トスカナ辺境女伯マティルデ : ドイツ王権(皇帝権 )とローマ法王権の間(三)
著者 井上 雅夫
雑誌名 文化學年報
号 64
ページ 231‑253
発行年 2015‑03‑15
権利 同志社大学文化学会
URL http://doi.org/10.14988/00027533
ト ス カ ナ 辺 境 女 伯 マ テ ィ ル デ
│
│ ド イツ 王 権︵ 皇帝 権
︶と ロ ー マ 法王 権 の 間│
│
㈢
井 上 雅 夫
六 ハイ
ンリ ヒ四 世が カノ ッ サで 敗 北 し たあ と
︑翌 年 の一
〇 九 三年 四 月 頃 に⑴
王 に とっ て 思 いが け ず 突然
に⑵
︑こ れ ま で 主に イタ リア に滞 在し てい た王 の長 男で 共同 統治 者で あっ た十 九歳 の コ ン ラー ト が⑶
︑ ド ニゾ ー が﹁ 王 の大 敵 と な り
︑あ まり に罪 深い 王の 所業 に立 ちむ かっ た﹂ と語 るよ うに 父王 に反 抗し
︑マ ティ ルデ や法 王の ウル バヌ スの 側に 変 わ った
⑷
︒王 の立 場が 前年 の敗 北 の 中で 既 に 軍 事的 に 弱 って い る 時に 起 っ た この 反 乱 は⑸
︑ ドニ ゾ ー が﹁ 最後 の 打 撃 が
︑こ の王 を襲 った
﹂と 語る よう に︑ 決定 的な 意味 をも った ので ある
⑹
︒長 男が 敵 に 移 り王 の 軍 のか な り の部 分 が 長 男 側 に なり
︑王 の 軍 事状 況 は 絶 望的 に 失 われ
た⑺
︒前 年 のカ ノ ッ サ で の 敗 北 よ り も さ ら に き び し い 打 撃 と な っ た の は
︑こ の反 乱で あり
⑻
︑王 の没 落の 最 初 の印 と な っ たと 見 ら れる ほ ど であ
る⑼
︒こ の 反 乱に は 同 年は じ め に結 成 さ れ た ハイ ンリ ヒ四 世に 敵対 する ロン バル ディ ア都 市同 盟が 加わ り︑ 一〇 九三 年は 転機 をも たら した
⑽
︒ この 反乱 の原 因や きっ かけ につ いて は︑ ド ニゾ ー は 上述 の よ うに
﹁あ ま り に 罪深 い 王 の所 業 に 立 ちむ か
﹂い
︑﹁ 父
― 231 ―
親 を嫌 悪す るよ うに なり
﹂と 語っ てい るだ けで ある が⑾
︑ ケル ツァ ーは
︑父 王の ハ イ ン リヒ が 一
〇九
〇 年 三月 に イ タ リ アへ 来て 以来
︑そ の後 の二 年の 間に 父子 の間 が徐 々に 疎遠 にな ると とも に︑ ます ます はっ きり して 来る 父王 の政 治 的 軍事 的な 弱体 化の ため にコ ンラ ート は自 身の 将来 のこ とを 考え るよ うに な っ た と推 測 し てい
る⑿
︒ギ ー ゼブ レ ヒ ト は この 父子 の疎 遠に 関連 して
︑改 革派 など への 父子 の立 場や 意見 の違 いが 反 乱 の 背景 に あ ると 見 て いる
⒀
︒ロ ビ ン ソ ン は︑ 直接 のき っか けと して は前 年の 父の カノ ッサ での 敗北 等に よっ て︑ コン ラー トは 反乱 へと 促さ れた と見 てい る が⒁
︑ボ スホ ーフ は︑ コン ラー トは ウル バヌ スの 法王 庁と の和 の中 に︑ サリ ー家 に 皇 帝 権を 確 保 する 唯 一 の可 能 性 を 見 たと 主張 して いる
⒂
︒右 のロ ビン ソン も︑ コン ラー トは ウル バヌ スと の 和 の 中に
︑解 決 し がた い シ スマ
︵二 法 王 対 立
︶か ら脱 する 唯一 の道 を見 てい たと も論 じて いる
⒃
︒E
・ゲ ーツ は︑ 皇帝 権 と い うよ り も 王権 に 関 連し て
︑コ ン ラ ー トは 父と ウル バヌ スの 戦い が自 らの 王位 の継 承を 危う くし
︑改 革派 から 彼の 王権 の正 統性 が疑 われ る中 で︑ サリ ー 家 への 王権 の確 保を 求め て反 乱を 起し たと 見て いる
⒄
︒ これ らの 見方 では 概ね コン ラー トに 反乱 での 中心 的な 役割 を与 え︑ 彼の 行動 に自 発性 を見 てい る︒ つま り彼 がま ず 最 初に 反乱 し︑ その 後に マテ ィル デら の父 の敵 と結 びつ いた こと にな る が⒅
︑こ れ に対 し も う一 つ の 見方 で は
︑マ テ ィ ルデ がこ の反 乱の 推進 力で
︑彼 女は 夫の ヴェ ルフ とと もに ウル バヌ スの 助力 をも って
︑ハ イン リヒ との 戦い のた め に
︑改 革派 の立 場を 強め る目 的で コン ラー トに 反乱 を促 した と見 てい
る⒆
︒こ の 解 釈で は さ らに コ ン ラー ト は
︑彼 を 担 いだ 諸勢 力の 重要 性の ない 傀儡
︑単 なる 表看 板と いう 見方 も出 てく るの で あ る⒇
︒ い ずれ に せ よ上 述 の ドニ ゾ ー は ま た︑ マテ ィル デが
﹁ま ず王 から 妻を 奪い
︑つ いで 子息 を奪 った
﹂と 語り
︑コ ンラ ート は﹁ マテ ィル デの 広い 翼の も と に 身 を委 ね
﹂た と︑ 彼 女が 反 乱 に 誘っ た か のよ う に も語 っ て い るの で あ る
︒﹃ ハ イ ン リヒ 四 世 伝﹄ も︑ コ ン ラ ー ト はマ ティ ルデ によ って 説得 され たと
︑彼 女の 反乱 への 関与 をは っき りと 示し てい るの であ る
︒
トスカナ辺境女伯マティルデ ― 232 ―
こ のよ う に 反乱 へ の 係わ り を め ぐり
︑見 方 の 分か れ る コ ンラ ー ト やマ テ ィ ルデ へ の 評 価の 問 題 はと も か く と し て も
︑ド ニゾ ーが
︑マ ティ ルデ はコ ンラ ート に対 し て︑
﹁ふ さ わ しい 最 愛 の親 族 で も ある か の よう に
︑彼 を すぐ に 迎 え 入 れ﹂ と述 べて
︑彼 女が 彼に 懐く 親戚 的な 感情 に言 及し てい るの は︑ 彼女 が以 前に コン ラー トの 父の ハイ ンリ ヒ四 世 に 対し て懐 き︑ 後の ハイ ンリ ヒ五 世に 対し ても 懐い たの と同 様の 親戚 的な 感情 とと もに
︑あ らた めて 注目 すべ きも の で あ る
︒実 際 ま た コ ン ラ ー ト は 反 乱 後 ま も な く 父 王 の 策 略 で 捕 え ら れ た が
︑マ テ ィ ル デ と ヴ ェ ル フ の 助 け で 逃 れ
︑彼 らの 熱心 な助 力の 下で
︑一
〇九 三年 十二 月以 前に ミラ ノで 王に 戴冠 され たの であ る
︒ コン ラー トは その 後一
〇九 五年 四月 に︑ クレ モナ で法 王の ウル バヌ スに 初め て会 い︑ 法王 に対 して いわ ゆる 馬丁 奉 仕 をし
︑さ らに 五日 後に 法王 の身 体等 への 保護 の誓 いを し︑ これ に対 し法 王の 方は コン ラー トに 皇帝 戴冠 の約 束を し た ので ある
︒こ の会 見が コン ラー ト の 支配 権 の 頂 点と も 見 られ て い るが
︑こ の 頃 に マテ ィ ル デは ウ ル バヌ ス と と も に︑ コン ラー トと 南伊 のノ ルマ ン諸 侯ロ ジェ ール の娘 との 結婚 を勧 め
︑ピ サ で 結婚 式 が 行わ れ た
︒ こ の結 婚 は コ ン ラー トを さら にし っか りと 父王 の反 対派 に結 びつ ける ため であ った とか
︑父 王の イタ リア での 増大 する 孤立 化を 固 め るの に役 立っ たと も見 られ てい るが
︑こ の結 婚は 当面 コン ラー トに 権力
︑威 信の 増加 をも たら した ので ある
︒ こう した 中で 前章 で見 たよ うに
︑父 王の ハイ ンリ ヒ四 世は 一〇 九三 年か ら一
〇九 六年 の間
︑北 伊の 一隅 に閉 じ込 め ら れ︑ 特に 一〇 九四 年は 王の 治世 の中 で彼 の動 向や 居場 所が 記録 され てい な い 唯 一の 年 に なる ほ ど であ っ た
︒そ の 上
︑上 述の ドニ ゾー の記 述に もあ った が︑ この 年の 初期 に王 の二 度目 の妃 であ るプ ラク セデ スが 王か ら離 れ︑ マテ ィ ル デの 側に 移る とい う打 撃も あっ た
︒ ベル ノル トが
︑王 は悲 嘆の 中で 自殺 さ え 考 えた と も 伝え る よ うに
︑王 の 状 況 は
︑こ の一
〇九
〇年 代の 半ば くら い絶 望的 なも のは 殆ど なか った とも 言わ れ る ほ どで あ っ た
︒ しか し 彼 は全 く 孤 立 無 援と いう わけ では なく
︑ケ ルン テン 大公 に頼 る中 で︑ 王と して 行動 しえ た一 面も あっ たこ とも 忘れ ては なら ない の
― 233 ― トスカナ辺境女伯マティルデ
で ある
︒ハ イン リヒ が実 際こ の状 況か らも う一 度脱 け出 すの に成 功し たの も
