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対話の害と LTD 話し合い学習法 ―

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The Studies of International Society, Vol.5, 1-21

1 はじめに

現在の日本では、中央教育審議会大学分科会大学教育部会が2012年3月26日に発表した審議 まとめ「予測困難な時代において生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ」の影響 もあって、各大学において「『学び』の質を保証するアクティブラーニング」などへの取組が進 められている(河合塾,2014)。効果的なプログラム開発がさまざまに試みられているが、教育 成果に結びつかない取組も多いことがすでに明らかになってきている。その原因として、「教授 者中心の教育」から「学習者中心の教育」への転換がうまく図られていない点が指摘されてい る。つまり、今日の大学教育改革においては教授学習パラダイムを転換することがきわめて重 要であるにもかかわらず(溝上,2014)、相変わらず教育は「指導者の論理」によって行われが ちで、必ずしも「学習者の心理」に即して行われていないのである(杉江,2011)。教育成果を もたらすことができない事態に対して、「ダメな人間なんていないんです。ただ、ダメな指導者 がいるだけなんです」(坪田,2015,p.19)という見解が表明されているが、言い得て妙である。

そうなると、教育者が絶えずめざしていくべき方向性は、「もし、私たちが教える方法で子ども たちが学ぶことができないなら、私たちは、彼らが学ぶことのできる教え方を学ばねばならな い」(マクグラス,2010,p.16)というフレーズに象徴されていると思われる。本稿では、その ような問題関心のもとに、アクティブラーニングとは何かを概観することから始め、対話によ る授業の問題点、チュートリアルの意義、看図作文の可能性、LTD(Learning through Discussion)

対話の害と LTD 話し合い学習法

―協同学習の原理的考察―

Abstract

The present state of education in Japan requires all educational institutions to cultivate human resources, specifically those who are able to tackle problems in responsible ways.

Given such a national demand, various active learning programs have been advanced in order to guarantee the quality of studies; nevertheless, many of those proposals already appear to fall short of our expectations. The present study indicates the failure of the paradigm shift from a teacher-centered educational system to a learner-centered one as a major reason that Japan is still lagging far behind in grappling with effective means of instituting active learn- ing. Discussed in particular are some theoretical inquiries of cooperative learning in terms of the harmfulness of dialogue, the significance of tutorials, the possibilities for interpretative composition of pictures, and the process of Learning through Discussion.

森 邦昭・鈴木 有美

(2)

話し合い学習法の過程プランを取り上げ、協同学習(Cooperative Learning)の原理について考 察する。

2 アクティブラーニングとは何か

今日、日本の大学においてアクティブラーニングが必要とされるようになった理由として、

次の5点が指摘されている。①テクノロジーの急速な発展により社会の変化が激しくなったこ とに伴って、社会が求める能力が変化したこと、②大学においてユニバーサルアクセス段階が 到来し、従来ならば大学へ進学しなかった層が大量に大学教育を受けるようになったこと、③ 自分の解釈や理解を言語化し相手に伝えるという学びの社会化=ソーシャルな学びが、より高 度なコミュニケーション能力の形成の点でも効果的であると見なされるようになったこと、④ 新たに得た知識を既有の知識と関連づけ、一生剥がれ落ちない知識と理解を得る深い学びが要 請されるようになったこと、⑤ラーニングピラミッドという模式図で示されるように、他者に 教えるという行為が知識の定着をもたらすと実感されていることの5点である(アクティブラー ニング実践プロジェクト,2015)。

ちなみに、知識の定着率を表すラーニングピラミッド(図1)とは、講義だけで知識が定着 するのは5%程度だが、読解を入れると10%、視聴覚教材を取り入れると20%、デモンストレー ションをすると30%、グループディスカッションをすると50%、活動や体験をすると75%、他 者に教えると90%というように、一人で学習するよりもグループで学習した方が、グループの なかでもより認知的負荷が高い活動を行った方が、記憶の定着率が高まると主張する模式図の ことである。この模式図の引用に際しては、出典がアメリカのNTL Institute (National Training Laboratories Institute)とされ、一見実証的な調査結果であるように思われるが、実はこれが根 拠データのない模式図であることはすでに知られている。しかし、学術的な視点と実践的な視 点を区別して、この図を次のように受け取っている論者もいる。「たとえ学術的に問題のある図 であるとしても、この図でアクティブラーニ ングの実践が前に進むのであれば、大いに価 値はある。」(溝上,2014,p.153)

この「アクティブラーニング」(active learn- ing)という言葉は、2000年代に入ってから主 として高等教育においてカタカナ表記で使用 されるようになった。それ以前においては、

英語からの訳語として「能動的学習」「積極的 学習」「主体的学習」などの言葉が当てられて いた。こうした言葉は、主として初等中等教 育においてであるが高等教育においても、

1970~80年代から徐々に、1990年代以降は本

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図1 知識の定着率を表すラーニングピラミッド

(溝上,2014,P.148)

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格的に幅広く使用されている。アクティブラーニングに関する研究も活発に行われている。た とえば、少なくとも、今年(2015年)の8月から9月にかけて開催された3つの学会(日本教 育心理学会、日本リメディアル教育学会、初年次教育学会)において「主体的な学び」がテー マとして掲げられ、学校種を越えてアクティブラーニングを取り入れた授業づくりの研究が進 められている。

多くの研究者がアクティブラーニングという言葉を厳密に定義せずに使用してきたという経 緯もあるが、そもそも、あらゆる専門分野の専門家や実践家が納得できるようにアクティブラー ニングを定義することは不可能に近いとさえ言われている。しかし、それにもかかわらず、こ のことを前提にして、溝上慎一は次のような定義を提示している。アクティブラーニングとは、

一方向的な知識伝達型講義を聴くという(受動的)学習を乗り越える意味での、あらゆ る能動的な学習のこと。能動的な学習には、書く・話す・発表するなどの活動への関与と、

そこで生じる認知プロセスの外化を伴う。(溝上,2014,p.7)

ボンウェルとエイソン(Bonwell & Eison, 1991)は、アクティブラーニングの定義を早い時期 に試みたことで知られるが、「能動的」(active)ということの特徴を描き出すことの難しさにつ いて言及している。さらに、ボンウェルらは、伝統的な保守派教員からアクティブラーニング に投げかけられる次のような2つの批判的コメントを挙げている。しかし、これらに対峙する ことによって、むしろアクティブラーニングの概念の輪郭をより鮮明にすることができる。

(A) そもそも、受動的な学習なんてあるのか

(B) しっかり講義を聴くことも能動的な学習ではないか(溝上,2014,p.7)

(A) のコメントは、核心を衝いていて鋭い。学習という活動をしている以上は、すべからく 何らかの能動的活動をしていることになるという考え方はもっともである。受動というのは他 からの働きかけを受けることであるから、受動的学習とはみずからすすんで取り組む学習では なく、他者から促されてようやく取り組む学習のことがイメージされることが多いと思われる。

