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名 材 本 会 は 山 口 地 理 学 会 (THE )と 称 する 目 的 本 会 は 地 理 学 の 研 究 とその 普 及 発 達 をはかる 乙 とを 目 的 とする 3 事 業 研 究 会 講 演 会 巡 検 会 の 開 催 会 誌 などの 刊 行 zi 判 その 他 本 会 の 目 的 を

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1981 年 12 月

【研究】 山口県大津郡雨乞台の山林苗木生産 ………ーで……川村博忠…

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中学校社会科地理的分野「世界の諸地垣むの指導例・…~ ・三好達人…

7

【紀行】 中国への途 ………...・ H ・...・……… H ・ H ・J……ー松村亮一… 11 【学 A

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史】 山口弛理学会史余話(

3

)・1.1..1L・ h ・_'"・E…...・ H ・...浜田清吉… 15 【資料】 向津具半島の巡検察内 …・…………セ…...・……...磯部征義… 18 山口県下における条里遺構の分布 ..n…・nn ・- -町J・・L 三浦 肇

2

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【学会記事】 136 回大会、秋季巡検会など y………・・・- ~………...

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【山口地理学会会誌文献目録】 山口地理学会年報(

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地理学

会内

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名 材、 本会は山口地理学会 (THE

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)と称する。

2

目 的 本会は地理学の研究とその普及発達をはかる乙とを目的とする。 3 事 業

l

研究会・講演会・巡検会の開催 zi判

2

会誌などの刊行

3

その他本会の目的を達成するために必要な事業

l

会員は本会の主旨 iζ賛同し、所定の会費をおさめるものをもってす る。入退会は役員会の承認を要する。

2

本会 l乙対しとくに功績のあったものを総会の議決をもって名誉会員 に推薦する ζ とができる。 会員の互選によって会長 1 名、副会長 2 名、会計存在査 2 名、常任委員若 干名をおく。 会長は本会を代表し、常任委員会は会務を処理する。役員の任期は 2 カ 年とするも再任はさまたげない。 6 会 議 本会は毎年 1 回以上総会を開いて重要事項を議決し、随時役員会を開い て運営事項を審議処理する。 7 年 度 本会の年度は 6 月 1 日から翌年 5 月 31 日までとする。 8. 事務局 本会の事務局は山口市大字吉田 1677

- 1

(3)

〔顎究 7 エリア山口第 11 号

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1

県大津郡関乞台の山林高木生産

1

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践を5 舎の議 出淵JII の費流する油谷f民地の北側に、東の二子畳 敷より雨乞台、!j、白地挟ぞ経て向津呉半島へ連な る、比較的山頭部の平坦な玄武岩山地が東西に横 たわっている。地形分類上は臼霞丘陵、蔵小田丘 段、向津主主丘陵 i乙区分されるが、 ζ の一連の丘陵 役山地は大津丘援とも総称、される。 乙の一連の山地の基盤は日置層群、油谷j露群と 呼ばれる砂泥質の第三紀層から成り、その地震を 切るいくつもの街層緩 l乙沿って火山が噴出し、山 麓部をのぞき、rz:く玄武岩の溶岩が被覆したもの と考えられる。千畳敷はその地名の示すごとく、 山頂一帯がきわめて平視で、北側は海食の急震で 海 i乙臨んでいる。 これにたいして、雨乞台は向津呉半島とともに 起伏は比較的ゆるやかであるが、丘陵性の地形を 卒している。雨乞岳(

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m )を最高として、そ れをとりまく高度 200 ~

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m の小起伏の丘陵地 である。 ζ の謂乞台は、行政包域上では主として 大津郡日置町に箆し、西側の一部は西隣の馬郡油 谷町 lζ及んで、いる。 雨乞台の開括地は油谷低地を克下す雨乞岳の南 斜面に位置していて、白置問了の中心部である古市 からは北西方向、泊谷町の中心部である人丸から は北東方向に、その開拓集落与をはっきりと望克で きる。雨乞台開拓地へ至るルートは日罷町古市か 向漆兵半島 関 l 南乞開拓地位霞顕 *山口大学

