 日本と 南朝鮮および中国江南・華南地方やイ ンドシナ半島との関係であり,‐特に稲作農耕文化にかかわるテーマ ②古墳時代 , における巨大古墳造成と北西アジアの騎馬民族・遊牧民族の文化的影響のテーマ, ③飛島・奈良時代における古代中国 1 ) ( 思想 (特に道教思想) の文化的影響のテーマ, である. 2 ( }本稿では①に これらの中で, ③については若 干の考察を加えてきたが, 関して, 特に稲作文化の教材研究を深めるた めに, 今日の稲作文化の研究動向に注目しつつ, 中学校社会科歴史的分野の教科書内容を分析するものである‐ 今日, いうまでもなく, 稲作・米問題は, 政治的・経済的 (国際貿易等を含めて) な問題の性格を強めてきた‐ した がって, 学校教育における社会科という教科においても, 歴史的分野のみならず 地理的分野・公民的分野においても , 相当の位置づけをした上で, 学習計画が立てられる必要がある‐ 他方, 稲作は, 日本古代史における経済・生産生活や 文化過程において, 唯一の位置を占るものではないが, 政治・経済過程や文化過程の特質や性格形成上において重要な 役割を果たしたことはいうま でもない‐ それ故, 日本古代史学習においては稲作文化に偏重することは正しくないが , 相応の重要な役割をもっていることを見すごすことはできない‐ ところで, 今日, 古代稲作の研究は, 伝統的なアプローチとしての, 考古学 民俗学 文化人類学 作物学 植物遺 , , , , 伝学等に加えて, 自然科学分野の最先端分析方法も含め, 学際的にすすめられている. 自然科学分野の最先端的な分析 方法としては, 本稿でも一部を紹介するが, 遺伝子分析やプラント・オパール分析等が含まれる‐ したがって 日本古 , 代史学習における稲作文化の教材研究においては, そうした個々の学問分野からのアプローチを常に総合化しつつ 統 , 一した歴史認識を形成する必要がある‐. n. アジア稲作の起源地. ( 1 ) アッサム・雲南起源説 戦後, アジア稲作の起源に関して, 重要な学説を提唱したのは, 作物学研究からの視点による渡部忠世である ‐ 渡部は,『稲の道』 ( 1 9 77年) 等で, アジア稲作の起源地をアッサム・雲南地域に求めた‐ 渡部のアッサム・雲南起源 説は, 第一に, 長期にわたってアジア各地の現地調査をふまえ (アジア各地の様々な時代の遺跡から発掘された日乾し レンガ・古レンガに混入されている稲モミの型を測定し, 栽培地・栽培年代等を解明) 旧ソ連の遺伝学者 バ ビロフの , 「多様性中心説」 に依拠し 同地域が多様なモミ型の稲が混在していることを強調したことが特徴である バ ビ ロフの , ‐ 「多様性中心説」 は 各種の栽培植物の起源に関して 遺伝的変異が最も集中している場所を (第一義的に) 同植物・ , , 作物の発祥地とするもので, 変異の集積は時間の長さに対応するという考え方である それ故 栽培歴史の最古の場所 . , こそに, 遺伝的変異が最も集中的に蓄積されるとするものである‐ 渡部は, 発祥地の複雑な環境の下で, その内部に多様な変異集団ができるとした‐ そして 発祥地外のあらたな環境 , への浸透の過程でさらに変異を集積しつつ, その中のある集団が, その土地に適応する形でしだいに分布域を拡大する 203.

(3) . 遠. 藤 芳. 信. 3 ( } と述 べ た‐. 渡部の学説は, 栽培稲の起源は一つとする一元説になる. すなわち, 栽培稲はすべて共通の祖先をもっていることに なる‐ この場合, 渡部によれば, アッサムにおける稲の多様な混在例としては次のようになっている‐ アッサムの丘陵 地帯から収集された多くの品種の中では, ジャポニカの種類が多く, 水・陸稲を合計すれば約2割がモチ品種であり, モチ品種の大半が山岳地帯栽培の陸稲とされている. また, 陸稲と水稲が区別できない種類も分布しているとした. 次 に, アッサムの収集品種の大部分はインディ カの水稲であるが, 草型・感光性・耐病性・耐虫性等の諸形質についても 多様 なも の が 認 め ら れ る と した. さ ら にイ ンディ カ と も ジ ャ ポ ニ カ と も 区別 で き な い 品種 が ある と した. な お, ア ッ サ. ムには, 栽培稲の直接的祖先と考えられている野生稲として, オリザ・ルフィ ポゴソ (かつては, オリザ.ペ レニスと 称されていたが, 「ペ レニス」 は多年生を意味する語なので, 適切でないとされてきた) 等も分布していると指摘する‐ 00m以上はジャポニ 他方, 渡部は雲南については, 文献研究等によって, ①栽培地帯の標高の高低によって, 海抜20 けん こう 5 0m以下では和稲地帯がみられ, ②和と綬 7 0~20 00mではイ ンディ カの袖と梗の混在地帯,1 力の梗 (梗) 稲地帯,1 7 5 の中間型, すなわち, イ ンディ カにもジャポニカにも明瞭に分化しない未分化品種が存在すること, モチ稲の栽培が少 く な い こと, ③ 野 生 稲 が広 く 分布 し, オ リザ ・ ル フ ィ ポ ゴ ンと考 え られ る オ リ ザ ・ サ テ ィ バ ・ ス ポ ンタ ネ ア (「普 通 野 生 稲」) や, オリ ザ ・ オ フィ シナ リ ス (「商 用 野 生 稲」), オリ ザ ・メ イ エリ ア ナ (「庇 粒 野 生 稲」) が み られ る こと, を 指摘. した‐ この場合, 野生稲は栽培稲の起源になるもので, 栽培化開始期の社会では, 野生稲の馴化・選育等の栽培化過程 は居住地あるいはその近辺地で行われたことは十分に推測される. それ故, 野生稲の現存地が, すべてではないが, ほ ぼ栽培稲の発生地になるという関係が成立する. 渡部のアッサム・雲南起源説は, 第二に, アッサム・雲南地域の背景として, アジア独自性の高い農業が展開された 4 ( } ことを強調し, 当該地域を 「原農耕園」 と呼称した‐ 原農耕園の農業の特徴 は, 丘陵と山間の農業と技術にあり, 農業 形態としては焼畑農耕である とされている. そこでは, 作物の種類が多様で, 現在のアッサムやイ ンドシナ半島で栽培 されている作物の大部分 (サツマイモやトウモロコシを除く) が焼畑傾斜地に混播・混植され, 古い段階から混合作物 の一つとして稲も加わったと推定している. それ故, 原農耕園に栽培された稲は陸稲に近いものであり, やがて, 稲は 他の作物, 特に他の雑穀類に対しての卓越的な生産力が確認され, 生育地をしだいに拡大させたと指摘している‐ その 場合, 生育地は諸河川にそって拡大し, 主に, ①メ コン系列の水稲群 (ジャポニカ型), ②長江 (揚子江) 系列の水稲群 (ジャポニカ型), ③ベ ンガル系列の水稲群 (イ ンディ カ型), の三系列の伝播経路に区別されるとした. ( 2 ) アッサム・雲南起源説に対する補強と批判について 渡部忠世の作物学研究からのアッサム・雲南起源説に対しては, 植物遺伝学研究からの補強と批判や, 農耕文化論か らの補強がある‐ まず, 植物遺伝学研究からは, 「多様性中心説」 をめぐる根拠づけが焦点になっている‐ 1 96 0年代中 ばに, タンパク質の変異を比較的に簡単に検出する方法として, アイソザイム (同位酵素) 分析が開発さ れた‐ そして, 中川原捷洋は, ア ジア各地から収集 した稲の葉身から検出したエステラー ゼ酵素を材料にしてアイソザ イム分析をした‐ それによれば, ア ジア栽培稲の遺伝的変異が最も多く集中する遺伝子の多様性中心地 が, ビルマ (ミャ ンマー) 北部・雲南省南部からラオス・北部タイに至る地域にあることを明らかにした. その結果, 中川原は, 5 ( } この遺伝子の多様性が集中する地域をア ジア稲作の起源地とみなした‐ 以上のアッサム.雲南起源説とその補強に対して, 森島啓子は生態遺伝学の視点から, ①多様性中心説のデータにも 00年以上をさか 0 00年間の多様性中心の場所であって,7 とづくアッサム・雲南起源説のフォローは, 栽培稲の過去約20 のぼることができる稲栽培化の最初の場所としては同地域を設定することの説得性が欠けること, ②遺伝子の多様性を 生みだしたものとしては, 多様な型が選択されるような何らかの自然淘汰 (多様化選択~多様な環境の下で, 二つ以上 の表現型が有利になる場合) が起っている可能性があること, そして, アッサム・雲南は, 少数民族が複雑な地形の山 や谷に住み, それぞれ多くの交流がない地域なので, 自然の要因も人間的な要因も多様化選択として充分に働く ことが 考えられること, ③さらに, ことなる起源をもつ系統が出会って自然交配を起こし, その分離の結果生じた多様性もあ 6 ( } りえることを指摘し, ア ジア稲作のアッサム.雲南起源説に対しては否定的見解を示した‐ 次に, 渡部忠世がアッサム・雲南の稲作起源地域を 「原農耕園」 と呼称したことは, 中尾佐助らの農耕文化の系統論 204.

