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初期埴谷雄高論「戦時下三部作」研究序説

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著者 田辺 友祐

出版者 法政大学国文学会

雑誌名 日本文学誌要

巻 71

ページ 33‑43

発行年 2005‑03

URL http://doi.org/10.15002/00010066

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初期埴谷雄高論

いわゆる戦後派の文学者のなかで、戦時下に最も盛んに文学活動を繰り広げていた一人が埴谷雄高である。ここでいう戦時下とは、「’五年戦争」の最終局面(’九四一年一二月八日~一九四五年八月一五日)の時期を指す。敗戦後、埴谷雄高は雑誌「近代文学」の創刊に参画する。七人の創刊同人のうち、戦時下に書籍を刊行しているのは、山室静・埴谷雄高・小田切秀雄の三人に過ぎない。戦後派の本格的な活動は、「近代文学」の創刊(一九四六年一月)とともに始まるが、創刊同人は、それ以前から評論や創作を発表していた。最年長の山室静は、評論集「現在の文学の立場』(’九三九年九月)や同『世界文学」(’九四三年九月)、翻訳『森の小径」二九四三年四月)や同『タゴール詩集』(同 はじめに

初期埴谷雄高論

「戦時下三部作」研究序説

年八月)などを世に間うていた。平野謙は文芸評論の執筆の他、日本文学報国会の設立二九四二年五月)に携わり、「日本学芸新聞」や「文学報国』に文章を載せている。同会の会員であった佐々木基一も(復刻版「社団法人日本文学報国会会員名簿昭和十八年版」、新評論、’九九二年五月)、映画評論を中心に評論文を量産していた。荒正人は、雑誌『構想』や『現代文学』の同人となったばかりでなく、幾つかの翻訳を行なっている。また、本多秋五の雪戦争と平和」論」は、上木こそ戦後だが二九四七年九月)、戦時下にほぼ完成していたとされる。最年少の小田切秀雄は、日米開戦の当月に評論集「万葉の伝統」を刊行した。しかし、いずれの人々も、決して第一線で活動していたのではなく、いわば黎明期にあった。そのなかで、当時は無名の埴谷雄高が、表現の自由が奪われていた時期に、三冊もの書物を出版していたのは、特筆に値する。山室静の「タゴール詩集」邦訳も、戦時下の静かな抵抗と呼び得る営為なの

田辺友祐

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このうち、「ダニューブ』と『フランドル画家論抄』は、「埴谷雄高全集」第二巻(講談社、’九九八年七月)に所収される迄は希親書であり、研究の場での言及も勘ない。本稿では、右の三作品を「戦時下三部作」と命名し、かかる時期の埴谷雄高の文学活動を考察する。『洞窟』や『不合理ゆえに吾信ず』を経て「死霊』に至る迄の数年間は、埴谷雄高にとっての雌伏の期間であり、また、研究史上の空白でもある。年譜を通じて実生活の状況が判明しているのに対し、作家埴谷雄高の内的活動の具現である三冊の書物の研究は進んでいない。特に、翻訳の意義や時代状況との関わりは、追究の必要がある課題ではないかと思われる。まず、基礎研究を整え、次いで個別作品への発展的な分析を行なう。 だが、既に「信濃毎日新聞」「早稲田文学」『新潮』などに評論を掲載した実績があった。その意味に於いて、未だ実績のない埴谷雄高の単行本出版が特筆に値すると述べたのである。埴谷雄高の三冊の内訳は、以下のとおりである。

1翻訳「ダニューブ』(地平社、一九四二年五月)2翻訳『偉大なる憤怒の書lドストイェフスキイ「悪霊」研究l』(興風館、’九四三年六月)3美術評論「フランドル画家論抄』(洸林堂書房、’九四四年五月)