けれども、みずからであれ、いやいやであれ、他からの働きかけを受け入れた結果、実際に学 習に取り組んでいれば、それはたしかに本人が行う能動であり受動ではない。しかし、着目点 はそこではない。溝上の定義においては、一方向的な知識伝達型講義を聴くことが受動的学習 であると操作的に基準が設けられている。その基準に照らして何らかの能動的活動が取り入れ られていれば、それはアクティブラーニングだと呼ぶことができる。

何らかの能動的活動とは、定義の後半部分において、「書く・話す・発表するなどの活動への 関与と、そこで生じる認知プロセスの外化」のことだと明示されている。こうした具体的活動 の例示によって、活動レベルにおける「教授パラダイムから学習パラダイムへの転換」(溝上,

2014,p.9)が含意されている。実際に書いたり話したり発表したりする活動が学習のなかに取

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り入れられ、それに学習者が関与させられれば、学習者は単に聴くだけの講義のときにはほと んど用いていなかった多様な認知機能を稼働させ、その認知プロセスを外化させなければなら なくなる。以上のことから、「アクティブラーニングを行っている」と言えるための条件は、次 の2つである。

① 一方向的な知識伝達型講義を聴くという受動的学習を乗り越えて、書く・話す・発表 するなどの活動に関与していること

② その活動に関連している認知プロセスを外化していること

この2つの条件を満たしていれば、どのような学習でもアクティブラーニングと呼ぶことが できる。このような考え方に従えば、(B) の批判的コメントに対する回答は単純明快である。講 義をしっかり聴こうと、あるいは漫然と聴こうと、聴く活動しか行っていない学習は、教授パ ラダイムにおける学習である。その学習において、聴く以外の活動が行われていなければ、そ れは受動的学習だと見なされる。なぜならば、それは学習パラダイムにおける能動的活動になっ ていないからである。能動的に、積極的に、主体的に、つまりアクティブに講義を聴くという ことは、たしかに実際にあることであるし、またそうあるべきである。しかし、アクティブラー ニングの定義、つまり教授パラダイムから学習パラダイムへの転換においては、アクティブな ラーニングのことをアクティブラーニングと呼ぶのではなく、活動への関与と認知プロセスの 外化を伴った学習のことをアクティブラーニングと呼ぶという約束になっている。なお、active

learningをカタカナで「アクティブ・ラーニング」ではなく、ひとまとまりの連語として「アク

ティブラーニング」と表記する考え方があるが(溝上,2014,p.6-7)、「アクティブラーニング」

とタームとして表記すれば、「アクティブなラーニング」というニュアンスも生じにくくなるの ではないかと期待される。

アクティブラーニングを取り入れた授業は「アクティブラーニング型授業」(active-learning- based instruction)と呼ばれる。これには、たくさんの技法がある。アクティブラーニング型授 業の一つである協同学習だけでも、200以上の技法があると言われている。そのうちの30の技法 がバークレイら(Barkley, Cross, & Major, 2005)によって紹介されている。全体が大きく5つの カテゴリーに分けられ、「話し合いの技法」が技法1~6、「教え合いの技法」が技法7~12、

「問題解決の技法」が技法13~18、「図解の技法」が技法19~23、「文章作成の技法」が技法24~

30となっている。

このなかには含まれていないが、ほかにもLTD (Learning through Discussion)話し合い学習法 やPBL (Problem-Based Learning)などがある。LTDは、学習課題、語彙、主張を予習で理解さ せ、授業ではミーティングを行い、学習課題の理解を学習者がお互いに確認したり議論したり して、他の知識や自己との関連づけを図り、さらに理解を深めていく学習法である。PBLは、

問題の提示から授業が始まり、問題を解決するために必要な知識を調べたり学ぶべき内容を見 定めたりしながら学習を進めていく方法である。

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「アクティブラーニング」という言葉は、日本の高等教育では2000年代以降に急速に使用され るようになったが、2012年8月18日の中央教育審議会答申「新たな未来を築くための大学教育 の質的転換に向けて―生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ」(以下、「質的転 換答申」と略記)以降、この言葉は「政策用語」になっている。質的転換答申の用語集では、

アクティブラーニングに対して、次のような解説が加えられている。

教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり、学修者の能動的な学修への参加を取 り入れた教授・学習法の総称。学修者が能動的に学修することによって、認知的、倫理的、

社会的能力、教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成を図る。発見学習、問題解決学 習、体験学習、調査学習等が含まれるが、教室内でのグループ・ディスカッション、ディ ベート、グループ・ワーク等も有効なアクティブ・ラーニングの方法である。(中央教育審 議会「質的転換答申」用語集,p.37)

この解説と上述の溝上の定義を比較すると、教授パラダイムから学習パラダイムへの転換が 図られている点では共通している。しかし、転換後の活動への関与をどう捉えるかが異なって いる。溝上は、活動へ関与するということは同時に認知プロセスを外化させることにつながる と考えている。これに対して、質的転換答申の用語集では、活動の結果としてもたらされる成 果(outcomes)が汎用的能力の育成につながると考えている。この違いはプロセスに着目するか、

出口に着目するかの違いだと言えるが、いずれにしてもアクティブラーニングにおいては、「活 動あって成果なし」という事態がそもそも起こりえないようなパラダイム転換が図られている。

3 対話の害

それでは次に、「活動あって成果なし」という事態を招きかねない授業スタイルの事例を見て おくことにしたい。教育哲学者の宇佐美寛は、『対話の害』(宇佐美・池田,2015)という書物 において、マイケル・サンデルの「ハーバード白熱教室」を批判している。また同書において 宇佐美は、河野哲也(企画者)、森田伸子(提案者)、土屋陽介(提案者)、村瀬智之(提案者)

が2012年の教育哲学会第55回大会(於早稲田大学)のラウンドテーブルで発表した「子どもと 哲学対話を:初等中等教育における対話型哲学教育の実践とその意義」も批判している。

サンデルはソクラテスの対話を高く評価し、自身の授業スタイルのモデルとしているようだ と宇佐美は捉えたうえで、「しかし、ソクラテスの対話を教育方法0 0 0 0と見なすのは、大変な間違い である。あんな対話が行われ得たはずがない」(宇佐美・池田,2015,p.17)と言っている。宇 佐美は、対話を教育方法として用いることに対して批判を加える。引用が長くなるが、次の批 判は「子どもと哲学対話を」に向けられているものの、サンデルの授業に対しても同様に当て はまるとされる。

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一応、哲学的思考の教育の重要性は認めよう。しかし、そのために、なぜ対話なのか。

なぜ他の方法ではないのか。他の方法と対話とは、どう違い、どう関係しあうのか。それ を「哲学対話」の主唱者は、全然、説明していない。

対話は、哲学的思考の方法0 0としては、かなり劣った第二級の(マイナーな)方法である。

このような評価を書くと、プラトンの著作におけるソクラテスの対話0 0を根拠に右の評価 を批判しようとする無邪気な(ナイーヴな)読者もいるかもしれない。

あれは、事実としての対話の過程0 0をそのまま記録したものではない。古代ギリシャには、

録音機は無かったのである。ソクラテスが対話をしたのは事実なのだろう。しかし、プラ トンは、事後に、読む0 0ための作品0 0として、ソクラテスの対話の形式で書いたのである。(宇 佐美,2013,P.227-228; 宇佐美・池田,2015,p.18)

