江川英龍の人間の哲学
教育学研究室大 谷 時 中
(昭和47年10月28日受理)
序 説 ながら,その自然観・社会観・道徳観を,それぞれ,そ
れらに関係する生活行動のなかに探究し,以て江川英龍一 本研究の意義
の人間の哲学を理会したいとおもう。
情報化社会乃至は流動化社会における一時的なシステ
ムと人間形成の問題を考察しているうちに日本教育史研 二 江川英龍の生涯に展開された生命的活動 究の現代性におもいがいたり,まず,てはじめに徳川幕 掬て,ここで江川英龍の生いたちを瞥見し以て,その 府未期,保守と革新の葛藤を背景にして生きた江川太郎 人物のみかたに資したい。彼は1801年(亨和元年)5月
左衛門英龍の人生的な活動とその思想から彼の人間性を 13日韮山江川屋敷に父英毅の庶子として誕生,1821年ひでたつ素描し,以て,その生涯に浸透された江川英龍の人間の (文政4年)兄英虎の死去によって嫡子となり,1834年 哲学を洞察してみることにした。 (天保5年)父英毅に死別,その翌年天保6年に韮山代
知るごとく彼は伊豆韮山の代官職であったが,その治 官職を仰せ付けられ,家例により太郎左衛門の称を襲っ 世はもとより嘉永年間における反射炉設立の事業や品川 た。すなわち第36代江川太左衛門英龍の人生的活動の門 台場築造のことなどは,よく人口に膳灸され,砲術家・ 出であるが,ときに彼は35才であった。
海防家を以て名をあらわしている。然し,江川英龍に 彼はその幼名を芳次郎(後に邦次郎と改む)と言い,
は,それとともに,また一方には芸術・道徳・教育など 字は九淵,号を坦庵といった。そして,その庵号を 民 の人文的な入となりも,その生活の随処にあらわれてい 民亭 と称したが,この民民亭のいわれについては後述 る。それは彼の天票であると共に,幼少時代における父 する。
江川英毅の交遊関係による面も多いとみられる。すなわ 英龍は5才のときから四書五経の素読や手ならいを仕ひでたけ
ち英龍の父英毅は,性来,文学や美術に造詣を有し,大 込まれ,剣,柔,槍,弓,馬などの武術とともに,絵画,
さようへい
国士豊,山梨稲川,大窪詩仏,頼 杏坪,杉田玄白,歌 書道,詩歌,俳譜などの文芸的な教養も修得し,略,そ
川豊国,谷文晃など文化人との交際がひろく,英龍は の一般的教養が形成されたのは17才の秋であったといわ自然にそれらの人々の影響を亭けながら成長したものと れる。殊にその文芸的な教養に異色をみるのは,彼の絵
考えられる。殊に,山梨稲川は文化4年6月,韮山江川 画は大国士豊や谷 文晃に,書は市川米庵に,詩文は大 邸の客人になったが,当時7才の幼童であった英龍が座 窪詩仏に,経書は頼杏坪などと,夫々第一流の専門家興に画いた山水のできばえを激賞し, 江君の次子頗る に指導をうけいてたということであり,また,それらの 聴明 としるしている。尤もその頃英龍は・大国士豊よ 大家から指導をうける能力が彼にそなわっていたという
り画法を学んでいたということである。あまつさえ,富 ことである。
士箱根連山という自然的環境につつまれて成長した英龍 また本論でとりあげるが,後に彼の人生的な実力発揮 には・かかる文化的な家庭環境と相埃って,厳しい躾の となる尚歯会や蛮社の獄を背景とするその革新的な思想
なかにも,自然な自由の精神が陶冶されていたものであ および洋学に基盤をおく砲術,ならびに海防に関するろう。だから彼には,その身分は代官職という幕臣にあ 自然科学的な技術観などは,その頃まなんだ杉田玄白の りながらも,幕臣と幕閣というような,当時に於ける封 蘭学に影響されるところがおおく,江戸表在住中の20才
建的権力や職階制の枠を超えた特異なる人間性が具わっ 頃には外国事情の研究にも関心を有し,22・3才ごろにていたのである。その人間性を・偏見と差別のメカニズ は,西洋砲術と蘭学の才能を有していたといわれる。だ
とき
ムにおおわれていた幕末という時のなかに再吟味するこ から,渡辺華山は,もとより英龍にとって最大の師であ
とも無意味てはあるまい。 り友であるが,然し英龍の洋学に対する関心は華山などそこで,江川英龍の天稟発揮の内発的動因になったそ との接触で急に成長したものではなく,既に20代から,
の人格を,外発的動因になった幕末の事情に噛みあわせ 代官職につく以前からそなわっていたもので,このてん
に於て吾人は英龍が時代の歴史を洞察していた燗眼に留 退職(天保十四年閨九月)を去る十一年,日米仮条約調
意しなければなるまい。更に,間宮林蔵の北海探検や 印(安政五年六月)に先だつ事四年,井伊大老の横死伊能忠敬の沿海実測なども,青年期における英龍の世界 (萬延元年三月三日)に先だつ六年,地下には般々とし
ただよし観におおきくコペルニクス的転回をあたえたものとみら て物すごき遠雷の轟くを聞きつつも未だ破裂せざる噴火
れる。 山を辞して平穏無事なる黄泉国に旅立ちたることを以このような幼童期ならびに青年期における入間的な修 て,最後の大切りに顕はれず,従って其の名の伝へらる 錬は,擁てその壮年期である三十有五にして亡父英毅の る事当時三兄弟と謡はれし川路輩に及ばず(川路左衛門
跡目を相続するや,安積良斉の所謂〃文武兼備雄略絶 尉,羽倉外記とを合せて三兄弟と称す),而も彼れが当あさか倫〃なる人格のあらわれとなり,かの徳川斉昭をして, 時幕府に於けるアクターの重なる一人なりし事は,消麿
〃周朗も君には三舎を避く可しと,その豊かな学芸を すべからざる顕著の事実なり。」と。更に氏はくわえて, 2)驚嘆せしめている。這般について,勝海舟の氷川清話 英龍は砲術家としては高島秋帆と肩を並べ,開化進歩の
には「嘉永安政年間に在り,海防の事に簿慮尽力せし 先覚者としては渡辺華山,高野長英の右にいで,絵画に は世の知る処なり。氏は山野に成長し,常に山猟等に筋 於ては谷文晃の門弟中出藍の誉を高くし,書は市川米
骨を錬り,明くれ武事に余念なかりしも,また書画遊技 庵に学びて一家をなし,そして代官職としては,経済,
