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長谷川

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Academic year: 2022

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(1)(2003年7月〕 第4巻第1写. 早稲田社会科学総合研究. キリスト教は出発点に錯誤はなかったか. 長谷川. 洋一二. するのであるから︑神の概念もヘブライ民族のそれを超えていた可. 能性を視野に入れなければならない︒その場合︑イエスの教説はユ. ダヤ教に登場する神の契約とは無関係となり︑従って﹁ヤハウェ神. 第一章﹃新約聖書﹂ という表記は適正か ギリシヤ語で書かれたキリスト教教典は﹃新約聖書﹄と命名さ. の新しい契約﹂と考えるべきものではないということになろう︒そ. もそもイエスには︑契約の新旧についての発一一一一口は一切ないし︑﹁神. れ︑その後ギリシヤ教父およびラテン教父によって神学が構築され. 今日に至っている︒ヘブライ語の一種アラム語を語していたといわ. エスの発一一一一口に接すると︑イエスの﹁父なる神﹂はユダヤ教の神とは. への日目濱は︑どんなものでも赦される﹂一マタイ伝︑二・31一というイ. は︑当時の地中海地方文化の主流であつたギリシヤ文化の言語です. 異なる神ではないかという推理すら浮かぶ︒もし異神であるとした. れるイエスの教えを︑ヘブライ語ではなくギリシヤ語で記述したの. るのが︑布教のためには有利であったからだと考えられてきてい. ら︑契約に新旧を読みとることは完全に誤りとなる︒ここで論を進. マタイ伝の冒頭には︑アブラハムから始まってイエスに至る系譜. る︒もしイエスの教説が︑ヘブライ民族の発想に立つユダヤ教とい. をヘブライ語で記述するよりは︑当時南欧から中東にかけて広く使. が長々と記されているが︑ルカ伝一二章には逆にイエスから始まって. めることを中断し︑キリスト教の伝統的解釈を展望してみよう︒. 用されていたギリシヤ語で記述されたことは妥当であったといえよ. 父ヨセフ︑ヨセフからその父エリ⁝⁝と湖行しているが︑アブラハ. う民族宗教の発想を超えた普遍性を持つものであるとしたら︑それ. う︒その場合︑イエスの教説がヘブライ民族の発想を超えていると.

(2) 鵡. ムで止まることなく︑それより二十代も湖ってアダムにまで至り︑. だが︑筆者の矛盾説を簡単にくつがえすだけの設定がルカ伝には. 人物である︒次にダビデは︑イスラエル史上において最大の繁栄を. に︑その子孫は祝福され星の数ほどふえると神によって約束された. 白である︒アブラハムは信仰の父とされ︑神への信仰と服従のゆえ. ル民族とその信仰の正統の系譜上に位置させる意図があることは明. トの系図︒﹂というタイトルが付いているので︑イエスをイスラエ. マタイ伝の場合︑﹁アブラハムの子ダビデの子︑イエス・キリス. すべくつかわされたという解釈をとるであろうから︑筆者の矛盾説. みであり︑その神がイエスをイスラエルだけではなく全人類を救済. 信じていたであろうルカの発想からすれば︑宇宙の絶対神は一神の. こから現在の全人類が誕生していったというユダヤ教教典の設定を. 生み︑ノアの時代に入ってノア一族のみを生かして他を滅ぼし︑そ. ムを生んだ神にまで記述がおよんでいる︒神が人類の始祖アダムを. が︑アブラハムから二十代も潮ってアダムにまで至り︑さらにアダ. ら湖行するのだが︑アブラハムで終わってはいない︒先にも触れた. 用意されている︒ルカ伝の中の系図は︑マタイ伝とは逆にイエスか. もたらした王とされ︑その家系から︑イスラエルが苦難に陥ったと. は全面的に否定されることになる︒. 最後は神で終わっている︒. き必ず救い主が出現すると信じられていた人物である︒マタイ伝で. 用するものである︒信仰者が何をどのように信じようと自由ではあ. しかし︑ルカのような発想は基本的にはユダヤ教の信者にのみ通. イエス・キリストが﹁アブラハムの子ダビデの子﹂と位置付けされ. 前提に記述を進める意図があったからである︒つまりイエスはイス. ろうが︑第三者の客観的視点からすれば先の矛盾は依然として矛盾. たのは︑イエスを﹁イスラエルの救い主﹂であると断定し︑それを. ラエルの民が信じる神によつて選ばれ祝福された人物である︑とい. の大きな誤ちを犯したことを︑ローマ法王が二〇〇〇年三月十二日. であるし︑異民族がその矛盾を考慮せずにそのまま受け入れること. イスラエルが苦難に陥った時︑イスラエルを救う救い主がダビデ. に正式に認めたし︑多くの聖職者ですら否定・批判している教義が. う前提が設定されていることになるのであるが︑そこに微妙な矛盾. の家系から誕生するという信仰はイスラエルにのみ通用するもので. キリスト教にあることも事実である︒それらを是正しなければ︑二. は﹁盲信﹂の批判をまぬがれ得まい︒二千年問にわたっていくつも. あるはずなのだが︑マタイ伝で書かれた系図の中のイエスはキリス. 十一世紀に耐え得る宗教とはなり得まい︒先の矛盾を整合性あるも. が生じていることを指摘しなければならない︒. ト教のために書かれているので︑救済の対象はイスラエルではなく. のへと是正することは︑もはや不可避であろう︒. 従来の解釈を展望しておこう︒それは︑後で論を進めるのに不可欠. 次に読者の便をはかって︑マタイ伝の系図が示しているとされる. 全人類となってしまっているということである︒つまり︑イスラエ. ル人の系図が本来持っていた目的と︑マタイ伝に示される救済の対 象の間に矛盾が生じているということである︒.

(3) キリスト教は出発一点に錯誤はなかったか リ. は十三代にしかならないことは注目に値しよう︒. がこの地球の人類の始祖であることを前提とした上で︑イエスを. でもあるからである︒マタイ伝の系図は三段階に分かれている︒. 第一段階←アブラハムからダビデまでの十四代にわたる時期であ. ﹁新しい神の国﹂の民の始祖として設定する意図を持っていたこと. さて︑ルカ伝の記者ルカは︑ユダヤ教の系図を採り入れ︑アダム. る︒神に選ばれ祝福された信仰の祖先アブラハムから始まっ. は明白である︒そして︑同じ発想は次のパウロの二つの言葉にもあ らわれている︒. て︑イスラエル統一王国を建設したダビデまでの時期である︒. 第二段階←ダビデの子ソロモンからエコンヤまでの十四代にわた. アダムからモーセまでの問にも︑アダムの違犯と同じような罪を. る時期である︒つまり︑イスラエルの高揚された絶頂期から︑ バビロン捕囚という亡国の絶望期に至るまでの時期である︒. 犯さなかった人の上にさえ︑死は支配しました︒実にアダムは︑. 来るべき方を前もって表す者だったのです︒一﹃ロマ書﹄五.些. きた. 第三段階←バビロンに移住させられたエコンヤからイエスまでの. 十四代にわたる時期である︒絶望から﹁新しい神の王国﹂建設. たところからきたものといわれていて︑学問上の厳密な数字ではな. で七という数字が﹁完全数﹂といわれることから︑その倍数を採っ. のそれぞれの段階がいずれも十四代であることは︑イスラエル民族. ト教の解釈として定着したにすぎない︒ところで第一︑第二︑第三. ではなく︑あくまでもマタイ個人の発想でしかなく︑それがキリス. ただし︑第三段階の最後をイエスとする発想はユダヤ教徒の発想. できたその人の似姿となっているように︑天に属するその人の似. べて︑天に属するその人に等しいのです︒わたしたちは︑土から. はすべて︑土からできたその人に等しく︑天に属する者たちはす. る者であり︑第二の人は天に属する者です︒土からできた者たち. り︑次いで霊の体があるのです︒最初の人は土ででき︑地に属す. す︒最初に霊の体があったのではありません︒自然の命の体があ. が︑最後のアダム︵イエスのこと一は命を与える霊となったので. に至るまでの時期である︒. いというのが学問レベルの共通した解釈である︒歴史上の系図の正. 姿にもなるのです︒一﹃コリント一﹄十五・4549一. ﹁最初の人アダムは命のある生き物となった﹂と書いてあります. しさや血統の継続性を意味するのではなく︑神による﹁選び﹂と. エコンヤは第二段階と第一二段階の両方に人っていればこそ︑第一二段. 貫した整合性をもつかに見えるし︑そのためキリスト教の伝統的解. マタイやルカなどと同じ発想をもつ右のパウロの信仰は︑終始一. ﹁約束﹂を強調するための創作上の系図とされてもいる︒ちなみに︑. 階は十四代になるのであり︑もし第三段階に入れなければ第三段階.

