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部落のいまを考える⑮ 行政闘争とは何であったか 一一部落解放運動の責任論 柚岡正禎 ひろば@}⑮ 乙べる刊行会 『同和はこわい考』をどう読むか 松井安彦 わたしたちは語りうる物語をもっているか 熊 谷 亨来年三月三日、部落解放運動は全国水平社創立八十周年目を迎えます。創立大会の宣言は 日本の人権宣言ともいわれ、各種集会冒頭のセレモニーではかならずといってよいほど読 み上げられている。しかし、運動は宣言にいう「人間」の意味、内容を豊かにしてきたと いえるかどうか。巡動のなかで語られる紋切り型の、薄っぺらで荒っぽい人間観に違和感 をおぼえている人は多いはず。貧しい人間観からは、貧しい関係しか生まれないのです。 tト わ 「人聞を冒涜する」とはどういうことか。「人間を勅る」とはどういうことか。それらが意 味するところを、自分のことばで考え、表現することに怠惰でなかったかどうか、正面切 って問われていいのではないでしょうか。 交流会は「誰かが隠し持っている正しい答えを間違いなく、速く見つける」ための場では ありませんし、小ざかしい議論とも無縁です。「人間と差別」について関心を寄せる人び との参加をお待ちしています。 講 演 : 長 田 弘 ( 詩 人 ) 「 人 間 に つ い て 」 全体討論のテーマ:「部落のいまと〈解放〉のイメージ」 話題提供者:山下 力(奈良県部落解放同盟支部述合会理事長) パ ネ ラ ー : 住 田 一 郎 山 目 安 弘 山 本 尚 友 司 会:藤岡敬一 日程/9月 8日国 14時 開 会 18時 夕 食 191侍 再 開 21時 懇 親 会 9月 9日(日) 9時 再 開 12時 解 散
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日 時 /9月 8日(土)午後2時 ∼ 9日(日)正午 場 所 / 大 谷 婦 人 会 館 〔 大 谷 ホ ー ル 〕 ( 京 都 ・ 東 本 願 寺 の 北 側 ) 京者II巾ー下京区諏訪町通り六条下ル上柳町215 TEL(075)371-6181交 通 /JR京 都 駅 か ら 徒 歩 8分 、 地 下 鉄 烏 丸 線 五 条 駅 か ら 徒 歩 2分 、 市 バ ス 烏 丸 六 条 か ら 徒 歩2分 費 用 /A 8,000円(夕食・宿泊・朝食・参加費込み) B 4,000円(夕食・参加費込み) ご注意/※会場にはなるべく公共の交通機関をご利用のうえ、お越しください。 ※宿泊の方は洗面用具をご用意ください。 ※参加費は当日受付にてお支払いください。 申込み/ハガキ・FAXまたはインターネットで、住所・氏名(ふりがな)・宿泊の方 は性別・電話・番号・参加形式(A・ Bのいずれか)を書いて下記あてにお申込 みとらたさい。 阿H牛社 干6020017 京 都 市 上 京 区 上 木 ノ 下 町739
TEL (075) 414-8951 FAX (075)414-8952 E-mail: [email protected]
締 切 り / 8 H31日 働 五条通 N 4十 烏 丸 通 館 会 人 婦 谷 大 七条通 ・各地で発行されたビラ・パン フ・通信・新聞などを多数ご 持参ください。また第1日目 の夜には恒例の懇親会を開き ます。各地の名産・特産の持 ち込み大歓迎ですので、よろ 京都タワー0
部落のいまを考え る ⑮
行政闘争とは何であったか
||部落解放運動の責任論 柚岡正禎︵宇治市在住︶ 毒まんじゅう論 ﹁毒まんじゅう論﹂という言葉を知っている人は今、 どれだけいるだろうか。私が京都の大学に入学した一九 六五年の夏、同対審の答申が出たが、﹁毒まんじゅう﹂ というのは部落解放同盟内の共産党グループによる答申 への当初の評価だった。私もこの党派に属していたので、 部落問題について何も知らないまま、﹁答申は米日独占 資本が部落解放運動を融和主義の枠内に取り込もうとす るものだ。部落の真の解放は、物取り主義に陥らず、統 一戦線の下、二つの敵を明確にして闘うことによっての み実現される﹂などと、人にも話していたように思う。 その後の大学紛争で私は自分の政治的な立場を変えたし、 共産党も国民的融合論に転身してしまったのだから、す でにどうでもいいようなことなのだが、しかし私にはこ の何年もの問、時々、自分の頭をかすめる一つの聞いが あった。それは、﹁部落解放運動は毒まんじゅうを食べ た の か ﹂ , と い う も の で あ る 。 当時の日本共産党による答申 H 毒 ま ん じ ゅ う の 批 判 は 、 ﹁部落差別を温存・利用する米自独占資本に対する体制 的な闘いを第一義とすべし﹂というような高飛車な、し かも見当違いのものであった。そのため共産党はすでに 運動の主流の座を追われていた。しかしその後、年月が 経つにつれて、部落解放運動の同対事業依存、特別施策 依存の姿は、同盟組織から部落住民にいたるまで、もし かしてあの毒が回ってしまったのかと思わせるほど無残 なものになった。私などの耳にも、うわさ話を含め、い ろ ん な ル 1 トで嫌になるほどそういう話が入ってきた。 今でも、部落差別意識というよりは、運動や運動の成果 を甘んじて受けてきた人たちに対する不信感のようなも のが、部落外の人々の心には深く残っていると思う。 こぺる 1部落解放運動の自己責任 だが次のことはすでに部落の内部からも、多くの人々 に よ り 指 摘 さ れ て い る 。 