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博士論文 要旨
客家社会における土楼と親族組織をめぐる社会人類学的研究
本論の主題は、中国福建省永定県に点在する巨大な集合住宅である客家土楼、およびその 居住者を対象とし、彼らの親族組織をこれまでの「親族」研究と異なった観点から分析する ことで、漢族研究および宗族研究に対し新たな視座を提供すること、そして現地社会を取り 巻く状況を複数の「現実」として整理することで動態的な民族誌として描き出すことである。
本論は以下の3点を通して、以上の問題を明らかにしていく。また以下の3点は本論の 第一部(表象)、第二部(存在)、第三部(現実)に対応している。第一部(表象)では、調 査対象である客家土楼がこれまでどのように研究されてきたかということを明確にし、研 究対象への問いを再設定する。2004 年~2015 年にかけて行われたフィールドワークによ る調査データをもとに、客家土楼を取り巻く環境の変化を研究史の変遷とともに描き出す。
この作業を通して、これまで学術機関やメディア報道が主導的な役割を担ってきた文化表 象を批判的に検討し、その問題点と限界点を提示する。またそれらが現地社会にどのような 影響を及ぼしているかを、文化表象と政治性という側面から論じる。
第二部(存在)では、第一部(表象)で論じた文化表象の問題を、再度ローカルな場面か ら考察していく。とりわけ重要なのは、文化表象を担う主体を人間に置くのではなく、現地 社会の知識体系を紡ぎ出すヒトとモノとの関係に置くことである。これらの関係性に注目 し、文化の動態性を議論する。これまでの漢族研究、宗族研究で一般的であった、人間中心 主義的な視点、すなわち族譜の「書き手」と「読み手」、父系出自の継承者、民間建築の居 住者といった視点から社会関係をとらえるのではなく、ヒトとモノを非対称ではなく対称 的にとらえ、モノ、コエ、イエという手がかりから当該社会の文化・伝統を「存在論」的に 考察することを目指す。つまり、漢族的特徴や中国的特徴という鋳型で議論を閉じてしまう のではなく、漢族的と評される社会状況の、手前..
の関係性を考察するものである。
第三部(現実)では、第一部(表象)、第二部(存在)で明らかにしてきたことを踏まえ、
民族誌において動態的とされる状況を、複数の次元から考察する。つまり客家土楼に居住す る人々が生きる「現実」をハイパーリアリティ、リアリティ、アクチュアリティの次元で整 理し、文化的・社会的コンテクストの側から人々をとらえるのではなく、人々の側から文化 的・社会的コンテクストを問うていく作業を行う。そこで明らかにされるのは、政治や市場 とは別のレベルで議論される動態的な文化のあり方であり、ローカルな次元では受容され るが近代的な次元では拒絶されてしまう「現実」の存在である。これまで文化の動態性を議 論する上で取り上げられることが少なかった領域をアクチュアリティという概念から再考 する。本研究は以上を通して、客家土楼を対象とした現代的な民族誌として、漢族研究、宗 族研究を問い直す視座を研究史に提供するものである。
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本論全体の内容と各章の概要
本論考で研究対象となるのは客家社会における土楼と親族組織である。本論は長期のフ ィールドワークで得たデータをもとに、土楼という巨大な集合住宅と父系出自集団である 宗族組織をその主な研究対象とし、民族誌的な考察を行うものである。しかし本論は宗族を 20世紀的な「親族」研究に位置づけるわけではない。つまりこれまで社会人類学において 議論されてきた、西洋的な視座により理論化され、地域を超えて比較可能なモデルとして生 成された「親族」ではなく、現地社会においてその場その場で作られ続ける概念体系、明確 なモデルを持たない「親族的(宗族的)な何か」を捉えるものである。