この中で、三作品全てに一一一一口及したのは紅野敏郎論文のみだが、論題で示しているとおり、同人雑誌「構想」を主軸にした論考であるために、個別作品に対する考察は概説にとどまっている。埴谷雄高とともに「構想」の同人であった山室静についても僅かに触れているのだが、『タゴール詩集」などの翻訳の意義には一一一一口及していない。しかし、埴谷雄高が戦時下に著した単行本の冊数への着目、或いは三作品の重要性の指摘などは、同論文 「戦時下三部作」の主な先行研究には、次のような文献がある。

1無署名「『フランドル画家論抄」」(「週刊読書人』一九七三年一○月一日号)2紅野敏郎「埴谷雄高・山室静・久保田正文ら「構想」の検討l「近代文学」前史l」(『文学」’九八○年一月号)3伊藤和也「「ダニューブ』瞥見」(「作家クラブ」’九八○年三月号)4脇地烟「埴谷雄高氏幻の翻訳2編」s産経新聞」’九九八年一一一月二九日夕刊)5夏堀正元「偉大なる憤怒の書ドストエフスキー〈悪霊〉研究」(三冊の本』’九九八年七月号)

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の特筆すべき点である。また、右には掲げなかった藤一也「埴谷雄高論l「農民闘争」時代をめぐってl」(沖積舎、二○○|年九月)は、埴谷雄高の一九二○年代後半から一九四○年代中盤の活動を扱っている。三作品を論じた箇所は僅かながら、埴谷雄高にとっての戦時下を「第二の沈黙時代」と捉え、「その中で、やがて始まる『死霊」に向かって、徐々に成熟の度を増して行ったと見られる」と纏めている。さらに、『埴谷雄高全集』第二巻の白川正芳「解題」や同『埴谷雄高の肖像』(慶應義塾大学出版会、一一○○四年一一月)では、三作品に関する基礎情報が確認出来る。管見の限りでは、同時代評は見当らない。敢えて挙げるならば、美術評論家山田智一一一郎による『フランドル画家論抄』の「序」がそれに該当するが、実質的には推薦文である。これは、厳しい統制の下で出版を可能にするための妙策であった。当初、『フランドル画家論抄』の出版が認可されなかったのだが、高名な者の序文があれば可能であると知り、山田智三郎の尽力を仰ぐ。無名の著者からの依頼に確実に応じてもらうために、筆者を洸林堂書房の店主で出征兵士の宇田川嘉彦と装って同情を引こうと企む。その結果、山田智三郎は序文の執筆を承諾し、無事に刊行に到る(白川正芳「解題』。なお、「序」は、『埴谷雄高全集』第二巻には収められていない。先行研究ではないが、「日本読書新聞」(一九四四年四月二一日号)の一一面に、洸林堂書房の広告が載っている。「フランドル画家論抄』の広告文は次のとおり。 三部作の研究がほぼ未着手であるのに対して、作者は多くの自己注釈を残している。ここでは凡てを列挙しないが、幾つかの主要な発一一一一口を挙げておきたい。 書名と右の文章のみで判断すれば、一九四四年の出版物とは思えない広告である。同じ広告欄に載った出版物には、戦時下色が濃厚である。各社の新刊本の題名には、平田篤胤、神々、神道、武士道、忠霊塔、落下傘部隊などの文言が用いられている。出版社名にも、「東亜春伏社」や「日本統制地圖株式會社」など、時局の反映と思われるものが幾つかある。そのなかで、洸林堂書房の広告は異彩を放っているといえよう。しかし、この「フランドル画家論抄」を最後に、埴谷雄高は戦時下の文筆活動を停止する。翌年八月、家族の前で文学に専念する旨を宣言したとき、作家埴谷雄高の本格的な活動が始まる。

1「戦争の時代」(『日本読書新聞』一九五八年一一一月三一日号、四月七日号、四月二一日号)2「影絵の世界』(平凡社、一九六六年一二月) 自然と人間をはじめて現實的存在たらしめたフランドル繪書開花期の特質を、ブローゲル・ルーベンス・ダイク・ヨルダーンス等の巨匠に分析す。(全文)

