長崎大学教養部紀要(人文科学篇) 第35巻 第1号 79‑90 (1994年7月)
感傷家 Gatsby とロマンチスト Gatsby 中村嘉男
Sentimental Gatsby and Romantic Gatsby
by Yoshio NAKAMURA
I
F.S.Fitzgeraldの代表作The Great Gatsbyについては様々な角度から数多くの論 考が重ねられてきたが、その作品の主人公Gatsbyについては、考察されるべき重 要な問題がまだ残されているように思われる。その問題とは、 Gatsbyが自ずと生 まれる夢にただ従って生きたのか、それともその夢を意識してさらに飾り立て創造 的に生きたのか、というものである。前者であれば、彼の夢は昔の恋人Daisyへの 断ち切れない恋慕という自然的なものから生まれ、彼はそのとりこになって動かさ れたということになる。後者であれば、彼は自分が断ち切れない恋心に支配されて
いることを自覚し、その自覚に基づいて深い思いをさらに生かせるように自分の生 を積極的に構築したことになる。前者と後者は、 Fitzgeraldが最初の小説This Side of Paradiseで類別していた感傷家とロマンチストにそれぞれ似ていると言え るかも知れない。その小説でAmoryBlaineは、 ̀̀I am aromantic ‑ a sentimental
person thinks things will last ‑ a romantic person hopes against hope that they
won't"1)と言っていた。この定義によれば、感傷家とは事態が自然に継続すると 思う楽天家ということになるが、もしGatsbyをこの種の感傷家と見るなら、彼が 継続すると思ったものは、自分とDaisyの愛ということになるだろう。逆に彼を上 に述べた意味でロマンチストと見るなら、彼がその継続を断ちたいと絶望的に願っ たものは、Daisyが人妻になって生きていた日常性ということになるかもしれない。
絶望的であることを自覚しながらGatsbyは、昔の関係の復活をめざしてDaisyの 日常性の持続を断とうとしたのかもしれない。
Gatsbyが無邪気に夢見る楽天的感傷家なのか、それとも絶望の果てに夢を構築
するロマンチストなのかは、にわかには断定できない。私たちは彼を語り手Nick
Carrawayの目を通して理解するしかないうえ、 Nickは即断をさし控える慎重な語
りをしているからだ。彼の語りは、自分やGatsbyをとりまく様々な人やものや事 件について、断定の困難さを繰り返し伝えている。二つの、ときに対照的なものの 類似性、また同一物の異なった様態などが何度も灰めかされ、それが彼の語りの一 大特徴となっているのだ。当然、彼の語りの中心をなすGatsby自身の人柄や行動、
夢などについて一面的な理解をすることは適当ではない。
にもかかわらずGatsbyは、数多くの研究者から単なる感傷家と見なされてきた。
例えばRobert Emmet Longは彼を、自己栄光化の夢の典型的な犠牲者になった LordJimのJimと同質であると考え、二人の同質性がConradのFitzgeraldに対す る影響を物語ると主張した2).だが、その影響関係について言うなら、逆の理由づ けも可能ではあるまいか。つまり、暗い闇をひきずった光り輝く夢の犠牲者Jim とGatsbyが同質だとは単純に言えなくなっているところに、 FitzgeraldがConrad から受けた影響のあとが認められるとも言えないだろうか。確かにGatsbyは、恋 心のとりこになって突き動かされているという点で、 Jimと同じように自然的なも
の3)の奴隷である。だがGatsbyには、自分の気持ちを逆に利用して意識的に夢を 飾り立て人生を積極的に構築しているふしもみられる。感傷的に夢を追い求めてい
るとしか思えないときでも、本当は絶望したロマンチストなのかもしれないという 疑念が、彼の言動にはいつも残るのだ。
換言すれば、 Gatsbyの多面性について考えることは、私たち読者にとっていつ も可能であると思われる。彼の魅力をもっとよく理解し、作品の複雑さと豊かさを さらに味わうために、今述べたことを検証していきたい。
Ⅱ
Gatsbyはその一生を通して夢を生きたと言える。しかし、少年時代から Daisyとの別離にいたるまでの彼とそれ以後の彼とでは、夢に対する態度に変化 は見られないのだろうか。別離前の彼は、言わば既製品的なAmericandreamに吸 いこまれるように、何の疑念も抱かずに生きればよかったかもしれない。が、別離 後の彼は、夢の対象の欠点を思い知らされ、今度は自らの手で夢を華やかに構築し ていく必要を感じたかもしれない。ただ、夢を虚構と捉え、それとの間に距離を置 いても、それが夢の実現化への熱意を弱めるどころか逆に強めることもあるので、