第一部(表象)では、これまで土楼に向けられてきた研究者からの「まなざし」を批判的 に検討するが、それは社会人類学者らが調査地において、親族あるいはそれに準ずる知識体 系を調査する視点ともパラレルな関係にある。つまり社会人類学的研究は、20 世紀半ばま で「科学的」とされる事実を社会的に構築してきたわけだが、その視座を批判的に検討する ことが土楼の研究史においても求められるわけである。社会人類学において親族研究は 徐々に細分化され、モデル化されるようになっていくが、それは土楼をめぐる文化表象にお いても垣間見ることができる。本論では、土楼が現地社会の文脈を離れ、表象化されていく 様子を描くことで、近代的視座によって行われてきたこれまでの研究の問題点と限界点を 提示する。
第二部(存在)では、学術機関やメディア報道ではない現地社会の人々自身が創り出す表 象を考察していく。その際に筆者が重視したのが、ヒトとモノとの関係である。これまでの 宗族組織研究は、主に宗族成員をその「主役」とし、祠堂、族譜、財、土地、風水、祖先祭 祀、墓地などを「手がかり」として研究されてきた。しかし本論では人間と同様に、テクス ト、声、家屋が社会集団にどのような影響を与えていくかを考察していく。端的に述べれば、
第3章にて宗族がどのような手続きを経ることで過去(記録)と現在(記憶)との物語を接 合させるかを論じ、第4章にて日常的な呼びかけ行為(声)が如何にして各個人を宗族成員 として想起(或いは認知)されるかを考察し、第5章ではどのような経過を経て、社会集団 が家屋を造るのではなく、家屋が社会集団を創るという状況が現れるか、を考察していく。
そして最後の第三部(現実)では、第一部、第二部の研究を踏まえ、第6章にて墓地風水 の事例をもとに、個々人が実感する「現実」が、動態的な文化として社会集団のなかで醸成 されていく様を描き出していく。そして第7章にて彼らが生きる「現実」を3つの次元で 捉えることの意義を説き、保生大帝という病気治しの神が現地社会において、それぞれの次 元でどのように顕れるかを議論していく。終章では、本稿で取り扱った事例が決して福建省 永定県の一村落の事例にとどまらないことを、近年の時事問題などを通して触れ、本論で主 張した議論の射程を提示する。
論文全体の構成および各章の概要は以下の通りである。
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第一部(表象)では本論の調査対象である土楼という建物がこれまでどのような「研究対 象」とされてきたかということを明らかにし、これまでの「問い」のたて方の限界を提示す る。土楼が世間的に知られるようになったのは実は20世紀半ば以降であり、その研究を牽 引してきたのは建築学の分野であった。しかし建築学の分野が土楼にもたらした言説は、必 ずしも土楼地域一帯の民俗文化ではなかった。2008年7月に客家土楼は世界文化遺産に登 録されることになるが、そこで語られる土楼文化は現地社会の民俗を反映したものではな く、政治的に創生された「客家文化」であった。第一部(表象)では、このような文化表象 がなぜ起きてしまったのか、そしてこの状況に対して現地社会はどのように受け止めてい るのかという部分を描いていく。各章の概要は下記のとおりである。
第一章、土楼・械闘・郷族――土楼をめぐる研究史と社会人類学からの「問い」
本章では土楼という建築物をめぐる学術的研究において、これまでどのような議論、分析 がなされてきたかを明らかにすることで、複数分野にまたがる先行研究を批判的に検討し、
土楼という建築物に与えられてきた「正しい問い」の限界点を示し、人類学的な研究視座か ら新たな「適切な問い」を設定することにある。これまで土楼に関する研究の多くは、「な ぜ人々は土楼という巨大で奇抜な建物を造ったのか?」ということを議論の出発点とし、建 築学における機能論的説明、地理学的な環境要因、歴史学的な社会情勢、宗教思想に基づく 建築プラン等をその「解答」としてきた。もちろん土楼に対するこのような「問い」とその
「解答」は、検証に値しその蓋然性を吟味する価値は十分にあるといえる。しかし社会人類 学的研究視座に立てば、土楼というタテモノに対してこのような「問い」と「解答」を用意 することは、それがたとえ「正しい」作業であったとしても、必ずしも「適切な」作業だと はいえない。というのも「問い」と「解答」の間に「正しい」関係を設定してしまう時点で、