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戦後文学とは戦争傍観者の文学であるという批判がある(吉本隆明「戦後文学は何処に行ったか」『群像』’九五七年八月号)。それは埴谷雄高も認めている。 先行研究同様に、これらも細部に一一一一口及したものではなく、当時の著者の様子や出版事情に絡めた回想となっている。例えば、自身初の刊行物である『ダニューブ』について、次のように述べている。 3「革命運動と作家’百年後の悪霊たち」(「日本読書新聞』’九七四年一月二八日号)4対談三一つの同時代史』(岩波書店、一九八四年七月)

時局に対する抵抗はあるわけだけれど、積極的反ナチから生活的な絵画論を書くといつたふうにいわば消極的な戦争無視へまで後退していて、吉本隆明に傍観者といわれる 心底からのナチス嫌いの著者が、ダニューブに沿って小国をつぎつぎと制覇してゆくナチスの行動を描きながら、それは必然的に、ロシアとの戦争をひき起こすに至るという結論を引き出していることを興味をもって読んだのであった。このナチスへの抵抗の書を訳すことは、きわめてわずかながらでも、戦争のなかに疾走している私自身の周辺へ音もない平手打ちを加えるという自足した気分を私にひき起こした。急影絵の世界』) 『ダニューブ』が戦争への「平手打ち」であるのに対し、「フランドル画家論抄」では「消極的な戦争無視へまで後退」したのは、当時の厳しい出版統制が一因であろう。換言すれば、「傍観」せざるを得なかったのである。『ダニューブ』は一九四二年五月、『フランドル画家論抄』は一九四四年五月の発行である。その間、一九四三年八月には、日本出版会が原稿または校正刷の事前提出に拠る出版物の審査制を強化した(小田切進編『日本近代文学大事典」第六巻、講談社、’九七八年三月)。仮に「ダニューブ」の翻訳が、’九四二年ではなく一九四四年に完成していたならば、原著者エミール・レンギルの政治的立場が原因で、審査の段階で出版不認可となったのではないか。『偉大なる憤怒の書」にも、統制の影が忍び寄っていた。担当編集者である興風館の村上信彦(浪六の三男、山口二矢の叔父)から翻訳の完成を催促されたのは、「トルストイもドストエフスキイも近く出版できなくなるだろうという切迫したきびしい出版統制の声におびやかされたからなのであった」(「ドストエフスキイと私」、『ドストエフスキー全集』月報1~3、筑摩書房、’九六二年一○月、’一月、一九六一一一年一月)と明かしている。ところで、「ダニューブ』の定価は一円五十銭だが、『偉大なる憤怒の書』は二円七十銭、「フランドル画家論抄」は六円である。他に、後者二冊には、「特別行為税相当額」なるものが含まれている(それぞれ八銭と五十銭)。これは出版統制 よ》うな、そういうふうな仕事をしていたんだね。(「二つの同時代史」)

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の一環であると同時に、戦費調達のための画策にもなっていると思われる。『偉大なる憤怒の書』と「フランドル画家論抄』への自己言及は、決して多いとはいえない。しかし、「私たちの中の革命運動を写す鏡が「悪霊』だったのである」(同前)と述べた一文には、『偉大なる憤怒の書」を翻訳した必然性が集約しているといえよう。埴谷雄高にとって、悪霊Ⅱ社会革命に懸かれた青年達の姿は、革命運動に従事していた自身と無縁ではなかった。さらには、ピョートル・ヴェルホーヴェンスキーと、「真相の十分に明らかでない共産党内部のリンチ事件」s影絵の世界」)を関連付けた思考をも巡らせていた。事件の犠牲者と知己であった平野謙も、ドストエフスキー作品のなかで『悪霊』に最も強い関心を示しており、二人が初めて会った頃(’九一一一九年)の共通の話題となった。これらを踏まえて類推すると、ドストエフスキーが「悪霊』で展開したロシア社会の騒擾や、その思想的担い手で革命運動に従事する登場人物を問うた「偉大なる憤怒の書』の翻訳は、埴谷雄高の胸裡を代弁する役割を果たしている。

