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新刊紹介 : 文化 (コリア研究 1号)

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Academic year: 2021

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まずは小説。1975 年生まれのチュ・ウォンギュが書いた『列外人種残酷史』である。これは第 14 回 ハンギョレ文学賞受賞作品である。題目からして尋常ではない。「列外人種」とは競争社会のシステムか らはみだした(列外した)者たちだ。しかしはみだす前にも、はみだした状況においても、その者たち は競争の構図から抜け出ない。よって、列外人種は言うなれば、あらゆる韓国人を指す言葉でもある。 熾烈な競争社会でありながら賤民資本主義(pariah capitalism)である韓国社会を生きる全ての人々が、 列外人種であらざるを得ない。 列外人種は例外なく羊の頭を持つ。自分だけで生きていけない存在であるため、いつも羊飼いを待っ ている。しかしどんな羊飼いも、羊の頭をした列外人種を列外から抜け出せるところまで連れてはいか ない。そうした点で羊の頭の列外人種は「犠牲の羊(スケープ・ゴート)」であり、それを抜け出るには 主体性を回復しなければならない存在である。しかし実際にはそうすることはできない。羊の頭をして 羊飼いを待つ自らを拒否し、主体性を拡幅するために何事かをなさなければいけないが、未だそうする 力と知恵を持っていない。 チュ・ウォンギュが列外から抜け出るキーワードとして提示するのは憤怒である。主体性を回復する 力と知恵を救うためには、憤怒が優先されねばならない。憤怒こそが変化の引き金となる。列外に押し 込められている状況に対する憤怒無しには、この状況を突破することはできない。社会の矛盾に対し革 命を引き起こすための憤怒をいうのではない。追い詰められた生存の条件に直面するなかで得られた憤

文 化

元 容 鎮

(西江大学校コミュニケーション学部教授)

チュ・ウォンギュ

『列外人種残酷史』

(ハンギョレ出版社、2009 年) 주원규『열외인종 잔혹사』 한겨레출판사 ,2009  2009 年 に 韓 国 で 出 版 さ れ た 「 文 化 」 分 野 の 三 冊 の 本 を 選 び 、 書 評 を 書 く よ う に と の 要 請 を 受 け た。 文 化 は 定 義 す る 人 ご と に 異 な る 姿 で 描 か れ が ち だ。 私 な り に 文 化 を 定 義 す る と 次 の よ う に な る。「 自 然 で は な い こ と を 自 然 で あ る か の よ う に 感 じ る こ と 」 で あ る。 全 く 自 然 で は な い も の を 自 然 で あ る か の よ う に、 自 ら の 名 札 の よ う に つ け て 歩 く、 今 日 の 韓 国 の 文 化 と は 何 だ ろ う か?  そ の 中 で も 最 も 代 表 的 な 自 然 ら し さ は 何 だ ろ う か?  こ こ で 私 が 選 定 し た の は 金 と 新 自 由 主 義 だ。 そ し て こ れ ら の 用 語 ら と 連 鎖 的 に 列 を 為 す 競 争、 欲 望、 個 人 の 幸 福 な ど で あ る。 こ れ が 本 三 冊 を 通 し て 見 た 今 日 の 韓 国 で あ る。67 年生まれ、71 年生まれ、75 年生まれの知識人の思考から解いた韓国の実情である。確か に 彼 ら は 今 の 韓 国 の 文 化 状 況 に 絶 望 し て い る。 韓 国 の 左 派 た ち が 示 す 旧 態 依 然 と し た 代 案 に も 失 望 し て い る。 だ か ら 新 た な 世 代 と 対 話 で き る 新 た な 方 式 を 示 し た。 憤 怒 し よ う と も し、 恐 怖 か ら 抜 け 出 る 方 法 を 講 究 し、 憤 怒 と 恐 怖 す ら 思 い 浮 か ば な い よ う に す る 空 間 を 提 示 し た。 互 い に 異 な る 主 張 で は あ る が、 急 迫 し 痩 せ 細 っ た 韓 国 の 若 い 世 代 の 胸 の うちをよく表している。

