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︿研究ノート﹀ 南洋群島からの戦時引揚の実態について

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︿研究ノート﹀ 南洋群島からの戦時引揚の実態について

︱出港・航行に関する沖縄出身女性・子供の証言を中心に︱ 川  島    淳

はじめに 本稿は ︑一九四三 ︵昭和一八︶年一二月から一九四四 ︵昭和一九︶

年一二月にかけて実施された戦時引揚が︑南洋群島在住の女性や子供︑

高齢者を対象として︑戦場のなかで実施されたということを明らかに

しつつ︑戦時引揚の特質の一端について考察するものである︒

一九四一 ︵昭和一六︶年一二月八日に日本はマレー作戦を実施し ︑

その直後に真珠湾を攻撃して対英米仏蘭に宣戦を布告した

︒日本軍

は︑同月中にグァム島や香港を占領し︑翌一九四二︵昭和一七︶年前

半に︑フィリピンや蘭領東インドなどを占領下に置いた︒しかし︑同

年六月にミッドウェー海戦で日本海軍が敗北し

︑翌一九四三

︵昭和

一八︶年二月にガダルカナル島で日本軍は敗退した︒その後︑米軍が

制海権を掌握しつつあり︑日本の海上交通の確保も厳しい状況になっ

た︒一九四三 ︵昭和一八︶ 年九月三〇日の御前会議では︑ いわゆる ﹁絶

対国防圏﹂が策定され︑マリアナ諸島やパラオ諸島などは﹁絶対国防

圏﹂内に位置づけられたが︑マーシャル諸島などは﹁絶対国防圏﹂の

外に置かれた ︒このように︑アジア・太平洋地域に拡大した近代日本

の支配地域は︑日本軍にとっての戦局の悪化によって縮小された︒こ れに呼応して︑一九四四︵昭和一九︶年四月一四日に﹁南洋群島戦時 非常措置要綱ニ関スル件﹂が閣議決定されて︑南洋群島に﹁戦時非常 体制﹂が構築された ︒かかる戦争指導と政策過程の結果 ︑﹁戦時非常

体制﹂下の南洋群島では︑男性は防衛戦力として南洋群島に残留させ

られる一方で︑食糧増産や国防資源の開発に従事する者を除いた南洋

群島在住の女性のなかには︑戦時引揚の命令・指示に応じざるをえな

かったものもいたのである ︒こうして ︑﹁戦時非常体制﹂の確立に伴

う戦時引揚の実施は基本的に性別役割分業体制の再構築によるもので

あった︒ゆえに︑それまでの﹁近代家族﹂と性別役割分業体制との親

和性を崩壊させることになり︑南洋群島在住の家族のなかには統治権

力によって分断される家族もあった︒

戦時引揚対象者の女性や子供︑高齢者は︑太平洋地域が戦場であっ

たがゆえに︑戦時引揚船が米軍の攻撃を受けるかもしれないという恐

怖心を抱きつつ︑一九四三︵昭和一八︶年一二月頃から翌年一二月ま

での間に︑日本本土やフィリピン︑台湾に上陸した︒その後︑戦時中

に日本本土を経由して沖縄に帰還して戦争に巻き込まれる者や︑日本

軍にとっての戦局の悪化によって経由地のフィリピン︑台湾などで敗

戦を迎えて沖縄に引き揚げる者もいた︒他方︑南洋群島を出港した引

一 南洋群島からの戦時引揚の実態について

(2)

揚船のなかには︑米軍によって撃沈された船舶もあり︑その途中で死

亡する者もいた ︒日本本土に上陸した戦時引揚者は一六 ︑ 三 八六人で

あった が︑フィリピン・台湾に上陸した人数は現在不明である︒この

ように︑日本本土に向けて戦時引揚が実施されたが︑必ずしも目的地

に到着できたわけでなかった︒

こうした戦時引揚に関する従来の研究では

︑南洋移民の

﹁戦争体

験 ﹂や︑沖縄より植民地への渡航から戦後引揚までの過程 ︑戦時引揚

と戦後引揚との連続性 ︑戦時引揚と性別役割分業体制との関係性 とい

った四つの枠組みで論じられてきた︒このように︑戦時引揚の特質は

論じ尽くされた感があるが︑戦時引揚者の証言に依拠して戦時引揚の

実態を分析することが課題として残されている︒

また︑引揚援護に関する刊行物 では︑戦時引揚は戦後引揚の前史と

して連続線上に捉えられている︒というのも︑植民地南洋群島から日

本本土などへの人口還流という点に重点を置いているからである︒こ

れにより︑戦時引揚という用語が定着・固定化したのであろう︒こう

した位置づけについて︑筆者に異論があるわけでは決してない︒ただ︑

同時代の公文書では ︑﹁疎開﹂あるいは ﹁内地引揚﹂という言葉が用

いられ ︑戦時引揚者も︑その体験を﹁疎開﹂ないしは﹁引揚﹂という

言葉で証言している

︒そもそも﹁疎開﹂は戦災をさけるために都市部

10

から農村部に移動することであるが︑戦時引揚の実施は︑南洋群島が

米軍の攻撃を受けるとの予想があるなかで︑南洋群島での戦災を避け

るというよりはむしろ︑既に安仁屋政昭が﹁一般住民の安全をはかる

のが第一義ではなく︑作戦の足手まといを排除し︑食糧を確保すると いうのが主目的であった

﹂と指摘するように︑女性や子供などが戦争

11

の足手まといになることや食糧問題を理由に統治権力の判断によるも

のであった︒また︑戦後引揚は︑敗戦後の国際秩序の構築に基づく占

領軍の意図などによって︑日本の植民地や占領地から日本本土などに

民間人が還流させられたことである︒敢えて議論を単純化すれば︑戦

後において満洲や朝鮮半島からの引揚

は︑南洋群島からの戦時引揚と

12

同様に︑植民地在留者が生命の危険を感じながら︑日本本土や沖縄へ

移動した出来事であるが︑戦後に南洋群島からの引揚者は︑米軍の影

響下にあった地域・海域を経て日本本土や沖縄に移動させられた︒そ

のうえ︑戦時引揚の対象者が主に女性や子供︑高齢者であったことか

ら︑戦時引揚に応じざるをえなかった人々の家族は分断された

が︑南

13

洋群島からの戦後引揚では︑現地住民と結婚したものは残留可能であ

ったものの︑老若男女を問わず︑戦争で生き残った全住民が対象とな

った︒このように︑戦時引揚と戦後引揚には共通性と相違性があるが︑

両者を連続線上に捉えすぎるあまり︑両者の共通性が重視され︑戦時

引揚そのものの特質が埋没されているように思われる︒

以上の前提と対応して︑戦時引揚が実施された空間が︑戦場となっ

た海域であるという事実から︑戦時引揚の特質の一端を捉え直す必要

があるように思われる︒すなわち︑戦場となった地域での体験も︑空

爆を受けた地域での体験も

︑総力戦体制下での

﹁銃後の守り﹂の体 験なども均しく戦争体験と呼ばれている

︒確かに一九三〇年代から

一九四〇年代前半にかけての時期は︑近代日本が各地域で武力行使を

した時代であり︑一五年戦争という枠組みのなかで︑この時代の経験 二

(3)

