唐代太宗・高宗期の政治史への一視角
一対外政策の諸対立を糸口にして一
任 大 煕
1.序 論
2.太宗代 2−1.前期(A.D.627−636)
2−2.後期(A.D.637−649)
3.高宗代 3−1.前期(A.D.650−670)
3−2.後期(A.D.671−683)
4.結に代えて
1.序 論
1)
M者は前稿で,唐代の中枢的政治勢力を二つに分けその性格について言及し たことがある。即ち,一方は「その政治的性向から,皇帝権威強化・放漫財政・
商業活動助長・対外膨張が見られる」 「商業勢力を背景とする政権が登場する と財政を拡大して需要を増し,帝国の版図を広め商業の順調な遂行を目指す」
とし,他方を「それに対抗する勢力の長孫無忌・劉仁軌等の政策が無為的。縮 小財政・農本主義的・対外干渉抑制等の性向を持っていた」とした。 (本稿で は便宜上,前者をA型官僚,後者をB型官僚と称する。)しかしその後の検 討で,前稿で言及した個々の政治的性向の内容の中に,必ずしも適切であっ たとは言えない点が留意されるようになった。
唐代政治史研究において,その政治担当者の政策傾向を二分法で把握しよう とする場合,全ての人物がこれで巧く分類されるとは言えないまでも,相当な 部分まではこの様な方法が適用できるであろう。政治史を構造的にのみ考察す るのではなく,個々の時期における対立点を動的に捕捉出来るという点で,こ の方法は大変有益であると思われる。そしてこの様な政治勢力の特性に沿って 政治史を考える場合,さらに政治過程を辿り,それらが唐代政治史全体の中で どの様な位置を占めていたのかを理解する必要を感じる。
本来ならば,唐全時代を一々検討してみなければならないが,本稿では紙面
の制限上,太宗・高宗代に限ってその時代を前後期に分け,政治史の流れがど う変化し,またその中で活躍した政治勢力がどの様な性向を持っていたかを,
特に,対外政策を巡る対立点を中心に検討し,前稿の不備を修正しようと思う。
本稿に関連のある既存研究としては,陳寅恪氏。Wechsler氏・孫國棟氏及び近 2)
来の日本・中国の学者たちの研究があるが,これらの業績と問題点は別稿で扱 うことにする。本稿の研究上の位置はそれを以て明らかにすることにしたい。
特に陳寅恪氏は「唐代政治史述論稿」で巨視的に階唐史を把握している。即ち 宇文泰の關中本位政策によって形成された集団の後齎が唐初の文武将相になっ ていたが,則天によってこれらの伝統的な政策及び人脈が破壊されたとする。
その表れが府兵制の破壊であり,科挙制の崇重であるとした。大きな流れから すればその通りであるが,微視的分析を加えると,地域的にも時期的にも,そ の説に必ずしも納得し難いところがあり,そこに本稿の立脚点がある。
文中では,r房玄齢・温彦博政権』 (貞観元年一貞観10年)・r魏徴政権』
(貞観11年一貞観16年)・r劉泊政権』 (貞観17年一貞観20年)・『長孫無忌 政権』(貞観21年}永徽5年)・r許敬宗政権』(永徽6年一威亨元年)・r劉 仁軌政権』(威亨元年一儀鳳4年)・r斐炎政権』(調露一文明)のように政 権の名前を付けているが,これらの人物がその期間中,最高権を持った官僚で あったという意味ではない。一人の皇帝の統治期間中でも,政治の流れは往往 にして変わるものである。そのため,ある皇帝の時代という区分法は政治史研 究では期間が長すぎる。しかし,細かい年号で分けると寧ろ混沌を招き易い。
時代の流れが一定方向にある期間を,一貫性を持たせながら把握するために便 宜上この様に分けるが,なかには表記人物が死亡しても同一時期に数えている 場合がある。章節を皇帝中心にし,その統治期間を前後期に分けて考察するの は,その前後での時代性格が異なるためである。貞観時代に於て,前期と後期 3)
ナその時代的性格が異なるというのは既に多勢の学者に依って指摘されている。
が,高宗代の政治史研究はr資治通鑑』的史観の影響からか,則天執権の前提 期間として描写される場合が多い。これからはこうした時代の詳しい検討が必
要であろう。
2.太 宗 代 2−1.前 期
貞観3年2月,突豚の頷利可汗は李靖軍と李動軍の両面攻撃に敗れると,唐
任:唐代太宗・高宗期の政治史への一視角 19
朝に使臣を送り降伏を申請した。唐朝は唐倹・将軍安修仁を派遣して彼らを慰 撫させ,李靖に頷利を迎接するよう指示した。しかし,李靖と李勧は白道で談 合の上,突嵌側が油断しているすきを狙って急襲し,突蕨を全滅させた。使臣 として突原に居た唐倹は辛くも脱出することができた。吐谷渾に敗走した頷利 は結局唐軍の捕虜となって長安に送還された怨この時の李靖の行為は厳然たる
薫璃が,勝戦後李靖軍の綱紀が乱れていたことを問題にすると,太宗はその場 では李靖を激しく叱ったが,やがて彼を厚賞し,その後,厚賞授与と共に尚書 右僕射に抜擢した磐それ程,太宗は突蕨敗退を喜んだのである。この時,太宗 が突蕨への勝利を喜びながら, 太上皇は百姓のために,突豚に臣を称した と語ったという記事に就いて,陳寅恪氏1£実は称臣は劉文静が勝手にしたも のであり,その背後に劉と李世民の関係は密であったのだと論証する。これに対 オて李樹桐氏は1塙祖が称臣し惇実1まなく太宗の「滑水の恥」こそ実際にあっ たことで,この様な事実の造作は許敬宗の史実歪曲から始まったとした。この 内幕について,学界では以前から太宗が突厭に何らかのコンプレックスを抱い ていたのではないかという点で意見が一致している。
それだけに太宗の突蕨撃滅に対する志向は強かったに違いないが,それにも 拘らず当初朝廷が下した決定は突厭との和解であった。朝廷が唐軍の能力を過 少評価したというよりも寧ろ李靖の軍が予想外に奮闘したというべきであろう。
