叉
摩 尼 。
閾梨 ︒同伴 真 知識 之 善友︒哀感慈悲︒敬義敏宏︒ 歓楽欲 触 ︒ 欲通 ︒ 欲 者︒精進者︒方便者︒ 出 者︒堅固者︒勇猛 者︒堪能者︒ 摂者 ︒ 常 者︒学者︒不放逸者︒ 修 者︒思惟者︒憶念者︒寛恕者︒思量 者 ︒梵行者︒ 神力者︒智者︒ 識 者︒ 慧 者︒分別者︒ 念処 ︒正勤棋力覚道︒止観 余臭︒ 正 思惟 求 ︒ 亦 如是 説 ﹂の八行がある︒
M ︑ ︵八九六︶のあと oN の す に︑﹁如来大師︒ 如 是 乃至末工思惟︒ 亦 如是 説 ﹂の一行がある︒
m ︑ ︵八九 セ ︶のあと NN の す に︑﹁ 如内 六人処︒ 如是外人人処︒乃至五陰 亦 如是 説 ﹂の二行があ る ︒ M ︑ ︵八九八︶のあと No の す に︑﹁ 如 内人人処︒ 如是体大入 処 ︒乃至五陰︒ 亦 如是 説 ﹂の二行が ある︒
M ︑ ︵八九九︶のあと め ㌶ 0 も ︑ 前と同じ︒
M ︑ ︵ 九 00 ︶のあと め ㌶のも︑前と同じ︒
M ︑ ︵ 九 0 一︶のあと り ㌶ 0 も ︑ 前と同じ︒
M ︑ ︵ 一 0 五 このあとめ 村 ︒に︑﹁如是 異比 三所 問 ︒尊者阿難所 問 ︒仏間諸比丘三径︒ 亦 如上 説 ﹂の二行が続く︒
M ︑ ︵一ハ レ キハ一︶の士のと㏄ べ白 n@@0 臼の㏄に ︑ ﹁ キ期 非律正律 ︒如是非望友里︒不善政 善 ︒非親近親 近 ︒非善哉善哉︒ 黒 法 白浜︒非義正義︒軍法 勝法 ︒有罪 法 無罪 法 ︒ 棄 渋木葉 法 ︒一一 経 如上 説 ﹂の四行がある︒
て Ⅲ ︑ ︵一一二 セ ︶のあと No ののに︑﹁如木 分 別説 ︒如是分別︒比丘比丘尼︒ 式叉 摩尼︒沙弥 沙弥尼︒優婆塞優婆夷︒
﹂の三行がある︒
なりの変動を免れがたい﹂旨の添え書が必ず 付 されなければならない︒
註 ︵ 1 ︶ 増 合文雄㍉ ア ーガマ資料による仏伝の研究 L 二 二ぺージ︑前田恵 学 ㍉原始仏教聖典の成立 史 研究 L 六四 九ぺ l ジ︑
司 仏教思想研究 ヒ一 ‑ ハ ページ︑増永 霊 風コ根本仏教の研 究 三一三 ぺ ﹁ ジは ︑いずれも﹁ 一 三六二﹂の径数を掲 げ ろ 宇井伯寿コ印度哲学研究 L 第二巻︑一三三ぺ ー ジは ︑ ﹁ 雑 阿舎 は︑ :::異数は明らかにせられ得ない﹂とい って
︵ 2 ︶赤沼音書㍉ 漢巴 四部四阿舎 互照録 L その他の ょ う に︑ 各巻 ごとに︑第一経よりの番号 づ げをすること は ︑さらに ぎ やすい︒また 各 経に名称を付することは︑赤沼 コ互 照録 L とコ 河合 部ロと 異なる場合が見られる上に ︑ ㍉ 大正﹂
には付されていないので︑検出に甚だ不便である︒
︵ 3 ︶つぎの唯一の誤植があるのを注意︒すな ね ち︑ トベ ミ リ のヱ八二三︶をヱ八二二︶にあらためる︒ 宇井伯寿
ただし
る︒ 混乱を導
そのもの 以上のニ ー 四に示したように︑ 月雑 阿含経 L 中 には︑あまりにも多くの混乱ないし混乱を招く 文 章 が見られる︒ そ
れるの一々をどのように扱い︑どのように数え るかによって︑当然経の数が異なって来る︒これ までに︑そのところ どころに︑ 司 阿舎 部 目の見解を示したが︑私は それらに全く賛成する訳には行かず︑また四の場 合 ︑その取扱を ︑そ の 一部を除いて︑ここには例示しなかったけれ ども︑必ずしも統一されていないきらいがある︒ まして︑﹁大正 凹め ︵・Ⅰ︶ 番号づけによって︑ q 雑 阿含経しの経の数を﹁ 一 三六二﹂とすることは︑︵その番号づけは経の表 示 に便利であり︑ そ ︵Ⅰ 3 ︶ ︵Ⅰ 力 ︶ れを利用することが最も利益が多いであろうけ れども︶︑一応棚上げすべきであろう︒そのよ う なところから︑その
径数をいくつという結論は︑上述したように︑ こ こには提示しないことにする︒もしもそれらを 或る原理のもとに 統
