『古代スラヴ語の世界史』
白水社,2020 年,208 + viii 頁
岡 本 崇 男
古代スラヴ語は成立時期と作成者の名前が知られている言語である。ラテン語 やギリシャ語,あるいは中国語や日本語がいつ成立したのかという疑問に答える ことはほとんど不可能なことで,口頭のコミュニケーション手段としてのこれら の言語がいつ成立したのかがわからないのはもちろんのことだが,文語がいつ成 立したのか,つまりこれらの言語が文字を持ち,文字遣いのルールがある程度定 まったレベルに達したのがいつ頃のことだったのかについてもかなり広い時間の 幅でとらえるしかない。日本語のように中国から文字を借用し,「経典」(四書五 経など)が朝鮮半島からもたらされたことが歴史書に記録されている言語であっ ても,それが何世紀のことであったのかについては諸説あるし,経典がもたらさ れる前から漢字で書かれた文書は存在していたらしく,そもそも渡来人によって もたらされたのは当時の中国文語であって日本文語ではない。この時代から,仮 名が発明されて同じ時代の中国文語とは明らかに外見の異なる書き言葉が安定し て使われるようになって,初めて日本文語が成立したということができる。そし て,そうなるまでに相当な時間が流れたことは明らかである。 ところが文語の中にはいつ頃成立したのかがわかっているものがある。その典 型が “missionary language”(миссионерский язык)といわれるもので,ある宗教 を広めるために人工的に作られた言語である。キリスト教のように教典を持つ宗 教を布教するためには,その教典の記述言語をどうするのかという問題も解決し なければならない。取るべき解決方法としては,(1)教典の記述言語はそのまま にして,解説を現地の言語で行うか,(2)教典も現地の人々がわかるように翻訳してしまうかのいずれかであろう。後者の方法を取る場合,布教地に既に文語が あれば,その文語に翻訳することになる。ただし,布教地の文化伝統にない概念 が多数あるはずなので,それらを現地の文語の資源を利用して再現するのは容易 なことではなかろう。この第二の方法で作られた言語の一つが古代スラヴ語で ある。この書評の対象となる服部文昭氏の著作[以下,「本書」と呼ぶ]はこの 「布教のための言語」である古代スラヴ語を扱っている。 本書には『古代スラヴ語の世界史』というやや風変わりな書名が付けられてい る。普通「∼の世界史」と銘打った書物は,テーマとなる対象が出現した時から 現在までの歴史を り,問題点を探り,読者に現代社会を理解するための視点 を提供することを目指したものが多いような気がする。しかし,古代スラヴ語 は「西暦九世紀の後半から十一世紀末にかけて,当時のスラヴ人が文章語として 用いた言葉」(4 ページ)であって,現在スラヴ系の諸正教会で使用されている ローカルな教会スラヴ語のプロトタイプとなった言語である。こうした通用期間 が限定された文語の「世界史」について語るということは,この言語がその成立 時から現在に至るまでどのように扱われてきたのかということよりも,この言語 の出現を必要とした社会的・政治的経緯,そして古代スラヴ語期以降にスラヴ世 界各地で成立した文語をめぐる社会的な諸事情に著者の視線が向けられることを 示唆している。 本書は全部で 11 章から成り立っている。その構成は以下の通りである。 第一章 古代スラヴ語の誕生前夜 ─ 西暦九世紀半ばのモラヴィアで 第二章 古代スラヴ語誕生 第三章 モラヴィア国における古代スラヴ語の盛衰 第四章 ブルガリアへの古代スラヴ語の伝播 ─ 九世紀末のブルガリアで 第五章 ブルガリアにおける古代スラヴ語の黄金時代 ─ キリル文字の考案
