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アンコーナのチリアコ伝 (1)

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久 志 本 秀 夫

1  一九七〇年算に稿を終えた拙論は、アンコーナのチリアコ︵=二九 〇年頃−一四五五年頃︶の伝記資料について紹介したものであった  ω が、本稿は、綜合的なチリアコ伝を目ざした一試論である。チリアコ の生涯全般にわたる詳しい評伝は、まだ世に出ていない。デ・ロッシ はその略伝︵一八八八年︶において、主としてチリアコの旅程を復原       ② し、それを裏付ける史料をすべて紹介した。その後、新史料が発見さ れ、また、デ・ロッシ自身の誤謬もあるので若干の修正が必要とされ るが、チリアコ研究の出発点としての価値は、尚おとろえていない。  一九〇二年、、ツィーバルトはデ・ロッシを骨子とし、新しい文献を       ㈲ 付加してチリアコ略伝をまとめた。簡潔ではあるが、要所に配慮が及 ぶ好論文である。五十年後、ツィーバルトを忠実にフォローしつつ、 随所にデ・ロッシより直接得た知見を挿入したマッケンドリックによ アンコーナのチリアコ伝ω      ω る略伝が出た。だが、両者を比較しながら読んでいくと、マッケンド       ㈲ リックの方が少々荒っぽく感じられる所もある。  ところで、チリアコの前半生に関しては、一七七六年に出たティラ ボスキによる略伝が最も重三を持・てい舗その理由は・チリアコ2・       1 の友人、フランチェスコ・スカラモンティが書いた同時代の史料を発       ω 掘して利用したためであった。コルッチは、一七九二年にこの史料を      ㈹ 公刊したが、何分にも入手困難であり、かつ、現在の学問的水準より なされた校訂と新しい註とが要望されている。また、コルッチは自己 の刊本の序論において、ティラボスキにほぼ準拠してチリアコ略伝を ものしている。両者に次ぐものとしては、フォイクトによるチリアコ     ⑧ 伝がある。彼もコルッチの刊本を参照しているが、ティラボスキを越 える所のものはさほどない。  要するに、スカラモンティによる史料、ティラボスキ、コルッチ、 フォイクトの三者による略伝が、チリアコ前半生の主要な資料であ る。 二一二

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アンコーナのチー−’アコ伝 ω  チリアコの後半生については、ボドナーの研究が比較的詳細であ  ⑩ る。彼は特に、一四三五年より一四三七年までの東方旅行と、一四四 四年より一四四八年までのペロポネソス半島への旅を中心とした期間 とを、史料に即して復原した。  本稿においては、以上の諸研究を軸として、チリアコの生涯を概観 する。

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 まず、我が国では知られる所の少ないアンコーナの歴史を略述し        09 て、チリアコが登場して来る背景としたい。  アンコーナの町を創設したのは、シラクーサの喋喋ディオニュシオ        ㈱ ス一世︵前四三〇年頃一斗三六七年︶であるともいわれ、また、彼の       ㈹ 専制を嫌って亡命したドーリア系ギリシア人であるともいわれる。時 は、前三九〇年頃であった。  アンコーナ東南約十キロのコネロ山︵五七五メートル︶が西北に伸 び、丘陵の多い岬となってアドリア海に突出した位置に町づくりが行 なわれた。その最尖端、三角形の頂点の如き地がグアスコ山︵九七メ ートル︶で、古代には有名な、アフロディテの神殿があり、今は大聖 堂︵=八九年完成︶が存在している。ここから西へ、肘の如き岬が 出て北から湾を囲いこんでいる。この地形のお蔭で、イタリア屈指の 良港が出来たのであった。ギリシア語で肘を意味するアンコ:ンが、 そのまま地名となった。 二四        ㈲  アンコーナがいつローマの支配下に入ったかは、不明とする説、第 三次サムニウム戦争の中でも有名なセンティヌムの激戦が終った後、         飼 前二八九年とする説、ピケヌム地方がローマの支配下に入った︵前二 六九年i前二六八年︶後も、ローマとは同盟関係を保って自治を保持      ㈲ したとする説など諸説がある。  前一七八年、イリュリクム戦争に際して、アンコーナはローマの海       ㈲ 軍基地となった。  前四九年、ユリウス・カエサルは、ルビコン川を渡ると、ただちに          ⑱ アンコーナを占領した。  帝政時代に入ると、アンコーナは対岸のダルマティアとの最短連絡          ⑲ 基地として重視された。トラヤヌス帝は、ダキア征服戦争の際、アン 一9        ー コーナ港を拡張し︵一〇五年︶、ダルマティアへの輸送の能率化を図 った。一一五年、帝の業績を称える紅鮭門が港の北端に建てられた。 この門の碑文が、後にチリアコに多大の影響を与えることになる。  西のローマ帝国崩壊後は、東帝国ラヴェンナ総督領の一環として、      ⑳ ペンタポリスの一部となった︵五五一年t七二八年︶。七二八年に は、ロンゴバルディ人のスポレト公国に占領されたが、東帝国レオン 三世の聖像破壊政策に反発して、意識的に支配に甘んじたようであ る。  七七四年、フランク王国のシャルルマーニュは、アンコーナを手に 入れ、他のベンタポリスの諸都市と共にローマ教皇ハドリアヌス一世 に寄進した。

