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マグナ・カルタの時代における王の財政と課税

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(1)

マグナ・カルタの時代における王の財政と課税

その他のタイトル The Revenue of Crown in the time of Magna Carta

著者 矢口 孝次郎, 荒井 政治

雑誌名 關西大學經済論集

8

1

ページ 30‑63

発行年 1958‑09‑30

URL http://hdl.handle.net/10112/15631

(2)

. . ' '  

' . . . . . , ・ . .

'•.

' . '  

. .  ' I  

30 

うになるのは︑ お続いて支配していたのであって︑

( "

t h e k i n g   m u s t   l i v e   o f   h i s   o w n "

)

という観念は中世を通じて︑

イギリス国民が彼らの政治組織を維持するために︑十分な責任をとり得るよ

一六八八年の名誉革命以後のことに属する︒それならば︑それ以前の時期において王は如何なる意

味においてその﹁自活﹂を維持したであろうか︒先ずアングロ・サクソン時代の国王は︑最大の地主として自活に

必要な生産物と収入を土地から得ていたが︑ノルマン諸王もまた当然にこの伝統の上に立つていた︒征服王ウィリ

アムは全国に散在する一四二二の荘園を擁して多額の収入をあげていた︒すなわち︑彼は支配下においた広大な領

土を封地のかたちで臣下に分配したが︑臣下は王からの土地受封に対して︑軍役・貨幣支払.或は出廷等のいわゆ

る﹁封建的義務﹂を負担することになり︑それが征服王の主たる収入源を形成するに至ったのである︒ウィリアム

一世・ニ世は宗教領主の土地に対しても世俗領主の土地に対すると同様の態度を以て臨み︑同じ方法で王に貢納す

荒 矢

いな近世に入ってもな

マグナ・カルタの時代における王の財政と課税

治 郎

(3)

.

 

  ・ : ・

31 

る義務を負わしめた︒更に︑ノルマン諸王はこのような封建的義務による収入のほかに︑地方団体からの収入を得

ていた︒すなわち都市民に対しては慣習的奉仕の代りにフィルマ・プルギ

( f i r m a b u r g i )

の支払を要求し︑都市に

は勅許状を売つて相当の収入をあげていた︒また御料林の木材の販売や︑豚を放牧するための土地の賃貸なども王

迷い出た家畜︑

ちょうざめ・所有者不明の発堀物等は国王の所有に帰属したといわれる︒さらに国王は宮廷用の運送手段や馬匹を

徴発したり︑公定価格で宮廷用品を購入する特権をもつていた︒最後に各ハイド︵︱二〇エーカー︶に何シリングか

の率で課せられたデーン税は︑九九六年と一︱︱八年との間に七回支払われたが︑これは全国の土地に課された唯一

( 1 )  

の直接税であったといわれる︒

次に︱二世紀における公収入の源泉を︵一︶定期的で比較的確実性のあるもの︑

もたらすものと︑︵二︶そうではなく臨時の収入をもたらすものとに二大別してみると︑・まず前者に属するものと

しては︑州およびバラのファーム︑及び私的土地所有者として王領地ー

r o y a l m a n o r s

および一時的に王の管理下に

入った荘園ーから徴収する労役・現物・ないし貨幣形態での収入があり︑

ことができると思う︒なお臨時特別収入に関連して特に注意せねばならぬことは︑

の収入源となった︒また︑盗賊の放棄した物品

( w a i f s )

いわば予算に計上しうる収入を

この二つは最も重要な源泉であった︒そ

のほかに︑デヴォンやコーンウォールの錫鉱山からの収入︑造幣および両替による利益︑御料林からの少額の収入

などがあげられる︒これに対し臨時特別収入の源泉としては︑デーン税から転化したカリュキッジ

( c a r u c a g e )

︑軍

役代納金

( s c u t a g e

)

︑特別タリッジ

( t a l l a g e

)

が最も重要なものであった︒この形態の源泉のほかに︑王の有する諸

種の独占的特権の授与に対して支払われる上納金

( f i n e s )

および罰金収入

( a m e r c e m e n t )

などもこの部類に入れる

この世紀未期に新課税が登場し 海岸に打上げられた難破船の積荷︑鯨

(4)

32 

ヘンリーニ世治下に入って間もなく︑ 意しておかねばならない︒ 行政上軍事上の諸改革による経費膨脹の所産でもあった︒

マグナ・カルタの時代における王の財政と課税︵矢ロ・荒井︶

てきたということである︒それはヘンリーニ世の時代のサラディン十分の一税

( S

a l

a d

i n

t i

t h

e )

