• 検索結果がありません。

元未明初における宗族形成の風潮

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "元未明初における宗族形成の風潮"

Copied!
49
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

273

元 未 明 初 に お け る 宗 族 形 成 の 風 潮

井 上

< は じ め に >

一 三 六 八 年 、 元 末 の 群 雄 の な か か ら 台 頭 し た 朱 元 噂 は 、 応 天 府 (南 京 ) を 首 都 と し て 明 朝 国 家 を 樹 立 し 、 元 号 を 洪

武 と 定 め た 。 太 祖 朱 元 埠 が 統 治 し た 洪 武 年 間 ( 一 三 六 八 年 ‑ 二 二 九 八 年 ) に は 、 宗 族 研 究 の う え で き わ め て 注 目 す べ

き 事 態 が 発 生 し て い る 。 中 国 社 会 に お け る 経 済 的 先 進 地 域 で あ り 、 ま た 明 朝 が 政 権 獲 得 の 主 要 な 場 と し た 江 南 地 域 (広

義 ) に お い て 、 「大 家 富 民 」 ・ 「車 重 故 家 」 等 の 呼 称 を も つ 人 々 の 宗 族 が 解 体 さ れ る 事 態 の 発 生 を 、 当 時 の 著 名 な 学 者 方

孝 環 が 伝 え て い る の で あ る (後 掲 ). そ の 宗 族 の 解 体 を 伝 え ら れ た 「大 家 富 民 」 ・ 「拒 室 故 家 」 等 は 、 従 来 の 研 究 史 上 、

地 主 と 概 括 さ れ た 階 層 に 属 し 、 租 佃 経 営 等 を そ の 主 要 な 経 済 活 動 の 内 容 と す る 。 か れ ら は ま た 、 宋 代 以 来 の 儒 学 の 伝

統 を 継 東 し て き た 側 面 を も ち 、 広 義 に は 儒 教 的 教 養 を 習 得 し た 人 々 つ ま り 士 大 夫 の 出 身 母 体 と み な す こ と も で き る 。 (‑ ) こ う し た 性 格 を 踏 ま え て 、 こ こ で は か り に 地 主 ・ 士 大 夫 と 呼 ん で お き た い 。 最 初 に 、 地 主 ・ 士 大 夫 を め ぐ る 当 時 の 政

治 情 勢 を 概 観 し て み よ う 。

明 朝 国 家 の 成 立 は 、 江 南 地 域 の 地 主 ・ 士 大 夫 に と っ て 極 め て 重 要 な 意 味 を も つ も の で あ っ た と さ れ る 。 周 知 の よ う

に 、 モ ン ゴ ル 民 族 に よ っ て 樹 立 さ れ た 元 朝 で は 、 中 央 政 府 の 官 職 は 多 ‑ 蒙 古 ・ 色 目 人 あ る い は 漢 人 世 侯 な ど に 独 占 さ

(2)

れ て お り 、 儒 教 的 教 養 を 問 う 試 験 に よ っ て 公 平 に 人 材 を 採 用 す る 科 挙 の 制 度 は 廃 止 さ れ た 。 仁 宗 代 ( 二 二 二 一年

三 二 〇 年 ) に は 科 挙 が 復 活 さ れ た も の の 、 進 士 の 数 量 自 体 は 元 朝 全 体 か ら 見 れ ば き わ め て 少 数 で あ り 、 愛 宕 松 男 氏 が (2 ) 述 べ る よ う に 、 事 実 上 停 止 の 状 態 と な っ て い た に 等 し い 。 元 朝 治 下 の 江 南 の 士 大 夫 の う ち 儒 戸 と し て 認 定 さ れ た も の (3 ) は 、 科 役 を 免 除 さ れ る と い っ た 特 権 を 与 え ら れ 、 ま た 、 郷 試 の 合 格 者 に も 任 官 の 途 が 開 か れ て い た と い う が 、 い ず れ

に せ よ 、 身 分 制 の 最 下 層 (商 人 ) に 位 置 づ け ら れ た 江 南 の 地 主 ・ 士 大 夫 の 多 ‑ は 下 級 官 吏 、 儒 学 教 官 の 職 に 甘 ん じ な (4 ) け れ ば な ら な か っ た 。 江 南 の 地 主 ・ 士 大 夫 を 取 り 巻 ‑ こ の よ う な 状 況 に 変 化 が 生 じ る の は 元 末 の こ と で あ る 。 こ の 間

題 に 検 討 を 加 え た 檀 上 寛 氏 の 一 連 の 研 究 に よ れ ば 、 元 末 に は 次 第 に 江 南 の 地 主 ・ 士 大 夫 に も 政 治 参 加 が 認 め ら れ る よ

う に な り 、 と ‑ に 順 帝 の 至 正 元 年 ( 二 二 四 一 ) に 脱 脱 が 宰 相 に 就 任 す る と 、 科 挙 の 重 視 、 経 蓮 の 開 講 、 儒 者 の 重 用 等 、

積 極 的 な 漢 化 政 策 が と ら れ 、 政 界 に 脱 脱 を 中 心 と す る 商 人 の グ ル ー プ が 形 成 さ れ た 。 さ ら に 、 元 末 の 反 乱 の な か か ら

台 頭 し た 朱 元 埠 が 江 南 の 地 主 ・ 士 大 夫 の 協 力 を 得 て 政 権 を 樹 立 す る と 、 当 初 政 権 の 中 枢 は こ れ ら 地 主 ・ 士 大 夫 に よ っ (5 ) て 占 め ら れ 、 商 人 政 権 化 し た 。 ま た 、 洪 武 三 年 ( 二 二 七 〇 ) 八 月 に お け る 第 一 回 の 郷 試 を 最 初 と す る 科 挙 の 再 開 は 、

江 南 の 地 主 ・ 士 大 夫 が 恒 常 的 に 官 界 に 進 出 す る 道 が 開 か れ る こ と を 意 味 す る 。 明 朝 に よ り 全 面 的 に 復 活 さ れ た 科 挙 に

よ る 任 用 に お い て 、 江 南 の 地 主 ・ 士 大 夫 は そ の 宋 代 以 来 培 わ れ て き た 高 い 儒 教 的 教 養 に 支 え ら れ て 、 他 の 地 域 よ り も (6 ) 優 位 に あ り 、 科 挙 合 格 者 の な か で 圧 倒 的 比 重 を 占 め た と い う 。

と こ ろ が 、 明 朝 政 権 確 立 の 過 程 で 、 地 主 ・ 士 大 夫 は 衝 撃 的 な 事 態 に 直 面 す る こ と に な る 。 朱 元 噂 は 、 元 末 の 群 雄 で

最 後 ま で 彼 と 敵 対 し た 張 士 誠 を 滅 ぼ し た 際 、 そ の 根 拠 地 の 蘇 州 一 帯 の 「富 民 」 を 強 制 移 住 さ せ 、 ま た 元 朝 の 故 官 の 家

を 籍 没 す る な ど の 処 分 を 行 っ て い た が 、 そ の 後 、 度 重 な る 疑 獄 事 件 の 発 動 を 通 じ て 、 江 南 出 身 の 官 僚 を 弾 圧 す る と と

も に 、 明 朝 の 税 役 制 度 の な か で 糧 長 ・ 里 長 等 に 任 じ ら れ た 「富 民 」 に 対 し て も 次 々 に 籍 没 、 強 制 移 住 の 処 分 を ‑ わ え

(3)

2 7 5

て い っ た 。 こ う し て 籍 没 さ れ た 土 地 は 国 家 の 宮 田 に 組 み 込 ま れ て い る 。 檀 上 寛 氏 は 、 政 治 史 の 側 面 か ら こ の 弾 圧 に 注

目 し ' 明 朝 成 立 後 、 政 権 の 中 枢 を 占 め つ つ あ っ た 商 人 出 身 官 僚 を 弾 圧 す る こ と に よ り 、 中 央 集 権 体 制 の 確 立 を 図 っ た

と い う 。 ま た 、 森 正 夫 氏 は 、 明 朝 が 大 量 に 江 南 に 設 置 し た 官 田 を 考 察 す る 研 究 の な か で 、 こ の 時 期 の 弾 圧 が ' 明 朝 に

敵 対 し た 勢 力 や 、 元 朝 の 故 官 、 糧 長 ・ 里 長 の み に と ど ま ら ず 、 一 般 の 「富 民 」 に も 及 ん だ 背 景 に は 、 元 朝 以 来 の 所 有 3hiZ, 凸 格 差 を 是 正 す る 目 的 が あ っ た と 指 摘 す る 。 こ う し た 政 策 は 科 挙 に も 反 映 さ れ て い る 。 明 朝 は 、 江 南 の 地 主 ・ 士 大 夫 の

官 界 へ の 進 出 に 歯 止 め を か け る た め に 、 洪 武 六 年 ( 二 二 七 三 ) か ら 同 1 五 年 ま で の 時 期 、 科 挙 を 1 時 停 止 し て い る .

科 挙 を 廃 止 し て 全 国 か ら 公 平 に 有 能 な 人 材 を 得 よ う と し た の で あ り 、 そ の 力 点 は 商 人 に 対 比 さ れ る 北 人 の 獲 得 に あ っ (8 ) た と い う 。

地 主 ・ 士 大 夫 の 宗 族 の 解 体 は 、 以 上 の よ う な 弾 圧 の な か で 出 現 し た と さ れ る 事 態 で あ る 。 こ の 事 態 を 伝 え た 方 孝 蒲

( 一 三 五 七 年 ‑ 一 四 〇 二 年 ) は 、 台 州 府 寧 海 県 の 人 で 、 字 を 希 直 と い い 、 金 華 学 派 の 指 導 的 立 場 に あ っ た 宋 渡 の 門 に

学 ん で ず ば 抜 け た 才 能 を 示 し 、 宋 藻 も 子 弟 の な か で 特 に 彼 を 評 価 し た . 方 孝 環 は 、 何 度 か に わ た る 弾 圧 事 件 の 1 つ 、

空 印 の 案 で 、 当 時 済 寧 知 府 の 職 に あ っ た 父 の 克 勤 を 、 同 じ ‑ 胡 惟 庸 の 獄 で 師 の 宋 嫌 を 失 っ て お り 、 洪 武 年 間 に 断 行 さ

れ た 弾 圧 を 身 近 で 経 験 し た 人 で あ っ た . 孝 環 は 、 洪 武 1 六 年 ( 二 二 八 三 ) と 同 二 五 年 の 二 回 、 洪 武 帝 に 謁 見 す る も 任

用 さ れ ず 、 苛 の 献 王 に 招 解 さ れ て 世 子 の 教 育 に 当 た っ た 。 洪 武 帝 の 死 後 、 恵 帝 (建 文 帝 ) が 即 位 す る と 、 翰 林 侍 講 、

