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「間」の出来事としての死 : 在宅ホスピスの現場 から学び、考えてきたこと

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「間」の出来事としての死 : 在宅ホスピスの現場 から学び、考えてきたこと

著者 竹之内 裕文

雑誌名 文化と哲学

24

ページ 79‑103

発行年 2007‑11‑01

出版者 静岡大学哲学会

URL http://doi.org/10.14945/00006817

(2)

ピ事

ち臨

ここ数年︑ささやかながら在宅ホスピスの現場と関わってきた︒そこでは﹁死﹂に直面した一人ひとりの﹁生﹂を

支えるべく︑多くの医療@福祉スタッフが手探りの夜間闘を続けていた︒これらスタッフの発する間いや苦悩を受けと

め︑またときに︑患者自らが語りだす言葉に耳を傾けながら︑私は百人間の死生をめぐる問題について考察してきた︒

こうした考究の方位は︑哲学を﹁現場﹂から構築していくという︑かねてからの願いに合致するものでもあった︒じ

っさい右の活動を通して︑人間の死生にかかわる私の理解は︑少なからぬ変化を被ることになった︒また︑患者各人

の生の閤有性にアプローチするなかで︑これら個別的な生のおかれた共通のコ

一アクストとして︑今日の日本社会の

一般動向を問題とせざるをえなくなった︒こうして私は︑﹁死﹂を﹁間﹂の

することになったのである︒小論ではこうした視座から︑私が在宅ホスピスの現場から学び︑考えてきたことを述べ

の節では︑まず﹁病院死﹂から﹁在宅死﹂へという道筋を描き出し︑﹁間﹂の問題圏に迫って して捉え痕すとい

ることにしたい︒

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(4)

する機器や設備を整備し Eこれを駆使する専門スタッフを各部局に配置する必要がある︒またそのためには︑資本お

よび施設規模の大型化が前提となる︒こういった事情から︑高度な医療技術を約束する大規模な病院が次々と開設さ

E

各種コメディカル@スタッフ(衛生検査技師︑臨床検査技師百理学療法士五作業療法士市診療放射線技師など)

の資格制度も整備されていった︒

こうして登場した自己完結型の大病院は︑その﹁多機能性﹂と分業に基づく﹁効率性﹂とを高らかに謡い︑﹁病院

信仰﹂を扶植していった︒これを後押ししたのが百六一年に実現した国民皆保険制度であった︒受診率の飛躍的

な上昇が示すように百この制度によってこれに対応すべ病院側も供給病床数を増やしていっ

た︒さらにともなう社会的な変動が百このかけた︒すなわち百

よる

して九各家庭の介護力が低下して

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る︒こに医師の

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なっていったので

︒かくして病院は九

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(6)

にして患者は︑

いわば無力なゲストとして五病棟の看護@介護スタッフから与えられるケアをひたすら享受する立場

に追いやられていく︒

それと対照的に︑自宅という日常的な﹁居住空間﹂に身をおく場合︑病者は︑それ以前の﹁生﹂との連続性を保ち ながら百聞有な背景と履一肢を備えた現在のを生さることができる︒したがってそこでは︑病者の抱える疾患が

当人の﹁生﹂から分離されるどころか︑むしろ逆に九﹁生﹂を営むうえでの問題群の一部が﹁疾患島湾問的伶﹂と名指

される︒さらに E病の進行によって一の変化を被るにしても九それ以前の生活のなかで培われてきた家族関の相互

的なケア関係が基本的に保たれるから百病者は九一方的に受身的@他力的な立場に立たされることがない︒

たとえば家族の側は︑

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こらしつつ百病者を世話︑介

助することができ きる︒在宅生活では百病院生活に比して九日常的な人間関係に特徴的な

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でも古家族の日常生活にけ百遺される者たちの将来を気遣うことがで

ア(関心丸心遣い百世話完介助)の相互性

が保たれのである︒こ

ケアでは Eートとい

その

の相互的なケア関係を仲立ちすることに力点がおかれる︒

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の拠点であり︑それ以前の

の痕跡をとど︒したがっの﹁生﹂の多様な側面

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こからある全体像を

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(8)