を均しく戦争体験として捉えることができる︒しかし︑誤解されるこ

とを恐れずに敢えて議論を単純化して論ずれば︑地上での攻防戦であ

れ︑空爆であれ︑海域での攻撃であれ︑実際の戦闘地域や空爆を受け

た地域における体験は︑結果的に︑戦場とならず︑かつ空爆を受けな

かった地域での﹁戦争体験﹂とは異質の体験であったといえる︒また︑

日本本土などへの爆撃が可能となった時期と︑それ以前の体験は︑本

質的には異なるものであったと捉えられる︒なお︑重箱の隅をつつか

れるので︑敢えて明言しておけば︑筆者は体験の軽重を論じているの

では決してない ︒﹁銃後の守り﹂の体験であろうと ︑戦闘区域での体

験であろうと︑それぞれの体験は︑体験者にとって極めて大きな出来

事であることは改めていうまでもなく︑そのなかでも︑戦闘地域のな

かでは︑生命の危険を感じるという極限状態があり︑これこそが戦場

特有の状況であったといいたいのである︒とすると︑民間人が遭遇し

た戦場

は︑地上戦のあった場所にとどまらず︑戦時引揚の実施におい

14

て見られるように︑交戦国の軍の攻撃を受ける可能性がある海域や地

域をも含むこととなる︒つまり︑南洋群島在住者で︑戦場を体験した

人々は︑南洋群島での地上戦を経験した人々にとどまらず︑戦時引揚

に応じざるをえなかった人々をも包含することになるのである︒

また︑筆者は︑戦時引揚という出来事は主に五つの要素に区分でき

ると考えている︒第一に戦時引揚に応じた人々と残留した人々の心情︑

第二に南洋群島から日本本土に向けた出港・航海時における戦時引揚

の実態︑第三に日本本土やフィリピン︑台湾で敗戦を迎えた際の様相︑

第四に戦前に沖縄に引き揚げた後に沖縄戦に巻き込まれた実態︑第五 に敗戦後に日本本土やフィリピン︑台湾から沖縄に引き揚げたことが あげられる︒以上の五つの要素は︑戦時引揚という出来事を構成する ものである︒そのため︑戦時引揚の特質を総体的に捉え直すためには︑ 各要素の実態分析の積み重ねによって︑初めて総体的な議論が可能と なり︑戦時引揚の特質について再検討ができるだろう︒

かつて筆者は︑性別役割分業体制という観点から︑戦時引揚に応じ

るまでの経緯における戦時引揚者と残留者︑その家族の心情に着目し

て論述し︑また︑日本本土やフィリピン︑台湾に上陸した後における

戦時引揚者の生活形態について明らかにした

︒第四・第五の実態分析

15

は今後の自らの課題にすることにして︑本稿の課題は︑南洋群島在住

の女性や子供の戦場体験という観点から︑船舶の出港・航海時や戦時

引揚船が撃沈された際の戦時引揚者などの心情に着目しつつ︑戦時引

揚の特質の一端を捉え直すことである︒その際に︑戦争体験や移民体

験は︑沖縄県内の自治体史に掲載され︑分析に堪えられるだけのデー

タが蓄積されており︑あらゆる人々が検証可能な状態にある︑沖縄県

内の自治体史掲載の女性や子供の証言を精査する

16

第一節   戦時引揚の実態について

戦時引揚は︑太平洋地域が米軍と日本軍との主戦場であり︑米軍が

制海権を掌握しつつある状況下で実施された︒そのため︑後述のよう

に︑戦時引揚船が米軍の攻撃を受けて撃沈されることもあった︒また︑

戦時引揚者のなかには︑生命の危険を感じながら日本本土やフィリピ

三 南洋群島からの戦時引揚の実態について

(4)

【表1】戦時引揚船の状況

船舶名 到着人員 居住地別人員 到着日 到着港 備考 乗船 合計 疎開地 人員 男性 女性 大小計大小計 1 秋葉山丸 70 70 サイパン 39 22 4 2 6 7 6 1 3 1943(昭和18)年12月21日 横浜 ポナペ 31 16 3 1 9 8 4 1 2 2 筥崎丸 574 574 トラック 370 80 90 170 118 82 200

1944(昭和19)年1月21日 横浜 ク サ イ 1 0 9 5 3 64 14 32 56 8 ヤルート 81 64 6 7 0 8 3 1 1 ポナペ 14 6 4 10 3 1 4 3 海光丸 111 111 サイパン 111 35 17 52 36 23 59 1944(昭和19)年1月26日 横浜

4 良洋丸 日蘭丸 日昌丸 但馬丸 428

1482 ポナペ トラック クサイ島 873 73 280 353 277 243 520

1944(昭和19)年2月6日 横浜 594 トラック 460 86 120 206 123 131 254 452 クサイ 149 34 42 76 31 42 73 8

5 松江丸 571 587 ポナペ 503 44 161 205 164 134 298 1944(昭和19)年2月19日 横浜 サイパン 68 21 11 32 23 13 36 第三吉田丸 16 不詳 16 6 28628 1944(昭和19)年2月19日 横須賀 6 浅香丸 569 569 トラック 528 51 153 204 191 133 324 1944(昭和19)年2月25日 横浜 サイパン 41 14 9 2 3 9 9 1 8 7 日美丸 473 473 トラック 366 48 99 147 119 100 219 1944(昭和19)年2月28日 横浜 ヤルート 107 2 2 6 2 8 3 9 4 0 7 9 8 さんとす丸 317 490 サイパン 317 60 113 173 170 147 317 1944(昭和19)年3月11日 横浜 東山丸 173 サイパン 173 1944(昭和19)年3月11日 芝浦 9 淡路丸 141 141 ヤルート 139 85 5 9 0 4 4 5 4 9 1944(昭和19)年3月21日 横浜 ポナペ 2 2 2 10 射水丸 279 279 テニアン 279 23 82 105 96 78 174 1944(昭和19)年3月24日 横浜 11 第11稲菊丸 219 サイパン テニアン 8 0 7 1 52 23 52 35 8

1944(昭和19)年3月25日 横浜 第1成田丸 テニアン 139 7 3 8 4 5 4 9 4 5 9 4 第3源栄丸 和浦丸 786 786 トラック 274 62 40 102 134 38 172 ポナペ 373 41 96 137 132 104 236 テニアン 139 10 40 50 48 41 89 12 寿山丸 471 507 トラック 471 66 120 186 154 131 285 1944(昭和19)年3月26日 横浜

◯◯丸 36 ポ ナ ペ 7112325 1944(昭和19)年3月25日 横須賀 パラオ 29 5 8 13 11 5 1 6 13 黄浦丸 572 572 パラオ 213 42 48 90 72 51 123

1944(昭和19)年3月26日 神戸 トラック 182 38 41 79 60 43 103 ポナペ 146 16 38 54 50 42 92 ヤルート 31 2 8 10 12 9 2 1 四

(5)

14 大天丸 184

946 サイパン 316 43 79 122 120 76 196

1944(昭和19)年4月1日 横浜 筑後丸 133 辰春丸 1 日美丸 198 テニアン 439 30 129 159 154 126 280 但馬丸 241 玉鉾丸 189 グアム 189 6 6 6 7 2 6 9 4 8 117 15 南嶺丸 602 602 パラオ 602 44 169 213 204 185 389 1944(昭和19)年4月4日 神戸 16 大阪丸 412 412 パラオ 412 58 102 160 169 83 252 1944(昭和19)年4月5日 神戸 17 慶洋丸 162 162 サイパン 162 14 41 55 66 41 107 1944(昭和19)年4月5日 横浜 18 豊川丸 309 373 トラック 369 260 8 268 90 11 101 1944(昭和19)年4月9日 横浜 対馬丸 64 ヤルート 4 1 1 3 3 19 明隆丸 156 193 サイパン 145 31 41 72 53 20 73 1944(昭和19)年4月11日 横浜 龍田川丸 37 ロタ 48 7 1 1 1 8 1 6 1 4 3 0 横 浜 20 さんとす丸 126 209 トラック 87 74 3 7 7 9 1 1 0

1944(昭和19)年4月12日 横浜 サイパン 115 19 25 44 44 27 71 浅香丸 83 ロ タ 31121 1 テニアン 4 1 12112 21 真洋丸 151 151 パラオ 151 24 36 60 47 44 91 1944(昭和19)年4月17日 神戸 22 まかつさる丸 230 230 サイパン 117 28 31 59 35 23 58 1944(昭和19)年4月23日 横浜 テニアン 113 18 29 47 39 27 66 23 布哇丸 475 475 パラオ 475 26 130 156 156 153 309 1944(昭和19)年4月23日 神戸 神戸上陸445名 門司上陸20名 宇品・高雄上陸者有(人数不明)

24 山陽丸 177 177 テニアン 103 19 26 45 29 29 58 1944(昭和19)年4月27日 横浜 サイパン 44 9 8 17 19 8 2 7 ロタ 30 6 6 15 9 2 4