その「問い」は問題設定者が意図した予定調和的な「解答」に導かれ、共犯関係を築いてし まうためである。
これまで土楼という建築物は、その大きさと形状の奇抜さから、どうしてこのような建物 が誕生したかが精査されてきた。そのなかで特に議論されてきた問題は、どうしてこのよう な形状をしているのかという部分であり、さまざまな研究分野が様々な「解答」を用意して きた。たとえば、械闘が続く同地では防衛的な性格をもつ住居が必要であった、であるとか、
建築資材を節約するためであるとか、耐震強度や暴風雨に耐えるためであるとか、風水思想 によるものである、などといった理由である。しかし、それらはどれも決定的な要因ではな い。たとえば、山城の建築プラン、防衛的に強固な外壁を作ったとしても、械闘が行われな くなった時代においてもなお、それを採用し続けたのはどうしてか。また一族の象徴として 土楼を建てたのであれば、複数宗族が共同で出資して建設された土楼(e.g. 裕昌楼)はどの ように説明がつくのか、など決して唯一の「正しい答え」は出てこない。また以上のような
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「問い」は「正しい解答」が必要であるという意味で自家撞着的な議論に陥ることになる。
土楼建築で重要なのは、これまでの研究史で行われてきたような、「なぜ土楼が建築され たのか」という問いではなく、「なぜ土楼という建物が建築可能だったのか」、という問いに 変える必要である。つまり、土楼の必要条件を機能主義的なスタンスに基づいて、これ以上 考察しても出てくる結論は結果として、われわれが納得するために説明しているに過ぎな い。むしろ重要なのは、土楼の建築が可能だったのは何だったのかという問題を解明するこ とである。第一章で示されるのは、土楼は宗族的紐帯、そしてその共有財の存在があっては じめて建築可能だったということである。また宗族的紐帯ではなくても、郷族という地域的 で独占的な生業体系、たとえば「族工」「族商」、あるいは小規模宗族の連合が土楼の建造、
維持に大きく貢献したことを明らかにする。
第二章 土楼と客家文化――土楼内部における「祖堂」の記述をめぐる学術表象の分析 中国福建省西部山岳地帯には客家土楼と呼ばれる巨大な集合住宅が数多く点在している が、2008年に土楼が世界文化遺産として登録されると、現地の人々の生活環境と生業形態 に大きな変化が見られるようになった。これまで客家に関する研究は、客家を「中原」から 移住してきた「正統な」漢民族の子孫とする傾向が強かったため、彼らの系譜観念および移 住経路をその拠り所とし、客家という集団を定義してきた。そして強固な父系出自集団とし て描き出されてきた客家の文化的特色は、学術研究やメディア表象によって、いつしか客家 土楼という建築物にも投射されるようになっていき[e.g. 黄漢民 1994 『福建土楼』, NHK スペシャル 1992 「客家円楼」]、最終的に UNESCO によって「保存」されることになっ た。その中で、同一の祖先の系譜をたどる者のみが土楼という住居に居住する権利をもち、
それは土楼の中心に存在する「祖堂」という祖先を祀るための場所に象徴されるという説明 が客家土楼に付与されたのである。
しかし、筆者は2年間土楼に居住し、継続的に行ったフィールドワークを通して、これま での先行研究において土楼の中心にあるとされてきた、祖先を祀るための「祖堂」の場所は、
当地では「中堂(ホール)」として理解されており、そこでは決して祖先祭祀活動が行われ ていないということを指摘した。本来(少なくとも本稿の調査地においては)存在しないは ずの、祖堂がどうして学術表象やメディア報道において出現してしまったのかということ を突き止めるべく、1980年代以降の学術表象、メディア報道を、シンガポール、台湾、香 港、日本などの客家土楼にまつわる報道を整理、分析した。その結果、1987年の東京芸術 大学の研究グループによる調査報告以降、土楼内部の学術表象が現地の文脈を離れて生成 されてきたということが明らかとなった。これを契機として客家土楼内部に本来存在しな いはずの「祖堂」が、視覚的な記号(シミュラークル)として誕生してしまったのである。
