教育者としてのフランクリン
川 崎 源 Benjamin Franklin as an Educator Hajime Kawasaki フランクリンを教育史の中に,正当に位置づ ける試みはまだ充分になきれていないようであ る。確かに,ロバート・ウーリツヒも指摘して いるように,「教育理論プロパーにおける偉人 たちを祭る万神堂を建てるとすれば,彼(フラ ンクリン)のためには何ら特別の地位は与えら くの れないであろう。」しかしながら教育理論の進 歩に貢献した思想家だけが教育の歴史を動かし てきたわけではない。教育の歴史はむしろそれ らの理論を実践化し,制度化するために捧げら れた数多くの無名の教育家の努力によって具体 的な内容をもちえてきたのではなかろうか。教 育史の上では,フランクリンはまさにそういう 無名の人物の一人である。フランクリンのよう に,その多方面的な活動のいずれの領域におい ても一応の成功をおさめえた人物は,この点に おいて特に偉大であったという特定の領野をも たないがゆえに,ともすれば彼の活動のいずれ の分野にわいても二流以下の人物とみなされ, それらを集積した全体的な人間評価と功績評価 においても不当に過少視されがちである。政治 家としてのフランクリンの名声は,ワシントン やジェフアソンのそれに比肩しうべくもない。 植民地+三州を代表する駐仏公使としての彼の 巧智にたけた活躍は独立戦争を有利に導いた最 大の要因であったが,彼以上に偉大な外交官は ほかにもあるであろう。雷雨の中の凧の実験 は,彼を物理学者として著名ならしめたが,フ ランクリンを第一級の科学者とすることはでき ないであろう。彼の『自伝」は今日,アメリカ 文学の古典の一つとなっているが,彼は文学史 上に果してそれほど重要な位置を与えられてい るであろうか。社会事業家としての彼の活動は まことに広範多様であったが,その広範多様で あったということが,逆説的に彼の事業の独創 性と影響性を過少評価させる結果ともなってい るのである。 1 従来,教育史家がフランクリンに全く言及し なかったわけではない。教育史上,フランクリ ンがとりあげられるのは,アカデミーの創設者 としてのフランクリン,すなわち実学主義の教 育家としてのフランクリンであるQそのことは 大体において正しい。しかし,その観点からだ けでは教育者としてのフランクリンの全貌は明 らかにされないし,たとえその観点から眺める にしても,フランクリンの実学主義をベイコン やコメニウスに始まる第十七世紀西欧のいわゆ る感覚的実学主義(sense−realism)の流れの中 に位置づけるだけでは,その歴史的意義は不充 分であろう。アメリカのアカデミー運動とフラ ンクリンの教育思想には,センス・リアリズムの 流れの中では説明しえない,それ以上のものが あるのではなかろうか。いいかえれば,植民地 アメリカが,かりに西欧文化の波及から遮断さ れていたとしても,実学的教育思想とそれを具 現したアカデミーがアメリカに生まれるだけの 必要にして充分な理由と条件がそなわっていた と考えるべきではなかろうか。フランクリンの 実学的教育思想をセンス・リアリズムと同一視 し,アメリカのアカデミーを実科学校(Real− schule)の単なる一類型とみなすならば,フラ ンクリンは教育史上,大した意味をもたないで (1) Robert Ulich, History of Educational Thoughts, 1950, p. 226.102 滋大紀要 第 10 号
1960 あろう。 普通,センス。リアリズムの教育理論を具現 した学校として,フランケ(Hermann Franke, 1663−1727)門下のヘッケル(Johann Julius Hecker,1707−1768)の創始にかかるドイツの 「経済数学実科学校」(6konomisch−mathe一 皿atische Real−schule), ジョン・ ミルトン( John Milton,1608−1674)の『教育論』(Trac− tate on Education,1644)の産物であるイギ リスの「アカデミー」と並べて,フランクリン の「ペンシルヴェニア・アカデミーおよび慈善 学校」(Academy and Charitable School of く ラ Pennsylvania)があげられる。なるほど,それ らは年代的にみても,教育内容の重点のおきど ころからみても著しく類似している。しかしな がら,それらの成立の事情,少くとも前二回分 後者の起りは重要な一点においてかなり相違し ているように思われる。すなわち,ドイツの実 科学校がフランケやシュペーナー(Philipp Ja− kob Spener,1635−1700)を中心とする下上主 義運動に端を発し,イギリスのアカデミーが, 国教諸学校から閉め出された非国教徒によっ て,国教派パブリヅク・スクールの代用物とし て始められたのに対し一要するに,前二者が 宗教的動機との不可分の関係において出発して いるのに対して,フランクリンのアカデミーは 明らかに宗教との絶縁において成立している事 実は注目に値する。従って,ドイツの実科学校 やイギリスのアカデミーは,当時においてなお ルネサンスの古典的遺産と宗教改革期の宗教的 伝統の残灘を多分にとどめていたが,フランク リンのアカデミーはそれら両者から殆んど完全 に解放されていナこ。 エマーソン流に,偉人というものを,その時 代を最もよく代表する人物であるとすれば,フ ランクリンこそは第十八世紀アメリカの最大の 偉人であった。そして,第十八世紀のアメリカ を,古きピューリタニズムの神学的世界観から 啓蒙的合理主義への急速な世俗化進行の時期で あるとすれば,フランクリンこそはまきにこの 時代最大の俗人でもあった。彼の時代は,人々 の関心が,宗教的なるものから世俗的なるもの へと急速に移行しつつある時代であった。