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  一アジアからみた日本語問題一

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(1)

日本植民地教育政策論

一一 坙{語教育政策を中心にして一

小 沢 有 作

 1 言語侵略という自覚

  一アジアからみた日本語問題一

 いままであまりとりあげられたことのない視点であるが,日本語教育という 軸をたてて近代における日本とアジアの関係を考えてみるならば,われわれは そこにどのような問題を発見することができるであろうか。

 たとえば,つぎの文章は問題の所在をするどく指摘するものではないだろう か。一在日朝鮮人科学者が著作の冒頭にしるさずにはおられなかった感概であ

 (1)

る。

  「私は日本語で話したり書いたりすることについて,常に不自然さを痛感  している。

  朝鮮人が日本語を話すということは,思想交流の手段として一つの外国語  をマスターしているという技術的な問題に解消しえないなにかをもってい  る。それは朝鮮人が日本語を話すにいたった事情が,帝国主義と植民地,圧  迫と被圧迫という関係から切りはなしては考えられないからである。

  私と同じ世代の人々や,更に年をとった人たちは,日本語を強要され,ま

 た日本語を話せないために・さまざまな苦しみを直接身にうけてきたし,ま

 た・日本で生れた子供たちは,母国語を充分に話せないために民族的虚無主

 義におちいる危険性をもっている。いま在日朝鮮人が日本語を話すというこ

 とには・過去において朝鮮人が被圧迫民族として身にうけた苦しみや,現在

 日本に住むことによっておきてくるさまざまな問題がからまっているのであ

(2)

 る。

  日本では,日本語を話す朝鮮人のこうした歴史的背景ないしは朝鮮人の民  族的感情を深く考えてみるような見方,ないし研究課題がほとんどないので

 はないカ・と思、うo」

 朝鮮人からみた日本語のひとつの姿が告発されている。それは,政治的な支 配一被支配という状況のもとで,日本語の強制という事態が民族への加害者と

して作用してきたことにたいする,きびしい指摘にほかなるまい。

 石田英一郎は,「共通のことばを話すことは,民族を民族として形成するも っとも基本的な要因ではないでしょうか。一つの民族がその固有なことぽを失 い,べつのことばを話すようになるとき,それは民族としての存在がそこで終        (2)

り,べつの民族になるという気がするのです」とのべているが,戦前,日本帝 国主義が朝鮮,台湾などアジアの植民地。占領地域で実施あるいは追求しよう

とした日本語教育政策は,まさに,ことぽをかえることによって民族をかえ る,ということではなかったか。その試みはアジア諸民族の抵抗によって成功 しなかったが,しかし, 「朝鮮国籍をもつ日本人」ともいえる在日朝鮮人青少 年の数おおくの存在を想うとき,日本語のはたす他民族破壊の作用にりつぜん

とするものを今なお感じざるをえないのである。

 母国語を自由につかう権利をもっているかどうかは,その民族が政治的にと 同時に文化的に独立しているか否かのメルクマールになるものである。それに 反して,他民族の母国語使用の権利を政治的。暴力的に禁止あるいは制限し

て,自国語の使用をおしつけるものは,ことばをうばうことによって独立をう ばう,ことばをかえることによって民族をかえるものとして,「言語侵略」者 であるといわねばならない。

 われわれは,アジア諸民族に加害者としてはたらいた日本語(教育)のひと

つの姿を忘れさってはならない,と思う。それはアジアにかかわる日本の歴史

の負の遺産である。なによりも,アジア諸民族の母国語の自由な使用をふみに

(3)

じってきたという歴史の自覚と反省こそが,われわれに他国民の国語をふみに じりながら,他方で「国語尊重」を説いたかっての母国語意識のあやまりをの りこえて,しんの母国語の尊重とはなにかを考えさせ,正しい態度をとらせ,

ふたたび誤りをくりかえさせなくしてくれるであろう。このような自省は,歴 史の負の遺産を国民の目から消しさってしまうことをねらっている「明治100 年」のイデオロギーともたたかう努力に,つらなってくるであろう。

 このような今日的な課題をあたまにおきながら,もういちど,近代における 日本語の歴史を,たんに国内的視野にとどめることなく,アジア全体のひろが

りのなかで歴史的にとらえなおしてみるとき,われわれは,アジアの諸民族語 に優位する日本語という位置づけの意識(==民族語のあいだに先進・後進の序 列をつける選別と差別の言語意識)と,それにうらづけられた日本語強制の教 育実践(=言語侵略への教育の加担)とが,ひとつの潮流として実在していた ことに,あらためて気づかざるをえまい。そして,このような侵略の潮流は太 平洋戦争下においてもっともつよまり,敗戦と同時に歴史から追放されてしま

っている。この歴史とかかわって,われわれはさしあたって三つの問題を指摘 しておかねばならない。

 第一の問題は,さきにふれた日本語の強制教育の歴史である。江戸末期から

明治・大正の時代にかけて,日本政府はアイヌ族にたいして日本語を強制し

て・アイヌ語の衰弱をはかる言語政策をとってきた。この前科にかさねて,戦

前の日本では,侵略と統治の手段としての日本語のアジア進出という歴史がみ

られた。日本の政治権力がおよんだアジアの地域では,その母国語がうばわ

れ,あるいは制限されて,かわりに日本語が共通語として権力的に強制され

た。とりわけ,手がとどきかねない民衆の日常生活への規制にくらべ,支配の

ゆきとどく官庁とか学校とかでは,いちはやく日本語のおしつけ(教育)がす

すめられてきた。こうした状況が,台湾では50年,朝鮮では35年,満州では10

年,中国占領地や東南アジア諸国でも数年,強要されたのである。

(4)

 このような日本語の強制的普及(=・言語侵略)は,歴史的にみて,三つの形 態ないし論理をふくんでいたように考えられる。その1は,台湾,朝鮮などの 植民地(「外地」と称していたが)にたいする「国語としての日本語」という 論理の適用である。「台湾人」,朝鮮人は日本帝国臣民になったのであるから,

母国語をつかわず,日本語を「国語」として学習・使用することが義務である,

という論旨からである。その2は,1の派生とみてもよいが,「満洲国」にお いて日本語は第1「満洲国語」の位置をしめ,中国語,蒙古語という他の「満 洲国語」より上位をしめていたことである。かいらい国家でも,独立国家の名

目をもつ以上,日本語だけを「国語」とすることはできなかった。このように 日本の政治支配のつよいところでは「国語としての日本語」強制の言語政策が とられたが,日中戦争,太平洋戦争とすすんで,政治支配のかたまらない軍事 的占領地域では,日本語をアジアの共通語とする政策が考えつかれた。中国占 領地域と東南アジア諸国にむけては「東亜語としての日本語」が叫ばれるにい

たっている。

 もともと,民族形成において母国語の修得が基底にすえられていることは,

ひろく承認されているところである。国民形成の教育は母国語の教育と学習を ぬきにしては成立しえない。このような教育の公理をふみにじるわざは,どの

ような慈善的な装いをとろうとも,それじたい反教育の本質をそなえるもので ある。アジアにむけられた日本帝国主義による日本語強制政策は,まさにこれ

ら諸民族にとって反教育としかいいようのないものであった。支配一被支配の 関係のもとで支配国の言語がはたす政治的な役割の問題については,たんなる 外国語修得の問題とは区別してとりあつかう必要がある。