さて,李靖と李動は白道での談合の際, 唐倹等の輩は何ら惜しむべからず と言っている。これは一国の興亡に比べれば一個文臣の犠牲はたいしたことで ないという意味であろうが,これを唐朝内の高位官僚間の対立から始まった潜 在意識の表れと見ることは出来ないだろうか。当時の高位官僚の人物構成から 検討してみよう。貞観3年と言う時期は,32歳の若き太宗の政治力がまだ未熟 であって,執権初の難しさからようやく脱皮しようとしている処であった。こ の様な点は表1の人事移動が貞観3年から安定し始めたことからも読み取れる。
太宗がたとえ皇帝であっても,高士廉・長孫無忌のような彼の姻戚に対する周 囲の反発のために,執権初には彼らを政治中枢から排除せざるを得なかった3)
人物別に見尋oζ,房玄齢と杜如晦は太宗のため忠実に奉仕したいわゆる 貞観 年代の良相 であった。房氏も杜氏も長安郊外の名族であった事実に注目した い。即ち,彼らの基盤は地域社会のコミュニティにあったのである。次の節で 検討するように,房は多くの場合政治的な標的にされているが,彼の政治的影
表L 貞観年代高位官僚表
年号 官職
N
左僕射 右僕射 中書令 侍 中 御史蝠v 尚書カ丞尚書
E丞
中書
?Y
門下
?Y
貞観
1
瀟禺 封倫宇文士及
高士廉 杜滝 戴冑 戴冑 劉林甫 王珪627
長孫無忌 房玄齢 温彦博 魏徴 温彦博貞観
2
長孫無忌 房玄齢 杜如晦 温彦博 戴冑 魏徴 温彦博 王珪628
李靖 王珪 顔師古貞観
3
房玄齢 杜如晦 房玄齢 杜如晦 温彦博 戴宵 魏徴 温彦博629
李靖 王珪 杜正倫 干志寧貞観 4 房玄齢 李靖 温彦博 王珪 温彦博 杜正倫 干志寧
630
章挺 謬文本貞観
5
房玄齢 李靖 温彦博 王珪 張亮 干志寧 章挺631
苓文本貞観 6 房玄齢 李靖 温彦博 王珪 干志寧 章挺
632
寄文本貞観
7
房玄齢 李靖 温彦博 王珪 干志寧 章挺633
魏徴 寄文本貞観
8 房玄齢 李靖 温彦博 魏徴 章挺 楊纂 干志寧 卑挺634
寄文本貞観 9 房玄齢 温彦博 魏徴 章挺 干志寧 卑挺
635
楊師道 寄文本貞観636
ユ0 房玄齢 温彦博 温彦博 魏徴
k師道
章挺劉泊 干志寧
ン文本
貞観
11
房玄齢 温彦博 魏徴 章挺 劉泊 干志寧637
楊師道 寄文本貞観
U38
12 房玄齢 高士廉 魏徴k師道
卑挺劉泊 干志寧
文本
貞観
U39 13
房玄齢 高士廉 楊師道 魏徴k師道
卑挺劉泊 干志寧
ヵカ本
一ォ泊
貞観 14 房玄齢 高士廉 楊師道 魏徴 卑挺 干志寧 劉泊 貞観
15
房玄齢 高士廉 楊師道 魏徴 章挺. 干志寧劉泊
貞観
16 房玄齢 高士廉 楊師道 魏徴 章挺 雰文本劉泊
貞観643
17
高士廉 楊師道 房玄齢 章挺 寄文本n周
m正倫
劉泊ノ挺
貞観
U44
18峯文本
n周 房玄齢ォ泊
寄文本
n周
劉泊
ク遂良 貞観 U45 19
寄文本
n周k師道
房玄齢
ォ泊
キ孫無忌
楊纂 宇文節 許敬宗 楮遂良
貞観
U46
20 馬周 房玄齢キ孫無忌
楊纂」行成宇文節 楊弘禮 楮遂良 貞観
U47
21 馬周 房玄齢キ孫無忌
張行成 楮遂良貞観648
22 馬周
キ孫無忌
房玄齢キ孫無忌
崔仁師 楮遂良 貞観U49
23李世劾 楮遂良 長孫無忌
ク遂良
kG輔干志寧
」行成
唐臨臼一} 一一一
o典;旧唐書,新唐書,資治通鑑及び嚴耕望,r唐僕尚丞郎表」,(台北)中央研究暁「f956,周道濟,
r漢唐宰相制度」,国立政治大学,1964
任:唐代太宗・高宗期の政治史への一視角 21
響力はそれだけ大きかったのだといえよう。温彦博は,「太原起義」の主役の 一人である温大雅の弟で,彼が貞観前期に政治の中枢的役割を演じた背景には 兄の基盤が大きく作用したであろう。御史大夫の機能は監察にあるから,政策 決定とは無関係とすべきところであるが,温はその後の政局での地位(翌年中 書令になり,死ぬ直前の貞観10年には右僕射になった)を確保し,当時の政策 決定に大きな影響を及ぼしたと見られる。彼の政治傾向は房玄齢らと似ている。
温彦博は機務を現浄した後は賓客を杜絶し,国政に関するものは自分が知った ら太宗にすべて言う様な人であったので,彼が朋党を作る可能性は排除しても いいだろう。貞観前期をr房玄齢・温彦博政権』と称するのは,房玄齢が貞観 末まで生きたのに対し,温は貞観11年に死ぬので区切りが良いからである。
王珪は建成派であったが,「玄武門の変」以後,太宗に包摂された。王珪の 助命は房玄齢・杜如晦との若い時の友情に負う所があったのであろう(新唐書,
巻98)。この様に太宗が王珪や魏徴等を自身の摩下の引き入れたのは,彼らの 12)
ヲ力が必要であったからであろうが,その代わり彼らの諌言は辛辣なものであっ た。王珪の場合は,杜滝・意挺のような協力者があった反面,高士廉を中央政 界から締め出すことでも一役買っている。その分彼自身も人から反感を買い,
貞観7年には禁中のことを漏説したかどで地方長官に左遷される。この様に,
貞観3年前後の唐朝中枢人物の人的構成を見ると,在地社会に基盤を持つ文官 的官僚で,無理なく安定基調を追求する型であったと言える。この様な既成中 枢官僚群の壁は厚く,これに反発する新興官僚群が存在した可能性もある。非 主流の李靖ら武臣の対話の中に,それらの不満を読み取ることができよう。
さて,貞観3年の突蕨滅亡以後,唐朝では突厭遺民処理問題で長い期間議論 が繰り返された。この問題に関しては石見清裕氏の「唐の究蕨遺民に対する措 置をめぐって」 (r日野開三郎博士記念論集』,中国書店,1987)に精細な研 究がなされている。即ち,表Hのように,多数意見は遺民を中国内部地方に遷 徒して,彼らを農民として中国人化させるというものであった。これに対して 魏徴らの意見は,遺民を本来の居住地に送還し,覇魔政策を実施しようとする
ものであった。
この両意見の折衷案的なものが温彦博の意見で,突豚遺民を北河以南に移し,
漸次的な教化によって彼らを中国人化させるというものであった。太宗はこの 折衷案を採用したが,この点からも太宗の調整者型の「長」としての一面貌が 窺えるし,また温彦博の政治力の大きさを確認することもできるのである。そ
表∬.