夢に対する感傷的な態度とロマンチックなそれを外側から見分けることは困難な場 合が多い。
この困難さは、 GatsbyがNickの目を通して私たちに初めて紹介されたときすで
に顕著であるGatsbyはこのとき豪華な自分の屋敷の庭から対岸に見えるDaisy
感傷家GatsbyとロマンチストGatsby
81の家のドックの灯に向かって双手を差しのべていた。それは、昔の恋人との関係に 断絶などなかったかのように、彼女への変わらない恋心を燃やす男の姿である。確 かにそれは、恋心という自然的なものに支配されている姿だが、それでもその気持 は今のところ̀̀a single green lightM)に向けられている。その緑色の人工の光の 頼りなさは、物語の最後で、その地を昔おおっていた森林の圧倒するような緑色の 存在感に対置されていた。みずみずしい緑なす島を前にして初めてやって来たオラ ンダの水夫たちはその美しさに息をのみ、 ̀̀the last and greatest of all human dreams (182)を夢みただろうとNickは思う。その水夫たちはどっしりした自然 に抱かれるように夢見ればよかったであろう。がGatsbyの場合、 Daisyへの夢は いつ消えるかもしれない頼りない人工の灯によって見られている。これはその夢の 特徴を暗示しているようにみえるが、問題は、その頼りなさにGatsbyがどれほど 意識的であったかということだ。夢が人妻になった女性の愛をとり戻すことなの で、最初からその無謀さは明らかだが、そのことを理解した上で夢を構築したのか、
それともそのことが暖味になるほど夢が自然に華麗に成長したのか。
前にも述べたように後者の見方が今まで支配的であり、実際彼は感傷家とみられ
ても仕方のない描かれ方を随所にされている。例えば彼は、 Nickに仲介の労をと
ってもらってDaisyとの再会が実現したときすっかりうろたえ、 Nickに再開は"a
terrible mistake'(88)だったとこっそり弱音を吐く。このときに備え、 5年近く
黙々と耐えた力はどこへ行ったのかと思われるほど弱気になるのだ。そこには絶望
の果てに人生を構築するロマンチストの覚悟は、あったとすれば、完全に消え失せ
ている。また、自分の豪華な邸宅でイギリスから取り寄せた美しいシャツを次々に
取り出してDaisyに見せたときも、彼は自分の思いを伝えるのにシャツの美しさと
豪華さに無意識に頼ったようにみえるDaisyはその思いを察し、シャツが美しす
ぎると言って泣くが、それは再会してやっと彼女の気持ちが彼の思いの深さにとど
いたようにみえる瞬間である。だがMarius Bewleyによれば、この場面は̀̀a
failure of Gatsby's and so of Fitzgerald's critical control of value 5}を示すと考え
られてきたということだBewleyはこの通説に反対して、シャツが「聖さんのパ
ン」の役割を果たしていて、 「Gatsbyが意識的に把握出来ないが知っている唯一の
方法で必死に掴もうとした」 "some inner visionを表していると見る。はかの論
者に比べてBewleyは、内面的な価値の表現化の困難さをよく理解しているが、そ
れでも、 Gatsbyによるその表現化の試みをやはり無意識的で幾分幼稚と考えてい
る。つまりそれが感傷性を免かれていないと見ている。この見方、つまりGatsby
が子供のように無邪気に自意識を持たないで美しいシャツを見せたという見方は私
たちを甘い感傷に浸らせてくれる。
だが、この感傷的なGatsby像に対して、最初に述べた意味でロマンチックな Gatsby像をここで考えることは、決して不可能でも無意味でもないGatsbyがロ マンチストなら、豪華な屋敷と何枚もの美しいシャツを見せることによって彼は、
Daisyとの昔の関係の継続を無意識のうちに確かめようとしたのではなく、逆にそ の関係の断絶を承知した上で、新たな関係創造を意識的にめざしたのだ。その意図 の明確さによって彼の積極的な生を構築しようとする姿勢が強められることは言う までもない。と同時に、彼の哀れを誘うイメージは弱まってしまうかというと、必 ずしもそうはならないように思われる。というのも、恋心の強さという点で、ロマ ンチストが感傷家より劣ることはないからである。
しかし、 Daisyとの再会を果たしたばかりのGatsbyに、ロマンチストとして側 面が顕著に認められるわけではないGatsbyがDaisyと親しく話し姶めたのを見 とどけて彼らのもとを立ち去るまえ、 NickはGatsbyと彼の夢について次のような 思いを抱く。