侍 講 学 士 に 任 じ ら れ 、 皇 帝 の 厚 い 信 頼 の も と に 、 国 家 の 政 策 運 営 に 携 わ る が 、 建 文 三 年 ( 一 四 〇 一 )、 軍 隊 を 発 動 し て (9 ) 建 文 朝 を 倒 し た 燕 王 (永 楽 帝 ) に 処 刑 さ れ ' そ の 生 涯 を 終 え て い る 。

さ て 、 方 孝 孫 は 、 「采 苓 子 鄭 処 士 墓 碑 」 (﹃ 遜 志 斎 集 ﹄ 巷 二 二 ) に お い て 、 宗 族 の 解 体 に 言 及 し て い る 。 こ の 一 文 は 、

南 宋 以 来 、 族 人 の 同 居 共 財 生 活 を 維 持 し 、 当 時 義 門 と し て 知 ら れ た 鄭 氏 (後 述 ) の 家 長 の 鄭 凍 (字 は 仲 徳 、 号 は 采 苓

(4)

千 ) を 追 悼 し た 文 章 で あ り 、 す で に 檀 上 寛 、 森 正 夫 両 氏 が 江 南 と り わ け 漸 東 ・ 漸 西 に 対 す る 弾 圧 の 激 し さ を 物 語 る 史 (10 ) 料 の 7 つ と し て 注 目 し て い る . 方 孝 環 は 、

ヽ ヽ ヽ ‑ 当 是 時 、 漸 東 西 拒 室 故 家 多 以 罪 傾 其 宗 、 而 処 士 家 数 千 指 特 完 。 蓋 忠 信 之 報 云 。

と い う 。 「是 の 時 」 と は 、 洪 武 一 三 年 ( 二 二 八 〇 ) に 発 動 さ れ た 中 書 左 丞 胡 惟 庸 の 獄 の 時 点 を 指 し 、 時 に 連 座 し た 者 一

万 五 千 人 に の ぼ り 、 皇 帝 の 六 部 直 轄 の 契 機 と な る と と も に 、 あ わ せ て 江 南 の 「富 民 」 が 粛 正 の 対 象 と な っ た と さ れ る 。

孝 RLE は 、 こ の 事 件 で は 、 漸 東 ・漸 西 の 「拒 室 故 家 」 の み で な ‑ 、 義 門 鄭 氏 を 例 外 と し て 、 そ れ ら の 「宗 」 も ま た 「傾 」

‑ と い う 事 態 に 直 面 し た こ と を 伝 え る 。 シ ヨク し か も 、 方 孝 環 に よ れ ば 、 「宗 」 が 打 撃 を 受 け た の は 、 胡 惟 庸 の 獄 の 時 の み で は な か っ た 。 鄭 嫌 の 従 弟 で あ る 都 濃

の 墓 表 (同 上 書 巻 二 二 、 「故 中 順 大 夫 福 建 布 政 司 左 参 議 郭 公 墓 表 」) で 、

ヽ ヽ ヽ 太 祖 高 皇 帝 以 神 武 雄 断 治 海 内 、 疾 兼 井 之 俗 、 在 位 三 十 年 間 、 大 家 富 民 多 以 漁 制 失 道 、 亡 其 宗 。

と 述 べ る 。 こ れ に よ れ ば 、 「大 家 富 民 」 ・ 「拒 室 故 家 」 と 呼 称 さ れ た 地 主 ・士 大 夫 の 「宗 」 の 解 体 は 、 繰 り 返 し 弾 圧 が 行

わ れ た 洪 武 年 間 を 通 じ て 出 現 し た 事 態 で あ る か の よ う に 思 わ れ る 。 「宗 」 と は 、 共 同 祖 先 か ら 分 派 し た 男 系 の 親 族 に 関 (12 ) わ る 概 念 で あ る が 、 「其 の 宗 を 傾 」 ‑ 、 「其 の 宗 を 亡 ぼ せ り 」 と い っ た 用 法 、 ま た 同 居 共 財 と い う 形 式 に よ り 族 人 の 集

合 を 維 持 し て い た 郵 氏 が 右 の 事 態 か ら 免 れ た と さ れ る こ と ‑ し た が っ て 、 「宗 」 に 含 ま れ て い る ‑ な ど か ら す る と 、 森

(5)

2 7 7

(13 ) 正 夫 氏 が す で に 解 釈 し て い る よ う に 、 組 織 と し て の 実 体 を も っ た 宗 族 と し て 理 解 し て よ い よ う に 思 わ れ る 。 ま た 、 実

際 に 大 き な 打 撃 を 蒙 っ た 「宗 」 に は 、 北 宋 以 来 、 そ の 宗 族 機 構 を 維 持 し て き た 蘇 州 の 両 氏 義 荘 の 場 合 が あ り 、 洪 武 一

七 年 二 三 八 四 )、 南 宋 の 時 点 で 合 計 三 千 百 六 十 八 畝 を 所 有 し た 土 地 (義 田 等 ) の う ち 、 二 千 畝 を 明 朝 に 籍 没 さ れ (14 ) て い る 。

本 稿 の 目 的 は 、 洪 武 年 間 の 弾 圧 の も と で 解 体 さ れ た と 伝 え ら れ る 漸 東 ・ 漸 西 の 「拒 室 故 家 」、 「大 家 富 民 」 の 宗 族 の

実 態 を 把 握 す る こ と に あ る が 、 そ れ は 、 宗 族 の 解 体 と い う 事 態 が そ れ 自 体 衝 撃 的 で あ る と い う ば か り で な ‑ 、 宋 代 以

降 に お け る 宗 族 の 歴 史 的 特 質 、 国 家 と 宗 族 と の 関 係 な ど の 問 題 を 考 え る う え で も 、 重 要 な 手 が か り と な る よ う に 思 わ

れ る か ら で あ る 。

l 別 表 の 作 成

(‑ ) 同 時 代 人 の 観 察

洪 武 年 間 の 一 連 の 弾 圧 の 過 程 で 大 き な 打 撃 を 蒙 っ た と さ れ る と こ ろ の 宗 族 が い か な る 実 態 を も っ て い た の か を 検 討

す る ま え に 、 あ ら か じ め 宗 族 の 概 念 を 確 認 し て お き た い 。 こ れ ま で に 筆 者 が 進 め て き た 作 業 で 得 ら れ た 知 見 を も と に

し て 言 う な ら ば 、 宗 族 と い う 男 系 の 血 縁 集 団 は 、 そ の 構 成 員 (族 人 ) 相 互 が 血 縁 関 係 に あ る こ と に よ っ て 自 然 に 成 立 (15 ) し た も の 、 と は 言 え な い 。 つ ま り 、 こ う で あ る 。 特 定 の 祖 先 を 起 点 と し て 考 え る 場 合 、 最 初 は 、 そ の 祖 先 か ら 、 家 産

均 分 を 契 機 と し て 何 人 か の 兄 弟 の 個 別 家 族 が 分 派 し 、 同 様 の 相 続 原 理 に よ っ て 、 世 代 を 重 ね る ご と に 、 当 該 の 祖 先 に

つ な が る 子 孫 の 家 族 が 増 大 し て い ‑ こ と に な る 。 す で に 、 法 制 史 家 の 滋 賀 秀 三 氏 に よ っ て 明 快 に 論 じ ら れ て い る よ う

(6)

に 、 中 国 に お け る 「家 」 の 基本 は こ れら の 個 別家 族 で あ り 、 そ の 特 質 は 同 居共財 関係 に あ る 。氏 の 見 解 を 要 言 す る な

ら ば '同居共 財 は 、家 産 分 割 を 契機 とし て 析 出 され る 個 別 家 族 に お い て ' 作為 を ま た ず し て 自 然 的 に 成立 す る も の で

あ っ て 、収 入 、消費 及び資産保有 の 全 面 に わ た る 共 同 計 算関係 (勤 労 の 所産 と 共同 資 産 か ら の 収 益 と を 収 入 と し 、 各

人 の 生 活 万 端 の 費 用 を 支出 す る 、 一 つ の 共同 会 計 を 維持 す る 関係 ) を いい 、 家 産 は そ うし た 共同 会 計 の 資 産 内容 を 指

称 す る 言 葉 で あ ると い う 。 こ の よ う に 共 同 祖 先 か ら 分派 し て 独自 の 共同 会 計 を なす子 孫 の 個 別 家 族、更 に 配偶 関係 を

含 め て 、親族 (親 属 ) 関 係 が 構成 さ れ る が ' そ の ま ま の 状 態 で あ れ ば 、 親 族 が 集 団 と し て 組 織 化 さ れ て い るとは 必 ず

しも 言 えな い 。宗 族 は 、 こ う した 自 然 の まま に あ る 親 族 の う ち 、 男 系 の 血統 に つ なが る 個別 家 族 (族 人) を 作為的 に (16 ) 集合 し ' 彼 ら を 組 織 化 す る こ と に よ っ て 形 成 され る 集団 で あ ると 考 えら れ る 。

この よ う に 作 為 的 に 族 人を 組 織化 し 、 宗 族 を 形 成 しょう と す る 新 た な 動 きは 宋 代 か ら 出 現し て い る 。親族統制 の 原

理 とし て の 宗 法 を 復 活 し て 宗 族 を 樹 立 し よ う と す る 主 張 (宗 法 復 活 論 ) は そ う した 動 向 を 如 実 に 反 映 したも の で あ る

が 、 具 体 的 な 宗 族 形 成 の 方 法 と し て は 、 族 譜 編纂 、 嗣 堂設 立 な ど に よ る 族 人 の 結集 、 義 田 等 の 共 有 財を 設 置 し 、 こ れ (17 ) を 経 済 基 盤 と し て 宗 族 組織 を 維持 す る 義荘 な どがよ ‑知 られ て い る 。 こ れら の 宗 族 の 諸 形態 は 、独 自 の 共同 会 計 を な

す 個 別 家 族 の 集合 体 と み な す こ と が で き る が 、 こ れら と は 異な る 宗 族形成 の 方法 をとる も の とし て 、 より 古 い 起 源を

も つ 、 「合 奏 」、 「共費 」、 「衆 居 」 な ど と 称 される 形態 が あ り 、 前 掲 の 義 門鄭氏 の よ う に 、 こ の 形 態 が 何代 に も わ た っ て

読 ‑と 、 「累 世 同居 」 と 呼 ば れ る (以 下'合奏 と 総称 す る )。ご ‑ 最近、小 林 義虞 氏 は 、 宋代 に お け る 郷 村社 会 の 教化

の な かで 累 世 同居 の 宗 族 が 重 要 な 意味 を 担 っ た こ と を 論 じ て お り 、 そ の 作 業 を通 じ て 、 古 い 起 源 をも つ 合 奏 が改 め て (18 ) 宋 代 に 注 目 された こ とが わ か る 。 合 奏 の 特 徴 を 端 的 に 言 え ば 、 作 為的 に 家 産 均分 を 禁 止 し て い るこ と で あ り 、 した が

っ て 、 家 産均 分 に より 分 か れ るは ず の 複 数 の 家族 が 一 体 的 に 共同 の 会 計 (資 産、支出 入 )を 構成 し 、 そ こ に 個 別 家族

