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『宗教研究』196号(42巻1輯)

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(1)

――目次――

論文

1,

口寄巫俗の宗教民俗学的考察:巫業を通して観た口寄せの時季について, 櫻井徳太郎, A

Religio-ethnological Study of the Female Shaman Tradition in Japan, Tokutar

ō SAKURAI, pp.1-24.

2,

雑阿含経の経の数について, 三枝充悳, On the Numbers of the Suttas in the Tsa-a-han ching,

Mitsuyoshi SAIGUSA, pp.25-49.

3,

ヒンズー社会における「Pollution コンセプト」について, 岩田啓靖, On the “Pollution Concept” in Hidu

Community, Hiroyasu IWATA, pp.49-72.

4,

神の存在の存在論的証明をめぐって:アンセルムス『プロスロギオン』第2章註釈の試み, 小山宙丸,

The Ontological Argument for the Existence of God: A Commentary on St. Anselm’s Proslogion, Chap.

Ⅱ, Chūmaru KOYAMA, pp.73-91.

書評

5,

塚本善隆著『中国仏教通史』, 鎌田茂雄, Shigeo KAMATA, pp.93-99.

(2)

日本の巫女を宗教民俗学的立場から究明する 場 合に 、どのような問題点が存するかについてはか つて若干触れたこ ︵ l 上 - とがある。その中で私は、日本の巫 俗を 、周囲 諸民族との比較において検討する必要のあること を 強調した。そして 9 % その﹁比較研究の第一歩としては、まず 何よ りも先に日本民俗学プロパーの領域で、不十分 な 点、未整理の要素を究

餅明

検討する努力がっづけられねばならない﹂ こと、つまり﹁比較研究の可能な段階に到達す るために急いでそのお 膳 ぬ 立をする必要がある﹂︵日本民俗学会編﹁日本 民俗学会報 L 四三号、二八頁︶ことを力説した。 私 じしんも、この要望に 弓 応えるため、ここ一両年は主として東北地方 に 現在する巫女の機能や伝承に注目しながら 臨 地 調査を っ づけてきた。 酪 その結果、これまで学界に提出されていた 多くの疑問点を再確認したり、新しい問題点を発 見したり、また、これら い 寄 ロ の間頭解決に関する多少の曙光が期待できる 資料に遭遇する機会にも恵まれた。それらに っ いては逐次公表して各位 ュ

し 日

1玉業を通して観た口寄せの時季につい

桜井徳太郎

日害

俗の宗教

俗学

考察

(3)

巫女が施行する口寄せの時季に一定の原則がみ, られることを指摘した研究は、管見の及ぶかぎり ではきわめて少な いように思われる。 -2 ︶その数少ない論究でも、この 点 に重要な問題の存することを強調し、その 解 明に学問的意義をみ (2) 2

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(4)

日害 巫 俗の宗教民俗学的考察 とめ、研究の価値の重要度に触れたのは、皆無 といっていいくらいに少ない。これは、研究者が 初めから巫女機能の 呪術的神秘性に魅せられたために、心霊的側面 のみを重視して、この点を見過してしまったため か 、あるいは逆にそ れを迷信的行為と断定し、それのもっ民族宗教 的 意義を軽視または無視してしまったからであろ う 。とにかくそうし た 偏った予見のままで巫女伝承の調査を行なった 方法上の弊が現われたためだ るぅと 考える。 私もまた当初は、かかる一般的予見の偏執を脱 することができなくて、相当の調査時日を無駄に してしまったこと

まことに惜しまれてならない。巫女資料 採 実 のため、東北の各地域を遍歴しているうちに、 津軽 イダコ 、南部 イ ダコ 、秋田の

々チッコ、コ

、さらに 旧 仙台藩領内の オガ ミン、オガミサ マ 、福島県下の ノリワラ 、 北 奥羽に 活躍する ゴミソ などの存在を知り、それら相互 を 比較することによって、ようやくその盲点に気 づいたのであるか ら、 深くその不明を恥じなくてはならない。 巫女の口寄せに、シンクチ︵新口︶・フルクチ︵ 舌口︶・ イ キクチ︵生口︶・シニクチ︵死口︶ と い う 区別の存する ことを知らないわけではなかったけれども、その 施行期日や実施の時季に、きわめて峻厳な規制 0 枠が設けられ、 強 固 な制禁のタブーが生きていることは知らなか った 。数次にわたる東北地方の巫女調査において 初めてその事実を知 ︵Ⅰ 3 ︶ り 大いに驚嘆した次第である。そこで、さらに この点を日本列島の各地、とくに南九州から南西 部 へと点在する トカ ラ ・奄美等の南西諸島、さらに沖縄列島の巫 俗 ほ ついて検討してみると、その地域差が歴然とし てくる。こうした 地 域 差の生じた所以を追究し、丹念に正格変化の トレースを行なうことが何よりも緊急な作業であ ると考えられる。 そこで第一には、巫女機能の今なお活発な北辺 の 東北地方と、その南端の南西諸島・沖縄地方に おいて、どのよう な 特徴がみられるかに注目しなければならない。 そして第二に、それぞれの地域に展開する 巫俗 相互の比較研究を進 ぃ めて、相互間にどのような繋がり・脈絡・系譜 が め とめられるかの分析を行なう。かくして各地 域 ごとの特質が明ら <x.

(5)

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(7)

上述の問題点に答える前に、口寄せの時季をめ ぐって展開する 巫 俗の特徴について触れ低ければ

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(8)

Ⅲ新口寄せの種類 まず新口寄せの時季については、凡そ次の 一 0 種を数えることができよう。すなわち 1 、死の当夜か翌日つまり埋葬以前の儀礼 として行なうものである。多くは通夜の行事とす るが、通夜につい ては、別に仏僧を招いて仏教式の読経世 垂 をし、 口寄せはその後で執行する。ところによっては 通夜を省き、口寄せ のみで済ませる。むしろその方式が本 伍に 叶う ち のだと考えている所も少低く低い。この例は東 北 地方 @ ﹂とげ に硅什注 前 の 北部地方から三陸沿岸の海村に分布する。 2 、埋葬日の当夜、または翌夜この例もま たオガ ミン・オガミサ マ 地帯に広く拡がっている 。しかし分布の広 さでは、 ェ にまさる。この地方では埋葬のこと を 法事といい、法事がすむと直ちに﹁忌中払い﹂ をする。その席には 仏僧が列座するが、すむと喪家と菩提寺との 関 係は四十九日の忌明けまで途絶える。そこで埋葬 のすんだ当夜または 翌日の晩に、同族・親戚・縁者・知友を招いて 盛大な口寄せをする。北部陸前地方、ことに宮城 県 本吉郡・気仙沼市 手 県東磐井郡・陸前高田面地区でもっとも盛ん である。この地方の民庶の間では、この口寄せ 供 養の済ま低いう・ 岩 ちは葬式が終った気持になれないといって 、と くに重要視する。 式は 前二者と同じである。