There must have been moments even that afternoon when Daisy tumbled short of his dream ‑ not through her own fault, but because of the colossal vitality of his illusion. It had gone beyond her, beyond everything. He had thrown himself into it with a creative passion, adding to it all the time, decking it out with every bright feather that drifted his way. (97)
Gatsbyの夢の並はずれた"vitality 、その「創造的情熱」は、彼の思いの深さ という自然的なものから生まれただけなのか、それともその自然的なものを生かし て新たに生を創造しようという意識から生まれたのか、ここだけでは判然としない。
夢の対象のものたりなさをものともしないほど夢が自ずと華麗に成長していったの か、それとも夢の対象の不十分さを認識した上で夢が意識的に華麗に創造されたの かは、いまだ判然としていないのだ。この暖昧さのうちに、自然発生的な夢の魅力
と意識的に構築される夢の魅力が共に保持されていると言えよう。
それでも、物語も大詰めに近づくと、 Daisyの不十分さについてGatsbyはかな
りはっきり認識していたのではないかと思われるときがくる。それは、大金持ちの
夫Tomのたび重なる不実にもかかわらず彼から離れられないDaisyの弱さへの失
望を、 ̀̀Hervoiceisfullofmoney"(120)という言葉でGatsbyが表現したときであ
るDaisyの声にはNickは以前から強く魅了されていて、彼女のかすれた歌声に
聞き惚れながら̀̀a meaning in each word that it had never had before and would
neverhave again (109)を感じることもあったNickはこのとき、彼女の声の‑
感傷家GatsbyとロマンチストGatsby
83音一昔が永遠につながる忘我的な世界へ身をゆだねていたわけである。 Daisyとは 遠い親戚にあたり、彼女に恋しているわけではないNickがこれほど魅惑されるの だから、彼女の声にGatsbyが感じた魅力はいかに大きかったことか。それでも彼 女の声にお金の響きがあると鋭い洞察をみせたのは、彼が単なる自然的なものの奴 隷ではないことを示していると言えないだろうか。
ここで注意すべきは、富に対するFitzgeraldの見方をHemingwayのような単純 なものと考えないことである。周知のように、 "The Snows of Kilimanjaroにお いて、金持を畏敬するFitzgeraldとおぼしき友人に対しHemingwayの考えを代 弁する主人公は、金持は"dull"で̀̀repetitiousだと突き放した見方をしてい
た6)oここで富の魔力に支配されやすいFitzgeraldという見方が定着された感があ るが、実は富に対して素朴すぎるのはHemingwayの方ではないかという見方もで きるHemingwayの批判は、例えばDaisyとかTomのような金持にはあてはま る。だがFitzgeraldは、 Hemingway的な批判を承知の上で、あるいはDaisyや Tomのような金持の富の享受方法を否定した上で、それでも富が私たちに抱かせ る夢について語ったのではあるまいか。つまり、富から一歩距離を置いたHem‑
mgwayよりさらに一歩距離を置いたところにFitzgeraldがいるのではあるまいか。
従って、 Fitzgeraldの、またGatsbyのDaisy批判は決して単純ではないと考え られる。彼女は確かに、物質的な豊かさを保証してくれる富に執着して生きがいを 見失った怠惰な女として描かれている。が、初めから彼女をGatsbyの夢にそぐわ ないつまらない女として見たのでは、彼の夢を最初から実現不可能と考えるのと同 じことになり、作品の魅力を半減させてしまうだろう。 RobertIanScottはGatsby の夢を過去を繰り返す試みと捉えるだけでなく、 「燃やした木を元の木に戻すこ
と」7)にたとえ、その夢の実現の可能性を零にして私たちの読書欲をそいでしまう。
同様にMariusBewleyは、 Daisyが全く空ろな女で、物語の展開につれてその空ろ さが"the viciousness of a monstrous moral indifferenceに凝固すると捉えるし、