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抜け出ることができるのではないかという漠然とした期待を持たせるだけだ。理性は憤怒を通して始末 されなければいけない存在だ。 組織的ではなく集合化されてもいないが、疎外された人々の憤怒はすでに社会の中で持続的に表出さ れている。点のかたちで憤怒が表出されているのだ。よって列外人種にとって韓国社会は両義的だ。憤 怒が部分的に表現されているという意味では変革の可能性が無くはないが、組織化されず互いに憤怒を 分かち合えない点では希望が無い。もちろん、その可能性と失望は世代ごとに差異がある。30 代は絶望 に近いほどに羊の頭に満足しており、20 代は沈黙しているだけだ。憤怒の状況に追い込まれざるを得な い存在論的状況にある 10 代は、結果として憤怒の世代になりうるのではないだろうか。 儒教的家父長制が米国式賤民資本主義と出会い、韓国的桎梏を頂点に押し上げている。憤怒はまずそ こに向かわねばならない。どうしようもなく見える 10 代は、むしろ儒教的家父長制から遠く離れており、 資本主義を担わねばという革命的強迫とも距離がある。だから 10 代に希望を託すのかもしれない。厳 粛主義を抜けでてかっこよく遊ぶことを望み、よりよく食べることを求めるその者たちは、むしろ生存 剥奪に対する憤怒をより徹底的に示すと信じるからだ。だから大衆文化を通じてコミュニケーションを 持つ彼らに希望を託すのである。 文化生産者の使命もこれに合わさねばならないのではないだろうか。新たな感受性で社会進出を控え ている彼らが憤怒できるように助けることに、焦点を合わせなければならない。『列外人種残酷史』がも どかしい情緒を植えつけようとするのは、憤怒を誘導するためだ。憤怒を誘導するため、多様なエンター テイメントに接した新世代に合うように多様なジャンルを混合させている。著者チュ・ウォンギュは羊 の頭を率いる羊飼いになる代わりに、怒りで羊の頭が割れるほどに腹を立たせる羊飼いになることを選 んだようだ。

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1971 年生まれ、オム・ギホの『誰も他者を援けるなかれ』は憤怒すらしない世代について記してい る。世界を巡った著者が韓国に戻って最初についた仕事は、「ハジャ・センター(Haja Center)」という オルタナティブ・スクール(代案学校)で子供たちを教えることだった。教師として新たなぺタゴジー の問題に関心を持った。社会の現実を示し、批判的に判断できるようにした後、行動を促すペタゴジー を持続させようとした。しかし子供たちの抵抗にぶつかる。子供たちは不条理や不平等な社会状況自体 から目を逸らした。また、そうした状況を見ても批判的意識を持たなかった。怒るべきものに憤怒しな い子供たちに当惑せざるを得なかった。そんな子供たちを見て、ある者は保守的な世代が登場したという。 しかし著者は、この憤怒しない世代、この人々が怒らない理由を捉えようとする。 怒らない子供たちは、いかなる感情と感受性を持つかを仔細に観察した。観察から得られた結論は簡 単である。悲惨で不条理で不平等な状況を見て抱く感情は、憤怒ではなく「恐怖」であるということだった。 以前ならば「私ならば、ああはならない」と考えたから怒ることができたが、いまは「私もいくらでも ああなりうる」という考えを抱くようになり、憤怒よりも恐怖感が先に立つのだ。これまでのペタゴジー が失敗するのは当然だった。新たなペタゴジーを啓発しなければならない。そして、この恐怖の実体は 何であり、いかに作り出されるのかを明らかにした。新自由主義というシステムが持続的に恐怖を拡大・ 再生産し、人々を包摂している。 この時代に屈しないのはむしろ例外的だ。非正規職ではない正規職が例外であるように、屈するのが 日常茶飯事となった。あらゆる者たちは、どうすれば屈しないで済むかという問題と格闘する。その解 答は一つである。自らが持つあらゆるものを、資本に転換する方法である。周辺にあるあらゆる資源を 資本のように扱い、これを拡大・再生産する方法で投資し管理しなければならない。そのためにはあら ゆるゲームのルールを幼時から体得しなければならない。龍山惨事 * がそのいい例だ。没落が普遍化した この時代には、誰も私を守ってはくれない。国家でもなく福祉でもない。一つしかない。それは財産で ある。財産だけが私を守ってくれる。だから人々は望楼に上がる。また新たなマンションを求める計画 を立てている者たちは、望楼に上がった者たちを指差し、「なぜ人の財産に手をつけるんだ」とむしろ龍 山の被害者を非難することになる。 こうして、社会的失敗の費用は、みな個人が負わねばならないものへと変わる。構造調整により、会 社を追い出された者たちは、自分に能力がないからそうされたのであり、残った者たちは責任を果たし *  2009 年 1 月、ソウルの龍山地区で再開発のための立退きに抗議して篭城していた人々に対して警察が機動隊を投入、そ の過程で火災が生じて機動隊員 1 名と住民 6 人が死亡し、23 人が負傷した事件