部落解放運動はこれまで、部落の低位な実態はすべて ﹁差別の結果﹂であるという議論に基づいて、それを行 政の責任に帰してきた。そして行政からできるだけ多く の利益を引き出すことをもって﹁運動﹂であるとしてき た。そのため、部落民がそこで本来引き受けるべき自己 責任・自己努力の課題は、提起されることなく今日まで 持 ち 越 さ れ て し ま っ た 。 私はこの意見に同意する。そのとおりである。行政へ の過度の依存が自己責任の回避を生んだと言うことはで きる。もし問題を﹁行政依存﹂の一言でくくってしまう なら、確かにそこから導かれる反省は﹁自己責任の回 避 ﹂ と い う こ と に な る 。 だがそれでいいのだろうか。行政の特別施策・各種事 業の多くは、差別と貧困の悪循環を断ち切るうえで必要 不可欠なものと期待されたのではなかったか。つまりそ れらは単なる毒まんじゅうではなかったはずなのである。 問題は行政依存のあり方、﹁依存﹂と言う言葉が悪けれ ぱ、行政とのかかわり方にある。それのどこに基本的な 問題があったのか。それが本来どういうものであれば、 部落・非部落の関係を改めることに寄与できたのか。わ れわれはかつての行政闘争というものをもっと根本的に 総括しなければならない段階にさしかかっている。それ ができてはじめて、部落の自己責任という議論も生きる の だ と 思 う 。 朝田善之助の要求闘争 師岡佑行氏の﹃戦後部落解放論争史﹂を聞いてみれば、 朝田善之助の率いる行政闘争が物取り主義や融和主義な どではまったくなく、逆に、一貫してそれらと闘おうと してきたものであることがよく分かる。物としての要求 の実現よりも、﹁部落民の権利意識﹂を呼び覚ますこと、 すなわち一人ひとりの﹁自立﹂を促すことが目ざされた のであった。部落の生活実態がなぜこれほど劣悪である のかを一人ひとりが見つめ直し、行政がこれまで﹁部落 民の市民的権利﹂を保障してこなかった点にその原因が あることを認識して、行政ひいては政治のあり方に目を 向けさせようとしたのであった。答申評価にしても、答 申 H 武器論には組せず、答申実施をめぐる当局との攻め
ぎ あ い を 通 じ て ﹁ 大 衆 の 教 育 ﹂ を 行 お う と し た の で あ っ た 。 つまりその融和主義批判は、マルクス主義の一般論の 高みに立って個別の運動に注文を付けるというようなも のとは逆に、﹁部落差別﹂という自分たちの特殊な問題 に徹底してこだわり、そこから普遍的・客観的な体制認 識に向かわねばならないというものだった。生活実態を 改めることそれ自体に価値があるのではなく、その実態 を改善することを通じて何かを獲得せねばならない。そ の﹁何か﹂が朝田の場合、なおマルクス主義的な体制認 識、体制変革であったということであろう。差別事件を 行政闘争に転化させるという方針もここから来ている。 ︵ 他 に 朝 団 の ﹃ 解 放 運 動 の 基 本 認 識 ﹂ 七 二 年 が 参 妥 d に な る 。 ︶ ﹃論争史﹂全五巻は、部落解放運動の歴史が、マルク ス主義の一般論とそれをマルクス主義の枠内で乗り超え ようとした具体論との相克であったことを、見事に描き 出 し て い る 。 行政依存をもたらしたもの 師岡氏の問題意識は、その具体的要求から出発したは ずの同盟の行政闘争が、なぜ次第に、丸抱えの法依存・ 事業依存に陥ってしまったのかという点にある。そして その答えは、﹁論争史﹄第四巻に散見できるものをまと め る と 、 次 の よ う に な る 。 ﹁同対審答申を政府が受け入れたことを見ても分かる ように、そこには国家が民衆の主張に同意を与えながら 支配するという現代の政治技術、現代における新たな支 配形態がある。﹂﹁法のもつ普遍性が個々の要求を先取り し 、 吸 収 し て し ま う 。 ﹂ 師同氏のこのような問題意識は、やがて出る地対協の 報告書や意見具申への批判で確かめられ、﹃いま部落解 放に問われているもの﹄︵八七年︶の一書に成る。そこ での地対協批判の要点は、﹁国のリーダーシップにより 国家主義的同和政策を確立しようとするものであり、部 落解放運動の壊滅を目ざすものである﹂というものであ っ た ρ 私は地対協の文書は今日から見てごく真っ当なもので あり、師岡氏の批判は当たっていないと思うが、ここで 問題にしたいのはそのことではない。それよりもこの批 判の基礎にあった法や国家に対する考え方である。法や 国家は民衆の要求を先取り、吸収し、そして支配するも のであるという。八十年代の時点では師岡氏は、そうい う法や国家に対する警戒心を怠ったことが行政依存をも たらしたと述べているのである。 こぺる 3
