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ニーチェ・コントゥラ・パスカル(その4) : ニーチェに於ける畏敬の「心胸」の破棄

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(1)

ニー チ ェ ・コ ン トゥラ ・パ スカル (そ の

4)

Nietzsche contra Pascal (4)

―Das Zerbrechen des verehrenden Herzens bei Nietzsche―

(i) ニーチェがその根本思想たる 「永劫回帰」の思 想を主題的に展開 したのが ,かの1883年か ら1885 年にかけて公刊 された Fツァラツス トラは斯 く語 りき』 ("Also sprach Zarathustra")と題 され た著である。 しか し,その書で語 られるのは 「永 劫回帰」の教説ばか りでな く,それ と達関 して 「神の死」の教説

,

「超人」についての教説など ニーチェの主要な思想の多 くが ,ツァラツス トラ の口を通 して ここに語 り出されている。それでは 一体ツァラツス トラは誰に対 して これ らの教説を 語 ったのであろうか。この書のサ ブタイ トルに日 く

Fすべての人のためにして且つ誰のためにも 非 ざ る書』 (Ein Buch.fiir Alleund Kei -nen)と。この書が 「すべての人のために して

つ誰のためにも非ざる」とは,一見矛盾 した奇妙 なことに聞こえるが ,では一体その意味す るとこ ろはどこにあるのだろうか。

まず Fツ ァラツス トラの序説』(Zarathustras Vorrede)で ,ツァラツス トラは三十歳の時山に 入 り十年の間倦むことな く 「その精神 とその孤独 とを享受 した」が

,

「しか しその心臓は最後 に転 g Lf=J(1)(Endlich aber ve,wandeltesich sein Herz.) とい う。その彼が ,過剰な充溢か ら 「深 みへ と登 らざるをえない」(In dieTiefe steigen mtissen)といういわば運命的な意志 に よって

,

「再び人間にな らん」 と意志 し

,

「山を ただ独 り降っていた」。 途中隠遁者に出会い ,さ らに市場にいたって多数の 「民衆に対 して ツァラ ツス トラは斯 く語 りき」という。すなわち

,

「わ -

59-圓

Haruyuki Enzo

●●●●●●●●●●●●

た しは汝 らに超人を教える。人間 とは,超克さる べき何 ものかである。汝 らは,人間を超克す るた めに何をな したるや」(2)と,超人の数説を説 き始 めたのであった。この場面を後に Fツァラツス ト ラ』第四部 (最緒部) 「より高さ人間について

(vom h6heren Menschen)と題された章でツァ ラツス トラは回顧 して次の如 く語った。すなわち, 「わた しが初めて人間のところ- と釆たり し時 , わた しは隠遁者の痴愚を,すなわち大いなる痴愚 を行なった。わた しは市場に身を置いたのだった。 そ してわた しがすべての人に語 ったとき ,誰にも 語 っていなかったのだった

と。か くして今や ツァラツス トラが喚びかけるのはすべて の人にで はな く

,

「より高さ人間」に対 してであ る。 「よ り高 さ人間」 とは単に他の人 と比較 して 「より高い」というだけではない.自分 Ei(9才と比 較 して常に 「より高さ人間」である。だか らツァ ラツス トラはこう喚びかける

「汝 らの心臓を 高めよ,わた しの兄弟たちよ,高 く ! もっと高 ( !J(4) ( Erhebt Cure Herzen,meine Briider,hoch!h6her!)と。 したがって,ツァラツス トラが喚びかけるのは, その喚びかけに応 じる者 ,すなわち,喚 びかけに 応 じて自分の 「心臓」を高める者 ,か く して 自分 自身を超えて上昇 しゆ く者にである

『ツ ァラツ ス トラは斯 く語 りき』という書を読む者 も,この 喚びかけの外に立ち続け自分自身は転身す ること な く,そこに書かれていることを 「理解」 したり, 「解釈」 したりせんとして も,それでは読んだこ とにならない

Fツァラツス トラ」を読 む ことに 於いて自己を超克 し転身 しては じめて本 当にそれ を読んだことになるのである。いみ じくも-イデッ ガ-はその大著 Fニーチェ』で次のように言 って

(2)

いる (5)

0

「ニーチェは Fツァラツス トラは斯 く語 りきi という標題の作品に同時に次のような副題を与え た。すなわち Fすべての人のために して且つ誰の ためにも非ざる書』と。この書の謂うところは各々 の人に,すべての人に向けられている。 しか し, まさにあるがままの各々の人は,前 もって且つ同 時に転身す る (sickverwandeln)のでないのな ら,貢にこの書を読む権利はない。すなわち,あ りのままの我々のうちの誰のためにも非ざる書な のである。すべての人のために して且つ誰のため にも非ざる書 ,したが って ,決 して直向的に F読 ま』れることができない し,読まれるべ くもない 書なのである」0 しか し,すべての人に向って自己超克を ,転身 を喚び掛けるツァラツス トラは,なによりもまず 誰で もない自分 自身に;なかんず く自己超克の働 きをなす 「自分自身の心臓」に向って喚びかけな ければならない。実際また ,ツァラツス トラは, ある時は隠遁者に,ある時は民衆に,またある時 には 「より高さ人間」に向って と,様々の者に対 して語 り掛けるのであるが ,結局のところなによ りも 「自分自身の心臓」に対 して語 ったのであっ た。そ してそれに呼応 してツァラツス トラの心臓 の方 もたえず 自分自身を超克 し,転身 してゆ くの であった。 -以上 のことか ら明 らかなよ うに ,ニーチ ェの Fツァラツス トラ』のテーマはなによりも

,

「心 臓の転身」についてである。その叙述は,ツァラ ツス トラの自分 自身の心臓-の語 り掛けと,その 「心臓の転身」とを軸に展開 してい くのである。 まずは先に引用 した F序説』冒頭に見 られ るよう に,そ もそ も Fツァラツス トラ』という書の叙述 自体が他ならぬツァラツス トラ自身の 「●●● 心臓」の 転身と共に始まる。 このツァラツス トラの 「心臓」の転身 と共に, それに呼応 して Fツ ァラツス トラ』を読む者 の 「心臓」 も転身 していかな くてはな らない。そう でなければ,い くら Fツァラツス トラ』を読んだ とて,実は少 しも読んでいないのである

Fツァ ラツス トラ』は紛れ もな く

,

「頭」で もって読ま れるべきではな く

,

「心臓」で もって読まれるべ き書物である。 Fツァラツス トラ」以後の 「真昼」の哲学 とよ ばれる時期のニーチェの著作で彼固有の哲学が展 開され るのであるが ,この時期の前段階 となって いるのが,レ-ヴィットの 「ニーチ ェの著作の時 代区分」によると

