【論文】
森田恒之
絵画技法の歴史(2)
第三章 油絵の誕生
―
十五世紀フランドル派の油絵技法 第一節 北欧板絵の継承一.ファン・エイク兄弟の板絵印刷の歴史はドイツのグーテンベルクの名で書き始められる︒同じ
ように︑油絵の歴史はいつもフランドルの画家ファン・エイク兄弟の名で書き始められてきた︒その流れの源流をつくったのはジョルジ
オ・バサーリである︒彼はイタリアルネッサンスの画家であるが︑それ以上に彼の名を今日に残さしめたのは︑同時代の美術家たちの伝記
作者として︑である︒その記述の一部に︑フランドルから新しい油絵の技法を伝えた人として︑アントネルロ・ダ・メッシーナのことを記
し︑その中で油絵技法の発明者をファン・エイク兄弟としたことに端を発している︒
しかし︑絵具の媒剤に油を用いるようになったのは︑もっと古い時代である︒中世の絵画にも見られるし︑さらに古くは︑古代ギリシャ
の文献にも記されており︑それはすでに周知の事実であった︒近年の調査では︑それにもかかわらず︑フェーベルトとヤンの兄弟に対して
この偉大な名誉を捧げたのは︑一体どんな理由があってのことだろうか︒今日では︑この兄弟への評価は﹁彼らの偉大な功績は油絵具の改
良である﹂というふうに改められているが︑本質においては大して違わない︒そのあたりを少し詳しく探ってみたいと思う︒
ベルギーのゲント市にあるサン・バボン教会の祭壇画﹃神秘の小羊﹄は︑ファン・エイク兄弟の代表作であるばかりでなく︑十五世紀 フランドル絵画の最高傑作︑いや︑世界美術史上でも最高傑作の一つである︒この作品が一九五〇年から五一年にかけて修復された︒その大規模な修復作業はベルギー王立博物館中央科学研究室︵現在は独立して王立文化財研究所IRPAと改称︶によって行われたが︑それと並行して︑同研究所長P・コールマン博士の指揮で全面的な科学調査がおこなわれた︒その結果︑これまでベールに包まれていた絵画技術史上の多くの秘密が明らかになった︒その後も同研究所では︑ファン・エイク兄弟の作品以外に︑国内外にあるフランドルの作品につい
て︑折を見ては同様の科学調査や修理作業を続けており︑それらの絵画技術を解明している︒その調査および修理の記録を土台にし︑そめ
他の資料を補足しながら︑初期フランドル派の油絵技術の再構成を試みてみよう︒
﹃神秘の小羊﹄について今日なお美術史家の問で論議が続けられているのは︑兄弟がこの作品のどの部分を分担して制作したかという点
である︒これは興味ある問題ではあるが︑技術史の観点から見れば︑同時代にほぼ同じ方法で制作した二人を区別することはきわめて困難
である︒技術史のテーマは︑一人の画家の個性より︑その個性の表現を支えた﹁物と方法﹂の探究にあるのだから︑両者の区分には触れな
いつもりである︒
二.カシワ材の使用﹃神秘の小羊﹄︵図1︶の中央パネル︵137・7×242・3
cm
︶は四枚の横長のカシワの板が上下方向につなぎ合わせてあり︑翼扉はそれぞれ一ないし二枚の同じくカシワの板を縦方向につないで構成され
ている︵図
北欧の教会建築は︑光の乏しさを
2
︶︒補うために︑南欧のものより窓を大きくとりその分だけ壁を小さく設計
した︒その他︑資源的な理由などもあって︑南欧の教会に隣かれる壁画
の代わりに板絵形式の祭壇画が発達することになった︒これは油絵の歴
史を調べる上でもきわめて重要な事項である︒
フランドルやドイツ︑スカンジナビア諸国︑北フランスなどの北欧圏では︑特に十五世紀において︑板
絵の支持体にカシワの板が最も多く用いられた︒そのほかには︑南ドイツで多く用いられた菩提樹をはじめ︑クルミ︑クリ︑ヤナギ︑糸ス
ギ︑カバなどが︑ほぽこの順番に多く使われていた︒地域によってはこの順序が入れ換わることもあるが︑同時代の彩色木彫像︵ポリクロ