そしてそれは海外客家の研究雑誌のなかで、度々引用、紹介されるなかで「定説」となり、
最終的にUNESCOの公的文章のなかに「保存」されてしまったのであった。本論ではグロ
ーバルに展開される文化表象の実態とその生成過程を明らかにし、現地客家学やUNESCO
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によるその学術表象の在り方を批判的に論じるだけでなく、現地社会がそれをどのように 受け止めているかも事例とともとに紹介し、文化表象の在り方と問題点を浮き彫りにした ものである。
第一部(表象)で議論したのは、土楼が建築学やその隣接分野の影響を過分に受け、客家 文化の一部として表象されていく様子である。また、その過程において地方政府や華僑社会 が大きな影響力を与えていたことも注意しておきたい。
このように中国の農村地域の一村落社会であっても、政府当局や世界経済の影響を多分 に受けており、それらは民族誌的記述をするうえで無視することができない。この点につい て川口は、これまで多くの研究者が政治的ヘゲモニーを無視する形で、民族誌的記述を行っ てきたと指摘している[川口 2014]。確かに川口の指摘するように、中国の村落社会は科 挙制度、道教という宗教システムによって、中央集権的な性格が非常に強く、祖先祭祀、神 祇祭祀、慣習や言語のレベルにおいても、川口がヘゲモニーと呼ぶ要素が多分に含まれてい ることは否定できない。だが、それは裏を返せば、現地社会もまた表象を生み出す力を有し ているということである。
現地社会において伝統的な概念として体系化されているもの、すなわち民俗知識は社会 人類学的研究において、理念モデル、コスモロジー、象徴体系、などと称されてきた。それ らは確かに、川口が指摘するように王朝国家のヘゲモニーの影響をまったく受けていない とはいえないだろう。また第一部でみてきたように、現在も政治的経済的な影響を多分に受 けているといえる。しかし、村落社会内で何度も修正、確認される「正当性」(あるいは正 統性)は、その社会集団内部においてのみ内向きに作用し、ヘゲモニーとは異なる空間(領 域)で作用していることがある。第二部(存在)では、その場その場で修正されていく、村 落社会内部の「正当性」を、人間が主体的に作り出す民俗知識という観点からではなく、ヒ トとモノとの相互行為が繰り返される中で作り出される関係性としてみていく。
第三章 テクストとしての族譜――宗族社会における記録メディアとしての族譜とそ のリテラシー
本章では中国の父系出自集団に広く見られる「族譜」というテクストを、一次資料や歴史 史料ではないモノとして考察することを試みる。これまで族譜は漢族社会の研究において 一族の歴史を記録したものとしてのみとらえられ、一般的に史実の補足的史料(資料)とし て扱われることが多かった。しかし本稿では「族譜」を歴史的文脈から乖離させ、現在の人々 がどのように「族譜」を読むか(或は彼らがどのように読みかえるか)という部分に焦点を 当て、議論したものである。
調査地である福建省永定県 L 村の人々は現在、李火徳という人物を始祖としているが、
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筆者が19世紀以前の墳墓を調査した結果、かつてL村の人々は李火徳ではなく、彼から二 世代下位に下った人物を始祖としていたことが明らかとなった。また始祖を変更した時期 が1850年代だったことも明らかとなった。同時期、李一族の共同祖廟が建設され、その際 に彼らが始祖の変更を行ったというわけである。
L 村の族譜は、この祖先の読みかえをどのように説明しているか、また現在 L 村に居住 する人々がどのようにそれを読み解くかを調査した。その結果、族譜の記述において風水と いう「道具」を用いて、始祖の読み替えの正当性(正統性)を主張していることが分かった。
風水とは祖先の墓地に良い気の影響を与えることで子子孫孫が繁栄するように行う「術」で ある。L村の族譜は、李火徳とかつての始祖、両者の墳墓を風水が経過するという意味にお いて祖先の正統性と始祖変更の妥当性を説明していた。また興味深いことに L 村の人々は そのことに意識的であり、それをも一族の「歴史」として記し読み解いていた。