東突蕨遺民対策案 内 容 主唱者 採択與否
内陸地方に移す 1 種落を分離
(中国人化)
耕作させる 多数意見
戸籍に編入(中国人化)
塞北を永久に空虚化
北河の南に置く
Hi折衷案)
教化させる
y俗を守る
温彦博
貞観4年採択空虚の地を充実させる
故土に返す 魏徴
酋長を分立させる
顔師古皿
i覇摩政策)
王侯の名称を上げる
x配層と唐室との結婚杜楚客
尓S薬
貞観13年採択
土地を分立 賓静
部落を分ける 李大亮 出典;蕾唐書,巻61,温彦博伝
資治通鑑,巻193,貞観4年4月条 資治通鑑,巻195,貞観13年7月条
注;Wechsler, Factionalism in Early T ang Government, Pθrεpθc ひεs oη んeTαπ8 ed. by A. F. Wright, YALE,1973, P.92.のような既存研
究では第1案が見逃されている場合が多い。それは,史料に第1案の主唱者の名前が記されておらず 朝士多言 等と表現されているからであろうか。
の後,貞観13(639)年に至って,突利可汗の弟である結社率が長安で起こし た反乱を契機に,魏徴らが主張した第皿案が受け入れられる。この政策変更の 理由としては温彦博が貞観11(637)年に死去していること,また次節の説明 のように,当時魏徴の政治的影響力が強くなっていたことなどが挙げられよう。
結社率の反乱は,既存政策を大きく変えてしまうほど深刻なものではなかった が,定着しつつあった突蕨遺民を送還し羅魔政策を採ることに魏徴がそれほど 13)
ナ執した理由は明白でない。
任:唐代太宗・高宗期の政治史への一視角 23
2−2.後 期
貞観22(648)年,房玄齢は臨終直前に, 只,東方の高句麗討伐がまだ止 まず,正に国患になっている。主上は怒りを持ってこのことを決定し,臣下は 誰もその顔を犯すことが出来なかった。我も知りながら何も言えなかったのが,
気になって死にきれない と言いながら,長文の上奏を太宗に出し,当時推進 していた高句麗再侵略の準備を止めるよう勧告したぎ)ての上奏は,唐が高句麗 に負けた後,再侵略の準備をすすめていた時期に提出されたものであるが,太 宗が高句麗を侵略する以前の貞観17(643)年にも楮遂良が 萬乗が足を踏む ところに非ず 鬼いう理由で,太宗が自ら戦場に行くことに反対している。ま た,貞観18(644)年に唐軍が高句麗攻撃体制に入るとき,京師副留守になっ
16)
ていた李大亮も,臨終直前に高句麗侵略を止めるように上奏している。張亮は 数次諌めたが,容れられなかったため,しまいには自ら戦場に行くことを請うた
(蕾唐書,巻69)。太宗の旧臣及び側近らが強硬に反対したにも拘らず高句麗 攻撃が強行されたという事実は,太宗の高句麗攻撃への執念がいかに強かった
かを良く物語っている。臨終直前に遺言のような形で官僚がその反対意志を 上表したことから見て,高句麗侵略に関する意見は切実な問題でありながら,
公然と議論出来ない禁忌的事案であったことがわかる。また,この様に反対意 志を表明する官僚には,下記に述べる様にその他にも共通要素が認あられること から同じ政治性向を持っていたと言える。が,太宗の高句麗攻撃に官僚たちが みな反対したというわけではない。李劾は太宗の開戦の意を鼓舞し戦争に失機
17)
しないよう進言している。劉泊は「大臣に過失あれば,臣が直ちに諌殺致しま す」と太宗の意思に逆らう者があれば即刻処罰するとまで言っている。劉泊は その当時実権を掌握していた人物であった。それでは,高句麗侵略を巡ってこ の様に意見が賛否に分かれた官僚群がいかに形成されたのかを,貞観後半期の 政治を中心に検討してみよう。
太宗治世の中葉,貞観11(637)年に至ると,唐朝の体制整備が大きくク 18)
香[ズアップされてくる。と同時に,この頃になると,r氏族志』編纂から も窺われるように,太宗は唐朝体制が社会秩序にまで拡大されることを期待 し,そのたあに功臣対策と人材登用に腐心した。この頃の高官がよく「非勲
19)
非旧」という言い方をするが,この言葉は勲臣や旧臣がこの当時大きな比重 を占めていたという事実の裏返しに外ならない。彼ら功臣の自慢はそのま ま放置できないほど高く,柞命の長久のため,太宗としては彼ら功臣に対す
、
る方策を考えざるを得なかった。その一つとして,漢高祖の功臣分封策が考 慮されたに違いない。太宗はよく,漢高祖の例を挙げている。特に貞観8
(634)年頃,尉遅敬徳の不満表示に対して, 朕は漢史を読み高祖の功臣
で温存された者が少ないことを知って,常に心配している。即位して以来,功 一
臣を保全し,その子孫が断絶せぬよう図ってきた としながらも,官職にあ
20)
りながら法度に違反すれば処分するしかないと強い調子で警告している。貞観 元(627)年,房玄齢等の功を第一にした叙勲に李神通が不服を表明すると,
太宗は房等を漢の薫何にたとえてその功を第一にした訳を説明した。漢高祖が,
功臣分封策の推進によって異姓諸侯王の排除と,その後の質誼等の同姓諸侯王 に対する抑制を可能にし,それを通して結果的には帝権を強化し得たのだとい うことを太宗は当然熟知していたであろう。眺澄宇氏は,秦始皇・漢武帝は獄 吏や酷吏を使い,劉邦や朱元璋は功臣を諌殺してその皇帝権を強化したのに対 21)
オ,太宗は三省制度を改革して政治革新を進行させ皇帝権を強化したと論じた。
勿論,太宗が功臣に対して強圧的手段を採らなかったのは事実である。しかし これは,他の皇帝のように強圧的な手段を採れるほど太宗の権能が強くなかっ たために,三省制度の改革を選択せざるを得なかったとも言えよう。また,太 宗は後世における自分の評価を非常に意識した人物である。「功臣を保全し」