,

F曙光』 と F悦ば しき知識』 の 「曙光」と 「午前」の哲学だとされる (6)。その F曙光』に後になって Fツァラツス トラ』第 4部 出版の1年後の1fB6年に,増補された 「序文」の■●●● 最後で ,読者に対 し●●●■I●●●

,

「よ く読む ことができるよ うにならんことを!●● !」と,望んでいる。ここでは, 「よく読む」とは 「織細な指と繊細な眼と」で もっ て読むことだといわれているのである(7)が ,それ こそまさにパスカルでいう 「払細の精神」に属す るものであるといってよいだろう

Fツァラツス トラ』は,まさに 「心臓」でもって読まれてこそ, tp ね つ むね はじめて読む者の 「心胸」を鼓ち

,

「心胸」を開 くのである。そのよ うな読まれ方 でなければ , Fツァラツス トラ』はたとえすべての人 に読まれ て も,誰一人として読んでいない ことになるので ある。 (Ⅱ) ニーチェの最 も独創的思惟が ,その著 F曙光』 こも に於いて目覚め始めたのと同様 ,山に隠 って10年 「心臓」の転身を果た したツァラツス トラも,或 る朝 「曙光」と共に起き出でたあであった。その ツァラツス トラが太陽の前に歩み出て,太陽に向っ て斯 く語 りかけたところか ら,"Zarathustras Vorrede"は始まる。すなわち, 「汝 ,大いなる天体よ ! 汝が照 してや るもの どもを もし汝が もたなかったのな ら,汝の幸せは 何であろうや ! 10年間汝はここわが洞窟-昇 って きた。わた し とわが鷲とわが蛇とな くしては,汝 は汝の光 と汝 の道とに倦み果てたであろうに」0 この場合の 「太陽」は,プ ラ トンのあの有名な 「洞窟の誓

」(8)に於ける 「太陽」 と類似す る語 感の響 きを余韻 として残 しなが ら,それよ りも 「意志的」なニュア ンスを強 くもつ。単に 「照 ら し」 ,認識を可能とするだけではな く,自分が照 らす ものを必要 とし,地上をばか りでな く,地下 にも光をもたらさんがために

,

「海の背後

-

」 と

(3)

降 り行かざるをえない,そういう運命的意志を も つ太陽である。そういう太陽-喚びかけるツァラ ツス トラは,まさに 「太陽の意志」 (Sonne n-wille)(9)を意欲する。 革命 (Revolution)は語源的 には元来 ,天体 の回帰的運行を意味 していた.地上のEEl家転覆 (いわゆる 「革命」Revolution)ち,近世初頭 ,●●● 最初は ,この天上のRevolutionによ って必然的 に引きおこされる運命的出来事 と等 しく,自然法 則 的に不可避な出来事 とい う意味でRevolution として うけとられた。 しか し,後 には,18世紀以 降様々の政治的社会的 「革命」が 自然法則的必然 性によってだけではな く,意志的な必然性 (必要 性)によってひき起 こされ るようになる¢0)。 しか し,その場合そう意志され るのは ,現実的なるも のが理性的ではないと意識の上 にのぼるが故に, その限 りに於いてで しかなか った。これに対 し, ニーチェの 「すべての価値の価値顛倒」は,一層 深い次元か らの,つまり意識にのぼ らざる意識の 奥か らの塵∃倒である

「海の背後へ」まで沈潜す る太陽の意志を意志 してツァラツス トラ (-ニー チェ)は意識下の暗みの奥の深みへ とどこまで も 思索 し下 りて行 くが ,その極む ことなき生の根底 のその奥の方か ら,これまでのすべての価値が価 値転倒されざるをえないのである。ニーチェの価 値願例はいわゆる 「革命」以上に革命的であり, 星の運命を背負っている.ニーチェの 「価値厩倒」 に比べれば ,いわゆる 「革命」 も所詮旧来の価値 意識はそのままにしておいて ,その上で現実 (政 治 的 ・社会 的現実)をその価値意識に合わせて 「正す」,すなわち 「踏倒す」るので しかなか っ た ¢l)O ニーチェの 「価値願倒」は価値意識その ものを その根底か ら極めて ラデ ィカルに転倒す る。価値 意識の根底からの厩例が可能なためには,願例を 遂行せん とす る者は自分の根底をその奥- と脱-根底的 (ab-griindig)に突破 していかな くては な らない。なんとなれば価値転倒を企て る者 自身 が厩倒 さるべき価値意識の うちで生 きているので あるか ら。従ってそれは生死を賭けた危険な歩み である

「ツァラツス トラの没落

(Zarat hu-strasUntergang)は,そのような自己の生め根 底を突き抜けて行 くが如き歩みである。従 って , -61 -ヘ ーゲルの弁証法論理 に於 いて 「没落」 (z u-Grunde-gehen)は積極的には 「根底に行 くこと」 すなわち

,

「根底を明 らかにすること」を意味す るが 82),ツァラツス トラが没落 (unter-gehen) していく行 き先は,--ゲルの弁証法に於ける矛 盾す るもの ・対立す るものの 「没落」の様 に , 「根底」 (Grund)ではない。む しろ敢えて言 う なれば

,

「脱 一根底」 (Ab-grund)へ 向 って歩 を進めるのである。言い換えれば ,運命的に没落 せざるをえない (untergehen mnssen)が故に, そ う意志 して生の深み- と降 りてい く意志が ,そ の最 深の処 で ,自 ら深 淵的 一自己超 越 的 一意 志

(

「カ-の意志」)- と脱一根底的に転化す るの である。

このツァラツス トラの意志の歩みは

,

F曙光』 以降のニーチェ自身の思索の歩みと軌を同 じうす る。すなわち, F曙光』 (1881年初版)に後か ら第2版で添え られた 「序文」でニーチェが言 うには,い くら事 物 の道徳的秩序が理性 によって論駁 されて も,●●●● 「しか し論理的な価値判断は,我々の疑念の勇気 が降 りてい くことのできる最低 ・最深の価値判断 ではない。すなわちこれ らの判断が存亡を共にす●●● るところの理性への信頼は,信頼 として ,道徳的 現象である」。我々は道徳の外に立って理性によっ てい くら道徳を批判 したつ もりでいて も,それで は徹底 した批判にはならない。なぜなら理性に対す る信頼自身がすでに道徳内部で成 り立 っているの であるか らである。そうではな く,我々が我々を 超えた厳 しい道徳法則にどこまで も服従 して生 き ることによって ,かかる我々の生の うちでは じめ て ,道徳が道徳によって超克されていくのである。 ニーチェの言 うところによれば

,

「我々没道徳的 なる者 ,今 日の我々神を失なった者」は

,

「ドイ ツ的誠実さと敬皮さの相続者

,

「その最内奥の 意志の執行者」であるという。逆に言えば, ドイ ツ的誠実さと敬皮さをニーチェはその生 の うちに 受継ぎ,自己否定を恐れることな く,自己の根底 に向って ,誠実さを徹底 して生 きて行 ったのであ る。このように徹底 して 自己否定的な意志によっ て生 は根底を失い,深淵となってい くのであるが , かかる深淵となった生に於いて