(4) . 社会科古代史教育における稲作文化の教材研究 的研究から提唱された 「照葉樹林文化」 のセンターとしての 「東亜半月弧」 の想定とほぼかさなるものとして意義づけ 7 ( } され て いる.. 中尾佐助の 「照葉樹林文化論」 は, 東アジアの照葉樹林帯 (ヒマラヤ山麓からブータン, ミャ ンマー北部, 中国雲南 省を経て長江流域から華南, 朝鮮半島南端, 日本の関東地方に広がる, カシ類を中心にした常緑樹林帯) には多数の共 通の文化要素が分布していることに注目し, それらの文化要素の共有によって特徴づけられる特有の文化圏域を意味す るものである‐ 中尾の照葉樹林文化論は, 文化人類学・人文地理学等からさらに注 目された. 特に, 照葉樹林帯の中 で, 農耕文化のセンターともいうべき地域として, 中国雲南省を中心にして, 西はアッサムから東は中国湖南省におよ ぶ半月形の地域が設定され, 同地域は西アジアの 「豊かな三日月地帯」 に対応したかたちで 「東亜半月 弧」 と称され 8 ( ) た‐. 9 { ) 照葉樹林文化を特徴づける共通の文化的特色としては, 佐々木高明らによって次のように整理されている‐ ①プレ農耕段階 (照葉樹林型の採集・半栽培文化) 水 さ ら しに よ る ア ク 抜 き 技 法, ウ ル シ の 利 用, ク ズ ・ ワ ラ ビ・ ヤ マノ イ モ な どの 半 栽 培 野 蚕 の 利 用 等‐ , ,. ②雑穀栽培を主とした焼畑農耕段階 (照葉樹林型の焼畑農耕文化) 飲茶の慣行, 漆器製作, 麹酒, 大豆の発酵食品 (ミソ, ナッ トウ等), モチ種の穀物の開発とその儀礼的使用 歌 , 垣, オオゲッヒメ型神話 (殺された女神の死体から作物が発生してくるというタイ プの神話), 羽衣伝説, 等‐ ③稲作 ドミ ナントの段階 (水田稲作文化) 上記の①②の特色の他に, ナレズシづくりの慣行, 鵜飼の習俗, 高床家屋, 等が加わる. 周知のように, 稲作においては, 稲の植物学的な生態・生理に即 した栽培技術や収穫技術のみが単独で機能している のではない‐ 稲作は, 稲作技術をコアにして, 人間社会の様々な文化・習俗等を発生・随伴させつつ展開されてきた‐ また, 稲作 (技術) の伝播にはそうした文化・習俗等も (部分的な変更や修正等が加えられつつ) 同時に伝播されたこ とは十分に推測される‐ そういう点からみると, 照葉樹林文化論とかさなりあう渡部忠世のアッサム・雲南起源説は , 稲作にかかわる様々な文化・習俗等の起源をさぐる点からも, 一つの重要な学説 であるといえる‐ しかし, アッサム・雲南起源説は, 今日の考古学等からみると難点が多い‐ たとえば 雲南で出土・発見された稲モ , ミ遺跡は数カ所にとどま り, かつ, 時代が新しく, 約350 0年前である‐ また, 渡部忠世がイ ンドや東南アジアで収集し た日乾しレンガ混入の古代稲モミは, 紀元前5, 6世紀のものとされている. アッサム・雲南起源説が成立するために は, 次項で検討する長江下流の稲作遺跡年代 (約7 00 0年前) よりも, さらに古い稲作遺跡がアッサム・雲南地域におい て発見されなければならない‐ ( 3 ) 長江下流域起源説 アジア稲作のアッサム・雲南起源説に対しては, 中国の考古学者たちが反論した‐ 陳文華・渡部武編 『中国の稲作起 源』( 1 9 8 9年) に収録された陳文華論文 「中国の稲作起源をめくる諸問題」 によると, 中国の稲作起源地としては 雲貴 , 高原起源説, 華南起源説, 長江下流域起源説, 黄河下流域起源が紹介されているが, 本稿では 近年 日本の学界から , , も注目されている (分子遺伝学~DNA 〈デオキシリボ核酸〉 レベルの遺伝子解析‐ プラント・オパ ール分析など) 長 Q O 江下流域起源説を検討しよう. 中国では, 古い稲作遺跡の7 5%が長江中・下流域にある‐ その中で, 最古の七つの 遺跡のうち, 三つが下流域にあ かぽと. り, 三つが中流域に分布する‐ これらの中で, 新石器時代の稲作遺跡としては, 長江下流域の断江省の河蝦渡遺跡が有 名 で あ る‐. 河婦渡遺跡は, 炭素14年代では約7 00 0年前の遺跡で,1 9 7 3年に発見された‐ そこでは, 四つの重畳文化層 が発見さ れ, 第四層から大量の栽培稲の稲穀・モミ, 稲杵, 稲葉が出土した. その堆積の厚さは2 0~50mもあり, 最も厚いとこ ろはlmにも達していた (推定1 20トン). また, その第四層からは1 7 6点の骨絹 (鋤) が出土した. 河媛渡遺跡の出土稲 らんかかく. は, 和稲と糠稲であり, 和 が6~7割をしめている. また, 断江省では, 羅家角遺跡が発見され 河燭渡出土の稲より , もやや古いジャポニカ炭化米も出土している 卸 河雌渡遺跡出土の栽培稲については, 骨細農具にみられるように, それに至るまでの相当の長期にわたる土を掘り起 205.