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 八四八年、サラセン人が来襲して、強奪、破壊したが、八七六年に は廃虚より再興し、ローマ教皇の宗主権を認めつつ、自治共和国の体 制を維持する方向を定めた。  九一七年、サラセン人の襲撃を退けた。この時は、トスカーナ侯と スポレト公との援助を受けた。  一一〇〇年代には、東帝国の援助を得て、ヴェネツィアと争った が、=五〇年に平和条約を締結した。一=ハ七年、神聖ローマ帝国 フリードリヒ一世の攻囲を退けて、政治的経済的自治を守った。   三四八年、リミニのマラテスタ家が突然アンコーナを占領し、一 三五五年にアルボルノズ枢機卿に譲渡した。彼は聖画タルドの丘に砦 を築いたが、=二八三年、民衆が蜂起して破壊した。この事件より数 年後に、チリアコが生れる。  アンコーナは、一五三二年、ローマ教皇の直轄領となるまで、政治 的自由と経済的繁栄とを享受した。地中海及び東方のすべての港と活 発な商業関係を持っていたのである。チリアコが活躍する一四〇〇年 代は、アンコ:ナの歴史における最後の輝きの時期でもあった。

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 ティラボスキが世に紹介したトレヴィーゾ写本の第三薄目は、何者 かによって破り去られている。既述の如く、この写本にはチリアコの 前半生を語る唯一の史料ともいうべきスカラモンティによる伝記があ アンコーナのチリァコ伝 ω り、正に第﹁、一葉目にチリアコの家族や生年などが記してあったようで ある。  幸いなことに、ティラボスキより十三年前︵︸七六三年︶にオワヴ ィェーリが刊行したチリアコのコンメンタリア断片に、チリアコの母 の墓誌銘が紹介されているので、それをもとに彼の家系を調べる。  まず、墓碑の原文を引用する。      ∪・H.Qり.      e    ︼≦>2国ピいレ国.訳’閃●       口     2U︿︾↓一〇﹀剛      ⇔   ]≦OU団QD↓﹀国︼≦<いH国菊一       四    囚網幻一>O<Qっ勺出。﹁.       ㈲     国O国冥固OO日ド国Qo      因    ℃﹀菊国Z目一℃一国Z同虜ω●      ㈹       国円QD濁一       内    Oピ﹀幻﹀国O●い.囚O国国       σo     鵠﹂≦.国・Z.Qり・      ω 第一行目の∪・剛・ω・はオリヴィエーリの註によると、一︶①o一ヨヨ。〒 3一一ω9自ロヨの省略形とのことである。それに従って訳すと、 ﹁永遠 の神より神聖なるものが﹂となる。  第二行目のKは内貿冨。ロωの略、この場合は属格開嘱二曽∩凶。Fは h=冨の略、この場合は属格で脇罠9①。 ﹁キリァクスの娘の﹂の意。こ のKとFとの省略形については、オリヴィエーリは何も触れていない ので、コルッチの序論より引用した。  第三行日のω︻いく諺目O︾一は、ω旨く︾↓8⊂ωの属格ω昌く︾↓一Ω 二五 118

