• 検索結果がありません。

真宗教学研究 第22号(2001)

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "真宗教学研究 第22号(2001)"

Copied!
188
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

ISSN 1346 2156

2

2

「精神主義」と現代一清沢満之の精神主義一

講 演 j青沢満之ともう一つの近代 久 木 幸 男 1 清沢満之と「精神主義」 安 冨 信 哉 16 研究発表 精神主義 世紀を聞く 名 畑 直 日 児 35 近代真宗教学における時間論 武 田 未 来 雄 48 I青沢j前之の「現在安住jを中心として一一 求道の課題としての万物一体 山 口 知 丈 62 生死いずべき道としての浄土真宗 池 田 真 73 「念仏の信心」において現れる「至心回向」の意味 『論証』に内在する問題を手掛かりとして 高 柳 正 裕 88 講 演 会 『歎異抄』における宿業 業障と’織悔 真宗教学学会九州大会記念講演 求道(フイロ=ソフィア)と智慧(仏智)の関係 「驚くことjの意味について 「五濁の世・無仏の時」にあって、 何がゆえの念仏者なるや 2000年 度 教 学 学 会 大 会 発 表 要 旨

2

0

0

1

1

1

真 宗 教 学 学

佐 藤 正 英 100 福 島 光 哉 117 今 村 仁 司 134 宮 城 顕 153 之》、

z

L 166

(2)
(3)

講演 教学大会 二

000

年度

清沢満之ともう

つ の 近 代 今、ご紹介にあずかりました久木です。﹁清沢満之と もう一つの近代﹂ということでお話をさせて頂くわけで ございますけれども、安冨先生の前座にちゃんとなるか どうかわからないようなところがございます。本当なら 安一品先生と打ち合わせをして、二人で陰謀を巡らした上 でここへ出てくればよかったのですけれども、どうもそ うなりませんので、私は私で例によって例の如く勝手な ことを勝手にお話させて頂いて、それを安富先生がちゃ んとまとめて下さるであろうと思います。安冨先生を信 頼して勝手なことを申し上げさして頂くという事になる かと思います。 勝手なと申しましでも、この教学大会の統一テ

i

マ が i青沢満之ともう

﹁精神主義と現代﹂ということでございまして、 てはそれを精一杯受け止めたつもりで﹁もう一つの近 代﹂ということにさせて頂いたわけでございます。レジ ュメではお解りになりにくいかもしれないのですが、知 る人ぞ知るでございまして、お解り頂いている人もある かもしれません。申し上げたいと思いますことは、清沢 先生という人が亡くなられて九十七年でございますね。 九十七年以前に亡くなられている。いろんな課題を私達 に残して頂いたと思うわけです。いっぱいあると思いま す。いっぱいあっても私は、ほんの少ししか気付いてい ないわけでございます。けれども、そういうことの一つ として、例えば清沢先生が描かれた理想と申しましょう 私とし

(4)

2 か、そういったものがあるだろうと思うのです。それは 単に一人の人間、一個の人間清沢満之としての理想とい うだけでなくって、私は後にも書いておりますけれども 清沢先生という方は本当にその近代という時代、ほほ明 治の前半期になるわけですけれども、そういう時代とい うものに真っ向から立ち向かっていかれた方じゃないか、 と思っているわけです。間違っていましたらまたお教え 下 さ い 。 会場からもお教え頂きたいと思うのですけれども、そ ういう中で何か清沢先生が残された課題というものがあ って、それはどういうことかと申しますと、清沢先生は 近代の途中で肺結核の為にお亡くなりになった。一九

O

三年ですね。明治三六年という年にお亡くなりになった わけですけれども、先生が積み残された問題があるので はないかと思います。幾つかあると思うのですけれども、 私が気付きました事の一つは﹁もう一つの近代﹂という 言葉で呼んでいいのじゃないかと思います。あるいはそ れを未完の近代という風にいってもいいのではないかと 思ったのです。何か少し文学めいておりまして、丈学に は私は全然縁遠いわけですから、そう無理しでかっこい い題をつけましでもしょうがないと思いまして、ありの まま思ったままをつけさせていただいたわけです。それ が﹁もう一つの近代﹂であります。 ﹁もう一つの近代﹂というのは、現実に日本の近代と いうものがあって、近代がいつから始まっていつ終わっ たのか、それで今は近代なのか現代なのかということも、 いろんな議論があるようです。しかし今日は、そのこと も全部申し上げないでおきたいと思います。 実は現実にあった日本の近代を越えて、清沢先生とい う方は日本の近代批判を徹底的におやりになった方だと 思います。ただ、有り難うございます、お念仏ですとい うことではないのです。お念仏は当然あるのですけれど も、そのお念仏というものが頭のてっぺんから降りてく るのではない。世の中を見つめてそうして自分というも のを見つめて、それから見つめるということはただ見で ぼんやりして口聞いているっていうのではありませんね。 これじゃ、ダメだと。私は、ダメだ、世の中はダメだと、そ れを切り離さないで進んでいかれた方じゃないかという ことになると、当然そこで現実にあった近代とは違った 近代の姿、可能性とかあるいは理想という一一日葉でいって もいいと思いますけども、そういうものを清沢先生が描 いていられたのではないか。それが実は清沢先生が積み

(5)

残された問題、あるいは遺産というと語弊があるので申 し上げませんけれども、私達に残された問題としてある のではないか。それをどう受け止め、どうそれを発展さ せていくかということが実は現代の問題になってくるの ではないか、とこのように考えたわけです。これは私一 個の考えでございますから、誰かと陰謀を巡らしたわけ ではございません。勝手に申し上げているだけで、お気 付きのところは色々ご批判頂きたいと思うわけでござい ま す 。 I青沢満之ともう つの近代 そういうことでお話を進めていきたいと思うわけでご ざいますけれども、おおよその順番は、資料二ページの 上の方に少しばかり書いております。まず清沢先生の生 き方というものを私達はどうとらえたらいいのだろうか。 三つ程挙げております。全部関連があるのです。先ほど 申しました通り、清沢先生という方は本当に明治の時代、 あるいは日本の近代という時代に対して真っ向から立ち 向かっていかれた方じゃないかと、私にはどうしてもそ う思えるわけです。これも申し上げれば色々ございます けれども、一般に理解されているところ、と言ってここ においでの方はそういうことはないと思いますけれども、 よく世間で言われて参りましたし、先ほどご紹介頂いた 3 私の本でもさんざんばらそのことを取り上げてきたわけ です。清沢先生って方は確かに自分っていうものには真 向かわれた。だけど世の中のことにはちっともお考えな いのじゃないか、お考えなかったのじゃないかといいま す。簡単に言いますとそういうことをあの手この手で偉 い先生方が言ってこられて、どうもそれはちいとばかり 違うのではありませんかということで小さな書物になっ た わ け で す 。 一つだけ例を挙げますと、これは例を挙げれば沢山ご ざいますし、その先生の本でも論じて頂いているのです けれども、一番皆さんがよくご存じの﹁自己とは他なし。 絶対無限の妙用に乗托して任運に法爾にこの現前の境遇 に落在せるもの即ち是なり﹂という一言葉です。現前の境 遇に落在せるもの、自己というものはそういうものだと 仰るわけです。﹁境遇﹂という言葉は英語で言えばシチ ュエーションだろうと思います。状況なんですね。私を 取り巻く状況というものは、私を措いて他にはありませ んね。他の人の状況はまた違います。別の人ならまた違 ってくる。状況というものとそれから自分とを切り離し て考えない。単にその自己というものだけを取り出して きて、ちょっとポケットに入れといて出してみる、 と し、