 われわれは,アジアからみた日本語の問題として,こういう言語侵略の50年 の歴史をもっていることを,まず留意しなければならない。

 第2の問題は,大国主義的な日本語意識が国民のあいだに形成された,とい

う問題である。このうらうちがあるから,アジアへの日本語進出が合理化され

(5)

支持される。それは2つの心理的過程をふくんでいるように思われる。

 まず,日本の国威の伸長は日本語の普及の伸長によってかためられるべき だ,という政治と言語をむすぶ「アジア進出」の心理のひろまりがある。いつ 頃からこういう心理が形成されたのか確かめていないが,たとえば,大正末の 芦田恵之助の発言は,そのひとつの例証となりうるものであろう。彼は,日本 語の通じない当時の「ハルピソ」を旅行して,そこで日本語と日本人に出会え た喜びを語ったのち,旅館で「ねていて静かに考えました。『国語の行はるる 所は悉く我が領土である』と。よしその地が何処に領有されているとしても。

さらに考えました,『日本民族が発展しようとするならば,国語を尊重して,

      (3)

その行はるる区域を拡張することである』と。」。のちに芦田は「満洲」での 講習会,朝鮮,台湾に日本語普及のために歩いただけでなく,68才の高齢の身 で,「満洲国」での日本語講習会におもむぎ(昭和15年),死に場所にしても

よいと思い定めたこともあったのである。

 日本語のアジア進出促進の心理がさらに一歩すすむと,アジア諸民族からお くれた母国語をうばいすすんだ日本語を修得させることが教育上の善である,

という心理に転化する。「国語としての日本語」,「東亜語としての日本語」

という考えをささえる柱のひとつになる。このような心理,むしろ価値観の転 倒をあらわす象徴的な教材が初等科国語巻3(昭和16年刊,小学4年用)記載

の「君が代少年』であった(後述)。

 戦前の日本では,日本語の普及は2つの側面をもっていた。欧米にむけて

は,対等な民族同志のあいだでの文化交流や日本理解をつくりだす目的で行な

われた。ここでは,あいての主体を認めた上ですすめる「外国語としての日本

語」教授という明確な限界がひかれていた。他方,アジアにむけては,前記の

ように,あいての民族的主体を否定し,侵略と統治の手段としての日本語の進

出がめざされ,天皇制思想と国粋文化をおしつけ注入する役割が課せられてい

た。日本語はアジア諸民族の母国語の上にたち,これを駆遂もしくは制圧する

(6)

ものとして位置づけられていたのである。戦前では,この側面が日本語普及の 支配的な勢力をしめていた。

 日本国民のおおくはこれに照応する日本語意識を育てていた,といえる。つ まり,日本における「国語尊重」の意識がうらにアジア諸民族の母国語にたい する軽侮 すすんでは破壊の意識をふくんで一般化していたこと,別言すれ ば,日本語意識のなかにアジア軽視が貫流していたというゆがみがみえていた

のである。

 このようにしてアジア諸地域に日本語が進出するにつれて,日本語の「整理 統制」という課題が日本にはねかえり,言霊論ではおしきれない日本語の科学 的認識の方法が提起されるにいたった。これが三番目の問題である。

 外国語としての日本語教育法はアジアの諸民族を実験台として発展した,と もいえるのであるが,台湾や朝鮮における日本語教育の試行錯誤の経験から,

       (4) じつは日本語に「発音,語彙および語法の上に明確な標準がないこと」が日本 語普及の難点となっていると自覚されてきた。その難点も,強大な武力と弾圧 を背景に日本語教育をすすめうる場合には,いわば「国語としての日本語」が 強制できる地域では,なんとか強行突破しえたのであるが,「東亜語としての 日本語」が実践課題になるようになると,政治支配力がふかく浸透しない広大 な地域の膨大な民衆にたいしては,より合理的,効率的な日本語教育法がのぞ まれ,そのためには,ひるがえって「国語・国字問題の解決」に身をいれざる をえない状況が生じてきたのである。これは昭和14,5年以降に顕著になった

といえるであろうQ

 実践者からの問題提起によると,①「ソノ語ノ極メテ豊富ナルコト」,②

「表現形式,トクニ丈字ノ複雑ナルコト」,③「発言ト文字ガー致シテイナイコ ト,特二仮名遣ノ複雑ナルコト」,④「国語法ノ極メテ複雑ナルコト」などが        (5)

日本語の修得を妨げる日本語に内在する要因である,という。研究者の側から

いうと, 「適切な指針を提供するような日本語の科学が成立っていなかったの

(7)

だ」という反省である曹)こうして,「日本語を世界詠するためには,先ず日 本語自身を整理し確定しなければならない」という発想からの日本語への問い       (7)

なおしがはじめられたのである。

 このように,さしあたり,アジアからみた日本語(教育)の問題として三点 指摘できるのであるが,それにしても,通して気にかかる事柄はアジアの諸民 族の母国語を見下げ,邪魔ものあつかいにして当然としてきた意識の流れであ る。前記の実践者は,教育をさまたげる要因として,日本語そのものの複雑さ

とならべて,被教育者が母国語をもっていることをあげている。たとえぽ,

「各自相手が自分ノ国ノ言葉ヲ持ッテ居ルト云フコト,随ッテ食ヒタクナイ所 ノ言葉ヲ無理二食ハサセナケレバナラナイト云フ困難ナ事情」があると文句を いい,また「次二日本語ト母国語ノニ重生活デアリマス,ソレガ為二学習シタ

日本語ト云フモノガ本当二練ラレル機会ガ少クテ,実際二使ヘル日本語ヲ作リ       (8 

上ゲルト云フコトニ非常二骨ガ折レル」という不平をのべる。これはすでに「外 国語教育としての日本語教育」の域をこえた,上から日本語をおしつける支配 老の発想である。これがすすむと,台湾の担当者のように,「叉国語教授ヲ受 ケル者ノ母語ト云フモノヲ取去ツテシマハナイト(日本語は一引用者註)伸ビ

       (9 

ナイ」という見解になる。アジアへの日本語のおしつけとアジアからの母国語 の剥奪とは,対の概念として論理的に,また外的強制力で可能なところでは実 践的に,はたらいていたのである。この点であいての母国語教育を認め尊重し たうえでおこなう欧米むけの日本語教育とは異質であることに,自省の注意を

はらっておきたいと思、う。

 ところで,以上みてきたような日本語のアジア進出の歴史と問題点は,戦後,

あばかれることなく忘れさられている。日本語の近代史にとりくんだ書物のお

おくは,これらにふれることがない。国語教育史についても同様である。いい

かえれば,日本語教育における侵略責任の問題は不問に附されて,現在にいた

っているのではなかろうか。ここにも,「アジアからみた日本」という問題視

(8)

角が失われていることを痛感せざるをえない。

 また,いまよく「韓国」旅行のさい,30代以上の成人は日本語をよく知って いるから日本語でなんとかなるさ,という安易な冗談がとりかわされるが,朝 鮮人の心の底にうつく傷,日本語を暴力的に覚えさせられた歴史の痛みに思い をはしらせる日本人は,いったいどのくらいいるであろうか。言語侵略の責任 はすでに解かれているとでも思っているのであろうか。