これは融和主義を戒めつつ行政闘争を指導した朝団の ものとよく似ている。朝団の時代の行政闘争もその基礎 に次のような考え方を持っていた。﹁国や行政は本心か らは部落差別の解消を望んでおらず、本質的にはこれを 阻もうとするものである。部落差別から最終的に解放さ れるためには、国や行政を体制的に変革する闘いに向か わねばならない。﹂朝田の考え方と八十年代の師岡氏の 考え方との違いはただ、国や行政が運動側の要求を簡単 には先取り、吸収してくれなかった時代のそれと、簡単 に先取り、吸収されたかに見える時代のそれである。 ﹁融和主義に陥らず、国や行政への攻撃の手を緩めるな﹂ というものと、﹁融和主義に取り込まれて国や行政への 依存に陥るな﹂というものである。 八十年代の師岡氏の行政依存論が、国や行政の融和主 義的な政策が依存をもたらしたとするのに対して、九十 年代以降、本誌でも様々に指摘された行政依存論は、行 政よりも運動側の主体的な責任を問うものとなっている。 自己責任を回避し、行政に責任を押し付けてきた部落解 放運動の姿勢・態度が今日の行政依存をもたらしたとす る 。 これは先にも述べたように、間違いではないが、不十 分ではないかと最近、私は考えるようになった。という のは、行政闘争の時代、部落解放運動は他の戦線に先駆 けて行政を追求することで自分たちの責任を果たそうと してきたのであり、そこにおいて主体的であろうとして きたからである。行政闘争には行政闘争の論理があり、 それをただ﹁行政に依存してきた﹂と道義的に振り返る だけですまないものがある。 すでに行政に依存することさえできなくなった今でこ そわれわれは行政依存を指摘し、反省もできる。だが部 落と部落外との実態的格差が歴然としていたあの時代に、 行政闘争がまさに行政との闘いを第一に掲げることによ って、逆に、行政依存に陥って行ったパラドックスを知 っておかねばならない。以下に見るように、むしろその ﹁反行政﹂﹁反国家﹂主義の構えが行政依存を生んだので ある。かつてわれわれ自身の発想の基礎にあり、そして 今もまだ残っている行政や国家、部落差別についての基 本的な考え方が現在の事態を招いてしまった。そのこと を明らかにしなければ、本当の反省にはならないはずで あ る 。 行政との闘い ﹁物取り主義に陥るな﹂・﹁要求の実現は自覚のための
手段にすぎない﹂は朝団の戒めであった。しかし部落の 低位な実態はすべて﹁差別の結果﹂であるとして、実態 の改善の問題を﹁行政との闘い﹂に転化した運動は、要 求の実現をそれ自体として﹁差別行政﹂に打撃を与える 意義のあるものにしてしまう。部落外の人々の目を気に せず、また特別措置の財源をどうするかなども一切考え ず、行政や国からは取れば取るほど良いのである。要求の 獲得それ自体が運動の前進ということになってしまった。 多くの良心的な活動家は、﹁物取り主義に陥るな﹂と いう朝団の戒め通り、﹁物﹂そのものにはそれほど惑わ されなかったかもしれない。だが﹁差別事件﹂やその他 の問題で行政の責任を追及し、当局を黙らせ、言い放ち、 やっつけることに大きな満足感・達成感を得てしまった はずである。それはこの運動がまさに行政闘争として、 当局や政府、あるいは﹁体制﹂というものを変えること に目標の中心を置いていたからである。あるいはその ﹁本質﹂を暴露することが目的だったからである。 活動家は部落解放運動の本当の目標がその先にあるこ とを忘れてしまった。当局に対する糾弾の場においてで はなく、日常的な部落・非部落の交流の場で偏見や過剰 なこだわりがなくなること、そこにこそ部落解放の到達 点があるということを見失ったのである。自覚をせよと の朝田の戒めではあったが、活動家は自らの像︵表現︶ を部落外の人々の視線において結ぶことができず、その ためその自覚は広がりを持ち深められることはなかった。 つまりその自覚は真に普遍的なものにはならず、せいぜ いマルクス主義的な、あるいは多分に部落排外主義的な 体制認識に向かっただけだった。 では普遍的なものはどこに求められるべきだったか。 それは足元に、と答えるべきであろう。普遍的なものは、 部落・非部落の人々の日常的で直接的な関係の中にあり、 部落差別をなくす両者の対話においであった。それは行 政闘争の時代においてもすぐそばに存在していたはずで あり、だからこそ今の時点からの時代を超えた批判も反 省もありうるのである。行政闘争は、その政治主義のゆ えに、実態的格差を制度的・政治的に解消させた後、最 後に、部落問題の中心課題として、部落・非部落の直接 的で個人的な意識関係の問題が立ち現れてくることを展 望 で き な か っ た 。 行政闘争はひたすら国や行政の責任を追及してきたが、 国や行政の責任は、国民が部落・非部落の社会対立を自 らの手で解決する上でどんな援助ができるか、その対立 をどう媒介できるかにおいてしかあり得ない。どのよう な行政施策もそれ自体として部落差別を解消させるもの こぺる 5
ではなく、異議申し立てし対策を求める部落側とそれを 受けとめる行政とが向かい合い、それをまた国民が注視 するという公共空間の中で、政治的試みとして採用され るべきものであり、やがてその成否・効果を公に検証さ れるべきものである。行政闘争がもしこの社会対立をな くすことに寄与できるとすれば、それはこのような公共 空間においてのみであり、ここで国民的な議論を起こす ことによってのみであった。ところが﹁差別行政﹂を糾 弾し、国や行政と闘おうとするだけの行政闘争は、国民 に支えられたこの空間、つまり公共性の領域というもの を極めて不十分にしか構築できなかったのである。 同対審答申は、同和問題の早急な解決は﹁国の責務で あり、同時に国民的課題である﹂と述べている。答申を 引き出した人たちはみな、そこに﹁国の責務﹂という文 言を挿入できたことを鬼の首でも取ったように喜んだ。 答申評価の最大のポイントだった。その気持ちも、運動 上の積極的な意義もよく少かる。だがそれは﹁国の責 務﹂である前に、まず国民全体の責任であったはずであ る。答申というものが政府への促しという性格を持つ以 上、やむをえなかったとしても、本来なら﹁国民全体の 課題﹂が先に来ても良かったのである。