25 東山丸 216

546 パラオ 216 14 64 78 82 56 138

1944(昭和19)年5月5日 横浜 淡路丸 150 ロタ 150 9 4 4 5 3 5 4 4 3 9 7 安房丸 87 サイパン 87 19 17 36 29 22 51 神洋丸 62 トラック 93 92 92 1 9 3 昭瑞丸 31 26 ハンブルグ丸 624 624 ヤップ 624 64 197 261 186 177 363 1944(昭和19)年5月14日 横浜 27 第23振興丸 59 69 パラオ 59 10 22 32 18 9 2 7 1944(昭和19)年5月15日 築地 第3恭海丸 10 サイパン 10 1 12628 1944(昭和19)年5月15日 築地

28 明隆丸 181

700 サイパン 351 55 105 160 110 81 191 1944(昭和19)年5月25日 横浜 備後丸 170 1944(昭和19)年5月25日 横浜 祥山丸 343 テニアン 343 41 106 147 114 82 196 1944(昭和19)年5月25日 横浜 南光丸 6 パラオ 6 6 6 1944(昭和19)年5月24日 横浜 29 筥崎丸 396 837 パラオ 386 44 89 133 150 103 253

1944(昭和19)年5月30日 横浜 ヤップ 55 21 11 32 18 5 2 3 浅香丸 441 サイパン 331 53 88 141 106 84 190 ロ タ 6 5 3 1 72 02 22 34 5 30 八洲号 15 15 パ ラ オ 1 4 235459 1944(昭和19)年6月1日 磯子飛行場 飛行機(到着後横浜へ) サイパン 1 1 1

五 南洋群島からの戦時引揚の実態について

(6)

31 高砂丸 513 513 パラオ 513 53 112 165 221 127 348 1944(昭和19)年6月2日 呉

32 仁山丸 466

706 パラオ 466 39 124 163 173 130 303

1944(昭和19)年6月8日 横浜 営口丸 89 サイパン 50 18 5 2 3 1 9 8 2 7 第8運洋丸 108 ロタ 91 6 3 1 3 7 3 0 2 4 5 4 海光丸 37 テニアン 98 25 23 48 32 18 50 旭号 6 トラック 1 1 1 1944(昭和19)年6月4日 磯子飛行場 飛行機 33 吉野丸 120 120 パラオ 120 25 22 47 35 18 73 1944(昭和19)年6月16日 門司 34 日秀丸 179 179 パラオ 179 41 26 67 59 33 112 1944(昭和19)年6月26日 神戸 次外1 振興丸 5 30 パラオ 5 2 5 12 61 3 4 1944(昭和19)年5月8日 芝浦 和歌山県勝浦寄港 第11源栄丸 25 パラオ 25 1944(昭和19)年5月8日 芝浦 宮崎県油津に寄港 次外2 天応丸 6 6 名 サイパン 6 22314 1944(昭和19)年6月9日 呉 次外3 朝日山丸 12 12名 パラオ 12 3 36336 1944(昭和19)年3月24日 [門司ヵ] 到着港不詳 35 能登丸 4 4 名 サイパン 4 2 2112 1944(昭和19)年7月4日 横浜 次外4 ◯◯号 1 1 名 サイパン 1 1 1 1944(昭和19)年4月15日 磯子飛行場 飛行機 次外5 錦号 1 1 名 サイパン 1 1 1 1944(昭和19)年6月1日 磯子飛行場 飛行機 次外6 第6南興丸 1 1 名 パラオ 1 1 1 1944(昭和19)年6月19日 三崎 次外7 ◯◯丸 3 3 名 パラオ 3 3 3 1944(昭和19)年5月18日 横須賀

36 第3運栄丸 111 207名 パラオ 111 27 21 49 39 23 62 1944(昭和19)年8月2日 横浜 横須賀にて◯◯丸に乗換 96 ヤップ 96 10 25 35 37 24 61 37 筥崎丸 351 403名 パラオ 351 1 7 1 7 2 184 95 279 1944(昭和19)年8月12日 神戸 37 ヤップ 37 7 7 17 13 30 15 トラック 15 15 15 38 清河丸 13 13名 トラック 13 13 1944(昭和19)年8月29日 大阪 次外8 ◯◯丸 2 2 名 トラック 2 2 1944(昭和19)年8月1日 横須賀 次外9 御蔵丸 1 1 名 トラック 1 1 1944(昭和19)年5月6日 横須賀 次外10 護国丸 1 1 名 トラック 1 1 1944(昭和19)年8月4日 門司 次外11 第21南興丸 4 4 名 パラオ 4 1 1123 1944(昭和19)年6月4日 千葉県勝浦

次外12 いろ丸 3 6名 パ ラ オ 31 1123 1944(昭和19)年8月13日 築地 3 ヤ ッ プ 31121 1 次外13 第6南興丸 1 1 名 パラオ 1 1 1 1944(昭和19)年6月19日 三崎 次外14 護国丸 1 1 名 パラオ 1 1 1 1944(昭和19)年8月4日 門司 次外15 秋津丸 1 1 名 サイパン 1 1 1 1944(昭和19)年6月6日 磯子飛行場 次外16 淡路号 1 1 名 サイパン 1 1 1 1944(昭和19)年5月1日 磯子飛行場 次外17 夕風号 1 1 名 パラオ 1 1 1 1944(昭和19)年8月20日 磯子飛行場 朝日山丸 1 1 名 パラオ 1 1 1 1944(昭和19)年3月24日 門司 次外18 第2南興丸 4 4 名 パラオ 4 3 3 1 1 1944(昭和19)年6月4日 和歌山県勝浦 秋津号 5 5 名 パラオ 5 5 5 1944(昭和19)年8月23日 磯子飛行場 紀伊号 2 2 名 パラオ 2 2 2 1944(昭和19)年8月27日 磯子飛行場 第3吉田丸 2 2 名 サイパン 2 1 1 1 1 1944(昭和19)年3月19日 横須賀 淡路号 1 1 名 サイパン 1 1 1 1944(昭和19)年5月1日 磯子飛行場 天応丸 1 1 名 トラック 1 1 1 1944(昭和19)年5月5日 横須賀

次外19 高砂丸 2 2 名 パラオ 2 1 1 1 1 1944(昭和19)年6月3日 呉 秋津号 1 1 名 パラオ 1 1 1 1944(昭和19)年6月4日 磯子飛行場 六

(7)

◯◯号 1 1 名 パラオ 1 1 1 1944(昭和19)年4月20日 磯子飛行場 第3金栄丸 1 1 名 トラック 1 1 1 1944(昭和19)年8月2日 横浜 浅間丸 1 1 名 パラオ 1 1 1 1944(昭和19)年8月6日 長崎 大天丸 1 1 名 テニアン 1 1 1 1944(昭和19)年2月29日 横浜 錦号 1 1 名 サイパン 1 1 1 1944(昭和19)年4月30日 磯子飛行場 次外20 旭号 1 1 名 サイパン 1 1 1 1944(昭和19)年6月4日 磯子飛行場 第8運洋丸 2 2 名 トラック 2 2 2 1944(昭和19)年6月8日 横浜 天応丸 2 2 名 トラック 2 1 1 1 1 1944(昭和19)年9月16日 呉 39 香具丸 297 297名 パラオ 297 51 89 140 108 49 157 1944(昭和19)年9月30日 門司 40 讃岐丸 3 3 名 パラオ 3 3 3 1944(昭和19)年11月3日 大阪 ◯◯号 1 1 名 サイパン 1 1 1 1944(昭和19)年4月23日 磯子飛行場 ◯◯丸 1 1 名 トラック 1 1 1 1944(昭和19)年8月2日 横須賀 秋津号 1 1 名 パラオ 1 1 1 1944(昭和19)年8月19日 磯子飛行場 次外21 天応丸 1 1 名 トラック 1 1 1 1944(昭和19)年9月13日 佐世保 高砂丸 1 1 名 パラオ 1 1 1 1944(昭和19)年10月8日 呉