 アジアと日本語との否定的なかかわりかたが支配的であったとしても,その さい,たしかに,日本語学習を仲立ちとして,逆に社会と自然にかんする真実 をつかみとっていったアジアの青年が少数ながらいたことも,見落してはなら ないであろう。朝鮮人や中国人の青年で,日本で社会変革の理論を学び,祖国 の独立と解放のたたかいに参加していvbたものが数おおくいたことは,歴史の 事実である。しかし,その功のおおくは,日本語修得を逆用して抵抗と進歩の 一助にかえたそれら青年の主体性に帰せらるべきである。日本政府は,たとえ ば留学生取締規則などをつくって,それらアジア人青年たちを弾圧したり追放 したりしてぎたのであるから。その構造は,「出入国管理法案」をつくってア ジア人(学生)の政治活動を禁圧するいまの政府においても,ひきつがれ変る

ことカミないo

 (註1)朴慶植「朝鮮人強制連行の記録」

   昭和40年刊,10頁。

 (〃2)石田英一郎「日本文化論」

   昭和44年,32頁。

 (〃3)芦田恵之助「第二読み方教授」大正14年。中内敏夫編「ナショナリ    ズムと教育」昭和44年,所収。

 (〃4)保科孝一「日本語の統制を強化せよ」 『文学』

   昭和15年4月号o

 (〃5)大連水源公学校長,羽場尚恕の発言,『国語対策協議会議事録」

(9)

  (文部省)昭和14年。

(ク6)佐久間鼎「日本語の再認識」,前掲『文学』所収。

(〃7)鶴見祐輔「日本語を世界語と為す運動」,同上誌。

  昭和14年にひらかれた「国語対策協議会」 (後述)では,

 海外普及ノタメニハ日本語ノ整理統一ヲ以テ喫緊ノ事トナス

「日本語ノ

宜シク文  部省二強力ナル国語ノ調査統一機関ヲ新設シテ速カニ国語問題ノ解決ヲ  図ラレタシ」という決議ガ文相にあげられている。

(註8)前掲,羽場尚恕の発言。

(〃9)台湾総督府文教局編輯課長 加藤春城の発言,文部省,前掲書。

2 「国語としての日本語」の系譜

 日本語を自国民の国語として使用するだけでなく,他のアジア民族(朝鮮民 族と中国民族の一部)の「国語」として強制的に移植することが試みられた事 態は,日本の植民地領有時代の言語政策上の中心的な特徴であった。

 教育に国境があり,言語に民族の国境がひらかれており,だからこそ,国民 教育といわれ,母国語と称されている。その公理をふみにじって,日本の教育 と言語の骨格をそのまま他民族の教育と言語に移しかえよう,移しかえること ができるという考えかたは,いつ頃,教育のなかのひとつのオピニオソとして 成立したのであろうか。明治20代後半,日清戦争で朝鮮問題,その近代化の方 途を日本が援助・指導するという問題意識が教育界にもひろまりはじめた頃 を,ひとつのヤマパとみることができないであろうか。当時の「戦後教育」の 構想のなかで,朝鮮近代化の手段としての日本語の移植の必要性が論じられ

(「教育時論」誌その他),現に日本人の手による日本語学校がいくつか設けら れはじめていたものであった(たとえば,鮎沢房之進,その他)。これらは,

思想的には,文明語としての日本語と日本文化の移植によって「韓国を開発す

る」という福沢諭吉の考えの系統に属するものであったであろう。福沢はそう

(10)

説いただけでなく,すでに明治10年代に弟子の井上角五郎をおくり,日本の文 化的影響をはかっている。

 こうした「近代化の手段としての日本語」論が「同化の手段としての日本 語」論に転化していくのは,実際に植民地を領有し,その教育の根幹に「教育 勅語」がすえおかれ,これと不離一体のものとみなされる考えが定着してから であるが,それを準備した実践上の前提として,アイヌ族および沖縄県民にた いする日本(標準)語おしつけの同化教育のつみかさねがあり,それからの成 功可能性の類推があったのではなかろうか。もちろん,アイヌ族と沖縄県民と はおなじ日本国民といっても民族的にことなるものであるが,しかし,おくれ た人間集団を日本語強制をとおして日本国民に同化しうるという当時の観念 は,すでに一般化していたすすんだ日本一おくれたアジアという意識に介され て,容易にアジアの他民族に適用されていくものとなっていた。

 日本がはじめて植民地として領有した台湾で,軍事的征圧と産業開発のため

「日本化」の教育活動は当初それほど重視されなかったが,その僅かな教育で も「国語伝習所」の設置という日本語教育の実践からはじめられたことは,象 徴的な意味をもつものであろう。r国語伝習所ハ本島人二国語ヲ教授シテ其ノ 日常ノ生活二資シ且本国的精神ヲ養成スルヲ以テ本旨」とすると定められてい た。これはつまり,「武力征圧のつぎは精神的同化・従属へ」,「精神的同化 は日本語をとおして」という発想のあらわれにほかならなかったのである。そ

うであっても,日本語のはたす役割がはっきりと位置づけられるのは明治40年 代にはいってからのことである。

 多少語句いじりに偏すると思うが,台湾で日本の支配者が意図した学校の役

割とそこでの日本語教育の位置づけを法令のうえでたどってみると,3つの変

化をへてきているように感じとれる。明治31年に制定された「台湾公学校規

則」では,公学校の役割として,「本島人ノ子弟二徳教ヲ施シ実学ヲ授ケ以テ

国民タルノ性格ヲ養成一1することと並列させて, 「同時二国語二精通セシム

(11)

ル」ことを記している。学校を児童「日本化」の場であると位置づけながら も,その内部ではまだ「日本化」と日本語教育のつながりを論理的に表現しき っていない段階である。それが明治37年の同規則改正のなかでは,「公学校ハ 本島人ノ児童二国語ヲ教へ徳育ヲ施シ以テ国民タルノ性格ヲ養成」するところ だ,と規定しなおしている。r国民タルノ性格」・要素として,31年当時では 徳育プラス実学であったものが,37年には徳育プラス日本語というふうに置換

されたのであり,同化の手段としての日本語教育という論理が整えられたので ある。そうして,徳育と日本語を二大要素にした同化教育にさらに「教育勅語」

をその背骨にするというスジがとおされたのは,明治44年になってからのこと である。その前年植民地にされた朝鮮では,朝鮮人にたいする「教育ハ 教育 二関スル勅語の旨趣二基キ 忠良ナル国民ヲ育成スルコトヲ本義トス」と定め られ,教育勅語と日本語教育が不離なものとして登場してきたのである。これ と同じ法律は台湾では大正8年になって制定された。この時から,日本語教育 の役割は,植民地台湾。朝鮮の子どもを教育勅語的な日本帝国臣民像に変型す ることにある,というはっきりした認識が成立したのであり,したがってまた

「国語としての日本語教育」という発想がでてくるようになったと思われるの

である。

 もちろん,このような政策上のたてまえがただちに現実化したわけではな い。台湾や朝鮮の子どもにとって民族的に異質な教育を上からおしつけていく のであるから,教育外的な権力による就学強制の試み,日本語修得による実利 の宜伝,学校の設置・普及などの子どもを日本学校にひきよせる措置とならん で,日本語教育法の改善という教育方法の面での改良が不可欠であった。たと え「国語としての日本語」がたてまえとされていても,現実には,その地の子

