――目次――
論文
1,
口寄巫俗の宗教民俗学的考察:巫業を通して観た口寄せの時季について, 櫻井徳太郎, A
Religio-ethnological Study of the Female Shaman Tradition in Japan, Tokutar
ō SAKURAI, pp.1-24.
2,
雑阿含経の経の数について, 三枝充悳, On the Numbers of the Suttas in the Tsa-a-han ching,
Mitsuyoshi SAIGUSA, pp.25-49.
3,
ヒンズー社会における「Pollution コンセプト」について, 岩田啓靖, On the “Pollution Concept” in Hidu
Community, Hiroyasu IWATA, pp.49-72.
4,
神の存在の存在論的証明をめぐって:アンセルムス『プロスロギオン』第2章註釈の試み, 小山宙丸,
The Ontological Argument for the Existence of God: A Commentary on St. Anselm’s Proslogion, Chap.
Ⅱ, Chūmaru KOYAMA, pp.73-91.
書評
5,
塚本善隆著『中国仏教通史』, 鎌田茂雄, Shigeo KAMATA, pp.93-99.
日本の巫女を宗教民俗学的立場から究明する 場 合に 、どのような問題点が存するかについてはか つて若干触れたこ ︵ l 上 - とがある。その中で私は、日本の巫 俗を 、周囲 諸民族との比較において検討する必要のあること を 強調した。そして 9 % その﹁比較研究の第一歩としては、まず 何よ りも先に日本民俗学プロパーの領域で、不十分 な 点、未整理の要素を究
餅明
検討する努力がっづけられねばならない﹂ こと、つまり﹁比較研究の可能な段階に到達す るために急いでそのお 膳 ぬ 立をする必要がある﹂︵日本民俗学会編﹁日本 民俗学会報 L 四三号、二八頁︶ことを力説した。 私 じしんも、この要望に 弓 応えるため、ここ一両年は主として東北地方 に 現在する巫女の機能や伝承に注目しながら 臨 地 調査を っ づけてきた。 酪 その結果、これまで学界に提出されていた 多くの疑問点を再確認したり、新しい問題点を発 見したり、また、これら い 寄 ロ の間頭解決に関する多少の曙光が期待できる 資料に遭遇する機会にも恵まれた。それらに っ いては逐次公表して各位 ュ発
題
の趣
し 日1玉業を通して観た口寄せの時季につい
て
桜井徳太郎
日害
巫
俗の宗教
民
俗学
的
考察
巫女が施行する口寄せの時季に一定の原則がみ, られることを指摘した研究は、管見の及ぶかぎり ではきわめて少な いように思われる。 -2 ︶その数少ない論究でも、この 点 に重要な問題の存することを強調し、その 解 明に学問的意義をみ (2) 2
方
法
と
見
通
し ブ い ら 直 巫 て 以 て の @ 所存 で あ る調 と 本稿 で ま |
そ の
つ 口
寄
女
行
よ ナ 出 れ 口
こつ
判を了コ。民俗カ
カ る る、
を避 岸 の 一現 が 寄
し 些 せ
寄
た か の せ の の 葉 ので 混 を
時
と 士 l ロ、あ 乱 常
季
ろを 時
@% う ま召 を〒 つ か く なo こ う て そ と も
の な の 閏月
題
な 植 行 っK
を 然
(2@
究
と特
明 匠 定
て 提一
て さ
時
小 、 解 。 タ な な の 、 れ 季 し日害 巫 俗の宗教民俗学的考察 とめ、研究の価値の重要度に触れたのは、皆無 といっていいくらいに少ない。これは、研究者が 初めから巫女機能の 呪術的神秘性に魅せられたために、心霊的側面 のみを重視して、この点を見過してしまったため か 、あるいは逆にそ れを迷信的行為と断定し、それのもっ民族宗教 的 意義を軽視または無視してしまったからであろ う 。とにかくそうし た 偏った予見のままで巫女伝承の調査を行なった 方法上の弊が現われたためだ るぅと 考える。 私もまた当初は、かかる一般的予見の偏執を脱 することができなくて、相当の調査時日を無駄に してしまったこと
憶
まことに惜しまれてならない。巫女資料 採 実 のため、東北の各地域を遍歴しているうちに、 津軽 イダコ 、南部 イ ダコ 、秋田の々チッコ、コ
、さらに 旧 仙台藩領内の オガ ミン、オガミサ マ 、福島県下の ノリワラ 、 北 奥羽に 活躍する ゴミソ などの存在を知り、それら相互 を 比較することによって、ようやくその盲点に気 づいたのであるか ら、 深くその不明を恥じなくてはならない。 巫女の口寄せに、シンクチ︵新口︶・フルクチ︵ 舌口︶・ イ キクチ︵生口︶・シニクチ︵死口︶ と い う 区別の存する ことを知らないわけではなかったけれども、その 施行期日や実施の時季に、きわめて峻厳な規制 0 枠が設けられ、 強 固 な制禁のタブーが生きていることは知らなか った 。数次にわたる東北地方の巫女調査において 初めてその事実を知 ︵Ⅰ 3 ︶ り 大いに驚嘆した次第である。そこで、さらに この点を日本列島の各地、とくに南九州から南西 部 へと点在する トカ ラ ・奄美等の南西諸島、さらに沖縄列島の巫 俗 ほ ついて検討してみると、その地域差が歴然とし てくる。こうした 地 域 差の生じた所以を追究し、丹念に正格変化の トレースを行なうことが何よりも緊急な作業であ ると考えられる。 そこで第一には、巫女機能の今なお活発な北辺 の 東北地方と、その南端の南西諸島・沖縄地方に おいて、どのよう な 特徴がみられるかに注目しなければならない。 そして第二に、それぞれの地域に展開する 巫俗 相互の比較研究を進 ぃ めて、相互間にどのような繋がり・脈絡・系譜 が め とめられるかの分析を行なう。かくして各地 域 ごとの特質が明ら <x.(4) 中 の 間 縄 そ 能 機 か 心 綿 の 週 こ し と 能 に に 留 住 し の て な す な 、 な 急、 て 問 そ る る っ 期 の 査 唾手
たら、
調査第三
検討 調 な きた 題 はの
の変遷 う こ0
巫俗 間中 積み 研究 実に 巫女 推移 うし 地域 筆 垂 で か じ の た 差 にみ の
功 が ん 学 業 そ 接
か に 期 、 密 跡 程 子 地 ら立 待
ま結 づ を 宿 帯
にお
被 が 脚 し する た巫 社的 けに 経た を、
ける
験者広
た こと 女伝 閉鎖 成功 のち 誤り と 地 は 承 仕 す に な 巫な 域 無
の会
るお
く俗
つ め 埋 門 を こ い 解 の て 調 と 容 構 と て 説 採体 査
いが 成 が 初
し集
験 を
う民
し でめ 合
と、
きて 理 分
た 丹
の領
ま る量 的 析
専 念 で 域 た も 終 な に実
にあ
の そ の的 説 着
な統
どけ