︑既 述 の 一〇 九 五 年の マ テ ィル デ と ヴ ェ ルフ の結 婚解 消の よう な対 立側 の事 情が 王に 幸い した とは いえ
︑王 には なお 力 が あ った こ と をも 十 分 に推 測 さ せ る ので ある
︒ 一 方 反 乱 し た コ ン ラ ー ト の 方 は
︑上 述 の 結 婚 後 一 年 以 上 に わ た り 史 料 上 の 空 白 が あ り
︑彼 の 動 向 は 分 か ら な い が
︑一 一〇 一 年 に亡 く な る まで
︑と も か くも
﹁ほ ぼ 九 年間
︑王 位 を 保 った
﹂の で あ る
︒ しか し 彼 の支 配 権 は︑ 上 記 のよ うに ウル バヌ スと の会 見の 頃が 頂点 とも され てい るの であ るか ら︑ しか も同 じ頃 マテ ィル デの 結婚 が事 実上 解 消 さ れ︑ 北 伊で の 反 ハイ ン リ ヒ 四世 派 の 戦線 も ま もな く 崩 壊 して い く 中で
︑重 要 性 を失 っ て い った こ と は 確 実 で あ り
︑│
│右 の史 料上 の空 白も これ を物 語っ てい る│
│︑ 父王 のハ イン リヒ にと っ て コ ンラ ー ト はも は や 脅威 で は な く なっ てい た
︒ 一〇 九七 年十 月の クレ モナ の司 教座 参事 会の ため の所 領確 認 の 公 文書 後
︑コ ン ラー ト の 名前 は 史 料 か ら消 え︑ 史料 は僅 かに 彼が 一一
〇一 年に 亡く なっ たこ とを 伝え てい るだ け で あ る
︒ 彼の 権 力 は僅 か の 間に 完 全 に 崩 壊し
︑ど こに も活 動的 な支 持を 見出 さな かっ たの であ る
︒ この よう な経 過の 中で コン ラー トは ドイ ツで は一
〇九 八年 五月 にマ イン ツで 正式 に王 位を 罷免 され
︑弟 のハ イン リ ヒ 五世 が代 わっ て王 に選 ばれ
た
︒以 後 コン ラ ー ト は名 ば か りの 支 配 権を も つ だ けで
︑新 王 の ハイ ン リ ヒ五 世 が 北 伊 に も 足 場 を 固 め よ う と す る 中 で︑ コ ン ラ ー ト は マ テ ィ ル デ と そ の 養 子 グ イ ド ー の 保 護 の 下 に フ ィ レ ン ツ ェ に 逃 れ
︑や がて 以前 の同 盟者 の大 部分 から 忘れ られ る中 で︑ この フィ レン ツェ で二 十 七 歳 の若 さ で 一一
〇 一 年七 月 に 熱 病 で突 然亡 くな った
︒熱 病と 伝え てい るの はド ニゾ ーで ある が︑ しか しパ ウロ 教 会 の 侍祭 ラ ン ドゥ ル フ の記 述 に よ る と︑ マテ ィル デが 彼女 の侍 医に コン ラー トを 毒殺 させ たと いう 噂も あっ たの であ る
︒ この コン ラー トの 存在 をど う見 るか は︑ 既述 の反 乱の 時の 評価 とも 関連 する が︑ 当時 の記 述で は党 派で 評価 は分 か
トスカナ辺境女伯マティルデ ― 234 ―
れ
︑ド ニゾ ーや ベル ノル ト︑ エッ ケハ ルト とい った 反ハ イン リヒ 四世 的な 傾 向 の ある 主 な 史料 で は︑ コ ンラ ー ト へ の 好意 的で 肯定 的な 像が 伝え られ てい る
︒ しか し近 年に おけ る評 価は 一 般 に 否定 的 で︑ 例 えば ク ノ ーナ ウ は
︑無 力 で 全て の方 面か ら惨 めに 軽蔑 され たコ ンラ ート が亡 くな った こと は︑ 深く 影響 を与 える よう な結 果を 全く 残さ なか っ た と見 てい るし
︑ベ ッカ ーも
︑コ ンラ ート の正 確な 像は 知ら れて いな いと し な が らも
︑彼 は 歴 史像 の 中 で影 の よ う な 存在 だっ たと 評し てい る
︒ ボス ホー フも
︑コ ンラ ート の対 立王 権は ドイ ツ で は 反響 が な く︑ イタ リ ア でも 彼 は 独 立 した 政治 的な 構想 の主 張者 とい うよ りも
︑マ ティ ルデ とウ ルバ ヌス の道 具で
︑殆 ど活 動を 展開 しえ なか った と見 て い る
︒ この こと は逆 に見 れば
︑ハ イン リヒ 四世 がマ ティ ルデ の支 配に 反感 を も つ 諸都 市 や 有力 者 の 支持 を 得 て︑ 成 功 裡に 活動 しえ たこ とを も示 して いる ので ある
︒ これ らの 評価 に対 して E・ ゲー ツは
︑コ ンラ ート はド イツ でも そん なに 大き くは ない が︑ ある 程度 の支 持者 がい た こ とや
︑北 伊の かな りの 部分 で一 時的 にし ろ比 較的 大き な成 功を 収め てい た と し︑ こ うし た 事 情は コ ン ラー ト を 受 動 的で 最後 は全 く重 要性 のな い存 在と 見る こと を否 定す るも のと 反論 して い る
︒確 か に一 面 で は上 述 の コン ラ ー ト へ の結 婚の 勧め にし ても
︑マ ティ ルデ やウ ルバ ヌス にと って
︑彼 が単 なる 傀儡 的な 弱い 存在 とば かり には 見ら れて い な かっ たこ とを 示し てい よう
︒ しか し他 方E
・ゲ ーツ も認 める よう に︑ コン ラー トは 重要 な点 でウ ルバ ヌ ス の 期待 を 満 たさ な か った
し
︑コ ン ラ ー トは 彼の 部下 がか けて いた 期待 も満 たさ ず︑ ウル バヌ スや マテ ィル デ︑ ヴェ ルフ 五世 らは 彼を だん だん と見 捨て て い った ので ある
︒特 にウ ルバ ヌス は︑ 十字 軍の こと が前 面に 出て くる と
︑コ ン ラ ート を 忘 れた か の よう に な り︑ 一
〇 九五 年の 後は 彼か ら空 間的 にも 離れ てし まっ たの であ る
︒ ボス ホー フは
︑ウ ル バ ヌ スに と っ てコ ン ラ ート は 重 要 性 のな い存 在に なる に従 って
︑ど うで もよ い存 在に なっ たと 評し てい るが
︑そ れ に し ても ウ ル バヌ ス が コン ラ ー ト
― 235 ― トスカナ辺境女伯マティルデ
を 見捨 てた こと は︑ 法王 政策 の変 化を 示し てい ると はい え
︑ ウル バヌ スと い う 男 が︑ 俗人 顔 負 けの 如 何 に政 略 的 で 冷 淡な 人物 であ った かを よく 示し てい るの であ る
︒ コン ラー トが 彼に とっ て 役 に 立た な く なっ た と して も
︑彼 は 結 局 は都 合の いい 時に だけ コン ラー トを 利用 した 感じ なの であ る︒ コン ラー トの 反乱 が︑ 自発 的で あっ たの かど うか は別 とし て︑ 反乱 後の 彼の 勢力 の拡 大に は確 かに 彼自 身の 力も あ っ た
︒ しか しそ れに は根 本的 にマ ティ ルデ やウ ルバ ヌス の支 援が 大き く
︑彼 ら の 状況 が 変 わる 中 で︑ 彼 はや が て 見 捨 てら れ︑ その 権 力 を 事実 上 奪 われ た と 許さ れ る の であ る か ら
︑ 彼は 一 面 では や は り 結局 は 時 の流 れ に 翻 弄さ れ
︑ 当 時の 権力 者か ら都 合よ く利 用さ れる 道具 の典 型と も言 える 悲劇 的な 人物 であ った ので ある
︒ この コン ラー トに 対し ては マテ ィル デは ウル バヌ スと は違 い︑ 一応 は最 後 ま で 保護 し た 面は あ る にし て も
│上 述 の 毒殺 の噂 は別 とし て│
︑彼 の反 乱に 係わ った こと は︑ マテ ィル デの 失敗 例の 一つ とも 言え るも ので あっ た︒ ドニ ゾ ー がマ ティ ルデ にと って 不利 にな るこ の件 を珍 しく も伝 え︑ コン ラー トを
﹁い とも 聡明 な︑ 紅顔 の美 青年
﹂と か﹁ 偉 大 なる コン ラー ト﹂ など と不 自然 なほ どに 無闇 に讃 美し 美化 して いる のも
︑こ の マ テ ィル デ の 失敗 や 不 名誉 な 思 い 出 を消 し糊 塗し てい る感 じで あり
︑む しろ この こと は逆 に︑ 彼女 にと って のコ ンラ ート との 苦い 思い 出を 証明 して い る ので ある
︒ 注
⑴ 反 乱 の 正 確 な 時 期 は 分 か ら ず
︑ 一
〇 九 三 年 は じ め と も 春 と も
︑ さ ら に は 夏 と も さ れ る が
︑ ギ ー ゼ ブ レ ヒ ト は
︑ 反 乱 が は っ き り し た の は 四 月 ご ろ と 見 て い る
︒ E
・ ゲ ー ツ は
︑ ベ ル ノ ル ト が 反 乱 の 記 述 を 三 月 に 入 れ て い る こ と は
︑ お そ ら く 正 し い と 見 て い る
︒
BC.S.392−393.SC.p.312.