─ 十世紀末のキエフ・ルーシで 第七章 古代スラヴ語の終焉とその後のスラヴ社会 第八章 スラヴ人とは 第九章 十九世紀から見た古代スラヴ語 第十章 なぜ「現代スラヴ語」という単一の言語は存在しないのか ─ 「スラヴ語」の概念の移り変わり 第十一章 文字によって二分される現代のスラヴ諸語 ─ キリル文字とローマ字 第一章から第六章までが古代スラヴ語の成立から「終焉」までの話である。括 弧付きで「終焉」と表現したのは,著者が言うように「古代スラヴ語という名称 は,スラヴ人の文章語の歴史を俯瞰した研究者がつけたものに過ぎない」(124 ページ)からであって,12 世紀以降であっても,この言語で書かれた文献を書 き写す人たちにとっては,この言語を考案したテッサロニキの兄弟コンスタン ティノスとメトディオスの言語であることに変わりはなかったという含みがあ る。 次に,第七章ではスラヴ世界の中で古代スラヴ語の伝統を受け継いだ地域(ブ ルガリア,キエフ・ルーシ,セルビア,ダルマチア)とその伝統が失われた地域 (ボヘミア,モラヴィア,スロヴァキア),あるいはほとんど影響を受けなかった 地域(ポーランド)について語られる。 第八章では初期のスラヴ人の歴史について要領よくまとめられており,第十章 では東スラヴ・西スラヴ・南スラヴの 3 グループの歴史と「スラヴ語」の概念の 変遷について,そして第十一章では現代スラヴ諸語とキリル文字・ラテン文字と いう二つの文字体系との関係について述べられている。 第九章では 19 世紀に始まった学問としての古代スラヴ語研究について概説さ れる。 このように,本書は大きく分けて四つの部分に分けることができそうである。 以下では,各部分についてもう少し詳しく見ていこうと思う。
1. 古代スラヴ語の成立について 古代スラヴ語の成立をテーマにした書物は本書が初めてではない1。またこの 言語の成立の経緯については,ヨーロッパやロシアやアメリカで出版された文法 書や研究書,そして現在日本で流通している唯一の文法書である木村彰一『古代 教会スラブ語入門』(白水社,初版 1985 年,新装版 2003 年)で知ることができ る2。しかし,本書の一番の特徴は,筆者が古代スラヴ語を作り上げる作業の先 導者であったコンスタンティノスとメトディオスの生涯やこの言語のために作ら れた二つのアルファベットの説明に紙面を割くよりも,この言語を成立させた政 治的背景を前面に押し出したことにある。 文語の成立には国際関係が大きな要因となる。東アジアで朝鮮,日本,そして ベトナムが漢字と漢文を導入したのは,それが中国という超大国の文字・文語で あったからで,周辺国は自分たちが生き残る道として大国と伝達手段を共有する ことによって,政治・経済・文化の結びつきを強化したのである。九世紀のモラ ヴィア国は隣接する強国である東フランクとの政治的摩擦を回避するためにロー マ教会の傘下にあるフランク教会からキリスト教を導入する。しかし,東フラン クの属国になることを恐れたモラヴィア公ロスチスラフは,ビザンツ皇帝にスラ ヴ語で説教できる主教を派遣してくれるように依頼する。つまり,東フランク王 国と対抗しうるもう一つの大国であるビザンツ帝国に接近することで外交的なバ ランスを取ろうとしたのである。実は,モラヴィアとほぼ同じ時期にキリスト教 1 黒田龍之助『羊皮紙に眠る文字たち ─ スラヴ言語文化入門 ─』(現代書館,1998 年) の第三章でコンスタンティノスとメトディオスの業績と修道士フラブルの『文字の物語』に ついて紹介されており,原求作『キリール文字の誕生 ─ スラヴ文化の礎を作った人たち ─』(ぎょうせい,2014年)は古代スラヴ語の成立が主題となっている。また,小林潔『ロ シア文字の話 ─ ことばをうつしとどめるもの』(東洋書店,2004 年)もスラヴの文字の成 立に関して基礎的な情報を与えてくれる。 2 本書の主要なテーマである「古代スラヴ語」と木村彰一氏の著作の書名にある「古代教 会スラブ語」は全く同一の言語である。この言語には統一された呼称がなく,「古」なのか 「古代」なのか,「教会」を入れるのか入れないのか,「スラヴ語」なのか「スラブ語」なの かを研究者が各自の判断で選択しているというのが現状である。評者自身は「古教会スラヴ
