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徳川政権の成立とその崩壊過程に関する研究(下)

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(1)

Title

徳川政権の成立とその崩壊過程に関する研究(下)

Author(s)

上里, 安儀

Citation

沖大論叢 = OKIDAI RONSO, 3(1): 33-87

Issue Date

1963-01-10

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/10713

Rights

沖縄大学

(2)

第こ項八月+八日の政変

尊王壌夷派の過激な行動︑諸外国の圧力等によって幕府は益々窮地に陥りつ﹄あのたのであるが︑他方において長洲藩の京

都陀おける声望はいよいよ加わり︑遂に壊夷親征に名を借りで討幕の端を開ζうとする気還が生ずるにいたった︒しかるに事

態は意外の方向へ発展していった︒即ち︑さきに公武合体の完成一歩手前で長洲藩の変節的尊王焼夷運動によって︑それの実

現を阻止された薩摩藩が登上してきたのである︒依然として開国和親の上に公武合体ぞ実現するζとぞ欲していた穣落にとっ

ては︑尊王填夷派亦は討幕志士団の激烈な運動が好ましくなかったのであお︒

ζで尊王壊夷派のこのような行動を阻止す忍ため︑朝廷内の公武合体派の一人であられた中川宮朝彦親王に対し︑壊夷親

征の詔の下に尊王壊夷派が計画しつhあるところを告げ中川宮にはこれを直ちに孝明天皇に奏上したのである︒天皇はこれを

聞いていたく驚博せられ︑幕府には未だとれを討つべき罪悪なく且づ兵備未だ整はざる今Hにおいて壊夷の実現を企てるどと

きは時機をわきまえざる軽挙なりとせられかかることを計商しつつある公郷ぞすべからく速かに処分すべき旨を仰せられたの

である︒かくて中川宮により薩摩会津両藩の連合がなり︑文久三年八月十八日早朝︑薩会淀の兵力によってクーデターが行わ

れ︑コ一条以下七郷の都落ち︑志士団の政権失墜︑長州藩の鳥居守護解任となったのである︒

今や朝廷から尊王壊夷派の宮及び公郷の主要なる人々は一掃せられ︑ζ乙に公式合体派の宮及び公郷が朝廷において指導的

勢力を掌握するζととなったのである︒

ζの政変は文久二年以来の朝廷をめぐる薩長両藩の対抗の歴史の重要なる一節をなすものである︒さて︑ζの政変後の朝廷

己の意志に非ざるととが自己の意志として伝えられたが︑ からは親征は延期せられる旨の御沙汰が発せられるとともに︑文孝明天皇には諸侯及︑ひ公家に対して勅穏を出されとれまで自

八月十八日以後に発せられるべての沙汰はみづからの真意に出づる

ものなる旨を告げられたのである︒

そして︑九月には御守衛兵は廃止せられて︑その兵はそれぞれの出身藩へ返された︒一方︑討幕派志士は政変後各地に兵を

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あげた︒即ち︑文久三年八月未︑大和天諒組挙兵︑同年十月生野挙兵等であったが︑とれらはいづれも幕兵のために鎮定せら

れたのである︒

越えて︑翌文久四年(一八六四)一月将軍家茂はお召により江戸から京都︽到着︑参内して孝明天皇に拝謁したのであるが︑

その際朝廷に十五高俵を献じた︒ζれによって従来三高石の朝廷は一躍十八高石となったのである︒

孝明天皇の勅語及び{辰翰は内容極めて優握であり︑その中においては︑今後朝廷幕府相協力し以て将来に捜夷の大業が成就

せられんζとを望む旨が述?りれたのである︒そして︑元治元年四月︿文久四年二月に改元して元年となる)には朝廷は将軍

家茂に対して庶政を挙げて改めて委任せられる旨の御沙汰を発せられたのである︒

第五節

幕府実力の衰頚

第一項公武合体派の隊散

文久三年八月十八日の政変によって幕府はその絶大なる政治的危機から辛くも離脱するζとができたのであるが︑依然しと

て政治の中心は京都に移ったまhであったので︑幕府にとっては絶えず朝廷をめぐる藩勢力の動向に注視しなければならなか

った︒今や公式合体を主張する薩藩が昨日の長藩に代って︑京都において重きをなすにいたった︒京都の政情は薩長両藩句勢

威如何によってその動向が定まり︑幕府への圧力もそれによって増減されたのである︒'幕府は公武合体論者が京都に在るのを喜んだのであるが︑内心は︑開国和親論を抱いている薩藩に対して激しい反感と不安