このことに当時 の部落解放運動の指導者たちは思いも寄らなかった。私 が見るところでは、部落解放運動の課題が、﹁差別・被 差別関係総体の止揚に向けた共同の営みとしてあるこ と﹂に気付かれたのは、やっと藤田敬一氏の﹃同和はこ わ い 考 ﹂ ︵ 八 七 年 ︶ に お い て で あ る 。 ﹁ 両 側 か ら 超 え る ﹂ という言わば当たり前の方法が改めて確認されるために は、行政闘争時代の終需が必要だったのである。 ﹁差別の結果﹂論と﹁部落差別 H 生活実態﹂論 部落の低位な実態を﹁差別の結果﹂であるとし、行政 にその責任を押し付けてきた﹁差別の結果﹂論はこれま で、自己責任を回避する議論として問題にされてきた。 しかしこの議論を時代背景のある少し広い視野で見直し てみよう。部落の低位な生活実態に﹁差別の結果﹂を見 いだし、行政施策や特別給付の対象にしたのは行政闘争 である。﹁差別の結果﹂論はこの運動の論理として多用 され、乱用され、やがて個人的にも利用された。 行政闘争が運動の論理として要請したのは﹁差別の結 果﹂論だけではない。それと同時に、部落解放運動にと ってより本質的な﹁部落差別とは何か﹂という問題、そ の新しい定義を要請した。部落差別 H 生活実態、つまり ﹁部落差別とは単なる観念ではなく生活実態である﹂と
いうのがそれである。この命題も行政闘争の時代にそれ こそ嫌になるほどくりかえし唱えられた。われわれも ﹁差別の結果﹂論の再検討だけでなく、長い間忘れられ てきた﹁部落差別とは何か﹂という聞いについても考え 直し、それを再定義することが必要な時代に入ってきた。 この命題がいつも﹁単なる観念ではなく﹂という断り から始められるのを見ても分かるように、差別とはふつ う差別・被差別両側の偏見やこだわり、意識関係であり、 その意味で観念の問題である︵ただしすでに近代の平等 意識を織り込んだ︶。水平社宣言はそういう意味での差 別 と 闘 う 宣 ヰ エ ロ だ っ た 。 と こ ろ が 結 成 か ら 数 年 を 経 ず し て 全国水平社は、個人の差別観念に対する糾弾以上に、 ﹁差別の根本組織﹂や﹁支配階級﹂にその矛先を向ける べきだ、との方針を掲げる。これには社会主義の影響が 色濃く影を落としていた。そして戦後は部落解放同盟の 下 で 、 ﹁ 部 落 差 別 H 生活実態﹂が部落差別の定義にまで 高 め ら れ 、 唱 え ら れ た 。 だが先にも述べたように、生活実態の改善やそのため の行政施策はそれ自体として部落差別をなくすものでは なく、それらを挺子にして、部落・非部落聞の個人的な 意識関係を変えるための政治的実験でしかない。ところ が行政闘争は自らの足下に垣間見えていたはずのこの目 標を見失い、逆に、差別とは生活実態のことだと定義す る に 至 っ た 。 ﹁差別の結果﹂論は、部落の実態を行政闘争のテ l マ にするために生み出されたのだが、そこからさらに進ん で 、 ﹁ 差 別 H 生活実態﹂ということになれば、生活実態 の改善そのものが差別の解消になってしまう。﹁物取り 主義に陥るな﹂という朝田の戒めもむなしく、﹁物﹂を 取れば取るほど、それだけで運動が進んだことになり、 行政闘争の進め方などはどうでもよくなってしまう。部 落差別の根本的な解決を図って国や行政に闘いを挑んだ はずの行政闘争は、水平社の原点を忘れ、部落解放の本 来の目標を見失ったために、この背理に落ち込んでしま っ た の で あ る 。 戦後革新勢力 だが先に見た行政闘争の﹁反国家﹂主義のスタンスも、 また行政闘争が作り出した部落差別 H 生活実態という経 済決定論、唯物論的な命題も、冷戦時代のイデオロギー 対立やマルクス主義の影響を抜きにしては考えられない。 私の年代以上の人には説明するまでもないことだが、 マルクス主義によれば近代国家はすべて資本家階級の経 こベる 7
済的利害を代表するブルジョア独裁国家である。行政闘 争時代のほとんどの活動家が抱いていた﹁反国家﹂主義 的な国家観は、近代市民社会の健全な反﹁国家主義﹂で はなく、この階級国家論に近いものだった。そしてこの 国家観は、国家や意識のあり方は社会の下部構造により 規定されているとする経済決定論とセットになっていた。 差別の究極の原因を社会体制や貧困に求め、そこから説 き起こすのは当時の進歩的な人々のスタイルでさえあっ た 。 五十年代・六十年代には﹁革新﹂の先陣を切って要求 闘争を切り開いていった部落解放運動が、後の時代には 一転して様々な否定的現象を帯び始めたことの一因には、 大衆運動の中でも特に部落解放運動が、マルクス主義の 影響を強く受け、それをそのまま持ち続けてしまったと いうことがあるのではないだろうか。マルクス主義の理 論やその断片で武装していたために、要求闘争が大きく 歪められたとは言えないだろうか。 国民融合論は、戦前の半封建的な身分制差別は戦後改 革により体制的には消滅した、その残浮としての戦後の 部落問題には構造論としての部落差別再生産論は当ては まらない、と宣言した。戦後の部落問題の解釈を七十年 代になってから変えることによって、その背後の理論を 守ったのである。だが他方の部落解放同盟は、ありあわ せのマルクス主義を使って手作りの理論を組み立てた。 その発想法や運動論にいたるまでマルクス主義の影響を 強く受けながら悪戦苦闘した。 