﹁看取りの文化﹂が途絶してしまったのであり︑それとともに私たちの社会は百﹁死﹂と﹁看取り﹂に関する基本的な

共通理解を失ってしまったのである︒とはいえ今日の私たちは︑もはや既存の﹁看取りの文化﹂をそのままのかたち

で踏襲することはできない︒高度経済成長に伴う生活様式の変化は百﹁死﹂に関わる基本理解にも深い影を落として

いると考えられるからである︒既存の﹁看取りの文化﹂を参照しつつ︑現今の社会的動向に応じた基本的理解を改め

て手に入れる︑私たちはここから始めるほかない︒

さて九死@葬@墓をめぐる今日的な動向としては九民俗学の立場から﹁死の私事化﹂と死の断絶化﹂という論

点が提起されている︒まず﹁死の私事化﹂とは九﹁忌みと服喪の観念の希薄化﹂とともに︑死という﹁すぐれて社会

的な現象﹂が﹁極端にプライベート化﹂された事態を指す︒死はかつて百家族や地域共同体の出来事として生起して

れがあくまで私的な事柄と見なされ五﹁私﹂のうちに回収されるようになったのである︒次に

が九これは他界観念の希薄化とい

︑ 令 官 目

しみム死の断絶

に集約され︒かつて

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していた︒しかし︑伝統的な祭紀 いう断絶をこえ

て新た

つけ︑同時に死者を別の世界に送り出す﹂

退

の地位低下などに呼応するかたちで百﹁死とは他界への

の山場所を奪われ五いわば﹁抹殺﹂され

@地縁的な鮮の切断︑生と死の分断︑

である﹂という前提そ

ことになったのである︒

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可能性を秘め

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(10)

出来事場と結び合わせ︑物語っている︒あるいは百先の戦争体験に眼差しを注ぎつつ︑これをいわば参照項とする仕方

で︑彼は自らの死生の﹁意味﹂を突きとめようとしている︑といってもよい︒

死生の﹁意味

Hつまり︑そこへの眼差しのもとに各人が自らの死生を受け止めるところは︑各人が

身をおく状況に応じて九可変的である︒たとえば九こうして床が敷かれ︑病室となっている空間は︑かつてAさんが

仲間たちと酒を酌み交わしたしたものかもしれない︒その場合︑病床から畳の染みを眺めるたびに︑

Aさんは E酒席でのの粗相を思い起こすはずである︒そしてそのとき九かけがえのない友情が百さんの生に

して立ち現れるはずである︒あるいは九病床に顔を覗かせる百庭のあの樹木は︑今やすっかり成

さんが植樹したものかもしれない︒その数本の樹木に見入るとき百B

さん を渡すことができたという感懐に包まれ︑そこに自分の生の意味 長した子どもの誕生を記念して九かって

は丸子どもを立派に育てあげ︑次世代に無事パト

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ことによって初めて︑

の物語が再構成

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知らずの人たちの許報に接して︑多少は心を痛めるものの E私たちは基本的に百﹁人は皆死ぬ百Xは人である︑ょっ

は死ぬ﹂という三段論法を援用して百これを︿処理﹀しているはずだからである︒それに反して九

が切迫するとき Eはたして私たちは︑この三段論法の小前提に﹁私﹂を代入し︑そこから﹁私は死ぬ﹂という帰結を

導き出すだろうか︒それによって﹁私の死﹂を得心することができようか︒むしろこうした演鐸に対しては︑多くの

終末期患者とともに九﹁なぜこの私が﹂という根本的な疑問を発さずにいられないだろう︒そもそもこの三段論法の

大前提は︑いかにして根拠づけられるというのか︒

同様に百親であれ Eであれ Eあるいは友であれ︑かけがえのない人に死の影が迫る場合︑私たちは︑﹁なぜこの

の叫びを発し百﹁人は皆死ぬ﹂という大前提を疑問視するであろう︒れにもかかわらず死がその

めざるをえない︒

のときに初めて私たちは百﹁確実に現実化する可能性﹂として﹁死﹂

ちは百失わ

い百かけがえのない人を失ったとき百

た存在の隔絶性を思い知る︒そしての絶対的な他性は九ただちの存在

せよ百﹁かけがえのない

は九﹁死﹂の確実性を学び知る

に﹁かけがえのない

は百﹁私﹂からすべて

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の可能性の連鎖が断ち切ら

でに確認したように︑私たち

の﹁間﹂が瓦解したとき百

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という現象でさえ百最終的には九しかし︑そのの可能性/不可能性という観点から︑つまり﹁死﹂とい して確認されるほかないのではないか︒かりに遠方からの許報に接した場合︑﹁これでもう二度と会えな