の念を持っていたのである︒乙の際幕府も積極的に開国和親論を支持し︑それを実行しさえすればそれは可能であったのであ

る︒しかるに︑幕府は従来朝廷に対して再三︑嬢夷鎖国の実現を致しますと約束してきたので︑それを急変して朝廷の反感を

買いはしないかという恐れと︑世上一般の尊王嬢夷派を刺戟してはならないという考えから従来通り擁夷鎖国を堅持していた

のである︒かくて︑開園和親の方針をとる薩落と嬢夷鎖国を堅持しようとする幕府との聞に阻隔を生ずるにいたるのである︒

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句そして公式合体旅の諸侯は各々帰藩の途につき︑公武A口体派の連衡は再・び解体し︑政局は間滞し︑国政は不振に陥ったので

ある

︒ 第 二 項 禁 門 の 変

さきに︑八月十八日の政変の結果失脚するにいたった長洲藩は︑その後ただ空しく事態の推移毎傍観しようとはしなかった︒

すなわち︑同落藩主毛利敬親はζ・の政変により朝廷から謹慎を命ぜられる身となったが︑しかし︑長洲落としてはこれまで叡

慮を奉じ擾夷の実現にカをいたしたのであり︑従ってかかる誼責の御沙汰に対しては申しひらきやいたしたしと称し︑文︑八

月十八日の政変及びその後の事態は京都守護職絵平容保の策謀に出づるものであり︑彼は君側の好にして除がざるべからずと

称し

これらの名目を掲げて︑長洲藩は遺欧使節の帰り来った閉じ元治元年七月に京都へ出界︑自問居へん﹂迫るにいたったので

ある

れをみるや︑幕府はζ乙に朝旨を仰いで在京諸落に命じてζの長洲落兵表撃退せしめるにいたり︑いわゆる門の変又はζ禁 ︒ 蛤御門の変とよばれるものの勃発となったのである︒先ず戦争は大垣藩兵と長洲勢との聞に始められた︒朝廷からは速に謙伐

すべしとの勅語が発せられ︑元治元年七月十九日には守備の諸務兵と長洲兵との戦が始まった︒

姶御門は会津兵の守備せるところで︑長兵の最も目指すととろであったから︑戦闘最も激烈を極めた︒依って此戦役の総名

を一に蛤御門の戦ともいうのである︒二十日には#腕兵天龍寺に向ったが︑敵は去った後であったから寺を焼き︑会津兵は山崎

の敵を追撃した︒

長藩の真木和泉は今回の挙の主たる首間者であったから︑天王山に止まり︑二十一日会津︑桑名︑彦根︑群山諸藩兵の来り

攻むるや同志十六名と共に火を陣営に放ちて自殺した︒

かくて︑武力を背景にして朝廷内部の改革を断行しようとした長洲藩は大敗を蒙ち︑その落兵は本国へと引揚げるにいたつ

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のである︒二十九日には︑朝廷にては公卿にして長人に通せし嫌疑あるもの数人の参朝を止め謹旗を命じ︑ついで今次の戦乱