(4) 釈として継承されてきたのでもある︒しかしその整合性は︑キリス. ト教の立場に立った時のみ通用するのであり︑ユダヤ教から見た場. ﹃旧約聖書﹂や﹃新約聖書﹂という名称を作ったのはキリスト教 ふる 徒であって︑ユダヤ教徒ではない︒﹃旧約聖害﹄とは﹁旧い契約を. キリスト教側の独断. とはあっても︑マタイやルカやパウロが言うような救済者ではない. 記した文書﹂という意味であり︑﹃新約聖書﹄とは﹁新しい契約を. 第二章. とされるし︑イスラエルの系図にのせるに価するほどの人物でもな. 記した文書﹂という意味であるが︑この名称をめぐってユダヤ教と. 合︑それらの発想は全て否定される︒イエスは聖者とみなされるこ. いことになる︒それに︑アダムが﹁命のある生き物﹂で﹁地に属す. キリスト教が対立していることは衆知である︒. ところで︑神の契約の相手が誰であるかを検証せず︑また或る特. る者﹂であって︑それ以上の存在ではないのに対し︑イエスは﹁命 を与える霊﹂で﹁天に属する者﹂であるというパウロの指摘は︑ユ. イスラエルに誕生したユダヤ教を信仰するイスラエル人が︑ユダ. 定の集団が判断し決定したにすぎない﹁新・旧﹂という名称の適正. ﹁非人間化﹂もしくは﹁神格化﹂していて︑人間学に変換し得ない. ヤ教教典の全てを批判することなく信じることは不思議なことでは. ダヤ教では承認されない︒そもそもキリスト者でも︑パウロのこの. し︑従って異教徒にとっては言うにおよばず︑キリスト者にも理解. ない︒信仰には︑是非は別として︑そのような側面がつきまとうも. 度を検証せぬまま︑その用語を一一千年間にわたって通用させてきて. し難い側面をもつからである︒ここで出てくる結論は︑イエスの真. のであるからである︒だが︑イスラエル人以外の民族がユダヤ教教. 言葉を︑異教徒にも整合性ありと見える言葉でパラフレーズ出来る. 意を理解するには︑イエスをイスラエルの系図から切り離し︑イス. 典を何一つ批判否定することなく史実として信じた時︑何らかの問. しまったのが現実ではあるまいか︒. ラエル人によってのみ信仰される民族宗教たるユダヤ教からも切り. 題が生じ︑それが二十世紀に入って批判にさらされることになった. 者は希有ではないかと危倶される︒パウロのこの言葉は︑イエスを. 離し︑イエスのみを神格化する神話的状況を取り払ったところで︑. のではないのか︒次にキリスト教へと目を転じてみよう︒. 造神であって︑その神がアブラハムやモーゼ等のイスラエル人を通. キリスト教では︑ユダヤ教の神は﹁ヤハウェ﹂という名の天地創. 人問学として通用する神学を構築することが必要であるということ である︒人問学に変換し得ない神学では一一十一世紀に耐え得ないで あろうからであ る ︒. してではあるが︑本質的・実質的には全人類と契約を結んだと考. え︑従ってその神は全人類共通の守護神である天地創造神であると. してきた︒そしてその神は︑幾度か契約を更新し︑最後はイエスを.

(5) キリスト教は川発一1工に錯誤はなかったか. 典を﹃旧い契約の書﹂と呼ばれることを認めたことは一度もない︒. ではユダヤ教に﹁新約﹂や﹁旧約﹂という概念が無いかといえば︑. 通して新しい契約を結んだと考え︑そこから﹁旧い契約﹂および ﹁新しい契約﹂という名称が生まれたわけである︒. 必ずしもそうではない︒﹁エレミヤ書﹂の中で神は. 見よ︑わたしがイスラエルの家︑. 教・キリスト教・イスラム︶をめぐる一千数百年におよぶ紛争や︑. ら見直しを迫られることになる︒実はユダヤ系一神教︵Hユダヤ. ゼと結んだ契約は﹁新しい契約﹂と一言えようし︑シケムでの契約は. れなくはない︒それに︑アブラハムと結んだ契約と比べれば︑モー. は︑それ以前の契約が﹁旧い契約﹂であることを示唆しているとと. と言っているからである︒神が発する﹁新しい契約﹂という言葉. ユダの家と新しい契約を結ぶ日. だが︑その判断は一方的かつ性急的すぎはしないか︒もしヤハウ. 方イエスが信奉された﹁父なる神﹂がヤハウェ神でなかったとした. が来る︒一エレミヤ書−二一・31一. ェ神が結んだ契約がイスラエル人だけに限られていたのであり︑一. らどういうことになるのだろうか︒その場合︑キリスト教は﹁新し. 近年キリスト教聖職者達ですら示している︑伝統的教義への数々の. い契約﹂にもとずく宗教ではないことになり︑従来の概念は根本か. 不信感は︑キリスト教の出発地点での錯誤から由来している確率が. に比べれば︑モーゼと結んだ契約は﹁旧い契約﹂と一一一一口えるし︑アブ. ﹁さらに新しい契約﹂と言えよう︒逆に言うなら︑シケムでの契約. ところで︑﹁契約﹂という概念が生まれたのはユダヤ教において. ラハムと結んだ契約は﹁さらに旧い契約﹂と言うことが可能であろ. 高いといえる︒. であって︑イエスにそのような思考はない︒ユダヤ教教典によれ. パウロが﹁新しい契約﹂という言葉一﹁コリントの信徒への千紙−一﹂. う︒. それ以前はアダムに至るまでの二十代一ルカ伝の系図による一にも. 一一︑・6一をキリスト教で用いたのは︑ヤハウエ神が﹁エレミヤ書﹂. ば︑神が結んだ最初の契約者はアブラハムであり一創世記一五・18一︑. およぶ長い年月にわたってただの一度も契約はない︒次の契約者は. で予告していた﹁新しい契約﹂がイエスを通して結ばれたと思った. ヤ教教典が﹃旧約聖書﹄と呼ばれ︑キリスト教教典が﹃新約聖書﹄. 8一︑次に契約はヨシュアを通. では︑ユダヤ教教典に出てくる契約を﹁旧い契約﹂と最初に名付. と呼ばれることが︑キリスト教徒の慣習となったわけである︒だが. モーゼであり一出エジプト記︑止四・3. けたのは誰であったのか︒実はパウロであり︑そこからユダヤ教教. 先に述べたように︑ユダヤ教教典の中にも新旧の契約があるといえ. からである︒いずれにせよ︑パウロの言葉によって︑それ以後ユダ. 典がキリスト教徒によって﹃旧約聖書﹄と呼ばれるに至ったのであ. るし︑一方イエスには︑白分の教説が神との新しい契約に基づくも. してシケムで更新されている一ヨシュア記︑一四・25一︒. る︒しかし当然といえば当然であろうが︑ユダヤ教徒が自宗教の教.

(6) ﹁エレミヤ書﹂での神の言葉を踏まえた上で用いていたとすれば︑. ここで出てくる問題は次のことである︒パウロが契約の新旧を. 度もないし︑従ってキリスト教教典を﹁同一神ヤハウェの新しい契. イエスがそのメシヤであると思ったことは︑この二干年間ただの一. ところで一方のユダヤ教徒は︑メシヤを待望してはきたものの︑. いとすれば︑キリスト教はユダヤ教の一派である以上の存在ではな. パウロはユダヤ教ファリサイ派を脱退してイエスの信奉者になって. 約の書﹂︵H新約聖書︶であると思ったことも一度たりとも無い︒. のであると一一一日われた墾言は一切ない︒そのことは︑後で示す或る重. からも︑依然としてユダヤ教徒としての自覚をもっていたと言わな. イエスがエッセネ派に属していたことがあったこともあってか︑イ. いことになる︒. ければならないということである︒神の契約に新旧の違いを認める. エスを聖人とみなすことはあっても︑神とみなしたこともなけれ. 大な意味をはらんでいる︒. ことは︑それを結んだ神が同一神であることを前提としていること. 難の歴史をもつイスラエル人にとっての﹁メシヤ﹂一1−救済者一と. キリスト教であると判断し︑神がイエスをメシヤ︵ギリシヤ語では. ところでパウロが︑ヤハウェ神が新しい契約を結んでくれたのが. ば︑新しい契約者とみなしたこともない︒. してイエスが登場したということになり︑キリスト教は独立した宗. ﹁クリストス﹂で︑それが﹁キリスト﹂と音訳されている︶として. を示しているからである︒その場合︑ユダヤ人パウロの思考は︑苦. 教ではなく︑ユダヤ教の新しく誕生した一派という位置づけになら. して彼の数通の書簡がキリスト教教典一﹃新約聖書﹂︶の中に組み込. い契約﹂が結ばれたという結論をくだしたと言わざるを得ない︒そ. が﹁メシヤ﹂として神から遣わされたと判断し︑そのことで﹁新し. て語られていることを︑パウロはイエスの教えへとつなげ︑イエス. ﹁エレミヤ書﹂の一二一章31節の中で﹁契約刷新﹂が神の言葉とし. 動に神経をとがらせていた一人であった︒当時まだサウルと名乗っ. する派であり︑従って彼も︑次々と戒律を無視して破るイエスの言. ヤ教ファリサイ派に属していた︒ファリサイ派は戒律を厳しく遵守. ありつづけたからであったとしか考えられない︒彼はもともとユダ. という思いが生じなかったのは︑パウロ自身が熱心なユダヤ教徒で. し︑イエスのいわれる﹁父なる神﹂がヤハウェ神とは別の神である. 遣わしたと考え︑あくまでも﹁ヤハウェ神の契約﹂の更新であると. まれたのは︑彼のひたむきな信仰心を高く評価した者たちが︑彼の. ていたパウロは︑イエスを迫害する急先峰であったのはそのためで. ざるを得ない︒. 解釈を正しいと認知したからである︒そして以後︑キリスト教徒. パウロという名は︑ヘブライ名サウルのラテン・ローマ名であ. ある︒彼について次に展望してみよう︒. 聖書﹄が伝えているのだから︑二つの宗教は深い関連をもつ姉妹宗. る︒小アジアのキリキア州タルソで育つ︒当時のタルソは︑アテネ. は︑同一神の旧い契約を﹃旧約聖書﹄が伝え︑新しい契約を﹃新約. 教であるとしてきたのである︒だが︑同一神の契約の違いでしかな.