(5) . 遠 藤. 芳. 信. Q の こす道具・技術の発展過程が反映されている‐ それ故, その耕作の初期段階はさらにさかの ぼることができる. ただ し, 河婦渡遺跡出土の栽培稲をはじめとして, 長江下流域を稲作起源地とすることについては, 今日, 野生稲が生育し 5度以南に分布しているから ていないことが難点として指摘されてきた‐ すなわち, 現在, 中国における野生稲は北緯2 である (長江下流域は北緯28~32度)‐ これに対して, 揚式挺は, ①土地の高度な開発によって野生稲が消失 したこと (長江下流域では, 紀元前2世紀における耕作技術の整備・発達によって, 野生稲を意図的に除去 したことを文献史料 によって説明), ②近年, 長江下流域でも (江西省郡陽湖南岸), 穣稲型の野生稲が発見された例もあること, ③新石器 時代の長江下流域の古気候は今日の華南地方と同じで, 禾本科植物の成長に適しており, 河姻渡遺跡出土のモミや禾本 科植物の花粉によれば, その大多数は栽培穀類作物であることを根拠にして, 長江下流域における野生稲の分布が確実 Q ① であったことを推測している‐ 他方, 厳文明も, ①中国の古代歴史文献における野生稲の存在記録を検討し, その記録 の8割が長江下流域およびその付近に集中 していること, それ故, 文献記録の野生稲は先史時代の野生稲の遺留とみな してよいこと, ②河姫渡遺跡出土の動物の骨の中には, 象, 水牛, ガンジスザル, ベニガオザルなどが含まれているの で, 現在の華南や熱帯森林に分布する動物が長江下流域に生存していたことがわかること, 同流域の江蘇省北部の連雲. ) が採 港地方では5, 6千年前の沈積物中より仮輪虫 (ウズシラガイ等の有孔虫~現在では東シナ海南部の水域に生 息 集されていること, 等を示し, 過去における長江下流域の気候条件は, 現在, 野生稲が生育する華南等の北緯25度以南 の地域と類似しているので, 同流域において野生稲が繁殖していたことは十分に推測できることを強調した 回 ( 4 ) 新たな長江下流域紀元説 近年, 稲作起源の研究は, 上述したように遺伝子分析やプラント・オパ ール分析等によって, その精級さがきわめら れている‐ これらの分析方法によれば, 長江下流域起源説が有利になり (すくなくとも, 日本に伝播された, 日本型の ジャポニカの稲の起源については), 上述の中国研究者の長江下流域起源説を補強 していることが特徴である. ま ず, 稲 はイ ンディ カ と ジ ャ ポ ニ カ の 二 品 種 に 区分 さ れ る. ジ ャ ポ ニ カ は さ ら に 二 つ の 品 種 に 区 分 さ れ る‐ す な わ ち, 地 理的 な 分 布 の パ タ ー ンか ら は, 温 帯 ジ ャ ポ ニ カ と 熱 帯 ジ ャ ポ ニ カ (ジ ャ ワ ニカ, ジ ャ バ ニ カ と 称 さ れ る こ とも あ. る) に区分される. 現在では, 温帯ジャポニカは, 長江流域一帯, 朝鮮半島, 日本な どの温帯地域に分布する‐ 熱帯 ジ ャ ポ ニ カ は, 大 陸 の 山 地 部, マ レ一 半 島中 部, フ ィ リ ピ ン, イ ン ドネ シア, 台 湾 の 山 地 部, な どの 亜 熱 帯 か ら 熱 帯 に. かけて広範囲に分布する (日本の在来品種としては, 沖縄本島から八重山な どの限定された地域に分布)‐ ’ところで 遺伝子分析からの研究において 佐藤洋一郎は 第一に, 稲の雑種劣性の遺伝子に注目した. 通常, 縁の , , , 遠い品種交配によってできた第一代植物 (FI) は, 両親よりも旺盛な生育を示す‐ しかし, 貧弱な生育を示す極少例 6 0品種とペルー原産のジャ マイ カ も生まれる. 佐藤はこの雑種劣性の遺伝子研究に依拠し, 全国各地からの在来稲の1 品種とを交配させた結果, ① Hwc -2(優性) の遺伝子をもつ温帯日本型の ジャ ポニカ が大部分の約93%を しめ, ② hwc -2(劣性) の遺伝子をもつ熱帯日本型の ジャポニカは約7%を しめ, 全国各地に拡散していることを明らかにした. 2遺伝子をもつ品種 は, 日本, 朝 ‐ 佐藤はさらに, 東南アジア各地の稲の品種における遺伝子分布状況をまとめ, ①Hwc 2遺伝子をもつ品種は東南ア ジア全域に広がっている (特に, 台湾, フィ 鮮半島, 中国大陸北・中部に局在し, ②hwc‐ -2の遺伝子をもち, 梗の品種では リピン, イ ン ドネシア), ③中国の穂・綬品種においては, 袖の品種のほとんどがhwc ‐2遺伝子は中国で生まれた温帯ジャポニカによって運ばれ すべてHwc ‐2の遺伝子をもっているとした‐ この結果,Hwc 2遺伝子は過去のある時期に熱帯ジャポニカによって南方から運 ばれた可能性が高いとした‐ た可能性が高く, hwc‐ 第二に, 佐藤は, プラント・オパール分析によって植物遺体を分析しつつ古代稲作の起源・伝播を研究していた藤原 宏 志 と共 同研 究 し, イ ンディ カ と ジ ャ ポ ニ カ の ケイ 酸 体 を 区別 した. プラ ン ト・ オ パ ー ル と は, 土 壌 学 に お い て, 稲 な. イ酸体) が土中に残留した土粒子である. それによれ ば, イ ンディ カは小型で丸い どの葉に蓄積されたケイ酸の塊 (ケー ケイ酸体をもち, ジャポニカは大型で尖ったケイ酸体をもつ傾向がある. 従来, イ ンディ カとジャポニカは共通の祖先 をもつ栽培稲の二つの品種とか亜種と考えられてきた‐ しかし, 佐藤らの以上のケイ酸体の区別も含み, 多くの形質や O S 遣伝子の組み合わせの区別によって, イ ンディ カとジャポニカは栽培化が始まる以前に分化を開始 し, ま っ たく こと なる 祖 先 か ら 双方 が 生 ま れ, 住 み 分 け して い た こ とが 明 ら か に な っ た‐ そ して, イ ンディ カ と ジ ャ ポ ニ カ の モミ の 形や. 食味などの分化は, 稲が双方に分化した後に加えられた選択の所産であるとされた‐ なお, 藤原宏志の プラント・オパール分析によって, 温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカのケイ酸体も区別され (後者 206.