,

「道徳 の自己止

(4)

拐」は遂行 される。このような自己の根底を掘 り 崩すまでに至る徹底 した 自己否定の意志の歩みに 対 し,その歩みの行き先である底知れぬ生の深み の方か ら言い知れぬ 「悦び」が湧き上がって くる。 我々は,このニーチェの峻厳な歩みのうちにこそ, 知に対す る貢の 「勇気」 ・ 「悦び」をみて とらね ばならない。 すなわち

,

F曙光』序文Nr.4の終 りに於いて, 「悦びを抱きなが ら否定するが故に,自分 自身を 否定す ることを怖れぬペ シミステ ィッシュな意志 の執行者」と,言い表わ される有 り方 に到 ったの である。このような実存 は

,

F悦ば しき知識』の 第五書 (1886年増補)副題の 「我々,怖れを知 ら ぬ者」 という有 り方に直接的に結びっいている。 自分 自身の生の根底を掘り返 し,その奥に生の お 深淵を破 り開いて,しか も怖ず ること無 さ者。そ ういう者の生に於いて初めて ,その無底の深淵よ りニーチェの 「悦ば しき知識」の 「悦ば しさ」が 湧き上が って くるのである。まさにそれは底抜け の 干拓一統 凱 ト,あるいは絹 姦

yJ

である。 これに対 して ,へ-ゲルの思弁 (SpekTtllation) の立場は,絶対者をその根底と している。思弁す る (speculari) とは 鏡 (speculum) に 自分 自 身を映 し,見ることである83)0 「思弁 とは唯- ・ 普遍な理性の自分自身に対 しての活動」(14であるo すなわち,絶対者 (F精神現象学』では 「絶対精 神」)が自分の現象 した諸々の特殊な形態を通 し て自分 自身を見るとい う活動である。我々人間す なわち有限なる精神の方か ら言えば,有限なるも のを,絶対者に関係づけて観るということ,すな わち絶対者の現象として看て取ることなのである。 この様な思弁の立場か らすれば

,

「有限なるもの は総 じて 自分自身に於いて自己と矛盾 し,そのこ とによって 自分自身を止揚す る」ので ある。すべ●● ての有限なるものは自分 自身の本性によって自分■●●●● 白身を止揚 し(●●● 15),没落 してい く,いやいかざるを えないのである。逆にまた,すべての ものの根底 に横たわるもの (dasallen Zugrunde-1iegende) としての 「実体」も,そのまま自分 自身に安 らっ ていたのであ ったのな ら

,

「生なき孤独 (das lebloseEinsame)」であったろうに。 しか し, そ うで はな く

,

「実態」 は 「生 け る実態 (die lebendigeSubstanz)」 と して

,

「自己を外化

し自分 自身対白化 しなければな らない」(lq.様々 の形態の精神はそのすべてが絶対精神が外化 した もので あ り,一切 の有限な る精神 の没落 (z u-Grunde-gehen)は ,すなわち ,一切 の有限な る ものの根底に横たわる絶対者の自己自身への還帰 なのである。 以上の如 く,ヘーゲルの立場で は,なるほどい かなるもの (有限なるもの) ち,自分 自身に安 ら いえず ,自己矛盾 し没落せざるをえないとされて はいるが ,最後には,精神は 「根底 に (-自分 白身 に)」帰 り,自ら外化(ent-auBern ) した精神の 諸 形 態 す べ て を 内化 (er-innem ) し,そ の 思 い出 (Erinnerung)に身を委ね ,安 らうので あ る。翻って言うならば,ヘーゲルの 「思弁的思惟」 は,あ くまで 「後か らの後向きの思惟」 とい う意 味でNach-denken的だと言えは しないだろうか. つまりいったいヘーゲルの思惟は将来に向 って開 かれているのだろうか

「ミルネヴ ァの臭は黄昏 と共 に摺 び始め る」(1母と- -ゲルは言 うが , こ の黄昏と共に始まる哲学は明 日の曙光に繋が って いるだろうか。 いやそうではない。--ゲルの弁証法的運動に 於ける 「没落」は根拠-の没落であって,ニーチェ にみ られるような,同時に根拠その もの も没落す るような徹底 した没落ではない。根底- と立ち戻 るヘーゲルの弁証法的思考 は根底を先- と潜 り抜 け未来の内へと思惟 し入 ることはできない。 ニーチェニッァラツス トラの没落 (Untergang) はその落着 しうべき 「根底」は無い。その赴 く方 向は

,

「下 (unter)」-向 って とのみ ,言い う るだけである。 しか も,ニーチェニッァラツス ト ラは,没落を自分か ら意志 して ,没落 してゆ くの である(1g)

0

「根拠へ帰る」 ことと しての 「没落」 な ら,その根拠がまた 「没落」す ることの根拠 (理由)で もあるが,ニーチ ェニッァラツス トラ の没落には没落せざるをえない根拠 (理由)はも はやな く,ただ没落を意志す る無条件的かつ恐れ を知 らぬ意志があるだけである。 「心臓の転身」と共に始ま り

,

「自分 自身の心 臓に対 し語 り掛け」つつ歩む ところのツァラツス トラの没落の歩みには,それゆえ ,いうなればま さに 「意志 (あるいは "-ルツ ")のデ ィヤ レク ティク」ともいうべき動性がみ られ る。

(5)

それ はまた ,前 に も述べたよ うに,1880年eO)

(

F曙光』執筆の年)ごろか ら1886年 (F悦ば し き知識』の 「序文」と 「第五書」執筆の年)ごろ にかけて,ニーチェ自身が 「生き抜いた」あるい は 「思惟 し抜いた」思索の歩みで もある。 1881年か ら1882年の夏頃にかけて書かれた第1 版の 『悦ば しき知識』の最後のアフォリズム,つ まり 「第四書」の最後のアフォ リズム (アフォ リ(●●●●● ● ズム番号Nr.342)は