(6)

4 うことじゃないわけです。そういう発想というものが清 沢先生にずっと一貫してあるんじゃないか。だから自分 に向かうということは、同時に時代に向かうっていうこ とにならざるを得ないんじゃないかと思います。こうい うことを私はずっと思ってきたわけであります。 それから第二です。このことはあまりにもわかりきっ たことなので言い忘れられたんじゃないかと思います。 けれども考えてみますと、清沢先生は少なくとも大人に なられてからは実際には一生を通じてと申しましでもせ いぜい二十年ほどでありますけれども、民間人として終 始された方なんじゃないかと思います。このことには若 干注釈がいるかと思うわけですけれども、そのことを少 しばかり申し上げて次に進みたいと思います。 清沢先生のご経歴は既に皆さん大まかなところはご存 じだと思います。ですから申し上げませんけれども、そ うしてまた既に百年も前のことですから、私達の今の感 覚とは随分時代そのものあるいは状況そのものが変って おります。言葉だけ聞いたのでは何だってことになるの かもしれませんけれども、清沢先生は少なくとも大学を 卒業なさって、大学と云一口いますけれどもそんじよそこら にある大学じゃない。清沢先生の頃は日本巾に一つしか ない帝国大学ですね。帝同大学がのちに二つできました から区別する為に東京大学、京都大学という風になった わけですけれども、清沢先生の頃は大学が一つしかない。 慶懸義塾大学だとかもう少し後になりますと真宗大学が できますけれども、それも確かに大学であるには違いな いわけですけれども、帝国大学というものは一つしかな いわけです。その帝国大学とは何かと。簡単にいってし まいますとね、国家の役人を養成する為の大学です。そ れ以外の目的はありません。現在であれば大学を卒業し た人は親の後を継いで商売をするとかあるいは会社員に なるとかですね、あるいは親が医者だから自分も医師と して開業するとかいっぱいあるわけですけれどもね。清 沢先生の頃にはそういう例はございません。 少なくとも明治三卜年頃までの東京大学の卒業生で例 えば医学部を見ましでも、大学を終わって家で医師とし て開業したっていう人、これは一人もおりません。ある いは農学部を卒業して、家へ帰れば地主だから農業経営 をやろうと考えてもよさそうなんですけれどもね、そう いう人もおりません。明治の終わりごろになりますとぽ つぽつ出てくるんです。清沢先生は一八八七年、明治二 十年に東大を卒業なさるわけですけれども、その同窓の

(7)

I青沢満之ともう」つの近代 中で工学部であれ農学部であれ医学部であれ、 民間に勤めた人は一人もいないわけです υ 後になるとでできます。それはどういうことかという と帝国大学というのは要するに役人を養成する。役人と いっても事務をとっているだけが役人ではありません。 裁判官も役人でありますし、農業の技師もそうです。あ るいは国立の病院の院長もそうです。皆役人なのです。 それを養成するのが帝国大学であったわけです。清沢先 生がでられたのは丈学部でありますが、これも後になる といろいろ変わってまいります。清沢先生の頃に帝国大 学の丈科を卒業した人が、大体どういう就職をしていっ たのか。これは驚くべき事でありますが、清沢先生がご 卒業になった一八八七年から日清戦争の頃、一八九四年 まで丈学部の全部の卒業生が三十人です。一年じゃあり ませんよ。丈学部全体で卒業生の合計が三十人と非常に 少ないわけです。だからもの凄く希少価値があるのです が、そういう人達がどんな風に自分の進路をとっていっ たかと申しますと、実は三一つしかないんです。大学を出 たのだったら何だってなれるだろう、そりゃまあなれる には違いないのですけれども、現実の問題としてそうは いかない。一一一つというのは何かと申しますと、やっぱり 卒業して 中心になるのは高級官僚になった人、段々上がっていっ て高級になるんじゃありません、最初から高級なのです。 役人になった時からね。つまり一般の官僚、当時の言葉 で百いますと判任官です。それから高等官。大学を卒業 して丈学部であってもですよ、役人になる人は全部高等 官になる。そうしてあっという聞に課長になり局長にな りですね、次官になっていく。一応そういうふうに出世 街道を歩むわけです。そういう方が相当おられます。 それから二番目は、清沢先生もそうでありますけれど も学問研究をしようということで大学院に進まれる方で す。これは数は多くございません。それから意外に思わ れますのが三番目のですね。私立学校といっても私立学 校にお勤めになるんじゃなくて、自分で私立の大学とは いきませんが専門学校を、私立の高等教育機関を自分で 建てようと、こういう方が結構おられます。 中心になるのは第一の役人の途を進む人で、その有名 な人だけ名前を若干挙げてみますと、清沢先生の一番の 友達だったのは沢柳政太郎という人物であります。最後 は文部次官になっております。清沢先生の一年後に卒業 いたします。それから清沢先生と同じ年に卒業しまして、 この人は一時ですね、第一高等学校のですね、最初は講

(8)

6 師、それから教授という教職に就いたものですから時間 はかかったのですけれども、結局最後はもう一度役人に なり直すということで文部省の役人になって、この人は 文部大臣を二回やっております。岡田良平という人物で す。これも清沢先生と大変仲の良かった人です。そのほ かに若干ございますけれども文学部へ入って文学や哲学 の勉強をした人が役人になって普通の役人と違う道を一 直 線 に 進 む 。 何故そうなったのかと申しますと、実は清沢先生が東 大を卒業された一八八七年、明治二

O

年に文官試験試補 及び見習規則という、舌を噛みそうな名前の規則を政府 は作ります。簡単に言えば文官試験規則ということです から役人を一雇う時に試験をしてその成績によってお前さ んはいりません、お前さんはいらっしゃいという風にす るのだろうと思います。けれどもそういう風に考えるの は私たち素人の浅はかさでございまして、実体はそうい うものではないのです。帝国大学の法科と文科を卒業し た人、それは無試験で高級官僚になれるとそういう規則 なのです。それ以外の人がなりたければ難しい試験を受 けてですね、万一受かればなれる。ですから試験規則と 申しますが、実体は試験をするための規則ではなくって 試験をしない為の規則なんです。試験をしないというの は、一部の帝国大学の卒業生だけを無条件でとりますと いうことです。何故そんな無茶な事をしたのだと、色々 能力のある人はもっといるだろう。いるだろうとは思い ますけれどもそういうことは考えてないんです。 そもそも帝国大学は何の為に作ったのかと。これは一 八八六年に森有札という文部大臣がそれを作るわけです。 その第一条になんと書いてあるか。それは帝国大学の目 的を書いてあるわけですけれども﹁国家の須要に応じる 学術技芸を教授する﹂とあります。﹁須要﹂というのは 単なる必要っていうのじゃなくって、極めて必要という 音川味です。国家に非常に必要な事を帝国大学で教えると。 そういうものとして大学が出来ているわけです。単に学 聞をやるということが本来の目的じゃない。要するに国 家の為に必要なそういう人材を養成する為に大学を作っ たわけですね。だからそこを卒業した人は無条件で役人 にしますということです。といってそれじゃ全員を役人 にする、あるいは役人になれっていうことはできません から、無試験にして﹁さあいらっしゃい、いらっしゃ い﹂というわけです。 それに対してそっぽを向く人が何人かいて、清沢先生

(9)