トスカナ辺境女伯マティルデ ― 236 ―
VitaHeinriciIV.imperatoris
︵AQ.Bd.XII.1974
︶S.436−437.
W.Giesebrecht,S.552−553.A.Becker,S.132.M.v.K.IV.S.391.I.S.Robinson,Henry,p.287.T.Struve,S.76.L.Simeoni,p.364−365.
M.Suchan,KönigsherrschaftimStreit.
︵1997
︶S.164.
E.Goez,DerThronerbealsRivale:KönigKonrad,KaiserHeinrichsIV.ältesterSohn.
︵HJ.116.1996
︶
│ 以 下E.G.Th.
と 略 す
│
S.25.
⑵
ibid,S.25.G.Althoff,S.211.
⑶ コ ン ラ ー ト は 十 三 歳 の 時
︑ 一
〇 八 七 年 五 月 に ア ー ヘ ン で 王 に 戴 冠︵ 聖 別
︶さ れ
︑ イ タ リ ア で の ド イ ツ︵ 帝 国
︶の 利 益 を 守 る た め に 父 の 代 理 と し て イ タ リ ア へ 同 年 派 遣 さ れ た
︒ コ ン ラ ー ト は 以 前 に も イ タ リ ア に 居 り
︑ ド イ ツ で の 僅 か な 滞 在 を 除 き
︑ 一 生 北 伊 に 居 た
︒ 彼 は 反 乱 の 時 二 十 歳 と も 表 示 さ れ る が
︑ 一
〇 七 四 年 二 月 生 れ で
︑ 反 乱 の 時 点 で は 十 九 歳 で あ る
︒
E.G.Th.S.16−17.A.Becker,S.131−132.M.v.K.IV.S.391.
M.Muylkens,Regesgeminati−,,DieGegenkönige”inderZeitHeinrichsIV.
︵2012
︶S.278−279.
⑷
DO.
一 七 四
〜 一 七 五 ペ ー ジ
︒︵ な お 前 稿
│ 本 論
︑︵ 二
︶
│ でDO をDo と 誤 っ て 表 示 し て い た
︶
G.Althoff,S.211.
⑸
E.G.Th.S.28.
⑹ ド ニ ゾ ー は
︑ こ の 反 乱 は 王 に と っ て
﹁ 痛 手
﹂︵plaga
︶ と も 表 現 し
︑﹃ ハ イ ン リ ヒ 四 世 伝
﹄ も
︑ こ の 反 乱 の 知 ら せ が
﹁ 王 の 心 を 悲 し ま せ た
﹂ と 語 っ て い る
︒ E
・ ゲ ー ツ は
︑ こ の 反 乱 の も の す ご さ を 誰 も が 意 識 し た と 評 し て い る が
︑ こ の 反 乱 と 後 述 の 王 の 妃 の 離 反 は
︑ 王 が こ う む っ た 最 も 痛 い 経 験 で あ っ た
︒
DO.
一 七 四
〜 一 七 五 ペ ー ジ
︒
VitaHeinrici.S.436−437.
E.G.Th.S.28.B.Pfer.S.169.W.Giesebrecht,S.552.
E.Boshof,S.256.M.v.K.IV.S.392.I.S.Robinson,Papacy,p.416.
⑺ ロ ビ ン ソ ン は
︑ こ の 結 果
︑ 王 は イ タ リ ア に お い て 同 盟 者 が な く 置 き ざ り に さ れ た と 見
︑ W
・ ゲ ー ツ は
︑ こ れ に よ り サ リ ー 家 の 多 く の 支 持 者 が コ ン ラ ー ト に つ い た と 見 て い る
︒
A.Becker,S.132.I.S.Robinson,Papacy,p.416.T.Struve,S.78.
W.G.S.196.M.Suchan,S.164.M.Muylkens,S.281.
― 237 ― トスカナ辺境女伯マティルデ
⑻
E.G.S.143.A.Becker,S.131.
⑼ ロ ビ ン ソ ン も
︑ 王 の 運 命 の 急 速 な 逆 転 は
︑ こ の 反 乱 の 結 果 で あ っ た と 見 て い る
︒ E
・ ゲ ー ツ は
︑ コ ン ラ ー ト は 短 期 間 の う ち に か な り の 支 持 者 を 集 め え た と 見
︑ こ の 反 乱 と マ テ ィ ル デ と ヴ ェ ル フ の 結 婚 が
︑ ア ル プ ス の 南 で の サ リ ー 家 の 支 配 を 数 年 間 麻 痺 さ せ た と し て い る
︒
P.G.S.261.I.S.Robinson,Papacy,p.416.E.G.Th.S.28.
E.Goez,ZwischenReichszugehörigkeitundEigenständigkeit:HeinrichV.undItalien.
︵.ichbLuG..vgHeinhZeit.erseininV.rich.
2013
︶
│ 以 下E.G.HV.
と 略 す
│S.200.
⑽
E.Boshof,S.256−257.W.Giesebrecht,S.551,553.
L.Simeoni,p.364−365.M.Muylkens,S.282.E.G.Th.S.29.
C.Zey,ImZentrumdesStreits.MailandunddieoberitalienischenKommunenzwischenregnumundsacerdotium.
zurErneuerung?op.cit ︵VomUmbruch
︶S.598.
も っ と も E
・ ゲ ー ツ は し か し
︑ コ ン ラ ー ト の こ の 都 市 同 盟 形 成 へ の よ り 強 い 影 響 力 が あ っ た こ と は あ り え な い と 見 て い る
︒
⑾ ド ニ ゾ ー も ベ ル ノ ル ト も
︑ 反 乱 の 詳 し い 具 体 的 な 原 因 を 挙 げ て い な い し
︑ 大 部 分 の 年 代 記 も 反 乱 に 言 及 す る だ け で
︑ 原 因 を 挙 げ て い な い
︒
DO.
一 七 四
〜 一 七 五 ペ ー ジ
︒
BC.S.392−393.SC.p.312.
E.G.S.144.E.G.Th.S.25,27.P.G.S.270.
A.Becker,S.131−132.E.Boshof,S.256.
L.Simeoni,p.364.M.Muylkens,S.393.
⑿
T.Kölzer,VaterundSohnimKonflikt.DieAbsetzungHeinrichsIV.
︵hg..tzhulScU.v.n.GrungewörchrsVeseos1998
︶S.61.