…(略)…プラトンの本に書かれているのは、対話の過程0 0の記録ではない0 0。対話の結果0 0

(所産)を、あたかも対話が進みつつあるかのような形式でまとめた読み物である。

実際の対話の過程には、もっと無駄が有ったはずである。「あー」とか「うー」とか言 う。言いよどむ。言い間違える。くどく繰り返す。確認のため聞き返す。大声を出す。何 分間も黙って考えている。……これが対話の過程である。

現実の子どもの対話の指導を論ずるならば、対話の結果0 0(所産)であるソクラテスの「対 話」のようなものと比較してはならない。対話の過程0 0を考えねばならない。

対話の過程0 0は、とにかくその場に居つづけなければならない。話したり聞いたりするこ とに没頭することが期待されている。また、話したり聞いたりが続く0 0ことになっている。

無駄が有る(冗長度が有る)という条件は、必要なことである。冗長度(redundancy)ゼ ロで、一言一句の無駄も、くり返しも無い言葉使いで話されたのでは(特にソクラテスの 対話のように非日常的な内容を話されたのは)、理解はきわめて困難なはずである。

要するに、ソクラテスの対話をモデルにするのは、愚かな誤りである。

対話というものは、特殊な方法である。哲学的思考の小さな一部分に過ぎない。例えば、

前記のように、話しつづけ、聞きつづけているから、わからないことが有っても、調べに 行くことも、本を読むことも出来ない。(宇佐美,2013,p.228-229; 宇佐美・池田,2015,

p.19-20)

宇佐美はなぜ、それほどまでに対話に対して批判的なのだろうか。それは、宇佐美が「対話 は哲学的思考を妨げる」(宇佐美,2013,p.233; 宇佐美・池田,2015,p.22)と考えているから である。それでは、宇佐美はなぜ、対話は哲学的思考を妨げると考えるのだろうか。再び引用 が長くなるが、宇佐美の主張に耳を傾けてみよう。

思考は、自分0 0自身がするのである。自分が考えればいい。それなのに、なぜ他者と対話 することが必要なのか。(宇佐美,2013,p.233-234; 宇佐美・池田,2015,p.22)

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…(略)…対話は、ときに0 0 0不自然であり、思考の妨げである。

その場の他者に理解させるように話さねばならない。そのために、自分がもともと考え ていたことを変形させた形で表現する。相手には通じない論点はあきらめて、言うのを避 ける。相手にわかる程度に表現するために、厳密さは捨てる。……要するにコミュニケー ション用の思考を働かせているのである。自分が独りで黙って思考したものとは違う。他 者との妥協が有り、変形が生じる。

私の世代の哲学青年の理想状態は沈潜0 0であった。独りで自分を見つめて静かに考えつづ ける。これと対話との間には、たいへん距離が有る。逆方向の働きでさえある。ゆっくり 静かに考えることが必要である。その時には、他者に向けた口頭の表現をどうするかは、

まだ考えてはならない。他者を気にせず自分自身で納得がいくまで考えるのである。(宇佐 美,2013,p.234-235; 宇佐美・池田,2015,p.23)

…(略)…文章を書くという技術が私の哲学的思考を鍛えてくれる。対話という技術に は、それが無い。文章を書いて鍛えられるような部分、つまり思考の中心的部分は、対話 では鍛えられない。

同じ趣旨の論は、授業におけるディベート形式の対論や、教師と学生との間の発問・応 答についても、当てはまる。口頭でのやりとりには、時間の余裕が無い。落ち着き・ゆと りが無い。だから、哲学的思考において本質的な要素である懐疑0 0が生じない。

教師が出した問いに対してでさえ、次のように、様ざまな異議・疑義が呈されるべきな のである。「その問いは成り立つのか?」「その問いは、多義的である。」「その問いはあい まいだ。」「そんな、被害が生じるような問いを出すべきではない。」「基本概念が不明なの で、その問いには答えられない。」「そんなこと、論じたくない。」

最近、俗評が良いサンデル教授の問答的授業についても、せっかち、急ぎすぎ、教師の 側の思い込み、未熟・不明な概念が目立つ。学生に事例を分析・批判する自由を保障して いないのである。

右の「懐疑」は、換言すれば、<メタ対話>の思考である。つまり、そのままでは、気 分任せで流れて行ってしまう…(略)…「対話」自体を、分析・検討する思考である。例 えば、自ら次のように問う思考である。「この問題設定は何を意味するべきなのか。」「大体 どのような類の問題解決に向かうべきなのか。」

このようなメタ対話によって自ら対話の進行を計画・統御するからこそ、思考は自由に なる。…(略)…「テーマについての考えを深めていく」のには、メタ対話が要るのであ る。(宇佐美,2013,p.236-237; 宇佐美・池田,2015,p.24-25)

要するに、授業の対象がだれであろうと、一方的に論理の枠組を設定し、それ以外の情 報は保障しない「対話」の害の本質は同じである。小学生でも、(サンデル授業の対象の)

大学生でも、同じである。(宇佐美・池田,2015,p.27)

(8)

引用が長くなったが、以上における宇佐美の主張のうち、本稿が出発点としたアクティブラー ニングの考え方にとって特に重要な示唆を与えている論点として、次の5点を避けて通ること はできないと思われる。

① 現実の子どもの対話の指導を論ずるならば、対話の結果(所産)であるソクラテスの

「対話」のようなものと比較してはならない。対話の過程を考えねばならない。

② 対話というものは、特殊な方法である。哲学的思考の小さな一部分に過ぎない。例え ば、前記のように、話しつづけ、聞きつづけているから、わからないことが有っても、

調べに行くことも、本を読むことも出来ない。

③ 思考は、自分自身がするのである。自分が考えればいい。それなのに、なぜ他者と対 話することが必要なのか。

④ 文章を書くという技術が私の哲学的思考を鍛えてくれる。対話という技術には、それ が無い。文章を書いて鍛えられるような部分、つまり思考の中心的部分は、対話では鍛 えられない。

⑤ 「テーマについての考えを深めていく」のには、メタ対話が要るのである。

本稿においては、これ以降この5つの論点を可能なかぎり意識しながら論を進めていきたい。

次節(第4節)ではチュートリアルの意義について考察するが、それはまさにチュートリアル という教育方式がこの①~④(おそらくは⑤も)の課題を十分に意識して克服していると考え られるからである。その次に「文章を書く」ということに焦点を絞り、看図作文の可能性につ いて考察する。さらにLTD(Learning through Discussion)話し合い学習法の過程プランを取り 上げ、この過程プランにおいては①~⑤の課題が統合的に解決されていることを確認し、最後 に協同学習(Cooperative Learning)の原理について考察する。