とリチャードの身代

金調達のために課された四分の一税とにみられるように︑新しく動産税が設けられたということである︒

以上が国王の財政収入の主要な源泉であるが︑その中特に重要なものとしてカリュキッジ︑タリッジ︑軍役代納

けであるが︑ ︱二世紀中葉に即位したヘンリーニ世をもつてアンジュー王朝が始まるわ

この王朝の初期においてはノルマン王朝の後を承けて種々の方面において中央集権的な政治が行われ

た︒殊にヘンリーニ世の強力な政治は︑他の国王の場合にはその比を見ないほど強い影響を後世に遺したといわれ

る︒行政組織の改革や軍制・法制上の改革は︑最もよく知られているところであるが︑それらと並んで税制の面に

おいても︑動産税の創設をはじめ後に述べるような多くの新制度の導入がみられた︒なおヘンリーニ世治下の税制

変革の大前提が貨幣経済の発展とそれに伴う社会的変化にあったことはいうまでもないが︑

さて先ずカリュキッジについてみるに︑それはデーン税

( d

a n

e g

e l

d )

に以たものであった︒古くアングロ・サクソン

時代にその起源をもつデーン税は︑既に︱二世紀には現実の鋤組や耕地面積とは殆んど関連をもたなくなつており︑

始めて課されたのは一︱九四年のことであるが︑ ︱︱六二年には撤廃されるに至った︒それに代るものとしてカリュキッジが

すなわち︱シーズンに一それは

ca

ru

ca

te

または

pl

ou

gh

la

nd 先ずこの時期の一般的特質をみるに︑ 金および動産税について︑その概要を述べてみたい︒

一方︑それはまた彼の

︱二世紀の税制を考えるについては何よりもこの点に留

(5)

33 

( 2 )  

挺の鋤

( p l o

u g h ,

c a r u

c a )

で耕しうる土地面積

(1 00

ェーカーと決められた︶を単位として︑それに対してニシリング

の率で課された︒︱︱九八年の第二回目のカリュキッジは︑

全イギリスにわたつて新しい土地調査が行われた︒各州には王によって任命された州委員︵ナイト一名と害記一名︶︑

シェリフおよび若千のナイトが選任されていて税額の査室にあたった︒彼らによって各ハンドレッド・各村につい

て綿密な土地調査がなされた後︑ いわゆる

^ ' g r

e a t

c a

r u

c a

g e

"

c a

r u

c a

t e

につき同年前期にニシリング︑さらに同年後期に三シリング合計五シ

リン.グが賦課された︒課税は四つの文書に登録され︑それぞれをナイト委員︑書記︑

管理した︒各ハンドレッドでは︑それに基づいて二人のナイトとベイリッフが税の徴収を行い︑

じて国庫に納入する仕組になっていた︒また︑王は税収の確実を期するために︑徴税の任に当る者をして忠実に職

務を遂行する旨の宣誓をなさしめ︑もし脱税のために偽証が行われたばあいには︑自由人であれ隷農であれ極めて

( 3 )  

重い刑罰に処する旨の規定を設けた︒

次に︑タリッジは領主制の下における基本的課税であり︑特にアンジュー初期における最も重要な課税の一っで

あった︒初めは

a u x i

l i u m

, a s

s i s a

d,  

on

um

などと呼ばれていたが後には

t a l l

a g i u

m と呼ばれるに至ったっ封建的観

念においては︑領主にとつて多額の金が必要となったとき︑彼は領民に援助を要請する権利をもつものとされてい

たが︑タリッジの起源も恐らくこの観念に基づくものであろう︒このようにして︑

を含む全王領地の住民ーすなわち︑

r o y a

l

b o

r o

u g

h ,

  r o y

a l   m

an

or

s

没収されたバロン領の住民︑

護下にある封土の住民ーに貢納を要請しえたわけである︒タリッジはその性質によって二つの類型に分たれる︒か

りに一方を一般的タリッジ︑他方を特別タリッジと呼んでおく︒前者は王領または貴族領荘園の主として隷属農民

J I I

王の保 一時的に王の手中に入った土地 このさいには

シェリフ︑各バロンの執事が

シェリフの手を通

(6)

34 

と考えられていたので︑

マグナ・カルタの時代における王の財政と課税︵矢ロ・荒井︶

一四世紀の始めに至 ヘンリーニ世時代の例を示せば別表 に対して年々定期的に課せられたもので︑領主と借地人との間の約定に基づいて一定額が毎年一定の日ー例えば

( 4 )  

カエルマスーに支払われた︒後者は王が臨時に多額の出費を必要とするとき︑王領地の主として自由人が折々に支

払ったものである︒ここで王が臨時に多額の出費を必要とするときというのは︑それが現実に徴収された場合から

みると︑王が外征するときとか︑王が捕虜となったときの身代金の調達とか︑王の娘の持参金の調達とかいった場合

であった︒したがつて事の性質上︑次に述ぺる軍役代納金︵笞

ut ag e)

と一緒に課されることもしばしばあった︒ク

リッジを支払ったのは決して全部の州ではなく︑その額も年によって異るが︑

のごとくである︒タリッジは前述したように封建的な土地保有関係から領主が当然要求しうる一種の御用金

(a id )