◯◯丸 1 2名 パラオ 1 2 2 1944(昭和19)年10月11日 佐世保 1 ヤップ 1 第3岩手丸 5 5 名 パラオ 5 22123 1944(昭和19)年10月28日 横浜 ◯◯号 1 1 名 パラオ 1 1 1 1944(昭和19)年2月17日 磯子飛行場 黄浦丸 2 2 名 トラック 2 1 1 2 1944(昭和19)年3月26日 神戸 ◯◯号 1 1 名 パラオ 1 1 1 1944(昭和19)年4月19日 磯子飛行場 天応丸 1 1 名 トラック 1 1 1 1944(昭和19)年5月6日 横須賀 次外22 夕風号 1 1 名 パラオ 1 1 1 1944(昭和19)年6月8日 磯子飛行場 天応丸 1 1 名 トラック 1 1 1 1944(昭和19)年9月13日 佐世保 ◯◯丸 1 1 名 ポナペ 1 1 1 1944(昭和19)年11月2日 横須賀 讃岐丸 1 1 名 パラオ 1 1 1 1944(昭和19)年11月4日 大阪 ◯◯丸 1 1 名 トラック 1 1 1 1944(昭和19)年11月5日 横須賀 鞍馬号 1 1 名 パラオ 1 1 1 1944(昭和19)年12月2日 羽田飛行場

41 聖川丸 4 235名 ヤ ッ プ 41 1123 1944(昭和19)年12月18日 神戸 231 パラオ 231 15 64 79 93 74 167 16386名 2,673 4,093 6,730 5,605 4,041 9,646 ※本表は「南洋群島在住民疎開者接収事務報告書その他[複写資料]」(沖縄県立図書館所蔵)を基に作成した。

七 南洋群島からの戦時引揚の実態について

(8)

ン・台湾に上陸した︒フィリピンや台湾への戦時引揚船に関する統計

資料は管見の限り見当たらないが︑南洋群島から日本本土への戦時引

揚船は ︻表 1 ︼で示した通りである ︒最初の戦時引揚船は ︑ポナペ ・

サイパンを出港して一九四三︵昭和一八︶年一二月二一日に横浜に到

着した秋葉山丸である︒最後の戦時引揚船は︑ヤップ・パラオを出港

して一九四四︵昭和一九︶年一二月一八日に神戸に到着した聖川丸で

ある︒この間︑延べ船舶一〇三隻と航空機二〇機で戦時引揚が実施さ

れた︒飛行機による戦時引揚者は四四人であり︑おそらく公的機関の

関係者であったのだろう ︒他方 ︑一六 ︑ 三四二人は船舶による戦時引

揚者であった ︒また ︑︻ 表 2 ︼のように ︑引揚船のなかには米軍によ

って撃沈された船舶もあった︒以下では︑戦時引揚船における緊張状

態に着目しながら︑戦時引揚の実態をみてみよう︒

ヤップやクサイ︑テニアン在住の戦時引揚者は︑サイパン経由で日

本本土に引き揚げた ︒ヤップ在住の山内キヨによれば ︑﹁船はヤップ

を出て︑サイパンに向かい︑サイパンの港に一週間ぐらいいて︑そこ

から横浜に向かった

﹂という ︒また ︑クサイ島在住で当時一二 ︑ 三 歳

17

であった池原松助は ︑﹁船は小学校の近くの港を出て ︑ポナペやテニ

アンにも寄って︑最終的にはサイパンから出発しました

﹂と証言して

18

いる ︒テニアン在住の徳村光子は ︑﹁昭和十九年テニアン島にもとう

とう疎開の勧告が出され︑私達はサイパン島に渡って︑そこから出発

することになりました

﹂と証言する︒さらに﹁テニアンからサイパン

19

までは山原船みたいな船で渡った︒船の地下に入って外は見えない変

な船だった

﹂との証言や ︑﹁昭和十九年三月にテニアンからポンポン

20

ちをした 舟に乗ってサイパンに渡り︑一週間ぐらい海のようすを見ながら船待

﹂との証言︑ ﹁テニアンを出てサイパンに何十日か滞在して︑

21

サイパンの人も合流して引き揚げました

﹂との証言がある︒以上の証

22

言から︑ヤップやクサイ︑テニアンからの引揚者は一旦サイパンに上

陸したことが判る︒

太平洋地域が主戦場であったことから︑戦時引揚船の出港日時は海

の情勢判断に基づくものであった︒先の証言のように︑引揚船が出港

するまでサイパンで長らく待たされた人々もいた︒金城ハルヨは﹁船

はサイパンで長いこと出港延期になっていた

﹂と証言する︒また︑上

23

江洲トヨは﹁サイパンから船が出るまで収容所に長らく待機させられ

ました︒あの時代は船はすぐに出なくて︑母艦の回りを囲んでしか出

なかったもんだから

﹂という︒さらに︑照屋秀はテニアンからサイパ

24

ンに移動したが ︑﹁やっと木造船で疎開が決 り船に乗ったのは一週間

後位だったか

﹂と述べる︒他方︑戦時引揚の指示に応じたその日に引

25

揚船が出港した事例もある︒仲本キクエは﹁サイパンは危ないから早

く引き揚げなさいといわれていたから ︑私は昭和十九年 ︵一九四四︶

五月二十四日に︑サイパン支庁に引き揚げの申し込みに行って︑その

日の晩には船に乗り込んでいました︒京子と貞男の二人の子どもを連

れて︑着の身着のままで帰ってきました

﹂と述べる︒なお︑この証言

26

は戦時引揚が申込によるものであったとの内容であり︑また一九四四

︵昭和一九︶年三月一日付で北部支庁テニアン出張所長が発した ﹁人

口疎開ニ関スル件﹂においても申込方法が記されている︒確かに戦時

引揚が申込によるものであったことは否定できない︒しかし︑仲本キ 八

(9)

【表 2】米軍に撃沈された南洋群島からの引揚船

船舶名 出港地 出港日 撃沈場所 撃沈日 死者数 生存者数 撃沈の要因 出典

波上丸 サイパン ラバウル近海 1943(昭和18)年10月7日 不明 『沖縄の援護のあゆみ』

日鉱丸 トラック島 東笠原島沖 1943(昭和18)年11月1日 3名 アメリカ潜水艦の魚雷攻撃 「南洋群島海没者名簿」

近江丸 クサイ ポナペ島南東海上 1943(昭和18)年12月27日 124名 『沖縄の援護のあゆみ』

総洋丸 ポナペ島 東カロリン群島方面海上 1943(昭和18)年12月7日 7名 アメリカ潜水艦の魚雷攻撃 「南洋群島海没者名簿」

赤城丸 トラック島 1944(昭和19)年2月17日 トラック島沖合 1944(昭和19)年2月17日 511名 53名 アメリカ飛行機の爆 撃 「南洋群島海没者名簿」

夕映丸 トラック島 トラック島沖合 1944(昭和19)年2月17日 2名 『沖縄の援護のあゆみ』

アメリカ丸 サイパン 1944(昭和19)年3月4日 マリアナ群島ウラカス島沖合 1944(昭和19)年3月6日 494名 3名 『沖縄の援 護のあゆみ』

三池丸 パラオ パラオ島北方の海上 1944(昭和19)年4月26日 7名 アメリカ潜水艦の魚雷攻撃 「南洋群島海没者名簿」

青森丸 サイパン サイパン・本土間の海上 1944(昭和19)年4月 4名 アメリカ潜水艦の魚雷攻撃 「南洋群島海没者名簿」

美山丸 パラオ パラオ島北方の海上 1944(昭和19)年5月14日 27名 アメリカ潜水艦の魚雷攻撃 「南洋群島海没者名簿」

ジョクジャ丸 パラオ 西カロリン群島方面海上 1944(昭和19)年5月15日 7名 アメリカ潜水艦の魚雷攻撃 「南洋群島海没者名簿」

千代丸 サイパン 1944(昭和19)年5月31日 内地近海洋上 1944(昭和19)年6月2日 97名 46名 アメリカ潜水艦の魚雷攻撃 「 南洋群島海没者名簿」

白山丸 サイパン 1944(昭和19)年5月31日 内地近海洋上 1944(昭和19)年6月2日 278名 99名 アメリカ潜水艦の魚雷攻撃 「南洋群島海没者名簿」