ミー︶の素材の使われ方とだいたい一致する︒木材の選択はその資源になる植物群落の形成状態とかなり深い関係をもっており︑イタリア
を中心とする南ヨーロッパ圏ではポプラ材が最も多く使われている︒カシワ材の最大の資源地帯はスカンジナビア地方であり︑中世以
来︑フランス︑フランドル︑イギリスなどに対するノルマン入の重要な輸出品であった︒フランドル地方では特に港に近い都市でこれを製
材加工し︑フランドル材という名で盛んに再輸出していたということである︒このカシワ材は板としては重いが︑木目がよくつまった堅 い木である︒木材は乾燥した後も空気中の水分を吸ったり出したりして︑いわゆる呼吸をしているが︑それが原因で︑板にしたときに絶えず多少の伸縮が起こる︒だから︑板絵の支持体として用いた板の伸縮が度重なると︑固定されている画面との間に歪みが生じて︑画面に亀裂が入る︒こうした損傷は避けられないので︑被害を最小限に止めるには︑伸縮の少ない木材を選ぶしかない︒常時多湿な地中海地方に比べて北欧は湿乾の差が大きい︒だから︑多少重くても伸縮の少ないカシワ材が用いられたのはうなずける︒その他の木材についてはそれ
ぞれの土地で入手しやすいものを使用したのであろう︒輸送に
関する記録はあまり見られない︒
図
1 ファン・エイク『神秘の子羊全図』
図
2 『神秘の子羊』パネルの板材構成
125 256
240 32.5
36.5
35.0
34.0
52 51
146
157
(数字の単位はcm) 131
51 52
三.十五世紀のキャンバス油絵の支持体として現在最も普及している麻や綿布のキャンバス
は︑当時はまだほとんど使用されていなかった︒布が用いられるようになるのは︑ほぼ十五世紀末に近くなってからである︒それも現在の
キャンバスのように木枠に強く張られた状態のものではなく︑仮に糊やニカワで貼りつけて用いられた︒布目は現在の普通の麻布を少し粗
くした程度のもので︑かなり糸も細く︑薄手のものが多かった︒しかも︑布製のものを使うのは︑主として習作か︑または徒弟が独立した
画家︵マスター︶として画家組合に認めてもらうための資格認定試験に提出する作品を描くときで︑作品としての重要性はあまりないもの
に限られていたようである︒この種の遺例は非常に少ない︒一枚の板を何回も用いるために︑絵を描くたびに布を貼り変えていたのではな
いかと考えられる︒当時は︑画用の板がそれほど高価なものだったのである︒二十世紀末近くなって︑麻布を板に張った個人所有の小品
の聖像画がいくつか発見されているが︑個人での板絵購入は負担が重かったのだろう︒
カシワ板がいかに堅いといっても︑環境の変化によって伸縮が起こる︒板が反ったり割れたりする状況を想像すればすぐに分かるような
問題が生じるのである︒この伸縮が画面︵絵具層︶に影響を及ぼさないようにするために︑板と地塗りの層との間に布を貼り︑一種のクッ
ションとした例は︑十五世紀以前のテンペラには見受けられる︒スカンジナビア地方に発達した板絵祭壇両はかなり厚い板を用いたが︑や
はり布を貼った例が多い︒それに対して︑フランドル・オランダ派では︑十三世紀以前のものに若干の事例があるが︑十五世紀の盛期フラ ンドル派絵画になるとその例はあまり見られなくなる︒ボッティチェルリのあの﹃ヴィーナスの誕生﹄︵一四八五年頃︶が︑現在使ってい
るようなキャンバスに描かれた最初の名作だといわれているけれども︑時間的には︑ほぼ正しいと思われる︒
四.板の精選
板絵に用いられる板は極上の柾目板に限られていた︒木目は平行にはしり︑その間隔もほぼ一定のものが選ばれた︒図
3