Harold Bloomは初めからDaisyを̀̀absurdlyvacuous Daisy 9>と見なしたりして、
Gatsbyの夢の結末をあらかじめ予想させ、作品の魅力を損なってしまっているの である。
しかし、 Daisyが実際に精神的に脆い女性でも、 Gatsbyや話者のNickによる彼
女の受けとめ方は、上に掲げた論者たちのそれとは根本的に異なっていたと思われ
る。すなわち彼女は初めから否定されているのではなく、その富への執着と日常性
への埋没からの脱却が、ロマンチックな希望をもち続けるGatsbyと暖味な語りを
するNickの両方から辛抱強く待たれていたと考えられるのである。この問題につ
いてさらに考えてみよう。
Ⅲ
Nickの語りの特徴は、最初にも述べたように、即断を避けて辛抱強く判断をひ きのばすところに見られる。この判断留保の力は、 Fitzgeraldが愛読したKeatsが Shakespeareの特徴としてあげた"negative capabilityという能力、すなわち不
確実なことに苛立ったりせずに耐えられる力に似ている。この忍耐力によって Nickにまず見えてきたことは、 Daisyに対するGatsbyの思いの深さという自然的 なものの強さだけではない。その自然的なものに支えられながら、それをさらに大 きく生かそうとする彼の大胆さも明らかになる。その大胆さは、無意識的なものか 意識的なものか判然としないが、密造酒販売により蓄財し、開放的な大パーティを 週末ごとに開いて散財するという大掛かりなものから、自分の生いたちを話すとき、
すました顔で出身地を中西部の"San Francisco"(65)と言ったりする罪のない嘘 まで様々である。このGatsbyの虚構癖の一端に触れ、 Nick自身その大きな可能性 を予感し始めたのか、 Gatsbyに誘われてNew Yorkへ行く途中Queensboro橋を 渡るとき、不思議な意識の高揚を彼は感じる。その橋から見た町の美しさに、昔こ の地に初めて来たオランダの水夫のように彼は感動し、その町が"all the mystery and the beauty in the world (69)を約束しているように思うのだ。また、霊枢車
とすれ違ったあとBlackswell Islandを通るとき、ハイカラな身なりの黒人が三人 乗って白人が運転するリムジンともすれ違う。これらの奇妙な出会いにNickはさ
らに気持ちを高ぶらせ、 "Anything could happen now that we've slid over the bridge'と考え、 "Even Gatsby could happen, without any particular wonderと 付け加える。この場面のはかにも幾つか引用してArnold Weinsteinは作品に顕著 に見られる虚構性に注目し、 Gatsbyのすぐれた特質を̀̀fiction as greatness'10)に あると見ている。興味深い見方だが、問題は虚構がGatsbyの努力の結果である場 合、無意識的にDaisyとの愛の継続を信じて形成されているか、それとも継続への 絶望の果てに構築されているかである。 "Gatsby could happenという表現から推 察するとNickはこの時点では彼の言動を自然発生的と見ているのかもしれない。
だがGatsbyの内心は依然見通すことができない。
しかし物語も終盤になると、再会後ほとんど進展のなかったDaisyとの関係が動 き始め、 Gatsbyのロマンチスト的な側面が強まるように思われる。関係を動かす のは、 Daisyの軽率な一連の行動である。まず彼女は夫の愛人から電話がかかって きたと思いこんで不機嫌になり、 Gatsbyが好きだと公言して夫を挑発する。この 挑発にのってTomは皆でNewYorkまで遊びに出たあとGatsbyに因縁をつけ、
彼の経歴と経済的基盤のいかがわしさを暴露し、彼と妻の関係を単なる遊びに定め
感傷家GatsbyとロマンチストGatsby
*‑て、彼との対決に勝利する。 Daisyは夫の勝利を黙認する形でGatsbyと一緒に皆 より先に幸で帰らされるが、彼女の不注意な運転が一因で、その事にTomが乗っ ていると思いこんで飛び出した彼の愛人Myrtleをひき殺してしまう。最後に Daisyは、この大事故の責任が自分にあることを夫にさえ隠し通し、その結果、
Gatsbyの死を招いてしまうのである。
これらの一連の軽薄で卑劣なDaisyのとった行動に対して、 Gatsbyのとった行 動はあくまで潔く情熱的である。まず彼はTomの個人攻撃に対して、 Daisyに本 当の気持ちを、つまり夫を愛していないことを正直に言えと言う。そして彼女の本 当の気持ちが夫の財力によって歪められていることが分かったあとでも、彼女にあ