籠田川丸 トラック 東カロリン群島方面海上 1944(昭和19)年6月12日 2名 アメリカ潜水艦の魚雷攻撃 「南洋群島海没者名簿」

泰南丸 ポナペ島 九州沖 1944(昭和19)年6月24日 1名 アメリカ潜水艦の魚雷攻撃 「南洋群島海没者名簿」

神島丸 ロタ 西カロリン方面海上 1944(昭和19)年6月11日 54名 アメリカ飛行機の爆撃 「南洋群島海没者名簿」

バタビア丸 サイパン 西カロリン群島方面海上 1944(昭和19)年6月12日 18名 アメリカ飛行機の爆撃 「南洋群島海没者名簿」

門司丸 サイパン 西カロリン群島、サイパン島北方海上 1944(昭和19)年6月15日 5名 アメリカ機動部隊と交戦 「南洋群島海没者名簿」

大栄丸 ヤップ島 パラオ・ヤップ間洋上 1944(昭和19)年7月3日 43名 アメリカ潜水艦の砲撃 「南洋群島海没者名簿」

ブラジル丸 サイパン 西カロリン群島方面海上 1944(昭和19)年7月5日 1名 アメリカ飛行機の爆撃 「南洋群島海没者名簿」

朝日丸 パラオ パラオ諸島 1944(昭和19)年8月12日 不明 『沖縄の援護のあゆみ』

広順丸 パラオ 西カロリン群島方面海上 1944(昭和19)年8月12日 15名 12名 アメリカ潜水艦の魚雷攻撃 「南洋群島海没者名簿」

広善丸 テニアン 小笠原沖 1944(昭和19)年12月 不明 『沖縄の援護のあゆみ』

※財団法人南洋群島協会「南洋群島海没者名簿」(沖縄県立図書館所蔵複製版)と沖縄県生活福祉部援護課『沖縄の援護のあゆみ ―沖縄戦 終結50周年記念』(1996年、153頁〜154頁)に基づい て作成した。

九 南洋群島からの戦時引揚の実態について

(10)

クエが﹁早く引き揚げなさいといわれていた﹂と証言するように︑女

性や子供が南洋群島からの引揚を申し込まざるをえない社会的状況が

醸成されていたのである

︒それはさておき︑戦時引揚船が出港する日

27

時は戦時引揚者に知らされていなかったことが判る︒また︑志慶真元

仁は︑ 先述のようにサイパン上陸後にしばらく待機させられたが︑ ﹁出

航するのは秘密ですので︑サイパンですぐ明日出ますよということで

出た

﹂と述べる︒また﹁帰ってくるとき︑どんな船かも聞かされてい

28

ませんでした︒それは秘密で全然教えられていませんでした︒スパイ

関係でです

﹂との証言もある︒スパイが現実に存在していたかどうか

29

は別として ︑﹁ スパイ﹂を想起することによって相互監視が強化され

ていたことから ︑﹁スパイ﹂の関係で出港日時が秘密にされたという

ことは否定できないが︑太平洋地域が日本軍と米軍の戦闘区域であっ

たことから︑戦時引揚船の出港は海上の状況判断に基づいたとも考え

られる︒したがって︑平時であれば︑天候や船舶の運航状況によって

定期船の出港が遅延することもあるが︑戦時においては︑それ以外の

こととして戦局の進展が出港日時と関係しており︑戦時引揚の実施が

日本軍にとっての戦局の悪化と対応していたといえる︒ゆえに︑戦時

引揚船の出港日時などは確定できなかったことから︑出港日時が知ら

されなかったのであろう︒

戦時引揚船は︑当初護衛艦とともに船団を組んで出港した︒志慶真

元仁は﹁船には沖縄の人がいっぱいしていました︒たぶん二四隻の船

団で︑両方を駆逐艦と護衛艦が守るようにして引き揚げた

﹂と証言し

30

ている ︒また ︑テニアン在住の上江洲松子は ﹁引き揚げるときには ︑ 船はサイパンから出るんです︒私たちが引き揚げたときには十二隻の 船でした︒そばから潜水艦が護衛について︑上からは飛行機で護衛が ついていました

﹂と述べている︒さらに︑幸地ヤスは﹁そのころは海

31

は危険だったので︑私たちは団体で客船四隻に乗って︑九隻の駆逐艦

が護衛しながら三列に並んで船団を組んで引き揚げた︒私たちは三列

の真ん中だった

﹂と証言している︒パラオから日本本土に引き揚げた

32

喜友名 ︵花城︶トヨは ︑﹁パラオから一二隻の船団を組み ︑軍艦が護

衛しての航海でした

﹂と証言する︒このように︑護衛艦や潜水艦︑引

33

揚船といった船団で戦時引揚が実施された︒また︑戦時引揚にあたっ

て船団が組まれたのは海上において米軍の攻撃を受けることが予想さ

れたからであろうが︑平時とは異なる船団の様相を目の当たりにした

戦時引揚者の緊張感も垣間見られる︒後述のように︑船団が組まれて

戦時引揚が実施されても︑米軍の攻撃を受けた船舶もあり︑海域が戦

場であったことから︑安全な場所はどこにもなかったのである︒

その後︑日本軍にとっての戦局の悪化によって船舶が欠乏していく

なかで︑戦時引揚に充てられる船舶の確保が難しくなると︑漁船や木

造船が引揚船にあてられるようになった︒テニアン在住の照屋秀がサ

イパンで乗った﹁木造の疎開船は神戸までは日数はかかったが無事着

いた

﹂との証言がある︒また︑徳村光子は﹁潜水艦から逃れる最も安

34

全な策として︑ 佂 石漁港所属の徴用の小さなマグロ船︵たしか七十八

㌧くらいの汽帆船だったと思います︶に乗船がきまりました︒非戦闘

員二十八名くらいだったと思います ︒その中に五歳以下の幼児が五 ︑

六名いました︒私は小学校五年の親類の娘と長男三歳︑次男生後七ヵ 一〇

(11)

月の幼児連れの四名でした︒両手に持てるだけの最小限度の手荷物し

か許されず︑一週間分のミルク︵次男のために︶とおしめ︑子どもの

着替え少々︑水一升ビン三本とで娘と私の両手はいっぱいになりまし

た︒抵抗力の弱い子どもを連れ︑常夏の島から真冬に向かっての荒海

の航海はたとえようのない不安でいっぱいでした︒すべてを神様にお

まかせしてありったけの勇気を出して乗船致しました

﹂と証言してい

35

る︒この証言から︑マグロ漁船が引揚船にあてられ︑最低限度の手荷

物で引き揚げたことが判る︒また﹁たとえようのない不安﹂や﹁あり

ったけの勇気﹂ との文言からも︑ 戦時引揚に対する緊張感も看取できる︒

このように︑戦時引揚は︑当初船団での引揚であったが︑日本軍に

とっての戦局の悪化に伴う船舶の欠乏によって︑漁船や木造船が戦時

引揚船にあてられた︒そして︑戦時引揚に充てられた船団・船舶の様

相は︑平時の定期船便の様子と異なっていたがゆえに︑戦時引揚者の

なかにも緊張状態が醸成されたのである︒

南洋群島を出港した後の戦時引揚船内の様相について検討しよう ︒

ヤップ島在住の山内キヨは︑サイパンを経由して日本本土に向かう航

行の様子について﹁航行中は長男と二男には救命胴衣を着せ︑下の子

はずっと抱いていた︒船の周りには数隻の護衛船がついていた︒また

空からも飛行機がずっと見張りをしていた︒洋上で突然︑乗客は甲板

に上げられ︑連合艦隊の山本五十六大将が亡くなったので︑黙とうを

捧げるよう言われた︒その時の光景は今でも忘れられない︒私たちの

船は︑敵の潜水艦にあい引き返したりしたので︑普通なら二晩か三晩

で行けるところを︑ 2 週間ぐらいかかって横浜に着いた

﹂と証言して

36

本土に引き揚げた喜友名 ︵花城︶トヨは ﹁途中 ︑﹁敵の潜水艦が向か で︑戦時引揚が実施されたことを示している︒また︑パラオから日本 を感じていたのである︒これこそがまさに戦場という極限状態のなか いる︒この証言からも判るように︑航行中に戦時引揚者は生命の危険