はほぼ前者と同じである。 ごとく三日目としなければならないとする例もあ るが、多くは東北地方の いだに、あるいは セ 口目に行なえばよい、として いろ。要するに 初セ 日域

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船内とする点において共通するものがみられる

群島の一つ沖永良部島のごとく、この日を定日 とし、この口寄せをもっ 7 (7)

(9)

て、マ ブイ ワカシ ︵死者の霊魂と訣別︶の意味とす るところも少なくない。 6 、四十九日、及びそれ以内沖縄列島など では、死後セ口ごとに ユ タを招いて供養をし、 最 後に四十九日の中 陰の日に盛大な口寄せをするところが多い。 本 土 でもこの例は少なくないのは、いうまでもなく 仏教の経説の影響を つけたためとみなされよ う 。この点については 今後の討究を必要とする。 7 、忌み明け初七日とか四十九日などと 日 を 限定しないで、忌み明けの斎忌儀礼として施行 する。そういう 例 も 少なからず存在する。 8 、 一 00 日東北地方の新口地帯では、 在 所に イタコ がいなかったり、イタ コ の都合によっ て 口寄せができ ず、 止むをえず四十九日を過ぎたばあ い には、 一 00 日日に施すという風がある。筆者の現地調 ま 中にも、宮城県石 き市の オガ ミン、佐々木 きえ 氏の所へ在郷の稲 井町 真野の K 氏一族が寄り合って、ちょうど 一 0 0 日経った死者の口 寄せを依頼している実例に遭遇した︵昭和四十一 年三月二十七日調査︶。 9 、 初 彼岸・初盆死後、死者の初めて迎え る 新盆、または 初 彼岸に行なうとする例も 、 少な い 数ではあった け れど北部陸前の旧仙台藩領内でみとめられた。 ㏄、二度の アズサ 死者の口寄せを、出棺前 0 通夜の晩または埋葬直後に施行した喪家が 、四 十九日以内にもう 一度繰り返し行な う 死者供養行事である。 アズサ とは梓弓を指す。と同時に、かって梓弓の弦を 棒 で打ち、ぶんぶん 鳴らしながら死霊の心境をかたった時代の古風 儀を表わす名称でもある。それだけに起源の古さ を 示している。愛惜 の念 措くあたわざるものに対しては、一度のロ害 せ のみで十分に意を尽くしたことにならないの であろう。遺された ものの悲嘆が募りに募って、正儀﹁二度の梓﹂を 生み出したものと推察される。 ㈲ イタコ の出張 (8) 8

(10)

口 寄生俗の宗教民俗学的考察 新口寄せの会場には、原則として喪家があてら れる。喪家の都合や巫者の個人的事情によって 、 一定の期日に開催 不可能となったばあいにのみ、喪家の一家 番族 縁者が挙って 巫 家に赴き、口寄せを依頼する。 そ れ 以外はたいてい 喪 家で行なう。 したがって東北地方でも南西諸島でも、当日 イ タコ の喪家へ出張してくる例が圧倒的に多い。 喪 家では、死者が出 ると、その訃報を旦那 寺 または親類縁者に告知 する。その際の告知人足を ッカィ とか ツゲ または ッゲト とよぶ。日中 でも提灯を掲げ、 蓑 ・ 笠 ・脛当て・ 草 韓に身を 固め、ものものしい扮装で出掛ける。そして ッゲ には必ず人足の二人 を 充てている。口寄せのための﹁イタコ 招び ﹂ も また、それと同様に行なわねばならないとして いる所が多い。立者 が 遠方のばあ い には、仝日ではタクシーとか 自 家 用車で迎えに行くが、以前は馬を牽いて行き、 その馬背にのせて 案 内 したこともあったという。イタ コ の帰路には、 かならず オクリ がつき、祭壇に飾られた供物の すべて、または口寄 せ 進行中の中休みに出るど馳走、さらに並居る 縁者の奉仕する口寄せ料が、ことどとく 巫 考への 土産となり収入とな る 。オク リ は立者の道案内とともに、土産物の 運搬役 ち果 たさなくてはならない。

㈹ナナ

クラョセ ・ 持 っこ流し 秋田県の北部と、これと境を接する青森県の南 津軽の村々では、急死者・変死者、または愛惜 す る 者の死をみたば あい、その 愛 隣の情を表現するために、特別の 口寄せを行な う 。秋田県の八郎潟周辺から北の山 本部・北秋田郡・ 鹿 角部地方にかけてはハ チョセ ・ナナ クラョセ ・ ナナ ク ラオロシといい、両津軽の村々で﹁ 舟 っこ 流し﹂という。一家 の 柱石たる地位にある人や学齢前の乳幼童 児 の 告 ゅ 病死・溺死・事故死に対しては、例外なく挙行 する。以下それをめ ぐっての 巫 俗の大要を紹介しておく。 津軽地方では、たいてい四十九日までに行なう こととなっている。まず 4 タ コ を招いて祭壇を飾 り 、霊前に数多く 9

(11)

の供 階と同数の水を供え、親戚・縁者・知友を洩 れなく招待する。手のこんだ正儀の展開次第は 省略するが、要する にイタコ に呼び出された死者の霊魂が、イタ コ 0 口を借りて招待客のすべてに話しかける趣向で ある。したがって 、 招待客の人数が多いと、夜を徹しても二日二夜 はかかる。問い ロ のすべてが終わり神送りがすむ と 、どんな深更に及 んでいても、かならずその日のうちに列席者一同 が 打ち揃って 死 皿を送る。新しくっくって霊前 に 供えておいた小型 の舟のなかに供物をおさめ、これを ホトケ のミ ャ ゲ とする。また別に藁人形を づ くり、それを 死 ふ だ ホトケ 当人だと 称して、その舟に乗せる。そうして参会者のう ち 縁の濃い者がそれを 担ふ 。他のものは野辺送り の会葬者のごとく 舟 の後尾に連なり、海村の部落なら浜辺の波打際 まで、また内陸山間の村なら川端まで行き、そこ から 海 または 川へ流 す 。あたかも送り盆の精霊流しに匹敵する風景 である。﹁ 持 っこ流し﹂の称の起こってきた淵源 は、 実にここに存す るものと考えられる。 同様の方式は、津軽地方と境を接する秋田県の