その課税にあたつては王側近の重臣達による小評議会

(s ma ll co un ci l)  

れらの委員の一部分は巡回裁判官

( it i n er a n t j us t i ce s )  

がこれを承認する

ことで十分であって︑カリュキッジのように王は大評議会

(g re at co un ci l)

の承諾を求める必要はなかったようであ

( 5 )  

る︒タリッジの査定は国王の任命した委員が地方の実情に通じているシェリフの援助をえて行ったのであるが︑こ

( 6 )  

であり︑練達の行政官僚であった︒

タリッジは遅くとも既に︱二世紀の始めには徴収されていたといわれ︑同世紀後期のヘンリーニ世治下には慣例

化し︑それから︱二七二年に至るまでは最も重要な期間であった︒その後暫らく中断した後︑

つて再び復活するが︑エドワード三世治下の一三三二年の課税を最後として消滅した︒このようにタリッジの歴史

( 7 )  

は二世紀にわたつて続くのであるが︑.末期には課税方法に大きな変化が生じ︑かつてのように︑そのつど課税者と

納税者が協議によって税額を決定するという陳腐な方法を脱し︑︱つの集園としての納税者団の代表と国王の任命

した委員との間で︑納税者達の所有する個人財産に対して何︒ハーセントかの税率を乗じた概算税額を交渉するとい

一 四

(7)

35 

1 1 5 9  

1 1 6 8   ( 3 4  s h i r e s )   1 1 7 3   ( 3 1   s h i r e s )   1 1 7 4  ( 1 8  s h i r e s )   1 1 7 7   ( 2 5  s h i r e s )  

ヘンリーニ世治下におけるタリッジ牧入額

Boroughs  Manors 

£ 

2 7 2 3   ( 1 0 4 3   2 9 1 5   ( 6 1 7   2 6 3 2   ( 6 6 6   2 6 0  

d 6 0 8 7   1 1   6

3  

1 3  

d 8 S o

6

£ 

2 3 4 6   2 0 2 0   8 6 1   2 0 5 0  

s .  

︐ 

1 7   1 8   1 4  

d .  

1 1  

2 5 0 5   1 3   4 

( 6 6 6   1 3   4 )  

1 1 8 7   ( 2 4  s h i r e s )   1 5 7 7   1 1   1  2 1 3 8  

  )の中はロンドンの数字。 1 1 7 4 年は前年の追加分。

M i t c h e l l ,  o p .  c i t . ,   p p .  2 7 3 ,  2 7 8 の附表より作製。 ) 

︐ 

£ 

2 7 2 3   5 2 6 1   4 6 5 3   1 1 2 2   4 5 5 6   3 7 1 5  

T o t a l  

d 6  

d 8  

1 7  

1 9  

1

0  

1 4  

土地保有形態に転化し︑ナイトはその実質を失って単なる土地保 う傾向が生じ︑このようにしてタリッジは新しい財産税・動産税

( 8 )  

に同化吸収されてゆくことになるのである︒

次に軍役代納金

(s cu ta ge )

であるが︑軍役による土地保有はい

農業を基礎とする実物経済社会においては︑軍制と土地保有が結

合するのは当然のことであった︒すなわち︑

上位受封者に土地を下封するに際して︑彼らに対して一定数のナ

騎士釆地

(k ni gh t' s fe e)

という形態で再下封して一定数のナイト

を維持するようになった︒しかしながら︑ て課せられた封建的義務を履行するために︑

一 五

ウィリアム征服王は

このような固有の意義

における軍役の負担が土地保有形態を現実に規定にしていたのは

ノルマン王朝の最初の一世紀だけであって︑その後は次第に変質

するに至った︒すなわち︑後にそれは本来の軍役を伴わない単なる

有者となり︑騎士釆地は経済的にナイトを支える実質的価値を失

( 9 )  

い︑単なる租税賦課の一単位になってしまったのである︒このよ その保有地の一部を イトを差出す義務を負わせた︒そこで上位受封者はこのようにし うまでもなく封建制度における典型的な土地保有形態であって︑

(8)

:叫..

36 

マグナ・カルタの時代における王の財政と課税︵矢ロ・荒井︶

うな根本的変化を最も明瞭に示しているものが軍役代納金である︒

軍役代納金は﹁一身を以てする奉仕を貨幣で代納する﹂

( "

c o m m u t a t i o n f o r   p e r s o n a l

r v i c e "

)

による土地保有者が現実の軍役に従う代りに納めた貨幣であり︑

ヘンリーニ世治下の一︱五六年に姶めて採用された制度ではなく︑その起源はも

つと古いものである︒恐らく騎士軍役制が導入されると殆んど同時に生まれたのではないかとさえいわれており︑

既にヘンリー一世以下において軍役奉仕を一定の率で代納することを聖職者に許す慣行が広く行われていたとい

( 1 0 )  