あけにも通じ,人の及ばざる所あり。嘗て水戸邸に召されし 土木,産業,文教,保健などに卓越せる良二千石なりし 時,烈公戯に侍臣に命じ,琴一張を取出し所望ありけれ ことを讃美しているが,蓋し同郷の・M青を超えて客観的 ば,氏大に困却し再三辞すれどもゆるされず。因て己む な英龍に対する人物観であると云えよう。そこで氏は,
を得ず膝に取上げ一弄するに,其音悠揚にして平素の武 かかる英龍の人物が何故それほど入口に噌奥されないの 骨なるに似合す,極て巧妙なりければ,満座の人々皆節 であろうかと言うことに就いて,五つの原因を挙げてい
を撃て感称せしとそ。」と誌されている。 る。
シ方,その晩年,曇は齪奉行吟味役として登用せら 「・,彼れが鮪の士なりし事換言すれば蔽其の
れる直前の安政2年(1855)1月16日に風邪から肺炎を 他の雄藩…の如く,順境者,勝利者たるの地位に立たずし 併発して55才の人生を江戸の本所屋敷におわるが,徳川 て,敗者逆境者の中に在りしこと。
斉昭は,〃国事多端の際一方の長城を失はんとす〃と嘆 2,彼れの死の比較的早かりしこと。
じ,閣老阿部正弘は働突やまず〃空蝉は限りこそあれ真 バッ爵ラ揖位底く,大政に参するも常に局面に立たずし
心に たてし勲は世々に朽ちせじ〃の一首を,その霊に て後庭に在りしこと。 ドラマチツク
手向けている。 4,彼れゑ宇塑テ『情を価す可き劇曲的のペーヂ少 伊豆大仁の人で西欧諸国の公使などを歴任後,国際技 なき事・即ち変化に乏しかりしこと。
術者連合会長をされた矢田七太郎は,明治35年,氏が東 5・門下親友等の明治に残りしも単に砲術なるもの 京帝国大学法学部に学びし頃,器〃江川坦庵〃を公に の師弟の関係にして遺風を発揚するものなきこもテ」
オているが,韮山中学にまなび英龍の嗣子英武の薫陶を これら五つの原因は何れも英龍の歴史的名声に対する うけた同氏は,その幼時に祖父の膝下で桃太郎やかちか 阻害をなしているものとおもわれるが・殊に第二にあげ ち山とともにきいた〃お代官様,韮山様,英龍〃のはな られた彼の急死は,英龍個人の人間的活動という観点は しは,ただただ恐怖を以てきいていたことを述懐し,し もとより,当時における日本の国際晴勢よりみても惜し かし,われ長ずるに及ぶや英龍が尋常一様ならざる代官 むべきことである。若し天寿数年くわわれば・英龍の洞 であったことをわきまえ,ここに英龍のかくれた人品を 察と卓見は,恐らく日本開化の指針を与えたことであろ 後世に伝えんと次のように筆をとっている。「……幕府 う。幕閣の外にありながらも,おそれずその所信を閣老 百年の長計のために身心を郷ちたりし幕未政治家を数ふ に上申した彼の真理感覚・それが聴て閣老の信を得て勘 る時は,彼は少くとも五指の中に加えられざる可らず, 定奉行,外国奉行としてその経倫を実践に移していくの
只彼れの地位低く,彼れの事業は南北氷洋を漂流する であるが,かかるやさきの急死は幕未日本のおおきな不ア寮缶グの如く,其の+の八九迄は水中の暗黒海に没し 幸であったことは否定できな、㌔
て,表面に顕はれし部分甚だ少かりしと,且つ其の働き
@ 本 論し舞台の局面比較的狭かりしと,又た彼れの死するや,
安政二年正月にして,嬢夷倒幕の気焔未だ甚だしく盛な 第一章 江川英龍の自然観
一.ベツクス
らず,外交の困難甚だ其の頂点に達せず,水野越州の 郷土史家戸羽山 齢氏は,江川英龍の研究にその生涯
を傾注しているが,同氏は坦庵の日常生活とその思想に あるいは烈公や幕閣の諸公に対しても,常にみずからの ついて,敬慎第一と実用専務の二者を以て象徴し,その 信ずるところを素直に表明しながら,自己の生活行動を 思想的背景として儒教と法華経,ならびに佐藤信淵の神 持し得ることができたし,そこに彼の社会的活動は開か
のぶひろ道主義的西欧経済観をあげている。戸羽山氏のこの所説 れている。惟うに日蓮は,その著立正安国論の轡により は英龍の嗣子英武が,1919年伊豆の大仁で行った講演の 死一等を減ぜられて流罪に処せられるが,しかし彼は,
ひでたけ速記によるものであるが,蓋し,ここに江川英龍の自然 いよいよ自己を堀り下げて真理真実を実践探究して開目 観を,わたくしは直観するものである。さて,氏は次の 鉛を公にし,そこに, 世間の疑といゐ,自心の疑ひと ごとき説述をなしている。「……然るに偏者(江川坦庵 申し,いかでか天扶け給はざるらん。・ ・其義なきは我 全集の編者としての戸羽山醗氏)の眼に映じた坦庵の思 身法華経の行者にあらざるか,此疑は此書,肝心 と説
想的背景とも称すべきものには,第一に儒教と日蓮主 いている。まことに日蓮にあらわれたこのような人間的義,第二に佐藤信淵の神道主義的西欧経済思想の二つが 精神のはしばしが,鳥居耀蔵との確執に於ても渡辺華山 看取されるのであった。この日蓮主義と神道主義の二つ や高島秋帆に対する友情のなかにも,また幕閣諸公に対 の思想は共に国家社会主義的な要素を合んでいる点にお する上申にも現成されて,そこに英龍の人生的な態度・
いては梢々類似点もあるが,坦庵の場合にはどちらかと 情操・理性というものが,おのずと築かれている。這般 いうと日蓮主義的傾向の方が強かった。そして信淵から の心境を吐露した英龍の詩作は多いが,ここに三首の漢
学んだ経済思想は西欧的な極めて進歩的な説だったの 詩をあげておく。で・社会革新や政治改革を行なって国家万民の利福を究 無上菩堤在何処 筆頭那尽箇真風 極の目的とする坦庵には極めて有力な指標となったこと 請看教外別伝趣 便是参乎一唯中 5)
ヘ争われぬ事実であった。」妓に,法華経が有する固有 4)の世界観と佐藤信淵が意図するその家学から,英龍の自 黙座焚香塵念空 心情清処与神通
然観を理会したいとおもう。 鳶魚飛躍君嘗見 秋水長天一色中 6) そこで,まず法華経と英龍の自然観との関係をみる
と,江川家は累代,法華経の信奉者を以て自他ともに許 八万法門元是空 課経終日意何通
人生観を説いたもので,その内容は菩薩団が永遠の生命 なき法華経の体験が素直にあらわれているが,かかる宗