(6) . 社会科古代史教育における稲作文化の教材研究 は, 前者よりも一回り大きく先が鋭く尖っている), 古代遺跡の水田等が調査された結果, ①平安時代までの水田や地層 には熱帯ジャポニカのプラント・オパールが温帯ジャポニカに混入していること, ②平安時代以後の水田からは熱帯 ジ ャ ポ ニカ の プ ラ ント ・ オ パ ー ル は 発 見 さ れ な か っ た こ と が 明 ら か に さ れ て いる‐ こ れ に よ っ て 古 代 日 本 で は 大 量 , ,. の熱帯ジャポニカが伝播されたことになる‐ 第三に, 佐藤らは栽培稲の起源を探るために, その祖先の野生稲の存在を求め, 河媛渡遺跡から出土した稲を調査し た‐ 野生稲には種子の先端にき (ぼう) と称される長い剛毛があり, その表面を電子顕微鏡で観察すると, 鋸歯と称さ れる長い突起が無数に生えているのが見える‐ 他方, 栽培稲は, 鋸歯があったとしても短く密度が低し・ . しかるに, 河 婦渡遺跡の出土稲を分析した結果, 明らかに長く発達した鋸歯の痕跡が認められる野生稲のきをもつ種子 (また, 野生 Q ◎これによ 稲特有の脱粒性の痕跡が認められる) と, それに類似した種子が混入していることが明らかにされた. って, 河婿渡遺跡地域では野生稲が分布していた 可能性が高く, 野生稲は栽培稲と共存するかたちで生存していたことが推測 される‐. 佐藤洋一郎らの遺伝子分析の研究は, 稲作起源の多元説に立ち, 渡部忠世らのアッサム・雲南起源説のような稲作起 源の一元説と対立している. ただし, 佐藤らの研究は, 日本型の稲 (すなわち, 温帯ジャ ポニカ) の起源が長江下流域 にあるとしたもので, イ ンディ カや熱帯ジャポニカの起源については明確にしていない‐ 日本には, 熱帯ジャポニカの 陸稲性をもつ種類が南方から焼畑方式にのって伝来したのではないかという推測もなりたち, 後述する柳 田国男らの 「海上の道」 による稲作伝播ルート説も新たな視点からクローズアップされる可能性もある ‐ ( 5 ) 藤原宏志らのプラント・オパール分析と稲作起源の研究 今日, 上述したように, 古代稲作の起源・伝播の研究で重要な分析方法になっているのが, プラント・オパール分析 である. プラント・オパール分析法は1 97 0年代以降に開発された‐ 稲作植物はケイ酸植物と称されるように, 根からケイ酸 (S i ) を多く吸収する. 吸収されたケイ酸の大部分は葉の o 2 中にだけある機動細胞とい, う特殊な細胞壁に集中的に沈積する. 機動細胞全体はやがてケイ酸に満たされ, そのケイ酸 の塊はケイ酸体と称される‐ 稲科植物は枯死すると, 土中に埋もれた有機物部分は分解するが ケイ酸体はガラス玉の , ようなもので化学的に安定し, 長期間土中に残留し, 土粒子の一部を構成する‐ ところで 葉の中にだけある機動細胞 , とそのケイ酸体は植物の種に固有の形状をもち, したがって, プラント・オパールも種固有の形状をもつことになる ‐ それ故, プラント・オパールの形状を見れば, 過去にどのような植物が生育していたかがわかる‐ すなわち プラント , ・オパール分析法は, 稲科植物のケイ酸の性質を利用したもので, 過去に堆積した土壌中に含まれるプラント・オパー ルを検出し, 堆積時の植生や栽培植物種を復元.判別する古代植生分析法である‐節 プラント.オパ ールは土器片にも 含まれる. すなわち, 土器は土を材料にしてつくられるが, その材料土からプラント・オパ ールを分離・検出すること ができれば, その土器の製作以前にプラント・オパールが確実に生産されたことになる (「土器胎土分析法」 と称されて いる)‐ 土師器以前の土器の焼成温度 は6 00~800度とされているが, プラント・オパールは1 00 0度以下の温度では溶解 する こと はな い と さ れ て い る‐. 藤原宏志らは以上のプラント・オパール分析によって, 第一に, 熊本県上南部遺跡から発掘された縄文晩期初頭の土 器胎土から稲のプラント・オパールを検出した‐ 同遺跡は河岸段丘上に立地し, 近年の水田造成工事に関連して調査さ れた遺跡であり, 造成前は畑地であった. したがって, 同遺跡で検出された稲は焼畑のような畑作で栽培された可能性 が強いと指摘されている‐ 第二に, 青森県垂柳遺跡の発掘調査に先行して行われたプラント・オパ ール分析の結果 弥 , 生時代の土層から大量の稲を検出した. その後の発掘調査では, 弥生時代中期の水田祉が発見された かくして 弥生 ‐ , 時代における水田稲作は東北地方北部にまで及んだことが確認されたことになる‐ なお 宮崎県え びの市の桑 田遺跡 , (弥生時代初期の遺跡. 縄文時代とみる説もある) では, 熱帯ジャポニカのプラント・オパールが多いとされている ‐. m. 日本への稲作伝来について. ( ) 稲作の伝来とそのルート 1 q 葛稲はもと 日本における稲作はどのようにして発生したのだろうか‐ 今日, 稲作の日本自生説はまったく少数である‐ 207.

(7) . 遠. 藤 芳 信. もと亜熱帯性の植物であるから, 原始・古代に日本に野生稲として分布していたことはほとん ど不可能である‐ それ 故, 今日まで, 稲作伝来説が学界の大多数をしめてきた. まず, 第一に, 稲作伝来の機会としては, 永井威三郎が示した古代における新しい作物 (種子を主とする) の導入の 機会例が参考になる‐ すなわち, ①偶然の自然力で運 ばれる (風, 海流, 動物や渡島の糞中に混入して遠隔地に伝搬さ れる), ②旅行者やその荷物に付着・混入して伝搬される, ③漂流民によって伝えられる, ④民族の移動, 民族間の闘争 及び侵略によって行われる. ⑤移民.渡来人によって導入される, である 岬 永井は, 日本への稲作伝来は②③⑤が考えられるとし, しかも, それは異なる地域から何回も行われたと指摘してい る. 今日では, 中国大陸の争乱を重視する視点から④も有力視されている‐ 日本への稲作伝来は (特に水田), 偶然的・ 自然的機会と手段によって行われたのではなく, 意図的・人為的に行われたとみるべきだろう- 、 それは①縄文晩期・後 期に北九州に伝来されてから, 弥生時代に東北地方北部に拡大されるまでに長期間を要 しなかったことが解明されてい ること (栽培技術の意図的なわかち伝え), ②北九州の板付の縄文晩期の水田では, 整然とした大畦畔・小畦畔で区画さ く し ・. d以上), また, 大畦畔の両側には杭と矢板が打ちこまれているなど, 完成度が高い技術の意図 0 れ (水田の-区画は50 I 的な向上・改善や水田管理制御システム (人工的な水路の掘削, 井堰, 水量調節用の柵をもつ取排水口をもつ) がみら れること, ③稲作はたんに稲の植物学的生理にもとづく栽培技術のみが機能しているのでなく, 稲作に固有の習俗・祭 記・信仰・儀礼等の形而上学的文化が随伴しつつ営まれていること, かつ, 各地の稲作地においてはそうした固有の諸 文化の共通性がみられることによって, 稲作が意図的に伝来し, 拡大したことがわかる‐ 第二に, 稲作伝来のルートはこれまで主に三つの説が考えられてきた. すなわち, ①華北あるいは黄河・准河流域を 起源とするもので, 山東半島・遼東半島・朝鮮半島を経由して北九州 に伝来したルー ト (北方説‐ 浜田秀男の旧説な ど), ②長江下流の江南・華中を起源とするもので, 朝鮮南部を経て北九州に伝来し, あるいは直接に北九州に伝来 した ルート (江南説‐ 安藤彦太郎に代表される), ③華南から台湾・沖縄・南西諸島を経て南九州に伝来 したルート (南方 説‐ 柳田国男に代表される), である. いうまでもなく, アジアにおいて, 日本は稲作を最も遅く受け入れた地域であるので, その伝来ルートは多様なもの が想定されなければならない‐ ところで, 今日, 日本で発掘されている縄文晩期の稲作遺跡は完成度が高いものがある おいて, 稲作技術の諸々の改良段階を示す遺 (水田の管理等). そういう点では, ①のルートは, その途中の中継地点に、 跡等が発見されてしかるべきだが, その発見はない. かつ, 華北や朝鮮北部は雑穀や麦作の中心地帯なので, 難点が多 い. さらに, 西日本の稲や江南の稲の大多数は, 短日性の強い晩生品種とされている‐ それ故, 朝鮮北部のような夏の 日長が長く, 気温が低い地域では晩生品種の栽培 は困難であると考えられる‐ すなわち, 朝鮮北部の経路をたどるなら わせ. ば, 晩生から早生に, そして, さらにその早生から晩生へと再度変化させなけれ ばならず, それは植物学上からは考え られないとされている 御 今日, 日本への稲作伝来ルートとして最も重視されているのが②の江南→北九州説である‐ ②は, 考古学や中国古代 文献等にみられるように, 「倭」 と称されていた古代日本と江南・華南地方の文化・習俗等の近似が明らかにされてお り, 江南・華南からの文化の影響と人間の渡来は明確である‐ ③は, 柳田国男が南方からの黒潮に運ばれて流れついたヤシの実を見て直観的にひらめいた説で, ロマン豊かなもの である. ただし, これまでの考古学上では, 沖縄等の南西諸島には古代の稲作遺跡 が発見され でいない等の難点 があ る. しかし, 佐藤洋一郎が指摘した, 古代日本の稲作における熱帯 ジャポニカの混入状況からみると, 南方説が完全に 崩れることにはなっていない. それどころか, 近年の新しい言語学等の研究においては, 南方説が重視されている. たとえば, 埼山理は, ベルウッ ドの研究に依拠し, 原イ ンドネシア語派がニューギニア島の北部を東漸したのは紀元 前4 0 00~3 00 0年頃と推定されるとし, 日本列島に最も古く渡来 した民族はこの分派で, 時期は縄文時代中期 (紀元前 3000年 頃) 以 降に な る と した‐ そ して, ニ ュ ー ギ ニ ア 島 付近 か ら北 上 した 原イ ン ドネ シア 語 は, ニ ュ ー ギニ ア 島 お よ び. その周辺のパプア諸語と接触し混合した結果, 日本語と同じ 「主語-目的語-動詞」 型の構造をもっていた可能性があ ることを指摘した‐ 次に, 埼山は, オーストロネシア語族は縄文時代後期に波状的に日本列島に渡来したと指摘した‐ そして,「ヨネ期」 と称することができる縄文時代晩期~弥生時代初期においては, ①日本語のヨネ (米) は, 原オース )の 「砂」 に 由 来 して い る こ と, ② な ぜ な ら, 南 西 諸 島か ら西 日 トロネ シア 語 qenay(henay ) one , 原 オ セ ア ニ ア 語 qone(. 本にまで移動し, すでに定住していたオーストロネシア語族が, 縄文晩期に伝来した稲の穀実を 「砂」 にみたて, 比喰 208.