郡 で、それをハ チ ョセ というのは、造花で美しく 祭 M. を飾るところ からみて、﹁ 花 寄せ﹂の意であろう。平安貴族 が 極楽浄土を現世に 再現し、そのなかで往生を遂げることを望み、 居 室を蓮華の造花で飾り、阿弥陀如来像の五指と 自分の手とを五色の 余 で結びながら死んでいった 状温を街佛 たらし めるものがある。けれどもハ チョセ の風儀が 、王 朝 時代の西方往生観 と 結びつくかどうかは、そう筒型 に 断定できな い 。もちろん、東北地方へ浄土教が伝来したのは 、そんなに古い時代 でない。したがって、どうみても浄土教の直接的 影響を容認する材料は発見できそ う もない。 そ の 限りにおいて、 ハ ナョセ 行事における仏教的要索の付加影響をあ まり強調するわけにいかない。ただし、この地方 にも、かなり古くか ら 観音信仰・地蔵信仰の伝播が行なわれ、その 影響を示す仏教文化の扶植がみられたから、この 方面からの追求にも ︵ 9 ︶ 持続的努力をはらわねばならないであろう。 (10) 10

(12)

口 寄文俗の宗教民俗学的考察 このハ チョセ をいっそう大規模にしたのがナナ ク ラョセ 、またナナ ク ラオロシである。その正儀 は、 ハ チョセ の場 合 と大同小異であるけれども、遺族や縁者が 巫 て 米銭の喜捨をづけるところに様式上の連いが 見 儀を催す前に、近郷近在の セヵ 町村を行脚托鉢 し られる。そしてその喜捨をもとでに巫女を招き 、戸 ごとに門付けし 、 ナナ クラ ︵ セ座 ︶ の 祭壇を づ くり、口寄せをする。この正儀 を ナナ クラ ョセまたはナナ ク ラオロシ と 称するのは、 このためであろう。 口寄せが終ると、小型の木造船に供物や 、ホト ケに 象った人形を入れて、 海 または川に流す。 参 会者一同が念仏を唱 えながら送って行く風も、また﹁ 舟 っこ流し﹂と ㈹新口寄せの時季の異同 さて以上みてきたように、新口寄せの全く行な われない津軽地方であっても、その南部にゆ く に つれて、とくに 秋 田 県と境を接する地域に、その特殊形態として の ﹁ 舟 っこ流し﹂が盛んに執行されること、また その接触地帯の秋田 県北部で、様式の上から同系統とみなされる ハ ナョセ ・ナナ ク ラオロシが催されるということ、 これはどういうわけ であろうか。いずれにしても、それが新口寄せで あるからという理由でもって、これを オガ ミン 地帯︵ 旧仙 ムコ藩領内 に 顕著︶や南島諸地域のネーシ やユ タの新口 寄 せと同一視すること、そして両者を無媒介に結び つけることは、早計 に 過ぎると考えられる, しかしながら、とにかく新口寄せ類似の方式が 、 常人の死ではなくして変死者や急死者などの 里 一 常態に限って適用 されていることの意味は何なのであろうか。 大 いに考えさせられる。証明資料の十分に出揃って いない現段階では、 いそいで結論を下すことに 跡蹄 せざるを得ない。 早急な断定を避けねばならないことはいうまで もないが、いちおう の 予見を立ててみることも場合によっては必要で ある。そうした目性をあえておかすとしたらど う いうことがいえる㎝ であろうか。

(13)

て 津軽地区を中心 津軽地方では、 ﹁ホト ケ を供養す とは何処も同じで で、それぞれに っ もちろん、 ホト に 眺めてみることにする。 一般に古口寄せのことを﹁口開き﹂といい古国 と はよ ばない。北部津軽地方では、 古 ボト ケと か る ﹂というのみである。口寄せの対象たる死者 の 霊を、死後一 00 日を過ぎた ホトケ に限定する あるが、それを彼岸 口 、金日、ナノ カ ︵七日盆︶ 口 、地蔵田、オシラロなどと称する場合がある い て検討を加えてみたい。 ケの 供養を丁寧に行なうか否かによって 、 家によ り 、また地域により、口寄せの回数に差異が出 て ︵ つし l 人 ︶ 併存地域の旧 仙 ムロ藩領がクローズアップされる。 本稿では百口寄せの時季をめぐって展開する 巫 俗 の問題 を、 主とし く Ⅰ 2) 12 ま し や そ れ そ れ た

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低いといっていいほど稀有である。その 僅 かな例が、北津軽郡内の漁村の ニ、 三の部落で みられた。農村 郡

・五所川原市などの都市でもない。ただし、 弘 前 市内の寺院が密集する㈹

て 墓参の人々に口寄せの依頼を請い、米銭の士 & ロ 捨を仰ぐ風景に接するこ cJ

えてきた。けれども、そうだからといって

秋口はいけ低いというわけでは低いこと、もち

ろんである。

県の南部地方、とくに八戸市内の寺院で盆

餓鬼会を催す際に

集る

、これをまったく行な

くる。丁寧な所では年に何回も繰り返すけれど も 、簡単な家 性差はこのように歴然と表われてくる。それに も拘 わらず、 べきだとしている。そしてその任務は、主婦に課 せられてい に 一回の仏下ろしは欠かさない。私の調査期間 中でも、それ 女性に少なからず遭遇した。 Ⅲ苦口寄せの種類 Ⅰ、彼岸田春秋の彼岸の期間内に限って 口 寄せをする 秋口という。この型式の古口寄せ、つまり彼岸 口の分布区域 断 させる気持を起こさせるほどである。ただし、 どちらかと 忙 をきめ ぬ ない う ちの春日がさかんである。 と くに春の訪れ 迎えることとなるので、やがて到来する農繁 季 直前の春田 に のように稲の刈入れ収穫の季節がはやくなると、 その時季が では一回限りで終りとする。その地域差や家風に よる 個 たいていの家では、少なくとも年に一回は口寄せ を 頼む る 。したがって家の主婦としては、どんなに 多 忙でも 年 をしないと肩の荷がおりたような感じがしない と訴える 側 である。 春 彼岸のばあいを春日といい、秋波 岸の際を がもっとも広いので、この方式 が 、舌口の正統 型 だと 判 いうと、 春 彼岸がもっぱらで、理事や山仕事がさ ほど 繁 の 遅 い 東北地方では、まだ消えない雪のなかで 春 彼岸を 、口寄せを依頼する例が圧倒的に多い。秋彼岸 は 、最近 ちょうど農繁幸と合致するため秋口を避ける 農 村部 がふ