あるいは根源的生命としての仏陀を体現しようと精進す 教的感情が,さらに経世的な儒教をその生命に具体化 る実践的な活動を叙述したものである。いま法華経そ し,そこに修身・斉家・冶国平天下の政治哲学ならびにのものを云々する余裕はないが,法華経は維摩十諭にも 道徳哲学が韮山代官江川英龍の頭上に輝いたものとみら みられるごとく,極めて実践と体験をたっとぶ宗教にし れる。かくして,江川家累代にわたる法華経への帰依は,
て,殊に鎌倉仏教における日蓮の法華経は徹底的な実践 英龍の自然観に関して, 自然な至誠の発現 を吐露し 行に尽きたものであることに留意したい。彼は,幾多の てくる。然して・自然な至誠の発現は,次に述べようと
法難をうけながらも,立正安国論,開目砂,観心本尊 する佐藤信淵の家学と英龍の自然観にも同様な視点でみ抄,撰持抄,報恩抄などの五大部をのこした。そして・ られるのでその説述のあとに,英龍の生の自然的状態に
その真理感覚を後世に伝えたが,かかる日蓮の世界観が とらへた自然観を要約することにする。
むすめ
累代に互って江川家にはのこっている。第十六世江川英 尚・ちなみに・英龍の嗣子英武の女,繁子は法学者山 親は,日蓮の第子となり, 優婆塞日久 と称したほど 田三良の奥方であるが,山田三良夫妻が,みずから 法 である。尚,筆者は,仏教僧として日蓮のみをたたえて 華会 を設立せられ,その人生的心情を法華経に托せら いるものではないが,キリスト者内村鑑三も代表的日本 れていたことは人のよく知るところである。
入の一人として日蓮をあげている。 つぎに,佐藤信淵の家学が影響したとおもわれる英龍
扱て,このように真理感覚に徹して自己を信ずるに至 の自然観について説述したい。佐藤信淵(1769〜1850)
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った日蓮の純粋な精神それ自体が,殊に江川英龍の生に が沼津藩財政の仕法について同藩内の産業や民政を視察
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潜在していたものとかんがえられる。故に英龍は鳥居耀 したのは,天保九年の春三月から五月にかけてのことで
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蔵との確執に於ても,また蛮社の獄に際しても,あるい あるが,その折,信淵は韮山の江川邸を訪れて沼津藩の
は高島秋帆や渡辺華山に対する人間的な友情に於ても, 救済について英龍の協力を要請している。ところで英龍
の冶農政策は佐藤信淵と二宮金次郎の指導によるものを そこで前述せる英龍の五男,江川英武(江川太郎左衛 多とするが,殊に信淵の指導はあつく,英龍が信淵に師 門第38代)が1919年伊豆大仁でおこなった亡父を語る講 事したのは天保のはじめであるといわれる。故に代官職 演・ 坦庵先生の敬慎主義 の速記にしたがって,英龍 についた天保六年には既に信淵の家学は英龍に相当度, における自然観の特異性を枠組したいとおもう。
浸透していたものと考えられる。しかして同門のなかに 仮て,はじめに一筆しておくが,ここに講演者英武も
は尚歯会の交友も多く,渡辺皐山や塩谷宕陰の名もみえ なかなかの逸材にして文久2年(1862)幼少にして代官るので,信淵ならびに英龍や華山などの思想的,入間的 職に就き,のちに廃藩置県によって韮山県知事に任ぜら
なむすびつきは相当の期間を経たものであり・それだか れた。然し英武は明治4年(1871)かれが19才のときにらふかい関係でもあったといえよう・ここで信淵という その栄職をしりぞいて米国に留学,工学と建築学をまな 人を瞥見すると,彼は秋田県雄勝郡の生れにして,その ぶこと延々八ケ年におよび,明治12年(1879)になって 生家は医学と農政をこととしていたが,16才にして江戸 帰日・その後内務省,大蔵省の役人になるが決するとこ にいで,宇田川椀園に第子入りして蘭学および本草学を ろありてまもなく退官し,韮山屋敷に隠棲,もっぱら法 修め,他方,大槻玄沢,木村泰蔵から経済・天文・地理 華経の研究に没倒された人物である。
動植物゜暦算 測量などを学んでいる。19才の折,師 このような英武は,その記念すべき講演に於て,父英龍 椀園の推挙により津山藩に仕え,同藩の風土・風習・産 を,「自然な至誠の発現者であった」と幾重にも強調し
業・繍などを巡察して津傭の弊政改革記をつくり藩 ているのである.すなわち亡父英寵1嬬教の説く慎独と候に上申している。これは彼がその家学を応用し実践し 持敬を常々その身に体し,その事蹟は寧ろ至誠そのもの たはじめである。その後,江戸京橋で,医業にしたがう であり,噛ら不乱というも慎独というも,それは努力と
が,母の没するにおよび,父祖の遺志を大成せんとひろ いうよりは自然な至誠の発現であったようたふんふ芝らく海内調遊・以嫁学をおおやけにb繍の徹あ 薦三謡恐ポ餓濤鮫奥麟編凝芝鹸 ● ■
きらかにするとともに国利民福の手旨針をたてた・そして しては,見角弼目違のために水戸の烈公としばしば対立 津山藩をはじめ西は筑後,長州・薩摩から北は秋田,米 したが,亡父の至誠は烈公の逆鱗に触れることもなく,
沢など各藩の開懇や農事改良の指導をなすとともに,ま 寧ろ亡父の病あらたまるや,烈公は川路左衛門尉(英龍 た著書三百有余種を遺し・なかでも宇内混同秘策,垂統 の親友)の許に英龍見舞の書簡をおくったり,また藤田 秘録・経済要録・復古法概言などはその最たるものであ 東湖に命じて英龍の重臣斎藤弥九郎に烈公の盗るる厚情
る。彼は,このように博学にして経世の学者であった を披渥した書状をおくらしている。知るごとく幕末におが,また彼に特有する世界観から生成された神道に関す ける保守と革新の思想的見解は,極度に人の頭脳を刺戟 る見識をもっていた。すなわち信淵の神道論および敬神 したものであるが,亡父英龍の自然な至誠の発現は,烈 論は古事記にその源を発し,彼の著 鐙造化育論 にみ 公のみならず,よく人のこころをとらえたものと述懐し
られる天御中主神,高皇産霊神,神皇産霊神の三神を以 ている。