(7)

2 7 9

の 規 模 を 上 回 る 大 き な 集 団 が 成 立 す る こ と に な る 。 宗 族 全 体 と し て 同 居 共 財 生 活 を 営 む 特 異 な 形 態 で あ る と い っ て よ ヽJ 0 ‑∨

洪 武 年 間 に お け る 弾 圧 の 過 程 で の 解 体 を 伝 え ら れ る 宗 族 が 、 宋 代 以 来 の 宗 族 形 成 の 歴 史 と い か な る 関 係 に あ る の か

は 、 現 在 の と こ ろ 必 ず し も 明 か で は な い が 、 甚 大 な 被 害 を 蒙 っ た こ と を 確 認 で き る 苑 氏 義 荘 の 事 例 を 念 頭 に 置 ‑ な ら

ば 、 そ れ ら の な か に 、 比 較 的 早 い 段 階 に 成 立 し た 宗 族 が 含 ま れ た で あ ろ う こ と を 推 測 で き る 。

し か し 、 こ こ で 注 意 し て お き た い の は 、 宗 族 の 解 体 を 後 世 に 伝 え た 方 孝 環 等 、 元 未 明 初 の 社 会 を 生 き た 人 々 の 観 察

で あ り 、 彼 ら の 観 察 を 見 る と 、 宗 族 と い う 集 団 そ の も の が 充 分 に 普 及 し て い た と は 言 え な い よ う に 思 わ れ る 。 彼 ら の

観 察 の 一 端 を 紹 介 し て み よ う 。

例 え ば 、 方 孝 孫 は 、 合 奏 を 挙 行 し た 寧 海 県 の 童 氏 の 族 譜 に 寄 せ た 序 (﹃ 遜 志 斎 集 ﹄ 巻 l 三 、 「童 氏 族 譜 序 」) の な か

で 、

‑ 孝 弟 忠 信 、 以 持 其 身 、 誠 洛 南 祭 、 以 奉 其 祖 、 明 譜 牒 、 叙 長 幼 親 疎 之 分 、 以 睦 其 族 、 累 世 横 徳 、 以 求 無 獲 罪 干 天 。

修 此 則 存 、 廃 此 則 亡 、 此 人 之 所 識 也 。 而 為 家 老 鮮 或 行 之 、 当 其 志 得 意 満 、 田 園 不 患 其 不 多 而 購 之 益 力 、 室 慮 不 患 其

不 完 而 拓 之 益 広 ‑ 。

と い う 。 つ ま り 、 当 時 の 人 々 (乃 至 そ の 「家 」 = 家 族 ) が 、 孝 弟 忠 信 の 倫 理 に よ っ て 自 ら を 律 し 、 ま た 嗣 堂 に お け る

祭 把 、 族 譜 、 長 幼 ・ 親 疎 の 分 の 確 立 な ど を 通 じ て 、 祖 先 を 尊 び 、 血 統 を 明 ら か に し 、 そ の 親 族 の 間 に 和 合 的 関 係 を 作

る 、 こ う し た 事 業 を 行 な う こ と に 関 心 を 示 さ ず 、 専 ら 土 地 ・ 家 屋 の 増 殖 に 奔 走 す る 風 潮 を 批 判 的 に 観 察 し て い る の で

(8)

あ る 。 こ の よ う な い わ ば 私 的 利 益 の 追 求 は 超 時 代 的 に 出 現 す る も の で あ ろ う が 、 檀 上 寛 氏 に よ れ ば 、 元 未 明 初 の 時 代

に は と り わ け 問 題 と な っ た と い う 。 す な わ ち 、 元 朝 の 身 分 制 の も と で 最 下 層 の 商 人 に 位 置 づ け ら れ た 江 南 の 人 々 は 、

政 治 的 に ほ と ん ど 疎 外 さ れ た 状 態 に あ り 、 賄 賂 を 用 い て 下 級 官 吏 等 と な る か ' あ る い は 、 政 治 的 に 立 身 の 望 み を 絶 た

れ た 大 多 数 の 商 人 に と っ て は 、 郷 村 で の 勢 力 扶 植 の 途 を 選 ぶ し か な か っ た 。 氏 は 彼 ら を 利 益 追 求 型 富 民 と 呼 び 、 明 朝 (19 ) も 、 彼 ら の 行 動 を 政 策 的 に 規 制 し よ う と し た と い う 。 こ の 檀 上 氏 の 所 説 に 従 え ば 、 方 孝 孫 が 嘆 い た 私 的 利 益 追 求 の 風

潮 も 、 元 朝 以 来 の 構 造 的 問 題 に 起 因 す る も の と 理 解 し う る か も し れ な い 。

方 孝 孫 が 私 的 利 益 追 求 の 風 潮 の 反 面 で 指 摘 し た と こ ろ の 、 宗 族 形 成 の 事 業 へ の 関 心 の 薄 さ は 、 「楼 氏 宗 譜 序 」 (﹃ 遜 志

斎 集 ﹄ 巻 一 三 ) に お い て も 述 べ ら れ て い る 。 こ れ に よ れ ば 、 一 郷 に 居 住 す る 同 姓 の 者 が 族 譜 を 閲 覧 し て 、 と も に 同 じ

祖 先 か ら 分 か れ 出 た 子 孫 で あ る こ と を 知 れ ば 、 少 な ‑ と も 同 姓 の な か で 、 「富 者 」、 「貴 者 」、 「強 者 」 が 「貧 」 ・ 「購 」 ・ 「弱 」 な る 者 を 抑 圧 す る こ と (「 侵 」 、 「凌 」、 「暴 」) は な ‑ な り 、 こ の 関 係 を 更 に 郷 か ら 「邑 」、 「郡 」、 「国 」 へ と 拡 大

し て い け ば 、 天 下 の 紛 争 は 姿 を 消 し 、 安 定 す る は ず で あ る 。 し か し 、 現 実 は 理 想 と は ほ ど 遠 い 。 「親 親 の 道 息 み て 風 俗 しだ い も 寝 に 衰 え 、 一 郷 に し て 俗 を 同 じ ‑ す る 者 す ら 且 つ 其 の 本 を 思 わ ず 」 と い う 。 こ こ で も 強 調 さ れ る の は 、 「富 者 」、 「貴

者 」、 「強 者 」 と い っ た 経 済 的 ・ 身 分 的 ・ 社 会 的 上 位 者 が 同 郷 の な か の 同 姓 の 「貧 」 ・ 「購 」 ・ 「弱 」 な る 者 を 虐 げ る 利 己

的 態 度 、 親 族 関 係 の 弱 さ で あ る 。

同 様 の 認 識 は 、 方 孝 孫 の み で な ‑ 、 そ の 師 の 宋 湊 に も 見 ら れ る 。 宋 凍 (藻 は 詩 、 字 は 景 凍 ) は 、 元 朝 の 至 大 三 年 ( 1 セイ ラ 三 一 〇 ) の 生 ま れ で 、 金 華 県 潜 漢 の 人 (後 に 、 清 江 県 の 青 菜 山 に 移 住 ) で あ る 。 元 代 に お け る 金 華 朱 子 学 の 頂 点 に 立

つ 許 謙 ( 二 一七 〇 年 ‑ 一 三 三 七 年 ) か ら 教 え を 受 け 、 金 華 学 派 の な か で 指 導 的 役 割 を 果 た し た 人 物 と し て 知 ら れ 、 元

末 、 朱 元 嘩 政 権 に 招 蒋 さ れ て 、 江 南 儒 学 提 挙 と な り 、 明 朝 建 国 後 に は 、 ﹃元 史 ﹄編 修 の 総 裁 官 、 翰 林 院 学 士 、 礼 部 主 事

(9)

2 8 1

等 の 要職 を 歴 任 し 、 功 臣 と し て 朱 元 埠 に 厚遇 さ れた 。宋嫌 は 洪 武 1 0 年 ( 二二 七七) に 致仕 し て 帰 郷 す る が 、 同 二 二

年、 孫 の 慎 が 、 時 に 明 朝 に よ っ て 発 動 された 胡惟庸 の 獄 に 連座 す ると 、彼 も こ れ に 巻 き 込 まれ て 四 川 の 茂州 に 流 さ れ 、 辛 (

2

0 ) 翌 年

州 で 死 去 し て

宋嫌 は 、例 え ば 、金華 の 馬 氏 の 族譜 に 寄 せた 1 文 (﹃ 宋 学士文 集 ﹄ 巻 四 五 、 「題 馬 氏 譜 図 後 」 ) に お い て 、 「氏族 の 学

‑ ヘ バ

クゼン

講ぜざ る 自 り 、 士大 夫 の 家 も 亦 之 を 習 う 者有 る こ と

な‑ 、往 々 に し て 未 だ数 世 を

ざ る に 、 己 に

泰然

と し て 何 人 為

る か を 識 ら ず 、嘆 ず べ き な り 」 と いい 、後 世 「氏族 の 学」 が 行 な われ な‑な り 、 士大 夫 の 家 で も 、 祖 先 か ら 分 か れ て

数世 も 経 たな い のに お 互 い に 見知 ら ぬ こ と が し ば し ば あ るとされ る 。更 に 、 「愈 氏 宗譜序 」 (同 上 書巻 六 九) に お い て 、

宋藻 は 、 か つ て 自 ら 同姓 の 者 を 教化 す る 案 を 作 っ た こ と を 紹介 し て い る が 、 そ の 内 容 は 、 毎 月 1 日 、 「同 姓 」 の 「長少 」

を 「先 嗣」 に 集 め て 祖 先 に 拝 謁 し 、 そ れ ぞ れ の 行 い を 正す こ と 、 あ る い は 疾病、患難、葬 喪 、 婚 嫁、 災 害 時 に お け る な ら な ら 相 互 扶助 な ど で あ る 。 そ の 後 文 に 、 「誠 に 一 人 之を 為 す 有 れ ば 、 衆 、 其 の 善 を 見 て 必 ず 之 に 致 い 、 救 う 者愈 よ い よ 多 け は る れ ば 、 則 ち 化 す る 所 の 者 も 必 ず 愈 よ い よ 遠 か なり 。 困 り て 以 て 、 天 下 の 俗 を 美 し ‑ す るは 難 か ら ざ る なり 。惜 し い か

な 、吾 れ 未 だ 之 を 見ざ る な り 」 と 嘆 ‑ 。 宋凍 自 身、族 人 集合 あ る い は 親 族 そ の も のに 対 す る 社 会 の 関 心 の 低 さ を 強 ‑

認 識 し て い た と い え よ う 。

要 す る に 、宋涼 も 方孝 蒲 も 、族 譜 編纂 、嗣堂設立、 親 族間 の 親 和 など 、 宗 族形 成 に と っ て 最 も 基礎的 な 事業 で さ え 、

元 未 明 初 乃 至 それ 以 前 の 時 代 に あ っ て は 、 人 々 が 関 心 を示し て 実 践 す ると こ ろ で は な い 、 そ う した 世相 を 強 ‑ 慨 嘆 す