とか,臣下に対する温情などは一つのゼスチュアであったろう。
太宗は漢高祖のような分封を推進しようとしたが,この時の封建論議では漢
22)
代のような封建形態は受け入れられなかった。従って,太宗が次に模索したの は世襲刺史案であった。貞観11(637)年に発表されたこの案は,結局当事者 である功臣たちの反対にあって施行されなかった。太宗は疎外された階層まで を自分の王朝体制に参与させようとした,一方功臣たちは自分の確保した既存 利益を守ろうとしたので,相互間に軋礫が生じたのである。この様な功臣対策
と軌を同じくするのが人材登用であった。
貞観初から幅広い人材登用が懸案事となったが,自らを「文雅」であるとす る既存勢力の立場からみれば,新勢力はあくまでも「素流」であった。既存勢 力が既に「貴勢」であるのに対し,新参勢力は御史台の経歴を経て昇進する場 合が多かったので史料には「酷史」・「法吏」と表現されている。貞観3(629)
年から貞観4(630)年まで吏部尚書を兼任した戴冑は,「抑文雅而奨法吏」
23)
フ方向で人事を推進していった。貞観5(631)年から貞観16(642)年まで 吏部侍郎を歴任した楊纂も「進酷吏」・「抑文雅」の方向で人事行政を推進し
任:唐代太宗・高宗期の政治史への一視角 25
たぎ楊纂に続いて貞観17(643)年から貞観19(645)年まで吏部尚書を歴任した楊師道に対する史評も「署用した人物にその才の無いものが多く,貴勢及 び親党を抑制した」としている15)結局,貞観年間は貞観19年頃まで一貫して
「抑貴勢」・「抑文雅」と同時に,「奨法吏」・「進酷吏」の方向の人事が行 われた。貞観年間の吏部官僚に限って史書にその人事の性格と業績評価が記 録されたのは,貞観年間の人事の方向が既存勢力の要望に適応せず,これが彼
26)
らにとっての懸案事になっていたためであろう。
民心収拾の必要があった対高句麗戦後,この様な人事行政に対する不満が遂 行者であった楊師道に向けられ,その人事方針が問題になり彼は左遷された誓)
が,この様な人事方針が彼ら人事官僚の意図であったと見るよりは,太宗の 一貫した方向提示がその背景にあったと見るべきであろう。太宗の方針と異な る人事を推進した官僚は太宗によって排除される場合もあった。例えば貞観 初,顔師古が「抑素流・先貴勢」するだけでなく「富商大質」まで推薦したの で免職された。その後,温彦博から顔師古の再推薦を受けた太宗はむしろ峯文 本を抜擢している18)暫くたって,顔師古は秘書少監に任命されたものの「自ら 誠励すべし」と太宗から厳重に警告されたため,その後,門戸を閉ざし賓客を 杜絶せざるを得なかった。
太宗のこうした人事方針は有名な僧玄装に対する彼の態度からも窺われる。
印度から帰国した玄 を接見した太宗は,還俗して自分の政治を助けるよう彼 を勧誘した。貞親22(648)年には,玉華宮で再度彼に還俗と「共謀朝政」を
29)
勧めた。Stanley Weinstein氏が指摘するように,太宗が玄 を評価した のは,彼の宗教的信心より外国に対する直接的な知識の為であったろうぎ)太宗 がたとえ玄 を還俗まではさせなかったにしても,彼を弘福寺・慈恩寺,そし て高宗代には西明寺等の唐王室と関連ある寺刹に住まわせて,唐王室の威信を 高めるために彼を十分利用したことは確かである。
太宗はこうして功臣対策と人材登用を積極的に進めたが,それらが全て太宗 の思い通りに展開されたというわけではなかった。即ち,党争によって彼の後 継者問題が表面化し,今まで排除してきた威臣たちに結局一番頼らざるを得な くなったのである。この党争に就いて具体的に検討してみよう。貞観17(643)
年,薫璃が 房玄齢以下の同中書門下の内臣は皆,朋党・比周を作り,心から 上を奉じていない と上奉したのは,薫璃だから出来る率直な指摘であった。
この時指摘された朋党は太子承乾と魏王泰を巡る朋党と関係あるだろう。
承乾は廃嫡されることを恐れていたし,泰の方はその才能を自慢し,密かに 31)
D嫡の計を抱いていた。ここに各々朋党を樹立し,ついに亀裂が生じた。奮唐 書,巻76(資治通鑑,巻196)には,李泰が柴令武・房遺愛等20鯨人を腹心に し,章挺・杜楚客等が李泰と朝臣を結んだとしている。孫國棟氏は上の人物以
32)
外にも劉泊・峯文本・崔仁師等が魏王泰と結び付いていたことを明らかにした。
一方,太子派としては,侯君集・賀蘭礎石・李安假・趙節・杜荷・王敬直等が 挙論されているが,魏王泰派に比べてそれ程地位が高くない。皇太子は諸王よ り現実的に政治面で有利な立場にいたにも拘らず,周辺に集まった人員がこの 様に貧弱なのはなぜであろうか。この太子承乾の謀反事件というものは,貞観 17(643)年4月,その直前に起きた齊王祐の謀反に連座した絶干承基が上変
したことから始まる碧)この件の処理過程は,ある意味で政治的な解決になった といえる。侯君集が謀反を計画した状況証拠はあるにしても,はっきりした裏 付けは無かった。承乾も同じように政治的葛藤の犠牲になった可能性が十分に ある。ここで前述した薫璃が指摘した,房玄齢等の朋党に関して見てみよう。
房玄齢は太宗の即位と共に政治の中枢に参加した。彼に対する太宗の信任は 厚かった。対高句麗戦時,京師留守の房玄齢が彼自身を密告した者を太宗の行 在所まで駅送すると,太宗は密告したその者を腰斬してまで,彼に対する信任 を表明し遣)だが,房玄齢でさえ何回か機務を解職され,微謎によって帰第せ ざるを得なかったのである。貞観10(636)年長孫皇后が臨終直前, 玄齢は 最も長く陛下に奉仕し,注意深く実直であり,奇謀と秘計は皆予め聞いていた