てその対象としている。しかしてこの三神はもとより造 さらに,自然な至誠の発現を土壌として,英龍の自然 化の三柱にして天地創造,百姓安養,国家安泰のもとい 観のなかに敬慎と実用の価値をみるが,英武は,この敬
をなすものである.他方,天地創造の蛛か榊を論じ 慎と実用とは,別々のものぞはなく激慎のこころは至たものに 天柱記 をみるが,信淵は,この天柱記と鉛 誠の発現によるものであり,そこに実用専務のこころも 造化育論に通じれば,天地の運動,万類の化育,国利民 生ずると語っている。然し,ここに実用専務とは,いわ 福,人世の経済・日用の要務など,すべて朗然とその理 ゆる実利主義の謂ではなく適材適所ということである。
は明白になると悶明している。 例えば,英龍は経済的な自然観としては,〃倹と吝〃と
ここに彼の神道に指針をおきながら実利的な経済を両 を俊別している。英龍のいう倹とは,必要なものに出費
立せしる,いわば神道主義的西欧経済の思想をよみとる することであり,吝とは,必要なものに一文階しみをす
ことができる。このこころに指針をおいてものを富ます ることである。けたし彼における倹とは財をおしんで蓄
人材の化育という信淵の神道が,また江川英龍の人間形 えることではない,目的にしたがって価値を産むものに
成につよく影響しているものとかんがえられる。現在, 出費する心の準備である。かかる心境を讐えて, 恰も
江川家に秘蔵されている経済問答,経済要録,混同秘策 附木を使用するが如し と英龍は云っていた。故に,み
ならびに特に信淵から贈られた三統用法などをみても, ずからさきんじて水野越前守忠邦の倹約令にしたがう英
信淵の家学に傾注した英龍の生活態様を知り得る。 龍も,狩野川の治水や種痘という革新的な医療保健の問
題,あるいは製パンという食物改善,さらには孝子節婦 第二章 江川英龍の社会観
の表彰,反射炉や銃砲の改善ないしは外国使臣との対面 幕末の諸思潮における革新性の問題は,儒学・国学・
などには,その財政の限度まで出費を惜まなかったもの 洋学などの文化的,思想的な問題を背景として,かつま こである。このようなところに英龍の己(個)に即した自 た開港や嬢夷の国防問題を中心として,まことに複雑多
然のひらめきをみるが,それは自然な至誠の発現に由来 岐な時態であった。しかもあの強固な官僚制(bureau一 してかんがえられる。また英武は・亡父英龍は常にいま cracy)のなかで,換言すればルーテンウワーク (rOU一 しめてこの敬慎第一ということが,いつまでも自分とは tine work) にみちみちた機構のなかで,江川英龍の
なればなれにしておくようではなら萄こころざしを起 ごとき韮山の一代官に,どうしてあのような鞠的な行 オて初めには少々苦しいようでも常に努め励んで,つい 動が生起したのか。そのメカニズムは興味ある種々の課にその緊張した心持ちが自分の習慣となるようにしなく 題を提供するであろうが,いまここでは,それを単に江
てはならぬと言ったことを述懐しているが,ここに英龍 川英龍個人の能力に帰着させないで,多角的(multi における自然は,何時も彼の近くにあったことを理解し dimensiona1)な視野に立ってながめてみたい。それは得るし,同時に彼に遠い自然は常時,彼に近ずけようと 環境が人間をつくるということであるが,そこに英龍の 活動していた自然な至誠の発現もみることができる。 社会観が展開されるのである。
おもうに人間形成はなにごとも自己を離れて自己の遠 元来,文化とは社会的なものにして,それは自然に対 くに期待してはならないという信條は・ルソーがエミー する言葉であり,与えられた自然を材料として人間が一一 ルに説き,ペスタロッチーが初等教育で実践した合自然 定の目的を実現しようとする過程の謂である。だから文
性の基本的な教育の原理であるが,英龍の自然観にも・ 化は科学,道徳,芸術,宗教などの文化財を包含するこのような人間形成への方向が内在されている。だから が,そこに文化を実現していく人間の自然に対するとり 英龍は,入間形成における教育と習慣の関係的な機能を くみかたがあり,またその自然のなかに自己を没入する よく洞察し,自然の真実を常々,自己の近くに探究して 社会組織がある。一般に交友関係とか職業社会とか云わ いたものである。それが英龍における持敬・慎独の骨子 れるもので,この面に於て自然は,言わず語らずして人
であった。 間形成の内密的なにないてである。私は嘗て三浦梅園の自然観を彼の著書 玄語 に探究 さて,江川英龍における社会観も亦,彼の自然観に由 したが,その折,わたくしがとらえた梅園の自然観は・ 来するところが多い。すなわち,さきにその自然観にと かれ誘1)〃事物皆自然而使然者也〃ということであった。 りあげた儒教や法華経の影響ならびに佐藤信淵につちか
すなわち能産(natUra natUranCe)と所産(natUra はれたその家学の思想は,英龍の自然的状態の制限にお naturata)という二つの自然観の自己同一性にあった いて,そのまま彼の社会観にメタモルホーゼ(meta一 が,蓋し江川英龍における現象的世界観も亦,ここに梅 morphose)されている。それなるが故に,彼の人格に園が観照したそれに近似している。わたくしは,このよ そなわる自然と自由の性状は・当鴫における封建的権力 うな自然のみかたを以て自然を真実に観照しているもの に抵抗し,羽倉外記・川路左衛門尉と親交をむすび・ま
と解釈しているのである。 た華山や秋帆のごとき人品に近ずき,徳川斉昭や水野忠以上の記述を通して英龍の自然観は,いわば仏・儒・ 邦,阿信正弘など閣老の信を得るにいたるのであるが・
神という三教のうえに樹立した生活の実践に由来するも そこに社会的生活状態を通して彼の社会観が形成せられ のにして,それを要約すれば,つぎのようになる。 ている。
自然な_現を/糠欝された自の灘裳鴬瓢轍雲灘勤本源として離懲罐謙顯香磨轟轟熟諜購籠鑑鍵
うえに要約した二つの世界観が英龍における能産・所 度,他方・高鰍帆の逮捕拘引に際して決断したその方
産の自然を醸成し,そこから展開される彼の自然観が, 策や友清などをみるに,それは弱い人間の人情というも
