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「詠白鷺啄木飛歌」考 : 万葉集巻十六、三八三一 番歌について

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(1)

「詠白鷺啄木飛歌」考 : 万葉集巻十六、三八三一 番歌について

著者名(日) 本澤 郁枝

雑誌名 大妻国文

37

ページ 1‑18

発行年 2006‑03

URL http://id.nii.ac.jp/1114/00001349/

Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja

(2)

﹁詠 白鷺 啄木 飛歌

l

l

高葉集巻十六︑

三八一三番歌について||

i

有 日

はじめに

配葉集﹄巻第十六︑有由縁雑歌の部に︑︷一訟忌寸意吉麻呂歌人首﹂として︑

長忌寸意吉麻呂歌八首

刺名倍か

湯和可世子等

機津乃

槍橋従来許武

狐朱安牟佐武︵3824

‑ . c .  

︑関一此僕具雑器狐声河

食薦敷

行騰懸而

3825

(3)

蓮葉者

詠一香塔岡原鮒奴歌

香塗流

川隅乃

詠酢醤蒜鯛水葱一歌

蒜都伎合而

苅来鎌麻日室乃樹

詠白鷺啄レ木飛歌

力士憐可母白鷺乃 意吉麻呂之

四佐倍有来

尿鮒喫有

枠啄持而 家在物者宇毛乃葉か有之︵3826

双六乃佐叡︵3827

痛女奴︵3828

水葱乃煮物︵3829

3830

飛渡良武︵3831

(4)

白鷺の木を啄ひて飛ぶを詠む歌

力士憐かも白鷺の枠啄ひ持ちて飛び渡るらむ︵3831

という八首がある︒この八首︑詠物歌の一種で︑万葉研究の上では﹁物名歌﹂と称されている︒この﹁物名歌﹂は︑古今

集のそれとは異なり︑名だけではなく物そのものを歌に詠むもので︑更にそこに二重三重の意味を持たせる手法の歌であ

る︒このように複雑な手法によって詠まれた歌であるために︑解釈に諸説があり︑定説をみない歌が多い︒本稿では︑こ

の八首中特にはっきりとした解釈を持たない最後の一首︑﹁詠白鷺啄木飛歌﹂について︑私見を論述したいと思う︒

調

①初句﹁池神﹂を地名と採るか﹁池の神L

②﹁力士舞﹂とはどのようなものであるか︒

③他の七首と同じく物を詠んだものであるか︒

を論じている︒従って本論もこの三点を中心に考えて行きたい︒

はじめに︑私見の結論の要点を示しておけば︑

・池神の示すところのものは︑城下郡池座朝霧黄幡比売神社であるとともに︑文字通りの池の神を示している︒

・白鷺の啄え持つ枠は︑力士舞の所作からマラカタを示しており︑このマラカタは華霊のことを暗に表している︒

・物名歌としてここに詠まれた物は︑寺院装飾の華霊である︒

という次第である︒以下にこれまでの研究史を整理した上で私見をまとめてみたい︒

(5)

二︑研究史の検討

これまで当該歌に関してどのような研究が行われてきたのかを検討し︑その問題点を明確にしておきたいと思う︒﹃寓葉

集﹄については非常に多くの注得がなされているが︑先に示した三点に関して︑そう多くの意見が出されてはいない︒

具体的な言及の早いものとしては︑契沖の﹁高葉代匠記初稿本﹄に︑

池神の力士憐かも海よりはしめて井池にいたるまで神あらすといふ事なし︒力士まひとは︑いにしへ力士まひとて

鉾をもちてまふ舞の有けるなるへし︒神の子力あるを︑力士といふ︒執金剛を金剛力士といふも︑ちからによりて得

たる名なり︒鷺の枝くはへて飛ありくは︑池の神の出て鉾を横たへもちて︑力士まひし給ふかといふ心なり︒まひと

は鷺の空を飛めくる心なり︒

︿池神は︑池を領する神なり︒力士憐は︑昔さ云舞ありて鉾を横たへて舞けるにや﹀初の二句に︑二つの意侍るへし︒

一つには︑池神のために︑鷺の枠啄持て力士憐をなすなり︒二つには︑池神の鷺と化して︑力士憐をしてみつから心

とし︑契沖は初旬の池神を文字通りの池の神或いは池の神の谷属であるとしている︒

(6)