本章では祖先でも子孫でもなく、両者を媒介とする族譜というモノ、歴史記述ではなくテ クストを主軸に据えることで、両者間の関係性を再考し、「祖先‐子孫」という漢族社会に おいて極めて自明な関係性を、族譜という記録メディアからの視点で考察した。その結果、
族譜は可変性を有し、歴史的「史実」として以上に、現在の彼らのエスニシティを顕現させ るモノとして機能している側面を明らかにした。これまでの族譜研究は、その背後に存在す る政治性や人間関係を主軸として研究されてきたが、本論考では族譜そのものを主軸とし、
「正統な歴史として適切な人物=祖先」と「正統な歴史として読解できる人物=子孫」とい う図式で提示した。モノとしての族譜、リテラシーを共有することで顕現する社会集団の存 在を提示した。
第四章 社会的住所としての宗族―福建省客家社会における人物呼称の事例から―
本章は宗族という社会集団を、従来主流であった父系の系譜をたどる祖先を中心とした、
祖先―子孫関係から考察するのではなく、各個人の相互コミュニケーションから生み出さ れる、名前というテクスト、宗族というコンテクストという視点から考察したものである。
この議論において村内にいるすべてのヒトは、系譜と世代を想起させる「小さなモニュメン ト(出来事)」として機能する。より具体的には、調査地のある人物=「李錦海」という名 前が発話されることに先立って宗族があると考えるのではなく、「送り手」と「受け手」が
「李錦海」というメッセージを送受信するなかで宗族という状況(あるいは領域)が作り出 されていることを指摘する。そして宗族の関係性を明確なものにする、始祖、祖堂、代表的 な祖先、族譜といった非日常的空間における大きな出来事において一方向的に指示される 個人ではなく、双方向的で日常的な小さな出来事である名前の呼びかけ行為から宗族の関 係性を考察することを試みる。
フリードマンがかつて指摘したように、宗族社会において祖先は過去の人物ではなく、
「現在」の政治状況によって作られるものである。それと同様に、彼らの宗族組織も現在作 られ続けているわけであるが、日々生成される彼らの関係性、親族組織を、はじめから宗族
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(あるいは父系出自集団)と見なしてしまうのではなく、それを宗族的な状況(領域)を作 り出す装置として見直す作業を行うわけである。その際、これまで宗族研究の分析で重要な 手がかりとなってきた、族譜、族産、祠堂といった大きな出来事ではなく、日常生活におけ る名前の呼びかけという小さな出来事から彼らの親族関係を分析することの意義は大きい のである。
つまり、L村李氏でみられた各人の名前(とりわけ男性の名前)は、電信柱や町の辻辻に 記された「何丁目何番地」といった表記同様、その存在自体が自他に宗族を喚起させる装置 を内包した小さなモニュメントとなっている。もちろん彼らは日常的にそれを意識してい るというわけではない。しかし彼らの呼称にはそのような仕組みが内在しており、そこでは 宗族的な状況(領域)が生成され続けているのである。この小さなモニュメントが生み出す 小さな出来事(event)である呼びかけ(address)と、宗族的領域内での住所(address) をかけて、筆者はL村李氏社会における人物呼称を「社会的住所(Social Address)」と呼 ぶことにした。
第五章 「客家土楼から宗族を再考する―「分裂」か、あるいは「複製」か―
本章で議論するのは、客家土楼に居住する人々の宗族の発展形態である。彼らは土楼とい う巨大な集合住宅に居住するが、ひとつの土楼は基本的に一族を単位として所有されてい る。彼らが新たな土楼を建築することを、宗族の発展過程としてとらえた場合、新たな土楼 の各部屋、各区画の所有権がどのように配分されるかを詳細に見ることで、宗族の分裂・生 成過程を考察していく。