(7) キリスト教は出発点に錯誤はなかったか η. 彼はギリシヤ語を自由に操りヘレニズム文化を理解していたとされ. 民﹂としての自覚と白負を持つようになるのだが︑パウロもその例. 右のような道をあゆむユダヤ人の多くは︑白分を﹁神の約束の. ︑つ︒. ているが︑イスラエル統一王国の最初の王サウルを生んだベニヤミ. 外ではなかったことは彼自身の次の言葉から明白である︒. やアレクサンドリアと並んでヘレニズム文化の一中心地であった︒. ン部族に属する生粋のヘブライ人で︑ディアスポラ一外地居住のユ. わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって︑異邦人のような. ダヤ人︶の家庭に生まれている︒ユダヤ教徒は幼少の頃からモーゼ の律法を暗諦させられるばかりではなく︑全律法の中で最も重要な. 彼が異邦人を罪人とし差別視していたことは注目すべきである︒. 罪人ではありません︒一﹁ガラテアの信徒への手紙﹂二.15一. ﹁教会の迫害者﹂とは︑イエスとその信奉者を迫害したという意味で. スに怒り︑次のような発一一一古もしたのであった︒. パウロは右のような発想に生きていたからこそ︑ 律法を破るイエ. ある︒. ※. の信徒への手紙﹂三・6一. 律法の義については非のうちどころのない者でした︒一﹁フイリピ. に関してはファリサイ派の一員︑熱心さの点では教会の迫害者︑. ベニヤミン族の出身で︑ヘブライ人の中のヘブライ人です︒律法. わたしは生まれて八日目に割礼を受け︑イスラエルの民に属し︑. テアの信徒への手紙﹂一・14一. ろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました︒一﹁ガラ. 先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で︑同胞の問では同じ年ご. ※. ものとして︑神から命令された次の二つの祈りの言葉を暗諦させら れる︒. ︵レビ記一九・. 心をつくし︑精神をつくし︑思いをつくして︑ 主なるあなた の神を愛せよ︒軍命記六・4一. 白分を愛するように︑あなたの隣人を愛せよ︒ 18一. ユダヤ教徒は十歳で﹁ミシュナ﹂を修得し︑十一二歳で﹁律法の. 子﹂といわれるまでに成長することが期待される︒律法が集大成さ れたのは紀元前四〇〇年頃で︑教典全体が最終的にユダヤ教の教典 としてまとめられたのは紀元一世紀末であるといわれる︒パウロも. この道を歩んだであろうし︑十五歳の頃ラビ→律法教師一のガマ リエルについて﹁ゲマラ﹂の研究を行ったとされている︒ ※ ﹁ミシュナ﹂とは︑成文律法とは別の︑教師達から弟子達に口頭で伝 達された口伝律法である︒ ※ ﹁ゲマラ﹂とは︑ラビが﹁ミシュナ﹂に加えた注釈集であり︑﹁ゲマ ラ﹂と﹁ミシュナ﹂を合わせて集大成したものを﹁タルムード﹂とい.

(8) と考えていました︒そして︑それをエルサレムで実行に移し︑こ. 実は私白身も︑あのナザレの人イエスの名に大いに反対すべきだ. るようになるためである︒一﹁使徒一一一一﹇行録﹂1一六・u. の赦しを得︑聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずか. ら神に立ち帰らせ︑こうして彼らがわたしへの信仰によって︑罪. 右の体験によってパウロは回心し︑ファリサイ派を脱してイエス. 18一. の私が祭司長たちから権限を受けて多くの聖なる者たちを牢に入. た︑至るところの会堂で︑しばしば彼らを罰してイエスを冒漬す. の信奉者へと変わるのだが︑彼にとって神は依然として従来信じて. れ︑彼らが死刑になるときは︑賛成の意志表示をしたのです︒ま. るように強制し︑彼らに対して激しく怒り狂い︑外国の町にまで. きたヤハウェ神であったのだろうか︒だが︑この記述を注意深く読. ヘブライ語でパウロに語りかけたのは︑彼によって迫害. 箇条書きにしてみよう︒. むと︑筆者には不思議な変化が感じられるのである︒記述の要点を. も迫害の手を仲ばしたのです︒一﹁使徒言行録﹂ニハ・9−u一. 右の言葉は︑パウロがイエス教団への徹底した迫害者であったこ との白己延言である︒だが︑祭司長たちから権限を委任され︑イエ. 要点①. されていたイエスであるというのだが︑そのイエスはパウロを. スを含む集団を迫害すべくダマスコヘ行く途中︑彼は太陽よりも明 るく輝く空からの光に照らされて地に倒れ︑或る声を聞くのだが︑. ﹁この民一イスラエルの民のこと一と異邦人の中から救い出し﹂. いるという︒. 再教育して︑再び彼を彼らのもとへ派遣することを目的として. その体験を次のように述べている︒. 私たちが皆地に倒れたとき︑﹁サウル︑サウル︑なぜ︑わたしを. その目的は︑パウロにイエスとイエスの示現することを. 目撃させた上で︑その証人とさせ︑かつ奉仕者になってもらう. 要点②. 私にヘブライ語で語りかける声を聞きました︒私が︑﹁主よ︑あ. ためであるという︒. 迫害するのか︒とげの付いた棒をけると︑ひどい目に遭う﹂と︑. なたはどなたですか﹂と申しますと︑主は言われました︒起き上. それは︑この民︵イスラエルの民︶と異邦人の目が開け. ていず︑闇の中にいて︑しかもサタンの支配を受けているか. 要点③. がわたしを見たこと︑そして︑これからわたしが示そうとするこ. ら︑そこから﹁救い出し﹂て﹁光に﹂みちびき︑﹁神に立ち帰. がれ︒自分の足で立て︒わたしがあなたに現われたのは︑あなた. とについて︑あなたを奉仕者︑また証人にするためである︒わた. 具体的には︑﹁わたし一イエスのこと一への信仰によっ. らせ﹂るためであるという︒. 要点④. しは︑あなたをこの民と異邦人の中から救い出し︑彼らのもとに. 遣わす︒それは彼らの目を開いて︑闇から光に︑サタンの支配か.

(9) キリスト教は出発点に錯誤はなかったか 巧. て︑罪の赦しを得︑聖■なる者とされた人々と共に恵みの分け前. という状況になっていったのである︒. イエスの意図するものが①と②のいずれであったかは定かでない. エスの真意は①であつたように筆者には思える︒だが︑パウロの脳. にあずかるようになるためである﹂という︒. 右の記述を熟読すると︑イスラエルの民は目が開けていず︑闇の. 裏には②はあっても①はありえず︑彼が信奉する神は依然としてヤ. が︑﹁光を与える神﹂をイメージするイエスの思いを慮るとき︑イ. 中にいて︑サタンの支配を受けているから︑そこから救い出し︑目. ハウェ神でありつづけたらしいのだが︑その場合︑根本的な矛盾が 生まれることになりはしないか︒. を開けさせてあげ︑光のもとへ導き︑神に立ち帰らせてあげなけれ. ばならないということが︑イエスの目的であり︑その運動の奉仕. にとって︑イエスの言葉は青天の露震であった︒白分達の全人格が. 戒律を完壁に遵守しているという自負心を持っていたイスラエル人. 客観性を持たず︑全人類から認められているわけではない一︑その. ヤハウェ神を宇宙の唯一絶対神であるとしてまつりあげ︵それは. みよう︒それが﹁ヤハウェ神への信仰によって︑罪の赦しを得⁝. たしへの信仰によって︑罪の赦しを得・⁝−﹂という言葉を凝視して. イエスはパウロに明一一一日しておられるのである︒イエスの﹁彼らがわ. けさせ︑罪の赦しを得させて恵みの分け前にあずからせることを︑. ルの民や異邦人を︑﹁神に立ち帰らせ﹂るべくイエスヘの信仰に向. 目が開けていず︑闇にいて︑サタンの支配を受けているイスラエ. 否定されたに等しいからである︒ここに出てくる問題は︑イエスの. ⁝﹂という表現ではないことに留意しなければならない︒ヤハウェ. 者・証人としてパウロを選んだということになる︒. 言葉は次の二つのうちのどちらを意味するのかということである︒. の信仰によって罪の赦しが得られるというのであれば︑イエスと一. 神の戒律を遵守してきた者が罪深く闇にいるとされ︑だがイエスヘ イエスはヤハウェ神そのものを否定している︒. 字架にかけられるのである︒. 多くの破戒行為をおこない︑そのためユダヤ教徒の不評を買って十. も︑ヤハウェ神の与えた戒律も否定されかねないし︑事実イエスは. 体である﹁父なる神﹂はヤハウェ神ではない確率が高くなる︒しか. ないという誓いを立てた︒一﹁使徒一一一﹇行録﹂二三・12一. ユダヤ人たちは陰謀をたくらみ︑パウロを殺すまでは飲み食いし. 右のいずれにせよ︑イスラエル人の逆鱗に触れることになり︑. 人のヤハウェ神解釈を否定している︒. イエスはヤハウェ神そのものを否定はしないが︑ イスラエル. ②①.