を導入したブルガリアでもモラヴィアと同じようなことが起こっている。こちら はビザンツ帝国と隣接しているため,当初ビザンツ教会からキリスト教を受け入 れたのだが,ビザンツ帝国に吸収されることを危惧して,東フランクと関係を持 つのである。古代スラヴ語が成立したのは,丁度モラヴィアとブルガリアが共に 領土を拡大して国境を接するようになった時期で,東フランク・モラヴィア・ブ ルガリア・ビザンツという四つの国が国境を接し合い,隣国同士が睨み合うとい う緊張状態の真っ只中なのであった。 外交的なバランスを取るといってもモラヴィア領内で西方・東方両教会の摩擦 が起きることは予想できたはずなので,ロスチスラフがなぜこのような判断を下 したのかはいまだにわからない。著者は一次資料(『聖コンスタンティノス伝』, 『聖メトディオス伝』)や研究書および概説書から史実と研究者の見解を拾い上げ て本書を構成しているが,その際に著者自身の推測を最小限に止めようとしてい るので,こうした「なぜ」には答えてくれない。しかし,いくつかの疑問点につ いては筆者も見解を述べている。一例を挙げると,ロスチラフ公がビザンツ皇帝 ミカエル三世にスラヴ語で神の言葉を説いてくれる「主教」を派遣してくれるよ う依頼したのに対し,皇帝が派遣したコンスタンティノスとメトディオスは主教 ではなかった(つまり叙任権を持っていなかった)ことについて以下のように説 明している。 ただし,ビザンツもロスティスラフ侯の要請の全てを受け入れた訳ではな い。[…]モラヴィア国の教会は西方教会のフランク教会の管轄下にあった。 そこへ,いきなり東方教会の主教(西方教会の司教に相当する)を派遣して, モラヴィア国の教会の管轄を東方に取り込む行動には出られなかった。それゆ えに,第一歩として,スラヴ人の言葉でキリスト教を布教できる人物を派遣す るに留めたのであった。(20 ページ) ちなみに,上記の見解は筆者が本書の巻末に挙げている参考文献の一つ E.V. ウ ハーノヴァの著作の説明と一致している3。
2. 古代スラヴ語期以降について 古代スラヴ語は,コンスタンティノスとメトディオスおよび彼らの弟子たちが 活動したモラヴィアやパンノニアでは使われなくなるが,ブルガリアで新たな発 展を遂げる。特に,この地でキリル文字が生まれたことは後のスラヴ言語文化に とって重要な意味を持っている。そして,古代スラヴ語はブルガリアを経由して 北東のキエフ・ルーシに伝わる。『原初年代記』の 988 年の記事は,キエフ公ヴ ラヂミルがキリスト教の洗礼を受けて,多神教の偶像を廃棄し,民にも受洗させ て教会を建てた後,「使者を送って貴族の子弟を連れて来させ,聖書を学ばせ始 めた」と伝えている4。実は,この聖書学習(оученьє книжноє)に使われたのが 何語で書かれた書物(кънигы,すなわち聖書)であるのかについて年代記には 一言も書かれていないのだが,この出来事はキエフ・ルーシにおいて文語教育が 開始されたことを意味する「学校教育の始まり」だと見なされている5ようなの で,古代スラヴ語で書かれた聖書であると考えて良さそうである6。そして,筆 者によれば,この古代スラヴ語がすぐにキエフ・ルーシのスラヴ語と混じり合っ て,「十一世紀初頭の三十年余りの間に現代の研究者が『ロシア教会スラヴ語』 と呼ぶものが生まれ」,これが「キエフ・ルーシ社会で宗教のみならず文化一般 にわたって規範文章語として使用されたため,『古代ロシア文語』と呼ばれるこ とも多い」という(116 ページ)。 3 Уханова Е.В., У истоков славянской письменности. Москва. 1998. С. 38–39. ウハーノヴァは, ビザンツ教会総主教のフォティオスがモラヴィアに主教を派遣しなかったのは,「おそらく」 (быть может)ローマ教会との関係を悪化させたくなかったからだと述べている。ただし, こうした事情があったことを裏付ける資料は存在しないらしい。 4 『ロシア原初年代記』(名古屋大学出版会,1987 年),132 ページ。 5 Успенский Б.А., Краткий очерк истории русского литературного языка (XI – XIX вв.). Москва. 1994. С. 13. 6 「東方キリスト教を導入することでヴラヂミルは自分の王国をビザンツ文化と緊密に結び つけたのであった。[…]ただし,スラヴ語の書物やスラヴ語による儀式はビザンツから到 来したのではない。それはブルガリアからでしかありえない。つまり,ビザンツと軍事衝突 を続けていた国からなのである。なぜキエフの年代記にブルガリアとの接触について一言も 触れられていないのかは,全くの謎である」(Alexander Issatschenko, Geschichte der russischen
