伝 教 大 師 最 澄 の 往 生 思 想 に つ い て /¥
伝教大師最澄の往生思想について
||龍山発願文を中心として||浅
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宗祖が二十年もの長きにわたって修行したと伝えられる比叡山・天台宗の祖師、伝教大師最澄︵七六七 J 八 一 一 一 一 ︶ に ① は、西方極楽世界願生の往生思想を有していなかったとする学説が今日まで一般的であった。それは、師の著作の上 いずれも断片的文献である為、あるいは後世の加筆とか、あ ② るいは偽作とか考えられて決定的資料とは成りえなかったからである。しかるに数年前、叡山学院の小寺文頴教授に に幾点かの往生思想と認められる資料がありながらも、 よって、最澄の真筆とされる﹃龍山発願文﹄なる一文献が実導仁空︵二ニO
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一 三 八 八 ︶ に よ っ て そ の 著 作 中 に 引 用 ③ されていることが紹介された。その願文中には最澄にとって明らかに往生思想を有していたことが明記されていたの である。もしこの﹃龍山発願文﹄なるものが最澄の真筆本に誤りなしとするならば、最澄における往生思想の確定的 資料となると云わねばならない。そこで小論においては、 ﹃龍山発願文﹄と内容的に類似する消息文を提示し、両者 の 相 違 点 を 論 じ る 中 に お い て 、 最澄の弥陀信仰と弥勤信仰との関係を追究し、 往 生 思 想 の 意 義 に ま で 及 び 、 も っ て﹃発願文﹄の真偽に追ってゆきたいと考える。記して御叱正を乞う。 最初に小寺教授の学説を紹介することからはじめなければならない。これは教授がいたって地道な、そして周到な @ 研績を続けられた成果と云えるであろう。その内容は、仁空に﹃党網経義記聞書﹄なる十三巻の著述があるが、その 精読を通して、本文中に数カ所にわたって最澄の﹃龍山発願文﹄の供文が引用されていることを発見されたのである。 永徳元年︵一三八一︶より五年間にわたって開講された議録であ ﹃ 党 網 経 聞 書 ﹄ tま ﹃ 永 徳 記 ﹄ と も 略 称 さ れ る 如 く 、 る。時に仁空七十三歳から七十七歳に至る高齢であったという。ここに引文された﹃龍山発願文﹄の断片を総合する と、最澄教学研究上、極めて重要な学術的意義をもっていることが判明したとしている。中でも次の四点が中心とな る 。 ①最澄に十二年龍山の事実があったと見られること。 ②弘仁九年暮春に小乗戒棄捨の宣言を行なうが、その前年の十二月一日にすでに小戒棄捨の決意がなされていたと見 ら れ る こ と 。 ③二百五十戒に代わる円戒の内容が四安楽行と三種深戒とであったと見られること。 ④最澄に西方願生の往生思想があったと見られること。 さらに教授は以上の四点が﹁史実と著じるしく矛盾するところはなく﹂ ﹁叡山大師伝の記事と一脈通じている﹂こ と を 論 証 し た 後 、 従来全く知られていなかったことが記されており、もし真撰と認めるならば、その学的資料価値は高い 伝 教 大 師 最 澄 の 往 生 思 想 に つ い て 二 九
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と 結 ん で お ら れ る 。 しかし積極的な真撰論証がなされていないのが残念である。 そこで小寺教授とは呉った立場から﹃龍山発願文﹄の再検討を試みることにする。 まず仁空以外にこの発願文を引用している資料を処々調査してみたが残念ながら発見するに至らなかった。今後の 研究に待たねばならない。他方、 ﹁、水徳記﹄以外における仁空の著述書の中に﹃発願文﹄が引用されているかどうか の調査においては、叢書に収められている外の二著に﹃永徳記﹄と同内容の文を検出することができた。 最初に﹃新学菩薩行要抄﹄である。 至 ニ 弘 仁 八 年 一 著 一 一 願 文 一 云 。 