う︒ただこの制度が一般的に確立し普及をみたのはヘンリーニ世の治下であったと思われる︒貨幣代納への移行が

行われるについては貨幣経済の一定の発展がその前提となったことはいうまでもないが︑その実現については︑奉

仕を要求する国王の側にも︑またそれを負担するバロンの側にも次のような点でそれが有利と考えられたというこ

とを忘れてはならない︒先づ国王の側からいえば︑ 一形態つまり軍役

このような代納によって封建諸侯の武装を解除して中央集権の

強化を図るとともに︑平和に馴れて劣弱化したナイトに代つて武技に熟達した傭兵団ー主としてフランドルやガス

コーニュの出身者ーを募集する方が有利であるという事情があげられ︑他方バロンの側からいえば︑それによって

煩わしい軍役奉仕から解放されるのみならず︑しばしば不労所得が得られるという事情があげられる︒バロンはな

ぜ不労所得を得ることができたか︒彼らは王から要求される軍役代納金と同率のものをナイトから徴収したのであ

るが︑通常バロンは王に対して負担する義務以上に多くのナイトに授封していた︒したがつてもし五

0

人のナイト

を差出す義務を負うバロンが六

0

人のナイトに授封していたばあい︑各騎士釆地毎にニマークの軍役代納金をとる

とすれば︑二

0

マークの不労所得を生ずることになる︒しかし財政収入の増加に努めていた国王がこのような慣行 の制度はかつていわれたように︑

( s h i e l d

, 1 3

 

o

n e y )

一 六

(9)

37 

ヘンリーニ世は内においては中央集権を確立して諸種の制度を打樹てると共に︑

さらにアイルランドヘと領土を拡大していったが︑

︱︱六六年に至って代納金負担関係の査問を行って︑かかる不当利得の排除を試みようと

フランスにある領土は逆に離反の傾向にあった︒そこで王は妃

がアキテーヌ地方に有する所領を武力をもつて擁護しなければならなかった︒このさい︑イギリスの諸侯は封建的

土地保有関係に基づいて当然フランスに従軍する義務を負うていたのであるが︑彼らの中には海外への従軍を嫌う

ものが生じてきた︒そこでヘンリーと彼の助言者トマス・ベケットが軍役の金納化を計画したのは当然であって︑

王はフランスヘの従軍を望まない臣下から年収二

0

ポンドの騎士釆地につきニマーク︑すなわち一ポンド六シリン

グ八ペンスの代納金を課した︒この計算の基礎はナイトの負う年間奉仕日を四

0

日とみなし︑一日のナイトの費用

( 1 2 )  

を八ペンスと見積ったことに基づく︒上記の如くバロンの側では海外での軍役を免れたいという希望があったこと

から考えて︑金納化に反対する文書がないのは少しも不思議ではない︒年代記者の記するところによれば︑

( 1 3 )  

九年のこの

"

g r

e a

s t

c u

t a

g e

"

によって︑王は︱二四ポンドの銀を受入れたという︒その後︑軍役代納金はヘンリ

'ーニ世治下において騎士釆地毎にニマークの率で八回︑次のリチャードの治下において一

0

シリングないし一ポン

( 1 4 )  

ドの率で三回の徴収を行っている︒

次に動産税の登場について述べたい︒財政的な視点からすればヘンリーニ世治下における最も重要な変化は恐ら

くこの動産税の導入であろうと思う︒これは課税の対象が個人の財産全般に拡げられたことを意味する︒はじめへ

ンリーニ世は聖地の回復という宗教上の目的のために︑人々の動産および収入から一定の援助金を貢納するよう要

マグナ・カルタの時代における王の財政と課税︵矢ロ・荒井︶

を黙認するはずはなく︑

(11) したのである︒

(10)

38 

求した︒このようにして課せられた第三十字軍に関連する一︱八八年のいわゆるサラディン十分の一税

(S al ad in t it h e )

は初期の動産課税として最も注目すべきものである︒もつとも動産税はヨーロッパの幾つかの国々では︑も

つと早い時期に第一次十字軍の費用を調達するために︑その朋芽的なものが現われていたといわれる︒しかしそれ

は極めて幼稚なもので納税者は所有財産を自己評価して自ら税額を査定し︑それを教会の一隅に設けられた金庫に

( 1 5 )  

納入するような仕組になっていた︒

イギリスではヘンリーニ世治下の一︱六六年および︱︱八四年に既に動産税が課されていたようであるが︑それ

らについては何らの記録も遺されていないので︑今日それを窺い知ることはできない︒従ってわれわれが知りうる

最初の課税は上述の一︱八八年の課説︑すなわち︱︱八八年二月︱一日のゲディントンの評議会

dd in gt on

)でその賦課が決定されたサラディン十分の一税である︒また一︱八一年に発布された﹁武装条例﹂

(A ss ai ze

( 1 6 )  

of  A rm s)