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アンコーナのチリアコ伝 ω である、べきだが、オリヴィエーリ、コルッチ共に何も言っていない。 第二行目より第四回目までを訳すと、 ﹁穏和な妻にして、チリアコ・ セルヴァティコの娘マシェルラに﹂となる。ラテン名キゾアクス・シ       ㈲ ルウァティクス、イタリア名チリアコ・セルヴァティコは、本稿の主 人公チリアコの母方の祖父で、幼ないチリアコの面倒をよくみてい る。ここで母の名がマシェルラであることが分る。  第五行目の団団幻困>O<ODが本稿の主人公のチリアコである。℃山 は、ティラボスキによると、父の名の省略であり、おそらくラテン名 フィリップス、イタリア名フィリッポであろうとのことである。その 場合Fは塗冒ωの属格窪出の省略形となる。  第五行目より第六行目までは、 ﹁フィリッポの子、チリアコ・ピチ ェニコルリは﹂となるであろう。ラテン名ピケニコルレス、イタリア 名ピチェニコルリが、チリアコによると、この家の姓である。  ところで、オリヴィエーリはアンコーナ文書館の公記録を調査して、 次のように報告している。即ち、ある公記録の第十二頁に Ω蜀ωω口ω αo霊N隠8霞ωの名が見出され、同じ人が第六十五.頁に、=二七八年、 ﹁戦争に関する十二人の評議員の一人に選出﹂され、また第二十二頁 に、一三九二年の﹁評議員の宣誓﹂の中に名が記載されている。ま た、蜜母冒○江⊆ωZ80巴O①団N﹄oo崔ωという名も公記録にある。以 上の史料からオリヴィエーリは、チリアコの姓は、ピケニコルレスで はなく、ピッヅィコルリスが本当であったと結論している。  グラッスス、マリノティウス・ニコライなる両名が、チリアコの家 といかなる関係を持っていたかは不明であるが、チリアコニ十一才の 二六 時、同姓の親戚﹁キンキウス・ピケニコルレス﹂の船に乗ってアレク サンドリアへ行っている︵後出︶。つまり前記の両名はチリアコの親 戚であったのかもしれない。  要するに、オリヴィエーリが主張するように、ラテン名ピッヅィコ ルリス、イタリア名ピッツィコルリがチリアコの真の姓とみて、しか るべきであると思う。  では、何故チリアコはピッヅィコルリスをピケニコルレスに変えた のか。ピケニコルレスは﹁ピケヌムの丘陵﹂の意であり、ピッヅィコ ルリスは、明らかにそれが崩れた形である。即ち、ピケニコルレスの 方が原形であり、古代風である。古代の研究家を自任するチリアコ が、原形のピケニコルレスを称した気持ちも十分理解できるのであ       17 る。       1  さて、第七行目の℃一国乞↓一〇〇uり・は感冒ωの別形b一Φ諺の最上級で、 碑文によく用いられる。この場合は09。器二月と一致して℃δ暮δω圃日β。① の省略形とみられる。訳は﹁いとも敬慶な母に﹂となる。  第八行目の訳は﹁そして彼自身にとって﹂。彼とはチリアコをきし ていると思われる。        ㈱  第九行目の囚O勾国は、オリヴィエーリの推定によると、ギリシア 高田ミ︵乙女、若妻、娘︶で、チリアコが幼時の母の思い出を述べて いるらしい。Lは、同じくオリヴィエーリの推定によると、財げ①辞器 の省略らしい。オリヴィエーリ説に従って、第七行目より第九字目を 訳すと、 ﹁いとも音度な母に、かっ、彼自身にとっては明るく自由な 乙女に﹂となる。尚、Oピ諺菊諺国ρは。冨冨①ρ仁①の省略形。凶O菊国は