出版規制の歴史を綾くと、「明治十年代の政治小説家が、歴 私がひきつづいて出そうとした同じウォルインスキイの〈白痴》研究である〈美の悲劇》は、最初の部分をわずかに訳出したまま、その草稿を私のひきだしの奥深くしまいこんでおかねばならなくなった。s影絵の世界巳 史に題材を求めることがすぐなくなかったのは、もともと政府の苛酷な言論弾圧にたいする自衛策の意味があった」(前田愛「明治歴史文学の原像」「展望」’九七六年九月号)という対策の一例が紹介されている。しかし、一九四○年代前半の場合は、殆どの「自衛策」が無効であった。断念した又美の悲劇》」翻訳は、戦後になっても日の目を見ない。戦後、埴谷雄高が発表した翻訳は、キェルケゴール『あれか、これか」の一部を訳しデイアプサルマタた「間奏語抄」(「青向原』第二輯、’九四六年一一一月)のみである。さて、埴谷雄高の「後退」の理由が時局にあるとしても、戦時下に上板した書物は、三冊ともに欧州関連であった。「埴谷雄高は日本の作家にあって、その発想において、その文学思想の根源において、典型的な西欧派だといいうる」(立石伯『極限の夢に懸かれたものの究極』、深夜叢書社、二○○四年二月)。欧州への関心は、やがて具体的な行動として結実する。戦時中に書物から摂取した彼の地の知見と、戦後になって肉眼で見た現実の情景が、紀行文「姿なき司祭」二九七○年九月)と『欧州紀行』(’九七二年一二月)に綴られている。続いて、個別作品について分析したい。一九六八年、埴谷雄高は欧州を旅する。道中の一部を共にした辻邦生は、次のような回想を残している。

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辻邦生が聞いた「ドナウ河の歴史」とは、埴谷雄高が「ダニューブ』から仕入れた情報が中心であろう。この旅の様子が「姿なき司祭』「欧州紀行」に記されている。「埴谷さんの旅行記は旅行記であっていわゆる旅行記ではない。埴谷さんの記憶や瞑想を追認するための、いわば記憶への遡行の旅にも思われる」(宮田毬栄『追憶の作家たち」、文春新書、二○○四年一一一月)とあるように、埴谷雄高は二冊の紀行文のなかで、旅先の景物や飲食物の類を少なからず描いているものの、観光記が中心なのではない。欧州、特に東欧の硬直した体制を、具体的事例をもとに批判しているのである。「ダニューブ』と『姿なき司祭」及び「欧州紀行」には、そのような共通点がある。敢えて相違点を見出すならば、「欧州紀行」の後半部は、絵画や食事に関する記述が多く、思索者としてではなく観光客としての紀行文になっている。埴谷雄高はハンガリー産の貴腐葡萄酒を愛飲していた。『ダニューブ」の原著者エミール・レンギルは、ハンガリー人であ 埴谷さんと一緒に欧州旅行に出かけたとき、たとえばドナウ河の歴史について実に詳しく話してくれる。本当は私が案内役であるはずなのに、私は全く役に立たなかった。ちょうど一生ケーニヒスベルクを出たことがなかったカントがロンドン橋について詳しく知っていたように、埴谷さんの知識はその彪大な読書からきていた。(「憂愁の中に佇む影l埴谷雄高の闇の意味を求めて11」「中央公論』’九九七年四月号) る。「ダニューブ」は、沿岸諸国の文化を扱った地誌ではなく、政治史を川の流れに擬えたものである。ここで具体名を挙げる迄もなく、ドナウ川に因んだ優れた芸術作品は数え知れない。それらの文化にも殆ど触れず、原著者は流域八ヶ国の体制に論の焦点を絞っている。「死霊』三章に、運河や橋に関する箇所がある。幾つかの先行研究や埴谷雄高の自己注釈によれば、この運河の原型は隅田川であるとされる。『影絵の世界」や「大運河の原型」s海燕」一九八三年一月号)には、青年期に夜の隅田川沿いを散策した記述や、「ボンボン蒸気」に乗った思い出話などがある。二十代の埴谷雄高にとっての隅田川周辺とは、「デカダンスと反抗の区域」S影絵の世界」)であった。しかし、「この周辺地帯は、新しい都市状況のひずみを集約的に表現していた」(海野弘『モダン都市東京-1日本の一九二○年代」、中央公論社、一九八三年一○月)と指摘されているように、陰と陽が表裏一体でもあった。ドナウ河も、繁栄ばかりでなく負の側面を抱えている。例えば、次に「ダニューブ」から引用する幾つかの文章は、大河の歴史を縮約したものである。