清沢満之ともう つの近代 はその一人ですが、役人になるのがいやだったからなの かどうかはわかりません。ともかく学問をしようってこ とで大学院へ進まれるのです。それから私立学校を作っ た人、これは清沢先生に近かった人としては現在の東洋 大学を作った井上円了という方がおられます。それから 清沢先生とは近くはございませんけれども清沢先生より 少し先輩になります、そして早稲田大学を大隈重信と一 緒に作った高田早苗という方がございます。それから皆 さんもご存じの坪内遺造ですね。これ全部東大を出て役 人にはならず大学院にも進まず第一二の道を選んだ方です。 こういう方が少数あるのです。大部分は法科でいいます と第一番目の役人になる、それが普通の道だったわけで す。この規則、丈官試験規則というものは日本の学歴主 義っていうものを国家が、政府が先頭に立って作り出し たものだといわれておりまして、その通りなのです。そ れに対して何かの具合でそこから漏れた人たちが独自の 自己形成、職業形成というものをやっていく。それらの 方は全て民間人として生きることになります。清沢先生 もその一人なのですね。 大学院に残っておられたら、あるいは帝国大学の先生 になっていたかもしれません。そうなりますとこれは 7 ﹁陛下の官吏﹂、天皇の官僚の一部になるわけです。幸 か不幸か清沢先生はそれを途中でおやめになった。勝手 におやめになったのじゃなくて、ご存じの通り東本願寺 から京都府立中学校の校長になれと、なってくれと言わ れて、その道を選ばれたわけです。以後、先生はずっと 一貫して民間人としての道を歩まれる事になる。このこ とは明治という国家の中で、やはり非常に大きな意味を もっていると思います。役人になりますといくら良心的 であれなんであれ、やっぱりそれに縛られます。清沢先 生はそうじゃなかったから、結構天皇制を批判したりと いうことができたということがあると思います。このこ とは今まであまり言われておりませんし、私も申しませ んでしたがやっぱり清沢先生を考える場合に考えておい ていいことの一っかと思います。 時間がございませんので先を急がざるをえませんが、 最後のローマ数字の

I

の③というところで書きました ﹁処世の完全なる立脚地﹂というのは、皆さんご存じの 精神主義について清沢先生が語られた言葉であります。 私は﹁処世﹂という言葉にやっぱり注目する必要がある んじゃないかと思います。﹁処世﹂と先生が仰ってるん ですから、単なる生活ではないわけです。﹁処世﹂とい

(10)

8 うと、我々どんな使い方しますか。処世訓っていう言葉 がありますけれども、﹁処﹂というのはおるっていう意 味です。もう少し言い換えると﹁渡世﹂という言葉は現 在ではほとんど死語になりました。あんまり使わないと 思いますが、要するに﹁世渡り﹂ということです。世の 中を渡っていくということです。だからそれをどんなふ うにうまくやっていったらよろしいかっていうことを言 うのが処世訓なのです。そういう言葉を清沢先生がわざ わざ使ってらっしゃるんですね。 人生の立脚点なんて言いますと、これは大変高尚な感 じがしちゃうわけです。けれどもそうではないのです。 ﹁処世﹂とか﹁渡世﹂とか言ったら実際にお金を稼いで 時には隣の人をだまして、そういうことをやりながら、 とにかく食べていかなきゃならない。そういうごくあり ふれた日常生活です。そういう日常生活の中で立脚点に なるもの、それが精神主義だってわけです。 そんな高尚なものではないのです。清沢先生は哲学者 ですが、哲学者が考えるような﹁人生とは何ぞや﹂とい う、そのことだけ切り離しちゃって一生懸命考えて、こ れなのだということではない。ごくありふれた隣の人と 喧嘩をしたり、あるいは商売敵をやっつけたり、そうい うことを含めたごく当たり前の日常生活。その中で本当 に自分が拠り所にしなきゃならないもの、それを精神主 義というふうに言われたわけです。 清沢先生を勉強する人、私はあんまりしていないから こういう事が言えるのかと思いますけれども、大抵﹁人 生とは﹂といったような高尚な問題をお持ちの方ですか ら、そういう風になってしまうのです。しかし、清沢先 生自身はそうじゃなくて、ごくありふれた日常生活とい うことも踏まえて言ってらっしゃるのではないか。そう いう清沢先生の姿勢というのも見たいと思うわけです。 実際に清沢先生が近代という時代をどう捉えられたか。 こ れ は

E

の①②で書きましたが文明開化とは何かという と確かに明治の時代は文明開化の時代であり、近年よく 使われるようになった言葉を借りれば国民国家が形成さ れていった時代です。これはその通りだろうと思います。 そこで出てくる問題をどんな風に先生が取り上げられて いるのかということなのです。文明開化という言葉につ いては福沢諭吉が一八六八年に書きました﹃西洋事情﹄ という結構有名な本なのですけれども、その中で文明開 化とは何かということを簡単にいっております。それは 幾つかあるのですが、一つは世界は文明開化に向かって

(11)

清沢満之ともう,つの近代 進んでおるということが一つ。それからもう一つは文明 開化の中身というものは﹁礼義の道﹂だと言っておりま す。この﹁ギ﹂という字は、現在は儀式の﹁儀﹂を書き ます。人偏の﹁儀﹂を書きますが、福沢諭土口は人偏でな い字を書いております。これは書き違いであったのかど うかということが残るのですけれども、書き違いでなか ったといたしますとこの﹁札義﹂というのは、﹁札﹂と ﹁義﹂であります。﹁義﹂というのは正しい事。﹁札﹂と いうのは、制度だとか道徳だとか風習だとかいったよう なもの。札義の道が行われている。しかもその﹁札﹂と いうものは、﹁札﹂はそういうことですから国によって 違う、時代によって違うわけです。けれども、正しさを もっているものが文明なのだということです。 二番目のこと︵

E

②︶もございますが、それは時聞が ございませんので省きますけれども、そういうなかで、 日本の近代というもの、これは

E

の③と④をひとまとめ にして申し上げざるをえないと思います。③と④でござ います。近代という時代には二つの側面があって一つは 今まで封建時代に様々な制限や束縛を一般の国民や人民 が受けてきた。それを取っ払うっていうことが一つあり ます。それからもう一つは、競争です。競争の時代。こ 9 れも福沢諭吉を例に出しますけれども彼が亡くなる少し 前 に 書 き ま し た 、 2 m m 翁自伝﹄っていう本の中で彼がい っているわけです。福沢によりますと競争は、英語のコ ンペテイシヨン︵

g

田 宮 2 2 0目︶です。それを競争と訳し たのは福沢が最初だそうでございます。それは嘘か本当 か、私はまだ確かめておりません。多分嘘ではあるまい という気がしますが。競争という言葉は、日本には以前 はなかったので、彼が始めて使ったということです。と ころが争いなのですね。争いなんて言葉を使うのはまず いという意見があって、彼は最初その訳の部分、翻訳し たわけですけれども、その部分を除いてしまったという ことなのです。そういう風に言われて彼がどういう説明 をしたかというと、競争っていうのは例えば二軒の商店 があって一方の店が安売りをする。そしたら隣の店もそ れに負けないで安売りをして客を集めようとする。それ が競争なのであって争っているわけじゃない。殴りあい をするわけじゃないっていうわけですね。だからそんな ことは日本では江戸時代にも行われていたじゃないかと。 こ れ は ヨ ー ロ ッ パ と の 違 い で あ り ま す が 、 ギ ル ド ︵ m E E ︶とかツンフト︵

N

E

E

といったような同業組合 が日本ではそれほど強くありませんので結構統制力がな

(12)