る うなうとに
かい
者、
明手
をす
こ
基る
る必要にも加える
。
十分 でもこ 状態 ぅえる。
日本に づ が に と を お だ こ いる 時
さ保
け け まて
そ る。 間らち
を機な
るので
巫 裏 作文 材 業
め が を 歴 築 造らかな
一端を 稿では、か
け に属す 報行く
、 つ る り 史的りめ
、
て 告す東北 心地 こと 長期 系譜 全体 に 方 に た 歴
止
で属 め 史
め の す に 的
発 精 敏
た 見 る " 時 ぃ 聞 玉 垣 代 。 を 俗 期 を社会に
属と、
築が同 あ そ の あ は 日 ろ の 断 る な 死 本 ぅ 古 定 か い ののか口は
垂。 奇正、
らこ後
。
直女
せ し こ れ にも
変
。 古 対 者
と化石国しを
しし寄、
要 一一 も て そ せ 死 家 二素
口 7:"" よ た す を な て と 姿
勢
を一 不す
と る
寄 的 経 を
布
と せ な た な
結 の 風 フ こ
論 五 儀 か な し が だ ボ ラ て ロ と ト 、 オー @ も
寄 断 ケ い
差せじ(
しの
て古ゆ
て玄 圃 よ 仙
る本
え 百 か ) 新 土 な 形 を に 口巫
女
の風は
う。生態を示いよう
対するで す な 古
あ も く 口 目
る の と
寄 木
" 玉 。 で も せ 列 を はあ 現 は 島
表
ア 。 @全域
存のり、伝
す
て そ 巫 く を と そ れ 儀 仝 お さる 定 し す み て
南
し て る ら い西
諸 て 新 限 れ る 島や で こ で で
口 毒荏 冊 の宗典民俗学的考察 キ 一 し か 口
音
の い い と 寄 無 と 行 そ目口
て セ て の は
を会
」、。
仏 露地ユ
して 施し し,
O 地ど、の
ろしとも
な し 帯で 東北 こと で シ わゆ 両者う施
ち、
タ
部に いう 正儀 死者 で行 そこ 朝ロ。明
ほか をよ際
立
のぢ
の古手
半
るし第を
て と ど 目 の と コ
と 新 こ の
の 北 宗 て 一 が で の
い口
めうもが,
"
ろよ
"
つ も も庵 @
ナ
「,よ
西部)津軽方式 しえ統
番 ナ
ど死 部
南
あ っ 美で 郡
る と や ィ 言 明 。 区
が
も琉 者
に た 宮 、 多 球 の 多ぃセ
(遅日域
伺 い の 妻喪 口 く の 県 れ の
島 望
近
4
@
手 家 ) と 夜 のな ・ も ヲヒ
の コ 新 ど ッ 四 あ 部 て 俊 ュ え 変 が 口 で ギ 十 る に 化 、 を は ク 丸 い か
で
喪 寄
、 チ 日 は け
霊
死後の
目に@ 行
な
あ 家 せ 以 葬 た る に る 一日次
(内式オ
四 施 ラ ロ こ 招 イ 二 ロ に を ガ十 村 口 寄
と ; 3 タ 晩 ) は 出 、九 す 寄 せ
が れ コ 連 ・ す し ン 日 る せ を 続 コ ま た ま の 初 は 行 と
み寄新口
( 「 明 らては
新、
し ま し 日 た ィ 七 新 な (5)上述の問題点に答える前に、口寄せの時季をめ ぐって展開する 巫 俗の特徴について触れ低ければ
な も 一
し す す
ガ一
マ る ィ谷0 死
つ う く木
0
霊
ま質 殺
町口口
本番
頷 内いの機の
。
う合有
の せ で こ ち に 無 玉 に 括 れ に 触 に川合
り、死に問い日以内
の
問であ 刊 する-6-
女 精 躍 は 死 れ よ
研 力 す 新 着
る っ新け
のか後る。
一。
そ蔵
地 ボ て0
こ の 尊お 中 い の 寄 に 定 ケ
反
日点 額 縁
け す わ 両 せ す す
を応 を を を
日 る る の 口 を る る 呼 が 経 確 愛 で も風
るる す
。
こ びな 過 め け
あ っ 儀 南 と る 日 とる
出しⅠ。
Ⅲ
し。
るノ
しな て かて そ い ら ダ そ
強 真
タ施 の お い
い の 新 イ コ の い 何 コ 付 鳳 け っ 6 部 ボ ラ が 地 こ度
ト タ閉 蔵
関 心かとすがるた
らいる、
巫い
と 別 ケ カ ロ 講を 対
ち旧 会 友 ど
に 人 に の 策 祭よ 立
じ仙 城 地
う な の 対 数 一 に ぶ す る 台 に 帯 い る死 す 珠 番 は
問
る し藩 ね め
ぅ 霊 る る に 題 。 く 頒 た 典 憲 だ が 口 繰 発 ィ点 そ 接 の
っ型 味
か 現 寄 っ す タ の う 近 オ て 的 を ら わ せ て る コ (6) 6Ⅲ新口寄せの種類 まず新口寄せの時季については、凡そ次の 一 0 種を数えることができよう。すなわち 1 、死の当夜か翌日つまり埋葬以前の儀礼 として行なうものである。多くは通夜の行事とす るが、通夜につい ては、別に仏僧を招いて仏教式の読経世 垂 をし、 口寄せはその後で執行する。ところによっては 通夜を省き、口寄せ のみで済ませる。むしろその方式が本 伍に 叶う ち のだと考えている所も少低く低い。この例は東 北 地方 @ ﹂とげ に硅什注 前 の 北部地方から三陸沿岸の海村に分布する。 2 、埋葬日の当夜、または翌夜この例もま たオガ ミン・オガミサ マ 地帯に広く拡がっている 。しかし分布の広 さでは、 ェ にまさる。この地方では埋葬のこと を 法事といい、法事がすむと直ちに﹁忌中払い﹂ をする。その席には 仏僧が列座するが、すむと喪家と菩提寺との 関 係は四十九日の忌明けまで途絶える。そこで埋葬 のすんだ当夜または 翌日の晩に、同族・親戚・縁者・知友を招いて 盛大な口寄せをする。北部陸前地方、ことに宮城 県 本吉郡・気仙沼市 手 県東磐井郡・陸前高田面地区でもっとも盛ん である。この地方の民庶の間では、この口寄せ 供 養の済ま低いう・ 岩 ちは葬式が終った気持になれないといって 、と くに重要視する。 式は 前二者と同じである。
はほぼ前者と同じである。 ごとく三日目としなければならないとする例もあ るが、多くは東北地方の いだに、あるいは セ 口目に行なえばよい、として いろ。要するに 初セ 日域
宗ヒ
船内とする点において共通するものがみられる群島の一つ沖永良部島のごとく、この日を定日 とし、この口寄せをもっ 7 (7)