だが部落解放運動がマルクス主義や社会主義から受け た影響は戦後革新勢力全体が何らかの形で帯びていた時 代の風潮であり、思考方法であった。﹁革新﹂とは冷戦 時代の厳しいイデオロギー対立の下で、明らかに社会主 義にシンパシ 1 を抱く人々のことであった。叱られるか もしれないが、私には部落解放運動は、戦後革新勢力が 共同で生み出した H 問題児 U のような気がしてならない。 だからこそ逆に私は、その否定的な現象を﹁一部の解同 幹部﹂の責任にすることに反対であり、また﹁被差別部 落側の自己責任﹂という言い方も、あまりにも多くのこ とが言い残されている気がして釈然としないのである。 戦争と革命の世紀であった二十世紀は終わったが、そ れはまた社会主義の世紀でもあった。そして私たちは、 未だ社会主義の残照の中にいるような気がする。このこ とをわれわれがあまり意識していないこと、忘れたよう にあまり話題にしないこと、そのことに私は不思議な感 覚 を 覚 え る 。 ︵ B −u
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u o m 目 ・ 00 ロ ロ 巾 ・ 甘 ︶ひろば⑩ 松井安彦︵福岡県在住︶
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どう読むか
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こペる四月号の﹃﹁同和はこわい﹂再考﹄を一読後、 とても奇妙な気分にとらわれた。著者の山本尚友さんは、 この文章を読む限り、﹃同和はこわい考﹄という書物の 誕生にかかわった人である。また、﹃こわい考﹄以後の 藤田敬一さんを中心にした議論における主要なメンバー であることは、﹃こわい考﹄の十年遅れの読者であり、 全国交流会参加歴二固という私にもわかっている。 にもかかわらず、この文章から受ける印象は﹃こわい 考﹄とは異質であり、内容については、﹃こわい考﹄以 前とでもいうべきもののように思われた。実際、私自身 が﹃こわい考﹄について何か錯覚していたのかもしれな いと思い、あわてて書棚から取り出して読み返してみた 程だったのだが、その結果は、自分の直感が正しかった こ と を 確 認 す る こ と に な っ た 。 後で述べるように冷静に比較してみれば、この二つの 文章が、大きくその思想や方法を異にしていることは、 誰の目にも明らかなはずである。おそらく、私のように 釈然としない思いを抱いた読者も多かったに違いない。 しかし、その一方で、山本さんは、自らの文章を﹃﹁同 和はこわい﹂再考﹄と題して、藤田さんの提起を受け継 ぎ、それを一歩進めるものとして書いている。読み手の 側にも、﹃こわい考﹄の続編として抵抗なく読み進める こ と が で き た と い う 人 が い る の か も し れ な い 。 多少大げさに言えば、同和問題をめぐる現在の意識の ズレやすれ違いは、こうした読み方の違いの中にも顔を のぞかせているような気がする。この違いに照明を当て ることで、﹃こわい考﹄を自分なりに読み直す糸口とし て み た い 。 藤田さんはそもそも﹃こわい考﹄で何をいいたかった の か 。 こ れ に つ い て は 、 ﹃ ﹁ 同 和 は こ わ い 考 ﹂ の 十 年 ﹄ の 中に藤田さん自身の要約があるので、そこからさらに抜 粋 す る こ と に す る 。 ・﹁同和問題はこわい・うるさい・面倒で避けた方 が よ い 問 題 ﹂ ﹁ ま た か ﹂ ﹁ う ん ざ り ﹂ と い っ た 市 民 の こぺる 9根強い意識を直視すべきである。 ・﹁差別・被差別両側の隔絶された関係﹂を生み出 しているのは、一方では﹁差別する側﹂と自己規定 するんびとの﹁被差別側の体験・資格・立場﹂への 拝脆があり、他方では﹁ある言動が差別にあたるか 、どうかは、その痛みを知っている被差別者にしかわ からない﹂﹁日常部落に生起する、部落にとって不 利益は一切差別である﹂との差別判断の資格と基準 をめぐるテ l ゼ が あ る 。 ・この隔絶された関係を変えるには、﹁差別・被差 別の両側から超えて、差別・被差別関係総体を止揚 する共同の営み﹂としての部落解放運動を創出する 以 外 に は な い 。 藤田さんは、確かに、自分の体験をもとに、被差別部 落に対する﹁けがれ﹂と﹁こわさ﹂の意識についても語 っている。しかし、この要約を見ればわかるように、そ れはあくまで﹁同和はこわい﹂という意識の一部でしか ない。﹁同和問題はこわい・うるさい・面倒で避けた方 がよい﹂という意識は、差別・被差別の隔絶された関係 がもたらすきしみや悲鳴のようなものとして扱われてい る の だ 。 もしこわいという意識を、誰かの心にはりついた差別 意識であると見なすなら、悪いのはその汚れた意識と汚 れ を 帯 、 び た 人 間 な の で あ り 、 あ と は 有 無 を 言 わ さ ず そ れ をふき取ることが問題となるだけである。こわいという 意識を、関係のもたらすきしみや悲鳴であると考える場 i合にはじめて、その悲鳴の一つ一つに耳を傾け、きしみ をたてる場面を探り、関係のあり方を具体的に問い直し て い く こ と が 可 能 と な る だ ろ う 。 藤田さんは、﹃こわい考﹄のなかでも、じっくりと関 係の細部に眼差しを向けているし、その後の個人通信等 で、根気強く対話をつないでいっている。このようなこ とを可能にしているのは、﹁同和はこわい﹂という意識 をめぐる発想の転換であるように思える。 それでは、山本さんは、藤田さんの問題提起をどのよ う に 受 け 止 め た の か 。 意外なことに、山本さんは、﹁同和はこわい﹂という 意識の中身として、部落への恐怖心を語ることに終始し て い る 。 私のこのような経験は、藤田氏の﹁部落がこわい﹂