(10) 北. わたしはなんと惨めな人問なのでしょう︒死に定められたこの体. から︑だれがわたしを救ってくれるでしょうか︒わたしたちの主. イエス・キリストを通して神に感謝いたします︒このように︑わ. ﹁父なる神﹂は別神であろう. かつてのパウロは典型的なファリサイ派信者であり︑従って戒律. たし白身は心では神の律法に仕えていますが︑肉では罪の法則に. ヤハウェ神と. の厳格な遵守者であった︒そのため︑戒律をことごとく破るイエス. 仕えているのです︒一﹁ローマの信徒への手紙﹂七・24一. 第三章. を迫害したのであった︒だが︑戒律を遵守すれば守護はしてあげる. つてユダヤ教はイスラエル人だけを対象とした民族宗教であること. 容からすれば︑ヤハウェ神はイスラエル人だけの守護神であり︑従. け人れることは出来るが︑肉はそれとは別の﹁罪の法則﹂の奴隷に. たところから生じていたといえる︒心︵H霊︶は﹁神の律法﹂を受. ;口で言えばパウロの苦悩は︑彼が霊肉二元論の立場に立ってい. し︑異民族が住む広大な土地をも授けると一一一一口うヤハウェ神の契約内. は否定できないし︑ユダヤ教を民族宗教と捉えるのは学問上の常識. なっていると考えるため︑その葛藤に苦しみ︑結果としては﹁イエ. ス・キリストを通しての神﹂が白分を救ってくれると考えたから︑. である︒. それに︑民族宗教であろうと世界宗教であろうと︑戒律至上主義. 霊肉二元論は︑ユダヤ教からくるものであるが︑その分裂の苦し. その﹁神に感謝いたします﹂と言ったのである︒. 排他性などの無人格的側面︵1−我執の強い﹁小我﹂一が生まれ易く︑. みを救うのがイエス・キリストを通しての神だとすれば︑イエスの. をとなえた場合︑些細な型式に拘泥し易くなり︑そこから独善性・. ひいては本来の戒律の精神を守ろうとする人格的側面︵H我執の無. エスの教えは二元論に立つものではない︒なるほど確かにヨハネ伝. 教えは二元論に立つものではないということになる︒そして事実イ. 戒律を守ろうとする面を﹁内なる人﹂一﹁ローマ人への手紙﹂七・22一と. の中では︑霊と肉が対比されたかにみえるイエスの言葉はある︒. い﹁大我﹂︶を抑圧する傾向が出てくる︒パウロはそれに気付き︑. 呼び︑一方それを抑圧する面を﹁外なる人﹂一﹁コリントの信徒への手. は﹁外なる人﹂がもたらす﹁罪の法則﹂一同書七・23一があって︑そ. 律法﹂一﹁ローマの信徒への手紙﹂七・22一と名付けた︒ところが肉体に. 識し︑それを戒律として表現すると考えたパウロは︑それを﹁神の. たに言ったことに︑驚いてはならない︒一ヨハネ伝三・5−7一. は霊である︒﹁あなたがたは新たに生まれねばならない﹂とあな. できない︒肉から生まれたものは肉である︒霊から生まれたもの. だれでも水と霊とによって生まれなければ︑神の国に入ることは. 紙二﹂四・16一と呼ぶに至ったのである︒﹁内なる人﹂は神の心を認. の人をとりこにしてしまうと彼は言い︑次のように述べている︒.

(11) キリスト教は出発点に錯誤はなかったか η. 生まれ変わることが可能ということになり︑イエスはそれを﹁あな. た意味で用いられているのである︒それならば︑心の持ち方一つで. なら︑﹁転識得智﹂という句に示される﹁汚れた俗識の心﹂にも似. 心﹂というほどの意味として用いられているのである︒仏教でいう. だがこの場合の﹁肉﹂は﹁肉体﹂というよりは﹁汚れた小我の. る︒この時パウロが信奉している神は︑彼がファリサイ派の信者で. している︒それは︑パウロが﹁新たに生まれた﹂ことを意味してい. ト一が宿ったということは︑パウロが極度に浄化されたことを意味. いうことである︒パウロの小我が死んで﹁大我﹂︵H聖霊nキリス. る︒小我が死んで大我︵H聖霊︶が彼の中に宿りさえすればよいと. 熱心なユダヤ教ファリサイ派信者であったパウロは︑ファリサイ. あった時信じていたヤハウェ神とは異なる神であると筆者には思え. 派を脱退してイエスの信奉者にはなった後でも︑ユダヤ教とは別の. たがたは新たに生まれねばならない﹂といわれ︑キリスト教では人. 二・21一といわれ︑それは﹁あなたがたの体は︑神からいただいた. まれた者﹂とされるのである︒イエスは肉体を﹁神殿﹂一ヨハネ伝. 宗教へ転向したという意識があった気配はない︒それならば︑信奉. る︒. 聖霊が宿ってくださる神殿であり一中略一︑だから︑自分の体で神の. する神は依然としてヤハウェ神であったはずである︒それなら︑ヤ. は肉体を持っていようと洗礼を受けさえすれば︑﹁改めて霊から生. 栄光を現しなさい﹂一﹁コリントの信徒への手紙一﹂六・19−20一というパ. つまりパウロは︑はじめは肉が﹁罪の法則﹂に従うとして悩み︑. エスを通さずとも﹁内なる人﹂となって﹁心をつくし︑思いをつく. のとして映っていたはずである︒もしそうであるなら︑パウロはイ. ハウェ神が授けた戒律は依然としてパウロには遵守するに価するも. 霊肉二元論が陥り易い苦悩を味わったが︑イエスヘの信仰に徹した. して﹂ファリサイ派の伝統どおりに﹁神の律法﹂を守りつづければ. ウロの言葉へとつながっている︒. とき彼は死んでキリストの霊として生まれ変わったのである︒それ. よかったはずである︒﹁外なる人﹂としてではなく﹁内なる人﹂と. ︵﹁ローマの信徒. と言っている︒そのことは︑ イェスを通して顕われる神は︑ユダヤ. への手紙﹂七・24一. 主イエス・キリストを通して神に感謝いたします︒. かったはずである︒だが実際には︑彼はファリサイ派を脱退し︑. して︑型式主義・排他主義・独善主義を超えたところで生きればよ. は彼の次の言葉に美事に表現されている︒. 生きているのは︑もはやわたしではありません︒キリストがわた しの内に生きておられるのです︒一﹁ガラテア人への手紙﹂二・20一. 筆者は今︑パウロが死んだと言ったが﹁肉体の死﹂のことではな い︒彼の﹁小我﹂︵H汚れた俗識︶が死んだということである︒パ. ウロがよみがえるのに肉体の死を待つ必要はないということであ.