に努め︼たる諸藩を賞し︑物を賜ったのである︒

第三項第一次長洲征伐

尊王捜夷の急先鋒として反幕の巨頭たる長州落に対しては文久コ一年八月十八日の酌雰商務問に掃討の識があったのである

が︑討伐に修るという段階までには至らなかった︒

しかるに今や元治元年七HA十九日の禁門の変となり︑長藩は自ら︑禁門へ向って発砲したので︑何と弁解しようとも朝敵で

あり︑幕府にとっては長州征伐の口実を得る絶好の機会となったのである︒七月二十一日より三日にわたる宮中会議

の結

果︑

二十三日を以て追討の勅命が下った︒江戸にては︑将軍自ら軍を進むべき旨を告げ︑紀州藩主を征長総督に越前前福井藩主を

副将に命℃たのである︒更に︑幕府はまた︑比情勢に乗じ︑幕権強化を企図し︑文久二年の大改革たる参勤交代制を復旧し︑

諸候の妻子を江戸に置かしむることとしたが︑諸候は口実を設けてζれに従わなかった︒結局いたずらにその権威令失墜し︑

諸候の反感を招く結果となったのである︒

かくて総嘗等は本営を広島に進め︑副将は此月十一日小倉に至り︑本営会此地に置いて九州諸藩の兵そ指揮するととににな

った

隻しかるに︑将軍親征が布告せられた翌月の八月には︑英︑仏︑米︑蘭︑四国の合計実に十七より成る聯合艦隊が各兵種の ︒

兵約八千名を塔載して下聞に姿を現すにいたったのである︒

そもそも︑長州藩がさきに文久三年下関海峡において外国艦船に対して砲撃を加えた事件に関して︑諸外国はとれより先幕

府に厳重なる抗議を提出し︑ζれに対して︑幕府は皇賞州藩の行動の不当を認め且つ間藩に対して処置に出ヴペきζとを約した

のであっ先が︑その後幕府は容易にζの約束を実行に移さざるため

4 ζ

とにおいて︑四国は遂に聯合艦隊を編成︑とれを下関

士 宮

(6)

七四

に回航し︑直接長州藩に対して砲撃事件に関する賠償とともに︑下関海峡渡航の安

‑ AI

務保障すべきととを要求した︒

かく

じて

ζの巨大なる一軍事力を背景として長州落との聞に交渉がひらかれたが︑それが不調となるや︑彼我の聞に砲撃戦

が展開された︒しかるに︑軍事力の差は如何ともなし難く︑長洲藩は惨憎たる敗北を喫し外国側の提出した諸要求を受諾しな

ければならなかったのである︒

さて︑今回国聯合艦隊の砲火の前に惨敗した長洲藩は頁に幕府待相手として戦梼交えねばならぬ局面にあるのである︒そして︑

幕府の大軍は四境に襲い来らんとしている︒かかる苦しい事態の中で︑急激派は衰え穏健派が長藩においては接頭してきた︒

穏健派の説︑即ち﹁幕軍に対しては一意恭順︑如何なる処分をも甘受し︑以て宗杷ぞ保つの外なしハ尾佐竹猛︑明治維新中巻

五八七﹀﹂という考え方が漸次勢を得て︑藩の要路ぞ交送して此派の者が登用せられ︑終に穏健派の根拠地たる萩に政庁を移

し︑藩主敬親父子もζれに移り︑恭順謝罪の落論に決したのである︒

かくて︑コ一家老の首級を広島に送り︑総督の実検に供した︒更に総督の請求に応じて︑+二月五日毛利敬親は︑家老毛利隠

岐を広島に遣わし︑自筆の謝罪書及び命令の請書を提出し︑寛大の処置を哀願したのである︒ここにおいて︑総督は撤兵を急

ぎ十二月二十七日︑追討諸軍の解兵を令し︑翌慶応元年(一八六五﹀正月中旬︑諸箪悉く撤退したのである︒

かくて︑第一次長洲征伐は長洲藩の屈服をもって終了したのである︒

第六節第一項 薩長連合

第二次長洲征伐

その後幕閣においては長洲藩処罰条件が余りにも寛大で

あって︑幕威を傷つけるものであるという意見が強くなっていった︒他方︑長洲藩においては︑第一次長洲征伐による屈服を

契機として内乱を生じるに至った︒この内乱は極めて注目すべきものである︒それは︑高杉沓作︑山県有明等の下級武士が藩 幕府は第一次長洲征伐において戦わずして勝利を得たのであるが︑

(7)