という観念は、部落の側の具体的な行為が生んだも のではないという指摘を、さらに進める必要があ忍 ことを示唆しているように思える。すなわち、この 日本の社会において被差別部落を知ることはすなわ ち、﹁部落はこわい﹂ということをふくめて、部落 への差別的観念を受容することに他ならないと。 この部分で藤田さんと山本さんの議論が奇妙にねじれ、 すれ違っているのがわかる。 ここで山本さんは、藤田さんが被差別部落に対する ﹁けがれ﹂や﹁こわさ﹂について語った部分を抜き出し ているが、藤田さんが主題とする﹁同和はこわい﹂とい う意識への問題関心はすっぽりと抜け落ちてしまってい る。このため、こわいという意識が、差別・被差別の具 体的な関係のあり方と結びついているという藤田さんの 認識は、全く受け継がれていない。 同和はこわいという意識は、部落に対する恐怖心へと 切り縮められ、それは、この日本社会において、あたか も天から降ってくるような差別観念とされている。この ような考えは、むしろ一般的でオーソドックスなものな のかもしれないが、藤田さんが﹃こわい考﹄で切り開い た思想とは無縁であることは言うまでもないだろう。 このような両者の姿勢の違いは、差別・被差別の関係 のあり方に眼差しを向ける際にも、はっきりと現れてい る 。 山本さんは、自分が立ち会った行政交渉の現場につい て 書 い て い る 。 職員の採用をめぐる解放同盟の支部の要求に対して、 長い間一人で立たされていた課長に向かい、突然一人の 青年がなぐりかかるポ l ズをする。やがて、課長は要求 を認め、放心した状態で体を抱きかかえられて帰ったと い 、 っ 。 課長が自らの恐怖感がこの結果を招いたと、自覚す る日が来るのだろうか。おそらくは、青年の暴力に 屈したという思いから抜けることは出来まい。そし て、この課長が被差別部落との間で信頼関係をきづ く時がありえるのだろうか。 山本さんによれば、部落と非部落との隔絶された関係 を作っているのは、あくまで非部落の側にある部落への 恐怖心であるということになる。そのため、部落への恐 こぺる 11
怖感を自覚し、いかに克服するか、ということのみが課 題となるのであって、行政と運動体との関係や行政交渉 のあり方]各人のふるまいについて具体的に問うことは 切り捨てられるのだ。時代状況に違いがあるといっても、 行政職員の端くれである私には、なんという観念的、図 式的な分析であるか、と憂欝な気分になるところである。 山本さんは、結末部分で、突然﹁差別の醜さ﹂に言及 している。非部落の側は、自らの醜さをもっと見据える べきだ、というわけである。論文の文脈から言えば、 ﹁同和はこわい﹂という意識が、この醜さに当てはまる の は 間 違 い な い だ ろ う 。 しかし、﹃こわい考﹄が書かれたのは、そのような紋 切り型の主張が、差別・被差別の具体的な関係を議論し ていく上で、抑圧や障害となっている状況に風穴をあけ るためではなかったのか。少なくとも‘今の時点で、こ の点を踏まえることなく﹃こわい考﹄を再考することは で き な い は ず で あ る 。 最後に、私なりに﹃こわい考﹄の読み直しのポイント を 考 え て み た い 。 一つめは、やはり﹁同和はこわい﹂という意識である。 この十数年で、同和問題をめぐる人々の意識はいっそう、 多様化し、流動化していると考えられる。このために、 その意識をケガレや差別意識などの﹁本質﹂や﹁起源﹂ から理解する方法の有効性は、ますます小さくなってい るだろう。藤田さんの方法は、こわいという多義的で幅 広い言葉・感覚を、関係の隔絶をしめす指標とすること で、具体的な関係の様々なありように分け入っていくと いうものだった。この方法は、今においていっそう重要 で あ る よ う に 思 え る 。 ’ 二 つ 目 は 、 ﹁ 両 側 か ら 超 え る ﹂ と い う 問 題 意 識 で あ る 。 藤田さんの提起はとりあえず、部落解放運動の内部にお ける差別・被差別の両側の関係を問題にしたものだった。 しかし、実質的には、解放運動の﹁外側﹂にいる人々の 意識にこそ、目を向けた提起だったはずである。行政に おける特別対策の終了とともに、解放運動の外部にいる 人々を、単なる批判や啓蒙の対象と見なすことはできな くなっており、否応なく、彼らと対等な対話関係を結ん でいくことが求められている。彼らの側に立って考え、 彼らの思いをくみ取るという、藤田さんが先鞭をつけた 流儀こそ、これからの対話の条件となるものであるにち カ し な し 。
ひ ろ ば ⑮ 十 字 ︵ 楽 只 隣 保 館 資 料 室 ︶
わたしたちは語りうる
物語をもっているか
熊谷