こう いう時代の趨勢は,「アメリカ資本主義の揺藍 期」として,人々の社会・経済生活のあらゆる 面に興味深く反映しているのであるが,ここで はその実例として,第十八世紀中頃におけるハ ーヴァード・カレヅジの学位授与の討論題目を 引合いに出すことによって,古いスコラ神学的 な知的興味の申から,いかにして新しい政治・ 経済・法制上の世俗的関心が生まれてきたかを 示すにとどめたい。次の諸主題の最初の三つは 古くからの知的興味を,あとの三題は新しい世 俗的関心を示している。 ラザロが生前に遺言によって,その財産権 を放棄していたとすれば,彼は復活後それを 法律的に要求することができるか。 (1738, 1754,1769年) 一人の人間(アダム)の罪のゆえに,人類 はすべて死すべきであるということは神の正 義に一致するか。(1758,1769年) キリストがマリアの第一子と呼ばれるゆえ をもって,聖母は二人の息子の母であったと いえるか。 (1772年) 紙幣の発行は公衆の福冠雪に貢献するか。( 1728年) 最高裁判所の判事に反抗することは,さも なければ共和国が存続しえない場合に合法的 であるか。 (1743年) 人民が立法府の権力に何ら発言権をもたな くわ い政府は独裁的であるか。 (1770年) 第十八世紀における植民地アメリカのこのよ うな人心の世俗化は,やがて必然に教育の世俗 化への要求となって現われてくるのであるが, そこで興味ある事実は,そういう要求を具現す る制度化された学校(アカデミー)の創設に先 行して,民衆の実学的必要を満たすための千態 万様の私塾が出現していることである。次に掲 げる五つの引用は,第十八世紀前半の植民地の 新聞に現われたこれら私教師の学校に関する代 (2) P. Monroe, A Text−book in the History of Education, 1905. pp. 498−501. (3) N. Edwards and H. G. Richey, The School in the American Social Order, 1947. p. 120.表的な広告である。 ボストン市・スカーレット波止場附近,フ ィヅシュ通り,居酒屋マイター亭の向い側。 書き方・算術各部門,幾何・三角・平面・球 面・測量術・計測法・計量法・航海術・天文 学・球面投影法・数学器具の使用法教授。月 謝低廉・短期修業,オーエン・ハリス。(ボ ストン・ニューズ・レター,1708年3月14日 一21日) ボストン市・クイーン通り上る。ベルクナ ップ夫人宅にて,グリーンウヅド氏教授。代 数学原理,サー・アイザック・ニュートンの 微分法,近代のあらゆる普遍的研究法,円錐 曲線・曲線論,ヨー一 mッパ諸大学にて広く教 えられているあらゆる思弁的・実際的数学の 諸部門,なお数学各部門の修了者にはニュー トンの諸原理,並びに天文学・哲学における 最近の諸発見を簡単平易に解説証明す。入学 随時・毎日午前9時より12時まで,午後3時 より6時まで。(二・コ.一イングランド・ウィ ークリー・ジャー一一ナル,1727年7月17日一24 日) 広告! 旧オランダ教会附近,スミス通り, 黒馬館の向い側。フランス語・スペイン語懇 切丁寧に労う。大英帝国にて目下流行の最善 の教授法採用,向学心奨励のため月謝は3カ 月にっき20シリング。 (ニューヨーク・ガゼ ッ ト, 1735年) ハーヴァー・ド・カレッジの卒業生ネィサン ・プリンスは若き紳士たちに数学・物理学お よび歴史の最も有益な諸部門を教授するため 当町において学校開設の用意あることを広告 する。特に幾何・代数の初歩,三角・航海術 の初歩,地球儀・天球儀その他各種球面投影 を用いての地理学・天文学の初歩,測量術・ 計量法・測計法,築城術・砲術の一般法則, 歴史および物理学の講義あり。ネイサン・プ リンスが上記諸学芸につき若き紳士に教授を 始める期日については,ボストン市・取引所 通り,セス・カッシング氏宅の彼の下宿に照 会あれ。(ボストン・ウイークリー・ニュー ズ・レター,1742−43年) ボストン市・ウイングス通り,ジョージ・ プラウネル氏宅にて。書き方・運算法・ダン ス・バイオリン・フルート・スピネット教 授。なおイギリスおよびフランス風の刺し子 縫い・刺繍・装飾意匠・簡単な針仕事……教 授す。寄宿舎の便あり。(ボストン・ニュー くり ズ・レター,1708年3年21日一28日) このような現象は特定の地域の特殊な事例で はなくて,広く当時の植民地の全域にわたって みられた一般的な時代の傾向であった。北部ニ ューイングランド地方に比して,資本主義精神 の発展が立遅れていたと想像される南部地方に おいても,民衆の実学的な教育要求が膨渓とし て起りつつあった。エドガー・ナイトによれ ば,当時南部の中心都市であったチャールズト ンでは,1733年から1774年の間にこの種の新聞 ほう 広告が400以上もみられたという。これら民衆 の教育要求を反映しだ私教師の教授科目の中 に,宗教的なものが全く姿を消している事実は 注目に値する。かくて,制度としてのアメリカ のアカデミーは,ヨーロッパの単なる輸入品で はなくて,植民地社会の経済的・社会的条件か ら,いわば自然発生的に生まれてきたものとい うべく,こういう民衆の教育要求と時代の趨勢 を何人にも先んじて洞察し,それに答えたとこ ろにフランクリンの偉大さがある。有能な新聞 業者としてのフランクリンは,恐らくボストン でもフィラデルフィアでも,この種の新聞広告 に眼を通していたことであろう。富と成功への 道に抜け目のない彼がそれを見逃すはずがな い。あるいは,彼は自分の発行する新聞にしば しばこの種の広告の掲載を依頼きれていたかも 知れない。それはともかく,彼は『ペンシルヴ ェニアにおける青年教育に関する提案』(Pro− posals Relating to the Education of Youth in Pennsylvania,1749)を公けにしてアカデミ ー設立への世論を喚起し,1751年には開校の運 びとなつt。その直前,1750年12月18日に彼が C4) lbid., pp. 123−46. C5) Edgar W. Knight, Public Education in the South, 1922. p. 41.