主勢力に対抗し︑その主導権を確保したととである︒当時︑長洲落においては幾十の軍隊が各積各様の姿で存在していたので

あるが︑高杉等は奇兵隊を組織し︑その隊員を士族たると平民たるとを聞はず採用し︑革命的な組織方法でもって一大勢力を

作り上げ︑議主等に対決し︑主戦論を主張したのである︒

慶応元年中旬幕軍が第一次長洲征伐の兵そ解いて東帰するや︑高杉等は一夜︑八十余人団集して︑罵闘を襲うて︑守備の官吏

を追い︑‑金穀兵器を奪った︒更に機を四方に飛ばしたので︑諸隊中幕府に屈するのを好まない者が先を争って馬

関に

急行

し︑

高杉等の徒党に組したのである︒その数は千三百余人に達したので︑藩主驚侍して︑粟屋帯万︑財満新三郎等に三千余人の兵

を与

えて

ζれを撃たしめた︒しかるに高杉等は勇戦の後︑とれを撃破し︑勢に乗じて山口に進み︑当路重臣数人を殺し︑藩

主を擁して山口に移ったのである︒乙ζ

にお

いて

︑ 一藩の与論は主戦に決し︑重臣老吏悉く退けられ︑政治の実権は年少勇敢

なる志士の手に握られたのである︒しかして︑彼等は幕軍が必ず再び来るであろう乙とを予想し︑英人から新鋭の大砲と小銃

と汽船とを買い︑外面的には恭順を示しつつ︑内においては兵備の充実に努めてい泥のである︒かくして︑幕府に対して弱腰

であった長藩主勢力は高杉等の努力に打破られ︑長藩はおいては主戦論が藩論となったのである︒

長藩がこのような事態にあるとき︑幕府はいよいよ再び長洲を討伐する決心を定め︑慶応元年(一八六五﹀四月︑征討の布

告をなしたのである︒そζで将軍家茂は乙ζに遂に五月江戸を発して西征の途についたのである︒家茂は︑ζ

のと

き︑その昔

に家康が武威を輝かした由緒ある金扇の馬印を掲げつつ老中以下諸侯を従え︑閏五月京都に入り︑孝明天皇に拝謁︑長洲藩再

征の事由を奏上した後︑ついで大阪城に入った︒

しか

も︑

ζの当時にいたっても尚未だ︑幕府は長洲藩の軟化して和識を申し出づぺきζとを暗に希望していたのである︒ζ

れに対し︑長洲藩は今や些一かも妥協の色を示さず︑かくて︑事態は幕府の欲せざると否とにかかわらず第二次長洲征伐の方向

この年の九月十六日に至って︑英︑米︑仏句蘭の軍艦九隻が入港し︑幕

府に

対し

て︑

へと進む形となったのである︒しかるに︑

すでに諸外国との聞に締結せられている通商条約について改めて勅許を得ることを要求し︑若し幕府がζ

の要

求を聞かない場

七五

(8)

舎は直接朝廷に対して交渉を聞く旨を通告したのである︒

諸外冒としては︑最近の幕府の捜夷的傾向を主視し︑なるべく早自に勅許を得てAそれによって条約の拘束力を確固たるも

のにしようという意図だったのである︒諸外国のとの強硬なる態度は幕府をして苦墳におちいらしめ︑当時の世上に非常なる

衝撃を与えたのである︒かくて︑幕府は止むなく勅許そ得るととを決意し︑将軍家茂は第二次長洲征伐を目前にひかえている

とと

諸外国との交戦は現在不可能なるζと等を朝廷に上奏し︑勅許あらんととを乞うた︒それと共に︑内外多事の際不才な

る自分は退隠︑一橋慶喜を代って将軍職に任ぜられたき旨をも上奏したのである︒

当時の朝廷は諸外国が場合によっては京都へ来って直接交渉をなす意向を表明しているζとを聞いていたので︑止むなくζ

の奏請に対し︑勅許の御沙汰を発せられたのであ忍︒そのほかに︑関税税率の引下も併せて幕府は諸外国の要求通り容認した

のである︒しかるに天皇は将軍がその職を辞するのを許さず深くζれを慰撫したので将軍はまたその職に留まったのである︒

ζに︑注意?ぺきζ

とは

ζの慶応元年十月における通商条約勅許を境として︑わが国内における援実熱はょうかく下火

となっていくのである︒幕府朝廷︑長藩及び薩藩等はとれまでの経験から捜夷鎖国の不可能なるととぞ痛感したからである︒

西洋諸国の軍事力に圧倒されてしまったのである‑︒

さて︑かくのどとく諸外国との聞の勅許問題等についての接渉が落着するや︑幕府はいよいよ懸案の長洲再征の件をとりあ

げ︑諸侯に対して派兵準備を命じた︒しかも︑幕府はζの期にいたっても尚依然として長洲藩が和解を申し出るζとを暗に希

望していたのである︒

第二項議長連合

この

xつに幕府の態度が動揺しつつある聞に︑幕にとって極めて重大なる事態が秘密裡に形成せられていたのである︒それ

iま、

﹁薩長連合﹂であった︒そもそも︑薩藩は始めより討幕の意志はなかったのであ名が︑薩藩の公武合体のために尽力した

ζとに対して幕府は余りにも冷淡であったので︑亦開国和親を主張する薩藩は従来幕府の実現せんとしてきた捜夷鎖国に対し

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