これに対して地名と採る説としては︑賀茂真淵が最初であり︑﹃蔦葉考﹂には次のようにある︒

池神︒借字にて池上也︑大和闘に在︑

また︑その弟子の橘千蔭は︑﹃首門葉集略解﹂で師の説を支持し︑

大和十市郡︑池上郷あり︒神は借字にて︑此池上か︒そこにでか︑る舞をせし事有か︒力土は手力ある悌を言へり︒

昔力士の鉾持たるまねびして舞し事有しなるべし︒鷺の巣作らむとて︑木の小枝をくはへて飛ぶを︑かの力士憐に見

とし︑どちらも池神を地名として大和圃十市郡池上郷であるとしている︒豊田八十代﹃寓葉地理考﹄︵一九三二年一月刊

大岡山書店︶もこの説を支持して︑

和名抄に︑大和園十市郡池上郷あり︒大和志料には︑﹁池上は池遣にして︑即ち磐余の池に因れる庭と思はるれば今の磯

城郡池ノ内池尻より安借地方に亙れる郷名なるべし︒﹂といへり︒

としている︒これに対して井上通泰﹃寓葉集新考﹂︵一九三八年九月刊

で ︑

池神は地名なるべし︒真淵は﹁神は借字にて大和園十市郡池上郷なり﹂といへれど十市郡の池上は磐余の池ノ遁にあ

(7)

ノ、

るより名を負へるにてイケノへとよむべきなりと云ふ︒

として池上郷説を否定しているが︑具体的な意見は述べられていない︒池上郷説に対する具体的な比定地を示すものは︑

松岡静雄﹃有由縁歌と防人歌﹄︵一九三五年六月刊

池神は恐喜神名式の大和岡城下郡池坐朝霧黄幡比責神をいふもの︑ゃうで︑今も磯城郡川東村大字大安寺に其社が存

として︑城下郡池坐朝霧黄幡比責神社をあげている︒しかし︑これ以降この意見を引用する注緯はほとんどみられないの

である︒鴻巣盛慶﹁蔦葉集全釈﹄︵一九三五年刊

では再び池上説を採用している︒

白鷺が木の枝をくはへて飛んでゐるのを詠んだ歌︒こんな絵でもあったのであらう︒巻九の仙人の形を詠んだ歌

と共に画賛の歌かもしれない︒

O池神ノ神は借字でイケガミといふ地名らしい︒略解には︑和名抄に十市郡池上郷とある所だらうと記してゐる︒

池上郷は磐余池のほとりで︑今の安倍村香久山村に首ってゐる︒然るに一説にこの池上を生駒郡富郷村岡本なる法起

寺としてゐる︒そこに岡本池と称する小池があり︑その寺を池後尼寺と呼ぶことが法隆寺資財帳に見える︒霊異記に

この寺に関する観音銅像化鷺形一不奇表縁を載せてゐるが︑それとこの歌との聞には何の関係もあるまいと思はれる︒

ともかくこの歌に力士舞とあるからは︑寺に関係があることであるから︑十市郡の池上郷ではなく︑これを法起寺と

すると極めてよく首絞まるのである︒O力士舞可毛|力士舞はかういふ名の舞が昔時有名であったのである︒力士は

(8)

金剛力士で︑今︑寺門の両側に立ってゐる仁王尊のこと︒兄を金剛︑弟を力士といふとするのは俗説である︒この金 剛力士に扮したものが︑枠を以て舞ったもの︒聖徳太子の時百済の味摩之によって惇へられた伎楽の一である︒教訓

マラカタニ縄ヲ付テ引テ︑件ノマラヲ打ヲリ打ヲリヤウ/\ニスル鉢に舞也﹂とあって︑力士が持っている枠といふ のは︑賓は男根に象どったものであったのである︒なほ西大寺の資財帳の伎楽の僚にも︑金剛力士枠持四人とある︒