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第 10 号 1960 自紙「ペンシルヴェニア・ガセット」 (Penn− sylvania Gazette)に掲載しているアカデミー 開校の次の広告は,上掲の私教師の広告と本質 的に何ら異るものでないことに注意しなければ ならない。 急告!フィラデルフィア・アカデミー評議 会は明年一月第一月曜日より(神の意志によ って)当校を開校しようとする。教授科目は ラテン語・ギリシア語。英語・フランス語・ ドイツ語のほか,歴史・地理。年代学・論理 学・修辞学,さらに書き方・算術・商業算術 ・幾何・代数・測:量術・計量法・航海術・天 文学・遠近図法その他の数学的諸学科ならび に物理学・機械原理等々。さきに公表された 規定に従って,授業料は年額4ポンド,入学 くの 金は20シリングとする。 この広告の中に「神の意志によって」という 但し書きが挿入されていること,およびラテン 語・ギリシア語を筆頭に論理学・修辞学等の古 典的諸学科があげられていることは,必ずしも 彼のアカデミーの世俗性と実学性を否定するも のではない。前者はフランクリン自身の宗教的 立場の現われであるかも知れないが,それ以上 に,むしろ『ペンシルヴェニアにおける青年教 育に関する提案』をしたときにそうであったよ くり うに,オーソドヅクスの宗派心の攻撃に対する 意識的な防禦策であったと解すべきであろう。 後者については,フランクリンがアカデミーの 「古典科」よりも,市民的・職業的教育を目的 とする「英語科」の育成に主力を注いでいた事 実からも知られるように,彼のアカデミーの基 本的性格は古典主義ではなくて,あくまでも実 学主義であったと断定することができるであろ 98) つ。 以上,私はフランクリンが実学的なアカデミ ーを創設するに至る過程を,主として外的な社 会的背景を二心として考察してきた。次に問わ るべきことは,それではフランクリン自身は実 学的な教育思想をその独自性にわいていかに体 ⑥ N.Edwards and H。 G. Richey, oP. cit., P.160. (7) (8) Ibid., pp.78−81. (g>Robert Ulich, op. cit., p.237. 現していたかということである。この問いに答 えるために,次に私は彼の広範な社会活動の中 から教育的に興味ある二・三の活動をとりあ げ,それらを中心として彼の実学主義的人間像 を具体的に描き出してみたいと思う。 皿 フランクリンはアカデミーの創始者としてよ りも,むしろ有能な社会教育家として,より正 当に教育史の申に位置づけられるべきではなか ろうか。ウーリヅヒも指摘しているように,彼 にとって教育は個人の中だけでなく,社会・国 家および人類の中において進行する「生活の過 程」であり,「教育の全体は,フランクリンに く うとって生活の全体と同義語」であった。貧しい 蝋燭屋の息子として生まれ,卑購の中に育って 後に次第に身を起し, 「勤勉と節約」によって やがて「ある程度世間に名の知れた」富裕の人と なり,規律と節制を守って八十四年目長寿を保 ち,ついに新興アメリカの国民的英雄にまでの し上ったフランクリンの生涯が,それ自身すで に偉大な教訓的意味をもっている。「息子よ」 という呼びかけに始まる『自伝』は単なる一家 訓としてではなく,過去一世紀半の長きにわた って,すぐれた人生教科書として広く内外の青 少年に測り知れない教育的彩響を及ぼしてき た。それはかって赤貧の少年たちに心からなる 慰安と励ましを与えてきた。それは多くの野心 的な青年に出世の大道を示してきた。それはま た,富と成功を求める大人たちに「富への道」 と「徳への道」を一体化した処世知を教えてき た○ フランクリンが広範な社会教育的影響力をも ちえたについては,もちろん彼自身の才能と人 柄の偉大さによるであろうが,同時にまた,彼 が当時における知識普及の最も有力な武器たる 印刷・出版の事業を掌握していた事実にもよる であろう。学校教育がまだ充分に普及せず,書 物といえばすべて英本国からの輸入にまたなけ R, F. Butts and L. A. Cremin, A History of Education in American Culture, 1956. p.77.ればならなかった植民地社会において,新聞や パンフレヅト類の発行が民衆の教化に少なから ざる役割を果したことは想像にかたくない。フ ランクリンが兄ジェームズに協力して発行して いた「ニューーイングランド新報」 (The New− England Courant)は「第十八世紀アメリカの 新聞の中で最も立派で興味あるものの一つ」で あったし,後に彼が自力で経営した「ペンシル ヴェニア・ガゼット」は「植民地時代のどの新 聞にも見られない光彩と活気をもつ」新聞であ ロの った。 しかしながら,フランクリンの出版事業の中 で,教育的にみて最も異色ある事業は1732年に 創刊され,1758年版まで続刊きれtr貧しきリ チャードの暦』(Poor Richard’s Almanack) であろう。いうまでもなく,この暦はリチャー ド・サンダーズという架空の人物を正式の編者 とし,潮汐や日月星辰の運行予測という暦本来 の記事の他に,もっともらしい天気予報や迷信 まがいの占星術から機知とユーモアに富んだ逸 話・格言・警句に至るまで,およそ読書の機会 に恵まれなかった当時の民衆の要求に応ずるあ らゆる教訓的・娯楽的素材を載せていた。この 特色ある暦の発行について彼はその『自伝』の 中で次のように書いている。 私はこれを面白くもあり,為にもなるもの にしようと苦心したので,おかげで非常に売 行きがよく,一万部近くも売れ,利益もずい ぶん上った。またこの地方の近隣の町村で, これのないところはほとんどないくらい広く 読まれているのを見て,私は暦は他に本など ほとんど買わない一般市民の間に教訓を伝え る恰好の手段になると思った。そこで暦の中 の特殊の日と日との間にできるわずかばかり の余白をすっかり諺風の文句で埋めた。その 大部分は,勤勉と節約とが富をうる手段であ り,従って徳を完全に身につける手段でもあ (11) ることを説いたものであった。 年に一万部という売れゆきは,当時のアメリ カ全州の人口から計算すると,百人に一部とい う割合になる。rリチャードの暦』が片田舎の 自給自足の農家や,奥地の開拓者の粗末な丸太 小屋を訪れているさまは,想像しても愉快では ないか。大人たちはその暦をたよりにして播種 や収穫の適期を思案している。炉辺の子供たち はそれを教科書代りにして読み書きを学んでい る。若い恋人たちはその中の比較的美しい詩を 朗読して互に聞かせ合っていたことでもあろ う。ともかく, 『リチャードの暦』は植民地ア メリカの庶民の生活指針であった。それはおこ ないすました教育意識過剰の説教集ではなく て,リチャード・サンダーズことベンジャミン ・フランクリンが傍若無人の無礼さの中に期せ ずして教え.ることとなった繁栄と幸福への手引 書であった。