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与格とみて訳した。  第十行目の麟●ζ・属・Z●ψは、墓碑の最後に来る慣用句で、出oo       働 旨。岩ヨΦロεヨ冨おαo筥ぎづω①ρ巳叶霞の省略形である。 ﹁この墓の み相続人に継がれることはない﹂の意である。  そこで、諸先学の説を参考にして、最初より通して訳すと次のよう になる。 永遠の神より神聖なるものが 穏和な妻にレて、チリアコ・セルヴァティコの娘、マシェルラに ︵与えられんことを︶。 フィリッポの子、チリアコ・ピチェニコルリは、いとも敬弱な母 にYかつ、彼自身にとって明るく自由な乙女に︵捧げる︶。 この墓のみ相続人に継がれることはない。  以上の史料から、チリアコの父は、多分フィリッポ、母はマシェル ラ、母の父はチリアコ・セルヴァテ’イコであったことが分る。チリア コの家の姓は、彼自身によればピチェニコルリ、しかし、実際はピッ ツィコルリであった。  チリアコ自身は、ラテン名はキリァクス・ピケニコルレス、通常キ リアクス・・アンコニターヌスと呼ばれた。イタリア名はチリアコ・ダ ンコーナ︵ダ・アンコーナの省略形︶で、レオナルド・ダ・ヴィンチ のダ・ヴィンチが姓の如くみなされているように、ダンコーナも慣用 的な姓となっている。本稿では、我が国で従来よばれている﹁アンコ ーナのチリアコ﹂で通すことにした。 アンコーナのチリアコ伝ω  チリアコの両親の生没年も、はっきりしないが、ティラボスキは、 幼年時代に母のみが出て、父が登場しないこと、母方の祖父が父のよ うにチリアコの世話をしていることから、父は早世したのかもしれな いと述べている。男きょうだいがあったかどうかは分らないが、ニコ ローザという一人分女きょうだいがいた。  尚、ピッツィコルリ家は貴族の家柄であること、一七五三年には既 に断絶していたことも報告されている。  チリアコの生年も明確ではないが、ティラボスキは一四〇四年が十        ㈱ 四才にあたることから、=二九一年頃に生れたとしている。一体、チ リアコのクロノロジーを最初に比定したのはティラボスキであり、そ の後、踏襲されて現代に至っている。チリアコの生年を一三九一年と 言い切・ている例もある咽だが果して全面的に信じていいものかどう幡       1 か、次節において検討したい。

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 チリアコは、わずか九才にして、未知の土地を見たいという望みに 駆られたという。その頃、母方の祖父チリアコ・セルヴァティコが、 ヴェネツィアへ所用で行かなければならなかったので、少年チリアコ を同伴した。彼らは船でアドリア海を北上し︵アンコーナーヴェネツ ィアの直線距離は約二三〇キロ︶、四月十三日に到着した。当時のヴ ェネツィ.アのドージェ︵統領︶は、ミケーレ・ステーノであったとい 二七

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,つ。 アンコーナのチリァコ伝ω  ティラボスキは、ミケーレ・ステーノが一四〇〇年一月にドージェ に選ばれたこと、チリアコが九才であったことから、四月十三日ヴェ        ㈹ ネツィア到着の年を一四〇〇年に比定している。ティラボスキの年代 比定の根拠は、一四〇四年“十四才なる事実からの逆算であった。  今、=二九一年に生れたとして、一四〇四年までを算出すると、   一三九一年       ○才   =二九二年      一才   一四〇〇年      九才   一四〇一年      +才

  一四〇二年       

十一才   一四〇三年         十二才   一四〇四年      十三才 となる。即ち、一四〇〇年は、正に八才より九才にあたるが、一四〇 四年は十二才より十三才に相当し、彼が十四才になるのは一四〇五年 となる。  次に、=二九〇年に生れたとする。   =二九〇年       ○才

  =二九一年        

一才   =二九九年       九才   一四〇〇年       十才 二八

  一四〇一年       

十一才   一四〇二年         十二才   一四〇三年      十三才   一四〇四年      十四才  即ち、一四〇四年は、十三才より十四才に相当し、一四〇四年11十 四才という根拠が確かであれば︵後に述べるように、その確実性は非 常に高い︶、チリアコの生年は二二九〇年、または一三八九年という ことになる。生れた月が分らないので決定的なことは言えないが、生 年を一三九〇年として、以下に年代を比定していきたい。  さて、ミケーレ・ステーノがドージェに選ばれたのは、実は一四〇       ㈹ ○年十二月一日である。従って、チリアコらが到着した四月十三日 は、一四〇一年以降となる。       15       1  以上すべてを勘案すると、チリアコの生年は一三九〇年、九才の年 は=二九九年、ヴェネツィア到着を一四〇一年に比定できるのではな かろうか。 (1)註 (2) (3) 久志本秀夫ヲン〒ナの言・・伝のためにし︵相姦嘉駄大響究 論集 第十八巻︶大阪 一九七一年 十七−二九頁︵以下訳ごω田竃O↓O と略称する︶。 Ooカ。。・ωrO.ゆ.噂、eoO胃ご8国N恩09鵠﹀づoo巳♂自ρ、、囲昌四自甘訪05窃 Oぼ幽9冨冨6。㊦q噌げ♂国039●噂昌勾。ヨ鋤︵一〇〇Q◎◎o︶噛ω切①一ω◎。﹃・︵以下U国 幻OQりω一と略称する︶ N凶。σ巽91国こ、6旨冨。二ω<o昌︾昌oo昌国巴ωしロ。ぴq﹁05ユ臼Ωo﹃ぎωo﹃ユ捧。昌1