O

枠啄持而題に啄木とあるやうに︑木の枝を啄へて飛んでゐるのを︑滑稽的に力士舞

ここでは︑また一説に生駒郡富郷村岡本なる法起寺をあげている︒また︑物名歌の説明として︑こんな絵でもあったの

だろうとして︑絵を見ての詠であるという説も提示している︒この意見に関しては︑伊藤博﹃長忌寸意土口麻呂の物名歌﹄

O年九月刊︶に︑﹁画賛かもしれない﹂という意見を載せている︒これに対する意見としては︑

津潟久孝﹃高葉集注稗﹂︵一九六六年六月刊

上の﹁かも﹂を︑つけて﹁らむ﹂と云った︒﹁上に原因・理由等を疑ってゐる場合︑下の事賓を表はす部分が﹁らむ﹂﹁け

む﹂等で結ぼれてゐることがあるが︑その時の推量は︑事賓にか︑るのではなくて︑上の疑に感ずるものである﹂と

の云はれてゐる如く︑﹁:::かも﹃白鷺の枠くひもちて飛び渡る﹂らむ﹂となる

と実景説を主張している︒同意見としては︑窪田空穂﹁蔦葉集評釈﹄︵一九八五年七月刊

(9)

/ \ 、

力士憐については︑全釈に至って初めてその詳細な演舞の様子を解説された︒また︑山田孝雄﹁高葉集考叢﹂︵一九五五

宝文館︶所収﹁寓葉集訓義考﹂及び市村宏﹃寓葉集新論﹄︵一九六二年十二月刊桜楓社︶所収の﹁力士舞考﹂の項

日が詳しい︒伎楽に関しては後に一章を割いて詳しく述べる事としたい︒

以上︑諸注稗をまとめると︑

①池神についての問題点は︑以下の二点となろう︒

−池の神と見る説

E地名説

i︑十市郡池上郷

u︑生駒郡富郷村岡本法起寺

山︑大和国城下郡池坐朝霧黄幡比売神社

②力士憐については︑残存史料によって判明する事柄から︑当該歌に現れる伎楽を検討しなければならない︒

③画賛についての問題は︑以下の二点である︒

−実景を詠んだ歌である

E絵画あるいは調度を詠んだ歌である

次に︑これらについての私見を検証したい︒

三︑池神

池神について神とするか地名とするか︒先に私見の結論を述べてしまえば︑地名であり︑神の名であるのだと思う︒と

(10)

いかに即興でそれに複数の意味を持たせることができ

るか︑が技巧の見せ所なのである︒而して池神の初句を︑意吉麻呂が﹁いけがみの﹂という訓で詠んだのであると仮定す

れば︑二句目以降のように助調を伴う表記がなされるべきであるのにもかかわらず︑﹁池神﹂という二文字を初句に置くと いうのは︑物名歌において一つの物の名をそこに詠み込んだ場合︑

いうことはそこに何らかの意図を見出す必要があるのである︒ここは恐らく池の神と池の神を記る場という二つの意味を

込めたのだと考えるのが穏当であろう︒

地名とするのであれば︑−十市郡池上郷−H生駒郡富郷村岡本法起寺・・m大和国城下郡池坐朝霧黄幡比売神社の何れを

その比定地とすべきだろうか︒奥野健治﹁大和志考決﹂︵﹃寓葉地理研究論集﹄第五一九八六年十月刊秀英書房︶には

池神︑未詳︒但し磯城郡川東村方面に在りしと思はるる韓人池︵書紀︑応神天皇﹁七年秋九月︑高麗人︑百済人︑

伊那人︑新羅入︑並来朝︑時命武内宿禰︑領諸韓人等作池︑因以名池韓人池﹂︶又は坂手池の池頭に在りし神仏の混合

せし神社を指すものか︒

一説に︑和名抄に十市郡︵今磯城郡︶﹁池上﹂とある郷の事とす︒この地が姓氏録に﹁池上真人・池上椋人﹂とある

池上の地にして︑池神はその借字ならむと見らるるが故なり︒されど恐らく︑池神は﹁池坐朝霧黄幡比売神社﹂の省

略にして︑其の神社に力士の出て来るは

当時の神仏習合の結果によるものならむ︒同杜は今磯城郡川東村大字法貴寺︵旧跡幽考日﹁法貴寺実相院は伝聞聖徳

太子の御建立なり衰破して一宇残れり本尊薬師如来は百済国より来朝といへり﹂︶にある池杜なるもの之なりと云ふ︒

このように︑池坐朝霧黄幡比売神社を支持する意見である︒また︑このあとに﹁池上郷に関聯せしむる一説によれば︑そ

(11)