,

「悲劇が始 まる」と題 さ れているが ,この文は,ほとんどそのまま変更さ れず

,

『ツァラツス トラ』の冒頭 (「序説」Nr. 1)で使われている糾.そ して 4年後の再版の時 に後か ら附加され た F悦ば しき知識』の 「第五書」■●●● の最初のアフォ リズム●●(Nr.343)は 「我々の快 ●● ●● ●● 活 さ (Heiterkeit)の意 味す るところ」 と遺 さ れ ,次のように記されている。 「近世最大の出来事 - 『神は死んだ』とい う こと,キ リス ト教の神に対する信仰が信ずるに足 りな くなったということ - は,既にその最初の 影をヨーロッパ の上に投げかけ始めている。少な くとも,この光景を見るに足るだけの強 く繊細な●● 眼とその眼の内なる疑心 とを もつ少数の者にとっ ては,まさに何か太陽が没落 したかのように見え る」。神の信仰が 「掘 り下げ られた」後には,そ の信仰を拠 りどころとして築かれていたすべての もの (例えば ヨーロッパ的モ ラル)の没落 ・崩落 が今後続 くであろう。 しか し,その出来事の結果 は我々にとって悲 しく暗いものではない,む しろ, 新たな 「光 ,幸せ,軽快,快活化 ,勇気づけ,哩 光のようなもの」である (と,ニーチェは言う)0 そ して次のようにニーチェは結ぶ

「実際 ,我々 哲学者にして 『自由な精神』の者は

,

『年古 りし 神 ,死す』の報に接 し,あたか も新たなる曙光に

/

照 らされたように感 じる。我々の

心胸

は.感謝 , ホLlツオント 驚異,予感 ,期待に溢れる。 - ついに水平線が 再び開かれて現われた,まだ充分明るくないに し て も。我々の船は再び出航できる,あらゆる危険 を冒して出航できる。認識者の如何なる冒険 も再●●● び許された。海が,我々の海が再び開かれて横た わ っている。恐 らくこんなに F開けた海』はかつ て一度 もなかった」0 上のアフォリズムは

,

「神は死せ り」 という歴 史 的 ・エポ ック的出来事 と,ニ ーチ ェ個人 の -6 3-pers6nlichな生 との関わ りをよく表わ している。 ニーチュは自分の生のうち-

,

「神は死せ り」の 出来事を引き容れ,その帰結を思い切 り大胆に自 分の生のうちで徹底 させたのである。その結果 , ニーチェの生が ,その根底の奥か ら転換 したので あった。それは 「意識」の方向転換 とい った転換 で はな く

,

「心臓」の次元でのニーチ ェ個人の 「心臓」の転換である. へルツ 「心臓 (心胸)」はそれ 自身なにか或 る存在す るものではな く,む しろ様々の存在す る ものをそ うつろ の うちに容れうべ く開かれている 「空」 ,とで も い うべ きか。かつてパ スカルが嘆いた よ うに , 「汚物で濡ちる」eZ)こともあれば,ここでニーチェ が誇 らかに言っているように

,

「感謝 ,驚異 ,予 感,期待」に満ち溢れることもありうる

Q

「感謝, 驚異,予感,期待」が溢れ出ることによって

,

「心 胸」は,無限の可能性に向って広々と空 け開き, 外に出る

「心胸」は外 に,無限の可能性に,自 分 自身を曝 し出すので ある。何物 にも囚われ ぬ 「自由な精神の者」 (derfT・eieGeist)は ,皮 心坦懐,いかなる可能性に対 して も 「心胸」を空 け開いて ,開かれた地平 (derfreieHorizont) に軽々と出で立つのである。 「汚物 (ordure)」に満ちれば,人間の 「心胸」 紘

,

「掃き溜め (cloaque)」餌 に もな ろ うが , うつろ ●●●●●●●● しか し

,

「空」なる 「心胸」それ 自体 と しては, 本来忌わ しくもなんともない。そ うだか らといっ て ,ニーチェは

,

「汚物」をその 「心胸」か ら閉 め出す ことを求めは しない。む しろ逆に 「心胸」 を開き,広々と開かれた地平に出ることが求め ら れる.つまり

,

「善悪」の区別の狭院なパ ースペク ティブを超克 し

,

「善悪の彼岸」へ と超え出て広 く 開かれた地平を啓 くことが求め られるのである。 Fツァラツス トラ』の表現を借 りれば , 「まことに,人間は汚れた流れである。汚れた 流れを,自分は汚れることな く,受け容 れること ができるためだけで も,人間は海であ らねばな ら ない。/見よ,わた しは汝 らに超人を教え る。超人 こそ斯かる海である。そのうちで汝らの大いなる軽 蔑 も没落することができるのである」軸 。 ニーチェは 「超人」 (Ubermensch) というメ タフォリカルな形像に託 して ,人間 (Mensch) に対 し,差 しあたっては

,

「人間的な ,余 りに も

(6)

人間的な」狭隈なパースペクティブを超え出ること を求めている。この場合,その超越の仕方は,別 の 地平が ,従来の人間的地平を超えた別の処 にまず あって ,次いで人間がそこ-超越す るとい うので はない。今 までの地平を超越す ることに於いて新 たなる地平が同時に開かれるのである。すなわち, 生の新たなる地平は,生が 自己超克 してい くのに 伴なって,それと共に(3月かれるのである。従 って , ●● ニーチェの 「超人」は,単

「人間を超え る」者●●

を意味するというよりはむ しろ

,

「人間を超え る

という動性その ものを意味 している。つ ま り,人 間に超人を教えるツ ァラツス トラは ,その ことに よって,人間に,就中自分 自身に,絶えざる自己 超克 (Selbst-iibeT・-windung)を求 めて い る のである。 それ故 ,ニーチェニッァラツス トラが求め るの は,単に或 る一つの地平の超克だけではな く,常 に繰 り返 し地平を超え出て新 しい地平を開いて止●●●● むことのない絶えざる自己超克なのである。生は, 絶えず向上 してゆく生 (かかる生こそ生本来の生々 とした生なのだが)は,絶えず 自分か ら自分を超 えて自分の前へ 自分自身のよ り一層高い可能性を 企投的に定立 し,その自己の可能性へ と自分 自身 を超えてい くのである。 このよ うに自己超克の跡 絶えぬためには,上昇のための踏み台なき場合に ら,自分 白身の頭に足を掛けてで も,上へ と登 っ ていかなければならないeS)Oいやむ しろ,斯 くの 如き,自己以外の何 ものを も悼まず ,自分だけを 侍んでの上昇 - すなわち,底無さ深淵よ り自乗 的に向上に向上を重ねての上昇 こそ ,かえ って最 も開かれた自由な上昇なのである

「自由な精神」 よ たの とは自分自身だけに しか莞 らず悼まぬ不罷なる精 神である。ただ単に無限に広漠 と開かれた地平に 漫然と立つ精神ではない。その自己超越と共に諸々 の地平を数限 りな く自分 白身か ら繰 り開いてい く 精神である。従って 「自由な精神」の広さ 「心胸

は,単に或 る一定の包括的地平 とい うよ りも,あ らゆる包括的地平をその内に掻き抱 く包括者 ,-ツァラツス トラの言い方 によれば

,

「諸々の包括 の包括」 (UmfangderUmfange)朗 である.