筆者が「古代ロシア文語」と呼んでいるのは,かつてはヴィノグラードフ (В.В. Виноградов)やフィーリン(Ф.П. Филин)が,そして現在ではコーレソ フ(В.В. Колесов) が 好 ん で 使 う древнерусский литературный язык の 訳 語 な のであろうか。本稿の中の引用部分に何度か出てきた「文章語」はおそらく литературный язык のことなので,これに древнерусский という限定語を被せれ ば,「古代ロシア文章語」となりそうなものである。それはそれとして,「古代ロ シア文語」が「ロシア教会スラヴ語」(церковнославянский язык русского извода) のことであると述べたことに,ロシア文章語史にかんする筆者の立場が一部反映 されている。 3. スラヴ人とスラヴ語の歴史について スラヴ人の初期の歴史,共通スラヴ語時代と南・西・東の 3 グループへの分 化,そして現代スラヴ諸語におけるキリル文字とラテン文字の分布は,スラヴ語 の概説書なら,導入部で扱われる話題である。しかし,これらの話題は歴史上最 初の規範化された文語である古代スラヴ語の成立と発展と衰退のプロセスを先に 知っておいた方が理解しやすいはずである。ものごとを順序立てて考えると,先 ずスラヴ民族が居住地域を拡大し続け,やがて自分たちの国家を形成したり,あ るいは他民族の国家に編入されたり,あるいは国家が分離独立することが 20 世 紀末まで繰り返された。その結果,現在の中欧,東欧,ロシア連邦においてスラ ヴ人が国民の多数派を占めることもあれば,少数派の地位に置かれているという こともある。そしていずれの場合においても,規範言語(近代以降は「公用語」) の問題が付き纏うのである。この意味で本書の構成には説得力がある。 4. スラヴ研究の政治的な意味について 19 世紀は民族主義の時代である。現在,古代スラヴ語の「正典(カノン)」と みなされている写本群の多くが 19 世紀の 40 年代から後半にかけて発見・公表さ れたこと,そして「スラヴ民族のそれぞれが学者を輩出」(154 ページ)したこ とと民族意識の興隆とは切っても切れない関係にあることを著者は強く意識して いる。この時代にスラヴ系住民が多数派を占める独立国家はロシア帝国だけなの
だが,スラヴ学研究はオーストリア領内で活躍していたスラヴ人研究者たちが先 導し,やがてロシアの研究者たちとの交流も深まり,研究の水準が高まることに なる。その理由について筆者は「おそらく,ほとんどのスラヴ人が他の民族の支 配下にあった状況下では,『汎スラヴ』的な意識が,特にスラヴ学草創期におい て,研究者間の連携にも好影響を与え,そのことがスラヴ学をより発展させるこ とになったのであろう」(164 ページ)と述べている。 以上のように,本書は単に古代スラヴ語をめぐる歴史だけでなく,スラヴ諸語 の概説やスラヴ世界における規範的な文章語の形成史も視野に入れた良質のスラ ヴ学入門となっている。かつて故千野栄一先生が本誌『ロシア語ロシア文学研 究』に寄稿された木村彰一『古代教会スラブ語入門』への書評の中で,「教育学 的見地から見て古代教会スラブ語でこれ以上の入門書が今後日本で出版されると は考え難く,少なくも 50 年は役に立つし,もしかすればそれ以上も長い年月の 使用に耐えるものと考える」と書かれている7。34 年前にこの書評を読んだとき, 評者はやや大袈裟な言い方ではないかと思ったのだが,千野先生は正しいことを 言われたのだということが今はよくわかる。実際に評者自身がいまだに木村先生 の入門書のお世話になっていて,確かにまだ当分使い物になることを実感してい る。服部氏の著作についても,木村先生の「入門書」と同じように,息の長いス ラヴ学の入門書となる可能性が高い。著者の筆致は古代スラヴ語の成立の経緯を 扱う文献に時々見受けられる宗教的な(あるいは反宗教的な)イデオロギーや政 治的イデオロギーとは無縁のニュートラルなものであり,すでに述べたように史 実の隙間を推測で埋めることを著者が極力避ける手堅さが際立っていて,あまり 時代の変化の影響を受けないのではないかと思われるからである。 (おかもと たかお) 7 千野栄一「書評:木村彰一著『古代教会スラブ語入門』白水社,東京,1985」,『ロシア語