のレントゲン写真はそのことをよく示している︒板の大小に関係なく極上の板が使われたが︑大作ともなるとこうした上等の板がたくさん要り︑しかも︑
十分に精選された板でないといけないから困難があった︒そのことからも︑その作品が重視された度合いが想像できるのである︒例えば
﹃神秘の小羊﹄の中央パネルに使われている一枚の板の幅は約
チ平均であるが︑これだけ精選された板だと︑年月の経過に伴う板の
35
セン歪みも最小限に止まり︑見苦しい損傷があまり起こらない︒チェンニノ・チェンニーニは﹃絵画術の書﹄の中で︑パネルの制作
に当たっては︑板を採る木材は製材前に長期間水に浸し︑いわゆる水中乾燥することによって
歪みを防ぐことが絶対に必要だと説いている︒い
かだで海上輸送してくる木材を使ったフランドル
人が︑同類の知識をもっていたことは十分に想像
図
3
15
世紀板絵(部分)のX線写真
できよう︒スカンジナビア地方を中心に南はフランドルに至る北欧一帯は︑木
材資源の豊富な産地であったから︑かなり古くから板絵形式のものが発達したわけであるが︑その多くは厚さが
3
センチ以上に及ぶ厚板を用いている︒これは丈夫さを考慮してのことであろうが︑今日では異常な反りを生じて保存上の難題を呈している例が少なくない︒これ
に対して︑十五世紀フランドルに開花した新しい板絵では︑﹃神秘の小羊﹄に使われているものが厚さ約
1
・3
センチで︑他の作品もほぼその前後であるから︑ずっと薄い板を用いるようになったことが分かる︒この地方では製材技術も相当に発達していたのである︒それでも
反りや歪みが起こらないわけではないから︑裏面を補強する︒扉絵形式の祭壇画などは︑翼扉を閉じても間いても別々の絵が見えるように
板の両面に絵が描かれるから︑絵具層が大気中の水分を遮断して板の歪みが抑制される︒両面彩色は単に見かけの問題だけではないのだ︒
しかし︑中央パネルやその他の独立した板絵は︑片面だけしか絵を描かないことが多いので︑反りや歪みを防ぎきれない︒そのために︑
ほとんどの場合︑裏面からあて木などで補強する︒歪みを生じたものは︑後世になって木製の格子枠をニカワ付けしたり︑金具をネジで締
めつけて取り付けたりして︑板の補強と抑制をおこなっている︒
五.板の継ぎ合わせ大きなパネルをつくる場合は板を継ぎ合わせなければならない︒絵
の構図によって縦方向にも横方向にも継がれた︒継ぎ方には二つの方法がある︒ひとつの方法は︑両方の板の側面に穴をあけ︑木釘を挿し 込むもので︑﹃神秘の小羊﹄はこの方法を使っている︒もうひとつの方法は︑両方の板の継ぎ目に切り込みをつくり︑方形または蝶形のはめ木をして継ぐ︒後者の方法はほんのわずか時代が下がるが︑多くの例がある︒いずれの場合も︑接合面に獣膠かカゼインを施して接着する︒これは板がずれるのを防ぐための処理であることはいうまでもない︒板絵に使う板には節などのない極上のものを使用するのが原則であり︑この原則は主要画家や主要作品については完全に守られている︒
しかし︑少し時代が下って十五世紀末以降には︑作品の需要が漸増するからか︑無名の画家の小作品などに例外的に節のある板が使用され
た例がある︒この場合は︑必ず節を含む部分を大きくくり抜き︑木目の似た別の板でそこにはめ木をして︑見掛けは上等の板として用いら
れている︒絵が描かれる方の面は︑一様に平らに削る︒修理技術関係者の中に
は︑下地を着きやすくするために板の画に切り傷などをつけたと主張している人もあるが︑私が調べた限りでは︑それらの人々が挙げてい
る例を含めて︑そのような処理をしたものは見つからなかった︒そうした傷は︑後になって修理するときに︑部分的に欠損部を補填した