なお、③の論点については、根源的な問いであるがゆえに、これに答えるのはかなり難しい。

しかし、一般に、対話(ギリシア語でdialogos、ドイツ語でDialog、フランス語でdialogue)に ついては、次のように説明されている。「西欧独自の知と探究の形態である哲学の成立に、対話 は決定的な役割を演じた。ソクラテス、プラトン、アリストテレスを通じて練り上げられた対 話とは、文字通り互いに異なる(ディア)論理(ロゴス)が開かれた場でぶつかりあい、対決 を通じてより高められた認識に到達しようとする運動にほかならない。哲学とは、あらゆる批 判に開かれた知の公共性を理念として掲げた一つの運動だったのである。」(斎藤,1998,p.1025)

実際、対話(あるいは、対話を取り入れた授業)に批判的な宇佐美にしても、「子どもと哲学対 話を」の提唱者たちやサンデルとの対決を通じてより高められた認識に到達しようとしている と受け取ることもできるのではないだろうか。

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4 チュートリアルの意義

教育社会学者の苅谷剛彦は、2008年の秋にオックスフォード大学に勤め始めてからの「大学 異文化体験録」を『イギリスの大学・ニッポンの大学―カレッジ、チュートリアル、エリー ト教育』(苅谷,2012)という書物にまとめている。それによれば、オックスフォード大学の教 育の特徴は、カレッジとチュートリアルにある。世界ではもちろん、イギリスでもカレッジ制 という仕組を残存させている大学は数少なくなったが、オックスフォード大学はその一つであ る。カレッジ制大学(Collegiate University)の仕組を理解するためには、「カレッジ」と「大学」

の二重構造による教育のあり方を理解しなければならない。2012年の数字であるが、オックス フォードには38のカレッジがあり、そのうちの2つは「ホール」と呼ばれている(レイディ・

マーガレット・ホールとセント・エドムンド・ホール)。それぞれのカレッジは、財政面でも運 営面でも独立しており、フェローによって自律的に運営されている。

これに対して、大学(ユニバーシティ)は、国から教育研究の面での助成を受ける国立大学 のような公的機関であり、国王から勅許された学位授与権を有する。大学はそれぞれの専門分 野の学科(デパートメント)から成り、大学教員のほとんどがそのいずれかの学科の教授や講 師になっているのだが、特筆すべきは、その大学教員のほとんどがどこかのカレッジのフェロー にもなっている点である。

学部の学生は、学士の学位を取得するために学科が提供するプログラムに所属すると同時に、

カレッジにおいてチュートリアルという個別指導を受ける。学位取得のための試験実施や成績 認定は、学科(大学)が行う。チュートリアルでは毎週エッセイを書いて提出すればよいとい うわけではなく、最終試験が終わるまで、読んで書いて議論するということを続けていかなけ ればならない。学科が試験実施から卒業認定までの学務面の責任を負っているのに対して、カ レッジ(学寮)は共に住い共に食べるという共同生活を通じて幅広い教育の場を提供している。

学科は、フォーマルな機能を重視した組織である。カレッジは、インフォーマルな面を含む包 括的な関係性を重視した共同体である。しかも、カレッジではさまざまな専門分野の教員がフェ ローになっていることから、そこでは専門性の垣根を越えた学問共同体が成立している。

要するに、チュートリアルとは、学部レベルで行われる個別指導による教育のことである。

オックスフォード大学のすべての学部学生は、カレッジに所属しつつ、自分の専攻に応じて チュートリアルを受ける。個別指導を行うのは、そのカレッジに所属する教員で、その教員は

「ドン」(don)と呼ばれる。ドンとは、オックスフォード大学でテニュア(終身雇用資格)を有 し、カレッジのフェローでもある教員のことである。チュートリアルは、たいてい週に1回1 時間行われる。学生1~3人に、教員1人がつく。毎週、課題文献のリストが渡されるので、

学生はそれを読んで、A4で10枚くらいのエッセイを書かなければならない。チュートリアルで は、そのエッセイをもとに学生と教員の間で質疑や議論が交わされる。オックスフォードやケ ンブリッジでは、まさに「そういう読み書きを中心とした個別学習を通じて、『批判的な思考』

が育つと考えられているのである。」(苅谷,2012,p.47)

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オックスフォードやケンブリッジでこのようなチュートリアルができるのは、もちろんカレッ ジ制とチュートリアルがセットになっているからであるが、1人の教員が個別指導を行う学生 数を少なく抑えるのに十分な数の教員を雇う財源が確保されているからでもある。それぞれの カレッジは財政的に独立していて、2,000万~3億ポンド(25~375億円)くらいの寄付金によ る基金がある。イギリス人やEU内の学生は、大学に年間3,225ポンド(403,125円)の授業料を 払う。それ以外の学生の授業料は、1万ポンド(125万円)を超える。カレッジには、食費や住 宅費を除いて、5,000~6,000ポンド(625,000~750,000円)を払う。こうした納付金が高いか安 いかはともかく、独立した法人であるカレッジが財力と設備施設を有していることによって、

きめ細やかなチュートリアルが可能になっている。

大学運営の観点から言えば、カレッジと大学という二重構造は複雑で効率が悪く、コストも かかる制度ではないかと思われる。しかし、それにもかかわらず、オックスフォードやケンブ リッジではカレッジ制が守られている。その理由について、苅谷は次のように述べている。「カ レッジ制をとり続けているのには、過去の慣例にとどまらず、また財政的な負担の大きさによ らず、現代においてもそこに教育的な価値を見いだしているからなのだろう。そしてその価値 の源泉は、カレッジが学問の共同体であるところにある。」(苅谷,2012,p.45)

現存する大学としては世界で3番目に古く、英語圏では最古の大学であるオックスフォード 大学では、チュートリアル(読み・書き・議論)を中心にカレッジにおいて学問と人間形成の 教育を行っている。この教育は、学生にまさにアクティブラーニングをただひたすら愚直に実 行させている一つの(理想的)形態だと言えるのではないだろうか。さらに、前節(第3節)

で提示した宇佐美からの論点(①~⑤)を奇しくも満足させる形態の一つがチュートリアルだ と言えるのではないだろうか。

5 看図作文の可能性

では、読み・書き・議論を中心とした教育は、チュートリアル方式でなければ行うことがで きないのだろうか。学問を深化発展させるためにも、人間形成を豊かにするためにも、議論す るということが必要とされるが、議論ができるためには、議論のもとになるものを書いておか なければならない。何かを書くためには、それに先立って、ある一定量以上の資料などを読み 込んでおかなければならない。この節では、まず、何かを読んで何かを書くという点に焦点を 絞りたい。

宇佐美は、作文とは、「ある0 0他者に読ませある0 0影響を与える目的でなされるべきものである」

(宇佐美,2014,p.3)と述べている。しかし、作文というものは、なかなかすんなりと書ける ものではない。というのも、誰に読んでもらい、どんな影響を与えたいのかをはっきりさせる 必要があるのみならず、そもそもそうしなければならない必然性を十分に根拠づけておかなけ ればならないからである。作文を取り巻くこうした状況について、宇佐美は次のように述べる。