て、マ ブイ ワカシ ︵死者の霊魂と訣別︶の意味とす るところも少なくない。 6 、四十九日、及びそれ以内沖縄列島など では、死後セ口ごとに ユ タを招いて供養をし、 最 後に四十九日の中 陰の日に盛大な口寄せをするところが多い。 本 土 でもこの例は少なくないのは、いうまでもなく 仏教の経説の影響を つけたためとみなされよ う 。この点については 今後の討究を必要とする。 7 、忌み明け初七日とか四十九日などと 日 を 限定しないで、忌み明けの斎忌儀礼として施行 する。そういう 例 も 少なからず存在する。 8 、 一 00 日東北地方の新口地帯では、 在 所に イタコ がいなかったり、イタ コ の都合によっ て 口寄せができ ず、 止むをえず四十九日を過ぎたばあ い には、 一 00 日日に施すという風がある。筆者の現地調 ま 中にも、宮城県石 き市の オガ ミン、佐々木 きえ 氏の所へ在郷の稲 井町 真野の K 氏一族が寄り合って、ちょうど 一 0 0 日経った死者の口 寄せを依頼している実例に遭遇した︵昭和四十一 年三月二十七日調査︶。 9 、 初 彼岸・初盆死後、死者の初めて迎え る 新盆、または 初 彼岸に行なうとする例も 、 少な い 数ではあった け れど北部陸前の旧仙台藩領内でみとめられた。 ㏄、二度の アズサ 死者の口寄せを、出棺前 0 通夜の晩または埋葬直後に施行した喪家が 、四 十九日以内にもう 一度繰り返し行な う 死者供養行事である。 アズサ とは梓弓を指す。と同時に、かって梓弓の弦を 棒 で打ち、ぶんぶん 鳴らしながら死霊の心境をかたった時代の古風 儀を表わす名称でもある。それだけに起源の古さ を 示している。愛惜 の念 措くあたわざるものに対しては、一度のロ害 せ のみで十分に意を尽くしたことにならないの であろう。遺された ものの悲嘆が募りに募って、正儀﹁二度の梓﹂を 生み出したものと推察される。 ㈲ イタコ の出張 (8) 8
口 寄生俗の宗教民俗学的考察 新口寄せの会場には、原則として喪家があてら れる。喪家の都合や巫者の個人的事情によって 、 一定の期日に開催 不可能となったばあいにのみ、喪家の一家 番族 縁者が挙って 巫 家に赴き、口寄せを依頼する。 そ れ 以外はたいてい 喪 家で行なう。 したがって東北地方でも南西諸島でも、当日 イ タコ の喪家へ出張してくる例が圧倒的に多い。 喪 家では、死者が出 ると、その訃報を旦那 寺 または親類縁者に告知 する。その際の告知人足を ッカィ とか ツゲ または ッゲト とよぶ。日中 でも提灯を掲げ、 蓑 ・ 笠 ・脛当て・ 草 韓に身を 固め、ものものしい扮装で出掛ける。そして ッゲ には必ず人足の二人 を 充てている。口寄せのための﹁イタコ 招び ﹂ も また、それと同様に行なわねばならないとして いる所が多い。立者 が 遠方のばあ い には、仝日ではタクシーとか 自 家 用車で迎えに行くが、以前は馬を牽いて行き、 その馬背にのせて 案 内 したこともあったという。イタ コ の帰路には、 かならず オクリ がつき、祭壇に飾られた供物の すべて、または口寄 せ 進行中の中休みに出るど馳走、さらに並居る 縁者の奉仕する口寄せ料が、ことどとく 巫 考への 土産となり収入とな る 。オク リ は立者の道案内とともに、土産物の 運搬役 ち果 たさなくてはならない。
㈹ナナ
クラョセ ・ 持 っこ流し 秋田県の北部と、これと境を接する青森県の南 津軽の村々では、急死者・変死者、または愛惜 す る 者の死をみたば あい、その 愛 隣の情を表現するために、特別の 口寄せを行な う 。秋田県の八郎潟周辺から北の山 本部・北秋田郡・ 鹿 角部地方にかけてはハ チョセ ・ナナ クラョセ ・ ナナ ク ラオロシといい、両津軽の村々で﹁ 舟 っこ 流し﹂という。一家 の 柱石たる地位にある人や学齢前の乳幼童 児 の 告 ゅ 病死・溺死・事故死に対しては、例外なく挙行 する。以下それをめ ぐっての 巫 俗の大要を紹介しておく。 津軽地方では、たいてい四十九日までに行なう こととなっている。まず 4 タ コ を招いて祭壇を飾 り 、霊前に数多く 9の供 階と同数の水を供え、親戚・縁者・知友を洩 れなく招待する。手のこんだ正儀の展開次第は 省略するが、要する にイタコ に呼び出された死者の霊魂が、イタ コ 0 口を借りて招待客のすべてに話しかける趣向で ある。したがって 、 招待客の人数が多いと、夜を徹しても二日二夜 はかかる。問い ロ のすべてが終わり神送りがすむ と 、どんな深更に及 んでいても、かならずその日のうちに列席者一同 が 打ち揃って 死 皿を送る。新しくっくって霊前 に 供えておいた小型 の舟のなかに供物をおさめ、これを ホトケ のミ ャ ゲ とする。また別に藁人形を づ くり、それを 死 ふ だ ホトケ 当人だと 称して、その舟に乗せる。そうして参会者のう ち 縁の濃い者がそれを 担ふ 。他のものは野辺送り の会葬者のごとく 舟 の後尾に連なり、海村の部落なら浜辺の波打際 まで、また内陸山間の村なら川端まで行き、そこ から 海 または 川へ流 す 。あたかも送り盆の精霊流しに匹敵する風景 である。﹁ 持 っこ流し﹂の称の起こってきた淵源 は、 実にここに存す るものと考えられる。 同様の方式は、津軽地方と境を接する秋田県の
郡 で、それをハ チ ョセ というのは、造花で美しく 祭 M. を飾るところ からみて、﹁ 花 寄せ﹂の意であろう。平安貴族 が 極楽浄土を現世に 再現し、そのなかで往生を遂げることを望み、 居 室を蓮華の造花で飾り、阿弥陀如来像の五指と 自分の手とを五色の 余 で結びながら死んでいった 状温を街佛 たらし めるものがある。けれどもハ チョセ の風儀が 、王 朝 時代の西方往生観 と 結びつくかどうかは、そう筒型 に 断定できな い 。もちろん、東北地方へ浄土教が伝来したのは 、そんなに古い時代 でない。したがって、どうみても浄土教の直接的 影響を容認する材料は発見できそ う もない。 そ の 限りにおいて、 ハ ナョセ 行事における仏教的要索の付加影響をあ まり強調するわけにいかない。ただし、この地方 にも、かなり古くか ら 観音信仰・地蔵信仰の伝播が行なわれ、その 影響を示す仏教文化の扶植がみられたから、この 方面からの追求にも ︵ 9 ︶ 持続的努力をはらわねばならないであろう。 (10) 10
口 寄文俗の宗教民俗学的考察 このハ チョセ をいっそう大規模にしたのがナナ ク ラョセ 、またナナ ク ラオロシである。その正儀 は、 ハ チョセ の場 合 と大同小異であるけれども、遺族や縁者が 巫 て 米銭の喜捨をづけるところに様式上の連いが 見 儀を催す前に、近郷近在の セヵ 町村を行脚托鉢 し られる。そしてその喜捨をもとでに巫女を招き 、戸 ごとに門付けし 、 ナナ クラ ︵ セ座 ︶ の 祭壇を づ くり、口寄せをする。この正儀 を ナナ クラ ョセまたはナナ ク ラオロシ と 称するのは、 このためであろう。 口寄せが終ると、小型の木造船に供物や 、ホト ケに 象った人形を入れて、 海 または川に流す。 参 会者一同が念仏を唱 えながら送って行く風も、また﹁ 舟 っこ流し﹂と ㈹新口寄せの時季の異同 さて以上みてきたように、新口寄せの全く行な われない津軽地方であっても、その南部にゆ く に つれて、とくに 秋 田 県と境を接する地域に、その特殊形態として の ﹁ 舟 っこ流し﹂が盛んに執行されること、また その接触地帯の秋田 県北部で、様式の上から同系統とみなされる ハ ナョセ ・ナナ ク ラオロシが催されるということ、 これはどういうわけ であろうか。いずれにしても、それが新口寄せで あるからという理由でもって、これを オガ ミン 地帯︵ 旧仙 ムコ藩領内 に 顕著︶や南島諸地域のネーシ やユ タの新口 寄 せと同一視すること、そして両者を無媒介に結び つけることは、早計 に 過ぎると考えられる, しかしながら、とにかく新口寄せ類似の方式が 、 常人の死ではなくして変死者や急死者などの 里 一 常態に限って適用 されていることの意味は何なのであろうか。 大 いに考えさせられる。証明資料の十分に出揃って いない現段階では、 いそいで結論を下すことに 跡蹄 せざるを得ない。 早急な断定を避けねばならないことはいうまで もないが、いちおう の 予見を立ててみることも場合によっては必要で ある。そうした目性をあえておかすとしたらど う いうことがいえる㎝ であろうか。