彼はその初版の序文の中で,サン ダーズをしてこう語らせている。 そこで私は読者の愛顧をうるために,私が 暦を書くのは公衆の利益のために他ならない と宣言したいところです。しかし……あつさ り真相をうちあければ,実は私は大の貧乏人 で,おまけに私の妻は立派な女で気位が高い ときています。妻のいうには,夫のあなたが 星ばかり眺めている間,私は麻の肌着をき て,坐りづくめで糸を紡ぐなんて我慢できま せん。もしあなたが本やがらくた道具一妻 は私の機械をこう呼んでいた一をわが家の 幸福のためになるように使わないなら,そん なものは全部焼払ってしまいますと嚇かされ ナこことも一度目らずありました。そこへ印刷 屋が,利益の分け前は充分出すからとすすめ てきたので,私は妻の望みに従うことになつ くユ き たのです。 リチャード・サンダーズこそは,バーリンゲ ームが適確に指摘しているように, 「新世界ア ロわ メリカの庶民の象徴であった。」彼は,暦を書 くに必要な程度の天文学的知識の所有者たるこ とを自任してはいるが,決して学を街う権威的 な態度はとらなかっナこ。彼は貧乏人であること σD
胆鵬
F. L. Mott, American Journalism, A History of Newspapers in the United States, 1947. p. 27. 松本・西川訳,フランクリン自伝,昭和34年.15354:頁。 Leenard W. Labaree (ed.), The Papers of Benjamin Franklin, Vol. 1 1959. p. 311. R・バーリンンゲーム 中利保男訳,フランクリン,昭和31年.92頁。106
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第 10 号 1960 をいささかも恥とせず,利潤の追求を不道徳と は考えていない。彼は星を眺める自分の趣味 も,それが実生活に何らかの利益をもたらさな い限りナンセンスであることを自覚する。彼の 妻は,現代家庭喜劇の申に登場してくるあのが みがみ屋の恐妻と全く類を同じくしている。そ こecは読者との一体化をねらうフランクリンの 抜け目のない詐術がうかがわれる。翌年の暦で は,リチャードの妻が生活上の多少のゆとりが できたために,幾分おとなしくなった旨が次の ように報ぜられている。 昨年,私の暦をあれほど沢山買っていナこだ いたおかげで,私の境遇はずっと楽になりま した。……妻はわが家専用の鍋を買うことが でき,隣から借りずにすむようになりました し,その中に入れるものにもこと欠きませ んQ妻はまた,靴を一足と新品のスリヅプを 二枚と,それに新しくて温いスカアトを一枚 買いました。こういう品物のおかげで,妻の 気持は以前よりずっと和らげられ,それで私 も,ここ一年は前の三年分を合計した以上に くエの ぐっすり眠ることができました。 このような平民的な訴えにおいて,『リチャ ードの暦』が多くの働く男女に与えた実際的な 生活教育はいかなるものであったであろうか。 『リチャードの暦』を教育的に意味づけようと すれば,そこにとりあげられている種々の格言 や諺の内容と性格を検討しなければならない。 「金を試すには火,女を試すには金,男を試す には女」というよなふざけた処世訓などは別と して,そこにあげられているものは,大部分が 「天は自ら助くるものを旧く」とか「店をよく 守れ,しからば店もまた汝を守るだろう」とか, 「狐も眠れば鶏をとらぬ」とか, 「今日の一El は明日の二日」といったような怠惰と浪費を戒 め,勤勉・力行・節約の諸徳をすすめる教訓で あって,そこにはウェーバーがフランクリンの 思想について指摘するような「倫理的な色彩を くユら もつ生活の原則」が庶民的な表現においていと も鮮明に主張されている○働くこととその当然 の結果である富の獲得は,それが合法的におこ なわれる限り,神意にかなった各人の義務であ るというプロテスタント的資本主義精神の基調 が,宗教的なるものとの直接の関係を失った姿 において表明されている。純粋な資本主義精神 が一つの強大な制度の中に解消してしまった現 代においては,働くことが直ち1こ富の獲得につ ながらず,勤勉とか節約とか正直という賞讃す べき諸徳も,それ自身では,もはや個人の幸福 を保障しなくなってしまった。しかしながら当 時,辺境開拓がまだ緒についたばかりであり, 無限の森林と広野が人々の眼前に横わり,機会 が彼等の冒険心をそそり,自由が彼等を身分や 門地の束縛から解放し,富と成功が彼等の労働 と誠実に委ねられていた新開植民地にあって は,個人の繁栄と社会の福祀は何ら矛盾するこ とがなかった。こういう社会において,フラン クリンが掲げた労働尊重の精神は,アメリカ文 明の基本的要素の一つとして現代に生きている のではなかろうか。rアメリカに移住を企てん とする者への情報』 (lnformation to those who would remove to America,1784)の中 で,彼はアメリカが労働の国であること,働く 意欲と技術をもたなければ生きてゆけないこと を次のように述べている。 そこでは人々は新来者について,彼が何で あるかを問わないで,彼は何ができるかと問 う。もし彼が何か有益な技術をもっているな らば,彼は歓迎される。そして,もし彼がそ れを実行し,上手に行動するならば,彼を知 るすべての人々から尊敬されるだろう。し かし,才能があるために,何か官職とか,サ ラリーによって公衆に依存して生活していこ うとする単なる才人は軽蔑きれ,無視きれる く ラ だろう。 ……要するに,アメリカは労働の国であっ て,決してイギリス人がいうような怠けもの の国でもなければ,フランス人がいう宝の国 でもない。通りが半ペヅクもあるパンで舗装 され,家はケーキで塗装され,鳥が私を食べ C14) Leonard W. Labaree (ed.), op. cit., Vol. 1.pp. 349−50. U5)マックス・ウエーバー 梶山・大塚訳,プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神,昭和34年44頁・ (16) Albert Henry Smith (ed.), The Writings of Benjamin Franklin, Vol. VIII. p. 606.てくださいと叫びながら焼くばかりになって ロアラ 飛んでいる,そういう土地ではないのだ。 『リチャードの暦』の圧巻は,何といっても その1758年版の中に収められた『富への道』( the Way to Wealth,1757)であろう。そのな りたちについて,フランクリンは『自伝』の申 で次のように述べている。 私は多くの時代,多くの国民の知慧を含ん でいるこれらの諺を集めて,一つの筋の通っ た話を作り,一人目賢い老入が競売に集って 来た人々に説く演説という形式にして一七五 七年の暦の巻頭に載せた。かようにばらばら であった教訓を集めて一つの焦点を与える と,それらはいっそう強く人の心を打つので あった。