自今以後永拾三一百五十小乗戒 仰 ニ 望 四 安 楽 行 三 種 深 戒 二 云 一 去 ︵ 大 正 七 回 ・ 七 八 五 C 、 、J とあって、弘仁八年に願文を製したこと、小戒を棄捨し四安楽行・三種深戒を仰ぐこと、等々が記されている。 第二の資料は ﹃ 観 経 四 帖 疏 弘 深 抄 ﹄ で あ る 。 伝教大師:::サレバ顕密御化導大略事終弘仁八年任一一年来之御本意一始ニ十二年之龍山一給時御発願文、 0 セ ン ト ペ ヘ リ 白 未 レ 定 ニ 六 道 一 為 ニ 往 生 因 一 帰 レ 山 念 仏 述 玉 。 御 筆 正 文 章 有 レ 之 敗 。 生 年 半 ︵ 西 山 全 書 別 巻 一 ・ 三 六 九 ︶ とあって発願文の内容は﹃永徳記﹄と全く異ならないが、最澄にとって十二年龍山は﹁年来の御本意﹂であったこと、 そして弘仁八年までに化導︵教化︶がほぼ終ったこと、 などが記されているところにこの引文の特色があろう。 し 台、 も﹁御筆の正文章これ有りか﹂として真筆本の存在をにおわせている。このことに関して寸永徳記﹂には 御 自 筆 正 本 親 所 レ 及 − 一 拝 見 一 也 。 ︵ 天 台 宗 全 書 一 五 ・ 五 四 七 ︶とあって仁空自身、親しく真筆本を拝見している文章のある点が注目される。 以上の如く、仁空は処々で﹃龍山発願文﹄を引用しており、また実際に最澄の真筆本を閲覧したと語っている。仁 空のこれ程まで明確な記述を信用するならば、 なぜ﹃龍山発願文﹂なるものが最澄の伝記に現われてこないのであろ うか。否、最澄にとっての十二年龍山そのものがどうして正史に記されていないのであろうかという素朴な疑問が提 出されてくる。今仮りに実導仁空に信を置いて考えるならば次の推測が可能となりはしないだろうか。 弘仁八年十二月一日をもって龍山に入ったと仮定すると、最澄の示寂した弘仁十三年六月四日は寵山六年目に当る。 彼は﹃山家学生向﹄において一期十二年龍山を規定している。しからば最澄は龍山の中半で挫折したことになるので ある。自らの規定を守ることなく志の中半で逝ったことを師の弟子達は記録に留めようとするであろうか。師の龍山 の事実を葬ろうと考えるのは師を尊奉するあまりの当然の仕業であったかも知れない。 しかしながら師の真筆本であ る﹃龍山発願文﹄を焼却することはさすがに出来ず経蔵深く秘蔵したのであろう。それを五百数十年余の後に出た仁 空によって発見されたという推察がなせる。もしこの推測が正しいとするならば、最澄の著述書や消息文中にわずか ながらもその一端が見出せるであろうとの確信をもって、慎重に研究を進めていく必要がある。以下如上の推論を実 証 し て い こ う 。 まず最澄の上に龍山そのものを本願と呼んだ例の有無から検討を進めていかねばならない。 ﹁龍山発願文﹄と称す るからには、最澄自身において十二年龍山を﹁願﹂もしくは﹁本願﹂、 あるいはこれと同内容の用語で龍山を説明し ている部分が当然認められなければならないからである。 最初に﹁本願﹂の使用例を掲げて内容の検討を進めていくと ①弘仁七年五月一日付の泰範宛消息文中に次の如き例が認められる。 伝 教 大 師 最 澄 の 往 生 思 想 に つ い て
伝 教 大 師 最 澄 の 往 生 思 想 に つ い て 又 、 高 雄 濯 頂 同 レ 志 求 レ 道 倶 期 ニ 仏 恵 ﹃ 何 図 閣 梨 永 背 一 一 本 願 一 久 住 − 一 別 所 引 ︵ 伝 全 五 ・ 四 六 九 ︶ 泰範が本願、に背いて別所︵高野山︶に住しているというのである。前後の文脈から推するにこの本願とは比叡山に住 することを意味していることになる。同内容の使用例が次にも見当る。 ②四月廿一日付の消息文には 伏 乞 。 照 ニ 察 本 願 一 蓮 留 一 一 此 院 一 早 帰 − 一 幣 室 − 倶 期 一 一 仏 恵 ↓ ︵ 伝 全 五 ・ 四 七
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︶ とある。この場合の使用も﹁此院︵比叡山︶に留まること﹂あるいは﹁幣室に帰ること﹂を指して本願と呼んでいる、 と受けとられる。今少し広く解すると上の二例は空海の下に走って久しく比叡山に帰って来ない泰範に対して帰山を 促し、泰範と二人して叡山に留まって共に仏道を修す意図がうかがわれる。このことを最澄は﹁本願﹂と呼んでいる の で あ る 。 しかしながらこれら二文では龍山を指して本願と直結させることは早計であろう。ところで第一例につづ ③ 消~