て 津軽地区を中心 津軽地方では、 ﹁ホト ケ を供養す とは何処も同じで で、それぞれに っ もちろん、 ホト に 眺めてみることにする。 一般に古口寄せのことを﹁口開き﹂といい古国 と はよ ばない。北部津軽地方では、 古 ボト ケと か る ﹂というのみである。口寄せの対象たる死者 の 霊を、死後一 00 日を過ぎた ホトケ に限定する あるが、それを彼岸 口 、金日、ナノ カ ︵七日盆︶ 口 、地蔵田、オシラロなどと称する場合がある い て検討を加えてみたい。 ケの 供養を丁寧に行なうか否かによって 、 家によ り 、また地域により、口寄せの回数に差異が出 て ︵ つし l 人 ︶ 併存地域の旧 仙 ムロ藩領がクローズアップされる。 本稿では百口寄せの時季をめぐって展開する 巫 俗 の問題 を、 主とし く Ⅰ 2) 12 ま し や そ れ そ れ た
東
疑 秋 ぅ よ の れ こ 魚 田 し ぅ 理 て れ底 地
は 県 た 。 由 い は く方
す 北 情
と と た ま 日 @% べ に 勢 に し の ㌧本 お
て 現 の か て で た今 在 な
島 る 後 み か く "仏な推
" は く今古
城田
五
、
のら
研 れ にあ いつが
教か側
つ の 穿 る っ の 伝 た 域か寄
らせ
古
課がて
頃 捲ろを
口 悪 ご も か 浸 ぅ 出 め 盛 穿 と と 、 ら 透 か な
の 津 巫 、 て の の 理 訴 れ 巫 軽 俗 藩
解
の の域 僧
ケ元
圧決 で み か な を 来
を は
は ら ど下 新
的 南
後 な 依 、 め る 口 に 郎 日か 然
そ関 す 寄
卓 藩
に ろ と の 年 立 せ 期 う
て の
い 七 目 い そ 態 ら い 伐 ろ る 巫 と の を れ に の く
考 よ 保 な 和 准 か
帯 の
で ィら東
える 行)Ⅰ @ う こ 持す くな わる 移 と も タ 。 判 る っ よ と 北 あ コ新 体
て う も地
る @C で 制 し に に 方き が ま な 著 の こ ら な 民 っ っ し 北
に る
6c
間にし、こ
た たこ く衰 吾 4 つ と の し と 微 お づ そ も こ か 低 し いな り し ど て て て て い 、 な も 行 も は そ 新 こ し
。 南が挙っお
淫らげたこ
古 は
か
軽 ,ら 比 よ @妬わ
低いといっていいほど稀有である。その 僅 かな例が、北津軽郡内の漁村の ニ、 三の部落で みられた。農村 郡・五所川原市などの都市でもない。ただし、 弘 前 市内の寺院が密集する㈹
て 墓参の人々に口寄せの依頼を請い、米銭の士 & ロ 捨を仰ぐ風景に接するこ cJ
棚
えてきた。けれども、そうだからといって
、
秋口はいけ低いというわけでは低いこと、もち
ろんである。
森
県の南部地方、とくに八戸市内の寺院で盆
施
餓鬼会を催す際に
、
集る
は
、これをまったく行な
甘
くる。丁寧な所では年に何回も繰り返すけれど も 、簡単な家 性差はこのように歴然と表われてくる。それに も拘 わらず、 べきだとしている。そしてその任務は、主婦に課 せられてい に 一回の仏下ろしは欠かさない。私の調査期間 中でも、それ 女性に少なからず遭遇した。 Ⅲ苦口寄せの種類 Ⅰ、彼岸田春秋の彼岸の期間内に限って 口 寄せをする 秋口という。この型式の古口寄せ、つまり彼岸 口の分布区域 断 させる気持を起こさせるほどである。ただし、 どちらかと 忙 をきめ ぬ ない う ちの春日がさかんである。 と くに春の訪れ 迎えることとなるので、やがて到来する農繁 季 直前の春田 に のように稲の刈入れ収穫の季節がはやくなると、 その時季が では一回限りで終りとする。その地域差や家風に よる 個 たいていの家では、少なくとも年に一回は口寄せ を 頼む る 。したがって家の主婦としては、どんなに 多 忙でも 年 をしないと肩の荷がおりたような感じがしない と訴える 側 である。 春 彼岸のばあいを春日といい、秋波 岸の際を がもっとも広いので、この方式 が 、舌口の正統 型 だと 判 いうと、 春 彼岸がもっぱらで、理事や山仕事がさ ほど 繁 の 遅 い 東北地方では、まだ消えない雪のなかで 春 彼岸を 、口寄せを依頼する例が圧倒的に多い。秋彼岸 は 、最近 ちょうど農繁幸と合致するため秋口を避ける 農 村部 がふとはある。しかし、いうまでもなくこれは正統 的 イタコ本来の姿で低い。 民間巫女が盆に口寄せをする方式で、最も古型 を 存している例が、和歌山県田辺地方にみられた 。ここでは、他の ︵ 4- Ⅰ 地方で盆の祖霊を提灯や門火で送り迎えすると きに、それとは別に巫女を招いて﹁ 仏 迎え・低速 り ﹂をするという。 これはまことに貴重な報告で、若しも祖霊の送迎 に 巫女が中心的役割を果たしたとすると、それ は 、仏教伝来以前の 民族的祖霊崇拝形態の珍らしい残存であるとい, っ べきであろう。この点は、今後検討しなければ ならない重要課題で あると考える。 3 、セ
目口蓋
肩 の セ日 、いわぬ る ナノ ヵビ に口寄せを行な う 例が若干ある。 北 津軽の漁村で 、溺死者や無縁者 の 供養を七日日に催すときに、イタ コ に頼んで 死 者の口寄せを施行する。あるいは、この日 墓掃 除 をすませ、心身 清 浄 となった老婆たちが、イタ コ を招いたり、 み ずから ィタコ の所へ出かけて口寄せを依頼する。 また青森県八戸市 辺 では、 セ 目蓋 に 、イタ コ が集って口寄せするの を 4 タ コョセ といった︵岩崎敏夫﹁村の神々 L 昭和 四三年、岩崎美術 社刊 二八頁︶。何れも、イタ コ の口寄せ日を七日とし たのには、とく べ つの理由はなく、たんに セ 日食 を 機縁に行なった と しか判断できない。けれども、それをことさら にセ 目口とよんでいるのは、盆における セ 日日の 口寄せがかって一 つ の方式として存在したことを示してはいないだ る うか。後考に譲りたい。 4 、地蔵田東北地方における民庶の地蔵宿 仰 はまことに強烈である。どんな部落に入っても ぬ 廟堂の見られな い 所はない。したがって年輩の婦人・老婆による 地蔵講行事はさかんである。その 雨 横綱株が 、 下北半島恐山の セ月 廿 三、四日︵現在は新暦で行なうが、以前は旧の六 月 二十三、四日を縁日とした︶の地蔵会と、 旧 六月 廿 三、四日の津軽金 大町で催される川合地蔵尊の例祭であろう。 両 方 とも当日は近郷近在はおろか、東北各県下、遠 く 北海道や東京・ 大 阪からも参加する講中がある。そのときに開か れる イ タコマ チ を地蔵 ロ とよぶ。いうまでもなく その他にも、南部のW