(15)

とはある。しかし、いうまでもなくこれは正統 的 イタコ本来の姿で低い。 民間巫女が盆に口寄せをする方式で、最も古型 を 存している例が、和歌山県田辺地方にみられた 。ここでは、他の ︵ 4- Ⅰ 地方で盆の祖霊を提灯や門火で送り迎えすると きに、それとは別に巫女を招いて﹁ 仏 迎え・低速 り ﹂をするという。 これはまことに貴重な報告で、若しも祖霊の送迎 に 巫女が中心的役割を果たしたとすると、それ は 、仏教伝来以前の 民族的祖霊崇拝形態の珍らしい残存であるとい, っ べきであろう。この点は、今後検討しなければ ならない重要課題で あると考える。 3 、セ

目口蓋

肩 の セ日 、いわぬ る ナノ ヵビ に口寄せを行な う 例が若干ある。 北 津軽の漁村で 、溺死者や無縁者 の 供養を七日日に催すときに、イタ コ に頼んで 死 者の口寄せを施行する。あるいは、この日 墓掃 除 をすませ、心身 清 浄 となった老婆たちが、イタ コ を招いたり、 み ずから ィタコ の所へ出かけて口寄せを依頼する。 また青森県八戸市 辺 では、 セ 目蓋 に 、イタ コ が集って口寄せするの を 4 タ コョセ といった︵岩崎敏夫﹁村の神々 L 昭和 四三年、岩崎美術 社刊 二八頁︶。何れも、イタ コ の口寄せ日を七日とし たのには、とく べ つの理由はなく、たんに セ 日食 を 機縁に行なった と しか判断できない。けれども、それをことさら にセ 目口とよんでいるのは、盆における セ 日日の 口寄せがかって一 つ の方式として存在したことを示してはいないだ る うか。後考に譲りたい。 4 、地蔵田東北地方における民庶の地蔵宿 仰 はまことに強烈である。どんな部落に入っても ぬ 廟堂の見られな い 所はない。したがって年輩の婦人・老婆による 地蔵講行事はさかんである。その 雨 横綱株が 、 下北半島恐山の セ月 廿 三、四日︵現在は新暦で行なうが、以前は旧の六 月 二十三、四日を縁日とした︶の地蔵会と、 旧 六月 廿 三、四日の津軽金 大町で催される川合地蔵尊の例祭であろう。 両 方 とも当日は近郷近在はおろか、東北各県下、遠 く 北海道や東京・ 大 阪からも参加する講中がある。そのときに開か れる イ タコマ チ を地蔵 ロ とよぶ。いうまでもなく その他にも、南部の

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法会に参集する。これが

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第二 きめて リヱ ー を唱え 開きを まった はオ シラ講のケースである。旧暦の三・十月十二 八日は十六善神の命日で、オシラ様を所持する 案 では、ヤドを ︵ 6 Ⅰ ︶ 集会し オ シラ講を開く。娯楽や休息の機会に恵 まれない東北地方では、この諸行事が年中でも 最 ノョン の一つであった。議員が各自の家から オシ ラサ マ を持ち寄り、祭壇に飾ったのち、イタ コ がオ シラ祭文 て 供養する。それを アソ バセルとか、オセンタク などという。そのあとで、参集の老婆たちの 希 望 をつけて 口 する。つまり オ シラサ 7 の縁日を ト してたまた ま 寄り合ったことを機縁に依頼することになるの で、口寄せは くの副次的な行事である。けれども依頼者は、 各 人の祖先を祀った オ シラサ 7 の オミチビキ で 祖 雲と語ること 式はオ シラサ 7 所持の家が部落内に少ない場合 に 多く行なわれる。 の 祭り日に神棚の奥から出してきて、イタ コ の家 に 持参し、袖下ろしののち オハ ラ イ をして貰う 様式である。この方 5 オ

ラ 口 これには三つのケースが見られる。第一は、オシ ラ様 という 客 家に代々伝わる家の祖先神を 、そ 両所の地蔵 口 には、南部や津軽の足腰のうごく 4 タ コ という 々タコ は、全地区から悉く参集する といわれる。 津軽の今泉など、かまい 乙 前二者ほど名の知 , う れていない所を含めると、その数は栢 当 なもの になる。藩制時代に @ 巧 - は 、そうした所もかなり賑わったらしいけれど も 、今日では、恐山と川合の 両 横綱に全くお株を 奪われてしまった。

(17)