っているので︑甲板に集合するように﹂という指示が出たときは︑弘

子を背負い︑片方の手で道子の手を引き︑もう片方の手に荷物を抱え

て︑船底から甲板に駆け上がりましたが︑怖くて涙が止まりませんで

した

﹂と証言している︒この証言から︑平時であれば乗っている船舶

37

が攻撃を受けるということはほとんどないけれども︑戦時であるがゆ

えに︑米軍の攻撃を受けるかもしれないという恐怖を感じながら乗船

していたことが判る︒

このように︑海域も戦場となり︑米軍が制海権を確保しつつある状

況下で︑戦時引揚船舶は米軍の攻撃を避けながら航行し︑戦時引揚者

が米軍の攻撃に対する恐怖心を抱いて生命の危険を感じるという緊張

状態が看取できる︒つまり︑戦時引揚の形態は︑戦場となった海域の

なかで︑生命の危険を感じつつ移動するということであった︒

第二節   米軍による引揚船の撃沈

前節で明らかにしたように︑戦時引揚者は︑生命の危険を感じなが

ら日本本土などに移動した ︒戦時引揚船のなかには ︑︻ 表 2 ︼で示し

たように︑米軍に撃沈された船舶もあった︒現在確認できる範囲内で︑

米軍に撃沈された戦時引揚船は二三隻であった︒これは︑南洋群島を

一一 南洋群島からの戦時引揚の実態について

(12)

出港した一二六隻のうち ︑約一八 ・ 二 五 % に相当する ︒海歿者数は現

在確認できる範囲内で ︑一 ︑ 七〇〇人である ︒したがって ︑戦時引揚

は生命の保証がないままで実施された︒以下では︑妻子が乗っていた

戦時引揚船赤城丸が撃沈される様相を目の当たりにした男性の証言と︑

米軍の攻撃を受けた美山丸とジョグジャ丸に乗っていた女性の証言に

基づいて︑戦時引揚船が撃沈された際の様相について明確にする︒

一九四四︵昭和一九︶年二月一七日に米軍はトラック諸島を空爆し

た︒この時に戦時引揚船の赤城丸と夕映丸はトラック諸島から出港す

る際に米軍に撃沈された ︒︻ 表 2 ︼で示したように ︑赤城丸での死亡

者は五一一名で︑生存者は五三名であった︒妻子が乗った赤城丸撃沈

の様子について︑城間松助は﹁妻と子供たちを疎開させるために︑船

に乗せました︒乗船したその日は出発せずに︑遠く沖の方に停泊して

いました︒翌日の一九四四年︵昭和十九︶二月十七日にトラック諸島

への大空襲があり︑その空襲で︑妻や子供たちの乗った船も攻撃され︑

妻と子供たちは死にました︒乗船したその日に出ていたら︑そんなこ

とにはならなかったのにと思いました

﹂と述べる︒この証言から︑妻

38

子が乗船したその日になぜ出港しなかったのか︑そして︑生と死との

境界線が何によって決定づけられるのか︑といった命題が心の中に深

く刻み込まれたことが判る︒また内原勇助は次のように証言する

39

一九四四年︵昭和十九︶二月十六日の夕刻︑私は家内と三人の

子供を赤城丸に乗船させた︒男は島に残され︑女性と子供と老人

だけが強制的に引き揚げさせられたのである︒

翌十七日午前七時頃︑突然空襲警報が発令された︒私は胸騒ぎ がして島の先まで駆けつけてみると︑赤城丸はアンカーを揚げて 出ていくところであった︒指令艦が先頭になり︑赤城丸を真中に して巡洋艦や駆逐艦が護衛していた︒安心して帰宅すると同時に︑ 米軍の偵察機が一機飛び去って行くのを見た︒

しばらくすると︑物凄い数の飛行機が襲来して︑船団をめがけ

て爆弾を落とし始めた︒最初はうまく攻撃をかわしながら艦砲や

機関銃で応戦していたが︑米軍機がどんどん飛んで来て攻撃を加

えるので︑赤城丸も軍艦もただ右往左往するばかりであった︒私

は︑赤城丸から一キロと離れていない丘の大きなパンの木の下で︑

泣きながらその光景を見ていた︒

赤城丸は一日中米軍機動部隊の攻撃を受け︑トラック島の東北

側の水道を出て間もなく撃沈された︒護衛艦が住民を救助しよう

としたが︑その護衛艦ももやられてしまったという︒約五〇人ぐ

らいの人々が救命ボートでタマン桟橋にたどりついたが︑そのう

ちの二〇人ぐらいは病院で亡くなってしまった︒結局生き残った

のは約三〇人ぐらいであった︒阿波連出身の犠牲者は三〇人を越

えたが︑そのほとんどが女性と子供たちであった︒

私も臨月の妻と三人の子供らを一度に失った︒私が買った引揚

船の切符は四便であった︒しかし︑ 近くに住んでいた知人が︑ ﹁四

便は船も古いし︑縁起も悪いので五便にしたほうがいい﹂という

ので変更した︒その五便が赤城丸であった︒四便に乗船しておれ

ば助かったかも知れないと悔んだが︑もはやどうしようもなかっ

た︒ 一二

(13)