⒀ ギ ー ゼ ブ レ ヒ ト は
︑ コ ン ラ ー ト は 父 王 ほ ど 新 し い 考 え に 敵 対 的 で は な く
︑ 教 会 改 革 や 法 王 権 と の 関 係 に 別 の 考 え を も っ て い た と し
︑ さ ら に 父 王 の 再 婚 に 係 わ る コ ン ラ ー ト と の 不 和 も
︑ 反 乱 の 背 景 に あ る と 見 て い る
︒ ま た 父 の 生 活 態 度 へ の コ ン ラ ー ト の 嫌 悪 に 反 乱 の 因 を 見 る の も 確 実 と は 言 え ず
︑ E
・ ゲ ー ツ も 見 る よ う に
︑ 父 王 の 性 格
︑ 態 度 な ど へ の 悪 い 噂 は
︑ 反 王 派 に よ っ て 伝 え ら れ て い る も の で あ り
︑ 反 王 派 も 全 て こ れ を 信 じ た と は 言 え ず
︑ ベ ル ノ ル ト は 既 述 の よ う に 反 乱 の 理 由 を 挙 げ て い な い の で あ る
︒ な お ギ ー ゼ ブ レ ヒ ト は ま た
︑ お そ ら く エ ッ ケ ハ ル ト の 記 述 か ら
︑ コ ン ラ ー ト が 本 来 は 反 乱 を 望 ま ず
︑ い か
トスカナ辺境女伯マティルデ ― 238 ―
に し ば し ば 父 王 の も と へ 帰 り た か っ た か と 述 べ
︑ 彼 は 父 の 悪 口 を 言 っ た こ と は な く
︑ 父 を 常 に 主 君 と 見 て い た と も 論 じ て い る
︒
W.Giesebrecht,S.552−553,592.M.v.K.IV.S.391.E.G.S.144.
E.G.Th.S.26,47.Anm.325.M.Muylkens,S.280.J.Laudage,DieSalier.
︵2006
︶S.92.
BC.S.392−393.SC.p.312.Ekkehardichronica.
︵AQ.Bd.XV.1972
︶S.130−131.
⒁ ベ ッ カ ー も
︑ コ ン ラ ー ト は お そ ら く 父 王 の 立 場 に 絶 望 し て
︑ サ リ ー 家 の 皇 帝 権 を 救 お う と し た と 見 て い る
︒
I.S.Robinson,Henry,p.288.A.Becker,S.134.
⒂ 前 注
︑
⒀ の 父 王 と の 考 え の 違 い に も 関 連 す る が
︑ ロ ビ ン ソ ン は 以 前
︑ エ ッ ケ ハ ル ト が コ ン ラ ー ト を
﹁ あ ら ゆ る 点 で カ ト リ ッ ク 的 で 法 王 座 に 最 も 服 従 し て い る 人 物
﹂ と 語 っ て い る 所 が
︑ 反 乱 へ の 一 つ の 解 明 の 鍵 を 与 え て い る と し
︑ コ ン ラ ー ト の 反 乱 は 法 王 庁 へ の 日 和 見 的 な 同 盟 で は な く
︑ 敬 虔 な 闘 争 者 と し て で あ っ た と 見 て い た が
︑ 近 年 は コ ン ラ ー ト の 法 王 庁 へ の 立 場 は
︑ 宗 教 的 と い う よ り も
︑ 政 治 的 な 計 算 か ら 出 て い る と 修 正 し て い る
︒
E.Boshof,S.256.E.G.S.144.E.G.Th.S.28.I.S.Robinson,Papacy,p.416.I.S.Robinson,Henry,p.288.
Ekkehardichronica.S.128−129.
⒃
I.S.Robinson,Henry,p.288.
⒄ ム イ ー ル ケ ン ス も
︑ こ の E
・ ゲ ー ツ の 見 解 が 最 近 の 研 究 で は 受 け 入 れ ら れ て お り
︑ 最 も 説 得 力 の あ る も の と 評 価 し て い る
︒
E.G.Th.S.28.M.Muylkens,S.281,281.Anm.24,293.
⒅ E
・ ゲ ー ツ は
︑ 反 乱 の 前 に コ ン ラ ー ト と マ テ ィ ル デ と の 密 接 な 関 係 は な か っ た と し
︑ む し ろ コ ン ラ ー ト は 自 発 的 に 行 動 し
︑ 反 乱 後 ま も な く イ タ リ ア の 反 ハ イ ン リ ヒ 四 世 派 と の 同 盟 が 出 て き た と い う 見 方 が 一 般 的 で あ る と 主 張 し て い る
︒ ケ ル ツ ァ ー も
︑ コ ン ラ ー ト が 反 乱 後 す ぐ に 父 の 敵 と 結 び つ い た こ と は
︑ コ ン ラ ー ト が 自 分 自 身 の 力︵ 責 任
︶に よ っ て の み
︑ 王 位 や 皇 帝 位 へ の 彼 の 見 込 み を 確 保 し う る と 信 じ て い た こ と を 示 す と 見 て い る
︒
M.Muylkens,S.281.E.G.S.144.E.G.Th.S.27.J.Laudage,S.92.T.Kölzer,S.61.
⒆ シ ュ ト ル ー ヴ ェ は
︑ マ テ ィ ル デ は
﹁ 巧 み に
﹂ 王 家 内 の 対 立 を 利 用 し た と 評 し
︑ ギ ー ゼ ブ レ ヒ ト も
︑ 彼 女 を
﹁ 策 略 の 多 い 女
﹂
― 239 ― トスカナ辺境女伯マティルデ
と し
︑ 彼 女 は コ ン ラ ー ト を 誘 惑 し
︑ ハ イ ン リ ヒ 四 世 へ の 復 讐 心 に 満 ち た 女 で あ る こ と を 示 し た と 述 べ て い る
︒ し か し ギ ー ゼ ブ レ ヒ ト は
︑ 既 述 の よ う に
︵ 前 注
︑
⒀
︶︑ 反 乱 の 背 景 と し て は 父 子 の 立 場 の 違 い を 見 て い る
︒ な お E
・ ゲ ー ツ は
︑ こ の よ う な マ テ ィ ル デ を 反 乱 に 誘 っ た 推 進 力 と す る 見 方 は
︑ 現 代 で も シ ュ ト ル ー ヴ ェ ら に 見 ら れ る が
︑ こ れ は 十 九 世 紀 の 幾 人 か の 研 究 者 の 立 場 と 見 て い る
︒ た だ E
・ ゲ ー ツ は
︑ 他 の 所 で こ の 自 身 の 主 張 と 矛 盾 し て や や 軽 率 に
︑ マ テ ィ ル デ が コ ン ラ ー ト を 反 乱 に 誘 っ た と も 表 現 し て い る
︒
T.Struve,S.76−77.A.O.S.159.W.Giesebrecht,S.553,592.
A.Becker,S.134.P.G.S.261.E.Boshof,S.256.
NeueDeutscheBiographie.Bd.12.
︵1980
︶
│ 以 下NDB
と 略 す
│S.496.
H.Zimmermann,HeinrichIV.
︵KaisergestaltendesMittelalters.hg.v.H.Beumann.1984
︶S.129.E.G.Th.S.27,47.
⒇ ム イ ー ル ケ ン ス は
︑ こ の よ り 古 い 研 究 の 見 方 を E
・ ゲ ー ツ が 前 注
︑
⒆ の よ う に 説 得 力 を も っ て 否 定 し て い る と 評 価 し て い る が
︑ し か し ご く 最 近 の 論 文 で は 当 の E
・ ゲ ー ツ 自 身 は
︑ コ ン ラ ー ト は 父 の ハ イ ン リ ヒ 四 世 の 勢 力 を 弱 め る た め の 都 合 の よ い 道 具 で あ っ た か の よ う で あ る と も 見 て い る
︒ ロ ビ ン ソ ン は
︑﹃ ハ イ ン リ ヒ 四 世 伝
﹄ は
︑ コ ン ラ ー ト が
﹁ 女 の 策 略
﹂ の 犠 牲 に な り
︑ 彼 を マ テ ィ ル デ の
﹁ お 先 棒
﹂︑
﹁ だ ま さ れ や す い 人 物
﹂ と し て 描 い て い る と 述 べ て い る
︒
M.Muylkens,S.288.E.G.HV.S.220.I.S.Robinson,Henry,p.288.VitaHeinrici,S.436−437.
ク ノ ー ナ ウ は
︑ ド ニ ゾ ー は
︑ コ ン ラ ー ト を 父 王 か ら 離 反 さ せ た こ と を マ テ ィ ル デ の 主 な 功 績 と し て い る と 見 て い る
︒
DO.
一 七 四
〜 一 七 五 ペ ー ジ
︒
T.Struve,S.76.M.v.K.IV.S.391.
VitaHeinrici,S.436−437.E.G.Th.S.26−27.
E.Goez,EinneuerTypdereuropäischenFürstinim11.undfrühen12.Jahrhundert?
︵nehg..opaurEsueundSartumseaiKschelisv.
B.Schneidmüller/S.Weinfurter.2007
︶
│ 以 下E.G.Typ.
と 略 す
│S.174.
エ ッ ケ ハ ル ト も
︑ マ テ ィ ル デ は コ ン ラ ー ト に
﹁ 血 縁 と 親 し い 交 際 で 結 ば れ て い る
﹂ と 語 っ て い る
︒
DO.
一 七 四
〜 一 七 五 ペ ー ジ
︒
T.Struve,S.77.
本 論
︑︵ 一
︶︑ 第 三 章
︑ 六 一
〇 ペ ー ジ
︒ 後 章
︑ 第 八 章
︒
トスカナ辺境女伯マティルデ ― 240 ―
Ekkehardichronica.S.162−163.
こ れ を 伝 え て い る の は
︑ ベ ル ノ ル ト だ け で あ る
︒
BC.S.394−395.SC.p.313.EG.S.144.