ツァラツス トラ-ニーチ ェの没落 ・下降は ,自 よ 分 自身が拠 って立つ根拠を何処 まで も掘 り下 げて 生きて行 くのであるが ,斯 く底無さ自己超克的活 動 となった生は,そのまま取 りも直 さず ,自己に よ 拠 りて 自己を乗 り超えて ,その深淵よ り騰々と上 昇 しているのである。すなわち,ツァラツス トラ-ニーチェの透徹 した生き方 に於いて は ,- ラク レ イ トスの言を借 りれば

,

「上 り道 も下 り道 も一 に して同 じものである」的 。実取 ツ ァラツス トラ も言 っている

?

「われ ,ツ ァラツス トラ.生の代 弁者,苦悩の代弁者 .円環の代弁者 - われ ,汝 を呼ぶ ,わが最 も深淵的なる思想を目 方歳 ! 汝来 る- われには汝が聞え る ! わが深淵は●●● 語 りぬ ,我 々が最後の深みを光の うち-裏返 し ぬ」的 と。あるいはまた

,

「頂上 深淵 - 今や これは一つに閉 じ合わ さった」eg)と も,言 い表 わ している。ツ ァラツス トラ-ニーチ ェの没落-の意志は遂には根底を突 き抜いて ,暗闇に閉ざさ れた深淵を ,深淵のまま ,裏返 して明 るみの極頂 - もた らす。その場合深淵は,深淵のままで ,裏 返 しに天空の限 りな く澄みきった円天井 となって , 一切の事物の上に,香 ,一切の地平の上に懸か り, 一切を包み込むのである。 ツァラツス トラ-ニーチ ェの徹底 した没落の歩 みによりその底が抜け落ちた生は,深淵のなかで , 自分か ら自分自身を超えて 自分- とい う自己回帰 的な

,

「純動」 とも言 うべ き活動 と してその純粋 な姿を現わす。その底無 しの深淵 にまで透徹 して 自分自身となった生 にとって ,自分 自身の生のみ ならず ,その生 と共 に,一切の存在 もまた ,繰 り 返 し永遠に回帰すると看て取 られ る。すなわち , 「あらゆるものは往き,あらゆるものは帰 り来 る。 存在の環は永遠に廻 る。あ らゆる ものは死 し,あ らゆるものは再び花開 く。存在の年は永遠に経過 す る」 といわれ る榊。 かか る 「同 じものの永劫回帰」 とい う動性は , 悪 くすれば ,悪無限的な循環 とみなされ る

「同 じものの永劫回帰」の運動の うちでは ,我 々がな にを しようと同 じことにな り,我 々の創造の気力 を,登高の足 (同 じことだが ,没落の足)を萎え させかねない。確かに,その意味で 「永劫回帰

という思想はク リーテ ィシュな思想であるが ,し か し 「永劫回帰」に臨んで眼が旺んだ り足が萎え るのは

,

「永劫回帰」 という深淵を外か ら覗き込 むか らであ る。 「勇気 」 (Mut,Herz)を もっ て深淵の間に身を投 じ,深淵の間 をどこまで も下

(7)

り行 く者 にとって

,

「永劫回帰」 とい う深淵的思 想 は足元で 口を開 くばか りで な く,頭上高 く無窮 の蒼琴をなすOl)。そ こで , Fツ ァラツス トラの序 説』の最後の節 (第十節)で次のよ うに述べ られ ている。 「太陽が正午 に昇 った時 ,ツ ァラツス トラは こ のように自分の心胸に語 ったのだ った。その時彼 は もの間いたげに高処を見あげた - というのは, 彼 は自分を超えた処 に烏の鋭 い声 を聞 いたか らで あ る。す ると,見よ ! -羽 の鷲が空中大いな る 円をい くつ も描き,この鷲に一匹の蛇がぶ らさが っ て いた。獲物のどとくで はな く,恋人の よ うに。 というの も,蛇は鷲の首のまわ りに巻 きついてい たか らであ る」囲 . 蛇は 「太陽の下で最 も賢明な動物」で あ り,す べての存在 を根底か ら洞察す る,す なわち ,すべ ての存在の無根底的な 「永 劫回帰 」 とい う根本動 向を洞察す る。と共 にみずか ら喝を巻 き

,

「永劫 回帰」の円環を象徴する。この永劫回帰の思想は, 『幻視 と謎』の章でみ られ る如 く,と もすれ ば , 外 か ら喉に入 り込 み ,生 の息 の根 を止 めか ね な い鱒.F悦ば しき知識』で も,第一版 (1882年)の 最後 か ら二番 目の ア フォ リズム (Nr.341F最 大 の 自重』)で ,ニーチ ェは ,デーモ ンが 「永劫回 帰 」の思想 を君の耳 にささやいた ら

,

「君 は地 に 身を投 げだ し,歯ぎ しりして ,こ う告 げたデーモ ンを呪わないだろうか」 とい って い る。以上 のよ うに場合によっては重苦 しくもあ る 「永劫回帰

の思想 を抱 き,鷲は天空高 く軽 々 とこれ また回帰 に回帰 を重ねて舞 っている。鷲 とは 「太陽の下で 最 も 誇 り 高 い 動 物

(das stolzeste Tier か

unterderSonne)であ るとい う。彼の 自分 自身 よ にのみ究りて上昇する者 こそ,誇 り高さ者である。 「自分 自身に対する気

」 (derMutzusich), あ るいは,自分 自身の深淵 に下 り降 りる勇気 は , 自己に焦 りて 自己を超え出て い く高 さ 「自負」に よ り,あたか も虚空高々と円を描いて舞 う鷲の如 き ,奔放不 馬の 「超 勇気」 (tiber-mut)に転 じ るのである

「超勇気」に こそ ,自分の足元 に口 を開けた深淵を呑み込んで限 りな く高いのである。 深 淵的な思想 「永劫 回帰 」 は

,

『幻視 と謎 』や 『悦 ば しき知 識』Nr.341で は外 か ら入 り込 まれ た り告げ られた思想であ ったが ,ツ ァラツス トラ ー65 -にとってそれは もはやわが 「心胸」の 内に包容す ′ る思想であ る。すなわち ,ツ ァラツス トラは 「永 劫回帰」をわが ものに して い る。 されば こそ ,虚 空高 く共々円また円を措 く 「蛇 と鷲」を見て ,ツァ ラツス トラは

,

●●「わが動物」 とい う。すなわち ,

『あれぞわが動物な り !』 とツ ァラツス トラ は言 って .心 臓 か ら悦 ん だ (freuen sick Yon Herzen)」(傍点は引用者が付す )0 「悦ば しき知識」の悦びは ,まさに底無 さ深 淵 たる 「心臓」か ら湧躍する。この深淵か ら立ち昇 っ て くる 「悦び」にいざなわれて ,その深淵へ とツァ ラツス トラは没落 しゆ く