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(4) (5) (6) (7) (8) (9) hO﹁ωOげニロゆq●.−﹄費,円げ弓O﹃㊦胃h儲田島90開一麟ロ面目O,Ob=㊦壇酔眉山矯一×︵同8邸︶’ b。 齔SlN8・︵以下N田コσ﹀菊↓=と略称する︶ ︼≦Oo国。留q二〇ぎ℃こ.、﹀菊①日置ω超βo①Oユ<6D匂n①ざ 博7⑦じ咤。 oh O︽ユ曽。 o︷ ﹀コ85ρ.、99。器凶。脚9雷●島㊦<巴言噛×一昌︵HO切N︶”目◎。ドー置9  ︵以下 竃>O東国密︶包O頃ど略称する︶ 例えば、一四二五年、ローマよりの帰途、チリアコはストリ、ヴィテル ポ、オルヴィエートを経てアンコーナに戻ったが ︵︼︶︼円 勾ハ︶QDQり一層QQG随刈︶、 N田切﹀国.↓鼻N霜にはこの行程が記されている。しかし、この点について 触れられるべき竃>O閑国Zu桂岡O罫H呂には、何ら記載がされていない。 ↓マ⇔げ◎ω〇三.O毒ロ慶酔〇二89島㊦一一臼ぽ紳⇔O噌鉾酔唱噌曽諄P=,昌脚矯く同.一り]≦O匹O口四︵ ミ刈O︶レ恕1一8.︵以下目勾﹀ゆOqoO出一と略する︶ スカラモンティによるチリアコ伝の原本は散逸したが、フェリーチェ・フ ェリチアーノによる写本がトレヴィーゾに存在している ︵↓話く凶ωPじd崔1 δけOOgO”且けO冨﹃ρ炉昌ωG◎︶。 スカラモンティについては、次の文献があるのみで、新しい研究が待望さ れている。 ω冨住O嵩昌♂両4、.=げδmq﹁凶︻O島Oマ一三ρOO勺冒N①OO=凶”.ーピ㊦ 旨薗門Oぽρ一 ︵ 一㊤◎一︶ ゆ刈○一¶b9。 この要約については、OP閑ごω田竃O↓ρ蜀 フェリチアーノに関して は、Oh’訳口の=目≦O↓ρH㊤lboド OOピOO一〇・℃⇔0目㊦騨留岳O,一酔糟唱ぽO昌㊦℃×<層局①コβO︵一刈⑩bの︶ ▽H⋮一α㎝.︵ 以下OOピdO9と略称する︶ トレヴィーゾ写本の復刻版がイギリスのミ ッチェルよって︵O噛.﹀。陰げヨ9ρ切。▼、、O鴫二帥ooh>昌oo昌9。...℃30㊦o島旨㈹ロ Oh⇔ゴ。雨曜凶自多b窪島6巳ざ×日<︵同㊤$︶℃8サ二二。.︶、同写本の主要 部分を占めるチリアコ伝の新版が、イタリアのカンパーナによって︵Oh O9Ω3B冨”>4 軋、O.︼≦曽昌①許ユ”O冒冨OOO 一.︾﹁OOa目﹃巴9昌P.、 国酔9=偶 目●島oo︿巴●o三目9ロ﹃自09。矯昌︹戸OαO︺℃塞b.同︶それぐ予告されて いる。 <O蒔ρO.℃08 毛一〇自㊦胃げ9㊦げ昌50q 畠①ロ99ロ巴ロ0ゴ05>=●N⇔唱目ロO戯㊦門 ao) (11) 脳㊥o駐㊦噌O↑㊦匂9◎ケ円,ロ5住⑦嘱紳ロ島㊦日豊ロ3騨5凶ロ目9一”しu①﹁=昌︵HoQooO︶ 層N“目一 NQ。