くまでやさしく振舞うのだ。つまり彼は、大事故を起こして気の動転した彼女を家 に送りとどけたあと、愛人を殺されたTomの暴力を心配して彼らの家の外で見張 りを続けるのである。ところがDaisyはこのとき、自分がひき逃げしたことを夫に 隠したまま、夫と和解していた。それは、夫が利己的で不実な男でも、裕福な彼と の夫婦関係を壊したくないという彼女の情けない自衛心のあらわれと思われる。
Deisyがこのような気持になっているとも知らず、家の外で彼女の身を案じる Gatsbyは、いかにも哀れなお人好しである。もし彼がDaisyとの愛の継続を無邪 気に信じている感傷家なら、その姿の哀れさはいやが上にも増してくるだろう。し かし彼がここで最初に述べた意味でロマンチストになっているなら、彼がDaisyの 家の外で彼女の身を案じつづけたばかりか、彼女の起こした事故の責任を負うこと も嫌わなかったのは、彼が彼女の愛の持続を信じたからではなく、それが断絶した あと彼女の自らの力による新たな関係の創造を待ち望んだからであろう。トというの も、ひき逃げ事故のあと、 DaisyがGatsbyを選ぶ可能性は、さらに低くなったと も見ることができるが、少しは高まったとも考えられるからだ。
低くなったと思われるのは、実際にそうなってしまったのだが、彼女の心に Gytsbyの好意に甘え、事件の責任をとらないままTomとの生活を続けようとす る気持があったからである。逆に高まったと思えるのは、そこまでして保身を計ろ うとする自分に、普通なら嫌気がさしてもいいからだ。家の外で寝ずの番をしなが らGatsbyは、 Daisyが自分の生き方に嫌気を感じ、 Tomと別れる決心をしてくれ ることを期待していたかもしれない。しかし、結局Daisyはごまかし通して Gatsbyの身について一切配慮しなかったため、彼はMyrtleの夫Wilsonにひき逃 げ犯と誤解され、射殺されてしまう。
このとき初めて、 Daisyの一生はその不毛性を定められたと言えよう。彼女は
Gatsbyが殺されるかもしれないということを知りながら、またTomがWilsonに
Gatsbyの住所を教えたあとでもWilsonより先に車でGatsbyの家まで行き彼を逃
がすことができたのに、何もしなかったのだ。彼と一緒になるかどうかは別にして、
彼女は人間として最低それだけはするべきだった。多くの論者が彼女を悪しざまに 言うのも、この時点では当然であろう。
しかし、ここに至る直前まで、彼女は自分自身の大変身の可能性を否定されては いなかった。彼女は最後まで、 Gatsbyだけでなく自らも救う機会を与えられてい たのだ。その機会の辛抱強い提供者はもちろんGatsbyである。彼の忍耐力は、彼 がもっているとNickが言った"some heightened sentivityto the promises of life あるいは"anextraordinarygiftforhope(2)に支えられていたと思われる。これ によってDaisyはGatsbyが死ぬ直前まで変身の機会を与えられ、同時にGatsby も最後まで希望を持つことができたのだ。
この最後まで信じる力によってGatsbyは、 Daisyのため家の外で寝ずの番をし たあと自分の家でNickと話しているとき、 "Idon'tthinksheevenlovedhimと 強気の発言をし、さらに"Of course she might have loved him, just for a minute,
when they were first married ‑ and loved me more even then, do you see?〟 (152)
と、彼女と自分が特別な杵で結ばれていることを主張したのであろうDaisy自身 も、 Gatsbyと二人だけのときにはこれぐらいのことはしゃべったかもしれない。
しかし、続けてGatsbyぱ̀In any case.‖it was just personal'と奇妙なことを言う。
これは一体何を意味しているのだろうか。実はこの言葉こそ、 Daisyとの愛の継続 を信じる感傷家のような言動を繰り返していたGatsbyが実際は自分と彼女の関係 を冷静に客観的に捉えていることを表している言葉だと考えられるので、ここで詳 しく見てみたい。