る の で あ る 。 こ の 同 時 代 人 の 観察 に よ る 限 り 、宋代 以 降 に お け る 宗 族形 成 の 歴 史 の 過程 で 宗族 が 各地 に 普 及 し 、 そ の

結 果 、 元 未 明 初 の 時 代、 宗 族 が 普遍 的 に 存在 し て い た 、 と 考 え る こ と は 難 し い 。

(10)

(2 ) 挙 行 の 時 期 と 主 体

し か し 、 に も か か わ ら ず 、 方 孝 環 が そ の 1 万 で 洪 武 年 間 に お け る 宗 族 の 解 体 を 記 録 し て い る と い う こ と は 、 言 う ま

で も な ‑ 、 宗 族 が 当 時 の 社 会 に 少 な か ら ず 存 在 し て い た こ と を 意 味 し て い な け れ ば な ら な い 。 こ の こ と を ど の よ う に

理 解 す れ ば よ い の で あ ろ う か 。 こ こ で 注 目 し た い の は 、 潰 島 敦 俊 氏 の 指 摘 で あ る 。 氏 は か つ て 、 明 朝 成 立 と 地 主 と の (21 ) 関 係 を 論 じ た な か で 、 新 東 地 域 で は 元 末 に な っ て 宗 両 等 の 祭 礼 を 行 な う 事 例 が 多 数 存 在 す る こ と を 指 摘 さ れ た 。 氏 の

力 点 は 宗 族 と い う よ り は 郷 村 に 置 か れ て い る た め 、 そ れ ら 多 数 の 事 例 を 具 体 的 に 分 析 す る 作 業 は ほ と ん ど 行 な わ れ て

い な い が 、 興 味 深 い 指 摘 で あ る 。 宗 両 を 設 立 し 、 祖 先 を 祭 紀 す る こ と は 、 族 譜 の 編 纂 と と も に 、 族 人 を 結 集 し 、 宗 族

の 組 織 を 形 成 す る う え で 最 も 基 礎 的 な 事 業 の 一 つ で あ り 、 そ う し た 事 例 が 多 数 見 ら れ る と い う こ と は 、 こ の 時 代 に 新

た な 宗 族 形 成 の 動 き が あ っ た こ と を 示 唆 す る よ う に 思 わ れ る 。 か り に そ う で あ る と す る な ら ば 、 解 体 を 伝 え ら れ る 宗

族 の な か に 、 苑 氏 義 荘 の よ う な 早 い 段 階 に 成 立 し た 宗 族 の み で な ‑ 、 ま さ し ‑ 宋 嫌 、 方 孝 蒲 が 親 族 ・ 宗 族 へ の 関 心 の

低 さ を 嘆 い た そ の 同 じ 時 代 に お い て 新 た に 形 成 さ れ た 宗 族 が 少 な か ら ず 包 含 さ れ る 可 能 性 が 出 て ‑ る の で あ る 。

そ こ で 、 筆 者 は 、 こ の 間 題 を 検 討 す る た め に 、 宗 族 の 解 体 を 伝 え た 方 孝 蒲 の ﹃遜 志 斎 集 ﹄ の 他 、 ま た 潰 島 氏 が 上 掲 (22 ) の 指 摘 を 行 う に 際 し て 用 い た 宋 嫌 の ﹃宋 学 士 文 集 ㌔ 及 び 貝 壕 ﹃清 江 貝 先 生 集 ﹄ 、 こ の 三 人 の 文 集 に 依 拠 し て 、 別 表 「宗

族 形 成 事 例 表 」 を 作 成 し て み た 。 方 孝 蒲 と 宋 嫌 の 略 歴 は す で に 紹 介 し た が 、 貝 壕 (壕 は 請 、 字 は 廷 臣 ) は 、 嘉 興 府 崇

徳 県 の 人 で あ り 、 元 末 の 群 雄 の 一 人 で あ る 張 士 誠 が 蘇 州 に 拠 点 を 構 え る と 、 し ば し ば 彼 を 招 蒋 し た が 、 こ れ に 応 じ な

か っ た と さ れ る 。 洪 武 初 に な っ て 、 宋 源 が 総 裁 官 を 務 め て い た ﹃元 史 ﹄ の 編 纂 に 参 画 し 、 洪 武 五 年 ( 一 三 七 二 ) 国 子

助 教 、 同 八 年 、 中 都 鳳 陽 府 の 国 子 監 の 助 教 に 改 め ら れ た 後 、 洪 武 二 年 に 致 仕 し 、 そ の 翌 年 に 亡 ‑ な っ て い る 。 ほ ぼ

(11)

283

(23 ) 宋 藻 と 同 じ 時 代 を 生 き た 文 人 で あ る と い っ て よ い 。

さ て 、 別 表 で は 、 族 譜 編 纂 ・ 嗣 堂 設 立 、 義 荘 、 合 奏 の 事 業 を 行 っ て い る か ど う か を 目 安 と し て 事 例 を 収 集 し た 。 宋

嫌 等 が 伝 え る と こ ろ の 宗 族 の 事 例 は 、 明 代 の 行 政 区 画 で 示 せ ば 、 南 直 隷 、 漸 江 、 安 徴 、 江 西 、 福 建 、 広 東 の 諸 地 域 に

及 ぶ が 、 こ の う ち 、 本 稿 で 対 象 と し て い る 新 東 ・ 漸 西 は 、 南 直 隷 と 漸 江 の 領 域 に 属 す 。 漸 東 ・ 漸 西 に お け る 宗 族 形 成

の 事 例 の 総 数 は 五 十 一 例 、 そ れ ら の 事 業 が 行 な わ れ た 地 域 を 見 る と 、 新 東 に 片 寄 っ て い る こ と に 気 が 付 ‑ 。 漸 西 で は 、

応 天 府 (漂 水 県 、 句 容 県 )、 常 州 府 (江 陰 県 )、 厳 州 府 (寿 昌 県 )、 嘉 興 府 (崇 徳 県 )。 漸 東 で は 、 紹 興 府 (講 堂 県 、 上

虞 県 )、 金 華 府 (金 華 、 東 陽 、 清 江 、 永 康 、 麗 水 、 義 烏 の 諸 県 )、 台 州 府 (寧 海 、 天 台 、 黄 巌 の 諸 県 )、 寧 波 府 (象 山 、

慈 漢 、 奉 化 、 郭 の 諸 県 )、 処 州 府 (龍 泉 県 )、 温 州 府 (平 陽 県 )、 衛 州 府 (開 化 県 ) な ど で あ る 。 事 例 数 で 言 う と 、 漸 西

が 七 例 、 漸 東 が 四 四 例 で あ り 、 圧 倒 的 に 新 東 地 域 に 集 中 し て い る 。 こ れ は 、 宋 凍 、 方 孝 孫 、 貝 壕 の 三 人 の う ち 、 よ り

多 ‑ の 事 例 を 記 録 し て い る 宋 藻 と 方 孝 孫 が 漸 東 地 域 の 出 身 で あ る こ と と 関 係 が あ る よ う に 思 わ れ る 。 宗 族 形 成 の 事 例

は 、 知 人 、 弟 子 な ど か ら 求 め ら れ て 著 し た 族 譜 の 序 や 墓 誌 銘 の 類 の 資 料 か ら 知 ら れ る も の で あ り 、 新 東 出 身 で あ る 彼

ら の 交 友 関 係 の 基 盤 が お そ ら ‑ こ の 地 域 に あ っ た で あ ろ う こ と を 考 慮 す る と 、 そ れ ら の 文 章 に 記 録 さ れ た 宗 族 形 成 の (24 ) 事 例 も 、 漸 東 の も の が 多 ‑ な る 結 果 と な っ た と 考 え ら れ る 。

次 に 、 関 連 の 事 業 が 挙 行 さ れ た 時 期 に 目 を 向 け て み よ う 。 別 表 で の 収 集 の 結 果 に よ れ ば 、 諸 例 の 中 に は 、 比 較 的 早

い 時 代 に 宗 族 関 係 の 事 業 を 挙 行 し た も の が 含 ま れ る 。 例 え ば 、 清 江 県 の 義 門 鄭 氏 (恥 46 ) は 南 宋 の 時 代 に 合 奏 を 開 始

し て 以 後 持 続 さ れ て き た も の で あ る し 、 講 堂 県 の 黄 氏 も 末 代 に 義 田 を 設 け た 経 験 を も つ (恥 3 )。 ま た 、 永 康 県 の 呂 氏

に よ る 義 田 ・ 義 学 の 設 置 (恥 8 ) 、 楽 善 堂 な る 建 物 を 「歳 時 族 を 合 す る の 所 」 と な し た 黄 巌 県 の 張 氏 の 事 例 (恥 2 ) 、

龍 泉 県 の 湯 氏 に よ る 義 田 設 置 (恥 3 )、 更 に 慈 渓 県 の 羅 氏 の 合 奏 (恥 5 )、 天 台 県 の 顧 氏 に よ る 「其 の 族 を 合 す る 」 の

(12)

挙 (zd 51 )、 こ れ ら は と も に 、 元 末 以 前 の こ と で あ る . と こ ろ が 、 そ の 他 の 事 例 で は 、 宗 族 形 成 の 事 業 は 、 そ の ほ と ん

ど が 元 未 明 初 期 に 挙 行 さ れ て い る 。 ま た 、 比 較 的 早 い 時 期 に 関 連 の 事 業 を 行 な っ て い た 前 掲 の 諸 姓 の な か で 、 永 康 県

の 呂 氏 や 黄 巌 県 の 張 氏 な ど は 、 元 未 明 初 期 に な っ て 従 前 の 事 業 の 整 備 ・ 復 興 を 試 み て い る 。 潰 島 氏 の 指 摘 が ほ ぼ 妥 当

な も の で あ る こ と を 確 認 で き る で あ ろ う 。

で は 、 宗 族 形 成 の 事 業 を 行 な っ た の は い か な る 人 々 で あ っ た の か 。 宗 族 形 成 の 事 業 は 、 族 譜 編 纂 、 嗣 堂 設 立 な ど に

よ る 族 人 の 結 集 、 あ る い は 義 荘 、 合 秦 い ず れ の 方 法 を と る に し ろ 、 誰 に で も 容 易 に 実 現 で き る も の で は な い 。 共 同 祖

先 を 定 め 、 祖 先 と 子 孫 と の 関 係 を 明 ら か に し 、 ま た 族 人 間 の 結 束 を 維 持 す る う え で 必 要 と さ れ る 儒 教 倫 理 を 族 人 に 習

得 さ せ る な ど 、 宗 族 を 作 り 上 げ よ う と す る 場 合 に は 、 儒 教 的 教 養 に 基 づ ‑ 高 い 知 識 を 要 求 さ れ る 。 そ れ の み で な ‑ 、

こ れ ら は ま た 、 相 当 の 資 本 の 投 下 が 不 可 欠 の 条 件 で あ り 、 と り わ け 族 人 の 生 活 面 の 保 証 を も 含 む 合 奏 、 義 荘 の 場 合 に