どもは日本語以外の言語を母国語としているのであるから,「外国語としての

日本語」教育法としてとりくまれ,その改良と普及をはかっていくほかになか

った。そのつみかさねがあり,ある程度の実質がつくられ,教授用語として日

(12)

本語がつかわれるようになって,はじめて「国語としての日本語」論が定着す るようになる。それには昭和10年代にまでいたる時間が必要であった。

 日本語教育法は,一方では国語教科書をだんだんと「内地準拠」の方向にも っていく努力とともに,教授方法の面で直接法にちかづき,ついには学校から それぞれの母国語を追放して日本語一色で教える方向をたどっていく。台湾で は,領有当初は対訳一点ばりであったが,それでは日本語の力がつかないの で,明治30年代にはいってから「グアソ」式教授法が導入された。直接法の端 緒で,以降その改良のみちをあゆむが,そのはじめは動作と一諸に言葉をおぼ えさす一「立ちます」「歩きます」「窓を開ける」という時間の順序をともなっ て一方式であり,大正2年頃からは語法の形式をたどって表現の形式をあたえ る一「是はなんですか」「是はどんな花ですか」からはじまって複雑な語法ヘ ー方式にうつり,さらに大正12年頃からは会話をおもんずる,というように変 遷してきたのである。この間,おおくの日本人教師は中国語なり朝鮮語なりを 知らないから,日本語で教えつづけたのであり,昭和13年の朝鮮と台湾での

「教育令」の改正によって,教授用語は日本語とされるまでにいたったのであ

る。

 こうした学校での日本語教育のねらいは,台湾の場合であるが,日本語をま ったく知らない子どもでも,「先ヅ公学校デ6年間教ヘマスト,如何ナル劣等生 デモ,及辺鄙ナ所デ卒業後余リ国語ヲ使ハナイデ数ケ年ヲ経過致シマシテモ,

全然国語ヲ忘レテシマウヤウナコトハナイ,サウ云フヤウナ者デモ国語ヲ以テ        (1)

普通ノ用ヲ弁ジ得ルノデアリマス」というふうにかえる点におかれていた。こ れは朝鮮の場合も同じであった。

 「国語としての日本語」という言語政策は,昭和10年代になると,外延的に は子どもから家庭のおとなまで拡張されるようになり,内面的には,とりわけ 子どもに母国語をつかうことに罪の意識を醸成させる方向にすすんでいった。

 日中戦争から太平洋戦争にかけて,官庁や学校だけでなく家庭のなかでもそ

(13)

の日常語として日本語をつかうよう,台湾や朝鮮のすべての人びとに強制さ れ,これが国語常用運動と称せられていた。学校と子どもはその尖兵の役をあ たえられた。その状況の一端を朝鮮人児童の作文をとおしてうかがっておこ

(2)

う。

   おかあさん

      京城渓洞公立尋常高等小学校        第2学年  崔 潤 昌

  この前学校で,おかあさんやねいさんに,こくこのおべんきょうをさせる  という先生のおはなしをきいて,私はそのことをおかあさんにいいました。

 それからおかあさんは毎日けっせきしないで,私が家にかえるころになる  と,本とがくしゅうちょうと,えんぴつと,けしごむと,こがたなをもっ  て,「こくごをおべんきょうする」とおっしゃって,学校へおいでになりま  す。あるばん,私がおべんきょうをしていると,おかあさんもおべんきょう  なさいました。私がおかあさんに,きくのはなをさして,「これはなんです  か」ときくと,わかりませんでしたので,私が,「はなです」とおしえてあ  げました。今はかえっておかあさんが,私におしえてくださいます。私より  おそく学校にはいりましたが,こくごがお上手です。 rおかあさんはかしこ  いなあ」とおもいます。いつもおかあさんと,私はこくごでおはなしするよ  うにきめました。

 小学二年生の朝鮮人児童がこれほどの日本文をつづることは,教師の援助が あったにせよ,おそるべき日本語教育の結果であるといわねばならないであろ

う。その結果は,朝鮮語使用は罪で日本語を使わなけれぽならないという,子 どもたちのいたましい努力・=犠牲のうえに成りたっている。これも朝鮮での事        (3)

例であるが,ある小学三年のクラスでは,つぎのようなきまりがつくられた。

   国語を使ふこと

 1.僕たちはきっと国語を知っている人には国語を使います。

(14)

 2.国語札を取られた人は(朝鮮語をつかうたびに一枚とられる約束一引用    者註)一枚一銭のばっ金を出します。

 3.ぽっきんはたまったら国ぽうけん金にします。

 このようなきまりをつくった学級の優等生は,病気になったとぎ,うわ声で

「誰かッ,朝鮮語を使ふのは……」,「先生,3年生で今頃朝鮮語を使ってい るものは一人も居ません」とさけんで,見舞いの日本人教師を感動させたので あった。これと同じ状況は台湾でもみられ,教材化されている(5章,「君が 代少年」を参照)。

 台湾では50年,朝鮮では35年のあいだ,「国語としての日本語」政策が権力 的にすすめられてきた。その結果,現象的には,官庁や学校の用語も,新聞や

ラジオの用語も,すべて日本語にそめられ,朝鮮語や中国語はその姿を消すに いたった。しかし,それは住民の言語生活の公的な部分あるいは表層を覆うに すぎなかった。昭和20年当時,台湾では30%,朝鮮では65%の住民が日本語を 話せず書けずの状態にふみとどまっていたし,日本語を修得した者も,おのれ の母国語を知ったうえで,いわば二重言語の状況をたもっていた。そうした意 味では,「国語としての日本語」政策は,住民のすみずみまでいきわたり,そ の言語生活を内面からつきうこかしていたとはいえなかったのである。

 それでも,日本の支配者はこのみちを有効なみちと考え,さらに,人為的に つくった「満洲国」でも「国語としての日本語」政策をおしすすめた。それは

「大陸における日本の本地垂跡」であり,日本人は「日本帝国臣民であるとと       (4)

もに,満洲国人民とくに指導的中核的構成分子」であるとされたから,当然,

日本語も指導言語としてもちこまれた。しかし,台湾や朝鮮とはことなって,

かいらい政権であれ独立国家のたてまえ,五族協和の粉飾をしているので,日

本語だけを国語とすることはできず,中国語,蒙古語とならべて,その上位に

たつものとみなされた。その教育方針の一には「日本語は日満一徳一心の精神

に基き,国語の一一として重視する」と位置づけられ,これと「日本に関する認

(15)

識を深め,日満不可分の関係を確立せしむる」という教科書の編集方針とがか さなり,実質的に「国語としての日本語」の普及に主力がそそがれたのであ る。ある現地の教師の観察では,「国民学校や日語教授の徹底している中等学 校の生徒達の中に,日本人と殆んど変らぬ発音や抑揚を以て話す者を発見する       (5)

こと屡々であります」という結果も生れていた。

 このようにして,中国人や朝鮮人にとって他国語である日本語が国語として 上から権力的に強制されるという歴史が展開されてきたのであった。これを軸 にして,そのまわりに「東亜語としての日本語」という考えが成立し,その実 施もはかられていく。