oQ●これの諸版については、Oh図dω=一竃O↓ρbo㎝ N9 私はイタリア語版︵<o闘αQ∬O‘一一閑冨。茜一景㊦鼻。ユ巴一.9冨言。ザ田図。一器巴06。 O<<①畷O一一眉曜凶巨O皿㊦60一〇昌O一一矯昌目費昌O星目ρ 一、↓門9ユ・ユ帥一︶’<巴げ犀鋸︾ 雲﹁o自。︹一〇。o。。。︺bOOib。。。α.以下、このイタリア語版をく90↓と略称する︶ を利用した。ツィッペルによる補註が別に刊行されているためで︵N君喝①剛. O‘Oぎ目齢①ooo霞。巴〇三︾三巴9No︹昌ooO刈︺︶、チリアコに関しては、デ ・ロッシの研究が援用されて、フォイクトの説が一部訂正されている。 尚、フォイクトへの補註は、ドイツ語版.では発行されていない。 udOユ昌m5国■♂<己O園二POロロOhb560目,曽5島b酔,①ロ9じd﹃自×O=oω一しdO言ー ゴ。ヨ︵一⑩①O︶.︵以下、切OUZ>菊と略称する︶ ボドナーの功績は、発行部数が極めて少く、しかもデ・ロッシがさほど重 きを置かなかったモロー二の刊本︵竃08旦O‘国営oq剛9。目目暮曽噌㊦冨噌齢9 唱㊦胃印=同円凶O唱影曽O網ユ9960>500圏凶酔”冨069弓ロ含ピ一げ口円5凶9●目噂図O日僧︹8。 δ①O︺.Oh.囚qω頃一ζO↓ρ卜。腰lb。ωVを使って皿四三五一一四三七年のチ リアコの旅程を復原した所にある。一四四四年以降の旅程、特に一四四七 −一四四八年については、一九一〇年、サッバディー二によって紹介さ れた新史料  ︵ω9。σσ帥島巳、勾・讐.、Ωユpooq>ロ8冨①冨ω口m住。ω〇二Nδ昌① 笛qけOαq﹁塑剛Pユ匹勺色OOO5口OωO鐸”ω昌μΦωω四店9い①Oコ9﹁畠Oし口O暮四、.輝罎尻δO隅・ 9。 y㊦曽Oo円凶費ロ♂竃蕾8︹μO同O︺レ器一母刈●︶が紹介されている。残念な ことに、ボドナーは史料の原文を紹介することに意を用い過ぎたため、整 理された評伝の域には達していない。 以下の記述は、次の諸資料よりまとめた。 国56ざご唱。急9。諄9。一冨5丁目一” 殉O言蝉 ︵一㊤bのO甲ユωけ帥ヨ弓” 帥コ帥曾90け一〇ロρ 一り心ゆ︶ ” 目窃H−Hαり・ 目二巴0599二〇①昌90]o唱O自門。#9一P昌。℃一、幻。三三︵Hり刈O︶旨劇 膳一ら 摯 国50同士O唱9◎㊦島一曽唱弓ユ齢9詔一〇9●導μにげ国︵=6δP炉O曽8げ二αひq①︵一㊤HO︶噂Φ釦μ1 りqb9・ 国冒O園90唱胆O畠凶曽弱ユけゆ冒凶O∼一−〇三8ひqO︵一り①﹃︶ ”◎oQo切・ 竃92胃O,O“O眉陣畠曽畠り犀費嵩曽自巴目。唱二50qO一ロげ騨9一凶9◎50︾]≦繭冨コ。︵一り①bo ︶ ”①刈一Qo刈・ 114 アンコーナのチリアコ伝ω 二九