(12) 挑. 教の神ヤハウェとは異なる神であるという推理を導く︒パウロの潜. れる﹂という発一一一一口がヤハウェ神をも意識した上でのものであったと. もし︑イエスのいわれる﹁父なる神﹂がヤハウェ神ではなく︑三. すれば︑イエスが契約について一切一一一日及されなかったことの理由も. でも赦される﹂一マタイ伝︑二・31一という言葉は︑その推理を確信へ. 在意識の中に︑ヤハウェ神とは別の神が影を落としはじめていなが. と導きもする︒そしてそこから︑パウロの神認識には混同がありは. 位一体の﹁聖霊なる神﹂がそうであるように︑全ての人間に初めか ロゴス ら臨在・内在する神︵⁝聖霊なる言の神1−本有の神一であるとした. 見えてくる︒イエスのいわれる﹁父なる神﹂は︑ユダヤ教の神とは. しなかつたかという第一の問いが生まれ︑次に﹁律法﹂や﹁戒律﹂. ら︑パウロの神認識には混同・混乱があったことになる︒パウロ神. ら︑彼の顕在意識がそれに気付いていなかっただけではないかとい. に関する混同がありはしなかったかという第一一の問いが生まれる︒. 学は︑イエスを論じる点では優れていながら︑ユダヤ教との関わり. 全く異なる神である確率が高いことも見えてくる︒. そこで次に二つの問いを別々に︑第四章および第五章として考察し. における認識においては混同・混乱があったように思えるのであ. う推理も生まれてくる︒更に︑イエスの﹁神への冒漬はどんなもの. てみよう︒. る︒筆者はもう長いことこの思いをいだき︑諸論文で記述してきた. のだが︑今年に入ってカトリックの井上洋治神父にもそのような思. 井上神父はその著書﹃南無の心に生きる﹄一筑摩書房一の中で︑. いがあることを知ったのであった︒. イエスの信奉者になって後もパウロの信じる神が依然としてヤハ. ﹃旧約聖書﹄の前半に登場する神は敵を滅ぼす軍神のように描かれ. ﹁神認識﹂の混同. ウェ神だったとすれば︑パウロはユダヤ教ファリサイ派の信者から. ていることを指摘し︑そのため﹃旧約聖書﹄を聖典とするユダヤ. パウロにおける. ユダヤ教イエス派の信者に転向しただけであったにすぎないことに. 教・キリスト教・イスラムの三宗教には﹁聖戦﹂﹁正義のための戦. 第四章. なる︒そしてキリスト教とは︑ヤハウェ神が契約の相手をユダヤ民. だと提唱しておられるのである︒イエスの教えは︑ヤハウェ神の恐. い﹂という概念があるのだが︑実はイエスには﹁聖戦﹂という概念. だがイエスには︑契約に言及した発一一一己は一切無いし︑﹁ヤハウェ﹂. ろしい罰を伴う厳しい律法主義を超えたものであったのであるが︑. 族から超民族の人類に変更して契約の内容をも変えた宗教であるこ. という語彙の使用例も何一つ無い︒それならば︑﹁新﹂﹁旧﹂を含. キリスト教はそれを誤解したところに混乱が生じたというのが井上. が無いと指摘し︑従ってキリスト教は﹃旧約聖書﹄から脱皮すべき. め︑﹁ヤハウェ神との契約﹂という概念がイエスには絶無であった. 氏の解釈である︒ただし井上氏は︑追害されていた初期キリスト教. とになる︒. と一一一一口わざるを得まい︒そして︑﹁神への冒漬はどんなものでも赦さ.

(13) キリスト教は出■発,点に錯誤はなかったか 巧. 徒は︑ユダヤ教の一分派として行動せざるを得なかったため︑﹃旧. 宗后睾ぎ苧巴印≦o↓○茎一ぎ二肩弓9毒庄津. ﹁法解釈﹂の混同. ミミ竃ぎ&. 亮巴易↓ω巨皇苧巨臣斗く①q;巨﹃9彗苧斗 ︸①8目ヨ彗o昌①巨o二巨①−︸峯昌ξ饒目匹. 窒o﹃昌8↓gω貝ま麦ωo竃ω3盲島①昌g↓. 艘呉o↓〇一﹄﹃oミ目ωぎ〜−自顯ゴ﹄﹃p嘗自o印ω凹. ま烏一耳ω昌昌目胴〜ωo⁝ωo己自︸δ﹃昌寿①. 目津具①;σσ&巨g印=oo討冒ξ一〇〇⊆プ竃. 5ミ8昌巨目雲宰匝〇二︺2印豪①o膏−oミ雲. 守①①守o目穿①5ミo︷ωぎ四目o匹①凹苧.彗斗苧①. 苧o−箒−阻ま長5ミg艘①ω亘きブ霊ω卑さ冒. 皇亭oブユωこ鶉一﹄ω二︺g彗窒一目oヲ奉旨彗ω. 目ooo目旦o昌目凹饒o目ざ﹃亭o器ミブo彗①目巨8︸. 旨①oo冒o巨色o目o↓ま①昌︸ヰ艘−ωけ巨ω一苧①屋オ. §雨8慧. ω壷く①8↓ブ①5ミo︷ω巨1. 茅ヲ卵顯昌完戸ぎ昌︸目房o︸幸畠−;巨﹃9凹. −冒壱①戸彗亘雪二〇Ω&.二印ミ麸φ冨饒昌邑. ○膏5﹃2宇彗ぎ一︺①aΩo〇一冒顯幸oa穿①p. 旨︷g穿〜Ω&凹−昌9ま﹃〇一お︸−霧易o〜奉. 苧雪go﹃鶉︹亮目①o暮o︷姜ωぎ身まo昌&. ωぎ.くげ①;一︺−①q窒ゴ﹄烏芽斗−φ昌一ミ才o−ω. 乎①旨奉片訂二ωぎ冒<冒o昌σ①﹃ω二亭討ミo︷. 岩肩o毒ω昌匹昌饒ぎ長昌①印oユω昌胃昌ま彗. 旨峯﹄σq葦ぎ的鍔巴房一苧①冒峯撃算昌く冨麸昌. ︸①亮〆ぎ昌<ぎ彗く昌①昌げ雪ω凹o胃gg↓. は筆者の見方は異なる︒先にも触れたが︑熱心なファリサイ派信者. 約聖書﹂を捨てきれなかったと推理しておられるのだが︑その点で であったパウロは︑イエスの追随者となってからも︑ヤハウェ神そ. のものへの疑問が湧くことなく︑その書簡が多数﹃新約聖書﹂の中 に組みこまれたため︑後世の信者は聖書を疑問視・否定することが. 許されないことから受け入れ︑その結果二十一世紀にまでその混乱. パウロにおける. が持ちこされたというのが筆者の推理である︒. 第五章. 次に︑パウロが一言う﹁神の法則﹂﹁罪の法則﹂という二つの語句. の関係を整理してみよう︒それには﹁ローマの信徒への手紙﹂第 七・第八章の解説が不可欠である︒ところでここでも従来どおり︑ ﹃新共同訳聖書﹄から引用したかったのだが︑その訳文では理解し. 難い箇所が多々あるので︑英語版z①峯冒曾争雲巨①を読んでみた. ところ︑全てが理解できたため︑英語版からの筆者の訳文をかかげ ることにする︒最初に英文を引用し︑次に﹃新共同訳聖書﹄を参考 のため引用し︑最後に筆者の訳をかかげる︒ 英文. 2亮g&耳;①ω官﹃芦. 自自宗H︸①8鼻;−o↓〇一﹄﹃−oミ實目曽巨亮二ω. 巨雪−昌雪二目冨一ミブo需8目⊆膏戸昌−o冒σ目g. §§§︑胃. −2ωg毒﹃↓巨ω肩巨︹号−p亭彗一亭箒. 8皇亭旨昌㌣﹃g争.旨昌㌣一冒昌婁↓篭一=. 峯ぎ目−ミ曽二〇ま亭①﹃釘︸↓一昌々亭①ミ﹃昌σq.

(14) 犯. 弓︸oωo峯ブo=く¢o目;o−①く巴o︷〇一﹄﹃−oミ①﹃. 刀それで︑善をなそうと思う自分には︑いつも悪が付きまとってい. 共同訳. 旨算名①自ω宗g貝巨ニブoω①ミぎ旨毒昌穿①. 1従って︑今や︑キリスト・イエスに結ばれている者は︑罪に定. えているのです︒. わたし白身は心では神の律法に仕えていますが︑肉では罪の法則に仕. ちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします︒このように︑. たこの体から︑だれがわたしを救ってくれるでしょうか︒妬わたした. かります︒別わたしはなんと惨めな人間なのでしょう︒死に定められ. 戦い︑わたしを︑五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分. でいますが︑鴉わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と. るという法則に気づきます︒η﹁内なる人﹂としては神の律法を喜ん. 昌巨亮ブ睾①苧9﹃昌邑oo斤︷o﹃昌&げくF彗︸. −29亀ま①ω亘﹃岸ブ彗o↓ブ①ω且﹃岸畠一昌巨8〆. 昌o艘印二巴豪彗oog8.︸害苧①昌自8片o︷. 穿〇一〇峯宰昌巨冨げ昌目一︷皇まΩ3二二ω. ○印冒目9一︺ρ乎OωO≦ブO自く①O自ω一﹄O巨與−①く9. 目o片彗げオ〇二〇艘①す冬o↓Ωo〇二目宗&篶. 里巨亭津げ;け才oミく⁝−一毒−く昌賞o昌. ○彗冒一君霧室く亘窒器○a.. 苧oω亘幸畠=2具弍o目々Ωa︑ωω亘﹃津o峯①昌ω. 乏亭巨さ月彗庄目四昌彗oo窃;↓εωω霧ω 吋ブ①ωO字岸o︷Oすユωけ=o︸ω目oO才ユω巨與目.︸一﹄↓罵. ○ブユω二ωo峯①昌目的皇苧一目さ戸旨彗顯−穿昌狗=. 9目烏♀肩ニプ①名︐二ω胃①豪o−=︺g彗竃. ︸①一︺oo︸〆団庄窒庄亭9胴σg彗竃<o目. く昌ブ署o芋昌官竺饒&.室o亮oく宰二︷暮o. められることはありません︒2キリスト・イエスによって命をも. 3肉の弱さのために律法がなしえなかったことを︑神はしてくださつ. たらす霊の法則が︑罪と死との法則からあなたを解放したからです︒. 轟︸器﹄oブユg旨ω一﹄ω守o昌乎o庄窒︷ミ自巴彗. 宗邑庄ミ竺ω皇まぎさp↓ブ彗亭①○aξブo. 霊に従って歩む者は︑霊に属することを考えます︒6肉の思いは死で. されるためでした︒5肉に従って歩む者は︑肉に属することを考え︑. は︑肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に︑律法の要求が満た. の世に送り︑その肉において罪を罪として処断されたのです︒4それ. たのです︒つまり︑罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこ. 阻毒烏老胃①8着弓昌oユ邑ぎ22乎﹃ooσqケ. ば︑体は罪によって死んでいても︑. 霊 は義によって命となってい. ストに属していません︒10キリストがあなたがたの内におられるなら. 肉ではなく霊の支配下にいます︒キリストの霊を持たない者は︑キリ. ん︒g神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり︑あなたがたは︑. ないのです︒呂肉の支配下にある者は︑神に喜ばれるはずがありませ. 者は︑神に敵対しており︑神の律法に従っていないからです︒従いえ. あり︑霊の思いは命と平和であります︒7なぜなら︑肉の思いに従う. く昌皇−;亮.. 庄窒宇嘗自穿①げ麸①o⁝窒一房o↓穿①一︺o身一穿昌. く昌昌毒片2o.射鼻岸一ξ穿①ω宮き<昌君二〇. ○巨后&旨茅①o目序尊−①亮−.冒<昌まω9. 冨巨冨=轟目oo−巴昌目ε目自ω一≦①曽①自g. −二〇豪峯9昌<室①邑9↓ぎ↓昌二〇峯彗. 巨巴目oミo 昌 目 的 ω 亘 ﹃ F. ω官﹃岸oH巨昌ミブo冨−ω&−霊冨宇o旨︸①. 8.