この河は他のいかなる河よりも多くの戦闘をながめてきた。

ダニューブの過ぎてきた後には凡てのヨーロッパが、そ ダニューブは暹しき野望と砕け果てた夢想の河である。

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初期埴谷雄高論

「訳者のあとがき」には、本書が「独ソの開戦へ至る経緯を示唆して」いるとある。原書の出版は一九三九年である。ドナウ河の上流と下流の力が衝突した歴史が再び繰り返され、両国は一九四一年六月に戦火を交える。そして、「第二次大戦で東欧を制覇したスターリンは、いち早くドナウの重要性に着目し 「戦闘」や「野望」には、ローマ帝国やハプスブルク家の盛衰、更に二度の大戦などが含まれる。全長一一八六○mを誇るドナウ河が、「凡てのヨーロッパ」を包括している所以である。『ダニューブ』の現在時は、一九三○年代後半である。既に第二次大戦が勃発していた。何の歴史に触れた上で、現在の諸問題、とりわけ政治状況に踏み込んでいる。原著者が強調しているのは、勢力を拡大するナチスへの警鐘である。具体的な批判例として、次の箇所が挙げられる。

私は、一三ルンベルグに於けるナチス党大会に於けるが如き強烈な驚嘆すべき光景を他に知らない。ニュルンベルグの光景は筆紙に尽しがたく、怖るべきものである。 ヒットラー治政以来、ウィーンに於いては、先ずユダヤ人の整理のみが行われつつあるが、〈民族の血〉防衛の突出要塞たらんとするこの試みは、この民族的錯雑の裡に於いて果して成就し得るであろうか。 の希望と絶望、闘いと平和とともに横たわっている。た」(加藤雅彦『ドナウ河紀行』、岩波新書、’九九一年一○月)。以後、半世紀近くに渡って、河を遡行した力が東欧の覇権を握る。しかし、社会主義化は下流が起点となったのに対し、民主化は上流が源となった。即ち、東欧の民主化の流れは、「ベルリンの壁」崩壊二九八九年一一月)に始まり、ソビエト連邦解体二九九一年一一一月)に至る迄、加速度的に波及した。その後も、北大西洋条約機構(NATO)や欧州連合(EU)への東欧諸国の加入が相次いだ。嘗て「隣人と他人を隔ててきた」ミダニューブ」)境界であったドナウ河は、いま、安定期を迎えつつある。エミール・レンギルは、「自然はダーーューブを生の河として創成したのであって、死の河として創成したのではない」と、悲痛な願望とも思える一一一一口葉を述べた。ドナウ河は、二度目の大戦終結から半世紀以上を経て、漸く「生の河」としての姿を取り戻した。埴谷雄高「永久革命者の悲哀」(『群像」’九五六年五月号)は、スターリン批判の先駆になったとされる政治評論である。エミール・レンギルと埴谷雄高には、時代に対する先見性が備わっていたといえる。ところで、『ダニューブ」の翻訳は、「伊藤敏夫」名義で行なわれた。次の翻訳「偉大なる憤怒の書』では、「埴谷雄高」の筆名を用いている。「ダニューブ』の原書は英語だが、翻訳第二作は、本郷の古書店で入手した独訳本を原本としている(「古い時代の読書」「日販通信』’九八四年一○月号)。なお、『生命・宇宙・人類」(角川春樹事務所、’九九六年四月)の「埴谷雄高プロフィール」には、「英語・ドイツ語・ラテン語・ギリシア語を習得」とある。埴谷雄高の戦時下