 (註1)文部省「国語対策協議会議事録」昭和14年。

 (〃2)京城日報社・京日小学生新聞編「全鮮選抜小学綴方総督賞模範文    集」昭和14年。 「朝鮮語を日本語の特殊な一方言と認め,朝鮮の全部の    人が正しい国語を話すように仕向け」る,その一環として,京日小学生    新聞が全朝鮮小学生の「綴方競走」を主催し,約5万の応募作品があつ    まったという。うち,入賞作品300編を集録したのが,この「模範文集」

   である。引用した作品はその一編である。

 (ク3)飯田淋「半島の子ら」昭和17年,80頁,93頁。

 (ク4)田村敏雄「満洲と満洲国」昭和16年,37頁。

 (〃5)藤原英夫「満洲国に於ける教育の歴史,現状及び将来への展望」

   『日本諸学研究報告・教育学』所収,昭和16年。

3 「東亜語としての日本語」の系譜

 昭和14年6月,中国から東南アジアへと日本の侵略が拡大しつつあるとき,

文部省は東亜新秩序建設の一環として,アジア諸民族の問に日本語の進出をは

かるため,その方策を協議する目的で,「国語対策協議会」を東京で開催し

た。会議の参加者は,企画院,興亜院,外務省,大蔵省,陸軍省,海軍省,拓

(16)

務省など関係官庁の担当者,朝鮮,台湾,関東州,南洋諸島,「満洲」,「華 北」, 「華中」, 「蒙彊」,厘門など,日本植民地の日本語教育担当者,学者

として藤村作,小倉進平,久松潜一,神保格,島津久基など,それに文部省側 から次官,図書局長以下10名近くが加わっていた。このような参加者からも予 想されるように,会議はいままでばらばらにすすめられていたアジア各地での 日本語教育の実践を総括し,今後の日本語教育政策を「本国」で統一して立案 し,推進していくための会合であった。この種の会議は,40年におよぶアジア 諸民族に対する日本語教育の強制の歴史にもかかわらず,いままで一度も開か れたことがなかったo

 ここでの経験の総括をふまえて,こんこのアジアに対する日本語進出の施策 として,つぎの6点が時の荒木貞夫文相に建議されている。

1

1

国語ノ調査統一機関設置ノ件 日本語教育連絡機関設置ノ件 日本語指導者養成ノ件

標準日本語辞典編纂ノ件 日本歌詞・楽曲選定ノ件

レコード拉二発声映画製作ノ件

 このような時点をひとつの契機にして,従来の「国語としての日本語」教育 の系譜にかさねて,「東亜語としての日本語」教育の展開がめざされるにいた った。それは日本語のアジア進出が段階として拡大されたことをしめしてい

る。

イ 「東亜語としての日本語」の思想

 「東亜の共通語としての日本語」 (石黒修,昭和15年)という思想は,「東

亜新秩序の建設」という政治(=侵略)課題の一部として成立していったもの

である。その問題のされかたは,はじめに政治担当者が課題を提起し,方向を

(17)

明らかにして,しかるのち学者や教師を組織し,世論をもりあげていく,とい うあゆみをたどっていった。それは,日本語の普及という政治の必要という外 からの要請にもとずくものであって,アジア人の自発的な日本語学習の要求に

よるものでないことの必然的な結果であった。だから,藤村作のいうように,

「今日の国語進出の問題は時局と共に在るのであり,時局を離れて考えらるべ

      (1)

ぎことではない」性質をはじめから内包していたのである。

 それでは,「東亜語としての日本語」は,どのような任務をになうものとし て,政治担当者から構想されたものであろうか。その最初の提起者の一人であ       (2)

る文部当局は,前記の「国語対策協議会」でつぎのように提案している。

 「八紘一宇ノ大理想二基キマシテ此ノ日本語ガ海外二普及サレ,他民族ガ日 本語ヲ十分二理解シマシタナラバ,日本語ノ響ク限リハ日本ノ国策モ,日本文 化モ理解サレ,東亜共同一体,新秩序ノ建設モ期シテ侯ツベキデアリマス,此 ノ日本語ヲシテ東亜民族ノ,謂ババ慈悲深キ母タラシメ,東亜諸民族二日本国 民ト同様ナ考へ方ト感動トヲ与ヘタイト思フノデアリマス」と効用を説明した のち,方針として, 「八紘一宇ノ大理想二基キ,東亜新秩序ノ建設ヲ為スニ ハ,日本語ノ普及ヲ以テ根基トナス,日本精神日本文化ノ発揚モ,我ガ国策ノ 遂行モ,日本語ノ普及二侯ツトコロ大ナルモノアルト信ズ,ココニ於テ本省ハ,

日本語ヲシテナルベク速カニ東亜ノ共通語タラシムルノミナラズ,延イテハコ レヲ世界普及二資セシメソコトヲ期ス」と大見栄をきっている。

 日本によるアジア支配確立のために日本語普及は有効であるから推進する,

という考え方である。もっとあけすけに保科孝一の口をかりていうと,「共栄 圏の各民族を統合し,大日本帝国をその盟主と仰がしめるには,まつ日本語を        (3)

共栄圏内の通用語とすることが,もっとも緊要な条件である」ということにな

るであろう。このように考えていくことは,石黒修のいう論理が前提とされて

いるかぎり一つまり「日本語が前進しさえすれば日本精神は随行する。日本語

を普及させることは,その相手に日本国民の思想,考え方を植えつけ,感動を

(18)

        (4)

あたえることである」という予定調和的な論理一,あたりまえなことであるの かもしれない。こうして,「東亜語としての日本語」という観念は,日本語の 普及→日本精神への感化→日本盟主論への思想的支持というすじみちを前提と しつつ,政治(=侵略)的動機から提唱され,イデオロギー化されていったも のであった。

 そうであればこそ,「東亜語としの日本語」が実際にひろまっていくのは,

「日本語の性質なり文字の問題から,此の問題はきまるのではなくて,日本の        (5)

政治経済の力の問題によってきまるのである」というように,文化外的な強制 力の強弱がその成否を左右するのだという判断が,必然的に附随してこよう。

そこから,たとえば,アジア諸国の「公文書用としては日本語を使ふ。これが

     (6)

根本問題です」などという発言もでてくるのである。

 このような理念として提唱された「東亜語としての日本語」が多少でも実践 されていくのは, 「東亜新秩序建設」の政治構想の段階では,中国占領地から であったが,より本格的には,太平洋戦争がはじまり,日本が東南アジア諸国 を軍事占領し,「大東亜共栄圏」が暴力的に形成されてからである。いずれに せよ,占領地行政の一環として現地住民に強制されて,はじめて現実化されて いった。そして,東南アジアー時支配は「軍政」として終始したから,「東亜 語としての日本語」の現実態はあくまで陸海軍の軍事力をとおしてのみ存在し えた,といえる。

 「東亜語としての日本語」という思想は,以上みてきたように,政治に主導 されて成立した。しかし,それだけでは学問的にあまりに心細い。そこで,国 語学者の側からの補完的な理由づけがさまざまにみられた。その趣旨を要約す

ると,アジアでは日本語のみが近代文化にたえる言語で,他は後進的すぎる,

ということにつきよう。西尾実はこう主張している一「日本語を大東亜の共通

語にして普及を図るにしても,日本が指導的地位にあるからH本語を共通語に

するのだと考えることも出来るが,そのものとしても日本語以外にさういふ資

(19)