わたしは、奥羽山脈のふもとにある東北の農村で生ま れ育ったのだが、夏の楽しみの一つに、子ども会で出か ける近くの山でのキャンプがあった。中でも楽しみだっ たのが、夜、ロウソク︵ランプだったかもしれない︶を ともして、世話役として同行した近所のおじいさん︵と いう年齢だったかは定かではないが︶がしてくれる昔話 だ っ た 。 そのほとんどは、もう記憶が定かではないが、今でも 覚えているものに、こんな話がある。 あるおじいさんが、山で道に迷い、いつしか日も暮れ てしまった。仕方がないので、たまたま見つけた洞穴で 一夜を過ごそうと横になっていると、外で騒がしい音が する。出てみると、鬼たちが酒盛りをしている最中だっ た。隠れようとしたが見つかってしまい、鬼たちの真ん 中に引き出されてしまった。﹁何か芸をして見せろ。だ が、おもしろくなかったらただではおかん﹂と言われ、 思 案 す る お じ い さ ん 。 さ り と て 、 ・ い い 考 え が 浮 か ば な い 。 せかされてとっさに口に出たのが、﹁わしの糞は、誰よ りも立派だと言われています﹂。それならやってみろと いうことになり、腰を下ろすおじいさん。鬼たちがみて いる前で、それはこんもりとした山ができた。﹁ゃあ、 こ れ は す ご い ﹂ と 鬼 た ち は 口 々 に 言 い 、 ﹁ こ れ は 褒 美 だ ﹂ と言って、おじいさんにたくさんの金銀、宝物をくれた。 翌日、おじいさんは喜び勇んで山を下り、村へ帰った。 この話を聞いた隣のおじいさん、そんなことで財宝がも らえるのならと、自分も山へ出かけ、洞窟の中で夜が更 けるのを待った。すると確かに鬼たちがやってきて、酒 盛りを始めた。このおじいさん、鬼たちの前に出ていっ て﹁わしの芸を見てもらいたい﹂といって、腰を下ろし て力み始めた。ところが、出てくるのは下痢のような軟 便ばかり。﹁何だお前は、場を台無しにしおって!﹂か わいそうに、おじいさんは鬼たちにさんざん痛めつけら れてしまった。﹁昨日のじじいに免じて、命だけは助け てやる﹂といわれ、ほうほうの体で山を下りたという。 細かいところは記憶違いがあるかも知れない。言って みれば﹁こぶとりじいさん﹂の流れをくむ話ということ になるのだが、当時でも︵六0
年代後半︶、農家で尿尿 を畑の肥料にするのは普通のことだったし、そんな事情 が 反 映 し て い た の だ ろ う か : : : な ん て こ と を 書 き 出 す と こぺる 13お も し ろ く な く な る か 。 実は、宮崎駿監督の新作﹃千と千尋の神隠し﹄を観て、 ふと浮かんできたのが、子どもの頃、こんなふうにして、 わくわくしながら昔話を聞いた思い出だった。宮崎監督 はこの作品を、信州にある彼の山小屋で夏を過ごしてい た知人の十歳の娘たちに見せたいと思いながら作ったと いう。確かに、還暦を迎えた宮崎爺さんが、夏の晩、集 まってきた子どもたちにお話を聞かせているような、そ ん な 趣 の 映 画 で あ る 。 主人公である十歳の少女、千尋は、両親と共に引っ越 し先の家へクルマで向かっている。花束を握りしめなが ら、車の後部座席に憂替そうに寝そべっている。前の学 校のクラスメートからもらったらしいその花束には、 ﹁ちひろ、元気でね﹂と書かれたカ l ド が 挟 ま っ て い る 。 父親から、﹁あれが新しい学校だよ﹂と言われでも、﹁前 の 学 校 の 方 が い い も ん : : : ﹂ と ブ l たれるだけ。ところ が、間もなく新居に着くはずというとき、クルマは奇妙 な建物の前に出、千尋と両親は﹁不思議の町﹂へと迷い 込んでしまう。勝手に屋台の食べ物を口にした両親は豚 に姿を変え、千尋の周りにいるのは異形のものたちばか り。﹁これは夢だ!さめて!みんな消えろ!﹂と泣 き叫ぶ千尋 o J ところが、透け始め、消えてしまおうとし ているのは千尋の身体の方。謎の少年ハクに助けられた 千尋は、名前と引き換えに湯婆婆という魔女の支配する 湯屋で働くことになるのだが、そこでの経験を通して自 ら の 内 に 潜 む ﹁ 生 き る 力 ﹂ を 発 見 し て い く : : : 。 この﹁千と千尋の神隠し﹄、見えるものはすべて千尋 の目を通して見えてき、聞こえるものは千尋の耳を通し て聞こえてくる。一人称の語りの、当然の手法と言って しまえばそれまでなのだが、ここまで徹底した映画とい うのも珍しい。湯屋を支配する魔女、湯婆婆の顔がやた ら大きいのも﹁マンガ的﹂というよりも、千尋から見た イメージということなのだろう。 それにしてもこの千尋、見事なくらいよくひっくり返 り、よく転ぶ。そんな場面が、十回近くあったろうか。 梁や床に頭をぶつけるたびに、観ているこちらも目から 火がでそう。観客は、否が応でも千尋と同じ目線に立つ ことを強いられる。実写映画でもこんな効果は:::とい うより、これこそ宮崎アニメならではの表現かも知れな い。そういえば、人が殴られたり拳銃で撃たれたりする 映画はいくらでもあるが、痛みや苦しみをこちらも体感 するような場面にはほとんどお目にかかったことがない よ う な 気 が す る 。 ﹁ファンタジーは必要だと思います。子どもたちが困