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5km 長門市

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村博志*

ら池谷町津策へ向う操選古市一久津線を北上し、 念、 ζ う配道を登りつめ、野田の祭器で左折して県 道と分かれれば、屈曲の多い一本道が開括地へ通 じている。古市より約 5 km の距離である。 爵乞台を中心とする玄武岩台地の局辺は、地す べりの多発地帯として知られている。 江戸中期の鑓纂になる『風土注進案 j でも「大 津'1m蔵小田村(現在、油谷町の内)由来書J の中 で「窮久保と申は此所五七了も上より年々海へ崩 込申ニ付j と記述されるなど、 ζ の地域では宙く から地すべりが顔発してきたものとみられる。 ζ の地域の地すべりは基盤の第三紀層と、それを覆 う玄武岩の境界付近で発生している。盟結性の弱 い第三紀層の砂岩・霊祭岩・翼岩などが水分を含ん で地すべりそを起 ζ すもので、古生代、中生代の臨 結堆穣物 lζ比べて軟弱である乙とが原臨と考えら れる。関乞台ではとくに日本海に商した:l t斜面に おいて土佐すべりが多く発生している。その台頂部 は地すべり地帯には含まれていない。 関乞台の土壌は赤色を帯びている。玄武岩を母 岩として生成された粘賓の乾性土壌で、赤褐色系 の褐色森林土 iζ分類されている。台地上や山腹の 自斜面はアカマツ林の様生を主体とし、第 3 紀層 よりなる山麓部は農耕地として利用されている 0

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雨乞台の罷拓 山口県は昭和 21 年(

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)、大津郡日置村の 野田と中;切地区(その後分村して現在は油谷町に 関する)の題にある標高 230 m 前後の山間林野( 雨乞台)を開拓地 K指定して、希望者を入揺させ た。敗戦により朝鮮、満州方面より引揚げ、イ山崎 港へ上陸した引揚者らの議顕が容れられたのであ る。 当時、雨乞台は原野が一部放牧 iζ手IJ 用されてい たほかは、うっ斎たる山林が広がっていた。 ζ の 山野の大部分は尽龍村の村有地であった ζ とから、 県はその一部分と若干の私有地を含めて買収し、 ζ れを開拓地にあてたのである。

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入憶者は当初、雨乞農事実行組合を結成して際、 村などの行政当局との折衝にあたり、入鰭手続き を進めた。昭和 23 年(

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)

11 月に歪り、入績 農家 16 戸により雨乞開拓農業組合が設立され、正 式に開拓農政下に組み入れられた。そして、開 48

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)

3 月に留の間話農政の改蕗1上Jζ伴い、 雨乞開鮪農業総合は解散した。 ζ れによれ雨乞 地区は 25 年間続いてきた開拓地としての行政上 の指定をとりはずされた。 その問、 ζ の開拓地への入植戸数は最も多いと きで、昭和 24 年(

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)に 141=乏に透したが、そ のあと徐々に離農して他地へ転出し、開拓組合解 散時まで残ったのは 7 戸であった。声数毅多時の 出身線内訳は福詞県 4 、山 r:::n泉 4 、富山県 2 、熊 本@大分 a 福島および大阪府各 1 であった。 5奇括 土ll1指定j解除のあと、前乞地区の農家 7 戸は一般農 家として自立し、営農をつづけているが、現在で は県下でも有数の山林用語木の生産地として知ら れるようになり、 は安定するに至ってい る。 生活環境の笠儀 雨乞地区における入植者の生 活は最初、どの開詔土訟においてもみられたととく 苦難の多いものであった。家屋は丸太組みかや蓬 き、灯火はお油ランプ、風呂はドラムかん利用と いった状態であったが、関墾による耕地の拡大が 進むにつれて生活条件は次第に改善されていった。 昭和 25 年(