は動産課税への第一段階を用意したものといえるであろう︒この条例はアングロ・サクソン時代に行われ

ていたファイド

(f yr d)

を制度化しようとしたもので︑いわば一種の国民軍

(n at io na l m il i t ia )

の確立を意図したもの

﹁武装条例﹂によれば動産を有する世俗の自由人もしくは一六マークの収人を有する自由人は何人も鎖帷

子・胄.盾.槍を︑また︑動産を有しもしくは一

0

マークの収入ある自由人は何人も鎖帷子・胄・槍を用意しなけ

ればならなかった︒このようにしてサラディンがエルサレムに進んだとき︑ドゥムズディ土地調査いらいの最も有

利な方法で十字軍のために個人財産を差出すよう命令が出された︒ところでこのサラディン十分の一税を徴収する

( 1 7 )  

布告

(O rd in an ce of  t he  S al ad in  t i t he )

の内容は大よそ次のようなものであった︒︵一︶今年︑何人も地代および動

産の十分の一を喜捨すべし︒但しナイトのばあいは武具・軍馬・衣服には課税せず︑聖職者のばあいは馬匹・書籍

(C ou nc il  o f  Ge

 , 

一 八

(11)

39 

た︒王位を継いだのは次男の武人リチャード王であったが︑彼は十分な意味のイギリス王ではなかった︒彼は九年

間の治世のうちイギリスに留ったのは僅かに六カ月であって︑即位して間もなくドイツ皇帝フリードリッヒ・バルバ

最後に御用金について一言したい︒ヘンリーニ世はサラディン十分の一税を課したのち︑

九 '

︱︱八九年に世を去つ ・衣服・祭服および教会備品は除外する︒また聖俗を問わず宝石類は除外する︒

王 ︑

きこと︒不正を行ったものに対しては教区において教会当局が破門を宣告すること︒教区毎に陪審員を選任し︑も

は本税を免除すること︒

この布告によって︑極めて広範囲の人々が課税されることとなり︑税収額もまた異例の増加を示した︒この大規

模の動産税にともなつて︑中央にはサラディン十分の一税委員会が王によって任命され︑その賦課・徴収・計算の

ための組織が作られ︑各州へは王の代表者が派遣された︒地方では陪審制度

(j ur y sy st em )

が採用されて税収の確

実を期した︒すなわち農村においては納税者各個人が正しい宣誓をするように︑法令によって破門をもつて脅かす

その村の自由人から選ばれた陪審員が査定に立合って各個人が正しい財産評価を行うことを求めた︒他

方︑都市のばあいは︑バラから選ばれた陪審員が査定を行うことになつていた︒このように中央における王の評議

会と地方団体によって選任されたものが結合し相提携して賦課・徴収に当り︑慣習的な行政官であるシェリフーす

でにアールの世襲的特権となつていたーを徐々に課税機構から除外せんとする傾向を示したことは注目に値するで

( 1 8 )  

︵四︶各教区においてはこの公布を周知せしめること︒ し納税者の申告に誤りがあれば訂正して追徴すること︒︵三︶既に十字軍に参加したことのある聖職者やナイトに 各教区毎に教会の代表者達︑バロン︑聖職者の面前でなさるべ ︵二︶徴収に関する規定︒徴収は

(12)

y  .  • .,.・

:; 

. '  

.... ・ .

40' 

( t h r e e   r e g u l a r  

a i d s )  

年代記者は教会や僧堂の財宝に対する課税が法外に重かった 臣下の忠誠によって身代金が支払われるよう要望 000

( 1 9 )  

こ ︒ その保証のために六七人の人質がとられることになっ ︱一九三年六月二九日

ロッサ︑フランス王フィリップ・オーギュストと共に第三次十字軍に加わった︒ところがその帰途オーストリアの

レオポルド公の計略にかかつて捕えられ︑上位にあったドイツ皇帝ハインリッヒ六世に引渡された︒皇帝は一︱九三

年三月に彼と第一回の会見を行って一

00

00

0

マークの身代金を要求していたが︑それに加えてアビュリアを

奪回せんとする皇帝の戦争を援助しなかった代償として更に五

0

00

0

の最終的決定においては身代金として一

00

000

ポンドを要求した︒そして王の釈放までに三分の二

(1

00

残額の支払が完了するまで︑

臣下が国王の身代金を支払うことは︑王の長女の結婚および長男が元服するさいになす貢納とともに三つの通常

臣下が当然なさねばならぬ封建的貢納であった︒リチャードはドイ

ツにおける囚われの身で三月二六日カンタベリの修道院長あてに書簡を送って︑この巨額の支払を懇請した︒さら

︑ カ ウ ン

> ル

いいかえると王の評議会にあてて第二回目の書簡を送り︑身

代金に関して皇帝との間に協定が成立した旨を報ずると共に︑

( 2 0 )  

した︒かくてサラディン十分の一税を凌ぐ︱二世紀における最も大規模な課税がイギリス国民の凡ゆる階層に課せ

られることになったのである︒すなわち︑サラディン十分の一税よりも更に広範囲にわたる財産保有者に賦課さ

( 2 1 )  

れ︑それは恐らく実収においても一︱八八年のそれを上廻つていたであろうといわれる︒だが課税の基礎について

( Q u e e n E l e a n o r )

とその裁判官︑

は明確に把握することが困難である︒というのは一︱八八年の十分の一税や一︱六六年の御用金のように課税令書

( w r i t s   o f   a s s e s s m e n t )

が残存していないからである︒

四〇

(13)

: 

  ・ . ・

: .. 