場合につけられたものが多い︒レントゲン写真などを用いて調査しても︑それに該当するような線の交差による下地の厚さの不均一はほ
とんど見出すことができなかった︒したがって︑面を平らに削ったとするのが適切だと考える︒鉋が未発達な時代なので︑手斧や平鑿の類
で削るから完全平面ではなく︑下地の必要理由の一つはその補正でもあった︒
なお︑今日の額縁に当たる部分であるが︑これは絵画の一部として︑ほとんどすべてパネルと同一の木材が使用されており︑パネルおよび
額縁部分の製作には木工師の組合が当たった︒だから︑画家の仕事は次の下地づくりから始まる︒
第二節 板絵の下地と絵具
一.板絵の下地づくり
パネルができたら︑下地
pr eparation
を施す︒北欧では︑主として白亜︵別名いしこ︑天然産炭酸カルシウムCaCO
3 ︶を用いた︒カキ灰というのもわずかに知られているが︑組成上は白亜とほぽ同じである︒一方︑南欧では石膏︵俗にパリ・プラスター
plaster of Paris
といわれる無水石膏︶または︑白亜と石膏の混合物が用いられた︒あるいは︑消石灰︵実用的には白亜に類似する︶が用いられたこともある︒まず︑白亜・石膏・その他の粉体を砕いて︑よくふるいにかけ︑微
粒のものに揃える︒これを容器に入れ︑別に煮ておいた濃い目の獣膠の液を注いでぺースト状に練りあげ︑固まらないように少しずり温め
ながらパネルの上に平らに塗布する︒掌のぬくもりぐらいのものが作業には適しているとされる︒下地をしっかりとパネルに密着させるに
は︑刷毛よりもヘラの類で塗りこむ方がよい︒今でも板絵を修理補填するときはこれらと同じ材料・類似の方法を使っている︒今でも板絵
を修理補填するときはこれらと同じ材料・類似の方法を使っている︒イタリアの諸派がおこなった石膏下地は︑膠水でゆるくといだ石膏 を刷毛で塗ったあと表面を平らに削ることを繰り返しす方法である︒そして︑最後に表面を平らに研ぎあげる︒
ところで︑十三世紀の画僧テオフィルスの残した﹃さまざまな技法について﹄には﹁鉛丹または朱を水ではなく油を用いて石の上で練
り︑赤みをつけたいと思う扉部またはパネル面に刷毛で塗布して日光で乾かす︒この上にまた同じものを塗り再び日光で乾かす﹂︵第一書
二〇節︶と書かれている︒この記述によって︑赤い下地が使われたようにも考えられるが︑この記述に合う実例も︑あるいは実鉦された記
録資料も︑私は長い間︑見たことかなかった︒それまでに私が調べた限りでは︑赤色下地はすべて土性顔料を主体としたものであった︒他
の研究者も半信半疑で︑そのような用例が実在したが否かすら怪しんでいた人も少なくなかった︒ところが︑それが実在していたのであ
る︒一九七二年の夏︑冒頭に述べたベルギーの王立文化財研究所に修理を委託された一群の作品の下地がまさにそれであった︒いわゆるタ
ブローではなかった︒ベルギー西部の町ニープルの教会に保管されていた十四世紀末の作とされる聖蹟箱の側面板である︒田舎の小さな教
会に残っていた聖蹟箱は木製で︑テンペラの一部に油を併用して聖伝者が五つの画面にわけて質素に描かれていた︒その板のすべてに鉛丹
の下塗りが認められたのである︒
二.油絵に適した下地下地層は一層または二層で構成される︒重層のものは︑一層目が
乾燥または半乾きのときに層を重ねる︒下地の層の厚さは120〜160㎛が標準であるが︑400㎛という例も少数ながら存在する︒
ちなみに1㎛は1/1000
mm
だから最厚でも1/2地塗りが出来たらそのまま自然乾燥する︒十分に乾燥したら︑タン
mm
以下である︒ポやセーム皮のようなもので表面を平らに研ぎあげる︒必要に応じて少量の水で水研ぎをすることもある︒そして完全乾燥を待つ︒急ぐと