14口 寄文俗の宗教民俗
直
もは 第
接
ら新
三 の う・ 調 の 関 。 の ケ係 僅 紅 l
が 人 絹 ス あ は の と っ こ コ な た れ ロ る わ る モけ
もを 各
で っ 自 家 は て も に な 「 鮮 代 い オ や 々 。 シ か 伝 そ う に わ の サ 着 る 縁 ン け オ 日 の て シ つ 位 も う ま が ら サ り つ っ て 本 い て尊
た久
そ の 」 還 れ開
と山 は
帳 い へ 永 渋 っ 登 年 全 て り の間婿
一 こ、
喜ぶ、久
来 。 股 火全 音 手
に0
目木 煙
善 身 宣
さ 男 は で れ 善 元 オ て大来
に、
シうけ
煤
対 オ ア て し シ ソ し 加 ラ バ ま 持 サ セ っ 祈 ン っ て祷
と ま い し も り る た ィ 祈 が こ タ 祷 と コ を こ を と し の 機 も て 日 15@ (15)法会に参集する。これが
-7
ll ︶
第二 きめて リヱ ー を唱え 開きを まった はオ シラ講のケースである。旧暦の三・十月十二 八日は十六善神の命日で、オシラ様を所持する 案 では、ヤドを ︵ 6 Ⅰ ︶ 集会し オ シラ講を開く。娯楽や休息の機会に恵 まれない東北地方では、この諸行事が年中でも 最 ノョン の一つであった。議員が各自の家から オシ ラサ マ を持ち寄り、祭壇に飾ったのち、イタ コ がオ シラ祭文 て 供養する。それを アソ バセルとか、オセンタク などという。そのあとで、参集の老婆たちの 希 望 をつけて 口 する。つまり オ シラサ 7 の縁日を ト してたまた ま 寄り合ったことを機縁に依頼することになるの で、口寄せは くの副次的な行事である。けれども依頼者は、 各 人の祖先を祀った オ シラサ 7 の オミチビキ で 祖 雲と語ること 式はオ シラサ 7 所持の家が部落内に少ない場合 に 多く行なわれる。 の 祭り日に神棚の奥から出してきて、イタ コ の家 に 持参し、袖下ろしののち オハ ラ イ をして貰う 様式である。この方 5 オラ 口 これには三つのケースが見られる。第一は、オシ ラ様 という 客 家に代々伝わる家の祖先神を 、そ 両所の地蔵 口 には、南部や津軽の足腰のうごく 4 タ コ という 々タコ は、全地区から悉く参集する といわれる。 津軽の今泉など、かまい 乙 前二者ほど名の知 , う れていない所を含めると、その数は栢 当 なもの になる。藩制時代に @ 巧 - は 、そうした所もかなり賑わったらしいけれど も 、今日では、恐山と川合の 両 横綱に全くお株を 奪われてしまった。
縁に 、たまたまその祖先神と目される オ シラサ ンの 祈祷をも兼ねて行なうことになったのが端緒 である。それが今日 のごとき盛況を招くにいたったわけである。 ところが、各地の イ タコマチ・ ミコョセ の発端 がそうであったと同様に、それを契機として参集 の 善男善女の要望 に 応える形で、イタ コ たちが境内に参り口寄せを 施行することになった。だから最初は乞食イタ コの 類が開業してい た 、といわれる。近来は参詣者の数がふえ 、正 式 な免許状︵これを 4 タ コ は ュルシ という︶をも つイタコ も集り、 自 然にィ タコマ チ の観を呈してきた。こうした 口 寄せもまた オ シラロと称される。 6 、その他以上のほかに、とく べ つの名称 こそないけれど、社寺の特定な縁日や祭日、さら に木尊の開帳 口 を 期して口寄せの 行 なわれることがある。前掲の 著名なもののほかにも、津軽地帯においては、 岩 木山信仰と密着して 展開する 舌 口寄せが多くみられる。たとえばそ の 山麓に鎮座する霊社の中津軽郡 赤倉 神社・大石 神社をはじめ、岩木 山神社の末社の祭日に 蛆 失する 々タコョセ など がそれにあたる。また南津軽郡尾上町の猿 仙 神社 山神社、大鰐町の大円 寺 、北津軽郡車力村の高 山 稲荷などで イタコ の ョセ 場がつくられ盛んに 口 寄せが行なわれる。 これらの社寺の多くは、ほとんどが山岳信仰など と 結合した霊験性の高いもので、かつて山伏 修 験者の行場とか、 そ の 効験のゆえに人口に 檜笑し 、近郷近在に広い 信 者圏 をもっていた。そうした霊場は、必然的に 多数の信者を惹きっ け 吸収することになろう。するとそれを 目 あて にイタコ が参集する。その イタコ の多くは、初め は 公許を与えられな いまま境内の一隅にひそやかに口寄せの場を設営 する。邪魔者扱いをうけ肩身の狭い思いを続け ているうちに次第に その効験・機能がみとめられ、やがて堂々たる 存在を自他ともに意識するようになって初めて 公 然 た石地位を硅 保す る 。そういうプロセスを辿りながら定着した ケ |スが 多い。恐山といい、 川倉 といい、いずれも 定着の当初には、 こ うした苦痛を嘗めながら成立展開への道を歩ん できたのである。 (16) 16
ロ寄 巫 俗の宗教民俗学的考察 ㈲口寄せ巫女の出張 前述の古口寄せの種類のうち、Ⅰ彼岸 口 、 2 食 口 、 3 セ 目口、の三種は、依頼者が 立 者の家へ出 向 き 、 巫 家におい て 施行される。これに対して、他の地蔵田以外の オ シラロ・イタコマ チ そのほかは、 巫 者が玉案 を はなれて会場︵ 祭 場 ︶ へ 赴き、そこで正儀を執行する。この原則 とその区別はまことに厳然と守られているよ う で ある。但し金口のば -8 ll ︶ あいには、紀州田辺地方に限ってみられるよう な 、 巫 者が依頼者の家へ出向く例外があった。 こ 材れば ついては、仏供 払柵 したい所存であるが、この一例を除くと、とに かく上述の原則はかたく守られている。 ㈲地域社会内の出張さて後考の巫者出張 の ケースのうちでは、その多くが 巫 者が自らもま た そこに居住・ す る 地域社会内に出張するという、小規模区域の形 能 一である。 東北地方の民間巫女は、全盲・半盲いずれにし ても、とにかく目の不自由な人が多い。そのため に盲 女の行動範囲 は 大きく制限される。だから特別の場合を除き、 地域社会を離れ幾日間も他所で宿泊することを 前提としての行動は 許されない。したがって大部分は宿泊滞在を予 恕 しない一日行程の出張を原則とする。依頼光か ら 道案内にくるか、 こちらから予め案内者を頼む。後考のばあいの道 案内には、狂者の家族や血縁者の頼まれること が 多いけれども、 縁 旗 のないときは、日当を出して他人を雇 う 。 そ のために払う手間賃は、収入の低い彼女らにとっ て 少ない負担ではな い 。いきおい他出、つまり出張を避ける方向へ と 傾く。どうしても止むをえない得意先のみつと めるわけである。 そ ういう 小 範囲の地域社会内への出張は、地蔵田 ・オシラロが多い。そのときは ヤド がすでにき ま っているし、万事 勝 手が知れているので、動きやすいわけである。