またかれの社会的生活状態と道徳的生活状態を発現して のではなく,そこには個人の人間的な関係をこえて,正
いるのである。自己に即して事実化された自然より,民 邪善悪を糾さんとする強固な社会的正義と真理に対する
政を思ってふと発した英龍の一句に, 里はまだ夜深し 人間英龍の感覚をよみとることができる。なお,ここで
富士の輔影〃をわたくしはみるものである。 英龍の生涯に亙る燗関係をみると,その層はまことに厚く,身分的な縦の関係は幕閣から中浜万次郎,大場久 小関三英,幡崎 鼎,高野長英などとも親交をむすび,
八のごときものまで,職業的な横の関係は砲術,造船, 松崎像堂,鷹見泉石にも私淑して意見を交したものであ 海防,測量,外交,政治はもとより,蘭学,芸術などの る。だから華山の経世的な洋学の才能はたかく,英龍が 多岐におよび,これを文化的にみれば,自然・人文・社 華山から得たものは多大であった。
会の諸科学を網羅しているものといえる。かかる才能の その折も折,鳥居耀蔵の好策によって,〃蛮社の獄〃
もちあわせは,けたし天才というほかはないが,彼は, は突発し,蘭学同好の士のあつまりであった尚歯会は,
このような人間関係ならびに文化的視野から,どのよう 保守的権力の弾圧によってひとたまりもなく瓦解し,そ な社会的行動をなしたか。ここに渡辺華山に対してとっ して華山も捕えられ揚屋牢入りとなったのである。
た英龍の行動より,その社会観を素描してみたいとおも このことは日本近代化の前進上極めて遺憾なことであ
う。 り,蛮学社中として発展した尚歯会は,佐藤昌介教授も英龍と華山との親交は・蘭学や外国事庸のことなどを 指摘されているように,それは華山や長英を中心幹部と
?Sにして自然科学的な技術や鞠白勺な世界観のはなし する結社にあらずしそ?紀州藩士である遠翻助の時代
あいであった紀州藩士遠藤勝助の尚歯会を通して,およ をみるその天票によって出来た洋学愛好者のあつまりで び高野長英の蘭学手引をもとにして発展した蛮学社中に あったにすぎず,華山や長英,ならびに英龍は,そこで
おける交際にはじまるものである。佐藤昌介教授は,そ 積極的に時代の知識と技術を探究していたものであっの著 洋学史研究序説 に・「江川英龍が・洋学に志し た。故に鳥居耀蔵などの好策によって蛮社の獄にまで発 た直接の動機は・伊豆・相模・武蔵・駿河の四ケ国にわ 展せしめられた尚歯会は,海防問題を中心にして現実の たるかれの支配地に,海防の要地が含ま篠集島麩ξとに 社会問題を討究していたもので,かかる弾圧に荷推した よる。かれははじめ,水戸藩抱え洋学者幡崎 鼎につい 幕閣の封建的な無知こそ歴史的に反省されなければなら て洋学を修めた。しかるに,幡崎は・天保八年五月・旧 ない。訣舌或問,慎機論,西洋事情御答書など,あふれ
罪露見のため逮捕されたので・その後・川路聖誤の紹介 た才能に満たされた偉大な師,渡辺登をうしなった英で華山に師事したのである。なおその時期については, 龍の人生は,ここでおおきな断絶に際会するのである。
江川家所蔵の『天保八年御参府諸用留』によれば・天保 のみならず蛮社の獄は英龍の身にも危険がともなってき
八年九月二十三日の条に・ たため,彼は川路佐衛門尉,矢部駿河守,斎藤弥九郎等渡辺登罷出御逢有之,夕飯等差出し畢而夕七時頃, の忠告,および幕閣の様子も考慮して病気を理由に韮山 此方様右登と御連・松平内記様方え被為入。 に帰り,約ニケ年蟄居生活をすることになる。
とあり,これが,おそらく両者の初対面を示すものと思 ここからこみあげる英龍の義憤と,それに応える彼の われる。」と説述している。 忍耐力と至誠が,社会的生活状態における英龍の社会観
12)オかし,戸羽山翻氏編の 江川坦庵全集 によれば, を現成してくる。扱て,華山は入牢後,禍が英龍に及ぶ 英龍が華山を知った動機は,親友羽倉外記の友情と家臣 ことをおそれ,斉藤弥九郎を経て英龍に内密の書簡をと 斎藤弥九郎の誠意によるものとし・始めて英龍が華山と どけている。すなわち華山は逮捕せられる直前に,江戸 対談したのは天保八年八月二十日,飯田町姐橋なる斎藤 湾備場見分の幕命に関して,江川英龍の上申に資するべ
弥九郎の居宅であるとしている。何れにせよ・その頃英 く,「諸国建地草図一冊,西洋事情書二冊,およびその 13)
エは,海防ならびにそれにともなう測量のことで,何う 他一冊,計四冊からなる稿本類を送っている」が,それ 15)
オても華山や蛮学社中の知識をかりなければならない状 らの資料が,このたびの投獄の実禍になっているので,
態にあったものとおもわれる。 万一英龍にも禍の波及することを案じてしたためたもの
知られるごとく華山というひとは,その苦労人という である。それは,鳥居耀蔵等の隠謀,好策から友を庇護
生い起ちに反して,本来的に美しい人間性を性具した人 せんとする・まことの友情の書簡である。すなわち華山
柄にして,まことに清廉潔白,庶民的であり,故に人間 が拘引されたのは天保九年五月十四日であるが,同年七
的自覚のあらわれた人物であった。その華山が有する経 月二四日に口書取がおわり,そして罪状判決をまつあい
世的な洋学研究の技能は,当時,英龍が探究した学問, だの同年九月七日・華山は斉藤弥九郎に宛てて事件の概
技術の解決には必須欠く可からざるものであった。元 要を,ひそかに英龍につたえている。「悼多候得共,内来,華山の出仕した田原藩も遠州灘に突出した渥美半島 密呈書仕候,此度奇禍兼々御心配茂被下置義深難有奉感
に位置せるために,天保三年海防係を担当するようにな 謝候,其始魂訴二陥候而宅与つまらぬ反故出・右御疑の
ってからは,華山の洋学に対する関心は愈々たかめられ, 一ケ条二付合候与終ニハ実禍と相成申候,…中間略…私
宅与出候書物ハ三月中半紙二認上候事惰某と申書,初稿 会的生活状態から,彼に特有するその社会観を要約して 二而あまり過激二付恐入不差出物二御座候,尤此過激之 みたいとおもう。そこで彼の自然観においても述べたと 文二而大罪を得候得共,例之書とハ大二違候故,決而御 ころであるが,彼の自然観は,およそ無理のない純一無 案事被下間敷候,右申上度,旦例之書図と茂無滞御納相 雑なわたくしの自然であり・そこに発現される自然な至 成侯哉,御見合相成候哉,誠二小人之諜,天を煤候勢, 誠こそ彼における大切な自然観の中心であった。彼の社