格のあるものがあるかないか。支那にしても近代文化の訓練を受けていないか ら適格とはいえないでしょう。また出来るにしても日本語が有するほど適格性 が大きくはないと思います。大東亜の諸言語の中で共通語たり得るものは日本 語といふことが言えないものでしょうか。それをはっきりさせて,大東亜共通 語としては日本語の外にはないといふ信念で普及に当れば効果が適格で進歩が

      (7)

早いと思ひます。」

 このような近代語としての日本語の資格がただちに「東亜共通語」としての 主張に矩絡していけるのは,民族語の独自性に着目するのではなく,諸民族語 を先進一後進に序列化してしまう大国主義的な思想が介在しているからであろ う。したがって,このような考えかたからは,アジア諸民族の民族形成とその 教育にとって母国語の果す基底的な役割については盲目の状況しかあらわれて

いない。共通語という名目によるアジア諸民族の母国語教育の制限の意識が,

当然のこととして生来してしまうのである。一例として,保科孝一の言をひこ う一「住民の地方語は新時代の教育を受け得る程度に発達していない。政治・

経済・産業・科学・歴史・宗教・軍事等,一通りの教育を施し得るまでに,ビ ルマ語にしても,マレイ語にしても,いまだ発達していないのであるから,日       (8)

本語によって教育を進めるより外はない」。

 「東亜語としての日本語」は政治の優位に依拠し,日本語先進論に補完され るという性格を有していたが,同時に見落されてならない点は,欧米の文化・

言語にたいする敵対意識の強烈さであろう。世の風潮もそうであったが,この 面でも,「しかし,過去数百年間にしみこんだ英語の力は根強いものです。そ して共通語としての日本語はいま生れたばかりの赤ん坊に過ぎません。日本語        (9)

教師として,われわれは英語とも戦っている,ということを切実に感じます」

という対抗意識であふれていた。これがさらに演繹されて,アジア人の「欧米        (10)

的なものの考え方によって歪められた性格をたたき直すことである」というね

らいまでにいたったのである。

(20)

 このようにみてくると,「東亜語としての日本語」の運命は,それが文化・

教育・言語に内在する力によってではなくて政治・軍事の外的な力に依存して いることから,外側からのつっかえ棒がなくなるとただちに崩壊にみちびかれ てしまう性格をもっていた,とみなされるのも止むをえまい。事実はその通り であることをしめした。

口 「東亜語としての日本語」の実際

 「東亜語としての日本語」は,実際には,日本軍の占領地域のあいだで,軍 政の一部としてのみ実現した。このことをはじめに確認しておく必要がある。

日本語教育関係者は,教師としてではなく,軍政要員の資格でことにあたった。

中央でも,昭和17年8月には「南方諸地域日本語教育拉普及二関スル件」が閣 議決定され,日本語普及に政策としてとりくんでいるが,そのポイソトは「南 方諸地域二派遣セラルル日本語教育要員ハ陸海軍ノ要求二基キ文部省二於テ之        (11)

ヲ養成スルコト」とされている。つまり,東南アジアにおける日本語教育のい っさいの権限は陸海軍が掌握していて,文部省はその下請け的な一部局にすぎ ず,教師も軍事要員にほかならなかったのである。

 その「占領地軍政」においては,治安の確保,国防資源の急速獲得,軍隊の 現地自活が三大原則とされていた。こういう物とり中心主義から生じる現地住 民との摩擦をさける一方法として,実際の日本語教育の役割が期待された。当 時の表現をかりるならば,「殊に,当分の間は国防資源の取得と現地軍の自活 という前提が置かれているのであるから,或る程度原住民にも経済的な重圧が 加はってゆくことは避け得られない。そこで,一一方,原住民に対しても十分宣 撫の目的を達するやうな施策が必要となっていたのである。この場合,精神的        (12)

に彼等の魂を掴むといふ方策が,重要な要諦となり方針となったのである。」

パソをうばうために,聖書ではなくて日本語をあたえよう,という軍の発想の

なかに,日本語教育が位置していたのであった。

(21)

 「東亜語としての日本語1という思想が,「南方占領」という事態を介して,

東南アジアの民衆の前に姿をあらわすためには,以上の二点の制約をせおって きていたのである。同時に,その思想が姿をあらわした当の相手は,すでに独 立をうばわれ,日本に従属した被抑圧民族にさせられていたから,本来対等な

もの同士のあいだに通用する共通語の概念は空洞化し,支配者の言語のおしつ けという現実のみがきわだつことになった。

 このような状況の展開を,シソガポール(当時昭南市と日本が称した)およ びビルマでの日本語普及の実際をとおして,しばらく追ってみよう。

(i) シソガポールの場合

 昭和17年2月の施政方針演説によると,シンガポールは,マレー半島,ホソ コソと一諸に,日本の直轄植民地にされると宜せられた地域である。イギリス 文化の排撃と抗日中国人(華僑)の弾圧虐殺が強制され,日本の専制支配がす すめられた。この占領地の最高行政官(昭南市長)は大達茂雄であり,戦後文 部大臣として「日教組狩り」の先頭にたった人物であった。さらに,内務官僚 からこの地に派遣された緒方信一一は,戦後文部省に転じ,交部次官にまでいた

t,ている。アジア民族支配の「現場責任者」が民主教育抑圧の「現場責任者」

に移っていく点で,忘れてはならぬ官僚たちである。このことは教育支配の官 僚制を考えるさいに見すごせぬ問題であるが,本稿の範囲からはずれる。ここ では,日本語教育実施の模様を,その指導者であった神保光太郎の記録「昭南

日本学園」(昭和18年刊)によって,みていくことにしたい。

 どの占領地でもそうだが,シソガポールでも,日本兵士によってまず日本語 がふりまかれた。さまざまな方言や発音が個々勝手に原地住民一生活の必要か

らうけいれる一にはいり,パカヤローは最上の挨拶というふざけた教えこみも みられた。神保はこれを称して「日本語戦線に於ける最初の散兵隊形」(29頁)

という。つぎに篤志の兵士が日本語小講習会をあちこちでつくりはじめたが,

(22)

これを「集合的に組織化された第2戦線」とよんでいる。

 占領初期にはこのように軍隊が日本語の教育老としてふるまった。軍隊とい っても,将校ではなく兵士たちの自分からすすんでの行ないである。これはあ る意味で,子ども好きであり教え好きであるという日本の庶民の性向のあらわ れであろう。得意な環境ではこの性向はいっそうつよまる。それに兵士たちは 義務教育をうけていて,曲りなりにも片仮名や唱歌を教える能力をもっている のである。だれかれに日本語を教えたがる状況がすぐ生じるのである。こうし ておきた小状況を,神保は「それは強制とか人為的な教育とかいった形式では なく,もっと人間性に即したものであり,上から与えるものでなくして,同じ 位置に於ける贈答の形なのである」(28頁)と,イギリスと較べて讃美してい

る。このような日本語普及にみる兵士や神保の主観的な善意にもかかわらず,

シソガポールの民衆の目からみれぽ「上から与えるもの」であって,「同じ位 置に於ける贈答」ではないことは明らかであろう。そこでは,このような小状 況が大状況における支配一被支配の関係から生じた現象であるだけでなく,小 状況じたいのうちにも支配一被支配の人間関係が貫流していることが,まった