㈲中規模の出張イタ
コ が地域社会を越え て 地町村へ行くためにほ、宿泊を想定しなければ ならない。これは 盲人として甚だ難問題となる。よほどのことで ないと宿泊出張を決意しない。だから恐山・ 川倉 など人々の雲集が 予 Ⅰ 7本拠をおく大和 た
いうこの組織的教団の形
宗 である。 成は 、いうまでもなく戦後であるが、その淵源は 、在来の伝統的な 妙 昔黄且織こ求められる。﹁
- 。 糸 , 一 -0-2 この大和 宗は 部面ごと に 支部をもつ。その支部の配下には、かつて藩制 個の自然発生的な妙音講がっくられ、それぞれの 自治的運営によって地域社会ごとに大きな宗教 的 機能を示していた。 こうした在地組織のなかで、もっとも組織的な出 張 体制を見せているのが石巻市を中心とする オ カミン諸である。 ︵ 打 - オカミン講の出離方式につい てはすでに触れたので再説する煩を省きたいと 田 い う。概要は次のご @ すぎ ぬ 巫女が体系的な教団を組織し統制ある玉葉を展 聞 する例として忘れてならないのは、岩手県東 盤 恕 される著名な寺社の縁日・祭日を目標とする。 これは 4 タ コ にとって、いわぬ るカ キ々 レ の時 期 である。そこで 道 案内の テヒキ ︵手引︶を伴い、宿泊のための 諸 々の準備を怠りなく身仕度を整えて出かける。 た とぃ 僅かではあるけ れども、彼女らの生計の資を、いっきにこの 事 に 得ることができるという期待が 、 少なくとも 今 日 において、そうし た 決断を下す最も大きな動機の一つとなっている ようである。 津軽イタ コや 南部イタ コ が恐山へ赴くとしても、 以前はともかく、交通機関の著しく発達した 今 目 では僅か半日の 行程である。徒歩の時代でも、余裕をおいて 見 積っても数日とはかからない。しかも滞在期間は 二、三日か 、 せ いぜ -9 1 ︶ ぃセ 日間で、それを超えることはない。これに 対 し 、さらに広範囲に出張して正業ないとなむ 例 がある。それも、 そ の 出張期間を五日とか七日の短期間に限るのでは なくて、一力 月 あるいはそれ以上の長期間の出 張 となる場合も見ら れる。乙うなると、 チ 0 行動半径は著しく延長 され、 正 業の形態や機能は、前者と質的な相違を もたらさざるを得な く なろう。一種の遊行形式の萌芽ともいうべき である。こうした後考の長期出張形態は、恐山や 川 合 0 々タコマ チ の 場合とも異なるので、これだけは項を別にして 考究するだけの重要性が存すると息 う 。 ㈲出張形式から遊行形態 へ く t8) 18硝石巻市周辺にみられる 出喫 方式は
、
他の地 域 ではほとんど行なわれない。口寄せ巫女と出 張 先の部落とが、固定的 % 関係におかれる条件を除くと、恐山や川合 に おける 4 タ コョセ の、やや長期化したものとみ られよう。けれども、そは
︶︵
晴 れ ろ の 々タコ ョセが、もっぱら 舌 口寄せに 限 建 されるのに対して、この出離方式では、狭く 限られないで玉葉全般に㎎ 民 この期にいっきにことごとくの舌口寄せをす 俗 教 と くである。 石巻市およびその周辺地区在住のオカミンは 、は やくから同業者の組合を結成し、自主的に役員 を 選びかっ自治的 な ・活動をおこなっていた。その基盤となったの は 、藩政時代からの伝統的な在来組織であった オ カミン講である。 春 の 総会の席上、牡鹿半島を巡回する デ バヤシ︵ 出 灘 ︶ 組と 、 巫 家におって地域社会住民の依頼 に 応ずる ウチ バヤシ ︵内灘︶ 組 との二班に組分けする。年若い屈強な 巫女が前者のアルキミ コ となり老年者または、 有 力な ミコ は内灘 組 となって家にのころ。ここで問題となるのは、 い うまでもなく長期間の出張形式をふむ前者の ア ル キミ コ である。 その期間は 、 主としてお盆︵旧暦︶から秋彼岸 にかけての約一力 児 である。出張先の牡鹿半島内 では、個々の オカ ミンと先約があるし、また訪問の日時もほぼ固定 しているので、依頼者の部落では、その日を想 定 して準備を整えて いる。つまりオカミンの縄張りは、ながい間の慣 習 にもとづいて固定している。オカミンは道案 内の テヒキ を連れ 、 玉 具や若干の身 延 品を入れた道具箱を背負って 村 々を訪れ、あらかじめ契約してある部落の サ ド へ 落ちつく。そして そこで正業を経営する。もちろんこのときは 口 寄せのみではない。部落祈祷である 神 オロシ・ オ シラ遊ばせをはじ め 、安産を祈る エ ナ祈祷、 漁携 の農産を求める 漁 祈祷、ト占、八卦など、部落 民 のあらゆる要望 にことごとく 応ず % る 。けれども、口寄せほそこでもやはり正業 の 重要な領域を構成する。死者の新口寄せのす まない家では、何をおい 糊 てもハック チ つまり初めての口開きを依頼 す る 。また 古 ボト ケ をもつ家では、彼岸田・合口 などの区別をしないで、では、青森県から土地の人に﹁シナノ キ ︵科木︶ のカ ミサ マ ﹂とよばれる 々タコ が春先に訪れて きた。名家ごとに 招 き 入れられたアルキ 4 タ コ が奥の座敷に祭壇を づ くり御幣を立て供物をそなえることは、 巫 家に おける 々 タコの正儀 と具るところはない。ただそれを若干簡略化し ているのみである。そこで依頼者に示される ィタ コ 0 口語りは、ミノ ウエ とョ ソチカ であった。ミノ ウエ とは家族の各 人 が一年間に遭遇するであろう命運のすべてに ついて予言 ロ すること である。 病 災禍 厄に 何時頃襲われるとか、その 難渋の度合、除去の方法にまで及ぶことがある。 これに対し コ ソ チカ というのは、作柄の豊凶を予言することをいう。 家や部落が、その一年間に遭うであろう風水の 害 、晴雨の予想、 さ らに播種の時季、品種︵早生・中生・晩稲何れ が よいのか︶などについてもヒントを与える。 農 家にとってはその 生 命 にかかわる重大な事項であるから、何れの家 でも、これを白紙などに書き留めておいて、神棚 とか玄関などに貼付 ていないけれど、多くは農繁の季を避けた晩秋 から初春にかけての農閑 事 であった。その一つ 鹿 角部十和田町老馬肉 地域においては、なおかすかながら認めること ができる。 秋田県の鹿角地方は、かつて南部藩領に所属し たために、いまでも南部の 々タコ が訪れてくる。 その時期は定まっ 落を来訪するときに、彼女を家に招き入れて ロ 寄せを依頼する例は少なくない。しかしながらこ 0 例もまた、東北地 方や南西日本の巫女地帯をのぞ いた 日本列島全 域 について眺めてみると、きわめて稀有な分布を 示し、急速な衰退に - お - 見舞われたことをものがたっている。そのため 一 刊 代の遺風をうかがい知るのに困難する。ただ 前 記 巫女地帯に接する 巨 )