オム・ギホ

『誰も他者を援けるなかれ−人文学の目から見た新自由主義の素顔』

(ナジュンサン、2009 年) 엄기호『아무도 남을 돌보지 마라-인문학의 눈으로 본 신자유주의의 맨얼굴』낮은산 ,2009

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出され、何人かは生き残った。しかし追い出された者たちが猛烈に非難された。仕事をうまくこなせな かったから、自己啓発を怠ったから、残る資格が無いのだから当然に追い出される者との烙印を押された。 生き残った者は、自己管理を忠実に行った者であり、こうした実績は会社の責任でも、国家の責任でも ない個人の責任になってしまった。あらゆる社会的費用は個人化してしまったのだ。 社会的費用すら抱え込まなければならない個人にとっては、英雄だけが慰労の資源だ。前よりも多く の英雄たちが国家を代表し、個人を慰撫する。英雄たちの成功こそが国家の成功であり、私にも一定の 分け前を与えてくれるのだから、個人的成功に等置される。ヘーゲルの『法哲学』には国家が登場する と英雄は息絶えるとあるが、未だ韓国は英雄が国家に代わって個人を慰撫する。普遍的意志と理性を代 弁する国家がいまだ存在しないかのようだ。よって英雄を求める心理はより強くなり、特殊な意志を持 つ英雄を探す熱狂が蔓延する。個人を代議する政治に対する信頼が失われた傍証でもある。個人は政治 の失踪について単純に整理してしまう。どうせなら金の話をする実用性のほうがより政治的だ。紳士ぶっ ているよりも、率直に金をたくさん稼いでやるというほうがよっぽどかっこいい政治だ、と。人々は虚 像的英雄によって慰撫されたがりながら、諦めることを反復している。何であれ自分を助けてくれない だろうと考えた結果だ。恐怖のなかでなしうることは、そのくらい制限されるのだ。 恐怖に直面した子供たちに教えるために、著者が考案したペタゴジーは何か?本人だけではなく韓国 の知識人たちに伝えるメッセージでもある。現実を新たに理解する思惟と態度を触発させることに邁進 できるような代案を示す。新たなことを始められる感覚を学生、あるいは読者に促すようなことをしな ければならない。新たな知、新たな認識、新たな実践、新たな反省などを触発し、激励することである。 自らが身を置いている領域、講義室、私的空間、市場など、あらゆる場所を新たに跳ぶ「ロードス」と して認識しなければならない。新たなジャンプを通じて恐怖を越えられるようにしなければならない。 恐怖の外に出たことが無い者たちに、恐怖の世界には外側があることを伝え、その道を歩めるように知 らせることが彼の新たなペタゴジーなのである。 **  2009 年 5 月、雙龍自動車が大規模な整理解雇案を出したことに対し、労働組合が無期限ストに突入し工場に篭城した ことに対し、警察が武装警官を導入してストライキ参加者を拘束・処罰した事件。経営側はスト参加者に対し休業命令を 発令した。〕