本章では新しく建てられた土楼を土楼Sは古い土楼を土楼Bとして整理する。土楼Bお よび土楼Sは、18世祖にあたる4人のそれぞれの系譜の子孫で構成されているが、この4 人の子孫たちは、土楼B、土楼S 両方の土楼内部において今現在もその存在を確認するこ とができる状況にある。つまりそれはL村李氏一族が土楼Bから土楼Sへと発展的に派生 する際に、18 世祖のすべての系譜から、新たな土楼への居住者が選定されたということを 意味するのである。
特定の祖先の系譜をひく者だけが、大規模に土楼B の区画を占有したり、新たに土楼S へと移住したりするのではなく、李一族の18世祖のすべての系譜が土楼B から土楼 Sへ と移住し、土楼B および土楼Sの空間は所有されているという事実が示すのは、L村李氏 における土楼 S は、宗族内の特定の系譜の分節が著しく発展することによって分裂し形成 された集合住居というわけではなく、あくまでもそれが土楼B の成員を複製(コピー)す るような形で分離していったということである。土楼を建造するには多くの労働力と資金 力が求められる。そのため同時代に一部の分節だけで労働力・資金を確保することは難しい。
そのため18世祖を基準としたとき、土楼B のすべての系譜から土楼S への移住者が出た という状況が考えられるのである。つまり、土楼という建築物を介した社会集団の(再)生 成は、一部の分節が発展的に分裂し作られたというわけではなく、宗族成員の複製(コピー)
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を繰り返すことで形成されてきた可能性が高いことが指摘できるのである。
宗族は一般的に一部の系譜が発展的に分裂したり、複数の系譜が共通祖先を立てること で新たな宗族を作り出したりすることがあるが、本章の事例でみられたような宗族のすべ ての系譜からの成員の複製(コピー)は、ほとんど議論されたことがない。このような視座 から宗族を見た場合、社会集団がタテモノを造るのではなく、タテモノが(長期的なスパン を経て)社会集団を作り出すというような状況が指摘できるのである。
以上、第二部(存在)では、第一部(表象)で議論した政治経済的な要因とは別の空間で あるローカルなレベルにおいても理念モデルが創り出されていること、そしてそれが現地 社会の正当性(正統性)において修正、確認される状況を指摘した。ここでいう正当性は、
現地社会においてのみ作用するものであり、それはヒトとモノとの関係において、その場そ の場で作り上げられていくものである。またそれはローカルな空間のみにおいてその必要 性を有し、可変可能なモノであるという点で重要な意義をもつ。
第一部(表象)で議論したように、20 世紀半ばまで社会人類学的研究における親族研究 は、社会集団内で体系化された理念モデルを重視し、それを民俗知識として整理する傾向が 強かった。しかしそれは1980年代以降ポストモダン的潮流において、政治経済的側面を軽 視していると否定的に議論され、「親族」は研究対象から遠ざかる結果となった。だが近年、
「転回」という言葉をキーワードに、さまざまな分野でポストモダン的な議論の在り方に、
再度疑義を呈するような動きが起きている。それらは例えば存在論的転回(ontological turn)、物質論的転回(material turn)、生態学的転回(ecological turn)などであり、これ らは基本的に人間中心主義的(人間主体的)な事物のとらえ方、研究の在り方を批判的に議 論したものである。第二部(存在)ではモノとヒトの関係、そしてモノとしてのヒトという 部分へと議論を広げ、宗族という親族組織を表象でも理念モデルでもなく、ヒトとモノとの 相互行為によって、その場その場で作り上げられる状況(領域)として提示した。
このようにヒトとモノを同等に捉える立場に立った時、重要になるのが、各人がもつ世界
(現実)の問題である。21 世紀以降、様々な「転回」論が示されたわけだが、その嚆矢の ひとりとなったのが、南米を調査した文化人類学者デスコラであった。彼は多自然主義を提 唱し、ひとつの自然と多数の文化ではなく、多数の自然とひとつの文化という、人類学の研 究領域においてコペルニクス的転回を示した。つまり西洋近代的な意義における「客観的」