の池を磐余池の事なれど︑云ふが如く同郷が﹁磐余池上﹂の略称なりとせば︑﹁以気乃閉﹂と訓まるべきものにして︑﹂と

あり︑先にも示したが︑池上には訓の問題があるとされている︒これは一見に値する意見だと思う︒﹁池上﹂を﹁いけがみ﹂

と訓むことができなければそこを比定する意味が無いのである︒さらに︑﹁生駒郡富郷村岡本の法起寺に関係ありとする地

名辞書の説ありて︑﹂とあるが︑こちらも別名を池後尼寺と言い︑付近に岡本の池と称する池もあった︒更に︑﹃日本霊異

記﹄中巻第十七﹁観音銅像化鷺形示奇表縁﹂にはこの寺を題材に︑本尊が鷺と化すという話があり︑いかにも当該歌に合

致するようであるが︑確たる証拠がない︒そこで︑延喜式において式内大社にされている池坐朝霧黄幡比売神社である︒

この社は︑天平一一年の﹃大倭国正税帳﹂︵﹁正倉院文書﹂︶に﹁池神﹂とみえ︑中世に栄えた法貴寺が隣接し︑その鎮守社で

あったと言われている

新川登亀男﹃臼本古代の儀礼と表現﹄︵一九九九年七月刊古川弘丈館︶は︑童日紀における伎楽の伝来記事である推古二十

4

5

年是歳僚に﹁又百済人味摩之帰化目︑学子呉︑得伎楽憐︒則安置桜井︑而集少年︑令習伎楽憐︒於是真野首弟子︑新漢済

L

6 U 7

丈︑二人習之伝其憐︑此今大市首・畔田首等祖也︑﹂という大市首と昨田首が伎楽伝習者の後喬である︒という記述を信用

して︑特に僻田首の出白から次のようなことを述べられている︒

僻田郷を︑三輪山の山麓西の初瀬川流域に求めようとする右の見解は︑およそ妥当なものではないかと思われる

o

︵ 略 ︶

およそ︑以上のように畔田郷域を考えることができるとしても︑大市首氏と同じく︑昨田首氏も︑実は伎楽を世襲

したなどという痕跡はまったくみられない︒しかし︑両氏族の主として依拠した地域には︑一定の共通性ないし限界

がみられて︑若干の例外ないし幅はあるものの︑ほほ初瀬川︵大和川︶流域︑そして三輪山の山麓ということでよく

そこで注目されるのが︑楽戸の存在である

o

(12)

存在していたという︒︵略︶この村屋ないし杜屋の地については︑今日の磯城郡田原本町蔵堂とみて異説はなく︑初瀬

川流域に位置する︒大市首や畔田首氏の依拠地に近い点が注目されよう︒︵略︶

以上のことから︑社屋ないし村屋を中心にして︑少なくとも今日の桜井市大西あたりから︑少なくとも田原本町法

貴寺あたりまでのいわゆる城上・城下両郡にわたる初瀬川流域ないしは中ツ道沿いに伎楽戸が集中して設けられたも

推測の域を出ないとは言え︑伎楽戸が設けられたと考えられる地域に︑今回比定しようとする大和国城下郡池坐朝霧黄幡

比売神社の位置が符合する点は無視できないと考える︒﹃日本書紀﹄の記事にも︑﹁則安置桜井﹂とあり︑その桜井もこの

地域に含まれる事から見てもこの周辺地域では伎楽が行われることが多かったであろうことが推測される︒法貴寺は︑推

古二十四年聖徳太子草創して秦川勝に賜う所という事が︑法貴寺実相院所蔵の縁起文にみえる

0

古くは七堂伽藍を有する大寺院で︑興福寺大乗院の末寺とされる︒ここで伎楽が行われた記録は見えないが︑当時諸大寺

で行われていた伎楽が︑この大寺院において行われなかったという確証も毎日︒この寺院のなんらかの行事で伎楽が奏さ

れたその後の宴の場が︑当該歌の場であることの蓋然性は高いと言えよう︒意吉麻日は︑池杜の場所を示す池神と池杜の

祭神の池神をそこに示したのであろう︒

四︑力士憐

では︑且ハ体的に伎楽の︑特に力士憐とはどのようなものであろうか︒諸注稽にはいずれも﹁伎楽の演目の一つ﹂である

とされている︒現在は行われなくなったこの伎楽について見てみたい︒

(13)