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アンコーナのチリアコ伝ω 三〇 ag} α芝う αり (1の (⑤  aの α母 (【旬 ⑳ Omb唱Φ津曽︾.璽O噌㊤50ざ凶斜。剛。昌θ覗噌oq凶器帥㊦6鑑。昌自騨二〇弓。塾図9口ρ]≦ヤ 昌昌。︵ OもQO︶這Oω一口9● 最後のカッペルリの著作には、次の諸文献より要約きれたアンコ:ナ史の 年表があり、有益であった︵以下O︾閲℃国いピ一と略称する︶ ⇔dP昌四ぴΦ㌍い矯O剛。昌曽。,①撃Ω冒oo三酔薗ロ㊦9ρ矯︾ロoo昌四︵一◎o刈O︶. Ω凶く凶ユ巳.○旧ωe巨目99二〇幽巴冨ロεユ牌島.bロooロP︾昌ooロ鋤︵Hま﹃︶● O旦自曽9b部Oo冨騨山窪〇二齢⇔勢5㊦昌曽巴。出営㊦胃㊦凶ヨ。昌唱目㊦呪言り﹀旨oo昌9 (Hメ︶・ 酎昌9鑑。弓㊦島9潔6◎=9◎冨曽り剛目℃59 ストラボン﹁地理学﹂第五巻、πの2。 国昌。回。ぎ唱99㊦島9自二型↑曽置旧09㊤リニ梓げ国島戯。ジ炉ゆUN. 言99嘆。﹃①“φ巳自曽ユ.潔巴ぎユ9目.O・︻●︾Φ圃. 国昌。凶鑑。冒①島9自凶自冨冨曽婚一口”H緕. リゥィゥス﹁ローマ史﹂第四十二巻、1の3。 カエサル﹁内乱記﹂第一巻、11。 ローマより北へ向かうフラミニア街道は、約一二〇キロでウンブリア地方 のヌケリァ︵現在ノチェラ・ウンブラ︶に達する。更に北へ進み、カレス で北東に向きを変えると、やがてアドリア海沿岸のファヌム・フォルトゥ ナエ︵現在ファーノ︶、ここから海岸に沿って西北へ行くとアリミヌム︵ 現在リミニ︶がフラミニア街道の終着点である。一方、ヌケリアより北東 五七〇キロでアンコーナに到着する。ローマとダルマティアを結ぶ幹線の 重要地点としてのアンコーナの位置が理解されるであろう。 尚、フラミニア街道については、次のすぐれた砥究がある。 ﹀ωずびざ↓。⇔昌儀周。拝即︾■いこ..↓げ①<冨コ9。日ぎ凶ρ..﹄o冒噌昌巴oh閑。目39旨 ω三盛貸ぽ9×一︵HO鐸︶レN㎝lH㊤O・ 後背地を含むアドリア海沿岸の五つの都市、リミニ、セニガリァ、ペサ ロ、ファーノ、アンコーナをきす。 国50凶島。唱㊦島99騨巴智冨曽嫡自押一8. O嵩くδユ℃跨5巳σ巴。ユ。σq一帥﹀げ簿詑60ヨヨ05齢99ユ儒目O田ユ”9昌昌oo冒詳曽5帥 鋤 ⑳ 冒。<曽守6。9ミ目㊦暑脚昌。露血目一口u胃暮9。噛℃oω舞。︵嵩①ω︶.︵以下O目≦国国 と略称する︶チリアコのコンメンタリアについては凶dω缶一ζO↓ρ陣I b。 Vを参照されたい。オリヴィエーリが刊行した断片は、一四四二年八月よ り一四四三年三月までのチリアコのイタリア旅行の部分にあたる。 ○い一く一国開一噛b⊃・ Oい割く目国幻一℃h◎︾戸野 OOいqOO押HP昌・︵ぴ︶・コルッチは、自己の刊本の序論に、オリヴィエ! リが引用した墓誌銘を使って、チリアコの家系を考証している。コルッチ の言によると、トレヴィーゾ写本にも墓誌銘が写されているようで︵ただ し刊本には序論に出てくるだけである︶、オリヴィエーリとトレヴィーゾ 写本との文字の異同が、コルッチによって指摘されている。トレヴィーゾ 写本の墓誌銘が、もし筆者のフェリチアーノによって写されたのなら、そ の出所をめぐって新たな問題が提起されよう。 ラテン語形容詞毘話二〇器︵森の、野生の︶は、イタリア語でω①一︿二日8と なる・9。帥・。。。・算・﹄国・8騨﹁・。・善。−・藝’・昼↓・9・︵蓬ン㎎ Nαωq・従ってイタリア名をセルヴァティコとした。尚、サルヴァティコ  ︵目閃﹀切OωO属︻”H。。刈︶、セルヴァティチ︵OOピdOO戸b。降。︶としている 場合もある。 臼肖幻︾bdOωO国凶日ωS Qい一く一国幻剛、bo、昌●①● OOUdOO押8.原文は、9コ90且8つ三8冨08つω睾。Ω三づoo撃。で、スカ ラモンティによる伝記の一節である。ここで注意すべきは、スカラモンテ ィもこの︼族の姓をピッヅィコルリスとしないで、チリアコがいうピケニ コルレスにしていることである。このことは、スカラモンティによる伝記 は、チリアコが提供した資料を一人称より三人称に変えたものにすぎない というフォイクトの説を裏付けるかもしれない。Oh<90↓旧N①P昌.卜。. ピ。三ρ○日・も巳。り7。芦O・.b謬鉱留︼︾凶。昏。冨噌ざO蔦。巳︵お窃Qo︶” 目圏H● Oい幽く一国閃一画N噂づ●刈・