一 して︑その径数を数えたにしても︑上掲論文の 末尾︵ 口 ・ お ︶に記したよ う に︑﹁数えかたに よ って︑その径数はか 五 行 がある︒
雑 阿含経の経の 数について
二九六八年二一月︶
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付記﹁別記
雑 阿含経 L ︵失調・大正 2o.Po ゥ ︶ は 一六 装 佑二じく︑ 各 経に番号を付してある︒そのうち︑﹁ 如是我聞﹂で
い ︒しかし﹁如是我聞﹂で始まらず︑﹁爾時云々 しで始まる
ある︒経の番号のみを示せば︑ つ ぎの通り ︵一一一︶
︵一五 セ ︶︵一山 ハ 0 ︶︵一九三︶︵ 二 0 セ ︶︵ 二 一一一つ︵一一二一
四︶︵三五五︶三五六︶︵三五 セ ︶︵三五八 ︶︵三五九︶
﹁ 雑 阿含経﹂︵失調・大正 z0. ︶ oP ︶は一巻二セ 経 から成る
第二十 セ 経には﹁仏説 セ 坦三観経﹂の前書があ る ︒ 六四経から成る︒大正蔵には︑上述の﹁ 雑 河合 経ヒと同
始まりながら 経 番号の付してないものは︑ ひ とうもな
ものを 一 経と数え番号を付しているものが︑計一 一十七経
︵一一九︶︵一二二︶︵一二ムハ︶︵一二八︶︵ 一 二九︶
0 ︶ 当 一一一一 0 ︶与一五一︶ 宝 一五二︶ 竺 一五三 ︶公一一五
D 一一六 0 ︶全一二八一︶ D 一二どう 公 三公一むゴ一一 エ八四︶︒
︒二十 セ経 すべて﹁ 聞 如是﹂で始まっているが︑ 最後の
ヒソズ一 社会に おける 「 P0@ution コンセプト」につ いて
儀礼的な純潔 と識 れに関する一連の信念は ︑ヒ ンズーイズムの中核的教義たる 叶 ar 五曲及び口目 ミヨ リ の原理と重
合してヒンズーの社会成層体系に深い関わりを 仕付 つている︵匁が 宙 プリ オユ の ゴコ の 鰻 Ⅰの か ㏄ @ 円㏄ | ㏄ 0 一 叫蛋帝 0 且ト の醇の @ ト ドト
1. トめ切 @ の 曲田セのダト の町㎏ @ り 印 1 ︒ めの一ののま ゴ リコ 宙ンキ の ⅡオコⅠ との ・ トの のの @ ト 田 Ⅱ1ト け ㏄︶ 0 の 0 蛋帆ゴ ︵ トの の︒ 鰹 ︶によれば︑ヒン
ズ ーイズムにおける 浄と 不浄の対立は︑万物を
の ︑世界と官能への執着を克服して神との合一を ﹁神とのユニオンを助けるもの﹂と﹁かかる ュニ
促すべくデザインされた儀礼的行為や儀礼対象 ﹂︑後者は︑﹁すべて オンを妨げるもの﹂
とに分三一分法的な宇宙哲学として構想されて おり︑前者は︑﹁物質的及び感覚的な諸 動桟が︑ 中陣れた霊魂そのも
の 攻撃的衝動及び肉体的衝動︑肉体そのもの︑ 経 済的 局面に関わる物質 界 のすべて︑更に︑人間 を 物質 界 につなぎと
め ︑転生からの救済を可能ならしめる精神的 高 揚を妨害するが如き一切の活動﹂がその内容とな る 0 この折口受︐に従っ
49@
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ヒン
ズ I
㌧ o 巳 社会
け 叶 HO ・ ︵
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』 コンセプ り, おける
ト ﹂について
岩田 靖 啓
儀礼的純潔の保持と 伍礼的椅 れの国田 へ 方向 づ けられたヒンズー・ダルマは ︑ 先ず︑カルマ・ プ ロセスの後続ステ
|ジ における宗教的福祉とⅢわ うて ︑来世に再生 する当該ヒンズーの霊がより上位の儀礼身分を 保障されるように デ ‑2‑
等は常にブラーマン体制への同調者たらざるを 得 た 筈であるが︵例えばの % 安 が コ % 絹ゅ ︵︵ ゃ ロロ田の ‑ お S トミー 寺だ QoE 吾 ︒お 00‑ ㌍︶︑ともか くも ヒンズー