のに,ついに一つも漏洩したことがありません。大故でなければ捨てないよう 35)
ィ願い致します と,当時微謎によって帰第させられていた房玄齢を弁護して いる。この時,太子承乾が長孫皇后の快癒のため全国に赦と度僧を実施するよ
う,他ならぬ房玄齢に乞うたという点にも注目すべきであろう。房玄齢はま
た・息子は高陽公主と結婚し・娘は韓王女己になっ峨が身の栄華を却って恐甜貞観13(639)年に機務を解職してもらおうと上表したが認められなかった。
その後,貞観20(646)年,また逐われていた房玄齢を楮遂良が弁護して,太 宗が呼び戻している誓)その後にも,芙蓉園に出向いた太宗が当時還家していた 房玄齢の家に立ち寄り,彼を許すということもあったぎ)房玄齢がこの様に太宗 の信任を受けながら,『小さな間違いを犯しただけでも帰第しなければならなかっ
たことは,彼に対する牽制がそれほど強かったことを物語る。
長孫無忌の場合も,大きな反発を受けた。貞観初,長孫無忌への反発の一面
一
任:唐代太宗・高宗期の政治史への一視角 27
を封倫・戴胃らに見ることができるぎ)長孫無忌が貞観初から政権の中枢より排 除されていたのは,彼が勲臣であり,また外戚であるという理由からであろうlo)これを熟知していた長孫皇后は臨終前に房玄齢を擁護すると同時に,長孫氏の 永久的な保全のため,長孫無忌を権要に置かないよう太宗に願っているぎ〉それで は,太宗前期の政治的主流勢力である房玄齢・長孫無忌及び高士廉を牽制する 勢力の実状は,どの様なものであったか。まず,長孫皇后が臨終の床にあった 貞観10(636)年の宰相の面貌を検討し,長孫皇后が憂慮した対象が誰であっ たかを推測してみる。
貞観10年には房玄齢以外に温彦博・魏徴・侯君集・薫璃・楊師道が宰相職に あった。温彦博については前節で言及した。薫璃が房玄齢・杜如晦とそれほど 親しい関係でなかったことは確かであり,従って彼は房玄齢などの朋党を批判
42)
オている。しかし,薫璃自身,12月には岐州刺史に左遷される等,度々中央政 界を退いていることから見て,さほど大きな影響力は発揮出来なかったものと 思われる。楊師道は貞観10年,魏徴に次いで侍中として宰相になったので,長 孫皇后の憂慮の対象になったとは考えられない。
魏徴については,史料に かつて中書侍郎杜正倫と吏部尚書侯君集とを宰相 の材質ありとして太宗に密かに推薦したが,魏徴が亡くなった後,杜正倫が罪
によって追い出され,侯君集は反逆によって伏諌されたので,太宗は魏徴の阿 43)
党を疑い始めた と,魏徴が朋党に関係していた可能性を示唆している。その 朋党の中心が侯君集であったか別の誰かであったかの断定は保留にしておく。
魏徴は生前,彼の長男と太宗の娘衡山公主との結婚まで定めていた。彼の死後 その結婚の計画が取り消されたり,彼が推薦した人達が政治的に排除されたこ とは,生前の魏徴の政治的影響力に対する反発として見ても良いだろう。貞観
10年6月,侍中魏徴が度々眼病を患い散官を求めたので,太宗は魏徴を特進さ 44)せ,門下省を監督させた。長孫皇后の臨終直前に彼が門下侍中を辞めたのも,
時期的にみて前述した長孫皇后の遺言と関係があるかも知れない。魏徴に「請 致仕」ではなく,「散官を求めた」という表現を使ったのも,魏徴の政治への 未練を暗示するためであろう。
侯君集は太宗の旧臣であって,何回かの出征で多くの戦功を挙げた。史書に は,貞観14(640)年高昌を平定した後の, 君集は西域で戦功があるのに,
貧冒を理由に囚禁されたため,心の中はとりわけ快快としていた。 4 の彼
の不満ぶりが記載されている。彼がその軍功にも拘らず,厚遇されなかった
という事実が,政治的対立によるものなのかどうかははっきりしないが,いず れにしてもそのことが彼の謀反の誘因になった可能性はある望侯君集は,上記 した推薦の件から見て,貞観10年を基準に魏徴と政治的に共助関係にあった可 能性が強い。彼らがどの様な性向を持っていたのかは明確でないが,後述の
「廃太子」事件の前後の事情等からみて,房玄齢と競争的な立場にあったこと は間違いない。王珪を,魏徴と同じ範疇に加えることが出来るかどうかは明ら かでない。彼は太子建成派であったが,その敗北後,太宗に依って受け入れら れたという点では魏徴と相通じる処がある。王珪は魏王師を歴任しているが,
それで彼を魏王派に分類できるかどうかは疑問である。貞観13(639)年劉泊 が宰相になってから魏王派の劉泊・寄文本・崔仁師・章挺等が政権の中心に位 置し始めたのであろう。従って,他の分類基準がない限り,貞観10(636)年 当時の政治勢力は房玄齢を中心とする秦王府旧臣勢力と魏徴を中心とする太宗 即位後吸収勢力とに分けることができる。
こうした二大勢力の存在を設定した上で,前述した世襲刺史案を再検討して みる必要があるだろう。世襲刺史案に,功臣の中央政治からの影響力削減とい う目的があったとすれば,それは魏徴一派の発案であった可能性もある。功臣 がみな地方官として赴任すれば,中央政治は当然功臣以外の高官に左右される ことになる。貞観11(637)年当時高官の中で世襲刺史に任命されなかった人 物として,(中書令が誰であったか不明であるが,)門下侍中の楊師道・知門 下省事の魏徴を挙げることができる。従って,貞観11年当時の状況では,世襲
刺史案が施行されて相対的に得をするのは,政権基盤が強化される魏徴であっ 47)
たことは確かである。時期的に少し後のことであるが,貞観17(643)年,張 亮が洛州都督として中央を逐われた時,侯君集が激怒し, なぜ排されるか
