《書評》三宅晶子著『歌舞能の系譜―世阿弥から禅竹へ―』
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(2) 横浜国立大学国語教育研究 No.44(2019) 言葉に込めることで、その意図する所を演者、またそれ. の作者」は、世阿弥作と長らく考えられてきた〈姨捨〉. を見る観客に対して明示する。これにより演者は世阿弥. が実は禅竹作ではないかということを指摘している論考. の言葉を辿っていくことで、自然と一曲の能が出来上が. である。世阿弥と禅竹について整理してきた著者による、. るようになっている。従って世阿弥は、言葉が持つ豊か. 締めくくりの様な性格を持っていると言えよう。. な世界を存分に利用していると言える。一方で、禅竹は. 5、おわりに. 一曲の中でなるべく語らずに曖昧さをあえて残す。すな わち言葉で表現されない抽象的なものに重きを置くこと. 昨今小中高問わず、能や狂言、歌舞伎の内容を教科書. で、演者や観客に想像させるといった点が挙げられる。. に取り入れていこうとする動きがある。古典芸能という ものは、実際に見ること、聞くことを体験せぬままでは、 人にいざ教える場面に直面した際、非常に億劫に感じて. 4、類型化する能 本書タイトルにもあるように、 「世阿弥から禅竹へ」継. しまうかもしれない。そのため解説を見ながら聞きなが. 承される中で起こった能の変容について述べる第二章が、. ら、内容そのものの面白さや細かい動作一つで特定の感. 本書における中心的なテーマである。. 情を表現する能の奥深さに触れる機会を一度は作ること. 世阿弥によって作り上げられた曲目はそれぞれ強烈な. が望ましい。その点で作能者として著名な人物の曲目の. 個性を持ち、世阿弥の狙った通りの演出を行うことがで. 解説を多分に含んだ本書は、読者に対して色とりどりの. きる。ゆえに演者も観客も理解しやすい能が生み出され. 能の世界を開いてくれる。 とは言え本書は能に関してやや発展的な内容を擁する。. た。時代は下り、世阿弥の作法を真似た類型的な作品が 多数登場するようになると、類似作品が多数誕生した。. そのため入門書としての立ち位置は同著『世阿弥は天才. 類型化というとオリジナリティの欠けた、同様のものを. である. 再生産する営みを連想し聞こえは悪い。しかしこの類型. ねることとして、能についてさらなる知識を深めるため. 化こそ、現在に至るまでの能のあり方を確立させた一大. に読むとよいのではないか。. 要因なのである。 能の類型化が行われた時代の真只中を生きた禅竹こそ、 類型化を行う中心人物であった。禅竹の行った類型化は 本説紹介を省き、舞の意味を曖昧化した。しかし、基本 的に世阿弥の作る能の形式に従っているため、決まりの 手順通りに展開するということを演者や観客が理解して いる状況下において、能の状況説明や場面解説を省くこ とを可能になった。すなわち、類型化により能の曲目が 一般化され、誰にでも演じやすくなることで、約束事の 範囲内で能を理解し演じ、鑑賞する流れが作り出された。 このように現在にまで伝わるその後の能の進むべき道を 決定したのは禅竹であり、本書の著者はこの意味で禅竹 までを能の創生期に含めたのである。 以上世阿弥と禅竹への系譜を述べたのち、それぞれの 能作者たちの代表作や、能の伝書といった書状からうか がい知ることが出来る側面を体系的に三章~五章で明ら かにしている。特に本書最後に収められている「〈姨捨〉. 90. 能と出会うための一種の手引書』 (草思社)に委.
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