『ツ ァラツス トラの序 説』の最初の節 (それは F悦 ば しき知識』第四書 の最後のアフォ リズムで もあ ったが )は

,

「ツ ァ ラツス トラの没落は斯 く始 ま りぬ」で終 ってい る が ,この F序説』最後の節第十節 も 「ツ ァラツス トラの没落 は斯 く始ま りぬ」で終 る。 これか らい よいよツァラツス トラの没落の本格的な始 ま りで あ る。 この F序説』第-節か ら第十節 までの ツ ァ ラツス トラの 「心胸」の深 ま りは ,同時 に 『悦 ば しき知 識 』 の 第 四書Nr.341,Nr.342に表 わ れ た 「心境」か ら第五書Nr.343に表われた 「心境」 -の深まりと符合す る。 そ こで さて ,いよいよ Fツ ァラツス トラは斯 く 語 りき』の 『序説』 (Vorrede)は終 り

,

『教説』 (Rede)が始まる。 (Ⅲ) 『ツァラツス トラ』の F数説』の 冒頭 で説かれ るのがあの有名な 「精神の三つ の転身」で ある。 この箇所は

,F

ツァラツス トラ』第1部 のみな ら ず 『ツァラツス トラ』全体 の概説 的序 論 にな って いる。ここで ツ ァラツス トラは ,精神 は まず騒乾 にな り,酪蛇は獅子に転身 し,最後 に獅子 は子供 に転身せねばな らないと説 く。 ここで転身が説かれて いる精神 とは ,肉体か ら 区別 された所謂 「精神」 ,す なわち

,

「小 さな理 性」 とツ ァラツス トラがよぶ ところの 「精神」朗 ではない。 もっと包括的な ものを言 い表 わ してい る。た とえ ,最初の騒蛇の精神 はど うで あれ ,良 後の 「子供」 という在 り方 に至 って は

,

「自分の 世界を獲得す る」のである

「自分の世 界を獲得

(8)

した」子供 とは,最 も包括的なるもの,つまり深 淵なまで包括的なるものの代名詞であり,それ以 前に我々が 「心胸」という語で もって表わ したの であった。従 って 「精神の三つの転身」は, 「心 胸の転身」とも名づけることができる。 まず 「質各陀」とは

,

「諦念 し畏敬の念を もつ , 重荷に耐えうる」動物つまり精神である。何か或 こうべ る物の前に自ら 「膝と頭を屈 し曲げ」頭を垂れる のみな らず

,

「心臓を垂れ る」 (dasHerznie -derhかlgen)

(

3

5)のである。ナイーブに上に向って ス トレー トに高まる生の自然な気娩 (Mut)を折 くじ り曲げること,高慢 (Hoch-mllt)を挫 くことで ある。生の彼岸に敬服すべきもの (「神

,

「理 念」

,

「モラル」)が定立され ることによって , 上に向う生の気腫はそこか ら自分 自身へ と屈折 ・ 反射 (reflektieren) して くる。 ここで ツ ァラツ ス トラが騒蛇の精神について述べている数々のこ と,つまり,自分の高慢を挫 くこと,自分の恩か さを明 らかにす ること,勝利を謡 う己が ものを離 別すること,自分を軽蔑する者を愛すること,等々 は,いずれも 「自分自身に対す る峻厳さ ・気的」 を表わ している

「騒乾の精神」は,その重荷に 耐える精神の強さ故に

,

「自分 自身に対す る峻厳 さ」を生の極限にまで徹底 してい く。騒既は,良 も重い荷を負って,自己に,自分だけに向いあう ところの 「最 も孤独な沙漠」へ と急 ぐ

「賂蛇 」 -ル

こそ,自分自身を屈 し曲げた 「心胸」 ,置倒せ る 「心胸」である。そ して ,このような 「心胸」 こ そ,まさに以前にすでに我々がみてきたところの パスカルの 「心胸」ではなか ったのではないだろ うか。 しか し,ツァラツス トラは

,

「最 も孤独な沙漠」 に於いて,格乾は獅子に転身す るし,しなければ な らないとい う。 「最 も孤独な沙

」あるいは 「最 も孤独な孤独」的 においては,自分 自身に相 対するしかない。そういう孤独に於いては自分 自 身に党るしかないし,また,そ うい う孤独に耐え うる強い 「精神」 ・ 「気

」の持主に して ,は じ めて自分 自身に覚って揺がず立ちうるのである。 孤独の極みに於いて ,自分自身だけに相対す るこ とに耐え,自分 白身に対 してどこまで も 「誠実

な こと,この こと自体が今や 自分 自身 に対す る 「誇 り」

,

「畏敬」になる

「騒乾」の精神は 他者を畏敬 し,その他者の 「汝なすべ し」の命令 に従うのであるが,これに対 し 「獅子」は 「われ 欲す」と自己を超越 しつつ 自分 自身に対 して命令 す る。そういう自己命令的 (自己立法的)自己に 対 してだけ

,

「獅子」は畏敬の念を払うのである。 かかる自己命令的な 「獅子」がなによりもまず 意志す るのは,自由に自己に命令で きることであ る。 「彼 (獅子)は自由を獲得 し,自分 自身の沙 漠の主た らんと意志する」。そ して彼は自ら自ら の主たらんと意志 し,最後の勇を鼓 して

,

「自分 の最後の主

,

「自分の最後の神」 と敵対する。 この対決の場は

,

「自分自身の沙漠」であ り,自 分の 「心胸」の内である。外なる神 との対決でな い

.

「神なき沙漠」に於いてなお何か (おそらく. それは再び 「神」であろう)を 畏敬せん とす る 自分の 「心胸」と,自分 自身の 「心胸」に於いて 対決 し, 「畏敬する心胸を破却す る」のでなけれ ばならない。まさに,自分 自身との対決であり, 自己超克である。このことについて . Fツァラツ ス トラ』第二部 F高名な賢者について』で ,次の ようにツァラツス トラは言 う。す なわち, 「誠実な 一 斯 くわたしがよぶのは,神々喪失の 沙漠へ と行 き,畏敬す る自分の心胸を破却 して し まった者のことである」。 - この者 とて ,乾い た砂のなかで渇き,泉の豊かな島々を物欲 しげに兄 はするが,その島で安逸を怠ろうとはしない。 -「飢えて ,暴力的で,孤独で ,神の喪失。斯 くあ ることを獅子の意志は自分 自身意志 しているので ある」と。 そのように自分自身で意志 して 「神を喪失 した」 のであるな ら,その者は もはや 「神の喪失者」と いうよりむ しろ 「神の殺害者」とい うべ きであろ ムート ぅ的.重荷を負 って挫けぬ 「騒陀」の気晩が受動 的なのに対 し

,

「獅子」の鎚 .勇気は能動的 . 攻撃的である

「獅子」は

,

「われ欲す」の自発性 により且つ 「われ欲す」の自由のために,すべての 畏敬された ものを攻撃 ・破壊 し,これまでの最高 の価値を価値批判 し,一切の価値転換を試みる的。 まさに 「獅子」は