と言うと,亮が これは公が排したものだ。更に誰を憎むか と答え,君集が 私は一国を平定してきたが,天子の激怒に逢った諮と返答した対話が史料に 残っている。張亮が洛州都督に赴任することは当時一般的に「排」 (排除)と して認識され,また自分を「排」したのが侯君集本人であると張亮は信じてい たのである。本来世襲刺史案では張亮が濃州刺史になっていたが,それより上 位の洛州都督をも「排」として認識していたということは,世襲刺史案が功臣 の為のものではなく,功臣対策の一つであったことを間接的に説明してくれる だろう。また張亮が,自分を排除したのは侯君集であると面と向かって彼に言っ たのには,それなりの理由があったろう。その理由としては,二つ考えられる。
任:唐代太宗・高宗期の政治史への一視角 29
一つは,当時の貞観17年の時点まで侯君集が人事行政を担当する吏部尚書であっ た点である。また,二っ目は,貞観11(637)年の世襲刺史案が侯君集を含む 魏徴一派によって推進されたのであれば,たとえその施行自体は止め得たとし ても,張亮に対する人事を,彼が功臣対策の延長と受けとめた可能性があると いう点である。この様に検討してみると,世襲刺史案も裏には『魏徴政権』の 権力強化という意図が隠されていた可能性があることに気づく。
しかし,貞観16(642)年の魏徴の死後,上記の貞観17年の対話からもわか るように,侯君集の政治的影響力は既に弱化していた。だとすると,この時期 の政治的主導権は,どの派が掌握していたのであろうか。太宗の広範な人材登 用策の結果,この時期に至ると貞観年間に抜擢した多くの人物が,重要な地位 で活躍するようになる。彼らは既存勢力が掌握していた政治体制の中から自然 に自分たちの政治的活路を見出した。既存勢力が東宮府官職を兼職した場合が 多かったのに対して,新参勢力は魏王を求心点に集まるようになった。彼らが 即ち,劉泊・寄文本・崔仁師・阜挺・杜楚客。柴令武・房遺愛等であった。こ こでは,中心人物の劉泊・寄文本が薫銑魔下の人物であったことに注目したい。
薫銑の降唐は穏健な方向でなされたため,その残存勢力が温存され,揚子江中 流地域も階末の戦乱期を経ながら比較的疲弊せずに済んだ19)後の貞観18(644)
年に,蘭・河州(朧右道)の降胡と准南・江南・嶺南と峡(葵・峡・帰州)兵 四万名を動員して高句麗攻撃,貞観19(645)年,関内道・河東道の兵を動員
して醇延陀に対備した一連の軍事動員に,峡兵が含まれながら,山南の負担が 殆どなかったのは,この時期のr劉泊政権』が地域の利益を保護したからであ ろう。r劉泊政権』後,これらの政策に対する反発もあったが,それに関して 50)
ヘ前稿で述べた。
この様に,派閥間対立と政治的葛藤が尖鋭化した貞観17(643)年,貞観年 51)
ヤに多くの武功を立てた代州都督の劉蘭が謀反で腰斬され,上述したように太 宗の旧臣であった張亮が洛州都督として中央を追われ12)更には齊王祐等の反乱 が相次いで起こるのである。貞観17(643)年にこうした事態が集中的に現わ れたのは,それだけ社会的葛藤が蓄積されていたためであり,中央政権の功 臣対策の余波であったと思われる。孫國棟氏は太子承乾の廃太子が両派にとっ て同じ様に打撃であり,結果的に「漁夫之利」を得たのは長孫無忌であったと
53)
鋸̲した。魏王派側の攻勢がこの一連の事件の発端であることは確かだが,こ こで太子承乾派として処罰されたのは,実際承乾とそれほど深い関係にあった
人物ではなかった。太子少師の房玄齢(奮唐書,巻66)や高士廉(蕾唐書,巻 65),または左庶子の干志寧・右庶子の孔頴達等は直接関与していなかった。
また,東宮府官僚の処罰基準も曖昧であった。左庶子の干志寧・張玄素の場合,
承乾に上書切諌したため承乾からの刺客による殺害の危険があったが,干志寧 は免職,張元素は除名された。皇子の謀反事件では妃族にまで処罰の範囲が及 ぶ場合が多いが,皇太子妃の実家の蘇亘型族には何の影響も及んでいない。ま た,鞠問に加担していた楊師道は,妻の長廣公主と前夫との子である趙節の救 命を謀ったために宰相を辞めさせられた。このことから見て,当時事件の関与 者の範囲は充分調節可能なものであった。この事件を告訴した紡干承基は当初 魏王泰の暗殺を指示されただけなので,彼を調査したとしてもこうした謀反事件 に拡大出来るものではない。これを,長孫無忌・房玄齢・薫璃・李動・孫伏伽・寄 551
カ本・馬周・楮遂良等に鞠問させたため,承乾を廃太子する線でこの事件を政 治的に収拾しようとしたものであろう。この様な妥協から考えて,この事件の 被害者は本来太子承乾を支持していた者ではなく,当時の政局では既に政治的 影響力を失っていた旧魏徴派であったとみるべきであろう。しかし,妥協によっ て収拾したこの事件後の事態は,孫國棟氏が指摘する様に,魏王派の期待通り にはいかなかった。それまでの人材登用と功臣対策が,結果的に廃太子という事 態を招いてしまったことに大きな衝撃を受けた太宗は,政治運営において長孫 無忌などの権臣勢力に頼らざるを得なくなった。その後,迂余曲折を経て皇太 子に決定されたのは晋王治であった。注銭氏は,この後継者決定過程を普通地 主と関朧軍事貴族間の矛盾の発露であるとした16)が,後継者決定とその前の廃 太子事件とは政治的な段階を異にする。廃太子事件を契機に貞観17(643)年 から政治の第一線に登場した長孫無忌は,貞観19(645)年高句麗攻撃時に太 宗に同行して侍中を摂した。貞観22(648)年検校中書令として「知尚書・門 下省事」になって三省全てを掌握するようになり,ここに長孫無忌の専横が始 まった。この前後に峯文本・高士廉・房玄齢・劉泊・張亮・馬周・崔仁師等の 人物が病死・賜死・諌殺・配流等によって政界を去った。権臣・側近の死によっ て相対的に地位を高めた長孫無忌は,自分の意図に反する人物をみな地方に左 遷した。司農卿の楊弘礼は「大臣の旨に障って」地方長官に左遷された。貞観 23(649)年太宗の臨終直前には,李劾を畳州刺史に左遷している。この左遷は,