(11)

また、テーマを簡単な語句だけで与えても書けない。例えば、「東日本大震災について」

では、多くの子は書けない。何を書けばいいのか、わからない。生徒にそんな初めから全 面的な発想や十分な予備知識を要求すべきものではない。

だからこそ、読ませるべきなのである。文章を読むことによってはじめて、文章を書く 条件が出来るのである。読んで、観念(意味環境)の世界を拡げれば、その中に作文の材 料が生ずる。

生活経験だけでは(存在環境の中だけでは)貧弱な乏しい材料しかない。読まなければ 書けない。

豊かな広い観念の世界(「意味環境」つまり、文化0 0)の中でなければ、書く材料が無い。

豊かな材料が有って、何を書いてもいい自由0 0が有るという状態が必要である。中・高生に、

このような文化・自由の状態が保障されているか。自由に意見を書かせるとは、教師・学 校・社会に対する批判を書く自由を保障することである。現在の中・高に、この保障構造 が出来ているか。

読ませるべき文章は、「問題が有る。」「何とかするべきだ。」「意見をいいたい。」などと 思われる実態や見解を示すものである。ニュース、記録、評論、物語等、文種は何でもい い。(宇佐美,2014,p.204-205)

では、ある文章を読んだとして、今度は自分で文章を書こうとする場合、どうしなければな らないのだろうか。よく考えて、論理的で明瞭な文章を書こうとしなければならないのだろう が、それはどうすれば可能になるのだろうか。宇佐美によれば、それは「文」、つまり句点(。)

で区切られる長さの範囲で考えることによる。では、文はどうやって書けばよいのだろうか。

宇佐美は、次の4点を挙げている。

1 文をなるべく短く書く。(原稿用紙でいえば、一文を3行程度以内で書く。)いいかえ れば、句点をはやくつける。これは、内容についていえば、一つの文の中でいろいろな 事柄を書くのを避けるということである。なるべく一つの文では一つのことだけを書く ということである。つまり、「一文一義」である。また、その「一つのこと」に関係が無 い無駄な語句を使わないように注意するということである。(「句点をはやくつける」と

は 。 の数を多くすることである。私は受講生に「。 一つを500円玉だと思って、なるべ

く多くかせぎなさい。」と言う。)

2 何について述べている文なのかを明確に書く。そのために有効ならば、できれば、い わゆる主語をあらわに書きこむ。

3 このような文相互の連絡関係を明瞭な形で表わす。つまり、このような関係を示すた めの語句が入るところは入れる。「しかし、」・「だから、」・「そして、」・「例えば、」・「いい かえれば、」・「これを具体的に示せば、」・「このような、」・「さきに述べたように、」等で ある。

(12)

4 必要な事柄0 0を述べるべきなのであり、筆者の心理0 0を書き表わすべきではない。さきの 作文例でいえば、「読んで感じた0 0 0 0 0 0ことは……」・「……と思う0 0」(傍点引用者)のような、

筆者の頭の働きぐあいを示す語句は事柄0 0を明確な秩序において述べるのには妨げになる ばかりである。思ったり感じたりした事柄0 0だけを書けばいいのである。「思った」・「感じ た」という働き0 0は書いてはならない。(宇佐美,1989,p.30-31)

作文を書く極意はさまざまに表現できるのであろうが、宇佐美によれば「思ったり感じたり した事柄0 0だけを書けばいい」というのが作文の要諦ではないかと思われる。しかし、これがな かなか難しい。つい2つ前の文においても、「要諦ではないかと思われる0 0 0 0」と書いてしまった が、「思う」「考える」「感じる」などの語句を文から追放することは容易にはできない。比較的 自然に事柄だけを書くことができるようにするための工夫はないのだろうか。そこで、ここで は、「看図作文」というものに着目してみたい。

鹿内信善は、「中国式看図作文」を発展させて、「鹿内式看図作文」という指導法を開発して いる(鹿内,2014)。鹿内は、1990年代に中国の看図作文に出会った。そのころの中国では、作 文を書きやすくするために工夫が施された絵図が、教科書や参考書に取り入れられていた。こ の中国式看図作文に、鹿内は大きな可能性を見出したのである。とはいえ、鹿内のもとで勉強 していた中国からの留学生の話によれば、中国で実際に行われている看図作文の授業では、絵 図にも教え方にも特別な工夫が施されていないために、看図作文の授業は退屈な時間になって いるようである。これを鹿内は、看図作文がもともともっている可能性を中国では見失ってい るようだと捉えている。

鹿内によれば、作文指導を行う際に解決しなければならない難問が2つあるという。その2 つとは、「子どもたちに『書くことがない』『どう書いていいかわからない』と言わせないこと」

(鹿内,2014,p.5)である。看図作文は、もともとこうした難問を解消する方法として提唱さ れてきた。北海道で看図作文の授業実践を積み重ねている山寺潤は、鹿内式看図作文の特徴に ついて、次のように述べている。

看図作文の特徴とは何でしょうか。

まず第1に、楽しい絵図にふれることで、子どもの学習意欲が高まることです。絵図を 読み解くこと、読み解いたことを友達と交流すること、読み解いたことを自分なりに意味 づけすること、といったプロセスを踏むことで、どの子も意欲的に作文に取り組むことが できます。

第2に、絵図があることでどの子にも作文の題材が手に入るということです。一般的に 作文が苦手な子は、「書くことがない」「どう書いていいかわからない」と言います。つま り、書くことを見つける<発想・着想><集材・取材>に苦手意識を抱いているのです。

看図作文は、学級で共通の絵を見て交流することにより、どの子にも書くことが見つかる

(13)

授業システムです。絵図があることで、作文に苦手意識をもつ子でも抵抗なく「書くこと」

に取り組むことができるのです。

第3に、“絵図を見る→書く”という学習が子どもの創造性やものの見方を広げることで す。子どもたちは絵図を切り口にして発想を広げることで、様々な思考を繰り広げます。

この看図作文の学習過程自体が、「情報処理」「問題-解決」「自己分析」など様々な認識の 過程として機能し、子どもの幅広い知的能力を高めます。

また、指導する教師にとっては、授業のねらいに沿って指導事項を組み込みやすいとい う利点もあります。例えば、作文を書く際に「3枚の絵を見て3段落の文章構成で書きな さい」という<構成>の指導を取り入れたり、「会話文を必ず2つ以上入れようね」といっ た<表現の工夫>を促す指導も可能です。(鹿内,2014,p.7-8)