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)には穏灯がともり、入植以来 4 年間のランフ。生活より脱している。県、中国電 力と折衝の末、各戸 1 万円の負担、電柱設置、資 材運搬などの労力提供を条件に、 ζ の地区に電気 が導入されたのである。さらに時年 i乙は雨乞地区 へ郵便物が詑達されるようになった。それまで、 開地区では約 2 km離れた中燭地区に私書箱を設け て、各戸当番で郵便物を受けとりにゆき、各戸 iζ 寵っていたが、各戸が簡易保険に加入するという 局側の希望条件ぞ受け入れる ζ とにより、郵便物 の各戸説透が実現したものであった。 昭和 27 年(

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)には野田地区より約1. 5

km

の区間に嬬 2m の砂、利敷き込みの雨乞開拓農道が 完成した。その後、 ζ の農道は村道に移管され、 昭和 53 年(

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)

1乙全面舗装されて、交通は手IJ {更になった。また、昭和 25 年(

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)のルース 台風により雨乞地震では家援、納長還など建て物の ほとんどが倒壊したので、その翌年ごろより徐々 lζ本建築の住宅や農舎が建設されはじめ、その頃 より各戸でボーリング工事による簡易水道が普及 し、生活用水の不自由さも解消された。 分村縄態と行政所属 雨乞地区は当初、日皆 村蔵小田の中熔地涯に付属していた。昭和 29 年

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)

5 丹、隣接の油谷村が町制ぞ施行したと き、蔵小田は日霞町より分村して油谷町に合併さ れる ζ とになったが、罰乞罰拓地は住民意志によ り、中;期地区より分離して日霞村にとどまる ζ と lζ なった。したがって、それ以降、雨乞開拓地は 行政震域上、日霞村雨乞地区として自立し、村末 端行政の一単位となった。 f:f:í乞地区の開拓は県より小 農機兵貸付資金の借り受げによる銭、鎌、鋸など の鰐入により出発した。入植者の多くは農業未経 あったため、山林原野の鰐墾 iζ勧 県の技術者、農業改良普及事務所、近務農家の指 を受けて、農業技術の習得に努め、話行錯 誤の生産活動が開始された。 入槌者の 1 戸当り塁手j り~て開拓農地は最初~

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であったが、その後、離農者用地や総合共有地の 分言語再配分により、昭和 48 年(

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)の組合解 散時における各戸の所有地は約 4

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(耕地 2 ha 、 山林用地 2

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)となっている。擦の指導による最 初の営農方針は姻作と和牛生産を臼的とした。畑 作物ははじめ、自給照食物生産に力を入れ、陸穏、 甘藷、馬鈴響、一般野菜などを作付けたが、県か らの貸付金、手当ては不足がちであったため、現 金収入の必要性から共間の議負賃仕事にでる一方、 植付作物も次第に煙筆、はi林用苗木などの換金作 物の生産 lζE重点が移っていった。耕地拡大にとも ない、西瓜栽培をはじめ各種の果樹栽培、とくに 温州蜜柑に着目し、各戸 2---3 a ずつ栽培を試み たが、販路の点で先進地 iζ対抗できず、失敢に備 している。他方、黒毛和牛の飼育、養鶏などの導 入を国り、混合農業への活路をも摸索したが、い ずれも成功せず、結局のと ζ ろ山林高木の生産に 落ちついた。 原野の開墾を進める過程では関自にも努め、 1 り 2 アール程度の水田を確保してからは水稲 の備付けで米の自給が可能となり、焔地での陵縮 栽培をやめて、主として山林吉木の生産拡大が国 られてきた。昭和 25 年(

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)以降、約 10 年閣 にわたって県費補助による耕地の土壌改良(炭酸 2

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-カルシウム、溶燐剤の投入)が有効であった。 畑地および水間耕作には各戸で、役牛を使用して いたが、耕地拡大にともない、作業の能率化のた め、昭和 39 年(