この一篇は広く一般に歓迎され,ア メリカ大陸の各新聞に転載されたばかりか, イギリスでは大判の紙に印刷して家々の壁に 貼りつけられた。フランスでは翻訳が二通り 出て,牧師や地主連が多数これを買いこみ, 無代で貧乏な教区民や借:地人に分け与えた。 ペンシルヴェニアでこの暦の出版後,数年間 にわたって貨幣が次第に増加したのは,この 暦が舶来の贅沢品に無用の金を費すことを戒 めているのによるところが多い,と考える人 ロの もあった。 「富への道』の中で,アブラハム神父の口から 語らせている演説の要旨はこうである。政府の 課する税金は確かに重い。しかし,怠惰と時聞 の浪費はその重税をさらに倍加し,慢心や不品 行はさらにそれを累加する。「墓場にはいくら でも眠りがある」のだから,生きている間は「 仕事を追い,仕事に追われてはいけない。」勤 勉は慰めと富と尊敬をもたらすものである。こ の.世において成功を望むならば,勤勉と同時に 節約に努めなければならない。少しぐらいの贅 沢は大したこともなかろうと考えられるが,「 塵も積れば山」,「一つの小さな水漏りが大き な船を沈める」のだから小さな出費にも注意し なければならない。物が安いからといって,い (17) Ibid., p.607. (18)松本・西川訳,前掲書.154頁。 (19) (20) マックス◎ウエーバー 梶山・大塚訳,前掲書. まさし当って「必要のないものを買えば,間も なく必要なものを売らなければならなくなる」 だろう。たとえ信用貸しという条件がついてい ても,現金のないときに物を買うことは,「自 由を左右する他の権力に屈服する」ことにな る。すなわち,期限に返済できなければ借主に 言訳をしなければならない。やがて人間の正直 さが失われ,嘘をつかなければならなくなる。 嘘は第二の悪であり,借金は第一の悪である。 「一つの悪を有するものは二つの悪を育て上げ る。」貧しきは,「空の袋は立ちにくい」のた とえのごとく,しばしば人間から徳や魂まで奪 ってしまうものである。最後に,勤勉と節約は いずれも美徳ではあるが,それだけに頼りすぎ てはならない。なぜなれば,「天よりの恵みが なけれぼ,それらは呪わしいものであるかも知 ロの れないからである。」これらの説教は,その表 現があまりにも通俗的・打算的・実利的である がゆえに,拝金主義の吝音哲学として一笑に付 されてしまうかも知れない。しかしながら,い わゆる産業経営の両極分解がまだ起っていなか った第+八世紀アメリカ植民地の経済生活にお いて,それはやがてその上に近代資本主義が壮 大な建造物を構成してゆく精神的土壌ともいう べき一種独特の倫理的雰囲気,ウエーバーのい わゆる「倫理の衣服をまとい,規範の拘束に服 する特定の生活型式という意味での資本主義の く の 精神」を表明するものとして歴史的な意味をも つといわなければならない。 皿 フランクリンの社会的諸事業の中で,教育的 な意義をもつ第二の活動は「ジャントー・クラ ブ」(Junto Club)の組織であろう。このクラ ブの目的や性格についてフランクリンの述べる ところを聞いてみよう。 私は有能な知人の大部分を集めて相互の向 上を計る目的でクラブを作り,これをジャン トーと名づけて,金曜日の晩を集りの日にし Albert Henry Smith (ed.), op. cit., Vol. III. pp. 408−18. 42−43,63頁。
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第 10 号 1960 ていた。会則も私が起草したものだが,それ によると,会員はすべて順番に,倫理・政治 ないしは自然科学に関するなんらかの点につ いて少くとも一つの問題を提出し,仲間の討 議にかけることになっていた。また三ヵ月に 一度は何であれ,自分の好きな題目について 論交を書き,それを提出して読むという約束 であった。討論も,議長の司会の下に,…… 真理探究という真面目な精神で行うことにな っており,……独断的な言い方や真向から反 対するといったことは一切禁制となり,それ ぐ エジ を破る者には小額の罰金を課すことにした。 このクラブはそれがアメリカにおける最:も 初期の学術的な社交クラブの一つとして,後の 時代の同種の諸クラブ,例えばエマーソンやオ ルコソトを中心とするニューイングランドの「 超越論クラブ」(Transcendental Club),ブロ ックマイヤーやハリスを下心とする「セントル イス哲学会」(St. Louis Philosophical Socie− ty)さては「コンコ・一一ド哲学学校」(Concord SChool of Philosophy)等の頂接の先例となった というだけで,すでに一つの歴史的意義をもつ く ラ ものである。と同時に,このクラブの活動は, 次の二点において極めて重要な教育的意義をも つと思う。その第一は,このクラブが実際的な 自己教育の強力な機能をもっていたことであり そして第二は,その自己教育が社会改良事業に 実践的に結びついていたということである。 ジャントー・クラブの最初の会員の素姓や経 歴をみるとオックスフォード中退という例外的 人物もいるが,その殆んどすべてが独立独行の 職人や商人である。公証人の書生もおれば,靴 屋の職人から測量監督官となったものもいる。 百姓あがりの印刷工もおれば,「多少財産のある 青年紳士」もいる。商店の番頭もおれば,独学 く う の数学者もいる。そして発起人のフランクリン 自身は,貧しい蝋燭屋の息子から身を起して,今 や植字・印刷の技術を完全に身につけ,やがて 独立経営に入ろうとする二+二才の才気ある働 き盛りの職人であった。彼等はあるときは居酒 屋に集まり,またあるときは仲間の自宅に集ま って,熱心に政治・経済・社会問題を論議する ことによって,より多くの自己教育をした。ジ ャントー・クラブにおいて提出された討論の題 目には,例えば次のようなものがあった。 利己心は万人が帰属すべき普遍的な王国に 人類を導く方向舵であるか。 最善の政治形態とはどういうものか。 すべての人類に適合する何か特殊な政治形 態がありうるか。 ある人閥が真実を語っているのに,中傷者 として罰することは自由なる政府の自由の原 く の 則と一致するか。 最近あなたは,あなたの国の法律の中に, 立法府に働きかけて改正させた方がよいと思 われる欠点を発見しませんでしたか。あるい は国民に恩恵をもたらすような法律で,現在 まで制定されていないものを知っておりませ んか。 国民の正当な自由を侵害するような事件を 最近見かけませんでしたか。 最近あなたの名声を害しようとした人があ りませんか。名声を確保するために,本会と く の してはどんなことをしたらよいでしょうか。 ジャントー・クラブは一種の閉鎖的な秘密結 社であった。それは,定員12名という「頃合い の人数」を越えないようにするためと,「不適 く の 当な人物」の入会を防ぐためであって,一般の 秘密結社が普通にもつ陰険な党派心や急進的な 政治改革を目的とするものではなかった。