く気付かれていないのであった。

 さて,神保をふくめて宣撫隊という文化工作専門集団が到着して,日本語普 及が本格化しはじめる。その最初のしごとは,「日本語運動」の提唱・実施で あった。昭和17年4月29日の「佳き日」に「日本語普及運動宣言」を発して,

口火をきっている。宣言は,マラヤ,スマトラの原地住民は「天皇陛下の赤子 に加へられた」と告げたあと,「大日本帝国の有難き国体を彼等住民に理解さ せることは,新領土に駐屯する全皇軍将士にとって尊き責務である。そのため には,先づ国民たる資格として,彼等に日本語を学ぽしめ,日本語を使はせね ぽならない」という方針をのべている(260頁,宣言の起草者は中島健蔵であ る)。この方向にそい,日本語週間をもうけ,「まなべ! 使へ! 日本語を

!」をスPt 一ガソにして,そのポスターを50万枚すった。50音表をくばり,市

(23)

内めぬき通りの看板をぬりつぶして,日本語普及の絵や標語をかかせた。映画 の作成,日本歌曲の合唱会の催し,新聞に日本語講座の連載,日本語講座の放 送,片仮名新聞の発行,小講習会用の教科書の編纂などが,相ついで企画され た。まさになりふりかまわぬ日本語おしつけの模様であるが,詩人の神保は,

「日本語は,花びらのやうに共栄圏の中に,美はしく撤かれている。街に村に,

事務所に,車中に」,と表現する。

 日本語の大衆的宣伝のつぎのしごとは,青壮年を対象とした日本語学校の設 竃となった。神保はその「昭南日本学園」の校長に就く。この模範学校では,

日本語教育を中心にすえるが,それ以上に「日本の礼法」を重んじ,「たとへ ば,宮城遙拝とか国旗掲揚といった場合には,同じく日本の赤子として脱帽を 命じた」(69頁)。この学校は1年たらずで3期1000余名の修了者をだして閉校

となるが,昭和17年段階での日本語普及のセソターの役をはたしてきた。

 この昭南日本学園と平行して,小学校再開にそなえて,教員講習会をひらき,

300余名を受講させた。教員たちは「未だ相当根強い欧米崇拝の気持が残って いる」ので,日本語教育とならんで「精神の再教育を施」すが,それだけでな

く, 「来年の2月を期して,一一  fiに日本語考査を行ひ,思はしくない成績の者 は,現に待期中の新進の教員の為に勇退してもらふことにする」という強権を

発動する(99頁)。

 このようにシンガポールでは上からの日本語教育が強制されていったのであ るが,その教育で,日本語のむずかしさが学習を阻害する問題に直面した。初 歩の日本語教育をすすめる神保にとって,仮名遣いと発音の不一致が最大の障

害となった。それは,結局,軍政部の指示にもとついて, 「仮名遣いを発音に 依って紐・」することでおさまった(130頁)。また,教授法の問題として,と

くに成人にたいしては,文法重点がよいか,直接法がよいか,わかれたが,後

者となった。さらに,教材は教科書を編集することにし,その方針は,前半の

10課位は片仮名,その後は平仮名を用い,漸次漢字をふやし,日本の小学校3

(24)

年位までの日本語をもとりいれる,というものであった。

 片仮名新聞「サクラ」も教材として使われたが,教育内容の一端をのぞく意 味で,大達茂雄昭南市長の文を紹介してみよう。

 「ニッポソバッヨイ」という題で,「ニッポソノヘイタイサソバ セカイデ ーハソツヨイ グソタイデアリマス。……中略……ニッポソノグンタイガッヨ イノハ ニッポンニテソノウヘイカ トモウス トウトイ オカタガオイデ

ニナルカラテアリマス。……中略……ミナサソバ コレカラ ニッポソジソト オナジヨウニ テソノウヘイカノ セイジ ヲイタダクコト ニナッタノデア

リマスカラ イッソウベソキョウシテクダサイ」 (284− 5頁)。

 おおよそこのように神保の記録を要約してみると,「東亜語としての日本語」

という観念は,実際にうつされた場合に,侵略と統治の一手段に転化してしま うことが明らかとなるであろう。しかも,このような口本語教育は,抗日華僑 7万余の検挙,数千人の虐殺ののちに,「乱暴で下品な日本人支配者」のもと で,生活窮迫のさなかにすすめられたものであった。住民にしてみれば,そこ から生じる反日の意識を権力によっておさえこまれたうえでの,文化外的強制 力による日本語学習であったから,その強制力の崩壊=敗戦と同時に日本語を すてさることは,理の当然であった。

(ii) ビルマの場合

 日本軍は,昭和17年前半にビルマ地域を征圧して,イギリス統治を互解させ るとともに,3月に編成した軍政部を軍政監部に改編して「軍政」をひいた。

18年8月にビルマは独立を許され(/〈 一一・モウ首班),軍政監部は廃されたが,

対日絶対協力と日本軍の駐屯という条件のもとでは,満洲国と同様なカイライ

政権にすぎなかった。ユ9年7月のイソパール作戦失敗以降,日本軍は後退をか

さね,20年3月のビルマ国軍(オソ・サン指導)の抗日けっ起と相まって,20

年にはいると日本軍のビルマ統治は事実上崩壊してしまった。

(25)

 このように僅か2年あまりの支配であったが,この間,250名の日本人教師 が本土から日本語教育要員として派遣され,50数校の日本語学校が設置された のであった。シソガポールとは趣をことにして,ビルマではイギリス支配者の 追放という点で親日の空気がつよく,日本語学習熱もたかかった。また,僧侶 と教師を尊敬する伝統が民衆のあいだにひろまっていたから,日本人教師も入

りこんで活動しやすかった。しかしながら,このような条件も当の日本軍の手 でたちまち覆えされていった。ビルマ人の真の解放と独立は抑えられ,日本軍 は征服老としてふるまい,容赦ない収奪と労務提供をせまったからである。親 日の空気は抗日のそれにかわり,日本からの解放が民族の課題となった。戦局 の不利がこれに加わった。ビルマ人の日本語学習の意欲は急速にさめていっ た。軍政とともにはじまった日本語教育は,日本軍と運命の消長をともにせざ

るをえなかったから,短命な教育努力で終るしかなかった。シソガポールの場 合と同じ結末をたどっていく。出発時の現象はちがってみえても,日本のアジ

ア支配の追求という本質は変らないからである。

 ビルマ軍政は当初から日本語の普及を教育の根本方針に定めていた。進攻作 戦と併行して「林集団占領地統治要綱」をたてたが(昭和7年3月),その第41 条では「排日教育並二拝英米教育ヲ絶滅シ遂次日本語ノ普及ヲ図リ努メテ英語        (13)

ノ使用ヲ避クル如ク施策ス」るという方針をかかげている。そこではイギリス 文化の排撃と日本文化の伸長という態度が基本であって,ビルマ交化の尊重を 促す見地は欠けていた。軍政がさらに整備された18年初頭には,日本語普及を 日本語学校設置の形式ですすめることを政策化し, 「日本語学校設立並二経営 要綱」(同年2月)を発した。「要綱」は,日本語学校50校の新設(校長は必 ず日本人)をうたいながら,その学校目的を「日本語学校ハ軍政ノ円滑ナル遂 行及原住民トノ親善強化ノ為メ 現地各民族二対シ日本語教育ノ基礎ヲ授ケ 以テ全緬旬二日本語ヲ迅速二普及スルヲ目的トス。同時二日本軍ヘノ協力並=