(15) キリスト教は出発点に錯誤はなかったか 抑. あなたがたの内に宿っているその霊によって︑あなたがたの死ぬはず. たの内に宿つているなら︑キリストを死者の中から復活させた方は︑. ます︒1ーもし︑イエスを死者の巾から復活させた方の霊が︑あなたが. ってです︒また神は︑﹁そのような低い我﹂の中の罪に対する判決を. な罪深い性質を持つ人間の姿と同じような姿にして世に送ることによ. を︑神がなしてくださったのです︒御子︵﹁イエス︶を︑私達のよう. でした︒. よって導かれている私達の中で﹁神の法則﹂の要求が満たされるため. は︑もはや﹁より低い我﹂の支配をうけなくなっていて︑むしろ霊に. 下すにあたり︑それを﹁罪の犠牲﹂としてくださったのです︒それ. れは︑肉に従つて生きなければならないという︑肉に対する義務では. 螂それで︑兄弟たち︑わたしたちには一つの義務がありますが︑そ. の体をも生かしてくださるでしょう︒. ありません︒B肉に従って生きるなら︑あなたがたは死にます︒しか. ﹁より低い我﹂のレベルで生きる者は︑それに見合った前途をもつ. と平和という霊的前途を持つことになります︒﹁より低い我﹂の前途. し︑霊によって体の仕業を絶つならば︑あなたがたは生きます︒. 筆者の訳. いのです︒そんなレベルで生きる者は︑神によろこんでもらえること. は神への敵対であり︑﹁神の法則﹂に従うことがありません︒出来な. のレベルで生きる者は︑生命. それで︑善をなそうと思うとき私には悪のみが付きまとうという. ことになり︑死に至ります︒だが. ﹁生来の傾向﹂があることに気付きます︒私の﹁最奥の我﹂は﹁神の. に気付くのです︒わたしは惨めな人間です︒誰が私を︑死に定められ. ﹁感官﹂内にある法則つまり﹁罪の法則﹂のとりこにしてしまうこと. 霊﹂を持たなければ︑彼はキリスト者ではありません︒だがもしキリ. なたがたは霊的なレベルにいるのです︒もし人が﹁キリストの︵聖︶. ません︒﹁神の︵聖︶霊﹂があなたがたの内に宿っているかぎり︑あ. しかし︑そのような生き方はあなたがたの採るべき生き方ではあり. などとても出来ないのです︒. たこの体から救ってくれるのでしょうか︒わたしたちの主イエス・キ. ストがあなたがたの内部に住んでおられるなら︑たとえ罪を犯したた. て︑私の理性が受け入れる﹁法則﹂︵H神の法則一に逆らい︑私を. 法則﹂を喜んでいるのですが︑私の﹁感官﹂には﹁別の法則﹂があっ. 神に感謝いたし. めに体は死物であるにしても︑︵あなたがたの︶霊は生命そのもので. 要するに私自身は︑﹁理性﹂では﹁神の法則﹂に従っていな. ます−. す︒それは︑あなたがたが﹁義﹂とされたからです︒さらに︑もしイ. リストを通しての神のみが救ってくださるのです1. がら︑﹁非霊的面﹂一1−感官の心一では﹁罪の法則﹂の奴隷となってい. 宿っているなら︑イエス・キリストを死者の中から復活させた﹁神﹂. エスを死者のなかから復活させた方の一聖︶霊があなたがたの内部に. 結論を言えば︑イエス・キリストと結ばれている者は罪の宣告を受. るのです︒. 兄弟たちよ︑右のことから次のことが導かれます︒わたしたちの. い生命を与えてもくださるでしょう︒. は︑その内在する一聖一霊を通してあなたがたの死すべき体に︑新し. 解放してくれたからです︒わたしたちの﹁より低い我﹂が邪魔したが. ﹁より低い我﹂は︑わたしたちに対してその権利や報酬の要求をする. ﹁一聖︶霊のもつ︑命を与える法則﹂があなたを﹁罪と死の法則﹂から. けることがありません︒なぜなら︑イエス・キリストによって︑. ために︑﹁一聖︶霊のもつ︑命を与える法則﹂が為しえなかったこと.

(16) 皿. ことがなくなるということです︒わたしたちはそのような低いレベル. ると﹁私の最奥の我﹂となるのだが︑この捉え方だと︑他に出てく. れ以上の奥行きを持ち得ない︒一方英語の昌二目昌8;①旨を直訳す. とほとんど同じほど奥行きのある人間洞察をそこに見ることが出来. ﹁より低い我﹂と訳している一と並用すると︑仏教の﹁転識得智﹂. るO膏一〇峯胃畠9篶一これは従来﹁肉﹂と訳されていたが︑筆者は. で生きる義務はないのです︒もしあなたがたがそのような生き方をす れば死ななければなりません︒だがもし︵聖一霊によって︑体のもつ 八・13一. あらゆる浅間しい営みを絶つならば︑あなたがたは牛きるでしょう︒ 一﹁ローマの信徒への手紙﹂七・21. る︒このことは︑目くげo邑<昌①昌ざ易という英語と結びつくと︑よ. り一層﹁転識得智﹂に接近し︑両者の酷似に驚嘆を覚えるほどであ る!. 日本語訳﹃新共同訳聖書﹄は﹃ギリシヤ語新約聖書﹂一修正第一二. 版一を底本としていると﹁凡例六﹂に記されているし︑Z①ミ. ではなく﹁感官﹂と訳出した︒ぎOξ目①目ま﹃ωは﹁体の諾器官﹂. 一頭・頸・胸・手・足一を指すことで全身体を意味するのだが︑そ. 筆者は昌<げ3号冒①昌ま易を従来のような﹁五体﹂という訳. ー目答争里巨①もギリシヤ語の原本からの英訳であるという︒それに. しては︑日本語訳と英訳の間にかなりの差がある︒日本語訳が分か. をなすものと捉える従来の発想は誤っていると考える︒肉体が悪い. れが﹁霊﹂や﹁最奥の我﹂を対立するところに位置していて﹁悪﹂. 英訳の場合︑艘巴印ξと艘①肩巨o亘①の二語がそれぞれ適切な場所. のではない︒仏教用語を用いるなら︑眼識・耳識・鼻識・舌識・身. りにくいことの例をいくつかあげてみよう︒. で使い分けられているので文意がよく理解できるのに︑日本語訳の. 一皮膚︶識・意識など︑感官から生まれる心や︑さらにその背後に. 一方︑英訳では艘①5峯の一語で統一されている内容に対し︑日. 西洋人はそれを知らず︑﹁霊肉二元論﹂のみで処理していたため︑. れは西洋では二十世紀まで知られていなかった意識学である︒古代. ある末那識や阿羅耶識などの潜在意識が﹁悪﹂をするのである︒こ. 本語訳では﹁律法﹂と﹁法則﹂の二語を使い分けしているのだが︑. 五体が﹁霊﹂と対立する悪者扱いをされてきたのであった︒右の経. 5ミを﹁法則﹂︑艘①肩ぎO亘①を﹁生来の傾向﹂と訳した︒. 場合は共に﹁法則﹂と訳されているので分かりにくい︒筆者は宇①. その使い分けに説得力がない︒そこで筆者は英訳で亭二婁とされ. 緯をきちんと踏まえると︑げaξ昌①昌烹轟は﹁五体﹂ではなく. ﹁もろい心﹂を意味するのに用いられ︑一方の﹁理性﹂は﹁客観性. いう訳ではなく﹁理性﹂と訳した︒﹁心﹂は普通﹁感官﹂が伝える. 次に英訳のミきO畠;9握を︑筆者は従来の日本語訳の﹁心﹂と. ﹁感官﹂と訳さざるを得ないのである︒. ている箇所は全て﹁法則﹂に統一した︒. 次に︑英訳の昌二目昌oω二票に当たる箇所は︑日本語訳では﹁内. なる人﹂と訳されているが︑筆者は﹁私の最奥の我﹂と訳した︒ ﹁内なる人﹂という従来の訳は﹁外なる人﹂という訳と共に︑一見. 明蜥な名訳である印象を与える︒だが︑観念的で具体性に欠け︑そ.