難にぶつかったときは、まずかわさなければならないん です。僕はファンタジーの力に何の疑問も持っていませ ん。ただし、ファンタジーを作る側が精神的に疲弊して いて、﹃そんなことは信じられない﹄というよ、つな言い 方が増えているのは事実ですが、それはこのややこしい 時代に括抗するだけのファンタジーが生まれていないだ け だ と 思 い ま す 。 ﹂ ﹁例えば﹃かちかち山﹄で、おばあさんを狸が殺しち ゃうとか、そういう話は戦後すぐにそうじゃない話に変 えられていて、ずっと問題にされてきたんですよね。そ れは同時に、何かというと子供たちの中でおとぎ話が力 を失っていく過程でもあったんです。それは﹃ちびくろ サンボ﹄は差別なのかどうかということも含めて、おと ぎ話がどういう力を持っているのか信じない人たちが 色々といじくりまわすんです。例えば、グリム童話なん か殺しあう話が一杯あります。﹁赤頭巾﹂なんかも最初 は食べられて終わりなんです。﹁ばかな娘は食べられる よ﹂、その世界そのものなんですよね。お話としては魅 力があるから、あとで猟師がお腹をさいて赤頭巾を助け るみたいな話に発展して生き残ったんでしょうけど。多 分﹃桃太郎﹄の話は日本の海外侵略なんかと一緒に重ね られ易いわけですね。実際にそうなり易い話の枠ですか ら。そういうことに手を出すのは止めた方がいいんです よね。埋もれたものに手を出さない方がいいと僕は思っ て い ま す 。 ﹂ ﹁世界がどんなことになっても、あなたが生まれてき たことは良かったんだという。そこを基盤に映画を作ろ うと思っていましたから。そこを貫かなきゃいけないと 思 っ て い た ん で す 。 ﹂ ︵質問︶それは通過点として﹃もののけ姫﹄を経て至 っ た 心 境 で し ょ う か 。 ﹁いや、﹃もののけ姫﹂で終わるよりは、今度の映画で 終 わ っ た 方 が ホ ッ と し ま す ね 。 ﹂ ︵ ﹃ 千 と 千 尋 の 神 隠 し ﹂ に関しての宮崎監督のインタビューより︶ エミシの末育、アシタカは村を襲ったタタリ神を殺し たばかりに死に至る呪いを受けてしまう。村を追放され たアシタカは、﹁曇りなき眼﹂によって自らの運命を見 定めるため旅に出る。山犬への生け費としてささげられ、 人間界から追放された娘サン。彼女は﹁もののけ姫﹂と して人間と戦い、森を侵食するエボシ御前と刺し違える ことで、おのれの生を全うしようとする。映画﹃ものの け姫﹂は、サンは森で、アシタカはタタラ場で﹁共に生 きる﹂ことを二人が選択して終わる。それまでのスタジ こベる 15
オ・ジブリの作品といえば、エンド・ロ l ルで後日談を 描いた絵がパックに映し出されるのが恒例だったのが、 この映画では漆黒の聞があるばかりだった。まるで、こ の先の二人には物語は存在しない、語り得ないとでも言 、 っ か の よ う に 。 ﹃千と千尋の神隠し﹄について、ジブリのスタッフの ひ と り は 、 ﹁ ﹃ も の の け 姫 ﹄ の サ ン が 千 尋 の 先 祖 ﹂ と コ メ ン ト し て い る 。 ブ ! タ レ 娘 だ っ た 千 尋 が 、 ﹁ 不 思 議 の 町 ﹂ での多くの出会いによって自らの﹁生きる力﹂を発見し、 それによって両親を取り戻しこの世に生還するというこ の映画は、宮崎監督があの閣の先に現れる物語として生 み 出 し た も の か も 知 れ な い 。 映画の後半、瀕死のハクを救うためにおもむいた﹁沼 の底﹂の家で、千尋は﹁魔法で作ったんじゃあ何にもな らないから﹂と、みんなが紡いだ紫紺の髪留めをもらう ︵馬鹿な深読みと思われるかも知れないが、このシ l ン を観て、ふとチヤルカで糸を紡ぐガンジーを思い出して し ま っ た ︶ 。 ハ ク を 救 い 、 両 親 を 救 っ た 千 尋 は 、 ﹁ 途 中 で 後ろを振り返ってはいけない﹂というハクの言いつけを 守り、無事もとの世界へと戻る。そこであらためて千尋 は後ろを振り返るのだが、彼女が﹁生きる力﹂を目覚め させるに至った異世界での経験を記憶しているのかどう か、﹁きっとまた会える﹂というハクの言葉がどうなっ たか、画面では語られないまま映画は幕を閉じる。タイ ト ル が ﹁ 神 隠 し ﹂ で あ る か ら 結 論 は 自 ず と : : : と い う こ とになるのだが、それでも﹁一度あったことは思い出せ ないだけで忘れることはない﹂﹁目覚めた力は失われな い ﹂ と い う か の よ う に 、 千 百 専 の 髪 に は 紫 紺 の 髪 留 め が 光 っ て い る : : : 。 宮崎監督は、この作品をもって長編アニメーションか らは手を引くという。ファンとしては残念な反面、見終 わった後、千尋と同じように﹁ありがとうございました。 お世話になりました﹂と素直に口に出してしまいそうに な る 作 品 で も あ る 。 同時に、果たして﹁語り継ぐに値する、説得力のある 言葉と物語﹂を自分が持っているのかを考え込まされて しまった。力を失ったのは﹁かちかち山﹂だけではない。 わ た し た ち が 語 っ て き た は ず の 物 語 も : : : 。 ま っ た く 、 楽しく、切ない、そして罪作りな映画である。
白 ﹄ 旬 υ R 司 u 岡 市 4 4 一 言 R マ住田一郎さんの文章﹁部落差別| 自 己 責 任 担 い 対 等 な 対 話 を ﹂ ︵ ﹃ 朝 日 新 聞 ﹄ 6 月 2 日︶が、部落問題の解 決を願って取り組んできた人びとの あいだで、静かではあるけれども熱 い注目を集めています。住田さんは 部落解放同盟の運動方針が﹁この間 の同和対策事業によって何が解決さ れ、何が残された課題なのかを十分 に明らかにしていない。到達点の確 認がない﹂としたうえで、﹁従来通 りの同和行政が今後も必要だとも思 えない﹂、なぜなら、従来型の同和 対策事業は﹁被害者に対する加害者 責任としての事業﹂であり、これで は﹁被差別部落住民の自立・自己実 現を達成することも困難﹂であるば かりか、﹁自己責任を回避する﹂こ とによって、﹁被差別部落住民と他 の 人 々 と の 自 由 な 交 わ り 、