伎楽の伝来については二つの伝承がある︒一つは︑﹃日本書紀﹄推古二十年是歳僚の記述である︒

又百済人味摩之帰化日︑学子呉︑得伎楽憐︒則安置桜井︑市集少年︑令習伎楽憐︒於是真野首弟子・新漢済文二人

習之伝其舞︒此今大市首・昨田首等祖也︒

この史料は年代が明確でないなど︑信想性に欠けるようであるが︑先に池神の伎楽戸の説においてこの大市首・昨田首

等の氏族の依拠した地が伎楽戸の置かれた地であること︑など検討に値する説を含んでいることも否定できない︒

もう一つは︑﹃新撰姓氏録﹂左京諸蕃下に収められた和薬使主氏の系譜の中に見られるものである︒これによると︑和薬

使主氏の祖智聡は︑呉国主照淵の子孫として欽明朝に来朝した︒﹁大伴佐弓正古﹂に伴われての来朝で︑﹁内外の典︑薬の

書︑明堂の図等︑百六十巻︑仏像一躯︑伎楽の調度一具等﹂を将来したとある︒この場合︑伎楽の調度のみが将来され︑

歌舞の所作等は伝えられなかったのかもしれない︒

日本における伎楽の伝来は明確にはできないが︑伎楽は朝鮮半島を経由して伝来したということは間違

いないであろう︒では︑旦ハ体的にどのようなものであるのだろうか︒

伎楽の所作を知る上で重要な史料となるのが︑天福元年︵一二三三︶︑狛近真の手による﹁教訓抄﹄である︒これによれ

ると伎楽は︑四月八日の仏生会と七月十五日の伎楽会に行われていたようである︒演目の順序は︑禰取・調子が先ず行道

を行い︑この後に演舞が行われた︒師子舞・呉八ム・金剛・迦楼羅・波羅門・昆需・力士・大孤・酔胡・武徳楽の順である︒

この演舞の順序であるが︑﹃法隆寺伽藍縁起井流記資財帳﹄に﹁伎楽壱拾壱具﹂とあり︑以下のようにある︒

師子弐頭・師子子摩面・治道弐面・呉八ム壱面・金剛壱面・迦楼羅壱面・昆民間壱面・力士壱面・波羅門壱面・孤子参面・

(14)

酔胡淑面 伎楽に使用する面や調度である︒このほか︑正倉院や西大寺など諸大寺の資財帳に伎楽の調度の記述が見られる︒ほほ 同様のものが納められており︑記載順も同様︑ほぽ一致している︒これは︑この順序が恐らくは伎楽の演目の順序である ことを示しているのだろうと思う︒これらは︑﹃教訓抄﹄の記述ともほぼ一致する︒ここで注目したいのが︑崖掃と力士の

順序である︒その他は異同が見られるが︑この二つは必ずこの順序で現れており︑恐らくこの昆民間と力士のエピソードは︑

8

9

連続する場面を構成するものなのだろう︒これが当該歌の力士憐であることは疑いがない︒これは︑﹁教訓抄﹂によると以

下のような演舞であった︒

拍子十︑可吹三返︒壱越調吹之︒先五女︑燈瞳前立ツ︒一一人打輪持︑二人袋ヲ頂︒其後︑舞人二人出テ舞︑終ニハ扇ヲ

マカケヲ指テ︑五女之内二人ヲケサウスルヨシス︒

壱越調音︑火急吹之︒可吹三返︒謂之マラフリ舞︒彼五女ケサウスル所︑外道毘矯ノカウ伏スルマネ也︒

ニ縄ヲ付テ引テ︑件ラウ打ヲリ︑ヤウ/\︹一ニスル鉢ニ舞也︒

或人云︑尺迦仏ノ御閏也︒ヨパイニマハスルトハ是也ト云︒

作歌の時代よりかなり後の作であるため︑﹃教訓抄﹂の記述のすべてを信用するわけにはいかないが︑かなり正確に伎楽 の演舞を伝えたものであると考えられる︒このように︑﹁力士憐﹂は︑呉女という美女を追い回す南方の蛮人昆掃の男根に

(15)