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の翻訳は、これらの語学能力が培った成果でもある。埴谷雄高のドストエフスキー研究は、一九四三年の翻訳を皮切りに、戦後も脈々と続く。その結晶である「埴谷雄高ドストエフスキイ全論集』(講談社、’九七九年七月)は、’三五一一頁を誇る大著で、「埴谷雄高氏御本人の説では、この本はこれまでに出版された一冊の作家論としては最高のページ数をもっているのだそうである」(柘植光彦「ドストエフスキーを発見(ママ)するための巨大な鏡埴谷雄高著「ドストエフスキー全論集』」『国文学解釈と鑑賞」’九八○年四月号)。「偉大なる憤怒の書」には「訳者の後書」がある。その前半部が、「ドストエフスキイの方法」として独立し、評論集『濠渠と風車』(未来社、’九五七年三月)や『埴谷雄高ドストエフスキイ全論集』などに収められた。埴谷雄高の実質的に初めてのドストエフスキー論である。「たとえ敢えて彼を乗り越えんと意図したとしても、単なるパロディを表示し得るにとどまる奇怪な作用が其処に認められる」と論じた箇所は、自身の戒めになっている。例えば、『死霊』は『悪霊』を振った題名であるが、読み方を「シレイ」にしたのは、「彼を乗り越えんと意図した」ためである(「『死霊」について」『たね』第二号、一九七○年七月)。『死霊』五章「夢魔の世界」に描かれた社会革命から「存在の革命」への移行は、その意図の極点に位置付けられるであろう。『悪霊』に於いて青年達が熱望する社会の変革は、存在形式の革命として「死霊』に受け継がれた。大江健三郎『宙返り」下巻(講談社、’九九九年六月)に、『偉大なる憤怒の書』が登場する。早くから、「大江と埴谷を結 ぶ導きの糸は、大きくいえばドストエフスキイだが、より具体的には埴谷が訳したウォルインスキイの「偉大なる憤怒の書』という一冊の本をとおしてということになる」(川西政明「影響の水域精神の継走ということ」『國文學解釈と教材の研究」’九八一年三月号)と指摘されていた。「戦時下三部作」のなかで、もっとも読者の多い作品は「偉大なる憤怒の書」であろう。戦後、みすず書房版として三度(’九五九年七月、一九七○年八月、’九八七年四月)、大空社版が一度二九九六年七月)、合計四度の再刊を果たしている。そもそも、戦時下にもかかわらず『偉大なる憤怒の書」の売れ行きは好調であり、訳者によれば、「初版七千部」s思索的渇望の世界」、中央公論社、一九七六年一月)が完売したという。椎名麟三や、軍隊に召集される直前の丸山眞男、さらに、米沢にいた吉本隆明も、読者の一人であった。なお、奥付では「初版五千部」となっている。完売の理由は定かではないが、布川角左衛門「戦時中の出版事情」(『文学』第二九号、’九六一年一二月)が、手掛かりとなり得るのではないか。同論文は、諸種の資料を示したうえで、「文化統制なるものは、文学書に対する読者大衆の関心と購買力を増大することはあっても、容易に減少させることがなった」と指摘している。その理由を、「官憲などによってどのような策や力を弄しても抑圧の最も困難な文学というものの特質」が具現したためであると捉えた。出版統制の最中、戦争や日常生活と関わりが薄い文学関係の出版物の刊行点数が伸びていたとされる。「偉大なる憤怒の書」も、「読者大衆の関心」に支えられた一冊なのであった。