縁に 、たまたまその祖先神と目される オ シラサ ンの 祈祷をも兼ねて行なうことになったのが端緒 である。それが今日 のごとき盛況を招くにいたったわけである。 ところが、各地の イ タコマチ・ ミコョセ の発端 がそうであったと同様に、それを契機として参集 の 善男善女の要望 に 応える形で、イタ コ たちが境内に参り口寄せを 施行することになった。だから最初は乞食イタ コの 類が開業してい た 、といわれる。近来は参詣者の数がふえ 、正 式 な免許状︵これを 4 タ コ は ュルシ という︶をも つイタコ も集り、 自 然にィ タコマ チ の観を呈してきた。こうした 口 寄せもまた オ シラロと称される。 6 、その他以上のほかに、とく べ つの名称 こそないけれど、社寺の特定な縁日や祭日、さら に木尊の開帳 口 を 期して口寄せの 行 なわれることがある。前掲の 著名なもののほかにも、津軽地帯においては、 岩 木山信仰と密着して 展開する 舌 口寄せが多くみられる。たとえばそ の 山麓に鎮座する霊社の中津軽郡 赤倉 神社・大石 神社をはじめ、岩木 山神社の末社の祭日に 蛆 失する 々タコョセ など がそれにあたる。また南津軽郡尾上町の猿 仙 神社 山神社、大鰐町の大円 寺 、北津軽郡車力村の高 山 稲荷などで イタコ の ョセ 場がつくられ盛んに 口 寄せが行なわれる。 これらの社寺の多くは、ほとんどが山岳信仰など と 結合した霊験性の高いもので、かつて山伏 修 験者の行場とか、 そ の 効験のゆえに人口に 檜笑し 、近郷近在に広い 信 者圏 をもっていた。そうした霊場は、必然的に 多数の信者を惹きっ け 吸収することになろう。するとそれを 目 あて にイタコ が参集する。その イタコ の多くは、初め は 公許を与えられな いまま境内の一隅にひそやかに口寄せの場を設営 する。邪魔者扱いをうけ肩身の狭い思いを続け ているうちに次第に その効験・機能がみとめられ、やがて堂々たる 存在を自他ともに意識するようになって初めて 公 然 た石地位を硅 保す る 。そういうプロセスを辿りながら定着した ケ |スが 多い。恐山といい、 川倉 といい、いずれも 定着の当初には、 こ うした苦痛を嘗めながら成立展開への道を歩ん できたのである。 (16) 16

(18)

ロ寄 巫 俗の宗教民俗学的考察 ㈲口寄せ巫女の出張 前述の古口寄せの種類のうち、Ⅰ彼岸 口 、 2 食 口 、 3 セ 目口、の三種は、依頼者が 立 者の家へ出 向 き 、 巫 家におい て 施行される。これに対して、他の地蔵田以外の オ シラロ・イタコマ チ そのほかは、 巫 者が玉案 を はなれて会場︵ 祭 場 ︶ へ 赴き、そこで正儀を執行する。この原則 とその区別はまことに厳然と守られているよ う で ある。但し金口のば -8 ll ︶ あいには、紀州田辺地方に限ってみられるよう な 、 巫 者が依頼者の家へ出向く例外があった。 こ 材れば ついては、仏供 払柵 したい所存であるが、この一例を除くと、とに かく上述の原則はかたく守られている。 ㈲地域社会内の出張さて後考の巫者出張 の ケースのうちでは、その多くが 巫 者が自らもま た そこに居住・ す る 地域社会内に出張するという、小規模区域の形 能 一である。 東北地方の民間巫女は、全盲・半盲いずれにし ても、とにかく目の不自由な人が多い。そのため に盲 女の行動範囲 は 大きく制限される。だから特別の場合を除き、 地域社会を離れ幾日間も他所で宿泊することを 前提としての行動は 許されない。したがって大部分は宿泊滞在を予 恕 しない一日行程の出張を原則とする。依頼光か ら 道案内にくるか、 こちらから予め案内者を頼む。後考のばあいの道 案内には、狂者の家族や血縁者の頼まれること が 多いけれども、 縁 旗 のないときは、日当を出して他人を雇 う 。 そ のために払う手間賃は、収入の低い彼女らにとっ て 少ない負担ではな い 。いきおい他出、つまり出張を避ける方向へ と 傾く。どうしても止むをえない得意先のみつと めるわけである。 そ ういう 小 範囲の地域社会内への出張は、地蔵田 ・オシラロが多い。そのときは ヤド がすでにき ま っているし、万事 勝 手が知れているので、動きやすいわけである。

㈲中規模の出張イタ

コ が地域社会を越え て 地町村へ行くためにほ、宿泊を想定しなければ ならない。これは 盲人として甚だ難問題となる。よほどのことで ないと宿泊出張を決意しない。だから恐山・ 川倉 など人々の雲集が 予 Ⅰ 7

(19)

本拠をおく大和 た

いうこの組織的教団の形

宗 である。 成は 、いうまでもなく戦後であるが、その淵源は 、在来の伝統的な 妙 昔黄且織こ

求められる。﹁

- 。 糸 , 一 -0-2 この大和 宗は 部面ごと に 支部をもつ。その支部の配下には、かつて藩制 個の自然発生的な妙音講がっくられ、それぞれの 自治的運営によって地域社会ごとに大きな宗教 的 機能を示していた。 こうした在地組織のなかで、もっとも組織的な出 張 体制を見せているのが石巻市を中心とする オ カミン諸である。 ︵ 打 - オカミン講の出離方式につい てはすでに触れたので再説する煩を省きたいと 田 い う。概要は次のご @ すぎ ぬ 巫女が体系的な教団を組織し統制ある玉葉を展 聞 する例として忘れてならないのは、岩手県東 盤 恕 される著名な寺社の縁日・祭日を目標とする。 これは 4 タ コ にとって、いわぬ るカ キ々 レ の時 期 である。そこで 道 案内の テヒキ ︵手引︶を伴い、宿泊のための 諸 々の準備を怠りなく身仕度を整えて出かける。 た とぃ 僅かではあるけ れども、彼女らの生計の資を、いっきにこの 事 に 得ることができるという期待が 、 少なくとも 今 日 において、そうし た 決断を下す最も大きな動機の一つとなっている ようである。 津軽イタ コや 南部イタ コ が恐山へ赴くとしても、 以前はともかく、交通機関の著しく発達した 今 目 では僅か半日の 行程である。徒歩の時代でも、余裕をおいて 見 積っても数日とはかからない。しかも滞在期間は 二、三日か 、 せ いぜ -9 1 ︶ ぃセ 日間で、それを超えることはない。これに 対 し 、さらに広範囲に出張して正業ないとなむ 例 がある。それも、 そ の 出張期間を五日とか七日の短期間に限るのでは なくて、一力 月 あるいはそれ以上の長期間の出 張 となる場合も見ら れる。乙うなると、 チ 0 行動半径は著しく延長 され、 正 業の形態や機能は、前者と質的な相違を もたらさざるを得な く なろう。一種の遊行形式の萌芽ともいうべき である。こうした後考の長期出張形態は、恐山や 川 合 0 々タコマ チ の 場合とも異なるので、これだけは項を別にして 考究するだけの重要性が存すると息 う 。 ㈲出張形式から遊行形態 へ く t8) 18

(20)