なる軽信である︒﹁なぜこの人が﹂という先の潤いに駆り立てられるならば︑まずそ い﹂と決めてかかるのは百た

つでかかり︑最終的には︿遺体﹀との面会を求めるはずである︒そしていくら揺すって

いくら声をかけても応答がないとき︑私たちは初めて百﹁もう会話ができない﹂︑﹁あの笑顔が見られない﹂

とい

一切の可能性の剥奪といって知るのではないか︒

このように﹁人間﹂

しての﹁死﹂は九の可能性/不可能性への

によって百﹁死亡﹂から区

別さ

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一年半ほど前︑ある遺族の方から直接話を伺う機会に恵まれた︒彼女は九およそ二一年前に骨肉腫で先立った大学生

の娘さんのことを語ってくれた︒話題は︑娘さんの闘病生活百権患前後での生活の変化︑娘さんに先立たれてから今

日までの暮らしなど多岐にわたったが九これらのことを語るあいだ︑彼女の頬をとめどなく涙が伝っていた︒娘さん

にふれ E遺された日記や愛読書に日を通すたび︑彼女は今でも︑涙をこらえることができないという︒もはや

長くは生きられないだろうから九同じような境遇にあった人の手記などを読み九追りくる死を受け入れる準備をした

い百それによって少しでも家族の心痛を和らげたい︑そのような想いから娘さんは百病床でも本を読んでいたという︒

百かつての

における可能性と不可分に結びついてこの過去の可能性から九

らし出される︒このようにして娘の

が立ち現れ彼女は現在も涙をおさえことができ

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の意思を超えたとこで百激しい

日記を読み返すたびに︑﹁死﹂は百その都度九

は百折あるごとに王新

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なふ︒﹁世代間﹂の出来事としての﹁死﹂においては百このようにして生の可能性/不可能性の﹁継承﹂と﹁生成﹂

が生じるのである︒今日の社会においても︑たとえば特定の人たちにむけて遺書が書かれるとき九あるいは不特定多

数を対象に Eインターネット上で間病記が配倍されるとき︑そこには潜在的にではあれ︑この継承と生成に対する願

いが込められていると考えられる︒

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事物と空間の一つひとつが︑文字通り︑かけがえのないものとなる︒日常生活において当たり前のように接している

事物︑私たちがそのうちに住まう空間百それら一つひとつが代替不可能なのである︒私たちが住まう﹁空間﹂として九

とりわけ﹁郷土の自然﹂と呼ぶべき身近な自然を保全することの意義も︑ここか

の可能性/不可能性を継承し百それを にかぎらず︑死者の﹁履歴﹂を伝える

自宅はもとより有地域

ら明らかになろう︒この空間に

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の﹁継承﹂と﹁生成﹂を次世代通し

における可能性/不可能性を生成させようと

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かりに時が過去から未来へと直線的に流れるとしよう︒その場合︑この流れの︿後方﹀に位置する者百すでに過ぎ

ちと出会うためには九その痕跡としての記憶を頼りに九時間の流れをいわば︿後ろ向き﹀に辿り直すほか

よる記憶の保持@回収という︿後方﹀

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への遡行運動によっではなく Eむしろ

の可能性/不可能性への

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に九その新たに出会われる︒そもそも

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の可能性/不可能性を焦点として︑他者と

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という現象から峻別されていた︒そのかぎりで︑の可能性/不可能性と

けること百それはを﹁死亡﹂と

きられない﹂という将来的な可能性/不可能性への

ことによって九

の枠組み

る時間論的機制百終末

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である︒とはいえ百終末期の生を支える百多様な人古物古事とのに照らせば百小論では百そのごく

投げかけられたにすぎない︒

E自然における

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