な自然観を根本から問い直す視点を提示したわけである。確かに、われわれは物理的空間に おける自然を理解しつつも、多自然主義で主張されたように、個々の実感のレベルにおいて は異なった自然を生きているといえるかもしれない。本論ではこの、理解することと実感す ることを異なった次元の「現実」としてとらえ、理解することと実感することをふたつの「現 実」の問題として整理する。加えて、第一部(表象)、第二部(存在)で議論したことを引 き継ぎ、それぞれの「現実」をハイパーリアリティ、リアリティ、アクチュアリティとして
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整理し、これら複数の「現実」を往還することで生成されていく、親族(宗族)的状況、文 化の動態性について議論する。
第六章 僑郷からの災因論―21世紀における「古典的な」な風水事例よりー
中国東南部は華僑の故郷とも呼ばれ、華僑とのつながりが強く意識されてきた地であり、
実際、政治経済的な面で華僑はこれまで大きな役割を果たしてきた。また近年、僑郷という 名のもとに同地を政策的に利用しようとする傾向が見られるようになってきている 。本章 は政治レベルで説明される「華僑」―「僑郷」という関係性と、村落レベルで意識されるそ れとを区別して議論を進め、政治レベルにおける「華僑」―「僑郷」関係で見落とされてき た(研究史においては政治レベルと同一視することで見落としてきた)、華僑―僑郷間の動 的な「現実性」を問い直していく。結論を先に述べれば、本論は墓地風水の事例をもとに、
華僑の〈現実性(actuality)〉が僑郷社会の「現実性(reality)」と呼応するなかで、華僑―
僑郷という関係として構築される様子を描き出すものである。
レヴィ=ストロースの構造主義を持ち出すまでもなく、華僑と僑郷の関係は両者をつな ぐ契機があってはじめて、華僑―僑郷という関係になるのであり、決してその逆ではない。
「華僑」と「僑郷」という構図が定式化してしまっている近年の研究現状を鑑みると、その 点は改めて強調しておく必要があるだろう。しかし本当に問題とすべき点は、さらにもう一 歩踏み込んだ部分にある。いわゆる学術機関や行政レベルにおいて提示される「華僑」―「僑 郷」関係と、村落レベルで生成される華僑―僑郷関係は、細かい部分ではあるが、決して見 落とすことのできない明確な相違が存在している。
華僑と僑郷の関係性において我々が見過ごしてはいけないのは、村落レベルで生み出さ れる〈現実性(actuality)〉が、学術・行政レベルでは(あたかも無いものとして)見捨て られてしまっているという事実である。本章の風水事例において華僑たちが直面した現実 は、客観的で理性的な視座に基づく「現実(real)」ではなく、主観的で非理性的な価値を 排除しない〈現実(actual)〉に重きを置く世界の方である。ここでいう「客観的」とは、
完全に「科学的」な根拠に基づく事象ということだけでなく、共同体や言語集団、宗教組織 における公共的な知の在り方をも含む「客観性」である。
本章でいう「現実性(reality)」とは、公共的な認識によって客観的に対象化され、ある 共同体の共有規範としてその構成員の行動や判断に一定の拘束を与えるものであるのに対 し、〈現実性(actuality)とは、生の「各自」的で直接的な営みである「生きる」ための実 践的行為に全面的に依拠している[木村 2001: 305-306]。本章の事例において華僑2人が 続けて亡くなるという出来事を「現実(real)」としてとらえるか、〈現実(actual)〉として とらえるかの違いは、それを客観的な事実として認識するか、あるいは自分の身に差し迫っ たありありとした危険として認識するかの違いに等しい。行政レベルでは存在しないもの に対して、村落レベルでありありとした現実としてとらえられていることを提示し、村落内
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第七章 客家文化となるもの、ならないもの――客家社会における祖先祭祀と民間信仰を めぐって