硝石巻市周辺にみられる 出喫 方式は

他の地 域 ではほとんど行なわれない。口寄せ巫女と出 張 先の部落とが、固定的 % 関係におかれる条件を除くと、恐山や川合 に おける 4 タ コョセ の、やや長期化したものとみ られよう。けれども、

そは

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晴 れ ろ の 々タコ ョセが、もっぱら 舌 口寄せに 限 建 されるのに対して、この出離方式では、狭く 限られないで玉葉全般に㎎ 民 この期にいっきにことごとくの舌口寄せをす 俗 教 と くである。 石巻市およびその周辺地区在住のオカミンは 、は やくから同業者の組合を結成し、自主的に役員 を 選びかっ自治的 な ・活動をおこなっていた。その基盤となったの は 、藩政時代からの伝統的な在来組織であった オ カミン講である。 春 の 総会の席上、牡鹿半島を巡回する デ バヤシ︵ 出 灘 ︶ 組と 、 巫 家におって地域社会住民の依頼 に 応ずる ウチ バヤシ ︵内灘︶ 組 との二班に組分けする。年若い屈強な 巫女が前者のアルキミ コ となり老年者または、 有 力な ミコ は内灘 組 となって家にのころ。ここで問題となるのは、 い うまでもなく長期間の出張形式をふむ前者の ア ル キミ コ である。 その期間は 、 主としてお盆︵旧暦︶から秋彼岸 にかけての約一力 児 である。出張先の牡鹿半島内 では、個々の オカ ミンと先約があるし、また訪問の日時もほぼ固定 しているので、依頼者の部落では、その日を想 定 して準備を整えて いる。つまりオカミンの縄張りは、ながい間の慣 習 にもとづいて固定している。オカミンは道案 内の テヒキ を連れ 、 玉 具や若干の身 延 品を入れた道具箱を背負って 村 々を訪れ、あらかじめ契約してある部落の サ ド へ 落ちつく。そして そこで正業を経営する。もちろんこのときは 口 寄せのみではない。部落祈祷である 神 オロシ・ オ シラ遊ばせをはじ め 、安産を祈る エ ナ祈祷、 漁携 の農産を求める 漁 祈祷、ト占、八卦など、部落 民 のあらゆる要望 にことごとく 応ず % る 。けれども、口寄せほそこでもやはり正業 の 重要な領域を構成する。死者の新口寄せのす まない家では、何をおい 糊 てもハック チ つまり初めての口開きを依頼 す る 。また 古 ボト ケ をもつ家では、彼岸田・合口 などの区別をしないで、

(21)

では、青森県から土地の人に﹁シナノ キ ︵科木︶ のカ ミサ マ ﹂とよばれる 々タコ が春先に訪れて きた。名家ごとに 招 き 入れられたアルキ 4 タ コ が奥の座敷に祭壇を づ くり御幣を立て供物をそなえることは、 巫 家に おける 々 タコの正儀 と具るところはない。ただそれを若干簡略化し ているのみである。そこで依頼者に示される ィタ コ 0 口語りは、ミノ ウエ とョ ソチカ であった。ミノ ウエ とは家族の各 人 が一年間に遭遇するであろう命運のすべてに ついて予言 ロ すること である。 病 災禍 厄に 何時頃襲われるとか、その 難渋の度合、除去の方法にまで及ぶことがある。 これに対し コ ソ チカ というのは、作柄の豊凶を予言することをいう。 家や部落が、その一年間に遭うであろう風水の 害 、晴雨の予想、 さ らに播種の時季、品種︵早生・中生・晩稲何れ が よいのか︶などについてもヒントを与える。 農 家にとってはその 生 命 にかかわる重大な事項であるから、何れの家 でも、これを白紙などに書き留めておいて、神棚 とか玄関などに貼付 ていないけれど、多くは農繁の季を避けた晩秋 から初春にかけての農閑 事 であった。その一つ 鹿 角部十和田町老馬肉 地域においては、なおかすかながら認めること ができる。 秋田県の鹿角地方は、かつて南部藩領に所属し たために、いまでも南部の 々タコ が訪れてくる。 その時期は定まっ 落を来訪するときに、彼女を家に招き入れて ロ 寄せを依頼する例は少なくない。しかしながらこ 0 例もまた、東北地 方や南西日本の巫女地帯をのぞ いた 日本列島全 域 について眺めてみると、きわめて稀有な分布を 示し、急速な衰退に - お - 見舞われたことをものがたっている。そのため 一 刊 代の遺風をうかがい知るのに困難する。ただ 前 記 巫女地帯に接する 巨 )

態 地域社会の住民が 、 個々の口寄せ巫女と特定な 契約を結ぶことはないけれども、巫女が不時に 部 及んでいる。これは、あきらかに、巫女が地域 社会の地域的制約を超えて、広く他地域を遊行す る 形式へと移行する 初 ための過渡型を示すものと考えられる。その 眼 りにおいて、定型化された巫女口寄せ形態の上 か らみるときは、大き恥 な 質的変化だと判断しなければならない。

(22)

口答 巫 俗の宗教民俗学的考察

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@ も え 止 ま な ︵ 目什 ︶ し 、それにもとらないよう留意するという。 筆者が調査した関東の水戸市郊外でも、また 栃 木 県小山市の農村におい 力 , Ⅰ 来訪してき @ れ 2 5 。 ︶ 死者の出た家を不思議とか ぎ つけてくるので、喪家では だ。それを聞いてまた近所のものがかけうけて、 いっしょに ホトケ を下ろ 仕事となったという。依頼者が多い場合には、 ワ 力 を一晩とめて口寄せを 産か 、どこから訪れてくるのか全くわからない。 また問い乱すこともしな ても、ワカと土地の人が称するアルキ巫女 かならず座敷に上げて死者の口寄せを頼ん してもらう。そのため、結構に ワカ の一日 っ づけた。しかしこの ヮヵ がどこの所在の かった。以前はこうしたアルキ巫女の ヮカ

(23)