. .

  ‑  : : ‑ ‑ : i ( : <  

. 4 1  

n

. 荒 井 ︶

••ことを強調するが、課税全体については多くを物語っていない。課税の明細については、

たウィルトシャーに関する審問調査報告書が残っている程度である︒しかし中央および地方に残る断片的な史料か

ら知りうることは︑巨額の身代金の支払のために︑

れ︑凡ゆる手段がとられたということである︒したがつて通例の課税のように単一の課税ではなく︑種々雑多の課

教会の金銀器財宝︑ それまでにイギリスで知られていた凡ゆる形態の課税が復活さ

税の複合形態をとつている︒すなわち課税の対象についていえば︑動産︑収入︑騎士釆地︑都市・農村の王領地︑

その他に及び︑したがつて︑既述のような従軍しない者からの軍役代納金︑王領地のタリッジ︑

一ハイドにつきニシリングのハイディッジ︑.及びサラディン十分の一税のような動産税︑それらが課されたことは

いうまでもない︒これらのすべての課税は︑

動産課税については政府は未だ経験が乏しく︑ ハイディッジおよび教会に対する十分の一税・ニ十分の一税を除い

て︑すべて一︱九三年に徴収されたか︑ないしは徴収が開始されたものであった︒

ったものはいうまでもなく動産税︵四分の一税︶であって︑ これらのうち収入の最も大きか

王の小評議会

( Q u e e n A l e a n o r

j u s t i c e s

)

の決定に基づ

いて聖俗を問わず︑すべての者から一︱九三年の収入の四分の一と︑動産の四分の一に当るものを貢納せしめた︒

その徴収に応ずる課税組織は漸く徐々に形成されつつある段階にあ

ったので︑最も重要な財産の評価についても決して正確は期し難く︑概算の域を出ていなかった︒教会は金銀製器

具を献じなければならなかったが︑それらに対してはしばしば金納化が認められた︒例えば︑セント・オールバン

スの修道院長は二

0 0

マークを献じて︑すべての聖杯や礼拝用品を救い︑また

Yo rk M i n s t e r

は金の十字架を︑ベ

リ・セントエドマンズの修道院は一

0 0

マークとヘンリーニ世から贈られた金の聖杯とを献納したが︑器物は何れ

'

も後日取戻している︒またミューの修道院長は一年間に産出した羊毛と金銀器とに対して三

00

マークを代納して ︱一九四年秋に作製され

(14)

42 

( 2 2 )  

いる︒さてこのように頼りうる凡ゆる源泉に訴えてこの巨額の身代金を調達した結果︑リチャードは一︱九四年春

ところで王の小評議会は以上のような一︱八八年のサラディン十分の一税や一︱九三

I

四年のリチャードの身代

金支払のための課税という大規模の課税ーことに動産税の導入ーを経験しているうちに若干の租税行政上の問題に

それが近代的課税機構へ前進する一契機ともなったのである︒それらの問題の中には︑

うにすれば幣しく多数の納税者から迅速かつ完全に貨幣を徴収することができるか︒

︵三︶もし免税するとすれば︑どのような財産或はどのような人に免税を認むべきか︒︵四︶

税額の査定は一年のうち何時が最も便利であるか︒

︵六︶どのようにすれば地方役人とくにシェリフを排して︑全国の収入を現実に中央政府が掌握すること

(23) ができるか等の問題が含まれていた︒

以上が︱二世紀の課税の概要であるが︑最後に︑それらの課税はどのような機構によって賦課・徴収せられたで

あろうか︑またそれは租税の変化にどのような対応を示したであろうか︒それらの点を考察してみようと思う︒

その機構は先ず始めに︑王座裁判所ともいうべき古い行政機関のクリア・レギス

t r e a s u r y

務行政機構の改革を行って財務裁判所を上級財務裁判所と下級財務裁判所との二部門に分けた︒

( u p p e r e   x c h e q u e r   o r   e x c h e q u e r o f  

m   account)~t-\J の仁千苧 gのム云乱

宰自類の提出を受けて会計検査を行い、

が課税可能であるか︒

そして最後に財務裁判所或いは財務庁

( c o u r t o f   e x c h e q u e r )

に釈放されたのである︒

ヘンリーニ世は財

上級財務裁判所

かつその間に生

( c u r i a   r e g i s )

から

c h a m b e r ,

︵五︶現金の輸送・計算・秤量・管理はどのような方法による

︵二︶どのような種類の動産

(15)

43 

リフは征服王の時代から王の徴税官であって︑

じた紛争を審議し裁決した︒下級財務裁判所

( l o w e r e x c h e q u e r   o r   e x c h e q u e r o f     r e c e i p t ) .  