は 、 そ れ を 支 え る に 足 る 強 力 な 経 済 基 盤 を 求 め ら れ る 。 こ れ ら の 条 件 を 満 た す こ と の で き る 家 は 、 当 時 の 社 会 に あ っ

て 、 本 稿 で 地 主 ・士 大 夫 と 呼 ぶ 階 層 が 該 当 す る 0 万 孝 環 が 言 う と こ ろ の 「拒 室 故 家 」、 「大 家 富 民 」 で あ る 。 別 表 の 「事

業 主 体 」 の 項 目 を 参 照 し て い た だ き た い 。 そ れ に よ れ ば 、 元 未 明 初 期 、 各 種 の 宗 族 形 成 事 業 を 実 行 し た の は 、 元 末 の

地 方 下 級 官 吏 (例 え ば 、 照 磨 、 経 歴 等 の 職 )、 儒 学 教 官 、 建 国 以 前 の 朱 元 嘩 政 権 及 び 明 初 の 官 僚 (翰 林 院 所 属 の 諸 官 ・

六 部 の 侍 郎 ・ 主 事 な ど の 中 央 官 、 参 議 ・ 知 県 ・ 主 薄 な ど の 地 方 官 、 ま た 国 子 助 教 、 武 官 ) と 国 子 監 生 等 、 こ の 他 、 処

士 と 呼 ば れ る 一 般 の 読 書 人 な ど で あ る 。 こ の な か に は 、 元 末 に 下 級 官 吏 ・ 儒 学 教 官 で あ っ て 、 後 に 明 朝 に 採 用 さ れ た

者 も あ る 。 ま た 、 本 人 の み な ら ず 、 彼 ら の 祖 父 ・ 父 、 あ る い は 子 や 孫 な ど 三 、 四 世 代 の 範 囲 を 視 野 に 入 れ た 場 合 、 以

下 の 諸 姓 に お い て 、 元 朝 乃 至 明 朝 の 官 僚 機 構 と 接 触 を も っ て い る 。 例 え ば 、 ① 元 末 と 明 初 の 両 時 期 に 任 官 者 を 出 し て

い る 家 (恥 2 の 方 氏 、 恥 5 の 呉 氏 、 恥 8 の 呂 氏 、 恥 13 の 林 氏 、 恥 18 の 祝 氏 、 zd 25 の 張 氏 、 恥 30 の 陳 氏 。 ま た 、 南 宋 以

(13)

285

来 、 合 奏 を 継 続 し て い る zd 46 の 鄭 氏 の 場 合 も 、 元 未 明 初 期 、 任 官 者 多 数 )、 ② 元 朝 に 任 官 し た 家 (恥 17 の 柳 氏 、 恥 27 の (25 ) 張 氏 、 恥 28 の 張 氏 、 恥 36 の 湯 氏 、 恥

44

の 薄 氏 )、 ③ 明 朝 に 任 官 し た 家 (恥 9 の 宋 氏 、 恥 23 の 桂 氏 ) な ど で あ る 。 要 す る

に 、 彼 ら は 、 租 佃 経 営 を 主 要 な 経 済 基 盤 と し つ つ 、 同 時 に 儒 教 的 教 養 を 保 持 し て 、 元 未 明 初 期 、 当 時 の 政 治 情 勢 の 変

化 に 乗 じ て 国 家 の 官 僚 機 構 に 進 出 し て い っ た 地 主 ・ 士 大 夫 層 に 所 属 す る 人 々 で あ っ た と 考 え ら れ る 。 次 に 、 元 未 明 初

期 の 地 主 ・ 士 大 夫 に よ っ て 挙 行 さ れ た 宗 族 形 成 の 試 み の 内 容 を 具 体 的 に 紹 介 し て み よ う 。

な お 、 以 下 、 別 表 に 基 づ い て ' 諸 例 を 紹 介 す る に 際 し て は 、 そ れ ぞ れ 別 表 の 番 号 を 記 す の で 、 典 拠 も 、 別 表 の 「史

料 来 源 」 の 項 を 参 照 し て い た だ き た い 。 ま た 、 地 名 に つ い て は ' 明 代 の 行 政 区 画 に 依 拠 す る が 、 内 容 に 応 じ て 元 朝 治

下 で の 名 称 も 用 い る 。

族 譜 篇 幕 と 嗣 堂 設 立

族 人 を 組 織 化 し て 、 宗 族 を 形 成 す る に は 、 い ‑ つ か の 手 続 き が 必 要 と さ れ る が 、 最 初 に 問 題 と な る の は 、 共 同 祖 先

の 確 定 で あ る 。 共 同 祖 先 を ど こ に 設 定 す る か に よ っ て 、 結 集 す べ き 族 人 の 範 囲 が 異 な り 、 宗 族 の 規 模 も そ れ に 応 じ て

変 わ る こ と に な る か ら で あ る 。 宗 族 形 成 の 動 き が 始 ま っ た 宋 代 ' 大 宗 主 義 に 立 つ 程 頃 は 、 始 祖 つ ま り 伝 え ら れ る と こ (26 ) ろ の 最 も 最 初 の 祖 先 を 立 春 に 祭 る こ と を 提 唱 し て い る が 、 そ の 場 合 に は 始 祖 以 下 の 子 孫 の 全 て が 集 合 の 対 象 と な る 。

し か し 、 始 祖 を 決 定 す る こ と 自 体 容 易 な こ と で は な い 。 別 表 に 掲 げ た 諸 姓 で 言 え ば 、 一 々 事 例 は 挙 げ な い が 、 し ば し

ば 唐 代 、 漢 代 な ど は る か 昔 に ま で 祖 先 を 追 跡 す る 努 力 が な さ れ て い る も の の 、 そ れ ら の 大 半 は 、 そ れ ら の 時 代 か ら 族

譜 等 の 記 録 を も っ て い た わ け で は な ‑ 、 そ れ が 本 当 で あ る か ど う か は 確 認 し よ う が な い 。 宋 漉 、 方 孝 孫 は と も に 、 元 (27 ) 未 明 初 期 の 族 譜 に は 、 少 な か ら ず 祖 先 を 偽 る も の が あ る こ と を 批 判 し て い る が 、 そ う し た 傾 向 は と り わ け 宋 代 以 前 の

(14)

遠 い 時 代 の 祖 先 に 顕 著 で あ ろ う 。 ま た 、 始 祖 を 確 定 で き た と し て も 、 始 祖 は し ば し ば 十 数 世 代 、 数 十 世 代 も 遡 る こ と

に な る か ら 、 始 祖 か ら 分 派 し た き わ め て 多 数 の 族 人 を 捜 し 出 し 、 集 合 す る こ と は ' こ れ ま た 極 め て 難 し い こ と で あ る 。

お そ ら ‑ そ う し た 事 情 も あ っ て の こ と で あ ろ う 、 宋 代 に 有 力 で あ っ た の は 、 考 (父 ) ・ 祖 (祖 父 ) ・ 高 祖 ・ 曽 祖 の 四 代 (28 ) の 祖 先 を 祭 り 、 そ の 範 囲 の 族 人 を 集 め る こ と を 唱 え る 説 (小 宗 主 義 ) で あ っ た 。

元 未 明 初 の 時 代 に お い て は 、 始 遷 祖 (宗 族 形 成 の 事 業 を 試 み た 者 が 居 住 す る 土 地 に 最 初 に 移 住 し て き た 祖 先 ) を 共

同 祖 先 と す る 見 解 が 登 場 し て い る 。 方 孝 孫 が 、 そ の 族 人 (「 宗 人 」 ) を 対 象 と し て 著 し た 「宗 儀 」、 < 尊 祖 > (﹃ 遜 志 斎

集 ﹄ 巻 一 ) の な か で 述 べ た も の が そ れ で あ る 。

立 嗣 紀 始 遷 祖 、 月 吉 必 謁 拝 、 歳 以 立 春 把 。 族 人 各 以 祖 柑 食 、 而 各 以 物 来 祭 、 祭 華 、 相 率 以 歯 会 拝 両 室 。

嗣 堂 で 祭 る べ き 族 人 共 同 の 祖 先 と し て 、 始 遠 祖 を 設 定 し て い る の で あ る 。 始 遷 祖 の 子 孫 た る 族 人 は 、 当 該 の 祖 先 以 来 、

同 じ 土 地 に 居 住 し て き た 者 で あ る か ら ' 始 遷 祖 及 び そ れ 以 降 の 祖 先 に つ い て の 情 報 も 集 め 易 ‑ 、 ま た 、 同 郷 に 住 む 族

人 と 連 絡 を と る の も 比 較 的 容 易 で あ っ た と 考 え ら れ る 。 別 表 の う ち 、 明 ら か に 始 遷 祖 を 認 識 し て い る の は 、 方 孝 蒲 の

1 族 (zd 2 ) 、 金 華 県 の 張 氏 (恥 空 、 天 台 県 の 陳 氏 (m S )、 東 陽 県 の 蒋 氏 (m E ) 、 象 山 層 の 謝 氏 (m ES ) な ど で あ

る 。

始 遷 祖 等 の 共 同 祖 先 を 決 定 し 、 そ れ か ら 分 派 し た 族 人 を 集 め 、 相 互 の 結 束 を 固 め る う え で 重 要 な 事 業 は 、 嗣 堂 の 設 (29 ) 立 と 族 譜 の 編 纂 で あ る 。 方 孝 蒲 の 上 掲 の 規 定 か ら も 窺 わ れ る よ う に 、 嗣 堂 を 設 け て 共 同 祖 先 を 祭 り 、 ま た 祭 紀 の 儀 式

に 集 合 し た 族 人 の 間 で 宴 会 な ど を 開 ‑ こ と を 通 じ て 、 族 人 は 共 同 祖 先 と 自 己 と の 関 係 を 確 認 し 、 か つ 共 属 意 識 を 高 め

(15)

287

る こ と が で き る 。 ま た 、 同 じ く 方 草 薙 の 「宗 儀 」、 < 重 譜 > に 、

尊 祖 之 次 莫 過 於 重 譜 。 由 百 世 之 下 、 而 知 百 世 之 上 、 居 間 巷 之 間 、 而 尽 同 宇 之 内 、 察 統 系 之 異 同 、 耕 伝 承 之 久 、 近 叙

戚 疏 、 定 尊 卑 、 収 換 散 、 敦 親 睦 、 非 有 譜 以 蔦 列 之 、 不 可 也 。 故 君 子 重 之 、 不 修 譜 者 、 謂 之 不 孝 。

と あ る よ う に 、 族 譜 編 纂 も 重 要 な 事 業 の 1 つ で あ る 。 族 譜 の 基 本 は 、 共 同 祖 先 か ら 分 派 し た 子 孫 の 血 脈 の 広 が り を 文

書 に 記 録 す る こ と に あ り 、 そ れ に よ り 、 祖 先 と 子 孫 と の 関 係 、 族 人 相 互 の 関 係 、 族 内 の 尊 卑 の 序 列 (世 代 ・ 年 齢 を 基