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㈲ tso 註の⑱①に引用したルイスとショートのラテン語辞典、八三二頁に、 閏.い. 国.↓●竃.国・Z.も。●は三〇δo⊆ω曾ヨ。ロ二目Φ口囲日げΦ話O①日ロ8ωoρ9ε5 の省略形であると説明されている。ヨ。口駕ヨ。ロεヨに一致するHはず。。で あるから、国.ζ・はゴoo臼。慧日。ロεヨとなる。 ﹁アンコナのキリアコス﹂⋮⋮粟野頼之祐﹁西洋金石学﹂ ︵世界歴史事典 5︶東京 一九五六年三八八頁。 ﹁アンコナ人チリアコ﹂⋮⋮渡辺金一﹁クワトロチェントのイタリアとオ スマン帝国﹂︵ヨーロッパ精神史の基本問題︶東京 一九六六年 一八八頁。 目一男﹀しdOooO出押おS OOいdOO押朝Qo. ]≦欝NβoげΦ霞鰯O﹂≦‘.、︾昌8昌国︵Ωユ80α、1︶、.℃ω6二齢8二島.犀麟=9。矯押卜∂” 切おωoす︵嵩朝ω︶℃①oobの● ここで﹁アンコーナ﹂がチリアコの姓の如く扱われているのに注意された い。マツッケルリの論述は、一七五三年当時におけるチリアコの資料をす べて紹介し、解説している所に意義があった。その一部は、今なお有用で ある。 マツッケルリは、ジゥリアーノ・サラチェー二のZo鑑巳。国降。噌ざ,o昌. b琴059第一部、七頁を引用して、チリアコが名門の出であることを述 べている。コルッチもその刊本の序論において︵二十一頁︶、サラチェー 二を引用して、貴族の家系であったことを述べ、また、それが若くしてア ンコーナの市政に参画したこと︵五十五頁、註二十八︶、各地の霜主の宮 廷で歓迎されたことを説明するという。しかし、チリアコの家は必ずしも 豊かではなく、一商人として出発しなければならなかった。 ↓一国︾しdOQoO国一博Hω8 00lぴげ曽a三鴇図こ.、Ωユ四8α、﹀ロoo昌p、、い国冨9鑑。昭。島曽犀曽=9冒9。矯×押図。目国  ︵ごωH︶浜器. エンチクロペディア・イタリアーナのために書かれたサッバディー二によ るチリアコ略伝は、部分的に問題はあるが︵例えば[四三六年のアテネ旅 行を一四三七年としていること︶、その要を得た文献表とあいまって、最   もすぐれたものの一つである。サッバディー二は、チリアコが一三九一年   にアンコーナに生れ、一四五二年にクレモーナで没したとしている。   OOピqOOH.㎝b⊃・ ㈲ 目一殉︾切0000出押おメ ㈹ ∪9]≦oω8v>.−H島。α身一巳<㊦5㊦国冨℃]≦臨①ロ。︵おOO︶℃旨bの。   O>℃℃国びい一噛QQ心N       ︵一九七二年九月三十日稿了︶       ︵大学音楽学部助教授︶ 112 アンコーナのチリアコ伝ω ==

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