10 押さえつけることがなくって、競争が行われる。 しかしそれはあまりいいことだとは当時の日本人は思っ ていない。ところが欧米では、つまり文明の国では競争 が盛んに行われている。それを真似しないとダメなんだ と。どうして真似をするのか。これに使われた場所が実 は小学校でございます。全国で最初二万六千、大雑把に 申しまして約二万五千の小学校が津々浦々に建てられる ようになりまして、子供達に競争させる。そのことによ って日本人があまりやってこなかった競争というものを 子供の心に馴染ませると。そうするとそれを見た大人も ですね、競争を受け入れるようになるのではないか。そ んなことをいわれなくったって競争する場合は競争する わけですけれども、何かそれは良くないものだと思われ ていたものを、じっくりといいことだとは言えないけど も悪くはないのだと、そういうことを心の片隅でも心の 底のどっかでも植え付けていく、それを実は小学校がや らされることになるわけなのであります。 そういうことでもって何か解放と競争という二つの面 の近代が日本に広がっていく事になるわけです。その場 合少し理屈っぽい話になりますけれども、そういう近代 の考え方というものを日本に広めていく主で大きな力に く っ て 、 な っ た の が ⑤ に 書 い て ご 、 ざ い ま す 、

ハl

l

ト・スベン サ

l

︵ 同

2Z

ω

宮 口

2

H

E

N

0

5

0

ω

︶でございます。この スベンサ

l

に対する清沢先生の姿勢というもの、これは 非常にはっきりと出ております。スベンサ

l

の考え方っ ていうものは一八八

0

年代から九

0

年代あたりにかけま して、日本でも大変受け入れられるようになるわけです が、実はスベンサーには二つの側面がございます。 スペンサーというのはもともと社会学者といっても、 今の言い方からすればむしろ社会哲学者といった方がい いでしょう。実証的な社会学をやっているわけじゃあり ません。二つの主張があってこれは繋がっているわけで す。社会動学っていうのがソ l シヤルダイナミックスと いう言葉で言っております。社会が変化していく。変っ ていく。それを明らかにする。社会静学っていうのは、 ソ l シヤルスタティックスです。その変化した先、それ はいわば社会が進んできて、動いてきてその行き着いた 先、その社会の構造を明らかにするのが社会静学だと、 こんなふうに彼自身の学問を分けるわけです。そうして その場合社会静学の基準になっておりますのは十九世紀 のイギリスの社会ですね。だからそこでは自由民権が一 定程度行われている。その中身を明らかにするのが社会

(13)

静 学 で す 。 日本にはそういう考え方が部分的に入って参りまして、 八十年代の自由民権論者がスペンサlの説を担いだわけ です。ところがもう一方ですね、社会動学っていう面が あってそれは、十九世紀のイギリスの状態になるまでに、 社会がどんなふうに進んできたのかと、それは進化論と いう一言葉でいわれるわけです。単に進むっていうことじ ゃありません。さっきの競争なのです。競争によって互 いに争って強い人が勝って弱い人が負ける。その結果だ んだん社会が進み落ち着いてきて、自由民権の夢が実現 し た の だ と 。 清沢満之ともう一つの近代 非常に大雑把に言いますと、こういう主張になるわけ です。清沢先生はどういう姿勢をとられたかということ を申しますと社会動学、つまり進化論に対しては反対で す。それから社会静学に対しては一言も、あるいは私の 捜し方が足りないのかもしれませんけれども、一言も仰 っておりません。何一つ仰っていない。仰つてないわけ ですから、何故仰らないのだと尋ねたくなりますが、こ れはなんとも解りません。推測ですけれども、その当時 のつまり清沢先生が生きておられた一八八

0

年代、九

0

年代、さらに二十世紀初頭の日本というものは、 ll その当 時のイギリスのような自由民権が実現していた社会では ありません。これはわかりきったことですね。それから そういうところでスペンサーが何をいっているというこ とを論じてみでもあんまり意味がない。清沢先生は非常 にリアリスティックなといいますか、さっきも渡世の話 しをしましたけれども、渡世っていう言葉について申し ましたけれども、そういうところがやっぱりあるわけで す。体が弱いお坊さんで学者でいて、やはりちゃんとあ ちこち見ていれば見えるものは見えてくるだろうとはと 思うんです。そういう発想がありますから、恐らく仰ら れなかったのではないかと思います。 それから何故清沢先生が進化論をどういう論拠でもっ て否定されたかというということなのです。それも一言 で申しますと、進化論というのは世の中が開けてない時 からだんだん人聞が殺し合い競争しあって進んでいって 落ち着いてきたのだと。だから今後もそうなっていくの だということを、何かそういう優勝劣敗とか競争という ことが世の中を動かしていく原動力なるのだという。し かしそれは今まではそうだつたけれども、果たしてそう なのかと。つまり社会静学の方へ社会動学で言っている ことをそのまま持ち込んだらどうなるのだと。スベン

(14)

12 サーはそうは言わないわけですよね。切り離しちゃって います。ということは、スベンサ l の社会動学っていう ものには、何か過去だけをみていて、今までのことだけ を見ていて、それをもとにして現在を論じている。そう いうことに対する清沢先生の批判があったように私には 思えるわけです。ということになりますと、社会動学と いうものを一種の後ろ向きの理論として清沢先生はそれ を切り捨てられたということができると致しますと、清 沢先生の目というものは現在にもちろん置かれているわ けですけれども同時にそれは後ろに向くのじゃなくって、 将来をあるいは未来をみようとする。そういうスタンス が清沢先生にあったのではないかというふうに私は思え るわけです。そうして事実、清沢先生は近代批判という ものを通じまして、何とかあるべき近代というものを明 らかにしようとしてこられたのじゃないか。その行く先 に描かれた世界というものが、私には﹁万物一体﹂と思 わ れ る の で す 。 一体というのは、体を一にするという意味です。万物 が一緒にくっついちゃうってことじゃありません。一つ になるってことではないのですね。本質は同じだという ことが﹁万物一体﹂です。そのことを確認するっていう ことなのではないか。実際に清沢先生が万物一体という ことを、いろんな機会に言っておられますけれども最終 的に仰るのは、やはり日本の近代というものが非常に大 きな行き詰まりを示してきた。その一つが自然破壊、新 しい言葉で言えば、公害ってことです。それは明治三十 年ごろから、つまり日本の産業社会が進展してくると共 に非常に大きなものになってきた。そこで、という事で でてくるのが万物一体という世界なんじゃないか。そう いうことをずっと晩年になって仰ってきております。た だそういう問題をどんな風にして乗り越えていくのかと いうことになるとその解決っていうことは私達が本当に 万物一体というものを身につけるという事であります。 これは万物一体の自覚とか、万物一体の真理とか色んな 言葉で少しずつ言い換えられていますけれども、簡単に できることじゃない。頭の中でそんな風に考えるだけな ら別ですけどね。本当に私達が例としてあげておられる 全ての生き物を自分の子供のように、あるいは子供とし て、みなして行動できるかと。それはいいことだと私達 は思いますけれどもね、よそさんの子供だってできない のにましてや他の動物や植物まで自分のことと思えるか と。それはその通りなのですね。ただそういう世界があ

(15)