山寺も述べているように看図作文の授業には大きな可能性が秘められていると考えられるが、

とりあえず絵図があれば看図作文の授業ができるというわけではない。看図作文で用いる絵図 は、「読み解き」と呼ばれる認識活動を誘うものでなければならない。では、見る人を「読み解 き」に誘う絵図とは、どんな絵図なのだろうか。鹿内によれば、それは適度な「曖昧」や「空 所」を含んだ絵図である。物語作文を書かせるためには、「対立」や「問題状況」などの条件が 描きこまれた絵図が有効であるとされる。「曖昧」「空所」「対立」「問題状況」などが看図作文 で用いる絵図の条件であり、これは優れた文学作品が備えている条件と同じであると鹿内は考 えている。したがって、看図作文のために工夫された絵図は、文学作品と同じように読み解く ことができるとされる。

しかし、そのような絵図を用意するのは困難である。どこかから適切な絵図を見つけ出して くることができればよいのであるが、それができない場合は自分で創り出すしかない。鹿内た ちは「看図作文研究会」というチームで看

図作文の授業づくりを行っているが、そこ には専属の絵師がいる。その専属の絵師が 描いた絵図を鹿内たちは看図作文授業で活 用している。なお、看図作文研究会専属絵 師のオリジナル作品は、授業等の営利を目 的にしない活動では自由にコピーして利用 してよいことになっている。ということな ので、たとえばの例として、1枚の絵図を 見てみることにしよう(図2)。

図2は、「ネギ」という名前が付けられた

絵図である。ここでは、北海道の国語教師 図2 ネギ(鹿内,2014,p.116)

(14)

の森寛がこの絵図を用いて中学校2年生に対して行った看図作文授業を取り上げる(鹿内,2014,

p.115-120)。森はまず授業の目標を提示し、今回のテーマが「オリジナリティー」であること を告げる。「他の人とはひと味ちがう、個性豊かな作文」が書けることが目標である。第一段階 は「自分のアタマで考える」こと、第二段階は「グループで考えたことを柔軟に取り入れる」

こととされ、両方とも大切であるとされる。

森は少しもったいぶりながら「ネギ」の拡大絵図を黒板に掲示し、どんなことでも構わない ので「気づいたこと」をひとつ言うように指示し、4~5人に答えさせる。「まだ出ていないこ とをお願いします」と、さらに「気づいたこと」を言うように指示し、再び4~5人に答えさ せる。その後、「ネギ」の絵図のコピー(ワークシート)を配付し、すでに発表された内容を含 めて「気づいたこと」を2分間で10個以上書くように指示する。次に、ワークシートを隣の人 と交換させ、「なるほどな、それいただき!」と思うものを2つ選ばせ自分のワークシートに赤 ペンで記入させる。それから、たとえばこの絵の「季節」「時間帯」はいつか、「場所」はどこ か、それは絵のどこからわかるか、さらに「男の子」「女の人」はなぜ今ここに来ているのかな どといった教師の発問によって、絵図の読み解きを行っていく。

このような読み解きを行うと、生徒たちの頭のなかに物語構想が自然に生まれてくるそうで ある。そこで、3~4人のグループをつくり、ラウンド=ロビン註1) 形式でその構想を発表させ る。不十分な構想でも未完成の構想でもよいので、気楽に話させる。聞いた生徒は、よかった ところをほめるか質問をする。自分以外の生徒の話を聞いて、「なるほどな、それいただき!」

と思ったことは赤ペンでメモするように指示する。ここまでの事前指導によって、どの生徒も 作文が書けるようになるという。

生徒たちが書いた作文は、大まかに「問題記述型」「問題再構成型」「問題解決型」の3タイ プに分類できたそうである。問題記述型の作文は、問題状況の記述を丁寧に行っている作文で ある。問題再構成型の作文は、問題状況を再構成することによってオリジナリティーを出そう とする作文である。問題解決型の作文は、多くの生徒が書く作文であるが、問題をどう解決す るか、つまり「どちらかかが奪い取る」「譲り合う」「半分ずつに分ける」「一緒に食べる」など の解決策に着目する作文である。たくさんの生徒が書いた作文を紹介したいところだが、ここ では問題再構成型の作文を1つだけ紹介する。「僕の日記」と題された作文である(鹿内,2014,

p.122-123)。

僕の名前は伊月真琴です。さっきお母さんとお姉ちゃんでおつかいじゃんけんをして負 けてしまいました。長ねぎがなかったのでマンションの一階にあるスーパーマーケットに います。

僕は、長ネギを見つけました。つかもうとした時、おばさんも長ねぎをとろうとしてい 註1) 協同学習における基本的な話し合いの技法。クラス全体に対して与えられた「課題明示」の段階の あと、一人で考える「個人思考」、各個人が自分の意見やアイディアを順番に述べ意見交換を行う「集 団思考」という3つの手順を含む(安永,2012)。

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ました。僕は影がうすく、周りには気づかれないらしいので、おばさんに声をかけました。

けど気づいてくれませんでした。僕はしかたがなく家に帰りました。

家に帰ると、さっき長ネギを買っていったおばさんがいました。お姉ちゃんに聞いた所、

僕がおつかいに行った後おばさんが来たという事です。僕があまりにも遅いのでおばさん が長ネギを買いにいったついでに僕を探しましたがみつからなかったらしいです。ひどい と思いませんか。僕は目の前にいて声もかけたのに。いつになったら僕はみんなに気づか れるようになるのかなと思いました。

看図作文の考え方においては、絵図を読み解くことができれば自然に作文を書くことができ るという前提が置かれている。では、どうすれば絵図を読み解くことができるのだろうか。看 図作文では、次の3つの活動が有効だと考えられている(鹿内,2014,p.41)。

① 変換:テキスト中に記述されている概念や内容を別の言葉に言い換えたり、ある種の 記号表示法を他の表示法に変えたりする活動

② 要素関連づけ:テキストを構成している諸要素を相互に関連づける活動

③ 外挿:テキスト中に記述されている内容を越えて、結果について推量したり結果を予 測したりすることにより、発展的に考えていく活動

言うまでもなく、作文は一回書いたらそれで終わりというものではなく、「推敲を重ねる」と か「何度も推敲する」といった言い方があるように、書き直して改善していくことができる。

看図作文授業では、こうした改善のために「台詞」「五感描写」「設定」という工夫を加えてい る。台詞とは、会話文や心の内を言葉にした文を使用するということである。五感描写とは、

視・聴・嗅・味・触の五感に関する描写を使用するということである。設定とは、この場面が いつなのか、どこなのかなどを設定するということである。

このような工夫を凝らした看図作文授業は、筆者たちもある研究会で鹿内の指導を受けて実 際に体験して実感したのだが、まさに「協同学習の新しいかたち」(鹿内,2014,p.10)であり、

そこでは他者と協同しながら「よく見る力」を鍛えるだけではなく、「構成力」などの創造力を 高め、最終的には「生き方を模索する想像力」を豊かにしていくところまでを射程に入れてい る。たとえば図像解釈学(iconology)においては、解釈の3段階というようなことが言われて おり、目に見えているものを忠実に読み取り、物語や寓意の内容を理解するだけでなく、精神 的・観念的な意味(本質)を理解することが求められているが、たしかに看図作文では図像解 釈学に通じる読み解く技法が研究されている。