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識 に 誉ヲも 遂ヶ 本 意ヲ 此ν 深タ 所 望ム ︵ 伝 全 五 ・ 四 六 九 ﹀ と あ る 。 ﹁議誉を一顧みず﹂とは俗世間を離れて山に龍ることを指すのではなかろうか。あるいは﹁本意を遂げん﹂と は﹁本願﹂と同意趣と理解できよう。 し か し いずれも隔靴掻獲の感をまぬがれない。 しかるに﹃慈覚大師伝﹄を播 ④ くと龍山を本願と呼んだ例が認められるのである。 其 後 大 師 依 一 一 先 師 本 願 一 誓 間 一 一 山 門 一 不 レ 腸 塵 路 重 則 弘 ニ 伝 天 台 法 門 ﹁ 夜 亦 修 一 一 練 一 行 三 昧 一 限 レ 之 以 ニ 十 二 年 ↓ ︵ 続 群 書 類 従 二 一 一 ・ 第 八 輯 ・ 六 八 六 ︶ 大師とは慈覚大師円仁である。先師とは円仁の師最澄を指している。 しからば﹁円仁は最澄の本願によって誓って山 門 を 閉 じ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ﹂ ﹁:;:これを限るに十二年を以てする﹂と解される。これこそが十二年龍山をもって最澄の本願であると的確に言い表わした一文であろう。 如上の用語の検討により、最澄に﹃龍山発願文﹄なる一文が草されたとしてもあながち誤り︵偽作︶とは云えない こ と が わ か る 。 よって上述の仮定も事実へと一歩前進したことになる。
四
ついで発願文の内容面から検討を加えていく段階である。拙論では往生思想が主題である関係から、発願文の内容 の中でもなかんずく往生に関する部分に重点を置いて研究を進めていかざるを得ない。 発願文に現われた往生関係文とは ︵ 天 台 宗 全 書 一 五 ・ 四 七 ・ 上 ︶ ⑤ である。生年半百とは﹁生年五十歳﹂を示しているのであろう。最澄は齢五十にして未だ六道のいずこに往くかも定 生 年 半 百 未 レ 定 ニ 六 道 為 一 一 往 生 因 一 帰 レ 山 念 仏 まっていないという悲痛な告白である。そこで来生に往生するための因として叡山に帰って念仏しようとする決意を 述べている一文である。 このような学界未知の内容を持つ文章の検討においては、最澄の他の著作に発願文とわずかながらも内容の一致し た記載を発見することが最良の道であると考える。今、幸いにもほとんど同意趣の消息文を見出すことができたので あ る 。 それは偶然にも前述した弘仁七年五月一日付の泰範宛書簡なのである。 ︵ 消 息 文 ︶ − 伝 全 五 ・ 四 六 九 J 四 七Oi
︵ 発 願 文 ︶ 老僧最澄生年五十。生涯不レ久 生 年 半 百 伝 教 大 師 最 澄 の 往 生 思 想 に つ い て一
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伝 教 大 師 最 澄 の 往 生 思 想 に つ い て 四 住 持 未 レ 定 。 未 レ 定 − 一 六 道 同法各見六和都無。独荷二乗一流一一連俗間↓ 但恨別居間梨。 往 年 群 我 ト 然 所 生ヲ公ト法レi − 。 此 華 巧 生 ニ 一 生 結ヒ乗ト
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伝 教 大 師 最 澄 の 往 生 思 想 に つ い て ム ノ、