まず̀̀it"が指すものは当然前の文の内容、つまりDaisyがTomを一時的にせ よ愛したかもしれないこと、そしてそれがGatsbyへの愛をさらに深めたというこ とであろう。つまり̀̀it"の指すものは、 Tomへの愛とGatsbyへの愛に大きく分 かれている。大きく分かれた二つの愛をまとめてGatsbyは"personalであるに すぎないと言っているように見える。では"personalとはどういうことであろう か。それは、 DaisyのGatsbyやTomに対する愛の形が、個人の生活の中で生じて は消えていく様々な生活感情と同種だということではあるまいか。生活感情の中で は重い愛も、個から生まれ個にまとわりつく"personalなものであり、一般にそ の対象がいなくなれば徐々に消えていき、ときにその愛の追憶が永遠を見せても、
すぐにまた日常の波に飲み込まれるのが自然である。逆にのみこまれてもまた挺る といっても結果は同じことになろう。このような愛の形をGatsbyは、それ以上も のとの比較から、たいしたものではないと言っているように思われる0
では̀̀personalな感情を超えるものとは一体何であろうか。恐らくそれは、個
感傷家GatsbyとロマンチストGatsby
87人的な感情という自然が日常の中で消えていくことを認識した上で、それが学む永 遠性を繰り返せるように創造する力ではあるまいか。この力はGatsbyがDaisyの 結婚を知ったあと急速に成長したように思われる。が、それと共に彼の感傷性も肥 大していったかもしれない。 「人生が約束するもの」を敏感に感受し、 「希望を抱く 並はずれた能力」をもつGatsbyにとっていかにDaisyが軽薄でも、彼女の言動の 端々から夢を紡いでいくことはいとも容易に行われたであろう。それはDaisyへの 恋慕から自然にできた感傷的行為である場合もあろう。が、その自然で̀̀personal' な特質の限界を認識し、それを越えようとして意識的に創りあげた行為と見なせる 場合もあるのではなかろうか。
自然で"personalなものの限界は、 TomのDaisyに対するその場かぎりの態 度によくあらわれているTomはDaisyを求めてGatsbyと対決したとき、彼女に 自分たちが過した密月のことを思い出させ、それがGatsbyとの恋愛にも負けない ぐらい充実していたに違いないと主張したことがあったDaisyはそれに同意せざ るをえなかったが、にもかかわらずTomは、愛人を作るだけでなく、泊ったホテ ルのメイドにも手を出すような男なのだ。結局彼は自然に生まれる感情に身を任せ るだけで、 Gatsby同様にDaisyを愛したことがあっても、その気拝を日常生活の 中で見失い、新たな刺激を求めて女性を次々に求めるという不毛性に陥ってしまう のだろう。愛の体験を現在に生かし未来に向けて生きていくには、その自然的な部 分をさらに大きく生かそうとする創造の精神が必要なのである。
TomだけでなくDaisyも自然的なものに振り回されるだけだが、このような行 き方をする彼らにとって現在は思い起こされる価値のない過去へつねに送りこまれ て消えていくはかないものにならざるをえない。この自然的なものが挙む問題につ いて最後に、それを大きく生かそうとしたと思われるGatsbyとそのような考えを もたなかったTom夫妻を比べて論じてみたい。そして、彼らの対照性を、作品中 におびただしく見られる対照的なものの類似性、または同一のものの異なった特徴
と並べて考察してみたい。
Ⅳ
自然的なものに支配されて生きるだけでは動物の生き方に似てきて過去を創造的 に生かせないため、現在に生を燃焼させても現在はつねに過去に送りこまれるため 空しさがつきまとうTomもそのような空しさにとらわれ、自分の生き方に不安 を抱き、その気拝を当時盛んに言われていた白人文明の危機と重ねて、 ̀̀Civiliza‑
tion s going to pieces… I ve gotten to be a terrible pessimist about things. Have you
read ̀The Rise of the colored Empires'by this man Goddard? '(13)とNickに尋ね たことがあった。 "The Rise of the Colored Empires'という表題は1920年に Lothrop Stoddardが出したTheRising Tide ofColorのそれを模したということだ が11)もちろんこれらの表題は1918年に第一巻が出版されたOswald Spenglerの Der Undergang das Abendlandes (英訳名The Decline of the West)を逆表現したも
のになっている。後者は出版されるやたちまち一般の人たちに好評を博し、特に白 人中心主義者に大きな不安を与えたと言われているTomも、その利己主義が単 純に白人中心主義に結びついた平凡な男なので、自分の生の空白感を白人文明の危 機と言われているものに安易に重ねたのであろう。