I青沢満之ともうーつの近代 るのだっていうこと、これを示して頂いている。 そういう世界つでものは、プリントの下から五行目の 終わりになりますけれども﹁吾人の心を無限絶対の地位 にありて活動せしめんとするものなり﹂とある。絶対無 限と仰るのは、無限絶対あるいは絶対無限者といえばこ れはいうまでもなしにアミタ l パ、アミタ l ユスの訳語 でありますから、仏様ですよ。仏様のこころになるので すよ。簡単になれますか、なれないことを解ってしかも なお、宗教の本当の姿っていうのは、これはローマ数字 の皿の①としたところに書きましたけれども、清沢先生 が﹃新仏教﹄という雑誌から求められてお話しになった なかで﹁有限と無限の一致﹂、宗教はつまりこれより他 はないと。実際には一致なんか簡単にできない。だから そういう世界っていうものを書かれることによって一つ の筋道として申せば、自分がいかにそこから離れている かということを否応なしに意識させられる、自覚させら れる。そのことがばねになるのだと、こういう言い方に なってくるのだと思います。 そういう形でいわばあるべき姿というものを示して頂 いている。それがまあ非常に私不十分な言い方でござい ましたけれども清沢先生が二十世紀あるいは二十一世紀 13 へ残して頂いている大きな課題なのではないかというふ うに考えるわけでございます。非常に解りにくいお話し になってしまいまして失礼いたしました。一応時間でも ございますので。 ︵付記︶時間不足でレジュメの

H

②を省いた。ご寛 恕を乞いたい。

講演要旨︵レジュメ︶

O

清 沢 満 之 と も う 一 つ の 近 代 久 木 幸男 −清沢の生き方をどう把えるか ①時代というものに真向かった人 ②民間人としての生き方 ③﹁処世の完全なる立脚地﹂

E

近代という時代 ①文明開化とは何か ②国民国家の日本的形態 ③実体の近代︵ 1 ︶

l

解放としての近代 ④実体の近代︵ 2 ︶ 競 争 と し て の 近 代 ⑤清沢における H −スベンサl 可能性としてのもう一つの近代 E

(16)

14 ①無限創造としての近代 ﹁有限と無限の一致・:宗教はつまり之より外は ない﹂︵清沢﹁将来の宗教についての談話﹂﹃新 仏 教 ﹄ 一 一 一 四 ・ 一 九

O

二 年 四 月 ︶ 資 料 ﹁ 内 観 主 義 ﹂ 清沢 満 之 主観と客観とあり、主観が客観を造るか、客観が主観 を作るか、容易に得て説くべからず。然れども、実際上 に於いては、主観をして主たらしむを得ベし。主観をし て主たらしむるの実際主義を名けて主観主義と云ふなり。 形色の美醜と云ふことあり、是れ客観上のことか主観 上のことか。内観主義より之を云へば、美麗は全く主観 上のことなりとす。我心だに美麗ならば、万形万色皆美 麗なるべし。我心美麗ならざるがゆゑに、形色の中に醜 植 な る も の あ り 。 [以下、善悪、染浄、苦楽、正信・迷信について同じ趣 旨 を 展 開 ] 共和国は自由の多き所なり、君主国は自由少き所なり、 我は君主国を去りて共和国にいかんと思ふと。自由を希 望する人に在りでは不当の議にあらざるが如し。然れど も自由と云ふを全く客観的に認むるは、内観主義の関せ ざる所なり。内観主義よりして之を云へば、自由の有無 は我心の開倍如何によるものなり。我こころだに開悟せ ば仮令暴虐なる君主の下にありても、決して不自由を感 ずることなきなり。況んや、暴虐ならざる統治の下に於 て を や 。 彼は阻劣卑野の漢なり、我は彼の下にありて、其汚染 を受くべからずとは、不当の思念にあらざるが如し。然 れども是れ内観主義の命ずる所にあらざるなり。内観主 義よりして之を云へば、我の浄機は我の浄機にして、決 して他人の関する所にあらざるなり。蓮は湯泥の中にあ るも、其汚械を受けざるなり。我若し純潔ならば、決し て他人の阻劣卑野なるが為に、汚染せらる、ことなきな h り ノ 。 彼のことは事実にあらず、我は事実にあらざる事の為 に欺かるべからずとは、寒に恰当の覚悟なるが如し。然 れども所謂事実なるものは、是れ客観的のことか主観的 のことか。若し事実とは客観的のことのみを云ふとせば、 内観主義は事実に関せざるものなり。内観主義よりして 之 れ を 云 へ ば 、 五 日 人 の 心 に 確 実 な る も の は 、 比 白 以 て 愚 拠 とするに足るものとす。我に信仰を起さしむるものは、 以て正確なる事実と為すも可なり。経験と論理とを超絶

(17)

せる所のものも、我に対して実用あるものは、我に対し ては、正確なる実在なり。 之を要するに、内観主義は、一切の事変を主観的に処 理せんとするものなり。吾人の心を無限絶対の地位にあ りて活動せしめんとするものなり。一切の活動を以て我 の活動と認めしめんとするものなり。一切の責任を以て、 自己の責任と観ぜしめんとするものなり。五口人の存在を 以て、徹底相対有限となす聞は、到底無用たるものなり。 然れども宗教は吾人に絶対無限の性能を覚倍せしむるも のとせば、其性能を覚悟したる者は、此主義を確守せざ るべからざるべし。 ︵ ﹃ 新 仏 教 ﹂ 巻 一 六 号 、 一 九 OO 年 一 二 月 ︶ i青沢満之ともう つの近代 ︵ 横 浜 国 立 大 学 名 誉 教 授 ︶ 15

(18)

16

清沢満之と

は じ め に ご紹介に預かりました安冨です。久木幸男先生の大変 に力強いお声を聞きまして本当に嬉しく思ったことでご ざいます。私自身のお話しは全然力強くないので、もう しわけないことだと思います。しかし今回このような場 所でお話しせよということですので、しばらくお時間を 頂戴して、このテ

1

マに基づいてお話をさせて頂きたい と思います。この真宗教学大会ではこれから三年間、 ﹁清沢満之と精神主義﹂というタイトルを掲げて連続し て、大会の基本テlマとするということを聞いておりま す。一九

O

三年に清沢満之先生がお亡くなりになられて それからもう一

OO

年になります。そういう意味におい て、精神主義が一

OO

年前に存在した意義を今の時点で ,−−'−「. 女 官 回

もう一度確かめてみたいと、そういうことであろうかと 思 い ま す 。 それでここの議題にも出させていただきましたように ︽清沢満之と﹁精神主義﹂︾とそういうタイトルでここ の場に臨んだことでございます。最初お話するようにと いわれてどういうタイトルをだしていいかわからなかっ たものですから、大変に漠然と︽清沢満之と﹁精神主 義﹂︾と。ただし精神主義という字にはカツコをつけて おいてくださいとそういうことだけお願いしたことでご ざいます。このカツコをつけたということは、清沢先生 のいわれる精神主義というものが私達が一般にイメージ するような精神主義というものと全くちがっていると表 わしたかったわけです。私達がイメージする精神主義と いうものは、﹁精神一到何事か成らざらん﹂︵朱喜⋮︶とい

(19)