遊
行
形
態 地域社会の住民が 、 個々の口寄せ巫女と特定な 契約を結ぶことはないけれども、巫女が不時に 部 及んでいる。これは、あきらかに、巫女が地域 社会の地域的制約を超えて、広く他地域を遊行す る 形式へと移行する 初 ための過渡型を示すものと考えられる。その 眼 りにおいて、定型化された巫女口寄せ形態の上 か らみるときは、大き恥 な 質的変化だと判断しなければならない。口答 巫 俗の宗教民俗学的考察
註
2 1 民 七 の 口
が 評 Ⅰ 昭
文教
「調査と
笘A
臣妾
食(策問
に 俗学会
て@
よ、
僚官) 十二 編 信仰っ、
㌧ に て 々報
、四
昭和 亡 はる千 第一章 於ける 」民間と
」六
四 「 21 く 2 Ⅰ ) っているところにこの問題究明の手がかりが存す るというべきであろう。 た く、 な 一 致 や っ 持 参 が た 的 く て の 出 訴
ねて
消滅ま、|
張形す 時 式
き る 代 か た で の ら けあ 趨 畏 れ
ろ勢 期
ど入 社 襲 三 も
会
し十
否 住 た 年定 民
国来
し の 寄 はま
せ正
えな、
宗教 い 鶴 女 っ と の が た こ ま 蛭 、 く ろ 化 さ み で に ら る あ ら に れるとアな
。 づか
く た く キ な ブご も 座 っ そ の 女 た の で の と 践 め ご い 彩 ろ と ね が ぅ き れ 遮 る ね そ 行ず
し形
かて態
にこを
古 の と 荒 遊 ら0
行 ざ 記 方 る憶 式 を
@ も え 止 ま な ︵ 目什 ︶ し 、それにもとらないよう留意するという。 筆者が調査した関東の水戸市郊外でも、また 栃 木 県小山市の農村におい 力 , Ⅰ 来訪してき @ れ 2 5 。 ︶ 死者の出た家を不思議とか ぎ つけてくるので、喪家では だ。それを聞いてまた近所のものがかけうけて、 いっしょに ホトケ を下ろ 仕事となったという。依頼者が多い場合には、 ワ 力 を一晩とめて口寄せを 産か 、どこから訪れてくるのか全くわからない。 また問い乱すこともしな ても、ワカと土地の人が称するアルキ巫女 かならず座敷に上げて死者の口寄せを頼ん してもらう。そのため、結構に ワカ の一日 っ づけた。しかしこの ヮヵ がどこの所在の かった。以前はこうしたアルキ巫女の ヮカし 、同三十六年五月と同四十二年七月の二回にわたる 秋田県下、さらに昭和四十一年三、四月の宮城・岩手 の 両県下、同じ 花 く 四十一・二年の七 ? 八月に施行した青森県下の場合 ︵ 4 ︶折口信夫﹁沖縄採訪 記 ﹂︵同全集第一 - 八巻、一 0 五頁︶、野間白犬 ロわ,マの 生活 誌 沖永良部島 採 訪記 L 昭和 一セ ㏄ 年 、六七頁、 柏常 秋日神永 良 部民侍講 L 昭和二四年、 一四七 l 八頁、大藤晴彦﹁久米島見聞記﹂伝承文化、 一号、昭和三八 年、セ七 ! 八頁、下野敏晃﹁ 吐 腕巾列島民俗話・第一 巻 、悪石島・平島 め扁 L 昭和四一年、など参照のこと。 ︵ 5 ︶拙稿﹁民間 巫 俗の形態と機能﹂︵和歌森太郎 編 同陸前北部の民俗﹂昭和四四年刊行予定、所収︶参照 ︵ 6 ︶拙稿﹁津軽イタ コ の生態と機能﹂︵青森県津軽 半 円 民俗総合調査団偏向津軽半島の民俗・第一次 服 吉ヒ 昭和四一年、孔版、 所収︶八八 l 九四頁参照。のちに改稿して拙著 可 死霊 民俗学への招待 L 昭和四二年三一五 ? 四セ
艮
とくに 四三 ! 七頁参照のこと︶に収載した。 ︵ 7 ︶同様の例は青森県下や岩手県下に広く見られる ﹁神島はる子氏前掲論文三五頁の上北郡 馬門 温泉の例 、三沢市百五の注連 寺のイ タコマ チ における筆者の聞書など︶ 0 ことに 有 名 なのは下北半島恐山で、七月二十三、四日の地蔵尊 縁日を申已に 、 その一週間前から展開する地蔵会の場合についてもい える 0 ここでは、 川 倉の地蔵講のように一定の坐 席を 設けての 々タコ マチ ではなく、イタ コ の口寄せは、地蔵堂・薬師堂、 さらに霊場内の随所に展開する。けれども、その対象 一 00 日を過ぎた 古ポトケ でなくてはならないとして いる。この点、津軽・南部地方ではまったく共通してい るとみてよい ︵前掲拙著﹁死霊の誘い﹂ 一 三 f 二 二頁、参照︶。 ︵ 8 ︶青森県三沢市在郷の イ タコ、 チ 両氏より聴取した 笘 者の聞書に拠る。 ︵ 9 ︶ 堀 一郎㍉我が国民間信仰史の研究 L 昭和二八年 、第六章、 セ 0 セ @ セ二 二頁、および菅原︵早川︶ 征 子 ﹁平安末期におけ る 地蔵信仰﹂ 史潮 、九六号、昭和四一年、同﹁金肌 に おける古代仏教﹂日本歴史、二手二号、昭和四二年、 など参照。 ︵㎜︶くわしくは拙稿﹁ななくらおろし 女の口寄せ﹂群侶、昭和四二年九月号所載、のち に 拙著 コ 日本人の生 と死 L ︵岩崎美術 社 、昭和四三年︶に所収、参照。 ︵Ⅱ︶この課題の解明のためには、老残、新ロ と 舌口 との関連に注目しながわ調査し考究しなければならな 全体の構想を素描した拙稿﹁私文仁 廿 の 宇拙氏 岱山・ w. ポ粟 ﹂ 宗拍 研究、四一の 三 、昭和四三年、を参照して 頂けると幸であ る 。 ︵ ぱ ︶ 口 寄せを業とする東北地方の盲目巫女の分布 区 域が 、藩制時代の蒲 朋と 深く関係を保っている点は 、 注目しなければならない。たとえば、南部 イダコ は垣面部藩領内に、また 津軽 々ダコ は 旧 津軽藩領内に分布し、ごく最近まで、 み 統制がとられていた。これに対し オガミソ ・オガミ サ マ 0 分布区域は、市部落 と 境を接する 旧 仙台落城にひ ろがり、その 境 弄 は 、 決して泉界と一致しない。この点は秋田 イチッ コ ・イタ コ の 坤 廿も同様で、その分布は旧秋田藩領内 このように巫女の分布が旧藩 頷 の落城と一致し、それ ぞれ ごとに特色シニ 小 すことは、恐らく旧藩の瀋当局が 、 これら 自藩 域内の巫女を 、藩 ごとに統括規制したに違いなく、 そ のことが自然に 藩内 イタ コ の 巫 谷を類同ならしめ、 か つ 落城ごとの 地 域 差を際立たしめた主要な原因となったのだろうと 推 察される 0 筆者の調査においても、その証拠を示す 資 料 に遭遇した。 すなわち津軽藩や仙台 藩 では、盲僧、 盲 巫女を統制す るために専任の代官を任命し、その監督 下 に検校をお き 、さらにその 不に 惣 座頭・座頭 ガ シラなどを 選ぴ 運営にあたらしめ た ︵弘前市立図書館所蔵の津軽軒け口器日記 ヒ 台 藩は中尊寺の所管文書を参照 モ いっぽう盲僧の属する当道では、主として天台 め 亦の什 轄下 におかれたので、そうした寺院を別当や総検校に 任命して監督 させる原則をつらぬいた。たとえば津軽 藩 では津軽 市 内の天台宗報恩手を、また仙台 藩が 同じく平泉の天台々 小車導音 を、総 検校に指定し、配下の木 坊に 支配させている。この点は 、地薄における 曹 女の取り締り 万 ︵中山太郎日日不盲人 定日昭和九年、