は直接に貨幣を収受する役

所で︑そこで貨幣の秤量ヽ鑑別を行った︒財務裁判所の上級の役職は王室の要職にある者によって占められており︑そ

の中には長官としての司法長官

( j u s t i c i a r )

国璽尚書

( k i n g ' s c h a n c e l l o r )

および老練の顧問官達が含まれていたが︑

このように財務裁判所において職権を与えられたバロンは︑

( 2 4 )  

れた︒彼らのうちでも

t r e a s u r e r

は特に重要であって︑

式部官

( c h a m b e r l a i n

)

と共にシェリフから貨幣を受取りそれを王室会計簿

( r o l l o f   t h e   p i p e )

に記入すること︑課税の

ために発行された令状を認証すること︑下級裁判所で出納事務を監視すること等が彼らの任務であった︒従って彼ら

( 2 5 )  

は両財務裁判所で事務を執行したわけである︒王室財務の決算は年二回︑イースターとミカエルマスにウェストミ

ンスターの宮殿で行われたが︑これら二期を

D u o

S c a c c a r i

a

してシェリフその他の税務役人は︑

( t a l l i e s )

を受取った︒割符は両財務裁判所のみならず地方財務行政においても使用せられ︑その起源は古い︒シェ

ヘンリーニ世治下には州における王室収入や奉仕を徴収することは

その基本的任務の一っとなっていた︒彼は通常︑下級財務裁判所へ現金を納めて割符を受取るのであるが︑時には

c h a m b e

r

w a r d r o b e

へ払込んだり︑王の命じた特定の者に払込むこともあった︒何れのばあいにも割符を受取っ

た︒上級財務裁判所で会計検査が行われるとき︑シェリフは各所で受取った割符をもつて出廷し︑徴収負担額と納付

額との照合をうける︒そのばあい両者が正しく合致すれば問題はないが︑納付額が不足するときは翌年度に払込むこ

マグナ・カルタの時代における王の財政と課税︵矢ロ・荒井︶

この会議に出席して州で徴収した貨幣と計算書を提出し︑受取証として割符 た令状に対する報告がなされる習慣となつていた︒通常︑国庫に租税の払込がなされるのもこの時期である︒そ この会議では国庫が課税のために発行し 王室の歳入について他のバロンと協議すること︑二名の 特に財務裁判所バロン

( b a r o n s   o f   e x c h e q u e r )

と呼ば

(16)

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4 4 ・  

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マグナ・カルタの時代における王の財政と課税︵矢ロ・荒井︶

( 2 6 )  

とを要求され︑また払込超過のばあいは翌年度分から差引くことが認められた︒またこの時代には︑中央集権強化

と王室収入の増加を図るために︑旧来の巡回裁判︵或いは巡回法廷︶制をさらに強化し︑

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( 2 7 )  

全国を六区に分けて巡回し︑中央と地方を直結すると共に︑シェリフを巌重に監督するようになった︒

既に述べたようにアンジュー初期における租税の変化︑とりわけ動産税の形をとった新しい形態の御用金の導入

によって︑税収額と納税者数とは著しく増大することになった︒このような新事態に即応して課税の対象となる財

産を適当に評価し︑幣しい納税者から迅速かつ確実に税収をあげるには如何なる措置を講ずべきかが王室財政の直

面した最も重要な課題となった︒この課題に対する解答は具体的の機構の面では次のようなかたちで表われてき

た︒先づ中央の財務機構についていえば︑従来の

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ある︒これは新しい課税の受入れと︑ いわば臨時の中央機関が生じたことで

その会計検査をなすために新設された機関で︑例えば︱︱九三ー四年のリチ

ャードの身代金調達にあたつて

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が設けられたのはその

一例である︒この変化は永久的のものではなかったが︑しかしこのように臨時の貨幣収入を取扱う経験を積んだこ

( 2 8 )  

とは︑後にエドワード一世治下の

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r

の拡大に大いに役立ったといわれる︒

このように中央機関の変化は一時的のものであったが︑地方財務機構の変化は後の時代にはるかに大きな影響を

与えるものとなった︒そのような変化の中には︑課税財産の評価に関連して陪審制度を導入し活用したことであろ

︱二世紀においては税額は臣下が保有している財産の価値もしくは量に比例して決められていた︒

カリュキッジのばあいは

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の数により︑軍役代納金のばあいは保有する騎士釆地の数によって