1青沢満之と「精神主義J いますか、何でも自分の精神力一つで難事を解決しよう というようなそういう頑なな心を音 γ 山 味 し て い る か と 思 い ます。客観的な状況というものを無視して、何でも心一 つだけでやってしまおうと。そういうのが精神主義だと いうふうに思われていることです。しかしそういうもの として清沢先生の﹁精神主義﹂をとらえようとしますと まったく違ったものになるわけです。﹁精神主義﹂とい う言葉は宗教あるいは仏教そして真宗、こういう精神的 伝統の一つの在り方といいますか、その生き方を﹁精神 主義﹂という言い方で表現した。 この精神という言葉遣いそのものにつきましては、恐 らく明治になってから積極的に使われるようになった言 葉です。清沢先生のものを読ませていただきますと例え ば非教学的精神というものを私達は変えなきゃいけない ということを﹃教界時言﹂に書いておりますし、精神と いう言葉そのものは使っておられます。それから主義と いう一言葉も一つのモットーという意味なんだということ で使っておられますけれども。そういうことでは﹁精 神﹂という言葉も、﹁主義﹂という言葉も、清沢先生が 常に使っていた言葉でございます。宗教的精神というも のを主義とすると。これが﹁精神主義﹂であろうかと思 17 同時にやはり精神主義というのは清沢先生独自 のものでございまして、清沢先生のおられた場所、浩々 洞で清沢先生のもとで色んな影響を、つけた方々が精神主 義という言葉をお使いになるわけですけれども、しかし 清沢先生の仰る精神主義というものと門下の方の仰る精 神主義というものとやっぱり微妙なずれといいますか、 違いがあると思います。それぞれ宗教的な個性がござい ますので、同じ言葉を使ってもそこに込められた想いと いいますか、内容といいますか、それが若干ずれがある よ う に 思 い ま す 。 そういう意味において、精神主義という一一言葉を私は清 沢先生に一応今回限定して使いたいと。というのは清沢 先生の﹁精神主義﹂は彼自身の激しい葛藤の中から戦い とったものであってそれは余人の追随を許さないような 大変に大きな精神です。そういうものが﹁精神主義﹂で ある。そういうことを考えますとき、やはり精神主義と いうふうに呼んでもですね、そこにやはり限定を付けた ﹁精神主義﹂と私はこう言いたいと思ったことです。そ ういうことで﹁精神主義﹂といったことです。そういう 意味では、私が精神主義について外側から語ってみても 本当に表面的なことだけでございまして充分な内容をそ い ま す 。

(20)

18 こに汲み取ることはできないかとおもいます。ともあれ この﹁精神主義﹂は清沢先生自身が自分の苦難の中で戦 いとった他力の信心を明治近代の一言葉で再表現したもの です。決して他力の信心に何かを付け加えたものではあ りません。そういう意味では﹁精神主義﹂というのは、 彼の言葉でいう﹁実験﹂を通して獲得されたものであっ て、決して頭の中で作り上げたものではない。観念的な 思想ではない。そう申し上げたいと思います。 ﹃歎異抄﹄を通して親鷲の信仰に清沢先生は触れてい かれるのですけれども、親驚の信仰について考えるとき に、やはり特徴的なことは、時代と人間について深い危 機を自覚していたことであろうかと思います。そういう 点においてやはり時機ということは大きな音ゆ味があるん じゃないか。親驚聖人の場合には︿時﹀というのは末法 という意味がありますし、それから︿機﹀という一言葉を 使いますけれども︿機﹀というものは下根であると。そ ういう二重の危機意識というものを親鴛聖人はもってお られたと思います。問題は、そういう中で人聞がどう救 われていくかということです。その︿機﹀という概念、 仏教でよく使う概念でございますけれども、機が下根で あるということは煩悩具足の凡夫であるということです。 そういう︿機﹀というものに対する救済の道を説く。そ の機について、親驚聖人はですね、違いを正定緊とか邪 定緊とか不定緊というように、幾っか位相を医別してお るわけです。そういう︿機﹀というものがどういう風に 転ぜられていくか。信心の︿機﹀の展開過程というもの を様々に表現しておられるわけです。そしてそれは親驚 聖人自身の宗教的体験そのものから説かれたものでござ います。この︿時﹀と︿機﹀という問題が親驚聖人の教 学について私達が考える場合に見過ごすことのできない ことであろうかと思われます。そしてそれは真宗の信仰 の中で常に吟味されてきた事柄であろうかと思います。 親驚聖人が亡くなられて二

OO

年すると今度は蓮如上 人がでてまいります。蓮如上人という方は親驚の信仰の 伝統にたって、そして自ら生きた時代に人間について把 握して信心を明らかにされた。例えば有名な﹁末代無知日 の御文﹂がございます。考えてみますと、やはり蓮如上 人にとって時というのは末代っていう意味があったでし ょう。それから機は無智という意味があったと思います。 その時機の自覚に立ちまして蓮知上人が信仰運動を展開 される。彼が生きた時代というのは室町戦国乱世の頃で ございます。その自ら身をおいた歴史杜会の環境は親鷲

(21)

清沢満之と「精神主義」 聖人が身をおかれた鎌倉時代の歴史と人間の状況とまた 違うものがございます。そういう音 ω味においては、末代 無智という表現は、親驚聖人の末法下根という時機の自 覚にもちろん通底致しますけれども、ややニュアンスが 異なったものが感じられます。 そしてその蓮如上人が亡くなって四

OO

年 経 ち ま す 。 真宗に清沢満之という人が出て参ります。清沢先生も蓮 如上人と同じように親驚の信仰の伝統に立った人でござ います。先生は幕末に生まれて明治の中ごろに早逝した 方でございます。何よりも近代、先ほど久木先生のお話 しの中で充分に展開して頂いたことでございますけれど も、近代という空気を清沢先生は呼吸した人であった。 そして人生に大きな問題を抱えて苦悩した人でございま す。その清沢先生の﹁精神主義﹂の論稿に﹁迷問者の安 慰 ﹂ ︵ 明 治 一 て 五 年 一 月 ﹃ 精 神 界 ﹄ ︶ が ご ざ い ま す 。 人 生 に 悶 え苦しむものの大きな安らぎという事でございます。そ う考えてみますと清沢先生の生きた時は近代という時で ございます。そして機は迷悶せる者、迷問者というそう いう自覚がございます。そういう時機の自覚に立ちまし て精神主義という新しい名前で親驚聖人の信仰を現代社 会のなかで公開しようとされたわけでございます。近代 19 と申しますと封建時代から脱皮した希望に満ちた時代を 想像させるわけですけれども、しかし清沢先生が体験し た近代はそういう希望に満ちた明るいものではありませ んでした。もちろん若い頃には先生も時代の未来に対す る明るい期待に胸を膨らませていたと思われますけれど も、しかしその晩年に主宰された雑誌の﹃精神界﹂の諸 論稿を読みますと、私達が受ける印象は、闇欝なもので ございます。先生はこの時代に一人の結核患者として生 きて肉体を蝕まれていきました。しかもその病は様々な 苦悩の元になったわけでございます。そしてそういう苦 悩の中から信仰を求めて、その信仰を闘いとってそして その信仰を同時代に生きる人々と共有しようとしたわけ で す 。 そういう近代という時代、その近代の病といいますの は、一言でいえば、近代的な自我に根差すものであった といっていいかと思います。その自我に振り因されて自 己を失ってしまっているところに近代人の病理というも のを清沢先生はみられたわけです。そしてそこに危機と いうことをみたわけでございます。危機というのは、文 字通り﹁危﹂﹁機﹂でございます。その自我としてある 機がどのようにして自己に向かって転ぜられていくか。

(22)