天命致方なく,先御安否窺如此候」 会的生活状態における社会観も同様にして,彼の内面に やが嘩山は一黄梁一炊図〃16ィ・弾彩の額を遺 性具されている燗的努力がそれである.すなわち,わして自殺するが,藤田茂吉もその文明東漸史に,「渡辺 たくしの自然が,あなたに,かれにかへったとき,それ 華山,高野長英の徒が,其罪を獲るの起因たりし英人来 が社会観になっている。だから彼は,多難な社会的生活 航の説は,全く虚盲に帰したる乎。又二氏が其口舌を絨 状態にさらされながらも,その自我に対する自然の自由 せられし後は,終に国事を談じ外勢を論ずるの徒を遇絶 をうしなってはいない。高島秋帆の拘引に際しても,お したつ乎。一・・中間略…華山が田原に幽せられたる其年 なじく彼は,わたくしの自然に於て至誠を一貫し・以っ
(天保十一年)に於て,英艦は我漂民を載せて相州近岸 て秋帆の議をただし,羽倉外記や川路左衛門尉をうごか に近づきたり。此時陸上より頻りに砲発したるに,英艦 しながら,その無罪放免に努力している。
は左のみ驚くの状もなく,又敢て抗するの色もなく・徐 このように正しきを正しきものとなし,正しからざる かに海上を乗り廻して引き返したり。是に於て華山,長 を正しからざるものとする彼の社会観は,ひたすら彼の
英が英人来航の説も,全く虚盲ならざりしを知る可し。」 人となりから湧出される自然,すなわち自然な至誠のあ 17)
と説述しているごとく,鳥居耀蔵等が正人を議害して, らわれなのである。故に,耀蔵などの好策に対するに好 その私を済し,ながく感福を保たんとしたからくりにし 策を以てせず,そこに華山の経世的な洋学と近代的な科 て,〃無人島渡航云々〃のことなどは,極めて歪曲化し 学思想をいかした。然し,それは蛮社の獄を境として無
てことがらを喧伝したものであった。 残にもおしつぶされたが,かかる英龍の社会的生活状態幕閣を中心とする当時の諸候が,ただ自分の封建的権 から・我々は彼の社会観を次のように要約できょう。
力の維持につとめるのみにして外患を憂えるなにものも 第一に,人間の社会的状態は一般に自然的状態の制限 ない愚かさを指摘した華山の意見と,さらには華山がし に於て成り立つが,英龍における社会的状態は,ここに めしたこの友情に,英龍が共感と感激にむせんだことは みるごとく・ほとんどその自然的状態の制限にあらず,
当然である。この至誠と友情に濫れる華山の密書に対し むしろその延長であったということ。
て,英龍は返書の一詩として 憶友人 をささげてい 第二に,人間が社会的状態に入ると概してその人柄は る。 硬化し,変心した自然人になるが,彼は社会的状態に入
人生如朝露 離別在眼前 攣丘直謄望 れば入るほど純らにして邪気のない本来の自己を発現し 雲霧阻山川 蒲柳秋何早 落葉正騙腱 ているということ。
思君断中腸 戚々送流年 慷慨不復道 第三に,社会的状態はその本性に於て,万人の万人に
停立対蒼天 対する戦の継続というものであるが,彼は,うらみをあ ともあれ江晶沿翻量などもともなって累年にわた とにのこさない素直さ境容性とをそなえていたというる保守と革新のわだかまりは,鳥居耀蔵などの妊策によ ことである。
って一応落着したものの,江川英龍の義憤ならびに華山 尚,彼の社会科学的な思想のあらわれとして妙趣ある に対する社会の同情は,既に人間性の限度であったとか ことは,さきに一筆した 民々亭 という英龍晩年の筆 んがえられる。然し,本性が理知的・条理的にして,し と,彼の秘記である黙座録に誌された,「お国は北亜墨 かも強靱な忍耐力をその母より陶冶された英龍は,毒に 利加と違,急速には共和政治相整難く,さりとて此儘に むくいるに毒を以てせず,自然の解決を期待してひたす 放置候得ば,やがて国乱れ再度応仁の合戦の如く相成る ら社会的正義にうったえた。しかし,このあいだにおけ は必定に候故,追々幕政一変仕り候而,右政治に御改革 る彼の心痛は休まず,さすがの英龍も次の偶成でわれを 候得ば北亜墨利加同様,自他の無差別,上下万民一体と
なぐさめている・ 心得候樹目成べく候云樹と う彼の共和的な政治謙
@ 五+人中狂県令 一千轄旧家孫 ある・何れも中浜万次騨つたえた綱の駐政治の思
@ 不知阻上春光好 独与梅花占小園 想を英龍がそのみになってかんがえたことと思われる ネ上述ぶるがごと樺山との交際に鵡れた薙の社 が一民々亭〃はもとより米国にお・ナるデモクラシ・一
の起源をなしたリンかンの 人民の人民による人民の 年),英艦マリナ場が下田入港に際して英龍力・処した彼
ための政治 の英龍的な翻訳である。興味ある問題であ の行動をつぎのように説明している。「此度は外国人に るが,この方面に関する考究は他日にゆずる。 接するに当り太郎左衛門平生質素之風に引替り自分錦繍
之野袴陣羽織黄金作りの大小刃手代家人何れも燦燗之袴第三章 江川英龍の道徳観 新調之割羽織を与へ壮観人目を驚かす其上太郎左衛門状
さきに英龍の自然観で云灯したが,英龍における 貌雄偉音声高朗にて応対明弁に付一段艦中之敬礼を増し
自然な至誠の発現 という生活状態は,本章の道徳観 申候彼より贈物致候得共相断り然して彼か望候肉類は送 においても重要な基盤をなすものである。すなわち英龍 り遣し懇切に取扱国憲を申諭し候に付彼も氏か威風誠実
の跡目を相続した英武が亡父英龍を語った講演のなか に感し不日に出港致し云々」に,隔不乱とい順独と申しましても亡父の場合 ともかくも潤老水魏邦の倹約令に対して,我が身 には努力と申すよりは賜餓姪誠の発現であ・たよ より実践していく至誠は,ま。たく彼に性具された先天 うに考えられる・生れながらにして至誠のあらわれかた 的な特質であるという以外にその表現はみあたらないの が入に勝れておりましたか,あるい}ま修養の結果ここに である.倹と吝との差異を説い族龍の物質翻こdこ