それ は「職業,宗教の別なく人類全体を愛し,単な る思想上の意見や,外面的な宗教の違いなどを 理由として他人の肉体・名誉・所有物などを傷 つけることなく」,真理自体のために真理を愛 するものの「相互向上のために創立された」自 己教育の組織であり,そういうものとして,そ 圃㈲㈲⑳㈲㈲ 松本・西川訳,前掲書,96頁。 Richard G. Boone, Education in the United States, 1894. pp,277−79. 松本・西川訳,前掲書,96−97頁。 Robert Ulich, op. cit., p. 237. Albert Henry Smith (ed.), op. cit., Vol. II. p. 89, 松本・西川訳,前掲書,161頁。れは「非常に有益で,会員に大きな満足を与え た。」第十八世紀の前半は,アメリカだけでな く,一般にヨーロッパの殆んどすべての国々に おいて,カレッジや大学による高等教育が大い に退潮した時期であるが,そういう時代に,フ ランクリンのジャントー・クラブは「植民地に あってもっともすぐれた哲学・道徳・政治の学 ぐ の 校」としての役割を果したのであった。 ジャントー・クラブは,そこでとりあげられ た議題が極めて実際的であっアこがゆえに,それ は容易に社会改良の実践につながりをもっこと ができたQそして,このクラブがいくつかの『ド 部組織をもっていたことが,一層その実践活動 を有効かつ円滑ならしめることに役立った。フ ランクリンの社会活動の多くが,ジャントー・ クラブの討議と検討と立案のもとになされたと いうことは注目に値する。ある意味では,フラ ンクリンは自己の営利活動と社会活動を効果的 に進展させる手段として,ジャントー・クラブ を組織したという極端な解釈も不可能ではな い。事実,彼はこのクラブ員の協力と後援によ って多くの印刷経営上の利益を得ている。例え ば,1829年前後,彼は紙幣発行の可否について ジャントー。クラブに議題を提出し,『紙幣の 性質と必要』(AModest Inquiry into the Nature and Necessity of a Paper Currency, 1729)という匿名のパンフレヅトを流布して世 論を起し,紙幣増発が州際を通過するや,その 印刷を一手に引受けるという鮮やかな手並みを く う みせている。 彼がジャントー・クラブおよびその「従属ク ラブ」を媒介としておこなった公共事業の主な るものとして,フィラデルフィアの夜警方法の く の 改善,町を火災から守るためのユニオン消防組 くきの 合(Union Fire Co皿pany)の設立(1736年), ペンシルヴェニア・アカデミー一の設置(1751年) 等があるが,なかんずく重要な意義をもつのは 公共図書館の創設(1731年)であろう。この着 (27’)松本・西川訳 前掲書,98頁。 ⑫$) [司書, 105−106頁。 醐 1司書,164−65頁。 〈3e) 1百」書, 165−66頁。 (3]) 1司書, 112−13頁。 ㈱ F.L. Mott, op. cit., p.54. 想は,クラブの会員たちが自分の論:文の申に, 自己の蔵書からの引用をすることが多かったか ら,各自の本を一カ所に集めておけば,「めい めいが全部の本を持っているのとほとんど変ら ず有益だろう」という考えから生まれたもので あった。こうしてできた共同図書館は,不幸に して種々の事情のためまもなく解散したが,そ の代りにより大なる規模と構想において組合図 書館がつくられるようになった。この図書館は 組合員の出資によって設置・維持されるもの で,その定款によると,各組合員は加入のとき に40シリング,以後毎年10シリングずつ出資す ることになっていた。フランクリン自身の言葉 によれば,「これが今日各地で行われている北 アメリカ組合図書館の元祖」なのである。そし て,それは「アメリカ人全体の知識水準を高 め,平凡な商人や百姓の教養を深めて諸外国の たいていの紳士に劣らぬだけのものに仕上げ」, やがて全植民地の住民をしてその権益を擁護す るためあのようにこぞって抗争に立ち上らせる くさわ のに役立っナこのであっナこ。 IV フランクリンを広い意味での教育者としてみ なおす場合に,彼の新聞および郵政事業を無視 することはできないと思う。今日のように,マ ス・コミが巨大な非人格化した一つの社会勢力 となっている時代においては,知識やニュース や娯楽の伝達事業は,それを特定の個人の教育 的影響力に還元することはできないであろう。 しかし,フランクリンの時代の新聞は,編集は もとより印刷・発行から配達にいたるまで,一 個入ないし数名の個人の私的企業であり,従っ てそれは明らかに教育事業の性格をもつもので あった。植民地時代の新聞には,まだ社説とい くヨ ラ うものもなく,ニュースのごときも交通不便の ため地方的なものに限られていたから,紙面の 大部分は教訓的な逸話や,著名な作家からの文
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第 10 号 1960 学的抜葦や,種々の売りものの広告,奴隷・召 使い・徒弟の逃亡の告知,並びに懸賞尋ね人な くヨの どで占められていた。次の引用は新聞事業に対 するフランクリンの思想,並びに彼の新聞(ペ ンシルヴェニア・ガゼット)の内容を示す好例 である。 私は自分の新聞もこれまた教訓を伝える一 つの手段だと考えたので,その考えからしば しばスペクテイタ一紙その他道学者たちの書 いたものから抜駈して新聞に載せた。時には 自作の短いものも発表した…。その申には, その人の才能がどうであろうと,徳のない人 間は真に分別のある人物とは言えないという ことを証明するソクラテス風の聞答や,また 克己のような徳もこれを行うのが習慣とな り,これに反する性癖の影響をまったく受け ないようにならなくては確かとは言えないと くきの いう議論もあった。 当時はまだ,新聞は一般に贅沢品と考えられ ていたので,その購読者は比較的少数の知識階 級に限られていた。1765年の終りにおいて,植 民地の新聞の平均発行部数はせいぜい二。三百 部から千部内外であり,白人戸数の約五パーセ ントが毎週新聞の配達を受けている程度であつ く う た。しかも,それらの新聞の内容はいずれも読 者の意欲をそそることの少い,無味乾燥な退屈 きわまるものであった。フランクリンの文筆活 動があまりにも通俗に走り,時として低級に流 れたという点が批判されるとすれば,それは当 時の読書界の実情と大衆の知能指数の水準を無 視するものというべきであろう。「ニューイン グランド新報」が当時,「最も立派で興味ある」 新聞の一つでありえたのは,印刷工フランクリ ンが経営主に無断で掲載した『無言の善行者』 (Silellce Dogood)というユーモアと誠刺に満 ちた一連の匿名記事が読者の問に熱狂的な反響 をよび起したためであった。その申の口説きに 関する文章にこんな一節がある。 「男の一生の (33) Ibid., pp.56−57. (34)松本・西川訳,前掲謬,154−55頁。 (35) F.L. Mott, op. cit, p,59. (36) (37) F.L. Mott, op. cit., pp.27−28。 あらゆる経験の申で,男が生まれて初めて女に いい寄るときほど頓馬で滑稽に見えるものはま く う ずあるまい。」 他方,フランクリンは植民地における新聞事 業のもつ可能性と限界と責任についても,同業 者の誰よりも完全な自覚をもっていた。「ペン シルヴェニア・ガゼット」の第一号の中で,彼 は次のように書いている。 われわれはよき新聞を発行することが,大 衆の考えているほどたやすい事業ではないと いうことを充分に承知している。ガゼットの 発行者は(学識ある人々の意見によれば)広 く各国語に精通し,種々の事物を明瞭にわか りやすく簡潔に書いたり,説明したりする能 力をもつべきである。彼は海陸の戦いについ て語ることができ,地理や歴史を,皇室や国 家の利害,宮廷の秘密,あらゆる国々の風俗 に関係づけて知っていなければならない。し かし,こういう学識をもつ昏々は,世界の果 てであるこの国ではめつたにみられない。幸 い各紙の筆者が,自己に欠けるところのもの を同業者の間で補い合うことができるならば くヨリ 結構なことである。 さらに,彼は新聞経営のモラルということに ついても,現代に生きる示唆深き見解を表明し ている。次の文章は今日ジャーナリズムにとっ ても有益な教訓であろう。 私は新聞を経営するに当り,近頃わが国の 恥にさえなっている誹諦や人身攻撃にわたる ことは,一切これを避けるように心を用い た。こうした種類のものを載せてくれと頼ん でくる筆者は,たいていきまって新聞の自由 を主張し,新聞は乗合馬車のようなもので, 料金を払うものは誰でも乗る権利があるなど と弁じ立てるのだが,そういう時には,私は いつも次のように答えた。 「もしお望みなら その文章は別に刷って上げよう。あなたはお 気に召すだけ何部でも持って行ってご自分で Leonard W. Labaree (ed.), op. cit., Vol. 1. pp. 11−12.配るがよろしい。だが,私は人の悪口を広め るようなことは引受けたくはない。私は有益 な,あるいは興味ある記事を提供すると購読 者に約束しているのだから,読者に関係のな い個人的な言い争は載せることができない。 そんなことをすれば,明らかに読書の利益を 害するのだから。」ところが近頃の新聞業者 の多くは,高潔な人格者として知られている 人をも不当に非難して私の恨みをはらし,敵 意をあおって決闘沙汰まで惹き起させなが ら,少しも悔いるところがないばかりか,無 思慮にも,近隣の州の政府や,もっと親密な 友邦の行為にまで口汚い非難を発表し,ため にきわめて有害な結果をもたらしているので ある。私がかようなことを言うのは,若い新 聞業者がこれを戒めとして,こうした恥ずべ き行為は断乎として拒み、新聞を汚したり, その業を恥かしめたりすることがないように してほしいからであるが,私の例を見れば, 私の取ったような経営方針は,終局において 自分たちの利益に反するものではないことが くおう 分るであろう。 ところで,この引用からもわかるように,フ ランクリンにどって,公共の福祀のために積極 的に貢献することは,やがて自己の利益を増進 することであった。そして,彼の時代は合法的 に営利を目指す職業活動に勤勉に従事すること が,そのまま何らの矛盾なく社会一般の福祀に つながりえた時代であった。彼は自己の新聞事 業が大衆に知識と教訓を伝える手段であること を知っていた。そういう手段をさらに広範かつ 有効に拡張するために,彼が目につけたのは当 時の郵便網であった。 当時は,新聞発行人は同時に印刷業者であ り,印刷業者は往々にして地方の郵便局長を兼 ねていた。従って,彼等は騎馬郵便配達人( postrider)の雇庸主であり,その新聞は局から 局へと無料で送達されるのが慣例であった。彼 等は自己の新聞の部数と販路を広めるために, 郵便物の輸送において競争紙を差別待遇するこ (38)松本・西川訳,前掲書.155−56頁。 (39)F,L. Mott, op. cit., pp.60−62. (40) 松本・西川訳,前掲書.163−64,203頁。 ともできた。また,交通機関と道路の発達が原 始的であっだ当時において,騎馬配達人の集配 業務は言語に絶する危険と苦労を伴うものであ ったのであるが,そこには当然,郵便局長と騎 馬配達入をめぐって種々の不正な取引きや横領 などの悪事が介在した。ところで,植民地の郵 便業務は,初めは国王の勅許のもとに行われた 個人の独占事業であったが,1711年以降は英本 国の郵政長官の司るところとなり,植民地には 長官代理がおかれ,その監督下に各地の郵便局 く ラ 長が実際の業務を行うようになった。 フランクリンがフィラデルフィアの郵便局長 となり(1737年),さらに全植民地の郵政長官 代理となつt(1753年)経緯や,その郵政事務 改革事業については『自伝』が興味深く伝えて ねの いる。われわれの関心は,彼が賢明にも新聞事 業と郵政業務を結合しようとして努力した深慮 のもつ教育的意義にある。それは,営利に抜け 目ない事業の才といってしまえばそれまでだ が,彼のこうした社会活動によって,少くとも 広く大衆の間に知識が普及したことは疑いな い。教育が最も必要なときに,最もふさわしい 形で民衆に教育を与えることをフランクリンが 目指したからこそ,人々は後に共和制民主主義 の到来に際して,それを受け入れ,実践するこ とができたのであるとさえいえないこともな い。さらに,彼の新聞と郵便組織の一体化がな かったならば,互にばらばらで,時としては利 害の衝突さえみられた各州が,母国イギリスに 対するあれほど歩調のそろった反抗に一致団結 できたかどうかは疑問である。
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フランクリンの道徳観および「道徳的完成」 (moral perfection)に到達しようとする彼自身 の計画と実践,並びにそれらを広く一般に及ぼ して社会の道徳的改善を計ろうとした彼の意図 と努力のもつ教育的意義を考察することが,こ の小論に残された最後の論題である。 第十八世紀は,普通に啓蒙の時代といわれて バーリンゲーム 中村訳,前掲書.101−102頁。112