20 例えば﹁心機の発展﹂︵明治三間年九月﹃精神界﹄︶という 論稿があります。﹁心機の回転﹂という言葉を用いて危 機を突破するプロセスを説いておられることでございま す。そういうような文章表現の場所として、﹃精神界﹄ は近代の宗教史上において大切な意味をもったことと思 い ま す 。 そして今私達が生きている現代というのは彼がおられ た時から百年経ているわけでございますけれども、やは りこの時機というものの把握なしには何も語ることでき ないし、また何も提言することができないと思われます。 そういう意味で精神主義を一つの近代の大きなメルク マールとして振り返ってみるということは大切なことだ と 思 い ま す 。 危機の諸相 まずその近代という時代でごさいますけれども、先ほ ど久木先生から詳しく触れて頂きまして、私など何も申 し上げることができないことでございますけれども、所 謂この近代というのは先ほどのお話しにもありました文 明開化と共にやって参ります。西洋から近代の欧米文明 が怒濡のように日本に押し寄せてきます。それは封建制 度からの脱皮というプラスの側面を持っと同時に、先ほ どいわれた競争ですね、優勝劣敗というようなマイナス の側面を持つことになります。それでは文明開化といわ れる文明という近代を象徴するところの文明というもの は、どういうものとして先生の眼に映ったのか。﹃精神 界﹄に載った幾つかの論稿をみますと、文明について触 れたものがございます。それを見ますと、先生は文明に ついて一面的に肯定したり一面的に否定したりすること は ご ざ い ま せ ん 。 例えばこういう言葉があります。﹁精神主義は物質的 文明に対してかくのごとく消極主義を宣揚せるにあらざ る な り ﹂ ︵ ﹁ 精 神 主 義 と 物 質 文 明 ﹂ 明 治 三 四 年 五 月 ﹃ 精 神 界 ﹄ ︶ と。つまり反文明主義じゃないんだということです。 ﹁車馬可なり、高楼可なり、脚鮭可なり、阻巷可なり﹂ と。つまり物質的丈明の恩恵を受ける人もいるし、また その恩恵を受けない人もいるわけですが、そういうこと によって人間の卑賎、あるいは尊卑というものはみるこ とはないんだと。ただ物質的文明に振り因されてはいか んのだと。そういうことを述べております。 ところが文明というものがもたらした病理について、 清沢先生は、同時に厳しく批判しております。先ほどス

(23)

I青沢満之と「精神王義」 ペンサーのお話しがございましたけれども、スペンサl の社会進化論ですね。社会ダーウィニズムともいいます けれども、そのスペンサ

i

が当時日本の思想に大きな影 響を与えたわけです。今はスベンサ!というと知ってる 人は少ないと思うんですけれども、明治においてスペン サl程影響力のあった人はいなかったわけです。彼の主 張した社会ダーウィニズム、社会進化論は、非常に大き な影響を与えた。そこでは生存競争というものが肯定さ れるわけですけれども、それについて先生は﹁和合の 心﹂︵﹃心霊の諸徳﹂︶のなかで、﹁生存競争だの優勝劣敗 だのいう主義は、人聞をして禽獣世界、昆虫世界に堕落 せしむる主義である﹂と。また﹁五口人が西洋文明の長所 を学ぶ為に覚えず知らずこの悪主義までも吸収したので ある﹂と、こういうふうにも述べております。 こういうように、一面物質文明というものに対して肯 定も否定もしないんだということを仰りながら、しかし 西洋文明とか物質的文明のもっている悪という、暗黒面 というものに対して、非常に批判的な眼差しをもったこ とでございます。それは先生の第二次東京時代と申しま すか、第一次東京時代は、先生が東京大学で学んでおら れて将来立身出世していこうという、そういう時期が第 21 一次東京時代だと思いますけれども、その後十年ほど 経ちまして、三十七歳に先生は、再び東京に出てくるわ けです。第一次の東京生活の後、京都にいって、宗門改 革運動などを推進して、そしてまた十年後に東京に舞い 戻ってくるわけでございます。学生時代にはまだ文明と いうものについてそういう批判的な眼差しというものは そんなに強くなかったかと思われますけれども、しかし 再び東京に出てきて、東京の情景とか風俗とか、そこに 生きる人々の有様をみますと、日本人に西洋の物質文明 が何をもたらしたか、つぶさに体験したものと思われま す。例えば明治三十六年の思索、亡くなられる年の思索 でございますけれども、先生は﹁文明開化は活発動作の 謂なり。故に文明世界は欲世界なることもちろんなり。 よくよく考究すべし﹂と。これは﹁時感断片﹂︵全集団山| 一二三︶というところでいっております。﹁欲世界﹂と いうのは欲望中心の世界ということです。 文明開化と共に日本人は近代的な自我に目覚めるとい うことになりましたけれども、その自我の行方に私達は 光と影の両面をみることができるかと思います。そうい う意味において近代的自我というのは両刃の剣でなかっ たかと思います。光の面っていうことで申しますと、利

(24)

22 点は日本人が封建時代の権威主義から解放されて所謂自 主独立自尊という道を歩み出す事になったことです。田 舎の青年が苦学をして立身出世するという話は一つの成 功語としてよく語られておったことでございますし、ま た自由民権運動にみられるような政治への参加の要求と いうものも高調致します。明治中期になりますと、先ほ どもお話しがございましたように、全国的に公私立の中 学校、実業学校あるいは専門学校、大学の体制というも のが整備され、人々の教育水準があがって参ります。そ こに自我の目覚め、それから個人意識の深まりというも のがもたらされます。そういう個人意識の深まりが青年 達の聞に自立への強い要求をさらに呼び起こす。そうい う意味において、近代的な自我というものが人間の権利、 人間の自由というものを高らかに歌い上げたわけです。 それはいわば光の側面だと思いますけれども、しかし この近代的自我は暗黒面をもっている。それは清沢先生 自身がですね、﹁自我独尊の妄見﹂︵﹃心霊の修養﹂六︶と 二 一 一 口 、 つ 一 言 葉 で 表 現 し て お り ま す 。 限 り な い 自 我 拡 大 の 衝 動 でございます。そういうような自我を先生は﹃有限無限 録﹄でセルフイツシュ・エゴイズムという言葉で呼んで おります。そしてそれを厳しく批判しておることでござ います。そういう意味において、近代的自我は、その暗 黒面として、パブリックっていうか公というものを見失 わしめる、そしてますますプライベートっていうか私と いうものが中心に据えられるようになってくる。いわば、 私人原理というものが人間を動かす原理になってくる。 そして公人原理というものが喪失してしまう。そういう 意味において、精神主義を唱導した背景には公人原理を 失って私人原理に陥った社会の状況というものに対して、 公なるものを説いていく。そういう意味が精神主義運動 にはあったわけです。文明開化によってもたらされた自 我の行方の暗黒面に眼を注いで、その自我による競争争 奪の害を批判する。そして同朋和合の本来の自己に帰る べきことを説いております。﹁精神界﹄における先生の 論稿には自我に縛られるものが本来の自己に帰るべきこ とを説いた説が多いわけです。そしてそれ自身が人間の 精神性の回復を訴えるものであったわけです。 それと同時に、もう一つ明治中期の自我の行方につい て振り返って参りますと、もう一つ注意されることがご ざいます。それはいわゆる富国強兵という政策の中で、 帝国主義、国家主義というものが押し進められて、個人 は臣民としてその価値が認められるようになったことで

(25)

i青沢満之と「精神主義」 す。まさに最近の森︵喜朗︶首相の発言でいえば﹁天皇 を中心とする神の凶﹂という政策が正面に出て来た事で ございます。そういう国のなかで、個人の価値というも のは軽視されるようになって、全ては国家の為という大 名目のもとに行われる。これについて当時﹁新仏教﹄と いう雑誌がございますけれども、その﹃新仏教﹄の一論 者が、この抑圧状況についてこんなことをいっています。 ああ国家の為とはまことにかくの如きものなり。僕 はかつて中学生に課して、各自の目的を叙述せしむ。 彼の筆は皆いはく、国家の為に学業に従事すと。或 は又いはく、国家の為に高等学校に入らんと。或は いはく、国家の為に商業に従事せんと。しこうして 彼らは遂に一度も自己、主観、自我、人生について 何のいうところもなかりしなり。彼らは実にただ国 家あるを知りて自己あるを知らざるなり。 こういう論説を、﹃新仏教﹄︵五八︶で或る論者はい っております。そういう状況を作り出すもとに学校教育 というものがあったわけです。﹁精神界﹄がでてきたこ の 明 治 三 一