2008年に世界文化遺産に登録された円楼は、今やすっかり客家文化のシンボルとなって しまった。梅州の客家博物館、台湾の客家博物館のみならず、インドネシアジャワ島の客家 博物館においても、円楼型の建築物がそのデザインとして採用されている。つまり「客家と 言えば円楼」といったイメージが定着し、客家文化と円楼建築は密接な関係で語られること になったのである。しかし円楼建築(或は円楼のデザイン)に関して、メディアや学術機関 で語られる「文化」は必ずしも円楼が点在する福建省西南部の民俗文化に由来するものでは ない。それは報告者がこれまで指摘してきたように、いわゆるイメージとしての客家文化で あり、消費社会論から見た時のハイパーリアリティとしての客家文化の出現であった。
ここでいうハイパーリアリティとは、ボードリヤールが指摘するように、実際に現実社会 に存在するものではなく、メディアで流される映像や報道、研究機関によるテクストが使用 するシミュラークルが作り出す《現実》(実際の指示対象をもたない記号が生み出す世界)
のことを指す。換言すればシミュラークルとしての円楼は、現実社会における円楼建築から 乖離することで「客家円楼」として誕生し、複製され続けるなかでハイパーリアリティの世 界を構築してきたといえる。そのためもはや「客家円楼」は、円楼建築の模倣や現地社会の 表象物ではなくなり、原型となる現実に依拠しないシュミラークルとなったのである。
ところが、土楼に居住する人々がもつ民俗文化は客家文化として認識されているか、とい うとそういうわけでもない。土楼の人々が特に厚い信仰を捧げているのが、保生大帝という 病気を治す神である。しかし、これは客家文化というよりも、閩南文化という捉え方の方が 適切である。そして、当然のようにこの保生大帝への民間信仰は土楼と共に他の客家地域へ
「輸出」されているわけではない。つまり、客家建築として土楼は「輸出」されたが、そこ で行われている「文化活動」は「輸出」されなかったことになる。もちろん、ユネスコの文 書のなかにも保生大帝という文字は一文字も出てこない。
中国研究の古典、スキナーによるマクロリージョン論を出すまでもなく[Skinner 1985:
277]、土楼が位置する一帯は客家文化圏であり、保生大帝信仰は閩南文化圏に位置すると されている。これは地理的分水嶺、市場経済圏から見ても明らかである。彼らの生活世界と いう視座に立てば、土楼は「客家文化」でもないし、保生大帝は「閩南文化」でもない。仮 に文化やアイデンティティを、人と人、或は人とモノとの関係性において生み出されるもの だとすれば、現地の人々が土楼と対面する際に生み出されるのは「客家文化」ではなく、ま た保生大帝と対面する際に生み出されるのも「閩南文化」ではない。しかし彼らは決して、
それらが「~文化」とされていることを知らないわけではない。彼らは土楼(保生大帝)が
「客家文化」(「閩南文化」)であるということを知りつつも、土楼(保生大帝)と彼らの関 係において、自分が客家人(福佬人)であることを感じることは基本的にない。客家文化を
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土楼居住者の視点から考察するならば、土楼と現地の人々(或は保生大帝と現地の人々)の 関係性をハイパーリアリティの次元、リアリティの次元、そしてアクチュアリティの次元と して整理する必要があることが示されるのである。
第一部(表象)、第二部(存在)、第三部(現実)で、議論した内容は、本論で最終的に提 示される、ハイパーリアリティ、リアリティ、アクチュアリティという整理とパラレルな関 係にある。本論は客家社会で生成される文化の動態性を複数の「現実」間の往還として捉え るとともに、親族組織をかつての「親族」論からではなく、親族的領域として示すことの意 義を明示したものである。本論は、福建省永定県の一村落の事例をもとに描かれたに過ぎな い、だが終章では、本論で議論した現象が決して小さな社会集団のみで起きている事例では ないことを、毛沢東の生誕 100 周年記念、中国社会における墓地の聖地化の問題をもとに 提示する。以上をもって、本論は客家土楼を対象とした現代的な民族誌として、漢族研究、
宗族研究を問い直す視座を研究史に提供したものとする。