6 LTD(Learning through Discussion)話し合い学習法の過程プラン

とはいえ、解釈されるテキストは図像ばかりだとはかぎらない。芸術作品だけではなく日常

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生活のさまざまな現象を図像テキストとして捉えて解釈するのは有効だとしても、授業では文 字テキストを使用する方が一般的である。しかも、大量の文字テキストを学習者に正確に理解 させ記憶させたいと願うのが教授者の常である。そのようなことから、本稿の冒頭で指摘した とおり、「教授者中心の教育」から「学習者中心の教育」への転換がうまく図られないのではな いかと考えられる。こうした難点を克服しつつ、なおかつ第3節で宇佐美の主張をまとめた5 つの課題を統合的に解決したものとして、「LTD(Learning through Discussion)話し合い学習法」

の過程プランが挙げられる。LTD話し合い学習法の目的は、「真の学びの追求」(安永,2006,

p.13)に置かれている。

LTD話し合い学習法は、アメリカ・アイダホ大学の社会心理学者のヒル(William F. Hill)が 1962年に開発したアクティブラーニング型授業の戦略の一つであり、小グループによる話し合 いを中心に学習を進める協同学習の一つである。日本では安永悟が1990年代半ばからその紹介 と普及に努め、『討論で学習を深めるためには―LTD話し合い学習法』(レイボウ他著,丸野・

安永訳,1996)や『実践・LTD話し合い学習法』(安永,2006)などの専門書やガイドブック を刊行している。ここでは、安永(2006)と溝上(2014)をもとにして、LTD話し合い学習法

(以下、「LTD」と略記)の概要をまとめてみたい。

(1 ) 対象者:LTDの対象者は、話し合いに必要な言語能力や対人関係能力など、最低限の能力 があれば誰でもよい。ただし、LTDは大学生を対象に考案されたので、大学などの高等教育 機関で学ぶ学生に適した学習法ではあるが、社会人はもちろん、発達段階を考慮して指導法 を工夫すれば小学生から高校生まで利用することができる。

(2 ) 学習課題:LTDでは、学習課題に文字テキストを用いる。本の一章、論文、評論、エッセ イ、新聞記事など、文字テキストならば領域を問わず何でも使用できる。学習者の興味関心、

言語能力、学習目的などに応じて、適切な課題を準備することができる。

(3 ) LTDの構成:LTDは、学習者が一人で学ぶ「予習」と、仲間と話し合いながら学ぶ「ミー ティング」により構成される。予習は、LTDにとってきわめて重要な学習活動である。予習 なしのミーティングによっては、LTDに期待されている効果は得られない。そもそも、予習 なしのミーティングをLTDとは呼ばない。協同学習の用語で言えば、予習は個人思考に、ミー ティングは集団思考に相当する。集団思考と同等以上に個人思考を重要視する考え方は、グ ループで行われる協同学習全般に当てはまる。

(4 ) LTD過程プラン:この過程は、グループ・ダイナミクスや心理学の知見に基づいて編み出 された学習過程である。この過程プランには、「ミーティング用」と「予習用」がある。次の 表は、ミーティング用の過程プランである(表1)。

(17)

表1 LTD過程プラン(ミーティング用)

段 階 ス テ ッ プ 討 論 内 容 配分時間(60分)

St. 1 導入 雰囲気づくり 3分

St. 2 語彙の理解 言葉の定義と説明 3分

St. 3 主張の理解 全体的な主張の討論 6分

St. 4 話題の理解 話題の選定と討論 12分

関 連 づ け St. 5 知識の統合 既有知識との関連づけ 15分

St. 6 知識の適用 自己との関連づけ 12分

St. 7 課題の評価 学習課題の評価 3分

St. 8 活動の評価 ミーティングの評価 6分

安永(2006)・溝上(2014)をもとに作成

ステップごとに、目的とその目的を達成するための具体的方法が定められている。ミーティ ングには時間制限があり、1回のミーティングは60分で終わるように計画されている註2)。ス テップ1では、まず導入の雰囲気づくりである。ここでは、仲間の心身の状態を把握させる。

ステップ2では、教材で使われている言葉や概念定義のうち、よくわからないものや重要な ものの意味を教え合わせて理解を深めさせる。ステップ3では著者の主張を、ステップ4で は著者の主張の根拠を読み取らせ、それを自分の言葉に言い換えさせたりしながらまとめさ せる。ステップ5では、学習内容を既有知識と関連づけさせる。ステップ6では、それにさ らに自分自身のこと(過去・現在・未来の自分自身や対人関係、所属集団など)と関連づけ させる。ステップ7では、教材を批判的かつ建設的に評価させる。ステップ8では、ミーティ ング自体を振り返って評価させ、今後の改善点を出し合わさせて授業を終える。いずれにし ても、ミーティングが実り豊かなものになるかどうかは、学習者の予習にかかっている。

(5 ) 予習用の過程プラン:次の表は、予習用の過程プランである(表2)。基本的に、ミーティ ング用の過程プランと同じである。ステップ1と8が異なっているが、これは個人作業かグ ループ作業かの違いで、本質的な差異ではない。

表2 LTD過程プラン(予習用)

段 階 ス テ ッ プ 予習内容(ノート作成)

St. 1 課題を読む 全体像の把握

低次の学習

(収束的学習)

St. 2 語彙の理解 言葉調べ

St. 3 主張の理解 主張のまとめ

St. 4 話題の理解 話題のまとめ

関 連 づ け St. 5 知識の統合 既有知識との関連づけ

高次の学習

(拡散的学習)

St. 6 知識の適用 自己との関連づけ

St. 7 課題の評価 学習課題の評価

St. 8 リハーサル ミーティングの準備

安永(2006)・溝上(2014)をもとに作成

註2) 1回のミーティングは、60分の計画の他にも、40~45分の短縮型(安永・須藤,2014)や大学の半 期15回で完結させるプラン(安永,2006)も提案されている。

(18)

ミーティング用と予習用の過程プランの大きな違いは、ミーティング用には時間制限があ るが、予習用には時間制限がないという点である。予習をすればするほどミーティングで得 られる成果が大きくなるため、学習者は自発的な努力で予習ノートの作成に勤しむようにな ることが報告されている。

(6 ) 過程プランを支える原理:ブルームらの教育理論(Bloom et al., 1956)がLTD過程プラン の理論的背景の一つになっている。つまり、LTD過程プランはブルームのタキソノミー(分 類学)に基づいて編み出されている。ブルームが「低次の学習」と「高次の学習」の区別を 設けているところから、過程プランのステップ1~4が低次の学習(記憶中心の収束的学習)