し 、同三十六年五月と同四十二年七月の二回にわたる 秋田県下、さらに昭和四十一年三、四月の宮城・岩手 の 両県下、同じ 花 く 四十一・二年の七 ? 八月に施行した青森県下の場合 ︵ 4 ︶折口信夫﹁沖縄採訪 記 ﹂︵同全集第一 - 八巻、一 0 五頁︶、野間白犬 ロわ,マの 生活 誌 沖永良部島 採 訪記 L 昭和 一セ ㏄ 年 、六七頁、 柏常 秋日神永 良 部民侍講 L 昭和二四年、 一四七 l 八頁、大藤晴彦﹁久米島見聞記﹂伝承文化、 一号、昭和三八 年、セ七 ! 八頁、下野敏晃﹁ 吐 腕巾列島民俗話・第一 巻 、悪石島・平島 め扁 L 昭和四一年、など参照のこと。 ︵ 5 ︶拙稿﹁民間 巫 俗の形態と機能﹂︵和歌森太郎 編 同陸前北部の民俗﹂昭和四四年刊行予定、所収︶参照 ︵ 6 ︶拙稿﹁津軽イタ コ の生態と機能﹂︵青森県津軽 半 円 民俗総合調査団偏向津軽半島の民俗・第一次 服 吉ヒ 昭和四一年、孔版、 所収︶八八 l 九四頁参照。のちに改稿して拙著 可 死霊 民俗学への招待 L 昭和四二年三一五 ? 四セ

とくに 四三 ! 七頁参照のこと︶に収載した。 ︵ 7 ︶同様の例は青森県下や岩手県下に広く見られる ﹁神島はる子氏前掲論文三五頁の上北郡 馬門 温泉の例 、三沢市百五の注連 寺のイ タコマ チ における筆者の聞書など︶ 0 ことに 有 名 なのは下北半島恐山で、七月二十三、四日の地蔵尊 縁日を申已に 、 その一週間前から展開する地蔵会の場合についてもい える 0 ここでは、 川 倉の地蔵講のように一定の坐 席を 設けての 々タコ マチ ではなく、イタ コ の口寄せは、地蔵堂・薬師堂、 さらに霊場内の随所に展開する。けれども、その対象 一 00 日を過ぎた 古ポトケ でなくてはならないとして いる。この点、津軽・南部地方ではまったく共通してい るとみてよい ︵前掲拙著﹁死霊の誘い﹂ 一 三 f 二 二頁、参照︶。 ︵ 8 ︶青森県三沢市在郷の イ タコ、 チ 両氏より聴取した 笘 者の聞書に拠る。 ︵ 9 ︶ 堀 一郎㍉我が国民間信仰史の研究 L 昭和二八年 、第六章、 セ 0 セ @ セ二 二頁、および菅原︵早川︶ 征 子 ﹁平安末期におけ る 地蔵信仰﹂ 史潮 、九六号、昭和四一年、同﹁金肌 に おける古代仏教﹂日本歴史、二手二号、昭和四二年、 など参照。 ︵㎜︶くわしくは拙稿﹁ななくらおろし 女の口寄せ﹂群侶、昭和四二年九月号所載、のち に 拙著 コ 日本人の生 と死 L ︵岩崎美術 社 、昭和四三年︶に所収、参照。 ︵Ⅱ︶この課題の解明のためには、老残、新ロ と 舌口 との関連に注目しながわ調査し考究しなければならな 全体の構想を素描した拙稿﹁私文仁 廿 の 宇拙氏 岱山・ w. ポ粟 ﹂ 宗拍 研究、四一の 三 、昭和四三年、を参照して 頂けると幸であ る 。 ︵ ぱ ︶ 口 寄せを業とする東北地方の盲目巫女の分布 区 域が 、藩制時代の蒲 朋と 深く関係を保っている点は 、 注目しなければなら

(24)

ない。たとえば、南部 イダコ は垣面部藩領内に、また 津軽 々ダコ は 旧 津軽藩領内に分布し、ごく最近まで、 み 統制がとられていた。これに対し オガミソ ・オガミ サ マ 0 分布区域は、市部落 と 境を接する 旧 仙台落城にひ ろがり、その 境 弄 は 、 決して泉界と一致しない。この点は秋田 イチッ コ ・イタ コ の 坤 廿も同様で、その分布は旧秋田藩領内 このように巫女の分布が旧藩 頷 の落城と一致し、それ ぞれ ごとに特色シニ 小 すことは、恐らく旧藩の瀋当局が 、 これら 自藩 域内の巫女を 、藩 ごとに統括規制したに違いなく、 そ のことが自然に 藩内 イタ コ の 巫 谷を類同ならしめ、 か つ 落城ごとの 地 域 差を際立たしめた主要な原因となったのだろうと 推 察される 0 筆者の調査においても、その証拠を示す 資 料 に遭遇した。 すなわち津軽藩や仙台 藩 では、盲僧、 盲 巫女を統制す るために専任の代官を任命し、その監督 下 に検校をお き 、さらにその 不に 惣 座頭・座頭 ガ シラなどを 選ぴ 運営にあたらしめ た ︵弘前市立図書館所蔵の津軽軒け口器日記 ヒ 台 藩は中尊寺の所管文書を参照 モ いっぽう盲僧の属する当道では、主として天台 め 亦の什 轄下 におかれたので、そうした寺院を別当や総検校に 任命して監督 させる原則をつらぬいた。たとえば津軽 藩 では津軽 市 内の天台宗報恩手を、また仙台 藩が 同じく平泉の天台々 小車導音 を、総 検校に指定し、配下の木 坊に 支配させている。この点は 、地薄における 曹 女の取り締り 万 ︵中山太郎日日不盲人 定日昭和九年、

三四年、佐 肪親雄 ﹁ 曹 支考 曹女 の 丹 E と性格につ 宗教育大学教育学部紀要第十三号、昭和四二年、など ︶とともに、今後さらに究明したい所存で井る。 ︵㍑︶八戸市在住の イ タコ、 ち照 。 ︵Ⅱ︶雑賀貞次郎﹁紀州田辺の巫女の話 一 民俗学、五 の三 、昭和八年、参照。 察 ︵ 巧 ︶その 段賑 ぶりや狂信的実況については、 マスコミの活発な紹介がなされているので触れた 但しその宗教的行市や 巫俗 考 のもつ意義について、 W 耳もまたその見聞記を宗教 民 俗学的立場か㍉素描した︵前掲拙著︶ 叶 A の誘いロ参

フ 神の性格やその成立展開の事情、また オ シラ禁や オシ ラ 講の祭祀儀礼・ 諦 行事の 民 具体 栢は つい ィ、は 日本常民文化研究所編コおしらさま 図録 ヒ 昭和一八年、柳田国男﹁大白神 考ヒ 岡元主著作 集 、第十一冊、 教 実業二日本社刊、昭和二六年、今野円鞘コ 馬娘 婚姻 譚