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我々真宗徒の立場からは阿弥陀一仏信仰であって、同時に多くの仏を信ずる多仏信仰などは考えられない。しかし 天台教学上では十方仏土を認め、同時に多くの仏を尊崇する。よって最澄が西方浄土を願生して弥勤下生を待つとし ても決して矛盾とは受けとめ難い。しかし信仰の上から考える場合は、そこに一貫性がなくてはならないであろう。 西方願生と弥勤下生とが最澄の信仰上で如何様に結びついているのか。またこの両者が天台教学上のいかなる教義を 典拠として導き出せるのか。これらに充分納得いく解答が示されない限り、二者の信仰が最澄に同時に存在したと考 え る こ と は 不 可 能 で あ ろ う 。 そこでこれらを解明する手がかりとして最澄の先師達、中でも中国天台の担、天台大師智顛とその門人濯頂とにつ いて、彼らの信仰を一瞥しておく必要があると考える。 ⑫ まず天台大師智顛に阿弥陀仏信仰が存していたことはすでに指摘されているところであるが、同時に弥勤信仰をも ⑬ 有していたと見られる資料も出ている。これらのことは彼の臨終時に最もよくあらわれているといえよう。 ﹃ 別 伝 ﹄ によると臨終をむかえる石城寺に至った折の記載が次の如くある。 ︿ 大 ︶ ︵ 為 ︶ 石 城 是 天 台 西 門 、 天 仏 是 当 来 霊 像 処 所 。 既 好 宜 ニ 最 後 用 心 ↓ 衣 鉢 道 具 分 満 一 一 両 分 引 一 分 奉 一 一 弥 勤 ↓ 一 分 充 ニ 調 磨 ↓ ︵ 大 正 ・ 五0
・ 一 九 六 ・ a ︶ ⑬ 石城寺の大仏は﹁当来霊像の処所﹂とある。これは弥勤大仏の石像を意味している。しかもそこを臨終処と定めて ﹁最後の用心に宜し﹂と述べ衣鉢道具の一分を奉っているのである。しかるに臨終には﹃法華経﹄と﹃観無量寿経﹄ ⑮ を弟子に読請させ、門人智朗の聞に没後は﹁弥陀・観音親しく来って接引す﹂と西方往生の答えをなしているのであ⑮ る。ところが没後には、濯頂の夢に先師が現われ﹁児率の内院に在られる﹂のを感得しているのである。このように 智顕の臨終には弥陀信仰と弥勤信仰とが合探していることがよくわかる。これは智頴の著作﹃法華三昧行法﹄ 文庫品にも見えるところである。 ︵ 金 沢 神 我 不 弟 乱 子 正 英 念 中 住。至 生。心 安。発 楽。願 国。 願 昇。臨 生。命 上。終
兜。時
τ宏ヌー ヰ込。 面奉弥陀値衆聖 修行十地証常楽 すなわち安楽園に往生を願って兜率に生じ、弥陀に面奉するとある。彼の臨終はまさしく﹁行法﹄の通りであったと 一五えよう。智顛には弥陀・弥勃の両往生思想が同居していたのである。 次に智顛の弟子濯頂についてその臨終を見ると、 ︵ 滅 ︶ 臨終命弟子日。弥勃経説仏入城目、呑煙若レ雲。汝多焼レ呑。吾将レ去長。因伸ユ遺誠↓詞理妙切。門人衆侶謄仰沸 零 。 忽 自 起 合 掌 如 レ 有 レ 所 レ 敬 。 発 口 三 称 ニ 阿 弥 陀 仏 叩 低 レ 身 就 レ 臥 果 レ 手 当 レ 心 色 貌 歓 愉 、 奄 然 市 逝 。 ﹃続高僧伝﹄第十九に とある。濯頂も、臨終行儀は弥勤経に説く作法によりながらも三度阿弥陀仏を唱えて奄然と逝ったとある。このこと は智顕同様に阿弥陀と弥勤の両信仰を有していたと云えるであろう。 以上の如き中国天台の伝統を最澄も承け継いでいたということは否定できない。 しからば天台宗の祖師方が持って いた弥陀・弥勃の両信仰は いったいどこを典拠として導き出たものであろうか。これについて平岡定海師は﹁法華 経信仰﹂からであると述べる。 薬王菩薩木事口聞に説く安楽園往生思想は一般によくとり上げられるところであるが、同時に普賢菩薩勧発品には、 ﹁兜率天上弥勤菩薩所に往く﹂とあって、同一法華経中に弥勤と弥陀の両浄土信仰が説かれているのに起因する往生 伝 教 大 師 最 澄 の 往 生 思 想 に つ い て 七伝 教 大 師 最 澄 の 往 生 思 想 に つ い て /¥ ⑬ 思想の混乱であると解釈している。 しかもこの混乱は我国の初期日本天台においても見られるとして相応和尚を例に 解 説 を 加 え る 。 ところで最澄にはこの混乱があてはまるであろうか。確かに最澄にとって法華経は最高の典籍であった。 ﹃ 法 華 秀 句﹄下には 天 台 一 家 会 二 切 経 一 帰 ニ 法 華 経 引 ︵ 伝 全 三 ・ 二 七 三 ︶ とまで云い切っていることからもわかるように法華至上主義の信仰を持っていたことは言うまでもない。 