東京外国語大学論集第76号(2008) J59
興朽杢太郎研究序説
一高千穂出自の関西学院商業学教授を彫像する
内海 孝 はじめに
1.追悼文の存在と課題設定 2.早稲田大学入学前後と在学時代 3,全体像への道程と造形 4.編著作活動と会計学の民衆化 5.関西学院の教授就任と流行性感冒
おわりに 注
英文要旨
*興椙重大郎の著書広告(『大阪朝日新 聞』1918年11月12ロ1而による)はじめに
興栢杢太郎という名前に、わたくしがはじめて注目したのは西武グ′レープの創始者であった 埠康次郎(1889−1964)を研究する途上である。
西武鉄道を創設し、のちに西武グループを形成する以前の、堤席次郎の青年時代に焦点を絞 りこみ、その若き日に辛がけた著書『日露財政比較論』(博文館、1914年12月)を詳細に検討
するなかで、興栢杢太郎の存在に気づかされた。その自序では「本書起草に当り資料鬼集に就 いて多大の助力を与へられたる著者の畏友興椙杢太郎君」として登場した。
興栢杢太郎の姓を当初「こうろき」と読めなかったにもかかわらず(注1)、著書の成立過程
を突きつめるにしたがって、興相杢太郎の存在感は高まった。しかしながら、この人物を説明 してくれるものはなかった。かえって、しだいに引きよせられるのを感じた。
堤が献辞をささげたように、この人物の文献収集能力と語学力がなくては、堤の著書は上梓 されなかったのではないかと確信をいだくようになった。
結果として、わたくしはこの堤康次郎論で(注2)、この人物を部分的にしか究明できなかっ
た。本稿では、いまだ忘却のなかにいる興椙杢太郎を掘りおこし、その全体像と歴史的な意味 を考えてみたい。