0

年代のころの青年といえば、彼らが子供の頃、 明治二三年に公布された教育勅語を小学校で聞いて、ま たその趣旨に基づいて教育の中心に据えられた修身教育 23 というものを受けた人達であったわけです。その修身教 育では、尊皇愛国という、士気を養うっていうことが中 心となってきたわけです。そこにおいては精神の自由は 無視されたわけです。 従いましてこの明治中期の自我の行方を振り返って参 りますと、一方では自我が解放されて、それが個人意識 の深まりをもたらして、自由への要求に燃えた人を生み 出した。そういうことがあったわけですけれども、その 反面においてはセルフイツシュ・エゴイズムといわれる ような私人化というものを生み出した。また他方では国 家の重圧のもとに自我が抑圧されます。そういう状況も もたらされます。そういう矛盾した状況の中で自己存在 そのものが危機に瀕した。乱暴に整理すればそういうこ とになろうかと思います。 明治二七年古河勇︵老川︶っていう人が、﹃仏教﹄と いう﹃新仏教﹄に先立つ雑誌がございますけれども、そ こに﹁懐疑時代に入れり﹂という、論稿を書いています。 ﹁懐疑﹂ですね、疑い。今までは霊魂とか宇宙だとか、 宇宙の、水遠だとか、そういうのを無批判に信じておった わけですけれども、しかしそういうことに対して疑いを もっ。﹁懐疑時代に入れり﹂という論稿を発表して評判

(26)

24 を呼んだことでございます。この明治二七年という年は、 例の北村透谷が自殺した年でもあります。北村透谷の場 合、キリスト教に入って、そのあと飛び出して、恋愛に 破れるとか色んなことがありまして、自殺に追いやられ るわけです。そこに象徴的な意味があります。そして明 治二七年からちょうど一

O

年たち、明治三六年ですけれ ども第一高等学校の哲学青年、大変に優秀な青年であっ た藤村操、かれが日光の華厳の滝に飛び込んで自殺する。 そういうことがあったわけですね。この藤村操が、遺書 を遺しております。木のところにこれをくくりつけて書 いているわけです。﹁万有の真相はただ一言にして尽く す、日く不可解。我、この恨みを抱いて煩悶遂に死を決 す。﹂という、そういう遺言を遺して日光華厳の滝に飛 び込んだわけです。これは大変な衝撃を、当時の青年達 に与えて十何人かの青年達が彼に続いてその年に自殺し たといわれています。一大社会問題になった事件でござ い ま す 。 ﹁懐疑時代に入る﹂︵占河勇︶から﹁煩悶遂に死を決 す﹂︵藤村操︶に至る。明治二七年の懐疑に始まって明治 三六年の煩悶に至る。このように明治の三

O

年 の 前 後 は 、 懐疑・煩悶の時代といわれます。そういう懐疑という社 会状況、これはやがて現実逃避だとか、厭世感だとか虚 無主義となってあらわれる。しかしその懐疑・煩悶とい う、その疑問の中に、いわば生存の不安そのものへの真 撃な聞があったわけです。そういう状況の中で精神主義 運動がもった意味がある。それは、時代と人間にコミッ トメントする。真宗の側から、時代と人間にコミットメ ントしていこうということです。しかもそれが懐疑・煩 悶状況に投げ出された青年達にかなり深いところで力と 影響力を持ち、自我解決の道を切り拓くことになったと いうことがあったかと思います。 II 危機の内観 そういう意味において、明治は、中期に様々な意味で 危機が現れてきているわけですけれども、その明治中期 の青年にとって特に、懐疑・煩悶という事柄が大きな問 題であったわけです。清沢先生にとって、青年の懐疑・ 煩悶という問題は、決して他人事ではなかったわけです。 先生は、自ら肺病にかかり、人生に迷悶した人です。そ ういう意味で先生は自らの体験を通して当時の青年達の 直面した懐疑・煩悶について理解を持つことのできた人 であったと思います。当時の歴史関係の書物を見ており

(27)

j青沢満之と「精神主義」 ますと、この懐疑・煩悶は青年たちの心を霧のように覆 った流行病のようなものであったようです。そういう不 安感が醸成される中で多くの若者たちが宗教に解決の道 を求めた。キリスト教の場合には、明治三四年から大挙 伝道運動がはじまり、その教勢は、大都市を中心に広が っ て 参 り ま す 。 その教勢が伸張していく中で大きな影響力を持った人 として、内村鑑三とか或は海老名弾正とか或は植村正久 というような人々をあげることができます。そういう人 達が青年達の心を捉えていった。ところが仏教の方では、 青年達の懐疑・煩悶に対して応答した人は少なかったわ けです。清沢先生はその珍しい人達の中の一人であった と思います。それは先ほどもいいましたように先生自身 が一人の迷悶者として生きていたということがございま す。先生は、迷悶する中で﹁歎異抄﹄﹃エピクテタス語 録﹄﹃阿含経﹂というような書物に触れていったわけで す。それを通して︿真に自己なるもの﹀を求めていった。 その︿真に自己なるもの﹀を求め、その求道のプロセス を日記﹃蹴扇記﹄に克明に記した。臓扇とは十一一月の扇 子っていう意味です。役立たず、無用者っていうことで すね。清沢先生は、結核にかかって養子の身であってお 25 寺の役にも立て−ないし、宗門の御用にもたてない。自分 は無用者だっていうことで蹴扇という号を使う。しかし 無用者としての自覚といっても、後ろ向きになるんじゃ なくて寧ろ本当に蹴扇という場所に立って積極的に生き て い く 。 そういう意味において、自分のいのちの中心、自分は 何に依って生きていくのか、自分っていうものは一体な んだということ求めていくわけですね。先生は、煩悶憂 苦する中で、自己を見失いそうになるわけですけれども、 その自分を見失っている、役立たずの臓扇としてある我 が身を自己としてどう回復していくか。そういう苦闘の ドキュメントですね、﹃蝋扇記﹄っていう日記は。そう いう先生の自己回復の苦闘というものは、自己喪失に悩 む近代人の苦悩というものをある意味において反映して い る と 思 い ま す 。 自己とは何ぞや。これ人生の根本的問題なり。 自己を求めることが人生で最も大切なことなんだと、 日記の中でいっています。またこの自己は絶対無限者で ある如来に帰依することによって始めて獲得されるもの だということを記しております。その自己獲得の道を ﹁修養﹂という言葉で表現するわけです。﹃服扇記﹄の

参照

関連したドキュメント

インドの宗教に関して、合理主義的・人間中心主義的宗教理解がどちらかと言えば中

 また伸縮率 640%を誇るナショナル護謨社開発 の DT ネオプレインを採用する事で起毛素材と言え

が前スライドの (i)-(iii) を満たすとする.このとき,以下の3つの公理を 満たす整数を に対する degree ( 次数 ) といい, と書く..

白山中居神社を中心に白山信仰と共に生き た社家・社人 (神社に仕えた人々) の村でし

さらに体育・スポーツ政策の研究と実践に寄与 することを目的として、研究者を中心に運営され る日本体育・ スポーツ政策学会は、2007 年 12 月

○事業者 今回のアセスの図書の中で、現況並みに風環境を抑えるということを目標に、ま ずは、 この 80 番の青山の、国道 246 号沿いの風環境を

信号を時々無視するとしている。宗教別では,仏教徒がたいてい信号を守 ると答える傾向にあった

自然言語というのは、生得 な文法 があるということです。 生まれつき に、人 に わっている 力を って乳幼児が獲得できる言語だという え です。 語の それ自 も、 から