(17) キリスト教は山発点に錯誤はなかったか 刃. をもつすぐれた判断力﹂を意味するのに用いられるし︑事実英訳聖. あり︑それらは共に﹁神の法則﹂を喜び迎えて従うということであ. 分かることは︑彼のいう﹁最奥の我﹂は﹁理性﹂とほとんど同義で. 識﹂︵−清浄識H如来識︶に匹敵し︑完全清浄で神仏と等しい心で. る︒﹁転識得智﹂で言うなら︑﹁最奥の我﹂は第九識である﹁阿摩羅. 書では印冨ま畠;9轟は﹁神の法則﹂を受け入れ従うものとして用 いられている︒. 次に︑昌<⁝ω豆﹃ぎ巴畠ε亮を従来の日本語訳の﹁肉﹂という訳. つまりパウロは白分の内に﹁最奥の我﹂があることを認めたのだ. ある︒パウロのいう﹁最奥の我﹂は﹁内なる聖霊﹂と一一一一口えよう︒. にあるものが﹁肉﹂であるとする捉え方は︑意識学に劣っていた西. が︑そのことは︑彼の内に﹁より低い我﹂があるため﹁感官﹂がも. ではなく﹁非霊的面﹂と訳した︒先にも述べたように﹁霊﹂と対極. 洋人の誤まりである︒﹁霊﹂は﹁転識得智﹂でいうなら︑第九識の. たらす﹁罪の法則﹂に従ってしまう悪い側面があるにしても︑﹁神. らLき. ﹁庵摩羅識﹂︵H如来識H清浄識一であり︑﹁霊﹂の対極にあるもの. の法則﹂に喜んで従う聖霊もまた彼の内にあることを意味してい. ま. は﹁肉﹂ではなく︑眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那. る︒そして︑それを助長するには︑﹁より低い我﹂を完全に抑制す. あ. 識・阿羅耶識など感官の心や潜在意識である︒. さてパウロは︑﹁善をなそうと思うとき悪のみが白分に付きまと. 霊的面﹂︵H感官の浅い心や本能の心︶の抑制を求めたと言っても. いう他力的信仰という方法を採ったのであった︒信仰を通して﹁非. る修行という白力行的方法もあろうが︑完全な聖者を信じついてい. う﹂と言い︑それを﹁生来の傾向﹂︵H肩巨9亘①︶と言ったが︑そ. よい︒イエス・キリストを信じ従うことが神と結ばれ永遠の生を得. 次に︷巨↓は従来の訳どおり﹁霊﹂としたが︑大文字で始まる. れは﹁転識得智﹂でいう教義と同じである︒眼識・耳識・鼻識・舌. ることであるというのがパウロの信仰形態であった︒転識得智で言. くという他力的方法もあろう︒パウロの場合は︑﹁わたしたちの主. 識・身識・意識・末那識・阿羅耶識の八つの心は︑人によって程度. うなら︑第九識である阿摩羅識になり切って生きることである︒そ. ω豆﹃岸は﹁︵聖︶霊﹂と訳出した︒その他昌ま昆は﹁前途﹂と訳し. の差こそあれ︑必ず汚染されているので︑善をなそうと思っても障. の時仏教でいうなら︑汚染されていた眼識・耳識・鼻識・舌識・身. イエス・キリストを通しての神のみが救ってくださるのです1﹂と. 害となって前に立ちはだかる︒それは人間の﹁生来の傾向﹂であ. 識の五識は不空成就如来の智慧である成所作智に昇華し︑汚染され. た︒. る︒パウロは︑人問がおしなべて持つそのような﹁生来の傾向﹂を. ていた末那識は宝生如来の智慧である平等性智に昇華し︑汚染され. ていた意識は阿彌陀如来の智慧である妙観察智に昇華し︑汚染され. 一方彼は︑白分の﹁最奥の我﹂は﹁神の法則﹂を喜んでいるし︑. ていた阿羅耶識は阿閑如来の智慧である大円鏡智に昇華するといわ. 知っていたので︑そのように言ったものであろう︒. 彼の﹁理性﹂は﹁神の法則﹂に従っているとも一一一一口っている︒ここで.

(18) 舛. れるのである︒. パウロ神学で﹁イエス・キリストを通して神と結ばれ永遠の生を. 命を与えるのは霊である︒肉は何の役にも立たない︒わたしがあ. のなのではない︒だが従来のキリスト教は﹁復活﹂を﹁死体の蘇. 即して生きることを意味するのであって︑肉体の不死を意味するも. き︑肉体蔑視の思想が生まれ︑修道士であれ世俗人であれ︑数ケ月. が不用であるという意味ではない︒これを文字通りに解釈したと. ﹁肉は何の役にも立たない﹂というイエスの言葉は︑人間の肉体. なたがたに話した一言葉は霊であり︑命である︒一ヨハネ伝六・63一. 生﹂と誤認したため︑人間の肉体にも永生があると信じ︑﹁最後の. も入浴しないことを競うという中世の悪習が生まれたのである︒ .﹁肉は何の役にも立たない﹂の﹁肉﹂は﹁肉体﹂のことではなく︑. 得る﹂といわれることは︑﹁より低い我﹂を抑制し﹁最奥の我﹂に. 審判﹂後の﹁死体の蘇生﹂と﹁永生﹂を願ったもののように思われ. であるが︑イエスの教えの核心にある次の言葉もそれと同一であ. 他ならない︒人間は誰でも大日であるということこそ︑密教の核心. 大師が.﹁我即大日﹂一1−白証の理︶といわれたことは︑その指摘に. るということは︑人間は本来大日であることを意味している︒弘法. 関係であることと同じである︒人間の﹁最奥の我﹂が庵摩羅識であ. て︑宇宙に遍満する大日如来の智慧である法界体性智とイコールの. 識得智でいうなら︑第九識の庵摩羅識はそのまま完全清浄であっ. 普遍的なものであることを意味していると筆者は観るのである︒転. なく︑人間に内在する聖霊は外にある宇宙大の聖霊と同様の存在で. で︑これが前面に出て心全体にひろがったとき︑汚染されていた八. の庵摩羅識はキリスト教でいう﹁内在する聖霊﹂に匹敵するもの. ものが第九の庵摩羅識︵n清浄識H如来識︶であると説かれる︒こ. ろう︒実はそうではないと仏教は教える︒人間の最奥の深部に在る. が無いことは死を意味するのではないのか︒﹂という疑問が湧くだ. た︒ここで﹁この八つの識が無くとも人は生きられるのか︒それら. ることから︑イエスは﹁何の役にも立たない﹂と言われたのであっ. 差こそあれ汚染されているので障害となる︒有害無益の不用物であ. 阿羅耶識の八つの識のことであろう︒この八識は人によって程度の. 仏教でいうなら︑眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・. る︒﹁永生﹂とは﹁肉体の不死﹂や﹁死体の蘇生﹂などのことでは. る︒. つの識が四つの仏智に昇華されていくと説かれている︒イエスが. れたのは︑その尊い﹁言葉﹂︵⁝霊11命︶によって感官の汚染され. ﹁わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり︑命である﹂といわ. であり︑わたしがその人を終わりの日に復活させることだからで. た心が浄化されることの必要性を説かれたものであったのであり︑. わたしの父の御心は︑子を見て信じる者が皆永遠の命を得ること. ある︒一ヨハネ六・40一. それが全うされた状態が﹁永生﹂であると捉えるべきである︒﹁内.