(8) . 社会科古代史教育における稲作文化の教材研究 的に命名 したこと, ③稲をもたらしたのはオーストロネシア語族であったか否かは言葉上だけからは判断できないが, 上述の佐藤洋一郎の研究 (熱帯ジャポニカの伝来) を加味すれば, オーストロネシア語族によって熱帯ジャポニカ がも め たらされた可能性があること, と指摘した窪 以上のように, 言語学的研究からのオーストロネシア語族の渡来論は, 佐 藤洋一郎らのジャポニカの二つの起源説と重なりあうものがある. この場合, 以上の南方からの人間の渡来は (江南・ 華南からの②のルートも含めて), 海上交通の条件をクリアーしなければならないことはいうまでもない‐ しかし, 近年 における古代航海学の研究においては, 古代日本をとりまく海は文化の流れの障害ではなく, 東 シナ海を は じめと し て, むしろ, ハイウェィ ーであったことが立証されている 鴎 それ故, 古代の日本列島をとりまく海上交通の条件は, 人 間の移動を旺盛に展開させたものと考えられる‐ 第三に, 今日, 日本への稲作伝来は, 古代東アジア全体の文化の展開と交流との関係で明らかにされている‐ この場 合, 特に研究がすすめられたのは, 「倭」 「倭人」 「倭国」 の概念とカテ ゴリー化である. まず,『麓志』 「東夷伝」 において,「倭」 と 「倭人」 が意図的な区別のもとに記述されていることを指摘したのは, 松 本清張である. すなわち, 松本は, ①南朝鮮の海峡沿岸一帯 (現在の慶尚道から全羅道まで) に, 倭と称される種族が 存在し, 海峡を東に越えた日本列島 (特に北部九州) にも同じ倭種が存在していた, ②しかし, 著者の陳寿は, 双方を 同じ 「倭」 と記述することは読者に混乱を与えると考え, 著者の 「題名は国土名→その国土名は本文中の冒頭に重ねて 書く」 という統一記述体裁の原則のもとに, 南朝鮮の倭をたんに 「倭」 と表記し, 日本列島の倭を 「倭人」 と表記する ことによって双方を区別した (すなわち, 「倭人」 は 「倭国」 と同一), と指摘した 脚 他方, 井上秀雄は, 『論衡』 や 『後漢書』 「鮮卑伝」 等に依拠して, 第一の倭としての住地を中国山東省南部から江蘇 省北部に求め, 第二の倭としての住地を遼寧省西部ないし内蒙古東部に求めた 回 しかし, 井上説に対しては, 依拠する 文献史料の信懸性を考慮していない点からの批判が多い 鰯 なお, 江上波夫は,「倭人」 が, 満州南部や沿海州南部を領有 していた燕の南に接して住んでいたとしても, その 「倭人」 が古代日本に江南から水稲農耕文化をもってきた倭人と同 一であるかということについては疑問であると述べている 国 ただし, 瀬川芳則は, 燕は秦に滅ぼされるが, 燕周辺の倭 人集団が戦国時代の終り頃の動乱を避けて, 縄文時代の終期頃の北九州付近に移動したとすれ ば, 焼畑による陸稲栽培 を導入させた可能性があると指摘している 卸 今日, 古代における東アジアの非漢民族 (特に東シナ海沿岸付近の,「中華」 の国の外に住む) の文化全体のにない手 を解明する時に, 「倭族」 という用語を提唱しているのが鳥越憲三郎である‐ 鳥越によれば, 「倭族」 とは稲作を伴って 日本列島に渡来した倭人 (つまり弥生人) と祖先を同じくし, また同系の文化を共有する人たちを総称した用語とされ る. そして, この 「倭族」 の文化的特質は, 水稲栽培とそれに必然的に付随した高床式の住居と穀倉を有していること 0 にあると指摘した 園 鳥越は, 紀元前1 00年の周王朝の記事を記録した 『論衡』 の中の 「周時天下太平にして, 越裳, 白 ちょうそう. 難を献じ, 倭人, 智 卿 を貢す」 (壱卵は香料として黍酒に入れるもので不老長寿の妙薬とされ, 山地に生える万年茸の 一種) という記事に注目し, 当時の倭人の居住地が山地性の環境にあるとした‐ そして, 『史記』 などの文献によって, てん. き上うと. ずい. し. さく. 長江本支流の上流域を中心に, 現在の雲南, 四川, 貴州の各省にかけて多くの倭人の王国 (濃, 耶都, 鷺, 徒, 棒, ぜん ほう しょく は こんめい しょらん やろう 号, 馳, 濁, 巴, 昆明, 且蘭, 夜郎など) があったことを示した‐ 以上の倭人が同地域から各河川にそって東アジア・ 東南ア ジアに移動分布し, その中の一団は長江を通じて東方に移動し(長江下流域へ), さらに朝鮮半島中・南部を経由 して日本列島にまでたどりついたのが, 日本の弥生人 (すなわち, 倭人) であると した‐ ただし, 鳥越の 「倭族」 論 は, 倭族 が朝鮮半島中部にも上陸・移動したと述べる点では井上秀雄と重複するものがあるが, 古代東アジア世界の中 国江南・華南, 朝鮮南部, 日本の文化の共有性をさぐる点では重要な視点といえる.燭 いずれにせよ, 古代日本の稲作伝来は, 江南地方やその沿海民と密接な関係・交流をもって展開されたことはいうま でも な い‐. W. 稲作儀礼としての大嘗祭. 1 9 89年1月の昭和天皇の死去後, 1 9 9 0年1 1月22~23日にかけての平成天皇の大嘗祭挙行によって, 大嘗祭の概要は広 く知られるようになった. しかし, 大嘗祭の本質や核心の部分については不明確なところが多い‐ これまで, 大嘗祭に 雲どこおふすま ついては, 民俗学や古代史学等から, ①真床追会説と先帝同袋説 (折口信夫に代表される), ②服属儀礼説と性的儀礼説 209.