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)に共掲示i 用の耕怒機 l 台 した。その後、各戸ヨで逐次耕証機の鱗入が 進み、更 ;ζ トラクターの導入があり、 械化するに至っている。

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出勢鶏謹主主の

は機 しての特急 雨乞関拓i訟での土 地利用は ~2 のごとく、煩による苗木の生産 体としている。しかも、乙の地霞では昭和 56 年

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)現在、会耕地街霞約 14.7 ha のうちの 56 労に椙当する 8.2

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(次年度用苗嬬休耕地を含む) までが杉、桧(ひのき)などの山林局菖木:阪で占 められており、山林湾高木の生産菌効としての特 色号をみせている。また、本地区で生産される草木 ;之、専業生産者による総心の栽培管現と、苗慣の 適震の傾斜による水はけの良さ、台地南斜面のた めの鶴~り、風当りなどの条件に恵まれて、その 根張りの良さ、根元径の太さ、苗質の留さなどの 点で評価与を得ている。 前乞関話土ili において山林局面木の生産が開始さ れたのは、昭和 27 年(

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)ごろからであった。 県豊田林業事務所の指導と日置村森林総合の支援 ぞ受ける一万、県内外の先進生産地の現地視察に よって、高木生産の知識向上と栽培技術の習得に 努め、 させていった。 苗木の販売は最初、南乞開拓農業組合で共同出 荷ぞ実施したが、間組合での苗木生産、出荷には 林政とからむ農政上の問題もあったため、昭和 34 年(

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)

に関組合とは jjlJ (C雨乞山林樹苗生産 組合を発足させた。関年、山口県森林組合連合会 と委託菌盟契約そ結び、山林用語木の本格的生産 と販売の基盤を確立ーした。山口県内における山林 周苗木の主禁生産地としては、 ζ の雨乞地区以外 にも長門市深 111 上の原地臣、萩市大井七霊地区、 美祢市於福、美総郡美東町赤郷、問j武郡関東町徳 佐などが知られる。しかし、雨乞地区は地l2i内全 戸がその専業であり、生産の団地化、委託宙留と E高木矧 長二二二二二二司

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世h埼グ‘ 喜毒装道路 ~埼~ 未舗装道路 路 。

500m

詮12 謂乞関諾地の土地利用 (戸谷裕子作成) 3

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-いう点では他花開をみない生産地としての特色ぞ 有していて注目される。 生産拡大と現状 認乞地区における山林用高 木生産の種別、規模およびその変動は表 1 、表 2 、 霞 3 の通りである。生産される富木は杉、桧、松 の三種類 lζ 限定されている。生産規模を昭和 34年

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)震と 56 年(

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)度にて比較すると、 訟詰の植付けは約 66 万本から 4.8 万本 i乙激減した のに対して、桧苗は約 18 万本から約 160万本へと、 およそ 9 倍にも及 R、増加をみせていて注目される。 杉詰は約 34 万本から約 19 万本へと減少している が、その変動は松、桧ほど著しいものではない。 雨乞地匹における山林用高木生産の主体は、初 期の設階では松であったが、近年では桧iζ かわっ ている。外国からの松材の輸入増加と、閣内の山 林で近年、松喰い虫による被害が甚大で、 ζ れに 対する有効な訪徐が期待できない ζ とから、山林 で、の松茜植付けが激減している。全盟的に松の植 林にかわって桧の植林が増加した ζ とから、山口 県でも桧蔀の需要が増し、地元での菌木育成が簡 に合わず、一時的には県外からの移入に頼らぎる ぞ得なくなった。 ζ のような事t情から、雨乞地区 でも松苗にかわって桧苗の生産増加が霞られるに 至ったものである。

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雨乞地区の山林高木横付け お痘 付

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本 数 年慶 杉 松 ひのき ~t

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344.100 本 659.100 本

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ーム一一明申 表 2 雨乞地症の山林苗木得苗 f辱 菌 本 数 年度 杉 松 ひのき 計

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124.200 本 469.600 本 178.800本 772.600本