上 ︑かかる 繊念 との関連性によってのみ意義を 賦与された体制の外に生活の手段と場を持つこ とは不可能で あった て ︑正統なるヒンズーは神とのユニオンを妨害す もあらゆる市田を回避しなければならず︑それ を危 くする生活行為
を 免除されなければならない︒つまり︑儀礼的 純 弗の獲得と維持への努力如何が︑またその努力 の 成否如何が︑再生
における彼等の宗教的福祉に直接 影紳を 及ぼす こされるが故に︑ヒンズーの上 活 態度は浄と不浄 をめぐって著しく セ
ンシティブなものならざるを得なくなる︒﹁個人 のあらゆる︵儀礼的もしくは倫理的な︶劫掠 と 失敗は一種の貸借 勘
定表 となり︑その帳尻が再生における霊魂の運 命 な ︑不可避的に︑しかも帳尻のプラス・マイナ ス 勘定に正確に従っ て 決定づける﹂︵の 織臼 ㏄ 巨乙キ ︵ ぎ 往の︶の・ お S ︶︶ め ︶とする上級ヒンズーの思想が社会組織の 地平に投射されたと
き ︑個々人の社会的迎合︑すなわちカースト 身 分︑を 正当化する強固なカースト弁神論の成立を 見るのであるが︑ こ
の場合の功 甑 ・失敗とは︑なによりも先ず︑ 犠礼
するものに 他 なら低い︒カースト・ハイアラー ・ 下 あれこれのポジション は︑霊 魂の状態としての
蔵 れの度合が ︑ 従ってまた儀礼的 純捷 の 卍庄が Ⅱ現化されたものとして説明され︑受容されて いくのである︵㌍已下
︶の下の @ トゆ Ⅰー︶の 臼 @ ワ 自の︵ ゴ宙 Ⅰ︶のの 心 @ ゅ 0 1 0 づ︶︒ た だし︑カースト・システムを構成する 全 セグメ ヰ 0 コ "
け 下級ポジションを分担するメンバー達が ︑上 級 ヒンズーによって提供されたかかるカースト 弁
いたとか︑信じていたとか︑あるいは同意してい たなどと主張する り もりはない︒恐らく 妾 くの 坊令そうではなかっ
ヒンズ一社会における l ‑P0 ℡ u Ⅰ ion コンセプト」 はっ
なく︑ペスト︑天然痘︑コレラを ば じめとする ぬ 行 厨 ︑早 越 ︑洪水︑飢 蝕等 ︑共同体の運命を危 大災害はわけても︑儀礼的違反 や弗 甘の不履行 に 対して超自然界から人間界に示された警告︑制 裁 ︑報復であると 見 なされる︒従って ︑ 神々を宥和し︑有害な 超自 無力をコントロールすることは︑共同体にとって 第一義的な関心事で なければならない︒そして︑超自然界に対する 人間の義務とは︑なによりも先ず神々の津佐を保 護 することであり︑ 儀礼的な機れを排除して超自然界と緊密な コ︑︑︑ ュ ニケーションを持つ資格を確保することにあ る ︵田ひ︵での r‑ ト のの 肝 ト ㏄㏄1ト㏄ 0. ト の的1日のか @ ノミゅ田 す目 二日のの ね @ ゆ Ⅱ︶ 0 こうして︑宗教的並びに社会的福祉に尋常ならざ る 効果を及ぼすところの﹁儀礼的 浄 ・不浄﹂を めぐる観念は ︑ヒ ンズーのライフ・サイクルと彼等の社会的諸制度 の中へくまなく 惨適 している︒それは︑ヒンズ 1 0 宗教と社会を結 けている中心的な原理は︑結局のところ︑他者 との相対的な関係における﹁津佐・不浄性の度合 ﹂に他ならない︵ 例 えば︑Ⅱ 三 ︵ 0 鰻 ︶ 04 の ‑ ︶ し 一のユ田 づ餌 ︒ P ののの ‑ ㌧ の @ のこのく e 二の 0 由 ︒ ト のの 怪 @ 怪の一の 0 Ⅰ 幅ゴ︐ト のの 0 @ 切ト 1, 臼 め ︶︒祭司集団の別格 約分離︑不可 触 佳ロ ま ︒口目き田 モ ︑カースト 排 他 主義︵ 通婚 ・共食・接触の拒否︑世襲職業の 独占︶といったイン ド 社会の肛木山特徴に対しても︑儀礼的純潔 と槻 れをめぐるブラフマニックな諸概念が品も重要 な 理由づけの基盤と なっている︒従って︑インドの・社会・文化現象 へ 宗教社会学的なアプローチを試みんとするすべ ての学的企画にとっ
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