絵具の着きが悪く︑発色に影響を及ぼす︒仕上がった下地は水性で︑構成的には日本建築の壁の仕上げ塗りと大差はない︒
この下地の上に水や油を垂らすと︑そのまま浸みこむ︒油の場合は多少のしみを残すこともある︒油絵具を用いて描くと︑石膏地の上に
直接に描い現代絵画の場合と同様に︑油絵特有のつやも輝きも全く失われる︒逆に︑光沢を問題としない水性絵具には︑吸いこみのよさが
絵具の固定も助けて利点となり︑最適の下地となる︒つまり︑この下地は油絵用に新たに開発したものではなくて︑以前からあった水性絵
具=テンペラ用そのものを利用しているにすぎない︒しかし︑光沢ある油絵を描くためには︑油が下地に吸収されてし
まっては困るので︑これを抑制する必要がある︒そこで次のような対処をした︒まず下地の表面から膠液を吸いこませ︑下地の表層近くに
膠の層を作る︒この膠液の濃度は不明であるが︑下地づくりのときよりも薄く︑かつ下地の底にまで達しないくらいの濃度だと思われる︒
絵画の破片で断層をつくって調べると︑表層には濃く︑下層には薄く膠が吸いこまれているのが分かる︒複数回の浸透処理をしたのだろ
う︒日本画のドウサ引きと同じ原理である︒膠が乾いたあと少量の乾性油を含ませた布で軽く拭くようにして油を吸いこませる︒すでに膠
の層があるので︑乾性油は表層のごく近くで薄い層をつくってそのまま乾燥する︒ 油を過剰に吸わせることは禁物である︒私たちがおこなった再現実験でも︑油を過剰に使用したときは︑必ずといってよいほど︑表面に残った油が大気中の塵で汚れたり︑かびが発生したりした︒さらに︑油絵具の中の樹脂分や乾燥作用︵厳密には酸化重合反応︶の結果生じ
た樹脂状の物質が下地のすき間に入りきれなくなり︑表面にヤニのように吹き出してきて︑絵を台無しにしてしまうということを確認して
いる︒現在︑模写や修理をする場合には︑油を浸ませた後︑乾いた布で余分な油を丁寧に拭き取るようにしている︒
この膠と油の層は︑上からの吸いこみを止める絶縁層であると同時に︑支持体からの湿気を上の絵具層に伝えない防水層の役目を果たし
ているのである︒地塗りに使った膠に濃度があって︑白亜や石膏の粒子の隙間をかなりよく埋めているときには︑改めて膠引きをしないで
油層を直接置くことがある︒十五世紀も中頃以後のフランドルでは大部分が硬めに練った下地用ペーストを使う︒イタリアでは水気の多い
ゆるめの石膏膠液を刷毛で重ね塗りした︒この違いは︑おそらくこの油層を引くときの効率を考えたものであろう︒油絵技法の確立と普及
に伴って下地づくりにも改革が始まっていたのである︒
三.克明な下描き用意できた下地にデッサンをする︒デッサンは物の形を大まかに描
くのではなく︑細部に至るすべての部分を正確に丁寧に描いた︒さらに︑大体の明確の調子を斜線で表す︒ハッチングである︒このデッサ
ンは︑今日の画家が木炭で大体の構図を決める程度に描くものとは全然違う︒今なら独立した素描画としても十分に鑑賞に耐え得るほど
のものである︒デッサンに用いた材料は︑オーカー︵黄土または焼黄土︶やボーンブラック︵骨炭︶︑葡萄炭などの粉末を練った絵具であ
る︒メデュームは油性の場合と水性の場合とがあるが︑﹁神秘の小羊﹂などの主要な作品では水性の方が多い︒粘性の強い油性メデュームを
用いた絵具よりも︑さらっとした水性の方が細部を描きこみたいときには自由がきくということであろう︒南欧ではテール・ヴェルトが用
いられたが︑特に肌色部分のデッサンにはよく使われている︒こうしたデッサンの様子を赤外線写真で調べてみると︑ヤン・ファ
ン・エイクの名作として名高い﹃聖女バルバラ﹄︵アントワープ王立美術館蔵︶をはじめ︑当時の作品のほとんどが例外なくこのような克
明なデッサンをしていることが分かる︵図