力士が縄を付けて振り回すという舞であった︒

五︑白鷺の啄ひ持つ枠

﹁力士憐﹂がこのようなものであったとすると︑当該歌における白鷺・校はそれぞれ︑力士・昆掃のマラカタとなるだろ

ぅ︒池神の力士憐であるから︑池の神かあるいはその化身の白鷺を白い衣装を纏った力士に見立てたのである︒では︑毘

掃のマラカタは何を意味しているのだろうか︒マラは︑中村元﹁広説仏教語大辞典﹄︵二OO一年六月刊東京書籍︶によ

ヲ 心

シ ﹂

B色白の音写︒霊・華撃と漢訳する︒ひもで花をぬいあわせ︑首環にしたものをいう︒

BEの音写︒悪魔︒魔に同じ︒②EB

Eの音写︒力士︒③失収摩羅の略︒鰐魚の類︒④白B

E

写︒霊と漢訳する︒花輪︒花冠︒首飾り0

・まらかた︻摩羅伽陀︼回

B m

w E

E S

という意味である︒ここで注目したいのが︑どちらの﹁まら﹂の意味にも華童という意味があるということである︒これ

LAUは︑唐の釈現応撰の﹃一切教音義﹂に︑﹁劃劃︑花霊者西国人最身之具也︒党語云︑劃相座音莫可反︒此諜為花霊︒﹂とあ

る︒マラは華重なのである︒華撃は︑﹁日本書紀﹄持統元年僚の天武天皇の殖の記事において︑

甲申に︑華綬を以ちて︑墳宮に進る

o

(16)

というのが初見で︑翌年の持続二年にも︑演宮に華鰻を供している︒当時は︑死者の供養のために華塞が用いられていた

ょうである︒削とはインドで生花の花環を身体に飾る風習があり︑それが仏前に供えられるようになったもののようであ

る︒増田美子﹁霊考﹂︵﹁古代服飾の研究﹄一九九五年三月刊

斗薮塵挨衣

櫨奔水雪顔

畳霜為袈裟

貫電為華霊

の如く︑電を玉に貫いて華霊とするとうたっている︒勿論これは仏の花重であり︑白玉を連ねた花軍を電を貫いたと

表現したのである︒則ち︑唐では︑﹁王室﹂も﹁花童﹂と称されていたことがわかる︒

と︑されており︑華量は花や玉を使用した寺院装飾であったことがわかる︒

白鷺の啄ひ持つ枠を華量とすると︑一つの文様が想起されはしないだろうか︒シルクロードから唐にもたらされ︑金器

銀器や衣服文に用いられ︑やがて日本でも流行する花喰鳥文様である︒花喰鳥文様は草花の中を鳥が飛ぶ華鳥文の一種で

ある︒起源はベルシアにあり︑栄光の象徴である真珠の首輪をつけた鳥の文様で︑これが東伝し︑やがてその首輪をつい

ばんだり︑宝玉を華やかにつないだ綬帯や小枝を街えるような吉祥模様となる︒現在正倉院の御物にも数多く見られる丈

様で︑﹁螺銅紫檀琵琶﹂や﹁紅牙・紺牙瀧鎮恭子﹂など︑あらゆるものにこの文が施されている︒

(17)