(9) . 遠. 藤 芳. 信. (岡田精司に代表される), ③陰陽五行説 (吉野裕子に代表される), ④遊牧騎馬民族の王やシャーマンの就任式説, 等 からの解明が行われてきた‐ 以上の④を除く①~③の視点は, 大嘗祭 (の構成要素) に類似の儀礼が東南アジアに見られないとするならば, 大嘗 祭自体は反面において, 日本独自の儀礼あるいは (古代) 天皇制独自の儀礼として位置づけられることになる‐ たしか に, ①~③は, 各々の視点にもとづく根拠があり, 重要な説であるが, 古代史教育を古代東アジア世界全体に視点をお いて展開する立場に立つならば,「一国史観」 に閉じられている印象をうける (③は陰陽五行思想の論理が導入されてい るとするものだが, 陰陽五行思想を生んだ古代中国自体には, 大嘗祭に類似の儀礼は, 現在のところ, 見あたらない)‐ ところで, 大嘗祭の成立・始源を東南アジア (諸島) の稲の収穫儀礼との関係で解明しようとしたのが, 谷川健一や 工藤隆である. 谷川らは, W・W・スキートの 『マ レイの呪術』 に掲載されているマライ半島セラソゴール地方の収穫 儀礼 (初穂儀礼) を紹介している (三品彰英訳出). すなわち, 「収穫儀礼の当日には躯女が五人の女を伴って 田の所有者とともに田に出かけ 前も っ て定めておいた 『母穂 , , 束』 から 『稲魂』 を納め取る行事をおこなう. まず一個の卵形の龍と三個の米寵が用意される‐ そのうち前者は 『米 の嬰児』 と呼ばれる稲魂の容器として使用される. 魔女は各種の呪物の助けを借りて, 稲魂の宿っている稲穂七本を 切取って採色した糸でくくり, 白布で包んでそれを魂龍に納め込めるが, その際, 魂龍には鶏卵や石などが添えられ る. もちろんこの時, 散米や焼香などの呪儀を伴う. 次にこの魂寵を渡された一人の女は, 天蓋のような日覆いを もってその魂龍を蔽い, それに日光を直接当てないように注意して家に帰る. 実際この日覆いがなく ては 『米の嬰 児』 を家まで伴って帰ることができないのである. それから, 別の三人の女は服女の教えに従い, 太陽の方に向って 稲を刈り取り (特にその上に影を落とさないように注意する), 三個の米龍を満たして同じく家に帰る‐ 家では主婦が 魂龍を迎え, その首尾を聞き, 散米してこれを受け取り,『米の嬰児』 を魂龍に入れたまま寝室に伴い, 枕の用意して むLる ある寝具用の 錘 の上に安置する. それから他の三個の米寵も簾の上に順々に配列し, 規定の呪儀をおこな っ てから おお. 白布を掩いかけておく. このようにして後, 主婦は三日の間, 彼女が産裾にある時に守らねばならないのと全く同じ タブーを厳守する‐ この三日が過ぎた後, 三個の米龍の稲穂を取り出して日にさらし, 玄米として煮て, 人々が集っ て新嘗の会食をする‐一鋤 とされている. そして, 谷川は三品と同様に, 初穂儀礼の行事としては, ①母穂から得た稲魂がまったく出誕したば かりの嬰児として観想され, 特にその儀礼的取り扱いにおいて, 嬰児のように寝具の上に奉安されること, ②一方, 収 穫儀礼を司祭する主婦は産婦として出産擬態を演じ, 稲魂である出誕したばかりの嬰児の母としての立場にあること, ③一同が新穀を会食すること, の三点に要約されるとした. 以上にもとづき, 谷川 は, 折口信夫が天孫隆臨神話には 「ま どこ ・ おふす ま」 の 儀 が反 映 さ れて いる と した 解 釈 に 対 して そ の 内 実 は タ カ ミ ス ビが 「ま どこ ・ お ふ す ま」 に , ,. くるんでホノニニギを天降りさせたということは, 殻霊 (稲魂) であるホノニニギー(豊かに熟した稲穂) を日覆いして 田から家に持ち運び, それを寝具にくるみ, その家の主婦が添寝をしたということを象徴的に表現しているものに相当 側 すると指摘した. すなわち, 古代日本の新嘗祭の物忌みの儀礼は, もともとは主婦の稲の初穂を生まれたばかりの赤ん ぼに見立て, 寝具の上に置いて添寝をし, 夜をすごすということが推測されるとした‐ 他方, 工藤隆は, 同様に上記の W・W・スキートの収穫儀礼の紹介に注目し, 躯女 (サカッコ), 稲穂 (神聖な稲), 稲穂を納める行事 (抜穂), 寝室 (大嘗殿内陣), 寝具用の ござむしろ (白端御帖), 白布′(袋), 枕 (板枕), 等々の平安朝大嘗祭の重要要素がほとんど あらわれているとした 幽 谷川健一の指摘によれば, 収穫儀礼・初穂儀礼における稲魂信仰等は奄美大島・沖縄, マライ地方, スマトラ, ジャ ワ, バリ島等に多くみられるとされる. 本稿mで述べたように, 稲作では, たんに稲の植物学的生理等にもとづく栽培 技術や水田管理技術のみが機能しているのでなく, 習俗・祭記・信仰・儀礼等の形而上学的な文化が随伴しつつ営まれ ている. それ故, 古代の新嘗祭・大嘗祭に, 谷川・工藤らが注目した収穫儀礼における稲魂信仰が反映されているとす るならば, それらの儀礼・信仰は稲作 (技術) の伝来とともに東南アジア諸島部から伝来してきたとしなければならな い. このことは, 熱帯ジャポニカの起源地として想定されはじめている南方があらためて注目されなければならないこ とが意味される‐. 210.