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第 10 号 1960 いる。そして,この世紀の殆んど全期間を完全 に生き抜いたフランクリンは,まきに啓蒙的合 理主義の代表的な思想家の一人であったといえ るであろう。その徹底した合理主義精神とい い,宗教における誰はばからぬ理神論的態度と いい,驚くべき百科全書的博識・多芸といい, また菰刺・譜詫的な批判精神といい,彼はイギ リスやフランスにおける啓蒙主義の同時代人以 上に啓蒙の先導者であった。ところで,第+八 世紀の啓蒙運動は,周知のごとく,本来,政治 と宗教における絶対主義に対するインテリの反 抗として起ったものであって,ことの起りにお いては大衆的な基礎をもたない高踏的な貴族主 義運動であった。従って,そこには人類文化に 対する多くの建設的な面があるとともに,少な からざる破壊的な面もあった。その徹底した合 理主義は,往々にして極端な懐疑論に陥り,勢 の赴くところ,宗教においては無神論となり, 政治においては無政府主義となり,道徳におい ては放逸と退廃に流れ,かくて理性の支配は権 力の支配にも劣らず圧制的となった。だから, フランクリンを啓蒙的な思想家として規定する 場合には,この運動に付随したこれらの否定的 な面,すなわち無神論と道徳的頽廃,無政府主 義と貴族主義という一面を排除することが必要 である。彼はあくまでも神の存在とその摂理を 信じていた。彼は人言の道徳的完成を信じ,自 ら徳にいたる修養と努力をつんだ。彼ぱあくま で法と秩序を重んじ,種々の社会改良事業に従 事した。彼はまた,あくまでも平民的で,コモ ン・マンの生活に徹した。彼が啓蒙的道徳思想 家といえるのは,啓蒙運動のこういう積極的。 建設的な面を代表するという意味においてであ る。 フランクリンの道徳観は,要するに三つの根 本信念がその基盤になっているようである。第 一は,人間が「道徳的完成」に到達することが できるという信念であり.第二は,「徳を積む ことは有利なのだ」という功利主義であり,そ して第三は,造物主としての一なる神とその摂 (41) 松本。西川訳,前掲書.135−36頁。 (42) Robert Ulich, op. cit., p. 228. 理に対する理神論的信仰である。 入間が道徳的完成に到達することができるい う信念は,当然それにいたるための実践と努力 を前提とし,徳への実践は計画と方法を必要と する。フランクリンが,節制(temperance)・ 沈黙(silence)・規律(order)・決断(resolu− tion)・節約(frugality)。勤勉(industry) ・誠実(sinCerity)・正義(justice)・中庸( moderation)。清潔(cleanliness)・平静(tran− quillity)・純潔(chastity)および謙譲(hu− mility)の+三の徳目を設定し,それらの諸徳 を完全に身につけることを目指して独特の工夫 と忍耐強い努力をしたことは,彼の「自伝」が 語る最も光彩ある部分であろう。フランクリン の十三徳は,次の諸点において徳目主義の名の もとに一笑に附してしまうことのできない重要 な意義をもっている。第一に,それらは彼自身 に「必要であり,また望ましい」諸徳であって, 他から強いられたものではなかった。第二に, それらの各々の徳目は,彼自身にとって実際的 な行動の指針となる具体的な内容をもったもの であった。例えば,節制の内容は「飽くほど食 うなかれ。酔うまで飲むなかれ」であり,規律 のそれは,「物はすべて所を定めて置くべし。 仕事はすべて時を定めてなすべし」であり,そ して謙譲のそれは,「イエスとソクラテスに見 ばつ 習うべし」というようなものであった。第三に それらの排列は単なる羅列的な徳目の列挙では なく,細かな配慮のもとに一つの前後関係をも っている。すなわち,十三徳の排列順序には彼 自身の道徳的な進歩の段階と順序が予定されて いたのである。第四に,彼の道徳表は,ウーリ ッヒも指摘しているように,古きアリストテレ ス的・キリスト教倫理と,啓蒙時代の典型的な 実際道徳の一種独特の混合物であった。すなわ ち,節制・沈黙・誠実・正義・中庸・平静・純 潔および謙譲はギリシア・キリスト教的な徳性 であり,規律・決断。節約。勤勉,並びに清潔 の う は新しい中産階級的啓蒙道徳である。 徳にいたる彼の実践方法は不断の自己検討による習慣形成ということであった。彼は小さな 手帳に十三徳のチェック・リストをつくり,一 週間を単位としてある一つの徳目を重点的に, 他の十二徳を二義的に,毎日それらの徳の内容 を示す戒律を犯したかどうかを反省し,違反し た数だけ黒星を書き込んで,十三週で全部の徳 を一巡する方法をとった。こういう機械的な道 徳訓練の方法には,現代教育の観点からみて, 批判の余地は充分あるであろう。確かに,彼は 彼自身も告白しているように,この方法で「道 徳的完成の域に達することはもちろん,その近 くに至ることさえできなかった。」しかし,彼 の述懐によれば,「努力したおかげで,かよう な試みをやらなかった場合に比べて,人間もよ く う くなり幸福にもなった。」彼の考えによれば, 徳を身につける「手段については教えも訓しも せず,ただ「よくなれ」と訓戒する」ような道 徳教育は「着るものもなく,食うものもない人 人に,どこに行き,どうして衣類と食物をえた らよいかを教えず,ただr飽くことを得よ,温 かなれ』と訓戒した,かの使徒伝に出てくる言 く の 葉だけの仁者のようなものである。」彼の道徳 観が一種の功利主義にもとづいていることは, その全体的な思想傾向から容易に予想されるこ とである。彼は徳の効用について次のように書 いている。 ……久しい間健康を保ちつづけ,今もなお 強健な体格を持っていられるのは,節制の徳 のおかげである。若くして窮乏を免かれ,財 産を作り,さまざまの知識をえて有用な市民 となり,学識ある人々の間にある程度名を知 られるようになったのは,勤勉と倹約の徳の おかげである。国民の信頼をえて名誉ある任 務を託されたのは,誠実と正義の徳のおかげ である。またつねに気分の平静を保ち,人と 語るさいには快活を失わず,そのために今日 も親しみ近づこうとする人が多く,若い知人 からも好感を持たれているのは,……十三の 徳が全体として持っている力によるものであ (45) るQ 最後に言及しておかなければならないのは, 当時(1731年),フランクリンが道徳的完成に いたる自己の努力と成果を一つの世界的な大衆 運動にまでおし広めるために「ある大規模な計 画」(agreat and extensive projeCt)を企図 していたことである。それは,各国の善良有徳 の人士を糾合して「修徳同盟」(United Party for Virtue)とも,「自由人と幸福者の協会」 (The Society of the Free and Easy)ともい うべき団体を組織し,「あらゆる既成宗教の本 質的な部分を含み,しかもどんな宗派の信者か らもいとわれない」ような教義を奉じ,上述の 方法によって十三徳の実践を目指し,相互に忠 告・援助・支持を与えようとするものであっ りの た。それは,ジャントー・クラブ運営の経験 と,彼自身の修徳実践の体験から,彼にとって 充分「実行可能な計画」であったのであるが, 公私さまざまの用事のナこめについに実現にいた らなかった。ともあれ,彼が自己の道徳的改善 にとどまらず,広く社会・人類の道徳的改革を 志し,そしてある程度それに貢献したことは否 定できないと思う。 (43)松本・西川訳,前掲書.145頁。 (44) 【司書.146〕匿〔o (45) 同書.145−46頁。 (46)同書.150−53頁。