三四年、佐 肪親雄 ﹁ 曹 支考 曹女 の 丹 E と性格につ 宗教育大学教育学部紀要第十三号、昭和四二年、など ︶とともに、今後さらに究明したい所存で井る。 ︵㍑︶八戸市在住の イ タコ、 ち照 。 ︵Ⅱ︶雑賀貞次郎﹁紀州田辺の巫女の話 一 民俗学、五 の三 、昭和八年、参照。 察 ︵ 巧 ︶その 段賑 ぶりや狂信的実況については、 マスコミの活発な紹介がなされているので触れた 但しその宗教的行市や 巫俗 考 のもつ意義について、 W 耳もまたその見聞記を宗教 民 俗学的立場か㍉素描した︵前掲拙著︶ 叶 A の誘いロ参
フ 神の性格やその成立展開の事情、また オ シラ禁や オシ ラ 講の祭祀儀礼・ 諦 行事の 民 具体 栢は つい ィ、は 日本常民文化研究所編コおしらさま 図録 ヒ 昭和一八年、柳田国男﹁大白神 考ヒ 岡元主著作 集 、第十一冊、 教 実業二日本社刊、昭和二六年、今野円鞘コ 馬娘 婚姻 譚
美術 社 刊、昭和 心下 四一年、石津 照璽 ﹁東北のおしら﹁︵東北大学東北文化 研究室編㍉紀要二 % 二 % 、昭和三六年Ⅰ 楠 正弘﹁ 下 北 地方における 巫 オ シラサ ソ 祭祀集団について二人類科学、一 セ 、昭和 三九年、同一 1 丁北の宗教﹂︵大学会連合下北調査委員 ム ム編 司 下土 寄 自然・文化・社会 L 昭和四二年所収︶ 二セ三 Ⅰ 二 八七頁、など 参昭 のこど。
︵昭和四十三年四月一日 稿了 、同六月 セ日 補訂︶ ︵ け ︶近頃では、在所で オ シラ講を設営すると 否 とに 杓 わらず、人波音 へ登 拝しオセンダク︵新調した紅絹の 布衣を着せること︶ れ をし、 アソバセ てもら ぅ 。こ う すると オ シラ様の﹁ ク ライがつく﹂とも、また﹁クライがあがる﹂ともいい 、それ 臣 誇る風 が 広まった。そのためかなりの遠方からでも、つとめ て 人波 手 に参詣しようとする傾向が高まってきた。 ︵ M@ 雑賀貞次郎﹁紀州田辺の巫女の話﹂ 宍 民俗学﹂ 五の三、昭和八年︶参照。 ︵㎎︶ 前拙拙楠 ﹁津軽イタ コ の生態と機能﹂︵青森県 津軽半島民俗総合調査団 編 ㍉津軽半島の民俗 L 昭和四 一年、所収㍉ ︵幼し他用 コ 巫女教団の近代化大和字成立の背景 ﹂日本仏教文化協会編﹁あそ か L 一九六八年陽春 号 ︵昭和四三年四月 刊 ︶参照。 ︵ れ ︶拙著㍉ 講 集団成立過程の研究 L 昭和三 セ年 、吉 川 弘文館刊、第二篇第一章第五節二、巫女の活躍と % 、参照。 ︵ 我 ︶軍者の昭和四十一年三月下旬より同四月初旬に かけての臨地調査に拠る。佐藤正 順 氏の貴重な調六円 告も 、この点を考え る 上に重要である︵同氏 稿 ﹁牡鹿半島のミコ﹂日本 民 俗学会報 セ 、昭和三四年㌔ただし 巫 俗の細部につい ては若干筆者の 見聞と異なるところがある 0 これについては 別稿で触 れたい所存である。 ︵㌍︶この稀有ななかでも、紀伊半島 は 注意しなけれ ばならない地帯である︵雑賀貞次郎氏前掲論文、 廿 ⅢⅠ 。筆者もまた、最近 この地を訪れ 南 伊勢から志摩半島に広く展開する﹁ 、、 , コ 寄せ﹂﹁ミコ参り﹂の実情を詳しく調査することがで 申 他界観 と 死霊信仰朝熊山のタケ参りとミコ寄せ ﹂参照︶。 ︵ 舛 ︶瀬川清子氏の 街 示教に拠る︵昭和四十二年二月 十二日筆者の聴取︶。瀬川氏の幼時の記憶によれば、 氏の生家においても 同様の巫 俗が 行なわれたという。同部落においては、 現在もなお実施して怠らない家が多いとのことである ︵ わ ︶水戸市郊外は昭和四十年六月、小山市内は昭和 四十一年十二月の臨地調査に拠る。
含経 おり、したがって径数を﹁ 一 三四四四﹂と数え ている︵同室 邑一 、解題三五ぺ ー ジ︶。﹂ の経の数につい
よ 分
と れ か え ば つ ば ( ・ て 椎 ま い 尾 た る 弁 そ こ 匡 の と博
阿
も労
合 判 任
新 然
で 旧 と あ 巴 す る 互 る 『 無 よ 国 録 う 訳 」 に 一 @c 、 切 も経 経
明 文 ら の 阿か
内合
部
なごL
容 ・ と 居、 を く 想 、 見 ) 、 ・ る区 も 一 分 の 三
四て
しを
、
四 お 第
一
四にz
り、
達 そ 第 し れ 四 て に にに私
ず、
河合、本
・・・コ大は
最後の 経L
の 正 註 経 誌 大 の の 一 蔵 あ 数 九 一二号
経L
( と こつ @我
間 ほ 」で
始
つ 刊 ま ぎ ) る の @ ミよ フバ ラ
を、
そ
れ
数
ぞ V.つ
経
て 」 と し と て扱
巨 Z 又 て
珊土で る よ 発表 で あ そ る
末
尾 た雑
阿含経の経の数について
三枝
充恵
(26) 26 つ に う
す か
ただ
以上の
列挙しは、さ
結果を 前回と べく 意 ったか の あ らは 新俺。 き す 如 「 弟 な 討
始
また、招くいは
3
、
遺感 j に踏 を@
3@
含
匹 @ 、
る一述も
諸 そ達
し誤
が う の討を加
実際を 司雑阿になる、
とめあ の文章 一 倉 げ な えそのいずを
れ四
る、
御 ヒ日 ネ イ @ つ 経 と た 補 て 一 -@ 。"
を行
(のそ
。
Ⅱ大摘
い 。 足 な 一 経 れ 正 ぃを
あ経で下
の " " ら番 ど Ⅲ
雑阿
)く
わす号は、
特殊 ㍉合経ヒ
「大正 場合 な 新 を で脩 除 は
大 い fca@ __の
0
旬 別
言己省 は
号 略 便
な
に
ら経 な
っ の もて 番 の
、 号 に ( の す み ぎ)をず
を示、
付 す
と し こ く て と に 示 に こ-a. (
ナ - @ で と は え ま | そ
れ
( は 四実
五 ) 用 @% は第 も よ ナ @四
り @十
: Ⅰ ん ム = 五経 重要性をおくことはできない。同様の例が 、 ︵ 八︶Ⅰ い の白河合邦一口 p. じ その他に見ら れる。㈲︵四五 経 五︶は、その番号に従えば、当然 巻 第十六の末 尾 もしくは 巻 第十 セの 冒頭すなわち︶ ふ つにあ るべきものが、㎝ 人日 ﹁大正ヒでは、 巻 第十 セの 末尾で︵四八九︶の つ ぎ ︶ は 曲に移されて、位置している。ここの 欄外の註Ⅰに よ ㌶ 雑 らは、受け容れられない。また 摂頒は 、 司雑阿 含経 ﹂ 中 ほんの 少 部分しかつけられていないので 、それに多くの 数