(10) . 社会科古代史教育における稲作文化の教材研究 V. 稲作伝来と古代日本人の形成. 佐藤洋一郎や藤原宏志らが, 遺伝子分析やプラント・オパール分析によって, 日本の在来稲としてのジャポニカを , 温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカの二つに区分し, 後者の熱帯ジャポニカの起源を南方に求めたことの意義は非常に大 きいといわなければならない‐ これは, 大まかにいえば, 年代のズ レはあるが, 埴原和郎らの自然人類学研究の視点に よる日本人形成の 「二重構造モデル」 と部分的には整合する論理を含んでいる 回 埴原和郎の 「二重構造モデル」 とは, 第一の構造として南アジア系の人 (南方系モン ゴロイ ド) が日本人の土台にな り, その後に第二の構造として北アジア系の人 (北方系モンゴロイ ド) が日本にやってきて, 先住の南方系の人とま じ りあいつつ現在の日本人を形成したという考え方である‐ すなわち, 南方系の人は縄文以前の旧石器時代から日本列島 に広く住みついて縄文人を形成し, 弥生時代以降, 北方系の人がまず北九州・西日本に上陸し, 稲作・金属器をもって 東漸し, 特に近畿に多く住み, 小国家から大和政権・日本国を形成していくという考え方である‐ その結果 先住土着 , の南方系の縄文人は, 畿内や日本列島中央部からしだいに遠ざけられ, 移動を余儀なくされ, 遠隔地の東北・北海道や 南九州・沖縄に住み分けさせられていくことになるとともに, 境界地では徐々に融合・混血することになったとされて いる‐ と ころ で, 南 方 系 モ ン ゴ ロイ ドは 旧モ ン ゴロイ ドと 称 さ れ 北 方 系 モ ン ゴ ロ イ ドは 新 モ ン ゴ ロ イ ドと 称 さ れ る , が, も と も と は, 双方 と も に 後 期 旧石 器 時 代 にス ソ ダ ラ ン ド (ア ン ダマ ン 島 ル ソ ン 島 ミ ン ダ ナ オ 島 マ レー 半 島 , , , ,. 等の総称) やその周辺地域に住んでいた原モンゴロイ ドを祖先とするものである‐ すなわち 約2万年前の後期 旧石器 , 時代に原モン ゴロイ ドの一部が移動し, 中国大陸を北上し, 東部シベリアまでに居住 したのが新モ ン ゴロイ ドであ る (一部はさらに陸続きになっていたベーリング海峡を渡り, アメリカ大陸に達する). 新モンゴロイ ドは寒冷地に適応し た形質を形成したとされる (面長, 頬骨が張りだした凹凸に乏しい扇平な顔など). 埴原和郎の 「二重構造モデル」 における縄文人原型を南方系モンゴロイ ドに求める考え方は 埴原恒彦によってさら , に深められている 国 すなわち, 東南アジアの島岐部に位置するス ソダランドにはネグリトと称される採集狩猟民がい る. ネグリトは, 形質人類学的研究によれば, 東南アジアの最古層集団とされている. 埴原恒彦は 東南アジアの基層 , 集団は, ネグリトのような形態学的特徴 (熱帯降雨林の環境適応の過程で 身体の華著化や小型化がすすむ) をもって , 独自に進化してきたと考え, そして, その進化過程において基層集団の一部が縄文人へとつながっていったと推測して いる‐. 埴原和郎や埴原恒彦の研究は, 縄文人の祖先をスンダランドやその周辺に住んでいた原モンゴロイ ド (古アジア人 , 原アジア人) に求めるものである‐ この場合, 埴原和郎における弥生人が稲作をもたらしたとする指摘は 今日 縄文 , , 晩期における水田稲作遺跡の発見等をかさねあわせると, 時期的にはズレが生ずる‐ ただし 縄文人を構成する人々が , 数波にわたって渡来し, その比較的に後期の渡来者集団が稲作 (特に 熱帯ジャポニカ) をもたらし あるいはその稲 , , 作以前の段階としての焼畑農耕, 雑穀, 根栽培をもたらすというケース (狩猟採集型の縄文人は日本列島東北部に追い あげられる) を想定すれは, 整合する.. W 中学校歴史的分野教科書における稲作文化の記述について 最後に, 本稿で考察してきた稲作文化の研究動向を考慮しつつ 中学校歴史的分野教科書 ( 9 1 92年文部省検定,1 99 3 , 年度使用) における稲作文化の記述を検討しておこう 脚 第一に, 人類史における農耕と牧畜の開始期の中で, 農作物の原産地・起源地 (伝播ルート) が記述されている そ ‐ の中で, 主な農作物の原産地として, 教育出版・大阪書籍・東京書籍・清水書院は 中尾佐助著 『栽培植物と農耕の起 , 源』 ( 1 9 66年) に掲載された根栽農耕文化 (サトウキ ビ, タローイモ ヤムイモ バ ナナ) 地中海農耕文化 (オーム , , , ギ, エ ン ドウ, ビー ト, コ ム ギ), サ バ ンナ 農 耕 文 化 (サ サ ゲ シ コ ク ビ エ ヒ ウ タ ン ゴ マ) 新 大 陸 農 耕 文 化 ョ , , , , (ジ ャ ガイ モ, 菜 豆, カ ボ チ ャ, トー モ ロ コ シ) の 発 生 地 と 伝 播 ル ー トのイ ラ ス ト (汎 ~ W) を 紹 介 して い る そ の 場 .. 合, 原書の同イラスト自体には稲が記述されていない. しかし 原書の本文自体には 第V章に 「イネのはじまり が , 」 , 収録され, 中尾がアジア原産の稲の原産地はイ ンド東部であると記述していることにもとづき ( 1 1 6 1 上記 ~ 1 8 ) 四 p p ‐ , 社の教科書はアジアの稲の原産地を, イ ンド東部 (教育出版, 東京書籍 清水書院) ・中国雲南 (大阪書籍) 地域のイ , ー. ・. 211.

(11) . 遠. 藤 芳. 信. ラストに記述している. すなわち, 稲作の起源地としてはやや古い学説にもとづいているが, 稲の起源地を忘れなかっ たことは評価されるべきだろう. なぜなら, 日本書籍は中尾佐助の原書のイラストをのせているが, 教科書の同イラス トには稲の起源地が脱落しているからである‐ 農耕の開始, すなわち, 栽培の開始としての野生の植物の利用は, 日本書籍・教育出版・大阪書籍・東京書籍・清水 書院が記述しているが, 最も注目されるのは大阪書籍である‐ すなわち, 「中国の奥地などで稲の栽培を始めた人々は, 長い年月をかけて, 稲がいっせいに出そろうもの, 風がふいても実が落ちないものを選びぬいて育てま した‐ こう し て, 人々は, 親から子へ, 子から孫へと, 何十代も何百代もかかって, 野生の植物を人間が利用しやすい作物に変えて いったのです‐ 」 と記述しているが (下線は遠藤), 脱粒性等をもつ野生植物の ドメスティ ケーショ ン (栽培化) の特徴 を比較的適切に説明している. 第二に, 日本における稲作の開始の記述がある‐ この場合, 稲作伝来のルート (推定) としては, 地図・イラストに おいて, ①華北・北朝鮮経由のルート, ②江南→ (朝鮮南部) →北九州のルート, ③山東半島→朝鮮北部→朝鮮南部→ 北九州のルート, ④華南→南西諸島→南九州のルート, を記述しているのが日本書籍である. 帝国書院 (稲作起源地を 雲南におく) ・中教出版は②③が中心であり, 大阪書籍は山東半島から遼東半島・朝鮮半島北部経由を記述している‐ ただし, 東京書籍は本文で, 大陸 (主に朝鮮半島) →北九州へのルートを記述し, 教育出版は欄外注記で, 長江流域→ (朝鮮南部) →北九州のルートを記述している‐ 以上のように, 多様なルートを記述しているが, 本稿で考察してきた ように, 各々のルートの根拠や意義が理解されるように指導する ことが重要である. なお, 中教出版を除く 七社の教科 書は, 北九州への稲作伝来はまもなく東北地方・東日本にま で広がったことを記述している‐ 以上の稲作伝来ルートについては, 稲作の技術やそれにともなう祭能・儀礼・習俗等の知識のみが単独で伝来したの か, それとも, それらの技術や知識をもった人々が渡来・移住して伝播されたのかを理解させる必要がある. その点で は, 後者の視点を強調しているのは日本書籍 (水稲栽培が, 大陸・朝鮮半島からの人々の移住とともに伝わる), 帝国書 院 (大陸・朝鮮半島からの移住), 大阪書籍 (朝鮮半島南部や, 中国南部から移住) である‐ 特に注目されるのは, 大阪 書籍であり, 「このころの中国では, 鉄器の普及によって生産が高まり, 統一にむけての戦争がくり返された時代で し た‐ この東アジアの激動が, 人々の移動をひきおこしたのでしょう‐ この後, 何度にもわたって朝鮮半島や中国南部か ら, 稲作を行う人々が日本へわたってきたと思われます. 」 と記述していることは, 日本への稲作伝来を東ア ジアの歴史 全体から位置づけて説明していることは特記される‐ 第三に, 日本における稲作の開始期と弥生文化との関連の記述がある. すなわち, 日本書籍 (板付遺跡, 低湿地利用 水田, 石 ぼうちょう, 鉄製農具, 稲貯蔵の高床式倉庫), 教育出版 (湿地利用水田, 石 ぼうちょう, 高床式倉庫, 鉄製農 具), 帝国書院 (湿地利用水田, 鉄製農具, 高床式倉庫, 稲作祭鵡用としての銅鐸の使用), 中教出版 (低湿地利用 水 田, 石 ぼうちょう, 高床式倉庫, 一部における鉄製農具の使用, 農業の共同作業の指導者や稲作祭記の指導者の出現), 大阪書籍 (高床式倉庫, 石 ぼうちょう), 東京書籍 (高床式倉庫, 水田じかまき, 石 ぼうちょう, 農業共同作業の指導者 や稲作祭記の指導者の出現), 学校図書 (湿地利用水田, 水田じかまき, 石ぼうちょう, 鉄製農具の使用, 高床式倉庫, 農業共同作業の指導者と稲作祭記の指導者の出現), 潜水書院(高床式倉庫, 農業共同作業の指導者や稲作祭記の指導者 の出現), の記述がある‐ これらによって, 稲作をめぐる栽培・収穫・貯蔵や農業土木工事等の技術と, それらをめく る 人的管理関係や祭記・儀礼等が理解されることが重要である‐ なお, この時期における稲 (米) の収穫量を示すことが重要である. その点では, 日本書籍は 「米の収穫量 が少な かったので, 麦などの栽培やどんぐりな どの採集もたいへん重要な仕事であった‐ 」 と記述していることは特筆される. すなわち, 稲作単一栽培の理解に終わらせないことに留意すべきとともに, 食糧としての米の貴重さに注目させること が重要である.. (注) 99 2年2 2巻第2号, p‐220,1 ( 1 )( 2 ) 拙稿 「社会科古代史教育における古代中国思想の位置づけ」 北海道教育大学紀要第一部C, 第4 月. 3 ) 渡部忠世 『稲の道』 p. 6,1977年, 日本放送出版協会‐ (. 212. ..