E.G.Th.S.28.M.Muylkens,S.280.
コ ン ラ ー ト は ま ず モ ン ツ ァ で
︑ つ い で ミ ラ ノ で く り 返 し 戴 冠 さ れ た が
︑ 既 述 の よ う に 彼 は 既 に 一
〇 八 七 年 に ア ー ヘ ン で 王 に 戴 冠 さ れ
︑ イ タ リ ア で の 父 王 の 代 理 に 任 命 さ れ て い た
︒ こ の 新 た な 戴 冠 は
︑ 以 前 の ア ー ヘ ン で の 戴 冠 に 実 質 的 に 新 し い も の を 付 け 加 え な か っ た が
︑ 後 者 を 意 図 的 に 無 視 す る も の で あ っ た と も さ れ
︑ あ る い は 反 ハ イ ン リ ヒ 四 世 派 は 後 者 を 認 め て い な か っ た の で
︑ 前 者 が コ ン ラ ー ト の 支 配 権 を
︑ 父 王 に 頼 ら な い 全 く 独 自 な 自 己 正 当 化
︵ 合 法 化
︶ の 基 礎 の 上 に 置 い た と も 解 釈 さ れ て い る
︒ い ず れ に し ろ E
・ ゲ ー ツ は
︑ コ ン ラ ー ト が 実 際 に 完 全 に 独 立 し た 王 国 を 打 ち 建 て よ う と し た の か ど う か は
︑ は っ き り し な い と し て い る
︒
BC.S.394−395.SC.p.313.M.v.K.IV.S.394.
W.Giesebrecht,S.553−554.A.Becker,S.131−132.
E.G.Th.S.28.G.Althoff,S.212.
M.Muylkens,S.284.E.G.HV.S.220.
こ の 馬 丁 奉 仕 は
︑ 封 建 的 な 主 従 関 係 を 示 す も の で は な く
︑ コ ン ラ ー ト が ウ ル バ ヌ ス を 正 式 の 法 王 と 認 め た こ と を 示 し
︑ こ の 両 者 は
︑ そ の 後 の 保 護 の 誓 い と 皇 帝 戴 冠 の 約 束 で 相 互 の 協 力 を 示 し た の で あ る
︒ ベ ッ ヒ ャ ー は
︑ こ の 馬 丁 奉 仕 で コ ン ラ ー ト は
︑ 法 王 の 忠 実 な 支 持 者 で あ る こ と を 示 し た と も 見 て い る
︒
BC.S.414−417.SC.p.326.
E.G.S.145.E.G.Th.S.32.
M.Muylkens,S.289.I.S.Robinson,Papacy,p.417.I.S.Robinson,Henry,p.291.A.Becker,S.133−136.
M.Becher,HeinrichIV.
︵1056−1106
︶MitRudolf
︵1077−1080
︶,Hermann
︵1081
︶,Konrad
︵1087−1093,1101
†
︶,
︵DieDeutschen
HerrscherdesMittelalters.hg.v.B.SchneidmüllerundS.Weinfurter.2003
︶S.177.
M.Muylkens,S.289.
― 241 ― トスカナ辺境女伯マティルデ
ロ ジ ェ ー ル の 娘 マ ク シ ミ リ ア は ま だ 幼 い 子 供 で あ っ た が
︑ ベ ッ カ ー は
︑ マ テ ィ ル デ と い う よ り ウ ル バ ヌ ス が
︑ ノ ル マ ン 人 の 支 援 を 求 め て
︑ こ の 結 婚 を 画 策 し
︑ コ ン ラ ー ト と 会 っ た と 見
︑ ベ ッ ヒ ャ ー も
︑ ウ ル バ ヌ ス が こ の 娘 を コ ン ラ ー ト に 仲 介 し た と 見 て い る
︒
DO.
一 七 六
〜 一 七 七 ペ ー ジ
︒
BC.S.416−417.SC.p.327.
Ekkehardichronica.S.128−131.E.G.Th.S.34−35.
T.Struve,S.77.A.Becker,S.133.M.Muylkens,S.290.
W.Holtzmann,Maximiliaregina,sororRogeriiregis.
︵DA.19.1963
︶S.161−162.
M.Becher,S.177.
NDB,Bd.12.S.496.G.Tabacco,NorthernandcentralItalyintheeleventhcentury.
︵evIVy.orstHialediTheMidgembrCaewN.
PartII.2004
︶p.87.
M.Becher,S.177.
E
・ ゲ ー ツ は
︑ マ ク シ ミ リ ア は こ の 結 婚 で 多 く の 財 宝 を も た ら し
︑ こ れ は コ ン ラ ー ト に と っ て
︑ 経 済 的 に 支 え ら れ る 基 礎 を 作 る 可 能 性 を 意 味 し た と し
︑ こ の 結 婚 式 が 少 な く と も 儀 式 的 な 点 で は コ ン ラ ー ト の 王 の 時 代 の 頂 点 で あ っ た と 見 て い る
︒
M.Muylkens,S.290.E.G.Th.S.35.
E.G.S.144.E.G.Th.S.29−30.G.Althoff,S.211.I.S.Robinson,Henry,p.289.M.Muylkens,S.282.
DO.
一 六 八
〜 一 七 一 ペ ー ジ
︒
I.S.Robinson,Henry,p.289.
E.G.S.144−145.
ギ ー ゼ ブ レ ヒ ト や ア ル ト ホ フ は
︑ こ の ベ ル ノ ル ト の 記 述 を あ り う る も の と 見 て い る が
︑ 一 般 的 に は こ れ は 他 の 史 料 に 言 及 が な く 虚 構 と 見 ら れ て い る
︒
BC.S.394−395.SC.p.313.E.G.S.144.
W.Giesebrecht,S.553.G.Althoff,S.211,219.M.v.K.IV.S.396.I.S.Robinson,Henry,p.288.D.J.Hay,p.146.I.S.Robinson,Henry,p.289,293.
本 論
︑︵ 二
︶︑ 第 五 章
︑ 一 五
〇 ペ ー ジ
︒
T.Struve,S.79.
トスカナ辺境女伯マティルデ ― 242 ―
逆 に こ の マ テ ィ ル デ の 結 婚 解 消 の 動 き に は
︑ 王 の 力 に よ る と こ ろ も あ り う る の で あ り
︑ 王 が 全 く 無 力 な 存 在 で は こ れ も あ り え な か っ た か も し れ な い
︒
G.Althoff,S.219−220.J.Laudage,S.93.
ヴ ェ ネ チ ア︵ ヴ ェ ネ ト
︶地 方 の 大 部 分 は ハ イ ン リ ヒ 側 で あ っ た し
︑ 一 方 コ ン ラ ー ト の 立 場 は 決 し て 確 実 な も の で は な く
︑ 北 伊 の 西 部 で も 反 対 派 が い た
︒
E.G.Th.S.30.
ibid,S.35.
Ekkehardichronica.S.128−129.T.Groß,S.16.
E
・ ゲ ー ツ は
︑ マ テ ィ ル デ の 離 婚 後
︑ コ ン ラ ー ト の 政 治 的 な 活 動 力 が 消 え 去 る や 否 や
︑ 北 伊 に お け る 彼 へ の 支 え は
︑ 劇 的 に 減 少 し た と 見 て い る
︒
M.Muylkens,S.290,294.E.G.HV.S.220.I.S.Robinson,Henry,p.300.
但 し E
・ ゲ ー ツ に よ る と
︑ 一 一
〇
〇 年 四 月 の ミ ラ ノ の 公 文 書 に 彼 の 使 者 の 名 が 出 て く る の が 最 後 で あ っ た
︒
DieUrkundenKönigKonrads.
︵ipI.HeinriciIV.Dlo.mata.ParsII.VTMimGH.Diplomataregumetpe.ratorumGermaniae1978
︶
Nr.5.S.675−676.E.G.Th.S.38,46.
E
・ ゲ ー ツ は
︑ 前 注
︑ の 評 価 と は 少 し 異 な る が
︑ 一
〇 九 七 年 後 半 以 来 特 に 彼 の 資 力 が な く な っ た た め
︑ 彼 の 統 治 に は 反 応 が 限 ら れ
︑ 一
〇 九 八 年 に ま す ま す 地 盤 を 失 い つ つ あ っ た と 見 て い る
︒ タ バ ッ コ は
︑ コ ン ラ ー ト は マ テ ィ ル デ に と っ て 気 乗 り の し な い 道 具 に な っ た と 評 し て い る
︒ ツ ァ イ は
︑ 一
〇 九 七 年 を コ ン ラ ー ト の イ タ リ ア で の 対 立 王 権 の 崩 壊 年 と 見 て
︑ 彼 の 時 代 を 僅 か に 四 年 間 と し て い る
︒
E.G.Th.S.45−46.G.Tabacco,p.87.
M.Muylkens,S.291.C.Zey,S.598−599.
E.G.Th.S.47−48.
NDB.Bd.12.S.496.LM.Bd.V.