Tomのように女性を愛した過去をもっていても、それを未来に向けて現在に生 かせなければ、過去は死に、つねに過去に送りこまれる現在も死にのみこまれてし まう。この空しく消える過去へ現在がどんどん送りこまれる生き方は、周知のよう に、現代人の生の特徴としてT.S.EliotのThe WasteLandのような作品に見事に 描かれている。 "waste landのイメージはThe Great Gatsbyでは"a valley of ashes"(23)として捉えられているが、その谷の住人のような生き方が続くだけの 人生なら、白人文明の没落は確かに切迫していると感じられるだろう。だが、 「灰 の谷」の住人とは異なりGatsbyは過去を現在によみがえらせ未来に生きる力にし ていると思われる。過去のよみがえり方には、行事として繰り返されるものとか、
右翼的な勢力による民族主義的な形もあろうが、 Gatsbyのものはそれらとは対照 的に異なり、あくまでも純粋に個人的であり、かけがえがなく、それゆえに彼が真 に生きていく力になるのだ。個人的な過去は、現在に生かされるとき、その凝縮さ れたエセンスが現在に生起し、現在を活気づけると言える。それが意識的に繰り返
されて創造に向けられるなら、より豊かな生が展開していくはずであるGatsby の過去もこのような形で現在に生起しながら、未来に向けて創造的に生かされよう
としたのではあるまいか。
こうして、 「灰の谷」の住人に等しいTomやDaisyに対して、 Gatsbyはあくま
で対照的に異なっていると考えられる。だが、前に述べたように、異なったものの
同一性または同一のものの異なった特性が物語のいたるところにほのめかされてい
て、その事実は、同一化とか異質化といった大きな変化が意外に簡単に起こりうる
ことを暗示しているようである。例えば、しばしば言及される「東」と「西」につ
いて見てみよう。まず、 GatsbyやNickが住んでいたLongIslandのWestEggに
対し、 TomとDaisyが居を構えたのはそれと小さな湾をはさんで対噂するEast
Eggであったが、二つの地形はいずれも下方がつぶれた卵形をしていて実によく
似ており、空を飛ぶカモメにとって"a source of perpetual confusion'(5)となる
感傷家GatsbyとロマンチストGatsby
89に違いないとNickは言う。また、アメリカの東部と西部は昔のように区別できる わけではなく、 RobertOrsteinが指摘したように、西部のフロンティアはすでにな くなり、辺境開拓に似た行為は一旗揚げるために中西部などから出て来たNickの ような若者が東部で行おうとしているのだ12)さらに、物語の最後あたりでNick は、これまでの自分の語りを総括して、それを"astoryoftheWest (177)だと言 ったが、物語の舞台は東部であり、ただ主要人物がいわゆる西部人であった。
Nickによれば、西部人と東部人を区別するのは出身地だけでなく、前者には
"some deficiency"が共通してみられるということだが、 ̀̀some deficiencyなる ものは東部人ももっているので、これは両方を区別するどころか、逆に結びつけて いる。
こうしてTomもDaisyもGatsbyと同じ範噂に入れられる。それは、西部と東 部の違いもあいまいなままの西部人として、またすべての人に共通するであろう
"somedeficiency'の持主として同一の範噂に入れられたのである.それはほとん ど無意味な同一化ではないかと思う人もいるかもしれない。だが、もちろんそうで はない。この同一化のあいまいさは、一つは個人の意志に依存しているために生じ ている。例えば、最終的に取り返しのつかない選択をしたDaisyも最後までそれと は反対の決意をすることが期待されていたように、また私たちがみなTomと Gatsbyの両方の特徴を少しずつでももっているように、もともと人を区別するも のはあいまいであり、区別を判然とさせるのは、一つは今まで見てきたように自然 的なものを捉え直して創造的に生きようとする意志である。これは、 Daisyや Tomのような人でさえもつことができるはずなのだFitzgeraldは、作品のいた る所に異なるものの類似を、また同一のものの異なる相をちりばめながら、その可 能性を示唆していると言えよう。一般読者の多くはGatsbyはどロマンチックでは なく、 TomやDaisyはど利己的でもないだろうが、すべての人を含めてFitz‑
geraldは、人の可能性に対する限りない思いやりをこめて作品を創造したのでは
あるまいか。また、論者の中にはGatsbyがNickの語りによって救出される必要
があったと主張するものもいるが13)、両者の関係についてはもっと適切な表現が求