この証言から︑戦時引揚船の赤城丸は︑妻子が乗った日には出港せ

ず︑その翌日の空爆で米軍に撃沈されたがゆえに︑妻子が戦場の犠牲

になる様相を ︑為す術もなく ︑目の当たりにしたことが判る ︒また ︑

証言が採集された時点においても︑当初第四便の引揚船を予定してい

たが︑これを第五便に変更して乗船したがゆえに妻子が犠牲になって

しまい︑生と死との境界線が何によって決定づけられてしまうのかと

いう難しい命題が心の中に残されたことが判る︒このように︑戦時引

揚は戦場という極限状態のなかで実施された引揚であった︒

パラオからフィリピンに向かう途中で米軍の攻撃を受けた戦時引揚

船があった︒美山丸は一九四四︵昭和一九︶年五月一四日に撃沈され︑

ジョグジャ丸は翌一五日に米軍の攻撃を受けた︒撃沈の場所は︑マリ

アナ近海であったとの説

もあるが︑南洋群島協会編﹃南洋群島海難者

40

名簿﹄や︑津波古貞子

と山里千賀子

41

といった二人の証言からも明らか

42

なように︑パラオ近海であった︒両者の証言をみてみよう︒

海軍運輸部事務所の用務員であった津波古は﹁五月︑疎開命令が下

され︑その旨職場の上司にお話し︑退職願いを申し出たら上司も快く

承諾してくれた﹂のであり ︑﹁その際 ︑船舶事情に詳しい上司は ︑船

舶輸送は危険を伴っているので︑船足の遅い美山丸には乗るななどの

気配りまでしていただき本当に有難かった﹂と証言する︒しかし︑津

波古が実際に乗船したのは美山丸であった︒おそらく引揚船を選ぶこ

とができなかったのであろう︒

美山丸とジョクジャ丸は︑同年五月一三日にパラオを出港した︒津

波古は﹁疎開船の輸送は︑赤十字船や︑貨物船などで行われ︑貨物船 には︑ 護衛船として住民から徴用された漁船が当てられて﹂おり︑ ﹁日

本郵船の美山丸と南洋海運のジョクジャ丸の二隻に︑疎開者数百人を

分乗させ︑護衛船を伴って夕暮れ︑パラオ島を出港し台湾へと向かっ

た﹂と証言する︒山里は﹁昭和十九年五月十二日の午後︑私たち母娘

五人は美山丸 ︵四 ︑ 六六七トン︶に乗り ︑翌十三日にパラオ港を出港

した︒行く先はフィリピンのセブ島であった︒美山丸は海軍の徴用船

で十九年の三月に竣工した新造船であった﹂と述べ ︑﹁戦局悪化のた

め︑沖縄へ向かうにはとても無理であった︒僚船ジョクジャ丸ととも

に三隻の駆潜艇に護衛されて出港した︒敵の潜水艦がうようよする中

を︑魚雷を何度もかわしながらの航行であった﹂と述べる︒このよう

に︑米軍の攻撃を受ける可能性があるなかで︑赤十字船や貨物船︑美

山丸とジョクジャ丸が一つの船団となって出港したのである︒

戦時引揚船内部での緊張状態も垣間見られる ︒津波古は ︑﹁私達家

族が乗船したのは︑足の遅い美山丸で疎開者の乗客は二〇〇人余りと

いわれていた︒出港と同時に救命胴衣が配られ︑殆どの乗客が万一に

備えこれを着用していた﹂ と証言する︒山里は ﹁私たちが乗った場所は︑

後ろの船倉の方で︑蚕棚のように小さく区切られていた︒一区画ごと

に一家族ずつ割り当てられていた︒いつ攻撃を受けるかわからない先

行き不安で︑なかなか寝つかれなかった﹂と記す︒このように︑救命

胴衣を着用している者がほとんどであったとの証言や︑船内で寝つけ

なかったとの証言から︑米軍の攻撃を受けるかもしれないという不安

感のなかで引揚船に乗っていたことが看取できる︒

美山丸は ︑パラオを出港した翌一四日に米軍の魚雷攻撃を受けた ︒

一三 南洋群島からの戦時引揚の実態について

(14)

山里は﹁十四日の朝六時ごろ︑ドカーンという轟音に目が覚めた︒周

囲を見まわすと船倉の中は水浸しで︑婦女子の泣き叫ぶ声︑助けを呼

ぶ声 ︑右往左往する人たちで大混乱﹂し ︑﹁魚雷は船尾の水槽近くに

命中した︒幸い私たち家族は︑いち早くかけつけてくれた駆潜艇に助

けられた︒そして︑僚船のジョクジャ丸に収容された︒ジョクジャ丸

に乗り移って間もなく︑美山丸は沈没した﹂と述べる︒この証言から︑

米軍の攻撃を受けるとの不安感が現実のものとなり︑美山丸の船内で

は混乱が生じたことが判る︒また︑津波古は次のように証言する︒

翌五月十四日明け方︑私達の乗った美山丸は︑パラオ西地方で

米潜水艦の魚雷攻撃をうけ︑船の中央よりやや後方の右舷側に命

中し︑ドカーンと凄まじい音とともに船は揺ぐ︑同時にしぶきが

高く舞い上がる︒殆どの乗客は︑デッキにいたので︑しぶきでず

ぶ濡れになる︒しぶきの流れで転倒したこども達や︑また︑魚雷

の衝撃で柱等が倒壊し怪我人もでた︒

船が撃たれた

︒デッキは

︑右往左往の大騒ぎで大混乱

︒船は

除 々に傾く ︑無我夢中でわれ先にと海へ飛び込む ︒飛び込むこ

とのできない子どもは︑親が持参した命綱で吊し海へ︑海では男

の方が受け人として救助に当たっていた︒その後親が飛び込むな

どさまざまであった︒なかには︑他人の子どもを抱え海に飛び込

み救助されてから︑我が子でないことを知り︑泣き叫ぶ母親もい

た︒また︑私達が海に飛び込む寸前まで︑よちよち歩きの幼児を

みそ桶に入れデッキに置かれていたが︑無事救出されたかはわか

らないが︑大変気がかりであった︒ やがて船は沈没した︒海に飛び込んだ人も救助を求め懸命だっ た︒生存者は︑護衛船により救助された︒ ︵中略︱引用者︶

救助された者は︑みんなジョクジャ丸に移されたが︑着のみ着

のままである︒あまりの恐怖に乗り移っても震え怯えていた︒

この証言から︑米軍の攻撃を受けた美山丸の船内は︑他人の子供と

自分の子供を間違えてしまうほどの混乱となり︑生命の危険を感じて

船内から海に飛び込んで救助を求める人々や︑子供を受け入れるなど︑

海中で救助活動をする人々がいたことが判る︒このように︑米軍の攻

撃を受けた船内は︑まさに戦場という極限状態のなかにあった

43

その後︑救助された人々は︑ジョクジャ丸に乗り移った︒その後に

ついて山里は﹁僚船を失い︑一隻になったジョクジャ丸は遭難者を収

容し︑三隻の駆潜艇に守られてセブ島に向かった﹂という︒また﹁水

葬は十四日の夕方ジョクジャ丸の甲板上で行われた︒私たちも参列し

た︒死亡者は︑真っ白い布に包まれて︑その上に日の丸の旗が掛けら

れ﹂ ︑﹁遺体は︑おもりをつけられて海中に一体ずつ投下されていった︒

何とも言えない悲しい光景であった︒参列者は︑みんな無言のまま深

い悲しみにじっと耐えていた﹂と証言する ︒このように ︑﹁ 何とも言

えない悲しい光景﹂のなかで︑米軍の攻撃による犠牲者が追悼された︒

こうした追悼の様相は︑平時ではほとんど見られない︑戦場となった

後の特有の光景であったといえよう︒

このように︑美山丸から脱出して救助された引揚者はジョクジャ丸

に収容された ︒そのジョクジャ丸は翌一五日に米軍の攻撃を受けた ︒

津波古は次のように語る︒ 一四

(15)

恐怖からまだ覚めぬ翌十五日︑うす暗い未明またまた潜水艦の

魚雷攻撃に遭う︑デッキにいた男性が︑魚雷だと大声で叫ぶ︒ト

イレにいた私は︑その声を聞き窓から海を覗くと︑魚雷が白波を

立て船に向い てくる︒急ぎダンブルに降り家族に知らせデッキに

上る︒魚雷は船辺りに直撃した︒美山丸より衝撃は弱い︑すぐ脱

出する準備をするも︑船は停止したまま動かず︑すぐに沈没の気

配はない︒そのうち護衛船や︑近くを運行中の駆逐艦により全員

救助されたが︑船は運航不能となり︑なかなか沈没しなかったの

で︑日本軍の爆破で沈没させた︒ ︵中略︱引用者︶

二度も敵の魚雷攻撃に遭い危うく命拾いした人々のショックは

大きく︑救助されても恐怖心で怯え口も利けないほどでした︒

このように︑美山丸撃沈の翌日にジョクジャ丸が米軍の攻撃を受け︑

この船団で引き揚げた人々は二度も極限状態を経験したのである︒ま

た︑この証言によると︑全員が救助されたというが︑ジョクジャ丸の

乗船者のうち七名の死亡者

がおり︑救助後に息を引き取った人もいた︒

44

山里の証言をみてみよう︒

翌十五日の午前三時頃︑また魚雷にやられてしまった︒前の美山

丸のことがあるので︑船倉に乗るのは恐ろしかった︒全員甲板で

救命胴衣をつけて眠っていた︒

私たち家族も四女は母におぶされて︑私と二女と三女が母を囲

むように︑体を寄せ合って眠っていた︒

そこへ強烈な暴風がきて︑私たちは闇の中に吹きとばされてし

まった︒家族はバラバラになってしまった︒深夜の暗い甲板の上 を泣き叫ぶ声がとびかい︑二度の惨状に声も出ず足がガクガク震 えて歩けなかった︒

母や妹たちがどうなったのか︑探す気力もなかった︒気がつい

た時には︑駆潜艇に救助されていた︒三百トン位の駆潜艇の中は︑

救助者で身動きができないほど混み合っていた︒人探しなどとて

もできなかった︒ ︵中略︱引用者︶

家族四人は︑セブ島でお互いの無事を知った︒母は爆風にとば

されて ︑腰を強く打ち病院に収容されていた ︒私一人が無傷で ︑

妹の三女と四女は︑額や腕にやけどのような傷があった︒

二女の千栄子は︑いくら探しても見つからなかった︒数日して︑

妹が頭に大怪我をして︑駆潜艇の中で︑一人死んでいったことを

知らされた︒身内の一人も寄り添えず亡くなったかと思うと︑悔

しくて未だに残念でならない︒

妹の最

﹇ 最 期

後をみとったという伊是名さんという方から妹の様子を

聞かされた︒母を呼びながら泣いていたことや︑そばの人達が励

ましてくれたが︑傷が深くて助からなかったことを聞いた︒とて

も辛かった︒

この証言の前半から︑ジョクジャ丸に乗った引揚者のなかには︑再

び米軍の攻撃を受けるのではないかという生命の危険を感じるものも

少なくなかったことが判る︒また︑ジョクジャ丸に対する攻撃に伴っ

て︑二度の攻撃で﹁声も出ず足がガクガク震えて歩けなかった﹂と証

言するように︑恐怖を強く感じるという極限状態のなかにいた︒さら

に︑母と二人の妹には再会することができたが︑二女が死亡してしま

一五 南洋群島からの戦時引揚の実態について

(16)