︵1991
︶Sp.1341.
E.G.Th.S.39−40.J.Laudage,S.93.
― 243 ― トスカナ辺境女伯マティルデ
DO.
一 七 八
〜 一 八 一 ペ ー ジ
︒
E.G.Th.S.48.P.G.S.287.I.S.Robinson,Henry,p.300.M.v.K.V.S.147.E.Boshof,S.257.
T.Kölzer,S.62.
こ の 噂 の 記 述 を E
・ ゲ ー ツ は で っ ち あ げ と 否 定 し て い る が
︑ ゴ リ ネ ッ リ は
︑ こ の 噂 は マ テ ィ ル デ と コ ン ラ ー ト の 対 立 が 先 鋭 化 し て い た こ と を 示 し て い る と 見 て い る
︒ ド ニ ゾ ー の み こ の 対 立 が あ っ た こ と を 述 べ て い る が
︑ 彼 は コ ン ラ ー ト の 亡 く な る 前 に 二 人 は 和 解 し て い た と 語 っ て い る
︒ ド ニ ゾ ー は こ の 対 立 の 原 因 を 挙 げ て い な い が
︑ マ テ ィ ル デ の 自 由 所 領 の 相 続 の 問 題 で
︑ 彼 女 が グ イ ド ー を 養 子 に し た 時 に 対 立 す る よ う に な っ た と か
︑ 北 伊 で の コ ン ラ ー ト の 支 配 権 の 拡 大 の た め の 政 治 上 軍 事 上 の イ ニ シ ャ チ ヴ が マ テ ィ ル デ と の 緊 張 を 呼 び 起 し た と も 見 ら れ て い る
︒ シ ェ ー ニ ン グ は
︑ ド ニ ゾ ー の 右 の 和 解 の 記 述 は
︑ マ テ ィ ル デ に よ る 毒 殺 の 疑 い を 晴 ら そ う と し て い る か の よ う で あ る と も 推 測 し て い る
︒
LandulfidesanctoPaulo,HistoriaMediolanensis.
︵MGH.SS.XX.1963
︶S.22.
Ekkehardichronica.S.162−163.DO.
一 七 八
〜 一 七 九 ペ ー ジ
︒
E.G.Th.S.40,48.P.G.S.270,287,295.
M.Muylkens,S.292.M.v.K.V.S.147,147.Anm.66.
N.Grimaldi,p.326,326.n.1.W.Giesebrecht,S.593.
J.Schöning,StudienzurGeschichtederHerzoginMatildevonCanossa.
︵1872
︶S.11.
コ ン ラ ー ト は 次 注
︑ の エ ッ ケ ハ ル ト の よ う な 彼 の 支 持 者 に と っ て は
︑﹁ よ き 王
﹂ の 性 質 を も つ 徳 と 敬 虔 の 典 型 で あ り
︑﹃ ハ イ ン リ ヒ 四 世 伝
﹄ の 作 者 の よ う な 反 対 派 に は
︑ 秩 序 を 乱 す 者 で あ り
︑ 王 権 へ の 侵 入 者 で あ っ た
︒
M.Muylkens,S.293.VitaHeinrici,S.436−437.
DO.
一 七 四
〜 一 八 一 ペ ー ジ
︒
BC.S.392−395,414−417.SC.p.312−313,326−327.
Ekkehardichronica.S.128−131,220−221.
ク ノ ー ナ ウ は
︑ コ ン ラ ー ト の 統 治
︑ 支 配 は た だ 見 せ か け だ け の も の だ っ た と 評 し て い る
︒
M.v.K.V.S.146−147.
ベ ッ カ ー は
︑ コ ン ラ ー ト は 王 と し て は 何 の 重 要 性 も 獲 得 せ ず
︑ 父 王 に 対 し 戦 い も し な か っ た し
︑ ま た 出 来 な か っ た と 評 し て
トスカナ辺境女伯マティルデ ― 244 ―
い る
︒
A.Becker,S.134,137.
エ ッ ケ ハ ル ト は
︑ コ ン ラ ー ト が マ テ ィ ル デ や ウ ル バ ヌ ス な ど の
﹁ 意 見 を 常 に
﹂ 聞 い て い た と 語 っ て い る
︒
E.Boshof,S.257.Ekkehardichronica.S.162−163.
T.Struve,S.82.
ム イ ー ル ケ ン ス も
︑ コ ン ラ ー ト の 王 権 は ド イ ツ に も 関 連 し
︑ ド イ ツ で も 彼 は 幾 つ か の 勢 力 の 中 で 王 と し て 認 め ら れ て い た と 見 て い る
︒
E.G.Th.S.30−31.M.Muylkens,S.285.
E
・ ゲ ー ツ は
︑ 父 王 の ハ イ ン リ ヒ 四 世 が ヴ ェ ル フ 家 と 和 解 し た あ と
︑ コ ン ラ ー ト は ヴ ェ ル フ 四 世 と 対 立 し て い た エ ス テ 家 と 協 力 し
︑ 一
〇 九 六
︑ 九 七 年 に お い て も コ ン ラ ー ト の 支 配 要 求 は 減 少 し て い な か っ た と 主 張 し て い る
︒ プ フ ェ ル シ− マ レ ツ ェ ッ ク は
︑ コ ン ラ ー ト は イ タ リ ア で 大 体 成 功 裡 に 地 位 を 保 っ た と し
︑ ギ ー ゼ ブ レ ヒ ト も 既 述 の よ う に
︵ 前 注
︑
⒀
︶︑ 彼 の 人 物 を か な り 評 価 し て い る
︒
E.G.Th.S.37,42.B.PferS.169.W.Giesebrecht,S.552.
E
・ ゲ ー ツ は
︑﹁ 対 立
﹂ 法 王 の ク レ メ ン ス 三 世 は
︑ コ ン ラ ー ト に よ っ て 克 服 さ れ な か っ た し
︑ コ ン ラ ー ト が 父 王 に 対 し 攻 撃 的 な 動 き を 示 さ な か っ た こ と は
︑ ウ ル バ ヌ ス に と っ て 大 き な 幻 滅 で あ っ た と 見 て い る
︒
E.G.Th.S.34,36.
M.Muylkens,S.293.
E
・ ゲ ー ツ は
︑ こ の 点 に つ い て コ ン ラ ー ト が 十 字 軍 に 対 し 何 の 関 与 も し な か っ た か ら と 見 て い る が
︑ ロ ビ ン ソ ン は
︑ 十 字 軍 が 今 や ウ ル バ ヌ ス の 関 心 を 吸 収 し た と 述 べ
︑ ウ ル バ ヌ ス は フ ラ ン ス か ら 帰 っ た 後 は
︑ も は や コ ン ラ ー ト と 接 触 し て い な い と 見 て い る
︒
E.G.Th.S.36.I.S.Robinson,Henry,p.300.M.Muylkens,S.291.
E.Boshof,S.257.
T.Struve,S.79.
E
・ ゲ ー ツ は
︑ コ ン ラ ー ト へ の 軍 事 的 財 政 的 な 支 援 は
︑ 法 王 庁 の 物 質 的 な 困 窮 の 中 で 不 可 能 な た め
︑ ウ ル バ ヌ ス は 彼 を 見 捨
― 245 ― トスカナ辺境女伯マティルデ
て た と 弁 護 し
︑ シ ュ ト ル ー ヴ ェ も
︑ ウ ル バ ヌ ス は
︑ ド イ ツ 皇 帝 権 と の 対 立 の よ う な 彼 自 身 の 教 会 政 策 の 目 標 と は 一 致 し な い も の に
︑ マ テ ィ ル デ に よ っ て 巻 き 込 ま れ た か の よ う で あ る と
︑ や は り 彼 を 弁 護 し て い る
︒
E.G.Th.S.36.T.Struve,S.79−80.
コ ン ラ ー ト が 全 く 無 力 な 存 在 で は な か っ た こ と は
︑ 彼 が 時 に 彼 の 支 配 権 の 拡 大 で マ テ ィ ル デ と の 緊 張 を も た ら し た り
︑ ト ス カ ナ の ピ サ で の 彼 の 長 い 滞 在 が
︑ マ テ ィ ル デ の 気 分 を 害 す る こ と も あ っ た こ と か ら も 分 か る し
︑ ま た マ テ ィ ル デ と の 対 立 の 時 に
︑ ド ニ ゾ ー が
﹁ 王︵ コ ン ラ ー ト
︶の 怒 り
﹂ と 表 現 し て い る よ う に
︑ コ ン ラ ー ト の 意 志 の 強 さ も 見 ら れ
︑ 彼 が 単 な る た だ 言 い な り に な る だ け の 存 在 で は な か っ た こ と を 暗 示 し て い る
︒
E.G.Th.S.40−41.DO.
一 七 八
〜 一 七 九 ペ ー ジ
︒ 前 注
︑
︑
︑
︒
M.Muylkens,S.373.
前 注
︑
︑ 参 照
︒
T.Kölzer,S.61.