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注) 1981 年度は得苗目標本数 4

200

150

100

50万 臨 3 雨乞地区の苗*績付け本数 (福本賢一作成) 桧商を中心とする苗木生産の増加に伴い、近年 では耕地不足が生じている。また、開墾地が授に 20 年余にわたる苗木生産のため土壌の老化が目 立ち、近年では得苗率が低下している。土地不足 の解消と新しい苗畑の確保のために、雨乞地区で は昭和 44 年(

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)に雨乞台地内の隣接した村 有効 3 ha を借地し、ブルドーザーによる開墾をお ζ なった。新しい開墾土訟のうち比較的傾斜のゆる やかな土地 1.5 ha を苗木:切にあて、傾斜のある残 り1. 5 ha は苗木畑としての利用が難かしいため、 祭樹園(葉地)として利用している。 葱木の栽培方法 山林用苗木は、春先 2""__3 月頃 l乙種ぞ播き、その 1 年後に育った稚苗を選J.ll] して、 2 年生育成苗として移植し、その 1 年後 k ÚJ 行苗(販売苗)として出荷主れる。松と杉の高 木は 2 年生苗木として出荷されるが、桧にかぎっ ては 2 年生山円苗もあるが、 2 年生育成苗の植付 け後 1 年を過ぎてから、さらに 3 年生育成蕗とし て移績され、その 1 年後に出荷される 3 年生山行 苗もある。 つまり、山林用笛木の生涯は、播撞から山 fi苗 (販売苗〉として出荷されるまでに 2....__3 年の期 簡を必要とする。単年作でないため、苗木生産の 苗畑は稚苗用、 2 年生育成苗用、 3 年生脊成苗用 i乙次年度播種用休耕地ぞ含めて、翰作的 lζ利用さ れている。各段階の苗木育成のための畑地の土地

(7)

利用配分および各生産量は、毎年間定的なもので はなく、主として自然的影響 κ よる各段階育苗の 生産状況によって、関連的に変動する。 すなわち、播種後の稔菌の育ち具合で 2 年生育 成苗の植付けが左右され、育成語の生産義により 3 年生出荷沼苗木の生産議が決まるという関係が ある。また、土地科用配分の函からは、育成芭の 生産をふやせば出荷用苗木の生産が犠牲となる。 しかし、その代わりに次年度には出荷萌生産がふ えるといった関係がある。高木の成育期にはとく 、病害、虫害の防止に万全の管E擦が必嬰で ある。得高率は樹種によって者二子の相違があるが、 一般には植付けた苗木(原苗)の 2'"'-6 割、平均 して 4 割程度である。毎年安定した出荷苗生産の ためには、播種、殺菌、育成苗の生産管理と、 畑の土地利用自己分 iζ廃到なる計闘i性と都心の注意 れる粘りのある赤土が存在する。 ζ の下部土壊は 主として鮮新伎の玄武岩が風化して生成された土 壌である。腐植表土は肥沃で高木の生産主 lζ適して いるが、下部の赤土は耕土としては不適である。 腐績表土!霞の堆援の厚さは、深いと ζ ろで 20cm ぐらいであるが、傾斜の大きいと ζ ろでは堆積が 薄い。雨乞地区では長年の耕作によって、 ζ の腐 様表土の土壌流出が徐々に進んで生産条件の低下 をきたしている。一万、傾斜が緩やかで土壌流出 の比較的少ない場所では、関懇年次がð く、長年 にわたる連作のため、地力消耗が著しく連作障害 が生じている。 ζ れらのための対策として深耕すれば、下部土 壌の混入が増し、初年度は生産効果があがっても 地力抵下は早いようである。地力減退を補うため、 化成日酔ヰを主体とする化学記料を使用するほか、 が要求される。 鶏糞などの有機肥料を投入しているが、 ζ れに伴 生産よの問題点 発展してきた雨乞台の高木 って根切虫(黄余虫の幼虫)の発生や根ぐされな 生産も、近年に至って土境流出、連作による地力 低下などいくつかの間題に直面している。雨乞台 地上には黒い腐植土が広がっており、 ζ の表土の 下部には赤褐色z系の粘質乾性掲色森林土 i乙分類さ どの問題が派生している。 土壌条件に恵まれた開墾適地はほとんど開墾を 終えた乙と、また近年のごとくブルドーザーで大 規模に開墾すると、表土が押しやられ、また下部 畑 菖 の ム口一 乞一