いたりましたか,私のみるところを以てすれば,むしろ 明瞭になるであろう.よ。て管内検見費用の節約につ、、
生来至誠の人であったが故に,持敬慎独をも人一倍大切 ても,英龍は,さっそく先触や廻文の習慣を止めさせ,
にしたのではあるまいかと考えられます,云々憂、という また槻にまつわる属吏の不当な役得をかたくいましめ言説をみるが,蓋し・ 自然な至誠の発現 ということ ている。いずれも彼の自然な至誠の発現からでた刷新的
は,前章の社会観におけるものと同様に,また本章の道 な民政である。だから彼の政治は民衆の生活に素直に近 徳観に於ても大切な英龍の人間的な基盤をなすものであ i接していったのである。
る。このことについて矢田七太郎氏は,「かれ水野忠邦 仮て,政治が民衆の生活に近接するということは,た の如く・否寧ろ忠邦よりは多く・其の云ふ所は自らこれ だ現実的な経済安定の問題解決のみではない。その生活 を実行するものなり,進めと号令する士官にあらずして の安定から醸成される個体的地位の明確性.確立性とい
来れと招く将校なり,白舶衣,我に従へと叫びて陣頭 うことこそ大切な問題にして滋}・民衆生活における内に躍り出つるスコベレッフ的改革者なり。かれは孔子の 部環境と外部環境とはあい即して,彼等はその生命と生
所謂 先修期 蟻を以て・まず魂より一家1・及ぼ 瀧たのしむことができた。英音琶が館地領の民衆よりし,以て管内に及ぼさんと欲するものなり,然ればかれ 世直し江川大明神〃と紙幟に奉納されたといういわれ が代官職を襲うや自身は勿論,妻子春族の衣服飲食を初 も納得できる。
め,居宅手廻りの誕具に至るまで出来得るだけの倹約 また彼が代餓として果した道徳的生活状態の特異なを施し依服は礼服のほか1ま凡て木織なb飾の惣 ものとして管根衆に対する醗期の事蹟がある.彼
菜は香の物,囎汁に止まらしめ,物・撫益麟の事 蠣永三年(・85・)の正月に天然痘予防のため,領内1こ なからしめ,一切の簸旙く剥削し倹約し噸みず, 鮪の実施を告諭するが,さきがけ晒洋搬の実睡
斯くの如くして剰余されたる余材は,必ずこれを文武の することは・当時として極めて積極的な予防医学であっ 諸道具・親族家人の救助,孝子節婦義僕等の賞与の費に た・ここで吾人が留意関心をはらうべきことは,西洋種
充てたり,云㌔と説述している・まさしく難の道徳 痘の実施に際し瑛龍のと・た甑である.彼はその実]郷輩貯隷難糠慧碁豪蹴撫論認鰹議鷹穎1こ難
たなかに,露伴は英龍をつぎのようにみている。「衣服 分の子供に実験的に種痘せしめていることである。そし
のをかしきにて眼立ちたるは此人なり・寝るにも起きる て,その実験的成果をみたあとに,彼は,抱えの蘭医肥にも着たるま〜なればにや,黒或は浅葱の木綿ものの, 田春安に管内を巡回種痘させている。わたくしは,ここ
しか痢時懲多くて・よちれもちれたるを着て庶ぞ において・なにはさておき吾が子供二入を実験に供したりの長脇差を横へ,悪く云はば貧相ともいふべき面して 彼の種痘に関する科学的な自信と,民衆の保健に対する
首まがりの前のめりに歩むさま,如側・も埼処あるべ 英龍のひた鍵姪誠と}・燗的な共感を覚える.民衆 き士と見えたり副ここに露伴蔽述しているごとく, の福祉を憂うることなくして誰がかカ・る救済的な活動をたしかに英龍の質素と実用はその通りであるが,さらに なし得るか。自然な至誠の発現である彼の内的生命は,
他方,勝海舟の陸軍歴史海防篇には,嘉永二年(1849 ここに道徳的なちからに化し,その至誠から湧きいずる
彼の個性的な徳は愈々民衆の信頼と善意を得るにいた 育的生命観にたよった。そして生命の理会(Verstehen)
る。これが英龍における自然な至誠の現成公案であっ は生命の体験(Erlebnis)にもとついてのみ可能である た。 とするディルタイの生命哲学に安心立命するところを多
尚,英龍における道徳的生活状態の類型に属するもの 々かんじとるとともに,人はその教育体験によって歴史
として,江川塾掟書や孝子節婦の表彰に関することL,あ 的事実をもっと堀り下げて,先哲を過去の闇のなかに葬 ヒユーマ_ア・一
るいは華山や秋帆に対した人間英龍のつきせぬ人情 り去らしめてはならないといましめた。
をみるが,これらのことは紙数の関係上後日にゆずり, 思えば幕末という封建的支配体制の複雑な最中に,彼 這般の行動にあらわれた彼の道徳的生活状態とみられる こそ自分自身のちからを自己の自然にはかりながら,以 ものから,一応,彼の道徳観を要約すると次のようにか て自己を可能な完成の段階にいたらしめ,自然の所与と
んがえられる。 しての必然性に対しては至誠という人間的な努力によっ第一に,彼の自然な至誠の発現による社会的なちから て自己の可能性を発揮した偉大なる先哲のひとりである は,その儘,彼の道徳的品性に結びついているというこ とかんがえる。そこに江川英龍の死を以て,私はその生
と。 命の完成であったという感慨に耽る。第二に,それは彼がその自然観・社会観においてあた 1972−10−20 ためていた真理感覚を人間の権利として尊重し,その真 この小論は,1972年10月7日上智大学で開催された第
理感覚を,さらに生活の全般にわたって道徳的義務に化 15回日本教育哲学会における発表論文に加筆補正したも
しているということになる。 のである。尚,小論の執筆にあたり・資料の閲覧など,
第三に,我欲や私権に対する英龍の清潔さは民衆にお 江川家執事伊丹重雄氏の御配慮をいただいたことを深謝 ける好意や信頼の心情に醇化されて,そこに親ら・子心 する。
による道徳的心情がその領内に波及した。
第四に,彼の品性に陶冶された強烈な内面性は,ひと 註 記
へに法華経的な世界観がその身に浸透していたものと考 1) 勝 海舟著 氷川清話 幕府始末他 人物往来社 幕 えられる。 末維新史料叢書 2 (1968年)
2) 矢田七太郎著 江川坦庵 二,何故に彼を伝へざる可
結 語 からざる乎東京国光社(1902年)
3) 国 上 三,何故に彼は伝はざりし乎
教育体験と歴史的事実 4) 戸羽山潮編著江川坦庵全集別巻坦庵の思想と