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埴谷雄高の戦時下三番目の刊行物の出版元は、洸林堂書房である。同書房は、’九四二年九月にも宇田川嘉彦編「ロダン」を発売している。この編者は、埴谷雄高ではなく洸林堂書房の経営者であると思われる。その二年後、前述のように、宇田川嘉彦の名を借りた埴谷雄高の「フランドル画家論抄』を上梓する。野間宏「暗い絵』は、「アプレゲール・クレアトリス」の一冊として、真善美社から刊行された。初版の表紙絵には、ブリューゲル親子の父ピーター・ブリューゲル『七つの大罪・憤怒」を用いている。作品内にも、ブリューゲルの画集が幾度となく登場する。『フランドル画家論抄』では、収録した一○三枚の絵画のうち、ブリューゲルは二枚に過ぎず、ルーベンスは七八枚である。このように、ルーベンスの比率が極めて高い。もっとも、ブリューゲルが完成させた絵画数は総計四四点に過ぎないのに対し、ルーベンスのそれは二千点を越えている(谷克一一「フランドル美術紀行』、日経BP社、一一○○三年四月)。両者の生涯の作品数と「フランドル画家論抄』の収録作品数には大いに開きがあるが、割合でいえば、ほぼ同じなのである。『フランドル画家論抄」に、「ルーベンスの教養は当時の人々の教養とかけ離れていた。彼は同時代人より充分に理解されたとは云い得なかった」と述べた一節がある。「偉大なる憤怒の書』にも、二悪霊』はドストエフスキイの難解な諸作品中、もつとも理解しがたい作品の一つである」と論じた箇所があった。埴谷雄高は、図らずも両者から難解性という衣鉢を継いだといえる。「ルーベンス」や「ドストエフスキイ」を「埴谷雄高」 「不合理ゆえに吾信ず』に関する滑稽な逸話を、埴谷雄高自身が述懐している。’九四一年一二月九日に予防拘禁法で拘引され、検事や特別高等警察から取り調べを受けた際、同作品を「共産主義の宣伝」と曲解した者がいたという(『影絵の世界」所収「検挙と数冊の本」、または『姿なき司祭」所収「ワルソー・ゲットー」)。また、岡本太郎は、埴谷雄高に「何を一一一一口うたか」という庫名を付けた(埴谷雄高「「夜の会』の頃の岡本太郎」『岡本太郎著作集』第一巻解説、講談社、’九七九年一○月)。自分は「難解ホークス」であると輪いた随筆もある(「ファン気質」『新週刊』’九六二年一○月九日号)。『フランドル画家論抄」は、次の一文で始まる。「精神的なるものの静識な均衡を伝統的特徴とする中世紀の美術に対して、肉体の自然的原理を強く主張したのがフランドルの絵画を先駆とする近代の絵画なのであった」。「静證」を数少ない例外として、「フランドル画家論抄』には全般に平易な語句が使用されている。また、|つ一つの文章は短く、改行も多い。「ドイツ(注I)壺叩の絵画史を参考にして忽荒として書き上げた」という事情のためであろうか、内容自体は見所が乏しいといわざるを得ない。 に置き換えたとき、平野謙の次の言葉が想起される。

『洞窟』はまだわかるところがあるが、『不合理ゆえに(ママ}我信ず』というのはぜんぜんわからなかった。(座談〈五「戦後文学の批判と確認第五回埴谷雄高lその仕事と人間(上)」「近代文学』’九六○年五月号)

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野口悠紀雄三九四○年体制」(東洋経済新報社、’九九五年五月)が指摘したのは、政治・経済に於ける戦前と戦後の連続性であった。他の多くの分野でも、戦前と戦後は地続きである。むしろ、断絶している事象の方が勘ないのではないか。埴谷雄高の文学活動にも、戦前・戦時下と戦後に連続要素がみられる。例えば、戦前の「洞窟」(’九三九~四○年)と「不合理ゆえに吾信ず」(’九三九~四一年)には、埴谷雄高の文学作品の核心である「自同律」や「自同律の不快」が扱われている。もっとも、この時点では、微かな輪郭の素描にとどまっており、問題の展開はみられない。「自同律の不快」を提示した後の世界は、戦後に持ち越しとなる。戦後の幕開けを飾った「死霊」にて、「自同律の不快」から「虚体」に至る遠大な道筋が開かれる。「死霊」の舞台は、明示されていないが、一九三○年代の東京と思しき街である。「第一次戦後派が戦後 しかし、翻訳以外では埴谷雄高初の刊行物となった点や出版時の時代背景を考慮すれば、外延に看過出来ない要素を含んだ作品である。戦後の埴谷雄高の創作には、「ダニューブ」と「フランドル画家論抄』に直線的に繋がるような作品は見当たらない。紀行文「欧州紀行」「姿なき司祭」に表れた欧州への親灸は、独特の方法のために創作に反映しなかったが、「戦時下三部作」が有する意義は、決して小さくなかったのである。