に、ステップ5~8が高次の学習(思考中心の拡散的学習)に対応するように配慮されている。

(7 ) LTDの効果:学習課題の理解を深めることが、LTDに期待されている基本的な効果である。

それ以外に、現代社会で必要とされる分析的・論理的・批判的思考スキル、コミュニケーショ ン能力、言語技術、対人関係能力などが向上する。仲間と教え合いながら学ぶという新しい 学習スタイルを身に付けることにより、学習に対する動機づけが高まり、主体的に学習する 能力も向上する。さらに、協同学習は仲間どうしの信頼関係に基づいた学び合いであること から、民主主義に対する認識も深める。協同学習の一技法であるLTDでも、民主主義社会の 実現と維持発展を担う人材を育成できると期待される。

(8 ) 学習者の変化:学習者の学習意欲が高まる。予習の時間が長くなる。遅刻や欠席が極端に 少なくなる。LTD過程プランに基づく仲間との話し合い学習が、かけがえのない学びの場に なる。

(9 ) 教授者の変化:学習者観や教育観が変わる。学習者が主体的に参加するミーティングを体 験すると、学習者がもっている素晴らしい(潜在的)能力に気づかされる。適切な学習環境 を整えれば、学習者はいくらでも積極的に学ぶようになるということを理解させられる。LTD 学習法に習熟してくると、講義中心の授業でも、授業の構成と方法が変わってくる。その他、

研究会等での議論や論文の作成・査読・指導などにもLTDが効果的であることがわかるよう になる。

以上の (1)~(9) においてLTDの概要を見たが、教授者としては技法に習熟するようになる までかなりの苦労が伴うのではないかと予感されるものの、教授者がLTDにより学習者の学習 をうまく促進させることができれば、学習者にもたらされる成果は計り知れないほど大きいと 思われる。なにしろ、学習者が自ら主体的に学習(予習)するようになるということであるか ら、それは当然と言えば当然のことである。要するに、LTDではまさにアクティブラーニング が行われ、教授パラダイムから学習パラダイムへの転換が図られている。しかも、第3節で言

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及した5つの課題にも十分に対応していると考えられる。

7 おわりに

すでに第2節で明らかにしたとおり、「アクティブラーニングを行っている」と言えるための 条件は、次の2つである。

① 一方向的な知識伝達型講義を聴くという受動的学習を乗り越えて、書く・話す・発表 するなどの活動に関与していること

② その活動に関連している認知プロセスを外化していること

言うまでもなく、書く・話す・発表するなどの活動は、一人ではできない。必ず相手がいる。

そのようなことから、一人で学習するわけにもいかず、相手と一緒に学習しなければならなく なる。その相手とは、どんな人か。競争相手か協同相手か。これまでの教授パラダイムでは相 手は「競争のための相手」で、これからの学習パラダイムでは相手は「協同のための相手」に なるのではないだろうか。

杉江によれば、競争とはメンバーのなかの誰か一人が目標に到達したら他のメンバーはその 目標に到達できない事態で、協同とはメンバー全員が同時に到達できるような目標が設定され ている事態である。したがって、「学習集団のメンバー一人ひとりの成長が互いの喜びであると いう目標のもとで学習する場合が協同であり、学習集団の中で誰が一番かを目標にして競い争 う場合が競争」(杉江,2011,p.19)だとされる。この競争から協同への転換、つまり競争学習

(Competitive Learning)から協同学習(Cooperative Learnig)への転換は、単なる博愛主義によっ てもたらされたのではなく、実は教授パラダイムから学習パラダイムへの転換に伴って必然的 にもたらされたと考えられる。なぜならば、競争は教授パラダイムのもとでは可能だが、学習 パラダイムのもとではかなりの矛盾を呈するからである。

最後に、もう1点。言葉遊びをしているようだが、書く・話す・発表するなどの活動に関与 していること―実は、このことがもうすでに認知プロセスを外化していることになっている のである。この定義を考案した溝上も、このことは十分に承知している。「活動させていればそ れで良しというような、認知機能が知識と絡み合ってどのように働いているかまで目が向かな いアクティブラーニングの実践が、少なからずある」ことから、溝上は「定義では二重表現を 採って、活動への関与と、活動に関連する認知プロセスの外化、その十分な協奏を強調してい る」(溝上,2014,p.10)のである。

では、書く・話す・発表するなどの活動、すなわち認知プロセスの外化とは、もっとわかり やすく言えばどういうことなのだろうか。それは、ドイツの哲学者ディルタイ(Wilhelm Dilthey, 1833-1911)の言葉で言えば「表現」(Ausdruck)ということではないかと考えられる。ディル タイは、1910年の『精神科学における歴史的世界の構成』において、「至るところにおいて、体

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験と表現と理解の連関によって、人類というものが固有の仕方で精神科学の対象としてわれわ れに立ち現われてくるようになる」(Dilthey,1910,p.87)と述べている。つまり、われわれ人 間は体験を直接的に理解することができないがゆえに、体験が表現された客観態(すなわち表 現、あるいは認知プロセスの外化)をテキストにして、それを理解するしか他に方法がないの である。

ディルタイの「体験=表現=理解」という解釈学的循環は、絶えずよりよい理解を求めてい くための基本構造になっている。要するに、人間は体験したものを表現し、その表現を理解し、

その理解に基づいて再び体験するという螺旋を描きながら理解を深め続けていくのである。こ の点から見れば、深い理解を求めていく「ディープ・アクティブラーニング」においては、「内 化と外化をどう組み合わせるか」(松下,2015,p.9)という二項対立的発想がなされているが、

それでは問題が適切に捉えられないように思われる。

現在の「ディープ・アクティブラーニング」の議論では、内化とは必要な知識を習得するこ とで、外化とはその知識を実際に適用してコンフリクトの解決を試みることとされている。し かし、ディルタイ的に捉えるならば、知識を習得することは体験を表現して、その表現された ものを理解するということであるから、「体験=表現=理解」は鼎であって、この解釈学的循環 のなかで理解が広まったり深まったりすると考えられる。知識の習得、あるいは理解の深化と いうものがそのようなメカニズムでしか起こりえないとすれば、アクティブラーニングの定義 も「体験=表現=理解」の認識論と整合しなければならない。無論、「認知プロセスの外化」と いう点が解釈学的認識論とアクティブラーニングの認知理論の親和性を暗示していると言えな くはない。アクティブラーニングが現代において「表現が有する創造性」を新しい装いで追究 していると考えることもできよう。もしそうであるとするならば、ディルタイ的な「体験=表 現=理解」の思想から、協同学習をはじめとするアクティブラーニングの原理を根拠づける努 力が今後の課題であると思われる。

引用・参考文献

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起こっていること」小林昭文・鈴木達哉・鈴木映司・アクティブラーニング実践プロジェクト(編)

『現場ですぐに使えるアクティブラーニング実践』産業能率大学出版部、1-23頁。

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Bloom, B., Englehart, M., Furst, E., Hill, W., & Krathwohl, D. (1956). Taxonomy of educational objectives: The classification of educational goals. Handbook I: Cognitive domain. New York: Longmans, Green.

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Gesammelte Schriften, Bd. 7, Der Aufbau der geschichtlichen Welt in den Geisteswissenschaften, Stuttgart

参照

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