準 と し た 序 列 ) な ど は 明 確 化 さ れ る 。

祖 先 の 決 定 、 祖 先 を 祭 る 嗣 堂 の 設 立 、 族 譜 の 編 纂 、 こ れ ら の 作 業 を 通 じ て 、 族 人 を 集 合 し て 宗 族 を 形 成 す る 基 礎 的

条 件 が 備 わ る こ と に な る 。 別 表 に 示 し た よ う に 、 元 未 明 初 期 、 地 主 ・ 士 大 夫 が 試 み た 宗 族 形 成 の 事 例 の な か で 最 も 多

数 を 占 め る の も 、 こ の 形 態 で あ り 、 総 数 五 一 例 の う ち 、 三 四 例 を 数 え る 。 例 え ば 、 宋 藻 に よ れ ば 、 金 華 の 愈 氏 は 「書 シ ユン 詩 を 以 て 其 の 家 を 世 よ に し 、 科 第 に 擢 せ ら る る 者 先 後 し て 相 望 む 」 と い う よ う に 読 書 人 の 家 系 で あ っ た 。 拘 な る 者 の

父 は と り わ け 学 問 を 好 み 、 「其 の 同 姓 の 親 を 譜 し て 以 て 其 の 族 を 聯 ぬ 」 と い い 、 譜 の 編 纂 を 媒 介 と し て 族 の 結 集 を 図 っ

た 。 胸 も ま た こ れ を 受 け 継 い で 「譜 を 完 ‑ 」 し た と さ れ る 。 宋 藻 は こ の よ う な 譜 の 編 纂 を 「族 に 睦 む の 本 な り 」 と み

て い る (恥 16 )。 ま た 、 嗣 堂 設 立 の 事 例 で は 、 天 台 県 の 陳 氏 が あ る 。 陳 氏 で は 、 そ の 祖 先 が

州 (金 華 府 ) か ら 移 住 し へイ イ て 明 初 の 乗 鼻 の 代 ま で で 十 余 世 を 経 て お り 、 族 人 の 戸 数 も 百 家 に 近 い ほ ど に な っ て い た 。 か つ て 乗 轟 の 祖 父 は 嗣 堂 を つ な 作 り 、 始 遷 祖 を 祭 り 、 「族 人 を し て 祭 り を 合 わ せ 、 以 て 其 の 心 を 推 繋 が し め ん と 」 し た が 、 元 末 の 戦 乱 に よ り 嗣 堂 は 破

壊 さ れ 、 父 の 彦 聖 も 嗣 堂 を 新 築 す る 志 し を 抱 い て い た も の の 実 現 で き な か っ た 。 明 朝 の 洪 武 一 〇 年 ( 二 二 七 七 )、 乗 奔

(16)

は 先 人 の 志 し を 受 け 継 ぎ 、 嗣 堂 を 故 地 に 建 て 、 ま た 若 干 畝 を 拠 出 し て 祭 把 の 用 と な し 、 族 の 宗 子 (お そ ら ‑ 始 遷 祖 婿

系 の 子 孫 ) に 祭 把 を 主 宰 さ せ た と い う (恥 31 ) 。 こ の 二 つ は 、 族 譜 編 纂 、 嗣 堂 設 立 が と も に 、 族 人 結 集 を 目 的 と す る ち

の で あ る こ と が よ ‑ わ か る 事 例 で あ る 。

さ て 、 別 表 に 提 示 し た 事 例 の な か に は 、 族 譜 編 纂 ・ 嗣 堂 設 立 に と ど ま ら ず 、 族 人 相 互 の 結 束 を 強 め る た め に 、 よ り

充 実 し た 事 業 を 行 な っ た ケ ー ス が あ る 。 以 下 、 い ‑ つ か の 事 例 を 紹 介 し て み よ う 。

東 陽 県 の 薄 氏 の 家 は 、 元 朝 治 下 に お い て 官 僚 機 構 と の 関 係 が 深 い 。 請 を 休 と い う 者 は 、 元 朝 の 時 に 南 康 路 建 昌 県 主

簿 、 そ の 子 の 吉 相 は 仁 宗 に 仕 え て 典 用 監 知 事 に 抜 擢 さ れ 、 後 に 裏 陽 路 穀 城 県 尉 と な る 。 吉 相 の 子 は 玄 (字 は 子 晦 。 至

正 四 年 ‑ 二 二 四 四 ‑ に 死 去 ) で あ り 、 北 京 に 生 ま れ 、 父 に 従 っ て 穀 城 に 住 ん だ 後 、 東 陽 に 帰 郷 し 、 許 謙 に 従 学 し て い

る 。 玄 の 墓 志 銘 に は 、 彼 の 善 行 が 伝 え ら れ て い る が 、 こ れ は 地 主 と 小 農 民 と の 関 係 を 示 す 史 料 と し て 、 周 藤 吉 之 、 潰 (30 ) 島 敦 俊 両 氏 に よ り 注 目 さ れ た も の で あ る 。 そ れ に よ れ ば 、 当 時 、 東 陽 に は 「宋 の 貴 臣 の 族 」 が 多 ‑ 、 そ の 土 地 を 佃 作

す る 「民 」 か ら 、 五 割 の 分 益 租 の み な ら ず 、 副 租 と し て 生 糸 を 徴 収 し て い た が 、 玄 は 生 糸 の 徴 収 を 廃 止 し 、 ま た 「細

民 」 に 無 利 子 で 穀 物 を 貸 与 し 、 絶 え ず 数 十 家 が 玄 の 家 を 頼 っ て い た と さ れ る 。 蒋 玄 が 租 佃 経 営 を 行 な う 地 主 で あ る こ

と は 明 か で あ る 。 ま た 、 そ の 祖 父 ・ 父 と も に 元 朝 治 下 で 任 官 し て お り 、 玄 自 身 は 任 官 こ そ し な か っ た も の の 、 許 謙 か

ら 儒 教 知 識 を 伝 授 さ れ た 儒 者 で あ り 、 読 書 人 の 家 柄 で あ る と い え よ う 。 そ の 子 の 久 升 は 推 挙 に よ り 、 慶 元 路 儒 学 教 官

を 授 け ら れ て い る 。 (31 ) 彼 は 「礼 を 以 て 其 の 家 を 斉 う 」 を 重 ん じ 、 「先 嗣

を 奉 じ て 朱 子 の 儀 文 (﹃ 家 礼 ﹄ ) に 基 づ ‑ 祖 先 祭 紀 を 執 り 行 う と

と も に 、 歳 時 に は 族 人 を 率 い て 始 遷 祖 の 墓 を 祭 り 、 祭 り が 終 わ れ ば 、 族 人 は 長 幼 の 序 に よ り 列 坐 し 、 「親 睦 の 道

を 確

認 し た 。 族 中 の 近 親 者 は 毎 月 朔 望 に は 必 ず 集 ま っ た が 、 そ の う ち 貧 者 に は 二 ケ 月 分 の 穀 物 を 支 給 し (「 貧 者 歳 周 以 両 月

(17)

2 8 9

之 粟 」 )、 ま た 祖 父 に よ っ て 創 設 さ れ た 「義 塾 」 を 運 営 し 、 儒 者 を 招 い て 子 姓 を 教 育 し た 。 始 遷 祖 の 祭 把 の 挙 行 を 通 じ

て 、 族 人 間 の 結 束 を 計 り 、 か つ 族 人 の 救 済 ・ 教 育 に 力 を 入 れ て い る 。 (zC 5 4 )

金 華 県 の 苓 唐 山 に 住 む 「著 姓 」 張 氏 の 始 遷 祖 は 請 を 隆 、 字 を 享 仲 と い う 者 で あ り 、 南 末 の 建 炎 年 間 二 二 一七 年 ‑

二 三 〇 年 ) の 初 め に 睦 州 (厳 州 府 ) か ら 移 住 し 、 当 地 の 清 氏 の

と な る が 、 後 に 張 姓 を 回 復 し た 。 隆 に は 三 子 が

あ り 、 そ の 子 孫 は 三 つ の 支 派 (「 三 族 」 ) に 分 か れ た 。 ま た 、 「其 の 出 て 仕 う る 者 は 既 に 文 墨 論 議 を 以 て 著 し ‑ 時 に 称 え

ら れ 、 而 も 家 に 退 修 せ し 者 も 亦 、 循 循 と し て 雅 筋 、 士 君 子 の 行 い に 塊 じ る 無 し 」 と い い 、 官 僚 を 送 り 出 す 名 族 と し て エン の 家 系 を 誇 る 。 始 遷 祖 の 隆 か ら 数 え て 六 世 の 子 孫 で あ る 栄 は 、 先 祖 の 霊 を 安 ん じ る 所 が な い の を 嘆 い て 、 族 弟 の 攻 等

と と も に 、 始 遷 祖 の 隆 、 隆 の 三 子 (「 三 族 」 の 房 祖 ) を 祭 る 嗣 堂 (「 先 両

)

を 設 立 し た 。 ま た 、 東 西 各 地 に 分 散 し て い

る 族 人 の 不 便 を 考 え て 、 た だ 正 月 に お い て の み 彼 ら を 嗣 堂 に 集 め 、 そ の 別 室 で 催 さ れ る 会 合 の 席 で 、 「長 幼 を 叙

た 。 そ し て 、 新 た に 生 ま れ た 子 供 で 、 命 名 が 済 ん で い れ ば 、 こ れ を 「譜 図 」 に 書 き 込 ん だ 。 更 に 、 祭 田 の 佃 粗 収 入 の

管 理 を 「 三 族 」 の 嗣 人 (房 祖 の 祭 紀 を 継 承 す る 者 ) が 交 替 で 行 な う こ と と さ れ た 。 こ の 「宗 族 を 衆 合 す る

の 挙 は 、

元 末 の 至 正 一 五 年 ( 二 二 五 五 ) 冬 に 始 ま り 同 二 六 年 に 成 就 し た が 、 「 一 宗 の 長 」 た る 栄 は こ の 時 、 「宗 人

数 百 人 を 率

い て 儀 式 を 挙 行 、 「観 る 者 」 は 「邑 の 未 だ

ざ る 所 な り 」 と 喜 ん だ と い う (恥 26 ). タ ン 平 陽 県 蓋 竹 の 林 氏 は 、

な る 者 の 時 か ら 当 地 に 住 む よ う に な っ た が 、 「子 孫 、 今 に 至 り て 数 百 家 、 郷 間 に 散 処 し 、 服

かす

微 か に し て 情 弛 む こ と 久 し

と い う よ う に 、 碁 の 子 孫 は 増 加 し た も の の 、 相 互 の 関 係 は 長 い 間 疎 遠 で あ っ た 。 そ こ で 、

第 十 二 世 の 子 孫 で 、 元 朝 の 陽 江 県 県 戸 に 任 じ ら れ た 淳 は 、 「其 の 愈 よ い よ 遠 ‑ し て 、 自 り 出 づ る 所 を 知 ら ざ る を 健 」