それぞれ税額が決定され︑また最大の税収をあげ得る新種の御用金となった動産税のばあいも同じように︑課税時に

四四

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:

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(17)

45 

おける個人財産の価値もしくは量ー当初においては個人の収入にも課されたが︑

(29) 一定率︵十分の一︑二十分の一のごとく︶を乗じて決定されていた︒したがつて課税財産品目の決定と︑

評価が決定的な重要性をもつわけである︒そのため通常各州には︑中央政府の任命した州課税委員

( c o u n t y c o

1 3

 

且 '

s s i o n e r s   o r   t a x e r )

が配され︑彼らが各州の課税を監督した︒各村或はハンドレッドには課税と徴収のために選任さ

れた一団の地方陪審官がおかれ︑彼らが州課税委員の監督の下に個人財産の評価を行うか︑或いは︑

官ー彼らはその地域の住民の所有する土地・家畜•その他穀物・羊毛などの生産物、家財に精通していたーの前で

個々の納税者をして︑所有財産額を宣誓せしめ︑不当に低い宣誓をしないよう彼らを牽制すると共に︑不当に低い

( 3 0 )  

ばあいは陪審官がこれを修正した︒徴税に関する整った官僚機構をもたない当時の政府がとった方策は︑このよう

に陪審制を活用するということであった︒

政上の制度でもあった︒

︱つの潜在的な原因を︑

四 五

一三世紀の王とバロンの衝突を招来する それの適正なそれらの陪審

ヘンリーニ世の導入したこの陪審制は︑司法上の制度であると同時に財

つまり地方事情に通じた財産保有者を事実上の政府の役職に組入れて︑彼らに財産評価の

権限を与えたのであるが︑この陪審制は課税に関連して常に活用されるところとなった︒国王は︑地方の中産階級

k n i g h t s , f r e e m e

n

ーから任命もしくは選出された代表者と中央機関とを有機的に結合せしめて︑納税者と直結し︑

結果的には中間の領主権力を排除しようとする方策をとったわけである︒またこの動向は種々の側面から指摘しう

るであろう︒いうまでもなく︑このような王権拡大の傾向は︑相対的には上位受封者の後退を意味し︑また領主とそ

テ ナ ン ー

の下にある土地保有者との慣習的封建関係に対する王権の干渉とも考えられたのであって︑上位受封者の側からす

る反対の声が時と共に高まつてきたことは自然の勢というべきであろう︒

このような点に求めるとしてもあながち不当ではないであろう︒

︱ 二

0

七年以降は除外されたーに

(18)

ト、ト・吹~~Q堂起足共全肉用Q益溢4器硲(-ll<ロ・賑共)

K ←)  J.  E.  A.  Jolliffe,  The  Constitutional  History  of  Medieval  England,  3rd  ed.,  1954.  p.  127.  ゜ st  (IN)  S.  K.  Mitchell,  Taxation  in  Medieval  England,  1951.  p.  128  (怜贅皿

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day,  1888.  vol.,  I,  p.  58. 

(c,:,)  Dowell,  op.  cit.,  pp.  57‑8.:  Mitchell,  op.  cit.,  pp.  14,  129,  177. 

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゜帽共梨冥(It!座出堕)旦将..>I--'辻皿丑-<G;t;-~ふや器皿丑‑<

ぷ ("s"¥'¥ ・ローミ足温毎的兵 1‑‑' 今 ,U0 Mitchell,  op.  cit.,  pp.  280‑2. 

(LO)  Mitchell,  op.  cit.,  pp.  236‑7. 

(<.:>)  Mitchell,  op.  cit.,  p.  251. 

(c‑)  Mitchell,  op.  cit.,  p.  237. 

(co)  Mitchell,  op.  cit.,  pp.  240

1.

(m)  .!J<t1

「ャ斗""r<蒋棘.t;l<l賎届燃臥」菩

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回・

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嵐゜

(~) S.  A.  Morgan,  The  History  of  Parliamentary  Taxation  in  England,  1911.  p.  31.:  H.M.  Chew,  The  ;English  Ecclesia・ 

stical  Tenants‑in‑chief  and  Knight  Service,  p.  38  c:::) 

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111111

寓゜

(;:1)  F.  Barlow,  The  Feudal  Kingdom  of  England,  1042‑1216,  1955.  p.  312. 

ぼ)

Morgan,  op.  cit.,  pp.  30‑34. 

(~) J.  H.  Ramsay,  Revenues  of  the  Kings  of  England,  vol.,  I,  pp.  195,  227‑S.  Painter,  The  Reign  of  King  John, 

1949.  p.  126. 

ぼ)

Dowell,  op.  cit.,  pp.  44‑5. 

(~) W.  Stubbs,  Select  Charters  and  other  illustrations  of  English  Constitutional  History.  1895.  pp.  153‑4. 

(S::;)  Dowell,  op,  cit.,  p.  46.  :  Stubbs,  op.  cit.,  p.  160, 

参照

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