既 述 の よ う に マ テ ィ ル デ と コ ン ラ ー ト は
︑ 一 時 対 立 す る こ と も あ っ た
︒ 前 注
︑
︑ 参 照
︒
J.Laudage,S.93.
DO.
一 七 六
〜 一 八 一 ペ ー ジ
︒ ド ニ ゾ ー は
︑ 前 注
︑
︑ の よ う に
︑ マ テ ィ ル デ と コ ン ラ ー ト の 対 立 を こ れ ま た 珍 し く 伝 え て い る が
︑ し か し こ れ も
︑ 彼 ら は
﹁ 堅 い 和 平 を 回 復 し た
﹂ と
︑ 簡 単 に 解 決 し た か の よ う に 印 象 づ け て い る
︒
七 一〇
九九 年七 月に 法王 のウ ルバ ヌス が亡 くな った あと
︑同 年の 秋か 冬に
︑五 十三 歳の マテ ィル デは
︑フ ィレ ンツ ェ の 伯で 二十 歳前 半の グイ ドー
・ゲ ラを 養子 にす ると いう 思い 切っ た一 歩 を 決 心し
た⑴
︒マ テ ィル デ は︑ 一
〇九 八 年 か ら 漸く 彼女 の支 配権 を少 なく と も 一部 は 固 め るこ と が 出来
⑵
︑ト ス カ ナ地 方 も す ぐに 取 り 戻し た が⑶
︑ こ のト ス カ ナ
トスカナ辺境女伯マティルデ ― 246 ―
で の辺 境女 伯と して の彼 女の 要求 を政 治的 行政 的経 済的 に代 理し うる 人物 を 第 一 に求 め て いた
⑷
︒ト ス カ ナで の 支 配 に は︑ 臣下 や都 市民
︑反 改革 派の 高位 の教 会人 との 高ま る対 立の 中で
︑マ テ ィ ル デは 助 け 手を 必 死 に求
め⑸
︑以 前 以 上 にト スカ ナの 高位 貴族 との 協力 に賭 け︑ グイ ドー を養 子に した ので あ る⑹
︒マ テ ィル デ に は︑ トス カ ナ で信 頼 し う る 人物 で︑ しか も強 力な 力を もつ 人物 が必 要で あっ た⑺
︒ グイ ドー の伯 家は
︑フ ィレ ンツ ェと その 周辺 で最 も強 力で
︑そ の地 位は トス カナ の他 の有 力諸 家を 超え てい た︒ し か もこ の家 は︑ マテ ィル デが 単独 で支 配し て以 来ず っと 彼女 を助 けて い た の であ
る⑻
︒こ の よう に グ イド ー は
︑ハ イ ン リヒ 四世 との 戦い の中 で︑ マテ ィル デに 忠実 だっ た僅 かな 臣下 の一 人で あっ たた め︑ マテ ィル デは 彼に 報い るた め に も養 子に した とも 見ら れて いる ほど であ る⑼
︒ E・ ゲー ツは
︑こ の養 子へ の決 定的 なき っか けは
︑グ イド ーの 家の 十一 世紀 末の 急速 な政 治的 経済 的な 上昇 であ っ た と見 てい るが
⑽
︑こ の養 子縁 組へ の背 景に は︑ フィ レン ツェ がト スカ ナの 都 市 の 中で 唯 一︑ マ ティ ル デ に忠 実 な 都 市 であ り︑ 彼女 と母 のベ アト リッ クス に特 別に 結び つけ られ てい たと いう 事 情 も 考え ら れ るの で あ る⑾
︒ 当時 マ テ ィ ル デの 勢力 範囲 にあ る大 部分 の都 市は
︑ハ イン リヒ 四世 派で あっ た⑿
︒ その 上
︑フ ィ レ ンツ ェ に 比較 的 近 い所 に あ る 改 革 派 のヴ ァ ロ ムロ ー ザ 修 道院 へ の マテ ィ ル デと グ イ ド ーの 両 家 の共 通 の つな が り も︑ 両 家を 結 ぶ 強い 紐 帯 で あ っ た⒀
︒W
・ゲ ー ツ は︑ おそ ら く この ゆ え に 両者 の 友 好的 な 関 係が 出 来 た と 見⒁
︑さ ら に こ の 両 者 を 結 び つ け た の は
︑ 教 会改 革へ の熱 情で あっ たと も見 てい るが
︑こ の教 会改 革と の関 連に つい ては E・ ゲー ツも 述べ てい るよ うに
︑こ の よ うな 宗教 的な 考慮 は︑ 養子 縁組 への きっ かけ のせ いぜ い付 随的 なも のと 見る べき もの であ ろう
⒂
︒ さら にマ ティ ルデ には 夫の ヴェ ルフ が去 り︑ つい でウ ルバ ヌス が亡 くな って 以来
︑彼 女の ロー マ法 王庁 への 関係 が 明 白に 以前 より も親 密な もの では なく なる 中で
⒃
︑自 身の 孤独 を克 服す るた め に も︑ 近 くの 親 戚 をも つ 必 要が あ っ た
― 247 ― トスカナ辺境女伯マティルデ
の であ る⒄
︒ E・ ゲー ツは また
︑こ の養 子縁 組に は反 乱し たコ ンラ ート が︑ 一〇 九 九 年 には も は や政 治 的 な役 割 を 果 た して いな いの で︑ この コン ラー トと の関 係は なか った と見 てい るが
⒅
︑マ ティ ル デ は この 役 割 を果 た さ なく な っ た コ ンラ ート に代 わる 人物 を求 めて いた とも 言え るの であ る︒ い ず れ に せ よ マ テ ィ ル デ は 当 時 あ る 程 度 は 立 場 を 固 め た と は い え︑ 男 の 支 え の な い 彼 女 は 弱 く 不 安 を 感 じ て い た⒆
︒彼 女は グイ ドー に支 持 を 求め
︑彼 の 中 に 自身 の 統 治へ の 力 強い 支 え を 期待 し た⒇
︒ グ イド ー は︑ そ の行 動 力 か ら 当時 の人 々に よっ てグ イド ー・ ゲラ
︵ 戦争
︶と あだ 名さ れた よう に︑ その 行動 力と 改革 派の ゆえ に︑ マテ ィル デに は ト スカ ナ辺 境伯 領の ふさ わし い後 継者 と見 られ たの であ る
︒ 事実 マテ ィル デ は
︑ウ ル バヌ ス 派 の法 王 庁 から 派 遣 さ れ た枢 機卿 ベル ンハ ルド ゥス と︑ この 養子 のグ イド ーに 助言 され 守ら れて
︑以 前の グレ ゴリ ウス 七世 とル ッカ のア ン セ ルム スの 時に もっ てい たよ うな 安全
︑安 心感 を取 り戻 した とゴ リネ ッリ は見 てい るの であ る
︒ 勿論 これ らさ まざ まな 思惑 とと もに
︑マ ティ ルデ は︑ 自身 のな きあ とに 自分 の支 配領 域が どの よう にな るの かへ の 思 いを 巡ら して いた であ ろう し
︑ 特に 自分 自身 の子 供が もは や望 めな い中 で
︑カ ノ ッ サ家 の 遺 産を 誰 が 継ぐ の か の 問 題が 出て きた こと が
︑ グイ ドー の養 子へ の最 も根 本的 で重 要な きっ かけ で あ っ たと も 言 える の で ある
︒グ イ ド ー に とっ ても
︑お そら くマ ティ ルデ の財 産か らし て︑ この 養子 縁組 は魅 力 的 で あっ
た
︒そ れ にこ の 養 子は
︑彼 の 地 位 を 辺境 伯に 引き 上げ る点 でも 魅力 的で あり
︑ま た一 方で は彼 は︑ トス カナ での 権 力 争 いへ の マ ティ ル デ から の 支 援 も 求め てい たの であ る
︒ 両者 のこ のよ うな 一致 した 思惑 の中 で︑ グイ ドー はこ うし て一 一〇 八年 まで の九 年間
︑マ ティ ルデ の養 子︑ 相続 者 と して 行動 した
︒彼 がど の程 度
︑彼 女 の支 配 行 動 に影 響 し たの か は 明ら か で は ない
が
︑ド ニ ゾー を は じめ と し て 当 時の 年代 記が 彼の こと を伝 えて いな いこ とか らし ても
︑彼 には 表立 つ目 立っ た 行 動 はな か っ たと も 見 られ る の で
トスカナ辺境女伯マティルデ ― 248 ―
あ る︒ いず れに せよ 彼の 存在 は︑ 一見 強そ うに 見え るマ ティ ルデ の人 間的 な弱 さを 垣間 見さ せる もの とし ても 注目 さ れ るの であ る︒ しか し両 者の 関係 は︑ 公然 たる 対立 では ない が緊 張す る時 もあ る中 で
︑や が て 懸隔 が 生 じ
︑ グイ ド ー は去 っ て い き
︑事 実上 この 養子 は解 消さ れた ので ある
︒も っと もこ の養 子解 消の 明確 な時 期は 明ら かで はな いが
︑上 記の 一一
〇 八 年以 後も 両者 の関 係は
︑そ れで もマ ティ ルデ の亡 くな る時 まで 一応 は維 持 さ れ たの で あ る
︒ 養子 の 解 消の 理 由 は は っき りし ない が
︑ グイ ドー が離 れて いく のは
︑マ ティ ルデ のロ ーマ 教会 への 後 述 の 一一
〇 二 年の 第 二 回目 の 寄 進 に 関連 し︑ 彼女 の遺 産へ の望 みが なく なっ た時
︑彼 には 養子 の利 益が 感じ ら れ な くな っ た から と も
︑ あ るい は 後 述 の 新た な相 続者 とし て出 てき たハ イン リヒ 五世 との 関係 から とも 見ら れて いる
︒ ドニ ゾー が︑ この グイ ドー の養 子に つい て全 く語 って いな いの も︑ グイ ドー への 思い 出が マテ ィル デに とっ て︑ こ の 養子 縁組 の失 敗後 痛い もの であ った から とも 見ら れて いる が
︑ それ にし て も グ イド ー の 件は
︑マ テ ィ ルデ の 彼 女 自 身の 人生 への 不安 や孤 独を 示す とと もに
︑彼 女は グイ ドー を都 合の よい 時は 利用 し︑ 都合 が悪 くな ると 捨て た感 じ も あり
︑こ れは マテ ィル デの 利己 主義 的︑ 打算 的な 一面 をも 十分 に示 して いる ので ある
︒ 注
⑴ グ イ ド ー が こ の 年 の い つ 養 子 に な っ た の か は は っ き り し な い が
︑ こ の 年 の 十 二 月 に は 確 実 と さ れ
︑ 秋 の は じ め と も さ れ て い る
︒ オ ー バ ー マ ン は
︑ マ テ ィ ル デ の 一
〇 九 九 年 十 一 月 十 二 日 の 公 文 書 で 彼 を 養 子 に し て い る こ と か ら
︑ こ の 日 付 以 前 と 見 て い る
︒ な お ラ ウ ダ ー ゲ は
︑ こ の 養 子 の 事 実 は 確 実 で は な い と 疑 っ て い る
︒
UK.Nr.55.S.175.B.Pfer.S.170.