史書の記載通り太宗が皇太子治への配慮からしたものなのか,他の対立勢力の 謀陥によるものなのか明らかでない。
任:唐代太宗・高宗期の政治史への一視角 31
こうした反対者処理は全て楮遂良の役目であった。前記した劉泊・崔仁師以 外にも李乾祐(奮唐書,巻87)・章思謙(奮唐書,巻88)等が楮遂良によって 排斥された。「廃王后」事件でも,高宗が長孫無忌に「立武后」の意向を尋ね た時,長孫は 貞観二十三年以後,先朝は楮遂良に付託しておりますので,彼 にその可否を聞いて下さい と,太宗の権威を借りながら,楮遂良に反対の意 志表明をさせている。ちなみに,長孫無忌等は永徽3(652)年の房遺愛の乱
を契機に,房遺愛・醇萬徹・柴令武等の功臣や功臣子弟を斬し,一部の諸王・
公主をして自尽せしめた誓)房遺愛の乱に関する既存の多くの研虻殊この事件を 長孫無忌による造作であるとしている。この事件の犠牲者はそのほとんどが魏 王派の生存者であり,一部に宗室も含まれていた。こうして見るとこの房遺愛 の乱は,廃太子事件と同様長孫無忌の権力を強化した連続的事件であったこと がわかる。永徽四(653)年12月には,代州都督劉文器が妄説図識のため諌殺 された7)高宗はこうした長孫無忌等の専横から脱皮するために「立武后」事件 を起こしたのだ,と黄永年氏は指摘しているぎ)
3.高 宗 代 3−1.前 期
劉仁軌は唐軍の百済占領司令官として派遣された際,二度にわたる朝廷の帰 還命令にも拘らず,百済に駐留することを請願している。初めの帰還命令は 龍朔2(662)年のことで,当時唐朝は寵孝泰・蘇定方の対高句麗戦敗北にあ
61>
「,福信等の百済復興運動を契機に唐軍の百済撤収が考慮されていた。しかし,
62)
劉仁軌が百済故地駐屯の必要性を強弁した結果,唐軍の駐留が決定された。二 度目は麟徳元(665)年10月のことで,劉仁軌が百済駐屯軍の疲弊ぶりを上奏 すると,唐朝は劉仁願に兵を引率させ軍の新旧交代を命じ,劉仁軌には帰国す るよう指示した。これに対し劉仁軌は,兵を一度に交替させると騒乱が起こる 危険があるので漸次交替させることと,指揮官の自分もそのまま残ることを奏 請して許可される警)これらを見る限りでは,瀧川政次郎慮あように劉仁軌が忠 情から苦労に耐えていたのだと評価できそうであるが,果してそれ程単純なも のであろうか。劉仁軌が帰国を喜ばなかった理由は他にないのだろうか15)
これを理解するために,当時のr許敬宗政権』について検討してみよう。
「立武后」を契機に,李動を盾として李義府が政権を掌握してから670年劉仁 軌・許敬宗の政敵同士の同時下野までの政権を,暫定的にr許敬宗政権』と呼
ぶことにする。(この期間中,許敬宗が一貫して政権を掌握していたわけではな いが,その時代的性格に一貫性が認められるためこの様に区切って検討する ものである。)高宗は許敬宗らを大事にした。許敬宗とともに「立武后」を推進 した李義府が王義方によって弾劾された時,高宗は李義府を不問に付して釈放 した。一方,大臣を殿辱し,言辞が不遜であるとの理由で王義方を左遷した1ε)
表皿. 高 宗 代 申 枢 官 僚
年号 年 西暦 司空 太子セ師
太子
ュ師 中書令 中書令 侍中 侍中
左僕射
右僕射 御史蝠v永徽
1 650
楮遂良 高季輔 干志寧 張行成 李動 賓徳玄永徽
2 651
高季輔 干志寧 張行成 干志寧 張行成 唐臨永徽 3
652
柳爽 宇文節高季輔 干志寧
張行成李乾祐
永徽 4
653
李劾 柳爽 宇文節 高季輔干志寧
張行成長孫祥
永徽
5 654
李助 柳爽 崔敦禮 干志寧 楮遂良 崔義玄永徽
6 655
李助 崔敦禮 来濟 崔敦禮 韓環干志寧
楮遂良 崔義玄 顯慶1 656
李効干志寧
崔敦禮崔敦薩
来濟 韓暖 干志寧顯慶 2
657
李動 李義府 来濟 許敬宗 韓環 干志寧駿
3 658
李動 李義府 杜正倫 許敬宗 辛茂将 干志寧顯慶 4
659
李動 許敬宗 許園師 辛茂将 干志寧顯慶
5 660
李劾 許敬宗許園師
龍朔
1 661
李動 許敬宗 許園師龍朔
2 662
李助 許敬宗 許敬宗 許園師 賓徳玄龍朔
3 663
李動 許敬宗李義府
許園師 賓徳玄麟徳
1 664
李劾 許敬宗劉祥道
賓徳玄 餐徳玄麟徳
2 665
李劾 許敬宗陸敦信
寳徳玄 劉仁軌乾封
1 666
李動 許敬宗 陸敦信 劉仁軌 賓徳玄乾封 2
667
李助許敬宗
劉仁軌 樂彦璋総章
1 668
李勧 許敬宗 閻立本 劉仁軌 姜恪樂彦璋
総章
2 669
李動 李助 許敬宗 閻立本 劉仁軌 姜恪樂彦璋
威亨
1 670
許敬宗 閻立本 劉仁軌 姜恪 樂彦璋威亨
2 671
閻立本 姜恪 樂彦璋威亨
3 672
間立本 姜恪 樂彦緯威亨 4
673
閻立本 wル彦韓
上元
1 674 邦慮俊
樂彦緯上元
2 675 都慮俊 張文雍 劉仁軌
戴至徳 樂彦璋 一上元 3
676 部慮俊
李敬玄張文磯 劉仁軌
戴至徳 樂彦璋 儀鳳2 677
一都庭俊 李敬玄張文瑠 劉仁軌
戴至徳儀鳳
3 678 赤鵬俊
李敬玄張文瑳 劉仁軌
戴至徳儀鳳 4
679 都虜俊
李敬玄 1都威俊 劉仁軌 戴至徳 高智周調露
2 680
李敬玄 一都虜俊 裟炎 劉仁軌永隆