(12) . 社会科古代史教育における稲作文化の教材研究 は) 渡部忠世 『アジア稲作の系譜』 p.18 ,1983年, 法政大学出版局‐ 3年, 講談社, 参照‐ 99 ( 5 ) 佐々木高明 「日本文化の起源を考える」 佐々木高明・森島啓子編 『日本文化の起源』 p‐29,1 2‐ ( 6 ) 森島啓子 「遺伝学と系統論」 同上佐々木高明・森島啓子編, p‐6 69年, 中公新書‐ 上山春平・佐々木高明・ 66年, 岩波新書. 上山春平編 『照葉樹林文化』19 ( 7 ) 中尾佐助 『栽培植物と農耕の起源』 19 5年, 中公新書‐ 76年, 中公新書‐ 上山春平・渡部忠世編 『稲作文化--一照葉樹林文化の展開』198 中尾佐助 『続・照葉樹林文化』 19 2年, 日本放送出版協会‐ 佐々木高明 『日本文化の基層を探る--ナラ林文化と照葉樹林文化』 佐々木高明 『照葉樹林文化の道』198 19 93年, 日本放送出版協会. ( 8 ) 注( 7 )の 上山春平・佐々木高明・中尾佐助 『続・照葉樹林文化』 p‐ 5‐ ( 9 ) 注( 5 )の 佐々木高明 「日本文化の起源を考える」 p.16 ‐ Q の 陳文華 「中国の稲作起源をめ ぐる諸問題」 陳文華・渡部武編 『中国の稲作起源』1989年, 六興出版‐ なお, 最近では, 約8000年前の湖南省影頭山遺跡が発掘され, 同遺跡から炭火水稲穀粒とモミ が発見された‐ 王金林は, この稲穀 とモミが栽培稲か野生稲かという疑問があるが, 出土した土器の泥料の中にモミと稲穀が混入していた状況を見て, 栽培稲が存在し 92年, 学生社)‐ ていたものと推定している (王金林 『邪馬台国と古代中国』 p‐34 ,19 6~98注回の陳文華・渡部武変編収‐ ⑩ ⑩ 楊式挺 「考古発見から見た中国栽培稲の起源, 変遷とその伝播」 p‐88,pp‐9 「 59~164 側 厳文明 中国稲作農業の起源」 pp‐1 , 注側の陳文華・渡部武編所収‐ 回. 5 )の佐々木高明・森島啓子編所収‐ なお, 86 7~189注( 鰯 佐藤洋一郎 「遺伝学からみた稲の伝来と稲作文化の受容」 p‐1 p‐18 ,p 『 裳書房 一郎 1 9 9 2 年 参照 稲のきた道』 佐藤洋一郎の研究は, 佐藤洋 . , , 3年1月号,pp 3~1 4, 朝日新聞社‐ ◎ 藤原宏志 「日本の稲作のルーツは揚子江流域」 『科学朝日』 199 .1 77年, 吉川弘文館‐ ◎ 鋳方貞亮 『日本古代穀物史の研究』 19 59年, 至文堂‐ 回 永井威三郎 『米の歴史』pp‐73~74 ,19 鋤 注( 鞠の佐藤洋一郎 「遺伝学からみた稲の伝来と稲作文化の受容」 p‐ 176‐. 鰯. 御. 埼山理 「日本語の系統とオーストロネシア語起源の地名」 埴原和郎編 『日本人と日本文化の形成』pp‐73~81‐ 1993年, 朝倉書 38,1979年, 三一書房, 参照‐ また, 渡部忠世は,『稲の大地』 35~1 店‐ なお, 村山七郎‐国分直一 『原始日本語と民族文化』pp ‐1 ( 1993年, 小学館) において, 南方説を再検討 し, 日本稲作の 「オーストロネシア的要素」 (マレー・ポリネシア民族圏の稲作の要. 素) も重視している. 2年, 小学館, 原著は1979年‐ ◎ 茂在寅男 『古代日本の航海術』 199 86年, 講談社文庫, 参照‐ 園 松本清張 『清張通史1 邪馬台国』pp‐59~68,19 『 関 井上秀雄 倭・倭人・倭国』pp‐64~66,19 91年, 人文書院‐ 鰯 注QDの王金林著, p.17 2 岡 『江上波夫著作集』 第8巻,p p‐144~145 ,1984年, 平凡社‐ 「 鋤 瀬川芳則 稲作農耕の社会と民俗」 森浩一他 『稲と鉄』 日本民族文化大系3,p 54~1 55 p‐1 ,1983年, 小学館‐ 園 鳥越憲三郎 「倭族と古代日本」 諏訪春雄編 『倭族と古代日本』 p‐ 7,1993年, 雄山閣‐ 鰯 鳥越憲三郎 『古代朝鮮と倭族』 p‐1 5な ど‐1992年, 中公新書‐ 『 ◎ 岡 谷川健一 大嘗祭の成立』pp‐20~21より重引,pp‐21~23,19 90年, 小学館. ◎ 工藤隆 『大嘗祭の始源』pp‐196~19 8,19 90年, 三一書房‐ 惨 め 埴原和郎 「日本人集団の形成」 注御の埴原和郎編 『日本人と日本文化の形成』 所収, 埴原和郎 「日本人の形成」 埴原和郎編 『日本 人新起源論』1990年, 角川書店‐ 埴原和郎 「人骨から見た日本人の起源」 文芸春秋編 『古代日本史最前線』 19 93年, 文春文庫‐ め 埴原恒彦 「東南アジアと太平洋地域の人類史と日本人の起源」 注隣の埴原和郎編 『日本人と日本文化の形成』 所収. 惨 惨 ① 検討した中学校社会歴史的分野教科書は, 児玉幸多他 『中学社会 歴史的分野』 日本書籍, 笹山春生他 『新版中学社会 歴史』 教 育出版, 佐々木銀弥他 『社会科 中学生の歴史』 帝国書院, 大瀧徹也他 『中学生の社会科 〔歴史〕』 中教出版, 熱田公他 『中学社会 〈歴史的分野〉 』 大阪書籍, 川田侃他 『新しい社会 歴史』 東京書籍, 加藤一郎他 『中学校社会 歴史』 学校図書, 山口岳志他 『中学 校社会科 歴史的分野』 潜水書院, の八社である‐ (1994年 2月10日 脱 稿) (本 学 教 授. 函 館 校). 213.

(13)

参照

関連したドキュメント

突然そのようなところに現れたことに驚いたので す。しかも、密教儀礼であればマンダラ制作儀礼

わかりやすい解説により、今言われているデジタル化の変革と

あれば、その逸脱に対しては N400 が惹起され、 ELAN や P600 は惹起しないと 考えられる。もし、シカの認可処理に統語的処理と意味的処理の両方が関わっ

都調査において、稲わら等のバイオ燃焼については、検出された元素数が少なか

神はこのように隠れておられるので、神は隠 れていると言わない宗教はどれも正しくな

そうした開拓財源の中枢をになう地租の扱いをどうするかが重要になって