められるべきだろう。というのも、 Gatsbyの生き方はNickの語りによってその価
値が伝えられていて、それを必要としていると言えるが、救出を求めていたわけで
はないと思われるからだ。結局、ロマンチストとしての彼には変化と創造の持続と
しての生がいつも開かれていたのであり、そのこと自体が救いとなっていたと考え
られるのである。
注
1 ) F.Scott Fitzgerald, This Side of Paradise(New York,1920;rpt. Penguine Books,1963) , p.161.
2 ) Robert Emmet Long, "The Great Gatsby and the Tradition of Joseph Conred :Part I , Texas Studies in Literature and Language W, Summer 1966, 257‑276; rpt. in F.Scott Fitzerald:CnticalAssessments, Vol. I , ed.
Henry Claridge (London: Helminformation,1991) , pp.456‑471.
3)ここで自然的なものとは、私たちを知らないうちに捕えて動かすものをさす。本能とか騎望のような内 生的で自然発生的なものだけでなく、流布した思想とか慣習のような人や社会がつくったものも含む。
4 ) F.Scott Fitzgerald, The Great Gatsby (New York:Charles Scribner's Sons, 1925), p.22.
以後、この小説からの引用はすべてこの版により、真数は本文中に示す。
5 ) Marius Bewley, ̀̀Scott Fitzgerald's Criticism of America , The Sewanee Review, 62 (1954) ; rpt. in F.Scott Fitzgerald's The Great Gatsby ', ed. Harold Bloom (New York & Philadelphia:Chelsea House Publishers, 1986), p.13.
6 ) Ernest Hemingway, "The Snow of Kilimanjaro in The First 49Stories (London: Jonathan Cape, 1962) , p.71.
7 )Robert lan Scott, "Entropy Vs. Ecology in The Great Gatsby ', Queen's Quarterly 82, No.4(Winter 1975) , 559‑71; rpt. in Gatsby, p.81.
8 ) Marius Bewley, p.19.
9 ) Harold Bloom, Introd., Gatsby (New York & Philadelphia: Chelsea House Publishers, 1991), p.3.
10) Arnold Weinstein, "Fiction as Greatness: The Case of Gatsby", Novel (Fall 1985) , 22‑38; rpt. in Gatsby,
pp.137‑1511 1) Matthew J.Bruccoli, ed., The Great Gatsby (Cambridge & New York:Cambridge Univ. Press,1991) , p.
183.
12) Robert Ornstein, Scott Fitzgerald's Fable of East anad West , College English X¥B, December 1956,139‑
143; rpt.in F.Scott Fitzgerald:Critical Assessments, Vol. I , pp.242‑3.
13)例えば、 David L.Minter, ̀̀Dream, Design, and Interpretation in The Grate Gatsby", Twentieth Critical In‑
terpretation of " The Great Gatsby": A Collection of CriticalEssays, ed. Ernest Lockridge (Englewood Cliffs, N.J.: Prentice‑Hall, 1968) , pp.82‑ ); rpt. in F.Scott Fitzgerald:Critical Assessments, Vol. I , pp.343‑349.