ここで︑当該歌にこの文様を当てはめてみると良く合致する事がわかる︒白鷺が啄ひ持っている枠は華童︑それも玉の

華重である︒先ほど挙げた﹃広説仏教語大辞典﹄において︑﹁まらかた﹂は緑色宝であるとあった︒この緑色宝は︑昆嵩山

が中固有数の原産地である︒﹁昆掃のマラカタ﹂は︑昆忠岡山原産の緑色宝の玉を使用した華量であった︒これをくわえて飛

んでいる意匠の施された華霊が当該歌の詠まれたその場にあった︒勿論くわえ持っているのは白鷺である︒法貴寺の伎楽︑

力士憐を見物した者達が集った宴の場にそれはあったのである︒

画賛というと少し過剰に過ぎるかもしれないが︑当該歌は︑意吉麻呂の八首の先の七首と同じく物︑を詠んだ﹁物名歌﹂

六︑結ぴ

ここまで私見を述べてきたが︑最後に今一度結論としてまとめてみると︑初句﹁池神﹂は︑伎楽が仏教儀礼に関すると

なると︑寺院で行われたと考えるのが妥当である︒しかし︑神社での伎楽の用例は無いわけではない︒奈良の春日大社に

は︑室町時代の伎楽面が所蔵されており︑春日大社において伎楽が行われたことが確認できる︒当該歌の初句﹁池神﹂は︑

この大和の法貴寺の鎮守神である朝霧黄幡比売神社の祭神とその杜を示しており︑その神の舞う力士憐は︑寺院装飾の華

量に施された白鷺と玉の華撃に体現されていたのである︑としたい︒

M

詳細な研究は︑まだ可能であるが︑紙幅の都合上今回は以上を経過報告として論を結び︑華量説の可能性についての大

方の御教授を待ちたい︒

l本文は︑﹃高葉集﹄︵新編日本古典文学全集④一九九六年十月刊

(18)

長忌寸意吉麻巴については︑その詳しい系歴は明らかではない︒集中に十四首の短歌を載せているが︑この十四首の題調や左注から持統・文武の朝廷に仕え︑柿本人麻呂・高市黒人らと同時期に活躍した︒集中題詞に﹁応詔﹂の文字を使用された初めての歌人であり︑その才覚を示すものである︒また︑帰化系氏族の出であり︑山上憶良との親交があったようである︒詳細は︑﹁長忌3

﹃延喜式﹄巻九神名上城下郡十七座に池坐朝霧黄幡比責神社幹句相とある︒

真野首弟子は︑﹃新撰姓氏録﹄︵以下本文は︑佐伯有清﹃新撰姓氏録の研究﹄本文編一九六二年刊士口川弘文館による︶に︑﹁真

ある︒﹃日本古代人名辞典﹄︵一九五八年吉川弘文館︶には︑﹁百済の帰化人︒推古二十五年百済の帰化人味摩之から伎楽舞を伝

習し︑昨日首の祖となった︵書紀︶︒姓氏録︑大和諸蕃に︑僻回首は任那国主都奴加阿羅志等の後也とある︒﹂とある︒

o

本文は︑﹃日本思想大系﹄お﹁古代中世芸術論﹂︵一九七三年十月刊岩波書店︶による︒

﹃一切経音義﹄は︑﹁玄応音義﹄とも言い︑貞観︵六二七六四九︶の末年︑蔵経を拾ってその音義注穆を施したもので︑党音を

も参照して注解している︒わが国では︑天平年間の書写が認められる︵正倉院文書天平九年﹁高屋赤麻呂写経請本注文﹂︵﹃大使

O

O一年六月刊東京書籍︶による︒

1I﹄︵一九九五年七月刊毎日新聞社︶図版番号北倉却参照︒紅牙・紺牙滋鍍恭子は︑

増田美子﹁衡鳥文の系譜﹂︵﹁古代服飾の研究﹄一九九五年三月刊源流社︶に︑中国における玉の源が昆様山にあることを指摘

当該歌における考察のうち︑浅見徹﹁宴の席上霊長日の物名歌|﹂言葉

1

注 注

4 3 

注 注 j主 注 注

1 0 9 8 7 6  

注 注

1 2   1 1  

1 3  

1 4  

(19)

同一の宴席に於ける連続しての詠の歌群と見て︑配列の順は制作順とする︑としいる︒八首に現れる﹁物﹂が︑初子の宴に関わ

るものであると解かれているが︑今回︑力士憐を調べるにあたり多くの文献を調査したが︑正月初子の日に伎楽が催された形跡

参照

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する愛情である。父に対しても九首目の一首だけ思いのたけを(詠っているものの、母に対しては三十一首中十三首を占めるほ

 一六 三四〇 一九三 七五一九八一六九 六三

七圭四㍗四四七・犬 八・三 ︒        O        O        O 八〇七〇凸八四 九六︒︒﹇二六〇〇δ80叫〇六〇〇

規則は一見明確な「形」を持っているようにみえるが, 「形」を支える認識論的基盤は偶 然的である。なぜなら,ここで比較されている二つの規則, “add 2 throughout” ( 1000, 1002,

︵原著三三験︶ 第ニや一懸  第九號  三一六

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わかうど 若人は いと・美これたる絃を つな、星かげに繋塞こつつ、起ちあがり、また勇ましく、

2 学校法人は、前項の書類及び第三十七条第三項第三号の監査報告書(第六十六条第四号において「財