れ 、 始 遷 祖 蒜 の 墓 の 傍 ら に 嗣 堂 を 建 て よ う と し た も の の 、 果 た せ ぬ ま ま に 亡 ‑ な っ た 。 明 朝 に な っ て 、 淳 の 子 の 刑 部

主 事 の 陸 は 、 父 の 遺 志 を 継 い で 嗣 堂 を 建 設 し 、 蒜 の 神 主 を 奉 ず る と と も に 、 毎 月 朔 望 の 拝 謁 、 歳 時 の 祭 紀 は と も に 、

(18)

「 一 族 の 人

を 率 い て 挙 行 し た 。 ま た 嗣 堂 の 後 ろ に は 思 孝 斎 を 建 て て 族 人 会 合 の 場 と し 、 あ る い は 詞 堂 の 左 側 に 詞 を

設 け て 朱 子 の 像 を 祭 り 、 祖 先 、 父 を 配 紀 し た 。 更 に 嗣 堂 の 前 に は 学 校 (「 学

)

を 設 け 、 「郷 人 の 賢 者

を 招 い て 師 と な

し 、 「族 人 の 子 弟

を 就 学 さ せ た 。 宋 藻 は こ の 林 氏 の 挙 に つ い て 、 「疏 な る 者 は 以 て 親 を 復 す べ ‑ 、 遠 き 者 は 以 て 散 ぜ き

い ざ る べ ‑ 、 富 強 な る 者 は 必 ず 敢 え て 是 を 以 て 其 の 身 を 私 せ ず 、 両 も 貧 弱 な る 者 は 必

仰 ぐ 所 有 り 。 其 の 族 、 寧 ん

ぞ 填 る る 有 ら ん や

と 述 べ て 、 族 人 の 結 集 、 私 心 の 抑 制 、 救 済 の 効 果 を 評 価 し て い る O (恥 13 )

金 華 の 張 氏 、 平 陽 の 林 氏 の ケ ー ス に 示 さ れ る よ う に 、 族 人 (及 び そ の 家 族 ) は 、 平 生 瀕 繁 に 往 来 す る こ と が 可 能 な

地 域 に 集 ま っ て い る と は 限 ら ず 、 ま た 同 じ 郷 里 に 住 ん で い て も 、 そ の な か で 各 処 に 分 散 し て 独 自 の 会 計 を 営 ん で い た

と 考 え ら れ る 。 こ れ ら の 分 散 し た 族 人 を 集 合 す る う え で 、 嗣 堂 建 設 あ る い は 族 譜 編 纂 の 他 、 定 期 的 な 祖 先 祭 紀 、 族 人

の 教 育 を 目 的 と し た 学 校 (義 塾 等 ) の 設 置 、 族 人 の 救 済 な ど を あ わ せ て 実 施 す れ ば 、 単 に 嗣 堂 設 立 ・ 族 譜 編 纂 を 行 な

う 場 合 に 比 べ て 、 族 人 の 相 互 の 親 密 さ を 深 め ら れ る こ と が 期 待 さ れ る 。 次 に 扱 う 義 荘 は 、 こ れ ら の 宗 族 の 諸 機 能 を 更

に 充 実 さ せ た 体 制 を も っ て い る 。

義 荘

義 荘 は す で に 宋 代 以 来 の 伝 統 を も っ て お り 、 い わ ゆ る 正 学 派 の 士 大 夫 と し て 慶 暦 の 改 革 を 指 導 し た 苑 仲 滝 (九 八 九

I l 〇 五 二 ) が 父 祖 伝 来 の 地 で あ る 蘇 州 で 設 立 し た 義 荘 を そ の 創 始 と す る と 言 わ れ る 。 箔 氏 義 荘 に つ い て は す で に ( 32) 旧 稿 で 検 討 し た こ と が あ る の で 、 こ こ で は 、 旧 稿 に 基 づ い て 、 そ の 特 徴 を 記 す に と ど め た い 。

創 始 者 の 花 仲 滝 は 慶 暦 年 間 ( 一 〇 四 一 年 ‑ 一 〇 四 八 年 ) 蘇 州 呉 県 の 西 に 位 置 す る 天 平 山 麓 の 白 雲 寺 を 祖 先 追 福 の 地

と な し て 曽 祖 ・ 祖 父 ・ 父 の 位 牌 を 祭 っ た 後 、 皇 祐 元 年 ( 一 〇 四 九 )、 知 杭 州 と な っ た 時 、 呉 ・ 長 洲 両 県 で 田 十 余 頃 を 取

(19)

2 9 1

得 し て 義 田と な し 、 また 義 田 収 益 の 支 給 に 関 す る 規短 を 定 め 、 併 せ て 義宅、 義倉 、 義 学 を 設置 した 。 こ れが 義 荘 の 始

まり で あ る 。 義 荘 に お け る 宗 族 組織 の 主要 な 経済 基 盤 は 、 家 産 均 分 の 対 象 とされ な い 義 田 か ら の 佃 粗 収 入 に あ る が 、

義 田 ・ 祭 田 な どを 合 わ せた 義 荘 所属 の 共有 地 の 規模 は 、 南 宋 の 理 宗嘉 照 四 年 ( 一 二四 〇 ) の 段階 で 、 官側 の 資料 に よ

れ ば、 合計 で 三 一 六 八 畝余 り で あ り 、当初 の 三 倍 の 規模 に 達 す る 。

そ の 義 荘 の 特 徴 は 次 の よう なも ので あ る 。 ① 共 有地 か ら の 収 益 は 、 各施 設 の 維 持 に 用 い ら れ る 他 、 仲 滝 の 四子 を

そ れぞ れ の 房 祖 とす る四 房 を 始 め と し て 合計 7 六 房 に 属 し 、 蘇 州 に 在 住 す る 族 人を 対象 と し て 分 配 され る . 五 歳 以上

の 族 人 に 対 し て 一 人 当 り 毎 日 一 升 の 割 合 で 白米 を 給付 し 、 ま た 冬衣 を 支給 す る こ と 、あ る い は 婚 姻 ・ 喪 葬 など の 費 用

や 科 挙 受験 へ の 援助 な どが主 な 収 益 分配 の 内 容 で あ る 。 ② 義荘 の 運営 は 、 年 長 で 「賢 」 た る こ と を 条件 とし て 選 出

され た 掌管 人 が 主宰 し た が 、南 宋 の 成淳 一 〇 年 ( 二 一七 四 ) に は 、主奉 (= 宗 法 に お け る 宗 子 ) が 設 けら れ 、 祖 先 祭

紀 の 主宰者 とし て の 主 奉 が 義荘 運営 の 最高 責 任 者 の 地 位 を 兼 ね て 、苑氏 宗族全体 を 統 率 す る 体 制 が 整 えら れ て い る 。 (33 ) 両氏義荘 は 北 宋 の 開設 以 来 、 元 末 に い た るま で 幾 た び か の 危 機 を 乗 り 越 え て 存続 したが 、 そ れ の み で な‑ 、 官 界 と

の 接触 も 緊密 に 維持 し て い た 。乾 隆刊 ﹃苑 氏 家 乗 ﹄ 巻 一 〇 、 「登 進 志 」 に よれ ば 、 苑 仲 滝 の 世代 以 降 、宋代 の 間 に お い (34 ) て 、 科 挙 及 第者、 科挙 に よ る 任官、 恩 蔭 に よ る 者 など 、合計 一 三 〇 人 が 科挙 官僚 制度 と 関 わり をも っ て い る 。 さ ら に 、

元 朝 に お い て も 、 菰氏 は 官 界 と の 関係 を 保 っ て い る 。 同じ‑ 「登進 志 」 で は 、 元 朝 に つ い て 、 郷貢 進 士 7 人 を 含 め て (35 ) 一 七人 を 登載 し て い る 。任官 者 の 多 ‑ は 諸 路 の 儒 学 の 教 授 ・ 学正 ・ 訓導、 県 の 儒学教 諭 、 及 び 書院 の 山長 など で あ り 、

この 他 、諸 県 の 主 簿 、行 用 庫 副使 の 職名 が み え る 。 こ の よ う に 、儒学教 官 、書院 山長、地 方 の 下級 官吏 を 送 り だ した

両氏 は 、全体 とし て は 科挙 に よ る 任 官 の 道 が 実 質的 に ほ とん ど 閉ざ され て い た 元 朝 の も と で の 江 南 士大 夫 と 官僚制 と

の 関係 を 如 実 に 示 す 一 つ の 事例 と い っ て よ い 。 そし て 、 かか る 官僚制 と の 関 わ り は 、苑 氏 の 宗 族 が 任官 者 を 国 家 に 送

(20)

り 出 す と い う 体 質 を 元 朝 に お い て も な お 保 持 し て い た こ と を 物 語 る で あ ろ う 。

苑 氏 義 荘 は こ の よ う に 、 義 田 と い う 宗 族 共 有 財 を 永 代 的 な 経 済 基 盤 と し て 宗 族 集 団 を 維 持 し た 点 に 基 本 的 特 徴 が あ

り 、 蘇 州 在 住 の 族 人 に 対 す る 恒 常 的 な 義 田 収 益 の 分 配 に よ り 、 経 済 的 側 面 に お い て 族 人 を 宗 族 に つ な ぎ と め る こ と が

で き る の み な ら ず 、 義 学 の 設 置 、 科 挙 受 験 者 へ の 援 助 な ど 官 僚 機 構 へ と 人 材 を 送 り 出 す 機 能 も 充 実 し て い る 。

菰 氏 義 荘 の 創 始 以 来 、 苑 氏 を 模 倣 し て 義 荘 を 設 立 す る 風 潮 が 巻 き 起 こ っ て い る こ と は 、 す で に 清 水 盛 光 氏 が 検 討 し (36 ) て い る と こ ろ で あ る が 、 江 南 に お け る 義 荘 設 立 の 風 潮 を 物 語 る 史 料 と し て 、 南 宋 の 劉 幸 の 「希 嘘 張 氏 義 荘 記 」 (﹃ 乾 隆 ・

金 壇 県 志 ﹄ 巻 十 、 記 ) を 掲 げ て お き た い 。 こ の 一 文 は 、 義 田 四 百 畝 を 設 け 、 申 義 書 院 を 設 立 し て 「族 の 子 弟 」 を 教 育

し た 希 嘘 の 張 氏 に つ い て 記 す が 、 そ の な か で 、

近 世 名 門 鮮 克 永 世 、 而 苑 公 之 後 独 余 二 百 年 綿 十 余 世 、 両 津 不 斬 也 。 自 公 作 始 、 呉 中 土 大 夫 多 倣 而 為 之 。

と い う 。 当 時 の 士 大 夫 は 、 長 期 に わ た っ て 存 続 す る 名 門 の 家 系 が 少 な い な か で 、 苑 仲 滝 以 来 二 百 余 年 、 義 荘 を 維 持 し 、

名 門 と し て の 家 格 を 保 っ た 苑 氏 を 模 範 と し て 、 相 継 い で 蓑 田 (義 荘 ) を 設 け た と さ れ る の で あ る 。