,

「カへの意志」の化身その も のといえよう

「神なし」に,つ まり何かに頼 る ことな く自立 して生きることので きるに充分なほ ど強い 「力」

,

「意志」

,

「気晩」に して ,は じ めて 「神を殺害」しうる。そ して

,

「神を殺害す

(9)

る」 ことによって ,さらに一層

,

「力」

,

「意志」 , 「気脱」の高 ま りは昂進す るのであ る。 され ば , ッ ァラツス トラも言 う飼 。 ムート ●● 「すなわち ,勇気は最良の打殺者であ る。攻撃 ●● す る勇気は。なぜな ら,あ らゆ る攻撃には軍楽の 響 き (klingendesSpiel) が あ る」 と。 そ して 攻撃的な勇気 は ,軍楽を奏 して ,人間の深い苦痛 ち,深淵に臨んだ場合のめまいも,さらには 「死」 す らも殺害 し,超克す ると,ツァラツス トラは語 っ て いる。 攻撃的な勇気 は,その軍楽の響 きと共 に ,自 ら を鼓舞 し,高めてい くのであ る。 しか し,その殺 害 的勇気 も,最後には

,

「勇気」 自身を も殺害 , 超克 し

,

「勇気」 (M ut)が 「超 -勇気」す なわ ち 「奔 放」 (Ober-mut) に転 じな けれ ばな ら ない。 この 「奔放さ」 こそ ,最後 的な 「獅子の奔 放 さ」 (L6W。n-Ubermut)軸 とツ ァラツス トラ が語 ったところの 「奔放 さ」で あ ろう。 この 「奔 放 さ」はまさに

,

「天上大風」に任せて昇 る凧 の 如 く,騰々と して 「天真」に任せて生 きる良寛の 生 き方 に通 じるところがあ る的 . ッ ァラツス トラ も言 う。

Fすべての事物の上 に ,偶然 とい う天空 ,天 真 とい う天空 ,不意 とい う天空 ,奔放 とい う天空 がかか っている』 とわた しが教え る時 ,それは ま ことに,祝福であって ,なん ら胃癌 で はない」的 。 今や ,この 「天真 とい う天空」

,

「奔放 とい う 天空」に響 き渡 るのは,もはや 「勇気」の軍楽 で はな く

,

「笑 う獅子」的 の 「笑い」に他ならない。 「畏敬す る心胸」を破却 した ツ ァラツス トラの 「心胸」は ,この 「天真」の笑 いに限 りな さ憧保 を抱 きなが ら,ツァラツス トラ自身 「超人」へ の おのれの道を歩み続 けるのであ った。 (註 )

(1) Nietzsche"Also sprachZarathustr a"Za-rathustrasVorrede,Nr.1.

(2)ibid.S.8.

(3)ibid. Vierter und letzter TeiL "Vom h6herenMenschen"S.317.

(4)ibid.S.326.

(5)Heidegger "Nietzsche" I S.288E.

(6)KarlL6with "NietzschesPhilosophieder

-67-ewigenWiederkehrdesGleichen"S.28.

(7)Nietzsche ''Morgenr6te" Vorrede Nr.5. ここで ニーチェは 「労働の時代」は,なんでも,節 しい本も古い本も,性急に片づけてしまおうとする, あわただしい時代である,と述べ .そのような時代 であればこそ,文献学は我々を引きつけると,いう。 すなわち

,

「文献学はそんなに安易になにも片づけ●● て しまわない,それはよく読むことを,すなわち, ゆっくりと.深く,後と前に注意 し,背後の思想を もって (mュtHintergedanken),開かれた扉をもっ て,故紙な指と眼でもって,読むことを,教える。・・・ ・-私の寛容なる友よ,この本は完全な読者と文献学 者だけを欲する,すなわち私をよく読むことができ ●●●●●●●●●● るようにならんことを!!」というO (8) Platon ``Politeia''Ⅶ,514a,2-517a,7.

(9)"Also sprach Zarathustra''DritterTeil, VonalienundneuenTafeln"Nr.30.

80) vgl.J.Habermas "TheorieundPraxis" S.90f.

帥 たとえばNietzsche,"PerWillezurMacht" ErstesBuch.Der europaischeNihilismus

,

zum PlanNr.4参照されたい。そこでは

,

「キリ ス ト教的価値判断は社会主義的体系や実証主義的体 系のいたるところに残存 している」と,当時いわゆ る 「革命的」とされたイデオロギーもなお従来の価 値体系に基づいていると,ニーチェは看てとってい る。

82)Hegel,``WissenscaftderLogik" Ⅱ (Phi -losophischeBibliothek) S.52. 「対立 は没 落

(zugrundegehen)しているのみならず,むしろ自 ●●●●

己の根拠′ヽ還帰 (inseienGrundzurbckgehen) しているのである」。

83) vgl・,M・Heidegger"Hegelund dieGrie -chen",in :Wegmarken,S.259.

的 Hegel ``I)ifferenz des Fichte'schen und Schelling'schen SystemsderPhilosophie" PhilosophischeBibliothek,Band 62a,S.ll.

85)Hegel``Enzyklop邑diederphilosophischen Wissenschaften" §81 Zusatz1.

¢6)Hegel "Ph貞nameno】ogie des Geistes

'

'

.

Vorrede,S.26.

8

7

) vgl.Hegel"Enzyklopadie" S21. (lB) Hegel "Grundlinien derPhilosophiedes

(10)

Vorrede,S.28.

¢9)ニーチェも"zugrundegehen"という語を使わぬ わ けで はな い。 例 え ば,ZurGenealogieder Moral"Nr.27で

,

「我々の うちでかの,q_理への意 ●●●●■ 志が 自分 自身を問題 と して意識す るよ うになるので なか ったのな ら,我々の全存在は如何なる意味を もっ ただろ うか。-・・・王墓理への意志の この 自己意識化 に 於いて今後道徳は ,- 疑いな く- 没落す る」と いうが,ここで"zugrundegehen''という語を使っ ている。しか しこの場合の小zugrlユndegehen"は,隠 れた 「根拠」へ と帰 って根拠を互碩わにす るという--ゲル的な意味を もたない。む しろ,この場合な ら, 「真理への意志」が ,自分の 「根拠」 と思われて い る処 にまで下降 し,実 は 「類モ根拠」であることを顕 わに .以 って 自分 白身を 「問題」 と して意識す るよ うにな る。そ うい う没落である。そ うで あるな ら, この動性 は ,一層 適 切 には,単 な る下 行 と して の "untergehen"とよんでよかろう。要するにニーチェ の 「意志」の根本的動性は"untergehen"というこ とばで特徴的に示 され るし,ヘ ーゲルの場合

.