V.F.S.97.E.G.S.155−156.
A.O.S.165.P.G.S.271.
― 249 ― トスカナ辺境女伯マティルデ
J.Laudage,MachtundOhnmachtMathildesvonTuszien.
︵uer.ngeFiH.v.hg.n.raDiFrdehtacMe2004
︶S.121.
P.Scheffer-Boichorst,ZudenmathildischenSchenkungen.
︵GesammelteSchriften.I.1903
︶
│ 以
下Sch-B
と 略 す
│S.94.
⑵
E.Goez,DieMarkgrafenvonCanossaunddieKlöster.
︵DA.51.1995
︶.
│ 以 下E.G.Kl.
と 略 す
│S.110.
⑶ E
・ ゲ ー ツ は
︑ マ テ ィ ル デ は
︑ お そ ら く ト ス カ ナ で は 母 の ベ ア ト リ ッ ク ス が 亡 く な っ て 既 に 一 年 後 に
︑ 諸 都 市 内 の 修 道 院 へ の 裁 判 権 を 失 う と と も に
︑ 彼 女 の 支 配 権 の 重 要 な 支 え を 失 っ て い た と 見 て い る
︒
W.G.S.197.E.G.Kl.S.109−110.E.G.S.147.
⑷ ゴ リ ネ ッ リ は
︑ マ テ ィ ル デ は 多 く の 公 的 な 仕 事 の 中 で
︑ 彼 女 を 支 え う る よ う な 人 物 を 側 に お く 意 図 を 追 求 し て い た と 見 て い る が
︑ 彼 女 は ト ス カ ナ に お い て は
︑ 自 身 の 自 由 所 領 を 殆 ど も っ て い な か っ た 事 情 も あ っ た
︒
E.G.S.157.P.G.S.276.W.G.Ma.S.178.
⑸
E.G.S.155.LM.VI.
︵1992
︶Sp.393.
⑹
E.G.Kl.S.110.
⑺
E.G.S.155.
⑻ グ イ ド ー の 権 力 の 中 心 は フ ィ レ ン ツ ェ で
︑ 彼 は こ の 数 年 マ テ ィ ル デ に 最 も 多 く の 援 助 を 与 え て い た
︒
E.G.S.155,158.B.Pfer.S.170.P.G.S.270−271.
⑼
L.Tondelli,p.129.
⑽
E.G.S.158.
⑾
V.F.S.97.B.Pfer.S.170.G.Nencioni,p.197.
⑿
T.Groß,S.9.
⒀ 実 際 マ テ ィ ル デ は
︑ 一 一
〇 三 年 に グ イ ド ー と と も に
︑ こ の 修 道 院 に 所 領 の 寄 進 を し て い る
︒
E.G.S.157.UK.Nr.76.S.222−223.
⒁
W.G.Ma.S.178.
⒂
W.G.S.197.E.G.S.157.
⒃
E.G.Kl.S.114.
⒄ も っ と も E
・ ゲ ー ツ は
︑ ウ ル バ ヌ ス が 亡 く な っ た 後
︑ マ テ ィ ル デ は 新 し い 助 力 者 を 必 要 と し た と い う 見 方 は
︑ 納 得 し え な い
トスカナ辺境女伯マティルデ ― 250 ―
と し
︑ マ テ ィ ル デ は ウ ル バ ヌ ス に は
︑ 以 前 の グ レ ゴ リ ウ ス 七 世 に 対 し て の よ う に は 親 し く な か っ た と も 見 て い る
︒
V.F.S.98.E.G.S.157.
⒅ E
・ ゲ ー ツ は
︑ コ ン ラ ー ト は 一 度 も マ テ ィ ル デ に と っ て 危 険 な 存 在 に な っ た こ と は な く
︑ 彼 が 彼 女 に 養 子 を 考 え る 理 由 を 与 え な か っ た と 見 る が
︑ コ ン ラ ー ト が 彼 女 に と っ て 危 険 に な る と い う 想 定 自 体 が 問 題 で あ ろ う
︒
E.G.S.157.
⒆ W
・ ゲ ー ツ は
︑ マ テ ィ ル デ は 外 面 と は 裏 腹 に 他 の 人 の 指 導 を 必 要 と し て い た 人 物 で
︑ 一 生 あ る 種 の 依 存 の 必 要 を 示 し た と 見 て い る
︒ ゴ リ ネ ッ リ は
︑ 彼 女 は そ の 生 涯 の 最 も き び し い 時 に 孤 独 で あ っ た と し
︑ 二 回 の 結 婚 も グ イ ド ー の 養 子 も
︑ そ の 点 で 何 も 変 え な か っ た と 見 て い る
︒
W.G.S.175,188,197.P.G.S.300.
前 掲 拙 著
︵ カ ノ ッ サ
︶︑ 二
〇 三 ペ ー ジ
︒
⒇
LM.Bd.VI.Sp.393.L.Tondelli,p.129.
G.Nencioni,p.188.N.Grimaldi,p.330.G.Tabacco,p.88.
W.Giesebrecht,S.586.
な お グ イ ド ー
・ ゲ ラ の 表 記
│GuidoGuerra
│ は
︑VuidoUuera
と も 表 記 さ れ て い る
︒
W.G.Ma.S.178.P.G.S.271.T.Groß,S.19.
UK.Nr.26.S.223.
も っ と も グ イ ド ー の 存 在 へ の こ の ゴ リ ネ ッ リ の 積 極 的 評 価 は
︑ 前 注
︑
⒆ の 評 価 と は 少 し 矛 盾 し て い る
︒ ベ ル ン ハ ル ド ゥ ス に つ い て は
︑ ド ニ ゾ ー は
︑ 法 王 の パ ス カ リ ス が
﹁ マ テ ィ ル デ の 信 仰 上 の 後 見 人 と し て 送 っ た
﹂ と 語 っ て い る
︒
P.G.S.274.DO.
一 八
〇
〜 一 八 一 ペ ー ジ
︒
E.G.S.155.
E.G.S.155.E.Goez,DieCanusiner−MachtpolitikeineroberitalienischenAdelsfamilie.
︵Canossa1077−ErschütterungderWelt.hg.
v.C.StiegmannundM.Wemhoff.2006
︶
│ 以 下E.G.Ca
と 略 す
│S.129.
こ の 相 続 財 産 と マ テ ィ ル デ の 最 初 の ロ ー マ 教 会 へ の 寄 進 の 問 題 は
︑ 後 の 第 九 章 で 取 り 上 げ る が
︑ E
・ ゲ ー ツ は こ の 時 点 で は こ の 寄 進 の こ と は グ イ ド ー に は 秘 密 に さ れ て い た と 見 て い る
︒
― 251 ― トスカナ辺境女伯マティルデ