宋 渡 等 が 伝 え る 宗 族 の 事 例 の な か に も 、 い ‑ つ か の 義 荘 を 見 出 す こ と が で き る (合 計 で 五 例 )。 最 も 早 期 の 事 例 と し

て は 、 宋 藻 が 諸 聾 県 の 黄 氏 の 族 譜 に 寄 せ た 序 の な か で 伝 え た 事 業 が あ る 。 そ れ に よ れ ば 、 宋 朝 の 時 、 黄 振 (贈 衛 尉 少 は

卿 ) の 妻 の 劉 氏 は 、 「劉 氏 、 嫁 資 を 斥 ぞ け て 、 以 て 義 田 を

り 、 均 し ‑ 淵 族 に 給 す 。 故 に 其 の 三 子 十 孫 、 多 ‑ 腺 仕 (厚 のぼ 禄 を 受 け る 官 ) に 折 る 」 と あ る よ う に 、 嫁 資 を 資 本 と し て 、 嫁 ぎ 先 の 黄 氏 の 一 族 を 対 象 と し た 義 田 を 設 け て 、 一 族 に

収 益 を 分 配 し 、 こ れ に よ り 、 黄 氏 の 子 孫 に は 任 官 者 が 輩 出 し た と 伝 え ら れ る 。 そ の 筆 頭 に 挙 げ ら れ る の は 育 (広 南 西

(21)

2 9 3

路 の 提 点 刑 獄 使 ) で あ る が 、 ま た 、 彼 の 従 子 の 汝 揖 (朝 請 郎 ) に 八 子 あ り 、 そ の う ち の 五 人 は 科 挙 及 第 を 果 た し て い

る (恥 3 )O 黄 氏 の 義 田 設 置 も 、 当 時 に お け る 義 荘 設 立 の 風 潮 の な か で 行 な わ れ た も の の よ う に 思 わ れ る が 、 こ の 事 例

を 通 じ て も 、 義 荘 と い う 宗 族 組 織 が 官 僚 を 送 り 出 す 機 能 を 有 し て い た こ と を 確 認 で き る 。 ち な み に 、 当 該 の 族 譜 の 序

は 、 劉 氏 に よ っ て 設 置 さ れ た 義 田 が そ の 後 ど の よ う に な っ た の か は 伝 え て お ら ず 、 明 初 に な っ て 、 よ う や ‑ 振 の 子 孫

の 周 が 族 譜 を 編 纂 し た こ と を 記 す の み で あ る 。 後 述 す る よ う に ' 義 田 (義 荘 ) の 維 持 は 極 め て 困 難 な 事 業 で あ り 、 し

ば し ば 崩 壊 し て い る こ と を 念 頭 に 置 ‑ と 、 お そ ら ‑ 劉 氏 に よ っ て 設 置 さ れ た 義 田 も そ の 後 消 滅 し た の で は な い か と 推

察 さ れ る 。

元 未 明 初 期 に お い て は 、 次 の よ う な 事 例 が 伝 え ら れ て い る 。 ヨウ 処 州 府 龍 泉 県 の 湯 氏 。 宋 代 に 武 翼 大 夫 の 大 節 な る 者 あ り 、 そ の 子 は 望 、 望 は 父 の 恩 蔭 を 弟 に 譲 っ た 。 望 の 子 を 鋸 と

すく

言 い 、 時 に 宋 朝 が 倒 壊 す る と 、 若 ‑ し て 隠 居 生 活 に 入 り 、 「義 を 行 い 、 田 二 百 畝 を 置 き 、 以 て 同 族 を

う 」 と あ る よ う (37 ) に 、 二 〇 〇 畝 の 土 地 を 設 置 し て 族 人 を 救 済 し た 。 こ れ が 、 湯 氏 に お け る 義 荘 の 開 始 で あ る 。 こ の 義 荘 が 発 展 を 遂 げ る

の は 、 鋸 の 子 の 京 の 時 代 に お い て で あ る 。 京 は 、 字 を 師 声 と い い 、 元 末 の 至 正 八 年 ( 二 二 四 八 ) に 世 を 去 っ て い る 。

京 は 才 能 に 優 れ 、 州 学 に 入 っ て 、 1 且 は 科 挙 を 目 指 し た が 、 後 に 科 挙 の 道 を 退 け て 医 道 を 志 し 、 仁 済 堂 と い う 医 院 を

開 い て い る 。 ま た 、 京 の 兄 は 溝 と い い 、 そ の 子 の 槽 は 龍 泉 県 学 教 諭 に 任 じ ら れ た 。 京 が 兄 の 演 と 共 同 で 行 な っ た 事 業

は 、 父 以 来 の 義 田 の 増 殖 (そ れ ぞ れ 1 0 0 畝 を 拠 出 )、 睦 僻 堂 及 び 立 本 ・義 原 の 二 斎 か ら な る 施 設 の 整 備 、 義 塾 の 設 置

と 一 族 の 優 秀 な る 子 弟 の 教 育 (「 合 群 族 俊 彦 ' 聴 碩 師 誘 辿 之 」 )、 義 田 か ら の 佃 粗 収 入 を 貯 え る 倉 の 建 設 と 族 人 へ の 分 配 (「 労 列 席 庚 、 以 貯 田 粟 、 侯 時 而 分 給 」) な ど で あ る 。 時 に 、 湯 京 は 、 肇 州 の 儒 者 の 季 仁 寿 を 「 一 郡 の 望 」 と み な し 、 (38 ) 義 塾 の 師 と し て 招 い て い る 。 季 氏 は 後 に 肇 州 路 儒 学 教 授 に 任 じ ら れ た 0 (zd 3 )

(22)

キユウ

金 華 府 永 康 県 太 平 里 の 「大 族 」 呂 氏 。 呂 氏 の 始 遷 祖 は 、 河 南 か ら 移 住 し て き

た玖な

る 者 で あ り 、 そ の 玄 孫 は 浩 、 ま

ヤク

た 、 浩 の 弟 は 源 と い い 、 「義 を 行 な う 」 に よ り 、 朝 廷 か ら 族 表 さ れ た 。 源 の 玄 孫 の

は 元 朝 に 仕 え て 永 康 平 と な り 、 そ ブ

の 子 は 汲 、 孫 は 機 、 曽 孫 は

と い う 。

文 爆 (字 は 用 命 ) の 時 代 に は 、 元 朝 が 弱 体 化 す る 形 勢 の も と で 、 各 地 で 様 々 な 反 乱 が 勃 発 し て お り 、 漸 東 で も 、 至

正 年 間 ( 一 三 四 一 年 ‑ 一 三 六 八 年 ) の 末 期 、 処 州 か ら 発 生 し た 反 乱 軍 が 永 康 県 城 を 陥 落 さ せ る と い う 大 事 件 が 起 こ っ プ

て い る . こ の 時 、 文 健 は 、 「家 資 数 千 寓 」 を 醸 出 し 、 弟 の

と と も に 「里 の 壮 強 の 子 弟 」 三 千 人 を 集 め て 義 勇 軍 を 結

成 し 、 県 城 を 回 復 し た 。 元 朝 の 大 臣 は こ の 挙 を 義 と し て 門 間 を 族 表 し 、 差 役 を 免 除 し て い る 。 「要 ︹州 ︺ の 巨 室 ・ 細

民 、 幸 い に も 盗 に 通 わ ざ る は 、 悉 ‑ 功 を 呂 氏 に 帰 す 」 と い う 。 莫 大 な 資 産 を 抱 え 、 か つ 郷 里 に も 絶 大 な 影 響 力 を も つ

家 で あ っ た と い え る 。 そ の 後 、 朱 元 埠 が 要 州 に 進 軍 し 、 こ の 地 域 を 支 配 下 に お さ め た 時 に は 、 文 燈 の 族 人 が 彼 の 名 前

を 用 い て 朱 元 埠 の 幕 下 に 降 り 、 こ れ を 喜 ん だ 朱 元 埠 は 特 に 永 康 巽 を 設 け て 文 健 を 左 副 元 帥 兼 知 県 事 に 任 命 し た も の の 、

当 時 所 用 に よ り 文 健 は 杭 州 に 滞 在 し て い た た め 、 代 わ っ て 弟 の

が そ の 職 を 受 け た 。 文 健 が 帰 郷 す る と 、 庸 田 司 経

歴 な ど に 任 じ ら れ 、 更 に 漸 西 の 地 域 が 平 定 さ れ る と 、 嘉 輿 知 府 に 就 任 し 、 洪 武 三 年 ( 二 二 七 〇 ) に 亡 ‑ な っ て い る 。

呂 氏 で も 、 義 荘 を 設 立 し て い る 。 文 燈 の 祖 父 の 汲 は 、 「嘗 て 上 世 立 つ る 所 の 義 田 を 修 め 、 以 て 族 人 に 食 せ し め 、 学 を つ 置 き て 以 て 子 姪 に 教 う 」 と い う 。 義 田 に よ る 族 人 救 済 と 義 学 に よ る 教 育 で あ る 。 「君 に 至 り て 、 其 の 志 し を 鍾 ぎ 、 卒 に

之 を 成 す

と あ り 、 文 健 は そ の 志 し を 受 け 継 ぎ 、 更 に 義 荘 を 整 備 し た も の と 思 わ れ る 。 元 末 、 朱 元 埠 が 要 州 に 進 攻 し

た 際 、 族 人 が 文 健 の 名 前 を 用 い て 朱 軍 に 加 わ っ た と い う 前 掲 の 事 件 に は 、 文 健 の 家 と 族 人 と の 緊 密 な 関 係 が 窺 わ れ る

が 、 そ の 背 景 に は 、 義 荘 を 中 心 と す る 宗 族 の 結 合 が 存 在 し た と 推 測 さ れ る O (恥 8 )

貝 壕 は 、 寧 波 府 都 県 の 韓 氏 に つ い て 記 し て い る (恥 48 )。 韓 氏 は 代 々 定 海 県 (寧 波 府 ) に 住 ん で い た が 、 後 に 都 県 に

参照

関連したドキュメント

study of formationof gibbsite irom plagioclase -The clay minerals in the Daisen loam and.. Sambesan

[r]

「聞こえません」は 聞こえない という意味で,問題状況が否定的に述べら れる。ところが,その状況の解決への試みは,当該の表現では提示されてい ない。ドイツ語の対応表現

この小論の目的は,戦間期イギリスにおける経済政策形成に及ぼしたケイ

平成16年の景観法の施行以降、景観形成に対する重要性が認識されるようになったが、法の精神である美しく

1、研究の目的 本研究の目的は、開発教育の主体形成の理論的構造を明らかにし、今日の日本における

∗∗ 正会員 東北大学教授 工学研究科 土木工学専攻(〒 980–8579 宮城県仙台市青葉区荒巻字青葉

In this paper, generation mechanism of such a sea level rise and dynamics of the surge is discussed using the ADCP current data obtained during the storm as well as the tide and