美術 社 刊、昭和 心下 四一年、石津 照璽 ﹁東北のおしら﹁︵東北大学東北文化 研究室編㍉紀要二 % 二 % 、昭和三六年Ⅰ 楠 正弘﹁ 下 北 地方における 巫 オ シラサ ソ 祭祀集団について二人類科学、一 セ 、昭和 三九年、同一 1 丁北の宗教﹂︵大学会連合下北調査委員 ム ム編 司 下土 寄 自然・文化・社会 L 昭和四二年所収︶ 二セ三 Ⅰ 二 八七頁、など 参昭 のこど。

(25)

︵昭和四十三年四月一日 稿了 、同六月 セ日 補訂︶ ︵ け ︶近頃では、在所で オ シラ講を設営すると 否 とに 杓 わらず、人波音 へ登 拝しオセンダク︵新調した紅絹の 布衣を着せること︶ れ をし、 アソバセ てもら ぅ 。こ う すると オ シラ様の﹁ ク ライがつく﹂とも、また﹁クライがあがる﹂ともいい 、それ 臣 誇る風 が 広まった。そのためかなりの遠方からでも、つとめ て 人波 手 に参詣しようとする傾向が高まってきた。 ︵ M@ 雑賀貞次郎﹁紀州田辺の巫女の話﹂ 宍 民俗学﹂ 五の三、昭和八年︶参照。 ︵㎎︶ 前拙拙楠 ﹁津軽イタ コ の生態と機能﹂︵青森県 津軽半島民俗総合調査団 編 ㍉津軽半島の民俗 L 昭和四 一年、所収㍉ ︵幼し他用 コ 巫女教団の近代化大和字成立の背景 ﹂日本仏教文化協会編﹁あそ か L 一九六八年陽春 号 ︵昭和四三年四月 刊 ︶参照。 ︵ れ ︶拙著㍉ 講 集団成立過程の研究 L 昭和三 セ年 、吉 川 弘文館刊、第二篇第一章第五節二、巫女の活躍と % 、参照。 ︵ 我 ︶軍者の昭和四十一年三月下旬より同四月初旬に かけての臨地調査に拠る。佐藤正 順 氏の貴重な調六円 告も 、この点を考え る 上に重要である︵同氏 稿 ﹁牡鹿半島のミコ﹂日本 民 俗学会報 セ 、昭和三四年㌔ただし 巫 俗の細部につい ては若干筆者の 見聞と異なるところがある 0 これについては 別稿で触 れたい所存である。 ︵㌍︶この稀有ななかでも、紀伊半島 は 注意しなけれ ばならない地帯である︵雑賀貞次郎氏前掲論文、 廿 ⅢⅠ 。筆者もまた、最近 この地を訪れ 南 伊勢から志摩半島に広く展開する﹁ 、、 , コ 寄せ﹂﹁ミコ参り﹂の実情を詳しく調査することがで 申 他界観 と 死霊信仰朝熊山のタケ参りとミコ寄せ ﹂参照︶。 ︵ 舛 ︶瀬川清子氏の 街 示教に拠る︵昭和四十二年二月 十二日筆者の聴取︶。瀬川氏の幼時の記憶によれば、 氏の生家においても 同様の巫 俗が 行なわれたという。同部落においては、 現在もなお実施して怠らない家が多いとのことである ︵ わ ︶水戸市郊外は昭和四十年六月、小山市内は昭和 四十一年十二月の臨地調査に拠る。

(26)

含経 おり、したがって径数を﹁ 一 三四四四﹂と数え ている︵同室 邑一 、解題三五ぺ ー ジ︶。﹂ の経の数につい

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大 い fca@ __

0

旬 別

言己

省 は

号 略 便

経 な

っ の も

て 番 の

、 号 に ( の す み ぎ

)をず

を示、

付 す

と し こ く て と に 示 に こ

-a. (

ナ - @ で と は え ま | そ

( は 四

五 ) 用 @% は第 も よ ナ @

り @

: Ⅰ ん ム = 五

(28)

経 重要性をおくことはできない。同様の例が 、 ︵ 八︶Ⅰ い の白河合邦一口 p. じ その他に見ら れる。㈲︵四五 経 五︶は、その番号に従えば、当然 巻 第十六の末 尾 もしくは 巻 第十 セの 冒頭すなわち︶ ふ つにあ るべきものが、㎝ 人日 ﹁大正ヒでは、 巻 第十 セの 末尾で︵四八九︶の つ ぎ ︶ は 曲に移されて、位置している。ここの 欄外の註Ⅰに よ ㌶ 雑 らは、受け容れられない。また 摂頒は 、 司雑阿 含経 ﹂ 中 ほんの 少 部分しかつけられていないので 、それに多くの 数

阿含経

L

を収める﹁大正新脩大蔵経

L

養二︶は、たんにロ大正ヒとする。しかし煩雑を

避けて、それを

記さず、ただぺージ数と、

・下の段

数字と

a.b.c

だけであられす場合が

。換言すれ

、以下、洋数字に

a.b.c

のついている

ものは、すべて﹁大正しの場所を示す。

㈹経文の引用は㍉大正

L

に従い、句点及び

ナカ

グロ点もそれに従

。ただし返り点は省略する。

椎尾弁匡

﹁国訳一切経,阿舎

﹂三冊は

、た

んに﹁河合邦

﹂﹁阿舎

一口﹁阿舎

一一己と

、またその

|ジ

付けは、

各冊各

ぺージ中央

数字で書

かれてあるものを掲げる。

この日阿舎

L

について、一言しておこう。司書

傑出した力作であることについては、満腔

敬意を払いつ

、なおつぎのような、﹁大正ヒ

0

本文とは異な

・やや強引な操作を、指摘せざるをえない。

㈲︵一︶︶曲の

末尾二行は

﹁︵自知︶本支

後有

如観

無常吉

非我。

亦復

如是。

諸比丘

仏所説。歓喜奉行

L こあス

㌧。

司阿

れば、

摂頒

によったとされているけれども、﹁

大正ヒ

0

本文までも変えてしまうことは、文献

学的取扱の上

つ @

参照

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