(19) キリスト教は出発点に錯誤はなかったか 弥. は地にあって︑両者は合一することがない︒合一できるのは神から. ない次元の祈りであろう︒そこでは︑神は天に在るのに対して︑人. にまします我等の神よ﹂という祈りは︑ユダヤ教を払拭し切れてい. した︒つまり神は﹁外在﹂神なのである︒従来のキリスト教の﹁天. ユダヤ系一神教は天地創造神を設定し︑神を白分の外側にあると. 全人類と共におられるということである︒その時︑﹁父なる神﹂と. る﹂と言い得るし︑言わなければならないのである︒つまり︑神は. は︑全人類の救済という意味においてのみ﹁神は我々と共におられ. 済の対象の﹁我々﹂は全人類である︒世界宗教であるキリスト教. はイスラエル人のみを指すが︑イエスのいわれる﹁父なる神﹂の救. う︒﹁イザヤ書﹂の場合の﹁神は我々と共におられる﹂の﹁我々﹂. 以上のことなどから︑イエスがいわれる﹁父なる神﹂は︑ユダヤ. 遣わされた﹁非人問﹂であるイエスだけであり︑イエスだけが﹁イ. は︑宇宙の﹁ロゴス﹂を霊格化した名称であることが見えてこよ. 在する聖霊﹂は宇宙に遍満する﹁外なる聖霊﹂と一つのものである. ンマヌエル﹂︵﹁神はわれわれと共におられる﹂の意︶と名付けられ. う︒ちょうど﹁大日如来﹂が宇宙の﹁ダルマ﹂を霊格化した名称で. 教の﹁民族守護神﹂であると同時に﹁外在神﹂でもあるヤハウェで. ると考えた︒それはユダヤ教教典﹁イザヤ書﹂七章μ節にある︑預. あることと同様にである︒それが見えてきたとき︑キリスト教はこ. のだからである︒ちょうど︑庵摩羅識が法界体性智と一つのもので. 言が成就したとする発想から生まれた解釈で︑キリスト教はユダヤ. れまで﹁神前言後﹂の宗教と言われてきたけれども実は全く逆で︑. はなく︑万人に内在する本有の﹁内在神﹂であると解すべきであろ. 教徒の反溌にもかかわらず︑イエスだけが﹁インマヌエル﹂である. 仏教が﹁法前仏後﹂であるのにも似て︑﹁言前神後﹂の宗教である. あることと同様にである︒. と い う 発 想 を 死 守してきた︒. そして︑それが見えてきたとき︑ユダヤ教にもイスラムにもない. ことが見えてくるのである︒. いう証拠は一つもないし︑イエスだけが﹁インマヌエル﹂であると. ﹁聖霊なる神﹂がキリスト教には存在することの意味が理解できる. しかしイエスが︑﹁イザヤ書﹂で預一言されている救世主であると. いう証拠もまた無い︒そもそも﹁インマヌエル﹂とは︑ダビデ王か. ところでパウロは︑神が律法を与えたとき︑それを守る精神的能. のである︒﹁聖霊なる神は万人に臨在する﹂という束方教会の教義. るにしては時代が違いすぎる︒マタイ伝の系図に依った場合︑アハ. 力をも人間に与えたはずであり︑従ってもしその能力を十分に発揮. ら数えて十代目のアハズ王を勇気づけるため︑神がアハズ王に授け. ズ王から数えてイエスは十九代目の子孫である︒従って︑イエスの. できれば人は律法を完全に守ることができるはずだが︑それが出来. の真の意味も見えてくるのである︒. 誕生を全てユダヤ教教典に即して解釈することは︑信仰上からなら. ないのは人間の被造性の故であると考えた︒一方︑もし被造性を持. るとされた男の子の名前であるが︑イエスがそのインマヌエルであ. いざ知らず︑学問上からでは説得力がない︒.

(20) 爽. ほどに時代錯誤的印象を与えるものであるが︑さらに次の疑問を生. の解釈白体がすでに︑多くの聖職者達によってすら否定されている. ず︑イエスの﹁死後三日目の蘇生﹂も史実とされざるを得ない︒そ. 立つ場合︑イエスは﹁処女受胎﹂から誕生した以外には考えられ. あるとし︑それをイエス・キリストに見たのであった︒この発想に. たない人がいるとすれば︑﹁神の律法﹂を完壁に遵守できるはずで. 新たに生まれなければならない﹂一ヨハネ伝三・ヱという言葉. 疑われるのだが︑さらにその発想は︑イエスの﹁あなたがたは. の二元に分け︑律法の遵守度に差が出るとする発想の整合性が. に被造性をもたない入間イエス﹂と﹁被造物でしかない人類﹂. それをパウロ神学では説明できない︒そもそも﹁神であるが故. 際にはイエスは戒律をことごとく破っていかれたのであるが︑. あるから︑イエスが戒律を完壁に遵守できるはずであるが︑実. とが可能であるし︑従って新たに生まれなければならないとい. と矛盾してしまう︒イエスによれば︑人類は新たに生まれるこ. むことになる︒. 処女受胎による誕生の故にイエスには被造性がないとす. うことなのであり︑その生まれかわりは具体的な律法の遵守の. 疑問①. るパウロの見方は︑パウロ自身の﹁御子は︑肉によればダビデ. またイエスは︑人間をロボットのような被造物としては観て. 実践とは関係がないのである︒. よって力ある神の子と定められたのです︒﹂一﹁ローマの信徒への手. おられないからこそ︑﹁悔い改め﹂と﹁生まれかわり﹂をすす. の子孫から生まれ︑聖なる霊によれば︑死者の巾からの復活に. 紙﹂一・3−4一という言葉にみられる︑イエスが肉体的には人. められたのでもある︒人問は本来神の霊が宿る神殿であるとい. は仏教における密教の﹁三輸身﹂に展開される﹁一仏教﹂と. 束方教会では一神教と多神教が共存することになり︑その点で. 櫟を生みもしてきているのである︒そして更にその発想は︑﹁聖霊. ス﹂と﹁被造物でしかない人類﹂という二元論が︑白然科学との軋. パウロ神学にみられる︑﹁神であるが故に被造性をもたないイエ. 造性をしか見ないパウロ神学と矛盾する︒. うのがイエスの根本の発想であったのであり︑それは人類に被. 間→ダビデの子孫一であるとする見方と矛盾している︒ 疑問② 後世のギリシヤ教父によって展開された三一論︵11三位. 一体論一では︑﹁聖霊なる神﹂は全ての人間に臨在されると解. ﹁多仏教﹂の共存と酷似一詳細は後述一していて︑逆にユダヤ教. なる神﹂と人間の関わり方にも暖昧さをのこし︑その結果︑東方教. 釈されているので︑人間の数だけおられることになる︒従って. とはあまりにも違っているのだが︑その点をパウロ神学では説. 会と西方教会が分裂する最初の原因となった﹁フィリオクエ論争﹂. をもひきおこす結果となっているのである︒キリスト教が他の大宗. 明できない︒. 疑問③ イエスは被造性をもたない神であるとパウロは言うので.

(21) キリスト教は出発一点に錯誤はなかったか η. 認識においては混乱と錯誤がありはしないか︒たとえ誤りがあって. パウロは︑イエスとの関係においては優れた解釈を示しつつも︑神. は︑パウロ神学には神認識において混同があるためではないのか︒. 教には見られないほどに大きな亀裂を内側にかかえる最大の理由. て疑われることなく信じられてきたことも白然であったかもしれな. ヤ教の連続姉妹宗教であると捉える見方がうまれ︑一︑千年にわたつ. エッセネ派に属していたことがあつたとしたら︑キリスト教はユダ. は白然であつたかもしれない︒ましてや︑イエスが一度はユダヤ教. ので︑後進のキリスト教はその神に優る神は有り得ないと考えたの. い︒. も︑ひとたび彼の書簡が多数聖書の中に組み入れられれば︑信者は. 聖書を批判できないことから︑彼の解釈も無謬なるものとして全面. ながらも︑それを批判・超越し︑全く別の神認識のもとでイエスが. はユダヤ教の一派として捉えるのではなく︑ユダヤ教と深く関わり. ラムからの批判をクリアするには︑ユダヤ教からの連続宗教もしく. ったのではないのか︒それらの矛盾を全て解消し︑ユダヤ教やイス. べからざる神秘な領域﹂とされ︑一切の批判がタブーとされてしま. そのため︑数々の矛盾が解決し得ないまま﹁人智を超えた︑犯す. されている︒だが宗教権力者によって﹁異端﹂のレッテルをはら. ており︑他にもそのような見方をする人々が潜在的には多数いたと. の聖書学者︑神学者︑広義のグノーシス主義者一によって提唱され. とは異なるという説は︑すでに二世紀にマルキオン一ポントス出身. 神とは異なる神ということになる︒キリスト教の神はユダヤ教の神. はありえなくなるし︑イエスのいわれる﹁父なる神﹂はユダヤ教の. た戒律に疑問を抱くようになったとしたら︑イエスはユダヤ教徒で. しかし︑もしイエスが或る時点から︑ユダヤ教の教義や神が授け. 提唱されたのが本来のキリスト教であるとする地点から神学を構築. れ︑追放あるいは処刑という処遇を受けることから表面に出にくか. 的に受け入れられていかざるを得なかったのである︒. する必要があるのではないのか︒従来のキリスト教はイエス教とは. ったにすぎない︒だが︑自説のみを﹁正統﹂とし︑それと異なる説. スト教の神の概念ですら︑神学者によって違っているのである︒. 一神であるなどと断定できるものではない︒いや︑これまでのキリ. を意味している︒それならば︑ユダヤ教の神とキリスト教の神が同. 権の権威が有名無実であり︑権力は縄張り用の勢力でしかないこと. 学が提唱されてき︑神の概念ですら定まっていないことは︑中央集. い︒そもそも二千年にわたって多数の神学者によってさまざまな神. を﹁異端﹂として排斥することは︑誤まった中央集権主義でしかな. かなり違うのであり︑キリスト教を本来のイエス教に戻すことが今. キリスト教の多一神性と. 後の最大の課題であると筆者は考える︒. 第六章. 仏教の多一仏性の相似性 キリスト教は従来︑ユダヤ教の神と同一の神を信奉する宗教であ るといわれてきた︒ユダヤ教の神は天地創造神であるとされている.

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修正 Taylor-Wiles 系を適用する際, Galois 表現を局所体の Galois 群に 制限すると絶対既約でないことも起こり, その時には普遍変形環は存在しないので普遍枠

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