よって弥陀 ・弥勤の両信仰も法華経より流出した二様性であると考えるならば、最澄にも両信仰が同時に存在したと言いうるで あ ろ う 。 しかしこの両様性が、最澄にとって単なる往生思想の混乱によって生じたものであるとは言い難いと思う。 ⑫ @ 平岡師も指摘する如く、最澄において弥助思想は兜率往生を願う上生思想ではなく﹁待見弥勤﹂であり﹁定見弥勃﹂ という龍華会値遇の下生思想だからである。最澄の思想を往生思想の混乱でないとするならば、弥陀往生と弥勃下生 の両思想が一体どう結びつくのか、問題はそこにある。 この解決として少し時代は下るが源信の﹃往生要集﹄を掲げることができよう。 今 按 レ 之 従 一 一 釈 尊 入 滅 一 至 ニ 慈 尊 出 世 一 隔 三 五 七 倶 抵 六 十 百 千 歳 。 其 間 輪 廻 劇 苦 幾 処 手 。 蓮 胎 一 而 期 為 田 一 一 悠 々 生 死 一 至 中 龍 華 会 ム 耶 。 何 況 若 適 生 一 一 極 楽 一 者 重 夜 随 レ 念 往 一 一 来 兜 率 宮 ↓ 乃 至 龍 華 会 中 新 為 一 一 対 揚 首 ↓ 何 不 レ 願 ニ 終 需 之 暮 ↓ 円
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し 日 u F 一 日 猶 三 如 富 貴 而 帰 一 一 故 郷 ↓ 誰 人 不 レ 欣 一 一 楽 此 事 一 耶 。 ︵ 恵 心 全 集 ・ 一 ・ 七O
︶ 弥勃下生までの長劫の聞の劇苦をのがれる為、極楽の蓮胎に生を託して龍華の三会を待つというのである。そして、 たとえ極楽に生じても兜率へは自由に往来することができて、 ついには弥勤下生時に、その説法の会坐で対揚の首と なるであろうと説いている。ここに至ってはじめて弥陀・弥勃の両思想が合致して矛盾なく理解できると云える。極楽に往生することは方便なのである。長劫の苦しみをのがれて、六道輪廻を留める依処なのである。目的とするとこ ろは極楽ではなく弥勤下生時の龍華会に列なって仏記を受けることである。今まで疑問視していた弥陀・弥勃の両信 仰が源信においてまとめられたことにより氷解したといわねばならない。もちろんこれが源信の思想ではない。それ までの思想の集大成が﹁往生要集﹄なのである。
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以上の論証を通して再び寸龍山発願文﹄と﹃消息文﹄とに帰ってみよう。発願文に﹁未定六道﹂とあった。消息文 には﹁住持未定﹂と記されていた。 五十歳になった老僧最澄ですら、来生に住持する六道の依処が定まっていなかっ たというこのことは長劫の聞の劇苦を受けることを意味している。そこで来生極楽の蓮胎中に生を受ける因として、 即ち悠々たる生死を留めんがために念仏を修するというのである。無論それは弥勃下生を待つ為の足がかりにしかす ぎない。龍華会において弥勤に値い、仏記を受ける。それまでの修行処が最澄にとっての極楽なのである。 ここにおいて ﹃龍山発願文﹄の﹁為往生園、帰山念仏﹂と、 ﹃消息文﹄の﹁待見弥勘﹂とが会通されたことにな る。そしてこのことは最澄にとって弥陀・弥勃の両信仰が、単なる往生思想の混乱としてではなく、同時に存在した ことに一つの信仰上の統一がとれたことになるであろう。 しかも、この二つの思想が彼の上にあってはじめて最澄の 信仰をより深く理解することが可能となるともいえよう。 以 上 の 如 く 考 え た 時 、 実導仁空に信を置いた思考方法はあながち戯論として退けられなくなる。 要するに最澄の ﹁龍山発願文﹄が、往生思想に関する限り真撰と認めるに何ら否定的な見解が現われて来ないからである。それどこ ろかむしろ彼の思想を一層明確にする資料といわねばならないであろう。 ︵ 龍 谷 大 学 ︶ 伝 教 大 師 最 澄 の 往 生 思 想 に つ い て 九伝教大師最澄の往生思想について 註 ① 福 井 康 順 ﹁ 長 講 法 華 経 願 文 の 真 偽 ﹂ 山 家 学 報 新 一 ー ! 四 の 説 が 一 般 的 で あ る と 思 わ れ る 。 授菩薩戒儀第十一広願︵伝全一・三二八︶、守護国界章 下之中︵伝全二・六