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三番目に出会う本は、1967 年生まれのカン・シンジュの『傷つけられない権利』である。カン・シンジュ は憤怒することもなく、恐怖に震えることも無しに傷つかない場所を探そうと勧める。私たちはいま、 資本主義のハビトゥス(habitus)に支配されている。こうした資本主義的ハビトゥスに従う生が、果た して幸福な生だろうか。違う。しかしこれを自覚するのは難しい。資本主義は生まれたときから私たち に先験的に与えられる、記憶のかたまり、習慣のかたまりだからだ。既存の記憶を他の記憶へと、私が 選択していないハビトゥスを私が選択し、決定するハビトゥスへと代替することが必要だ。よって優先 的に現実に対する診断を下さねばならない。しかしこれも容易ではない。現在を肯定し持続的に資本主 義ハビトゥスの中に安住させようとする言説が、そこら中に広がっているからだ。 「現在を肯定せよ」という言葉の含意は決まりきっている。資本が望むのは、生を肯定することではな く、ただ消費することである。ニーチェが現在を肯定せよといった時の「現在」とは、永遠の現在である。 いまこの瞬間、そしてこの瞬間、そしてこの瞬間。ところが資本のいう現在とは消費するただ「その瞬間」 にすぎない。金があり消費をする「その瞬間」は肯定されるが、他の時間は肯定されない。資本は堂々 とそうした表現を随所にちりばめる。「ノマド」という表現がいい例だ。ドゥルーズは既存の習慣世界に 生きる者を定着民、脱走する者を遊牧民、すなわちノマドと表現した。ところがこのノマドという表現を、 サムソンのような企業が使っている。ニーチェとドゥルーズの表現から、自由や開拓といったイメージ だけを抜き取って使っている。それが消費をうながす助けになるからだ。現在に対する肯定やノマドと いう表現は、現在のシステムに反する内容であるにもかかわらず、それを再び専有して使っているわけだ。 こうした方式の専有がところどころにあるために、資本主義のハビトゥスから抜けでて新たなハビトゥ スを形成することは容易ではない。 新たなハビトゥスの形成のための条件自体も、同様に暗鬱である。ブルデューは生計水準がある程度 確保されたとき、人間は未来を夢見ることができると語った。いわゆる 386 世代は生計問題が解決した ために、独裁打倒などの政治的行為をなすことができた。ところがいまは事情が違う。就業もできず、 できたとしても非正規職であり、いつ解雇されるかわからない状況に置かれている。2000 年代以降、 大学で政治的デモが惨憺たるものとなった理由もここにある。目の前の生存が危ういため、若い世代は 未来、連帯、こういったものをぜいたく品とみるほかない。ときおり 386 世代は、最近の大学は保守的 だと批判するが、それはよい時代に生まれた自己に対する省察が足りないために出てくる言葉だ。 新たなハビトゥスを作ってゆく社会的な力は弱いが、カン・シンジュは傷つかないために逃げられる 空間を代案として提示する。代案は明瞭で単純だ。貨幣の力、無限に増殖するその力を縮減させねばな らず、大衆はその縮減した力を経験しなければならないという。独りでその契機を作ることは不可能だ。

カン・シンジュ

『傷つけられない権利−欲望に揺らぐ生のための人文学的報告書』

(プ ロネシス、2009 年) 강신주『상처받지 않을 권리-욕망에 흔들리는 삶을 위한 인문학적 보고서』프로네시스 ,2009

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せず、金を稼がず、そして消費をしなければ何を食べて暮らすのか。そこで出される答えは資本主義的 生産と商品に参加しない者たちが集まり、助け合いながら暮らすことである。そうした共同体を作り、 その共同体を育んでいかねばならない。 しかしこれにも心配が無いわけではない。そうした共同体が大きくなった時、資本主義がその共同体 をそっとしておくだろうか、ということである。実際に 20 世紀初頭のドイツで地域共同体の活動があっ たが、公権力がこれを強く弾圧して解体させた事例がある。資本主義は資本を神のように崇めるシステ ムだが、その神を拒否しようとする者たちが無事でいられるだろうか。資本を崇める者たちと、その者 たちが納めた税金で運営される国家が、あたかも宗教弾圧でもするように弾圧しないだろうか。伝統的 な革命無しに変化が可能だろうか。金で投機をしなくても、助け合う者たちを次第に増やしていく修正 主義的運動が、どこまで可能なのかという心配が後に続かねばならない。 しかし著者は現在の状況では、戦術的にそうした運動が一つ、二つずつ増えていくことだけでも十分 だと考えており、それ以上の代案も手中にない。資本主義がそれほど幸福をもたらすシステムではなく、 むしろそのシステムが私たちに傷を負わせていることを示すだけでも、満足しようとする。言い換えれ ば傷だけが正確に診断されればそれで足りる。代案を提示するよりも、現実を示し、そうして現実に対 する診断を共有しようとする。性急にある指向点を提示する政治的指導者であることは拒否する。人々 の隣で共に問題意識を共有する哲学者、人文学者として留まることを望むのだ。人々と共に生の問題、 実践の問題、未来の問題を共有することだけで満足しようとする。生は目的ではなく過程が重要なので あるから、その過程をどのように歩むのか、横で共に歩んでいる者が誰なのかを問い返し、苦悩するこ とが自らの役割であると規定するのだ。

参照

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