2 681
醇元超 崔知温都威俊
襲炎 劉仁軌 章仁約永淳
1 682
醇元超 崔知温 斐炎 毒仁約永淳 2
683
醇元超 袈炎 劉齊賢 裟炎劉仁軌
章仁約出典;表五と同じ。
任:唐代太宗。高宗期の政治史への一視角 33
総章2(669)年李勧の死後,総章3(670)年正月劉仁軌致仕に続き,2 カ月後の威亨元(670)年3月許敬宗致仕というライバル同士の同時下野によっ て,10年余も継続したr許敬宗政権』は幕を下ろした。許の下野に関連して許 の腹心の趙仁本がその年の10月に宰相を辞めた17)しかし劉仁軌は,許敬宗との 同時下野後すぐに朧州刺吏に復任し,威亨3(672)年に許敬宗が死去すると,
その年の12月には宰相になり中央政府で許敬宗の業績否定の作業を始めた。
許敬宗らの記載に不実が多かったとして劉仁軌らは,国史を再び編修び1)許敬 宗が定めた顯慶禮が「その増減したところ,皇帝に気に入られるものが多い
(多渉希旨)」として儀鳳2(677)年からは五礼を周禮によって行うように した19)また,趙仁本が撰したr法例」3巻を「繁雑でありまた不便」であると して廃し,使わないようにしたlo)上述した「多渉希旨」というのは,結局皇帝 の意図のままに従ったことを意味するが,それこそがr許敬宗政権』の特徴を,
代弁しているであろう。彼らは,太宗代からの宿願でありながらやり残されて いた封禅儀礼や高句麗占領等をこの時期に至って実現させた。また,皇帝の洛 陽での滞在日数を増加させ,全中國の統治にふさわしい体制を目指しワ策試等 を通じて大々的な人材抜擢に努めた。皇帝権力が安定すると,権力の属性上,
自然にA型官僚政権が誕生するようになるが,こうした政権は政治の自浄作 用に乏しく,危機管理能力が低い。だから,飢鐘などの際,皇帝は事態収拾の ため,在地に基盤を置いたB型官僚の方に妥協して政治を任さざるを得なかっ ただろう。A型官僚政権であるr許敬宗政権』の最大の政治基盤は皇帝権力で あった。そのため,彼らは皇帝の権威を高めようとした。龍朔2(662)年に は,北衙禁軍の実質的補充を行って,朝会や行幸時の皇帝の威厳を高めた12)ま た,宮殿の修築も『許敬宗政権』下では大々的に行なわれた。龍朔2(662)
年以降,長安の蓬莱宮(旧大明宮)の修理のため長安周囲の15州から率口銭を 徴収する一方,京官の一ケ月分の俸給を減らしたことさえあったζ3)太宗代から 保留されていた洛陽宮の修築も顯慶元(656)年から始まり麟徳2(665)年
に至って乾元殿が完成された 4)
この様な宮殿の修築がr長孫無忌政権』やr劉仁軌政権』のようなB型官僚 政権下では抑制され,豪華な宮殿修築をした者が処罰される場合もあったこと を考えれば,両政権の傾向の違いはおのずと明らかであろう。r長孫無忌政権』
下では,高宗は万年宮の暑さを我慢しなければならなかっ繧)司農卿の章弘機 は壮麗な宮殿(宿羽・高山・上陽宮等)を造営したかどでr劉仁軌政権』下の
儀鳳4(679)年,劉仁軌の復心の侍御史狭仁傑に弾劾され,結局は別の件で 免職された 6)また,開耀元(681年)には,斐匪野が高宗のために完造した鏡 殿を見た劉仁軌が, 天に日は二っなし,地に王は二つ無し,四壁に数人の天 77)
qがあり,不祥あに甚しからずや としてこれを取り壊すよう命じた。宮殿の 壮麗さが皇帝の威厳を高めるという点に結びつけると,それに対する政権間の 見解の差を,理解し易くなるだろう。また,B型官僚が倹素で縮小財政を志向
78)
したとも言えるだろう。その他r許敬宗政権』が自然現象を瑞兆として宣伝し,
それに合わせて年号の改正を行なったり,官職名を古に仮託して改制したのも,
みな神秘的要素による権威付けが目的であったろう。改制された官職名はr劉 仁軌政権』の登場と同時に元に戻った。
一方財政面であるが,まずr劉仁軌政権』では,営利にさとい斐匪野が開耀 元(681)年,苑中の馬糞を売れば毎年銭萬繕になると上奏したが,劉仁軌は 79)
繿纉iニが馬糞を売ったと称される恐れがあるとして反対した。垂撲3(687)
年斐匪躬が苑中の果菜を売り利を得ようとして蘇良嗣の反対にあったことは前 稿で言及した響この様に劉仁軌らB型官僚の皇室収入増加に反対する傾向とは 対照的に,r許敬宗政権』は皇帝が任意に使用できる非正規的な財源確保に熱 心であった。顯慶中,彰志笏という者から軍備調達の名目で絹萬匹を受けとり,
その見返りとして従六品上の文散官である奉議郎を彼に与え,そのことを全国
81)
ノ喧伝した。その後李義府が大々的に行なった売官は高宗の了解がなくては不 可能であったろうから,高宗が財源調達のため李義府を使って売官をすすめた とみるのがもっとも妥当であろう。r劉泊政権』時代に高句麗攻撃が行なわれ,
r許敬宗政権』時代に百済・高句麗占領が成就するが,共に国土拡張・戸ロ増 加を目指したことを語っている
この様に,A型官僚には拡張的な傾向があり,偉大な政府を目指したと言える。
これに対して,B型官僚には現状維持的傾向があり,小さな政府を目指していた と言えよう。こうした傾向の差は,支持基盤の違いがもたらした結果であろう。
r許敬宗政権』は官僚の支持を得ていたと考えられる。麟徳2(665)年,文 武五品以上と武職に杖身を班給するが,掌閑・募士(原文は幕士)を以て充す
るよう詔したぎ)これは威亨元(670)年4月許敬宗の下野とほ濠筒時に「停給」
になるが,こうした侯身の班給は官僚の権威を高め,結果的に皇帝の尊厳性を 高める役割をしただろう。翌年の乾封元(666)年には,京師の文武官に防閤
・庶僕の奉料を給するよう詔した。これは永徽元(650)年,京官諸司の捉銭・