おわりに の現実を描くことが意外な程少なかった」(安藤宏「交差する冒已」l『第一次戦後派」と「無頼派』とl」『文学」二○○一一一年九・’○月号)ように、椎名麟三を例外とすれば、第一次戦後派の作品には、戦後ではなく戦前・戦時下を題材としたものが大多数を占める。特に埴谷雄高の場合、時代設定が明らかな作品は皆無だが、年譜と作品内の記述を照らし合わせた場合、「死霊」の他にも時代水準が一九三○年代ではないかと推測出来る作品が多い。また、実際に起きた事件や出来事を作品に取り入れていない。極言すれば、戦前・戦時下に培った思考の固定化が時代設定を局限した理由であり、或いは、「架空凝視」を貫徹するために現実の出来事を反映しなかったのである。埴谷雄高の「戦時下三部作」は、政治・文学研究・絵画が主題となっている。繰り返しになるが、いずれも翻訳や評論で、創作は一つもない。「死霊』以前の散文の創作が「洞窟』のみ{注2)にとどまった理由の仮説として、発表舞(ロの制限が挙げられる。「戦争を中心とした政治の季節に、作者は自己の存立の根拠となりうるアフォリズムや小説などの表現へ全力をこめて自己投企することにおいてそのような愚昧な時代を超出したいと考えた」(立石伯前掲書)のだが、戦時下に、この若手無名作家には作品を発表する場所がなかった。しかし、創作は困難でも文筆活動の継続は可能であった。ここに、翻訳や評論に向かった必然性を見出せる。当時の自身の内面については、「同人誌『構想」がなくなっても、直接戦争に関係のない、まったく違った世界を胸裡ではもちつづけていたのだな。まったくの

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二重構造だ」(「戦時下の転向と抵抗」)と回顧している。埴谷雄高は、このようにして戦時下を「超出」した。「戦時下三部作」は、西欧ばかりでなく東欧をも含めた欧州を舞台としている。戦時下という「|種の『愚か者の天国』の時期」二姿なき司祭」)に、埴谷雄高の視線が「大日本帝国」の外に注がれていたのは、戦後に発表する独自の文学観・政治観が萌芽していた証左である。賛言を費せば、埴谷雄高にとっての戦時下とは、「戦争によってかすり傷だに受けてはゐない」(臼井吉見「「死霊」l観念と現実」『個性」一九四八年一二月号)作品である『死霊」を生み出すための端境期でもあった。

(注)1平凡社ライブラリー版『影絵の世界」初版第一刷(一九九七年九月一五日発行)では、「忽荒」は「忽慌」となっている。2戦時下は雑誌の統廃合が強制されたが、’九四一年一二月には、文芸同人誌が九七誌から八誌に激減してしまう(前掲「日本近代文学大事典』第六巻)。このとき、「洞窟』と「不合理ゆえに吾信ず」の初出掲載誌「構想』の同人は、統合ではなく廃刊を選択する。

※「ダニューブ』「偉大なる憤怒の書』「フランドル画家論抄」からの引用は、「埴谷雄高全集』第二巻を底本とした。また、からの引用は、「埴谷雄高全集』第二引用文献の出版年は西暦に統一した。(たなくゆうすけ・博士後期課程三年)

日本文學誌要第71号 43

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