「意 識」 ・ 「放念」の運動性は"ztlgrundegehen"とい う語で もって特徴的に語 りうるとい うことである。 とき C20) 1880年は,ニーチ ェ固有の思惟 の撃 明の秋であっ た。ハ イデ ッガーは次 のように言 って いる

「バ ー ゼル時代すで にシ ョーペ ンハ ウアーとヴァ-グナ-か らの内的脱却は遂行 された。 しウアーとヴァ-グナ-か し,1880年か ら 1883年にか けては じめてニーチェは自分 自身を ,す なわち一人の思索家 と して兄い出 した。す なわち , 彼は存在す る もの全休 の うちでの 自分の根本的立場 と,それに伴い .自分 の思惟の決定的根源 とを兄い 出 したのであ る」0(M.Heidegger"Nietzsche" 1961,Bd.Ⅰ,S.16)0 el) 変更 されたのはただ一つ。ツァラツス トラが30歳 の時 ,山に入 るに際 して

,

F悦ば しき知識FIでは , 「彼 は彼の故郷の ウル ミ湖を立ち去 った」 とい って い るが

,

Fツ 7ラツス トラ』では

,

「彼は彼の故郷 と故郷の湖を立ち去 った」と述べている (傍点 はい ずれ も引用者が付す )。 たい した違いで はないが, ハイマートロー ただ これによって Fツ ァラツス トラ』で は ,故郷を ジイッヒカイト 棄てたとい う感が強 くなっている。 ¢カ Pascal "Pens6es"fr.143.「人間の心臓 は何 と空 しく.汚物に満ちていることだ ろう!」 (..Que le c(Eur de l'hommeestcreux et plein d'ordure!" 鍋 pascal``Pens6es''fr.434.「一 体人 間 とは何 た る怪物であろう。何 たる新奇 ,何 た る奇怪 ,何たる 混沌 ,何たる矛盾の主体 ,何たる茂異 ! あ らゆる ものの審判者に して地の愚かな ミミズ。真理の保管 者 に して不確実 と誤謬の掃 き溜 め。宇宙の栄光に し て屑物

」0

囲 Nietzsche "Also sprach Zarathustr a"Za-rathustrasVorrede,Nr.3.

e

5) ibid.Dritter Teil 一`Der Wanderer

'

'

「た とえ汝 に梯子が最早全 くな くて も,汝 は汝 自身の頭 の上にまで も登 って い く術を知 らねばな らない。そ うでなければ如何なる仕方で汝 は上方へ登ろ うとい うのか ? 汝 自身の頭に登 り,汝 の心胸を超えてゆけ ! 今 や汝 に於 ける最 も程やかな ものす ら最 も厳 しい もの にな らざ るをえぬのだ」と,ツ ァラツス トラは自ら に語 りなが ら高みへ と登 る。

CZG)ibid. DritterTeil "Von der groBen Sehnsucht''

帥 Herakleitos.Diels-Kranz, Fr.60. 他に

Fr.51,Fr.88,Fr.103な ど参照 の こ と。ここで はその異同を詳論で きないが ,多 くの点でニーチェ との類似性が兄い出せ よう。

鍋 "Also sprach Zarathustra"DritterTeil "DerGenesende!"Nr.1.

(2g) ibid.DritterTeil"DerWanderer"

(x)) ibid."DerGenesende"

(31) ニーチ ェにおける 「永劫 回帰の思想」 と 「勇気」

との関連性について は拙稿 F哲学 における勇気-ニーチェの場合- 」 (F哲学論叢 』第9号所収 京都大学哲学論叢刊行全編 )を参照 して ほ しい。

(32)"Sic(dieSchlange)hieltsich um seinen Hals (denHalsdesAdlers)geringelt".す なわち ,ここでは蛇 は鷲 に ,恋人 の頚玉にか じりつ く(umhalsen)ように,ぶらさがっている(hangen)a このような

,

「永劫 回帰」の描写を

,

F幻視 と謎 』 で描かれたそれ と比較 されたい。すなわち ,第三部 F幻視 と謎』の章での 「黒い重い蛇 」は牧人の口か らぶ らさが ると,描かれてい る。 ここで は,この二 つの描写の相違について注意を喚起 してお くにとど めてお く。 (33) F幻視 と謎 jで登場す る r黒い重い蛇 」について は,例えば ,ハ イデ ッガーは

,

「ニ ヒリズムの無 目 標性 ,無意味性 ,あ るいはニ ヒリズム自体」を象徴

(11)

すると,解釈する。 (Heidegger``Nietzsche" I S.442) 従 って また

,

「ニ ヒ リズ ムの 極 限 的形 態」 としての 「永劫回帰」の思想を ,象徴 している と もいえる。他 に,同様の解釈 と して,E.Fink "NietzschesPhilosophie''S.88f.および,K. L6with "NietzschesPhilosophicderewigen WiederkehrderGleichen"S.134を挙げておく。 銅 Vgl."Also sprach Zarathustra" Erster

Teil"VondenVer畠chtern desLeibes" (35) Vgl.ibid.Dritter Teil"Von alien und

neuenTafeln''Nr.10u.Nr.14.

86) Fツァラツス トラiの表現では,"dieeinsamste Wtiste"

,

F悦ば しき知識jNr.341は,"dieei n-samsteEinsamkeit" と表現 している。

(3b Vgl."Die fr6hliche Wissenschaft" Nr. 125.

(38)Vgl.ニーチ ェの遺稿集 "DieUnschuld des Werdens" 1.TeilNr.662で

,

「智恵への道」 と題 し,三つの道程が示される

「第-の道程」は, 「だれよりもより良 く畏敬す ること」

0

「第二の道 -6 9-程」は

,

「最 もきつ く束縛 されている時に,畏敬す る心胸を破却すること。自由な精神。独立。沙漠の 時代。すべての畏敬された ものの批判 (畏敬されざ るものの理想化 ,逆倒せる価値評価の試み)が挙げ られるC最後に

,

「第三の道程」は

,

「肯定的態度 をとるに,すなわち,肯定す るに適す るか否かの大 いなる決断。・・-・(中略)--大いなる責任 と天真 欄漫」であると,いう。

Cig)``AIso sprach Zarathustra''DritterTeil "Vom GesichtundRatsel"Nr.1.

00) ibid."Von derSeligkeitwider Willen''. Ol) 良寛が村の子供にせがまれて ,凧に書いたという

「天上大風」の筆墨が還 ると,伝わ る。また

,

「生 涯轍立身.騰々任天真・--」という詩の一節 も遣る。

的 "Also sprach Zarathustra"DritterTeil ``VonSonnenaufgang .

(43)ibid.DritterTell"Von alten und neuen Tafeln'' Nr.1 u. Vierter Tell" Die BegrGBung",

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