大東亜共栄圏理念ノ把握二就キ特二留意スベキモノトス」というように規定し

(26)

ている。

 このような規定から察せられるように,日本語の普及は何よりも日本のビル マ統治の必要にもとついていた。つぎに,それがどのようにすすめられていっ たか,当事者の回顧の記録によって大づかみであるが紹介していくことにしよ

う(「せんぱん一ビルマ日本語学校の記録一」昭和45年刊,修道社)。

 昭和17年3月のラングーソ占領と同時に軍政部が編成され,その総務部政務 課(課長田上辰雄)では,軍政の効果をあげ通訳を養成するために,日本語学 校9校をたてて,軍隊のなかから教員出身者をえらんで教師にすえると同時に,

軍司令官名で「至急日本語教員240名を派遣されたし」と打電して,より本格 的な実施への準備をはかった。軍政部は軍政監部にかわり文教部(部長田上辰 雄)を新設し(17年7月),文官のスタッフをそろえて,前記「要綱」をさだ めたりした。計画のほうは早くすすんだが,肝心の日本語教育要員のほうの来 緬はおくれ,昭和18年7月からようやく到着しはじめてきた。したがって,現 地軍派遣の日本語教師によってはじめられた数校をのぞいて,のこり40数校の

日本語学校は18年7月以降に開設されている。だが,たちまち,ほとんどの学 校が20年の2月から4月にかけて閉校してしまった。カーサ日本語学校のよう に,19年3月に開設されてその年の9月に閉校になったところもあった。ミッ チィナ日本語学校は,要員が赴任の途上,連合軍の反攻がせまって,机上案の まま終ってしまった。閉校はいつれもその地域からの日本軍の退却によってお こったものである。ビルマにおける日本語学校の歴史はこのようにはかないも のであった。

 軍政下初の日本語学校は17年6月1日に開校された。これは軍宜撫班のしご とであり,日本からの教育要員到着によって「軍蘭貢日本語学校」から「蘭貢 第1日本語学校」に改編されている(18年7月)。軍学校時代には,修学期間

1年 「相当程度の学歴を有し思想堅実なるもの」を入学させたが,親日のts・

んいぎもあって,第1回目の志願者は1067名(うち入学老騒3名)におよんだ。

(27)

学校といっても講習会の色彩がこく,午前,午後,夜間の組にわかれ,週4日,

1日2時間の授業であり,午後,夜間組は僧侶や高・大卒の市民がしめていた。

しかし,連合軍によるラソグーソ空襲は17年11月からはじまったから,授業の とだえることもおおかった。それでもビルマ人生徒がきたのは,日本への幻想 が残っていただけでなく,それ以上に彼らの反英感情のつよさによっていた。

 日本語学校をひらいてすぐにぶつかった問題は,第一に日本語のむつかしさ ということであり,つぎに教授法の未熟さであり,第3に教材の不備不足とい

うことであった。日本側の普及理念とビルマ側の学習成果のあいだには,おお きなみぞがあった。その結果,543名入学した1期生のうち,1年後の18年6 月に満期終了したものは僅か54名にすぎなかった。もちろん,このような教育 内的理由以外の原因でやめたものもおおいであろう。

 当時軍からえらばれて日本語を教えた草薙正典(現高松高教諭)は,語学の 才にめぐまれた,ピルマ人少年が日本語のむずかしさを訴えた経験を,こう伝

えている(「軍蘭貢日本語学校」)一「『先生,日本語は書きことばとしては アジアの共通語にならないと思います』あるときこんな話を真剣な顔つきで話 かけてきた。『なぜ?』『漢字がむずかしいからです。今日おぼえる。明日忘 れます』」と。ビルマ語の構文は日本の構文と似て,語順,助詞の後竃,複文 の構成法などの点で共通であるから,単語をおぼえれぽ話しことばの修得は相 対的にやさしい。だが,書きことばでは漢字の表記がおおきなネックになる,

というのである。この点からも「東亜語としての日本語」は東南アジアの生徒 からクレームをつけられている。

 同じ草薙の体験では,教授法にも障害がみられた。外国語として日本語をど

う教えるかという教授法が未成立で,個々の日本人教師の恣意にまかされてい

たという欠陥もあったが,それより大きい難点として,日本人側はビルマ語を

知らず,ビルマ人側は日本語を知らないという言語交通の手段がきれていた状

況があった。初級の場合には「直接法」ですませえたが,それ以上になると

(28)

「敵性語」である英語を媒介にして教えることになり,英語の使いかたのほう に日本人教師もビルマ人生徒も神経を集中させがちであった。日本人教師の側 ではビルマ語をならおうとする気持が乏しく,まずい英語を使うほうをえらん だからである。日本語学校に移行してからは,どの学校も直接法をとって,英 語やビルマ語を媒介にすることはなかった。

 このような日本語教育上の困難さにさらに拍車をかけたのが,日本語読本な どの適切な教材が準備されていないことであった。中国むけの日本語教科書「

ハナシコトバ」を使った教師もいたが,内容面でそぐわないことがおおくあり,

陸軍省からは現地で教科書をつくれといってきたこともあって,結局,18年4 月に文教部内に「日本語教科書編纂委員会」が設けられることになった。編集 方針が9月にきまり,作業をかさねて,最初の教科書(5巻本中の巻2)がで

きたのが19年2月,巻3−19年4月,巻4−19年11月,巻1および巻5−20年 3月という完成順序であったから,ほとんど使用されないうちに閉校になって しまう状態であった。その題材は日本の生活や物語,国体の尊厳,大東亜共栄 圏の理念等で大部分をしめ,ビルマを主題にしたものは1割にみたないもので ある。たとえば「挿絵ハ日本ノ自然美及ヒ文化ノ優秀性ヲ示スニ足ルモノニ付 選択ス」という方針からもうかがえるように,教科書は「日本精神ノ把握並二 大東亜共栄圏ノ理念ノ徹底ヲ計リ日本二対スル協力ノ精神ヲ啓培スル」観点か

ら編集されたものであった。

 こうした日本側の教育の拙速さ,困難さにもかかわらず,ビルマ人の学習の おかげで,3ケ月もたてぽ日常会話に事欠かぬようになり,軍の通訳や商社員

となって,日本軍の作戦を助けることになった。なかには1年あまりの学習で

漢字まじりの文章を書くものもでてきたという。しかしながら,戦局の不利は

閉校にみちびき,さらに教育要員そのものが現地召集をうけて兵になり,その

他の要員も日本軍とともに敗走していって,敗戦以前にビルマにおける日本語

教育は崩壊してしまった。教育外的な理由にもとつく日本語教育はその地に定

参照

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て, その言語について極めて零細な記述しかみられないのも, 不思議ではない. 例えば,

 日本語科のある大学では、スタッフの一貝として日本の

 アジアの留学生たちにとって,日本の中で見た日本人はどのように映るのか,また,日

相違点があるのは当たり前だし、

られた研究がようやく現れた。先に挙げた石の著書では台湾での伊澤修

 それをアジアの他の地域に及ぼそうとする試みが日本で2007年から起

加藤( 2016

語ボランティアの通念から解明していると言えるだろう。