てはちょっと極端すぎるのではないかと思われるものもある︒﹃聖女
4
︶︒しかし︑下描きとしバルバラ﹄はその一つで︑未完成を装った完成作と見る人もいる︒このように精密なデッサンがしてあると︑制作を始めてから後に構
図を変更するということが難しくなる︒例外的にごく小さな部分を変更することはあったが︑大まかな構図の変更かおこなわれた例は︑盛
期にはあまり認められない︒逆に言えば︑彩色技法上の制約があって構図を変更することが不可能であったから︑これだけ正確に下描きす
る必要があったということにもなる︒その点はの
ちの彩色の項でも触れる︒
赤外線撮影を利用した研究によれば︑このデッ サンの下にもう一つ粗描きをしている例があることも分かっている︒それはフレスコ画の場合におこなわれたのと同じような方法である︒
別紙に原寸大のデッサンをし︑その描かれた線にそって点孔をあけて︑色粉またはカーボン粉を用いて画面にトレースする方法でおこなわれ
たと思われる︒油絵にこのトレース法をおこなっている例はあまり多くは確認されていないが︑十六世紀のものにはこれに用いたトレース
紙の遺例が若干見つかっている︒例えば︑有名なものとしては︑レオナルド・ダ・ヴィンチの横向きの﹃イザベラ・デステの肖像﹄のデッ
サンなどを挙げることができる︵図
にそのような方法がおこなわれていなかったと断言することはできな
5
︶︒だからといって︑十五世紀いが︑十五世紀半ばのイタリアでも紙は貴重品だった︒アルプス以北で紙の生産が始まるのは十五世紀も第
4
四半期に入ってである︒フランドル派がたえず意識していたイタリアのフレスコ画でも︑十五世紀半ばころから︑下図を壁面に直接描く方法から︑いったん紙に描いた
下絵を穿孔法でトレースする方法に変わっていく︒見方を変えれば︑
デッサンを十分に定着させる意味で︑前
段で述べた防水・絶縁層を下地に施す前
にデッサンしたこともあり得る︒再現実
験ではその方が結果としては良いことも
図
4 ファン・エイク
『聖女バルバラ』
図
5 レオナルド・ダ・ヴィンチ
『イザベラ・デステの肖像』
あったが︑仮説の域を出ない︒下図をおく手順は︑多分に画家の意図に従ったように思われる︒実際に高倍率の顕微鏡で画面の断層面を調
べても︑デッサンに使われた絵具が超微量であり︑下地層の表面に残る防水・絶縁層の塗膜があまりにも薄いために︑順序を明確に判定す
ることはできない︒ただ特殊な方法を用いるまでもなく︑デッサンの部分によっては︑注意深く見れば肉眼でも観察できるので︑下地の最
終層を施す前にデッサンした可能性を推測することはできる︒
四.油絵具の活用当時の油絵の謎を解く一つの鍵は︑どのような絵具が用いられてい
たかを調べることにある︒では︑絵具を調べるとして︑まず素材として用いられた顔料および染料に着目してみよう︒当時の作品に見られ
る主な絵具について︑今までに分かすると︑次のようになっている︵表
1
︶︒これらの顔料または有機染料を絵具に練りあげるために用いられたメデュームは︑これまでの微量化学および分光化学の分析検査によっ
て︑テンペラ用メデュームの﹁卵白﹂︑デトランプ用メデュームの﹁膠﹂︑﹁乾性油十X﹂の三種であるということが判明している︒﹃神秘
の小羊﹄にもこの三種が使い分けられているが︑全般的に見て︑膠が単独で使用されている事例は少なく︑主に用いられたのは﹁乾性油十
X﹂である︒このXについては樹脂質のものが含まれていることが判明しており︑一説には松脂から採れるロジン︵別名コロホニウム︶で
はないかとの推察もあるが︑それを証明するに足る材料はまだ何ひとつ見つかっていない︒現在︑有機化学や分光分析などの専門家がさま 表1 十五世紀フランドルの主要顔料
赤朱