い︑二女を看取った人から最期の様子を聴いて﹁とても辛かった﹂と

述べる︒このように︑米軍の攻撃を受けたジョクジャ丸に乗っていた

人々は︑二度の攻撃によって生命の危険を感じるという極限状態のな

かでフィリピンに向かった︒戦時引揚は︑まさに戦場となった海域で

実施されたのである︒

津波古貞子は﹁ジョクジャ丸より救助され︑護衛船の木造船に乗り

移った︒船は︑針路を変えフィリピンのセブ島に寄港し︑一時避難で

ある﹂と証言するように︑ジョクジャ丸が撃沈された後に︑護衛の木

造船で救助された︒他方︑山里千賀子は︑先述のように︑駆逐艇に救

助された︒その後︑一時避難のためにフィリピンのセブ島に寄港した︒

このように︑美山丸とジョクジャ丸を含む船団は︑相次いで米軍に

攻撃されながらも︑航行して︑フィリピンのセブ島やルソン島を経由

して到着した台湾で︑敗戦を迎えた︒

むすびにかえて

戦時引揚は︑米軍が制海権を確保しつつある状況において︑生命の

危険を感じるという極限状態のなかで実施された︒最後に本論をまと

めることでむすびにかえたい︒

日本軍にとっての戦局の悪化によって︑近代日本の支配地域が縮小

した︒一九四三︵昭和一八︶年九月三〇日開催の御前会議での﹁絶対

国防圏﹂の設定や︑翌年四月一四日における﹁南洋群島戦時非常措置

要綱ニ関スル件﹂の閣議決定とその施行によって︑南洋群島では︑男 性は防衛戦力として南洋群島に残留させられる一方で︑南洋群島在住 の女性は︑食糧増産や国防資源の開発に従事する者を除いて︑戦時引 揚の命令 ・指示に応じざるをえないものもいたのである ︒こうして ︑

南洋群島から日本本土などに向けた戦時引揚が実施された︒換言すれ

ば︑南洋群島からの人口還流は︑敗戦を迎える以前において既に生じ

ていたのである︒

ただし︑南洋群島からの戦時引揚と戦後引揚との間には︑引揚ルー

トである海域が戦場であるか否かという大きな相違点があった︒すな

わち ︑太平洋は ︑主に日本軍と米軍との戦闘区域であったがゆえに ︑

安全な場所はどこにもなく︑戦時引揚者は︑米軍の攻撃を受けるかも

しれないという恐怖心を抱き︑生命の危険を感じながら︑日本本土な

どに引き揚げた ︒まさに戦場のなかを船舶で移動することとなった ︒

また︑戦時引揚船は海の状況を判断したうえで出港することになった︒

そのため︑出港日時は︑前もって確定できず︑戦時引揚者には知らさ

れなかった︒こうした平時とは異なる状況を目の当たりにした戦時引

揚者の間では︑米軍の攻撃を受けるかもしれないという緊張状態が醸

成されていたのである︒さらに︑戦時引揚船は︑当初護衛艦などとと

もに船団を組んだが︑船舶の欠乏によって漁船や木造船が戦時引揚船

にあてられた︒

他方︑実際に戦時引揚船のなかには︑米軍によって撃沈される船舶

もあり ︑戦時引揚者一 ︑ 七〇〇名が犠牲となった ︒妻子の乗った戦時

引揚船が撃沈される様相を目の当たりにした男性は︑妻子が戦争の犠

牲者となったがゆえに︑生と死との境界線が何によって決定づけられ 一六

(17)

るのかという命題が遺族の心に深く刻まれた︒また︑二度にわたって

米軍の攻撃を受けた戦時引揚船に乗って救助された女性の証言からも

判るように︑戦時引揚者は︑生命の危険が脅かされるほどの極限状態

のなかで︑船舶に乗って日本本土などに上陸したのである︒こうした

戦時引揚は︑敗戦後にアメリカの影響下にあったミクロネシアから日

本本土や沖縄への引揚とは異なるものであったと言えよう︒

今後の自らの課題は︑冒頭で論述したように戦時引揚後に沖縄戦に

巻き込まれたことなどを明らかにすることであり︑また満洲や朝鮮半

島からの戦後引揚の実態との比較検討をすることである︒

︵ 1 ︶

 

参謀本部編

﹃杉山メモ﹄下巻

︑原書房

︑二〇〇五年普及版

四七三頁︒

︵2

 

︶ ﹁南洋群島戦時非常措置要綱ニ関スル件ヲ定ム﹂ ︵国立公文書館 所蔵﹃公文類聚   第  六十八編   昭和十九年   第七十巻   軍事四   国家総動員二﹄ ︶︒ここでは︑一九四四︵昭和一九︶年四月以降に

南洋群島で構築された体制を﹁戦時非常体制﹂と表現している︒

︵3 ︶

 

この数値は︑ ﹁南洋群島在住民疎開者接収事務報告書その他﹇複

写資料﹈ ﹂︵沖縄県立図書館所蔵︶による︒なお︑戦時引揚に関す

る統計的検討については︑川島淳﹁戦時下南洋群島からの戦時引

揚について   ︱ジェンダーの観点から︱﹂ ︵﹃南島文化﹄第三六号︑

二〇一四年︶を参照のこと︒

︵4

 

︶ 南洋群島在住者の戦争体験という枠組みのなかで ︑安仁屋政昭

﹁南洋移民の戦争体験﹂

︵﹃新沖縄文学﹄第八四号

︑一九九〇年︶

で戦時引揚や戦争体験︑収容所生活︑戦後引揚に関する実態が明

確にされた︒新垣安子は︑パラオからフィリピン・台湾への引揚

の実態を明確にした︵那覇市総務部女性室・那覇女性史編集委員

会編﹃なは・女のあしあと   那覇女性史︵近代編︶ ﹄ドメス出版︑

一九九八年︑二四六頁〜二四九頁︶ ︒

︵5 ︶

 

戦時引揚を戦後引揚の前史として捉えて ︑安仁屋は ﹁戦後沖縄

における海外引き揚げ﹂ ︵﹃史料編集室紀要﹄ 第二一号︑ 一九九六年︶

で︑戦時引揚に関する実態分析を行った︒今泉裕美子は﹁南洋群

島引揚げ者の団体形成とその活動︱日本の敗戦直後を中心として

︱﹂ ︵﹃史料編集室紀要﹄第三五号︑ 二〇〇五年︶において︑ 戦時 ・

戦後の引揚者団体の活動に着目すると同時に︑引揚者自身の抱え

る問題を明確にした︒

︵6 ︶

 

安仁屋﹁移民政策﹂ ︵沖縄県文化振興会公文書管理部史料編集室

編﹃沖縄戦研究 Ⅰ ﹄沖縄県教育委員会︑一九九八年︶では︑戦前

沖縄より植民地に移住して戦後引き揚げるまでの過程のなかで ︑

戦時引揚の様相を明らかにした︒

︵7 ︶

 

前掲﹁戦時下南洋群島からの戦時引揚について﹂において︑ ﹁ 近

代家族﹂はジェンダーによって維持 ・強化されたが ︑﹁戦時非常

体制﹂ の確立に伴ってジェンダーの再編に基づいた戦時引揚は ﹁近

代家族﹂とジェンダーの親和性を崩壊させ︑南洋群島在住の家族

が分断されたありようが明らかにされた︒

︵8

 

︶ 厚生省援護局編

﹃引揚げと援護三十年の歩み﹄

︵ぎょうせい

一九七八年︶など︒

一七 南洋群島からの戦時引揚の実態について

参照

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