以上,江川英龍の人となりを彼の生活における自然的 日常生活一・敬慎第一一・実用事務(→はしがき(107
頁〜108頁) 東京巌南堂書店 (1972)状態・社会的状態・道徳的状態に素描したが,ふたたび
5) 江川英龍の詩作は深淵にして形而上的な意味を象徴しその人間性をふりかえると,そこに一貫するものは,
ているものが多い。そこで本註では,江川坦庵百詩評釈尽きせぬ至誠であり,その至誠の自然な発現という
にとりくんで造詣ふかき,梅軒山田春男氏の評釈にした
ことであった。然して,その至誠の自然な発現が彼にお がって返点と送仮名を付しておく。〔註(7)まで〕
ける社会的なちからを形成せしめているが・その社会的 無上菩提在二何処_ 筆頭那尽 箇真風 なちからは,また人間の信頼と好意と慈愛とに醇化し の はる に ぞ さんの て,そこに江川英龍の生命が定立されていたということ 請,看、教外別伝。趣 便是参乎一唯の中
になる。だから韮山の一代官である彼は,麗て幕閣の理 6)黙座 焚レ香塵念空 心情清処与レ神通
して けば を し き ず
解を得て勘定奉行兼外国奉行として出府を命じられるこ 鳶魚飛躍君嘗見 秋水長天_色中 とになるが,不幸にして登用をまえに54年の生涯を終え の て る の ている。さて,これまでの説述で知るように,わたくし 7)八万の法門1ま元是れ空 課経終日意何ぞ通ぜん
は本論文で 江川英龍の人間の哲学 を幕末という歴史 労人若問二玄々妙一 微笑点頭黙々中
し はば の を の
的時代の一駒のなかに把握し,彼の生活体験を理会しよ 8) 戸羽山灘編著江川坦庵全集別巻坦庵の思想と うとしたものであるが・その理解の仕方は,やはり私な 日常生活三教育と習慣2.至誠の発現(131頁)
りな教育体験のもたらしたものであることは否めない。 9) 同 上 四実用専務の実例1.実用専務の意
そこに批判の余地もあろうが,しかしこの小論は学問の 義(137頁)
ために学問を固執する弊を避けて,可能なる限り私の教 10) 同 上 三教育と習慣1.子女の教育と習慣
11) 茨域大学教育学部紀要 No・14(1964)拙稿,人間 四男として誕生,天保12年正月,出漁中に遭難,鳥島に 形成に於ける自然の解釈一その一 三浦梅園の玄語に 漂着後米国の捕鯨船に救助され,約十数年滞米生活を経
縁りて一 験せり。嘉永三年米船サラポイド号船艮ホワイトモァの 12) 佐藤昌介著洋学史研究序説第一章第二節 「蛮 好意で沖縄島に上陸し,その後土佐藩に出仕したが,江
社」の実態 (155頁)岩波書店(1964) 川英龍にその才能をかはれ,韮山屋敷にはいる。そして 13) 戸羽山 潮編 江川坦庵全集 上巻 八 英龍と華山 英龍の謙訳方となり,彼の諮問にこたえて米国の事情を
(110頁) 江川坦庵全集刊行会(1954) 具申し,日本近代化に貢献した。明治3年大山 巌,林 14) 佐藤昌介著 洋学史研究序説 第二篇 第一章 第一 有造らと独仏戦争視察のため渡欧したが病患,ロンドン
節「蛮社」の名称(143頁) に滞在後単身帰国し,明治31年(1898年)病没せり。尚,
15) 同 上 第二篇 第二章 第四節 二つの江戸湾 彼は米国名をジヨン・マンといわれた。
防備改革案(267頁) 22) 戸羽山 潮編著 江川担庵全集 別巻 坦庵の思想と 16) 江川家文書 渡辺華山書簡 日常生活 三 教育と習慣 2 至誠の発現(131頁)
17) 藤田茂吉著述 文明東漸史 全 第十六章 文明の技 23) 矢田七太郎著 江川坦庵 六 代官としての坦庵(上)
術必要の下に発生す(161頁) 48頁〜49頁
18) 梅軒 山田春男氏の和訳による。 24) 蝸牛会編纂 露伴全集 第五巻 幕末の政治家(442 露よりもろき人の身は 君と別れも昨日にて 頁)岩波書店(1951)
丘にのぼりて望めども 山川へだつ雲や霧 25) 勝 安房著 海舟全集 第六巻 陸軍歴史 上 川端柳秋早く 木木の落葉は空に舞う (65頁) 海舟全集刊行会 (改造社内) (1928)
ああ君すでに世に在らず 我いたずらに年老いぬ
今又何をかなげくべき タベの空に我は立つ 備考 戸羽山 潮氏の江川坦庵全集については 19) 同 上 戸羽山 禰編 江川庵坦全集 上巻 中巻 下巻 (1954)
変り者よと言わば言へ れっきとしたる旧家の子 静岡県韮山村役場内 江川坦庵全集刊行会の旧刊と 野面はすでに春めけど 我はさ庭の梅を見る ならびに
20) 横山健堂氏所蔵文書 戸羽山 潮編著 江川坦庵全集(全二冊) (1972)東京巌 21) 文政十年(1827年)土佐国清水町中の浜,漁師悦助の 南堂発行の新刊とがあるので付記しておく。
On Hidetatsu Egawa,s Philosophy of Man
Asokinaka Otani
L Abstr8ct
Hidetatsu Egawa lived in the later Tokugawa regime supported by the mechanism of
human partiality and class differentiation, and took his bearings for the enlightenment as the outcome of human energy.This study is primarily to examine his bearings referring to his own personality as their spontaneous factor and that regime as their environmental one, secondarily to hold his views of nature, society and morals in their living condition, which were concerning themselves in the make up of humanity, and finally to understand his inherent philosophy of mal1.