雨寸

(8)

表 3 山林苗木の販売規格基準 樹種 続格

1959

1976

苗令区分 苗 長 根元荏 単価 一回+子ー 根フじ径 単価

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赤土の流入も多く、苗木生産にとって条件のよい られるようになっているので、今後は優良苗木生 畑地の確保が次第に困難になってきた。さらに、 産をめぐる産地問競争は強まる ζ とが予想される。 苗木生産には乾燥期の水かけが必要であるが、詰 (本高の作成にあたっては、前雨乞開拓農業協同 畑全域に十分な司潜水のできる施設の整備が将来の 組合長高木友彦氏に種々教えをいた Tごいた。 ζζ 課題であろう。 Iζ 厚くお礼を申し上げる。) また、今後は産地問競争が一周強まるであろう。 表 3 の山行詰の販売規格基準による苗長、根元径 の変化をみて分るように、近年は各産地での擾良 諾木生産の努力の結果、以前にくらべるとはるか に優良な大高が生産されるようになった。水稲F の 生産調整に伴い、{休耕田での山林用語木生産もみ

- 6

参考文献 。土地分類基本調査(伊!J}

1

1

.仙崎)、山口県、

1

9

7

6

2) 雨忽開括史(タイプ冊子)、雨 z開拓農業 協同組合、 1979

(9)

エリア山口第 11 号

1

9

8

1

中学校社会科地理的分野

f世界的藷地域J の指導部

1

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はじめに 昭和 52 年に改訂された中学校学習指導要領に 基づく新しい教育諜程は、今年産(昭和 56 年) から完全笑施され、各校で臼々実践されている。 新しい指導要領に基づく社会科指導の最大の課題 は、内容の精選であるといわれている。地理的分 野において、内容の精選と深くかかわって、大き な関心を集め、論議をよんでいる ζ とのひとつが f没界地環先習 j である。 世界地理先習とは、従 来の内容構成の I1負序を大きく改訂し、 f世界の諸 地域j を f 日本の諸地域j よりも先に学習(第 l 学年で扱う)させるという乙とである。 今回の指導要領では、内容の取り扱いの順序が 明確に示されている。そ ζ で「世界の語地域j を 先に学習させる乙とをめぐって、その効果やさま ままな問題点が議論されている。 ζζ では、そう した議論に深入りする ζ とが目的ではない。 I世 界の務地域j の指導にあたって、どんな乙とに留 意し、その指導をどのような点で従来とかえてい るかなど、実践の一部与を報告する ζ とにした。

2

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世葬地理先留をどうとらえるか

世界地理先習について、どのようにとらえてみ たかをまずのべておきたい。中学校社会科指導警 の地盟的分野の 41 内容の取扱い J の中で、乙の分 野の内容構成とその取り扱いの準序を示している。 そのような取り扱いをする理由についても、その解 説の中で触れているが、私は ζ れを次のようにと らえてみた。 世界地理先習となったのは、ひと ζ とでいえば、 今回の学習指導婆領改訂の主旨を生かすという ζ とであろう。 第一花、地理的分野の白擦は 111= い視野 iζ 立っ た我が国土に対する認識を養う」乙とである。つ まり、器土認識に主体がある ζ とをより明確にし *山口大学付属山口中学校

三努達人*

たと考えられる。 ζ の回擦を達成するための効果 的な内容構成という立場を手考慮するならば、世界 の諸地域を先に学習する ζ とによって、その効果 ぞあげる ζ とができるといえる。 には、地理学習の一震性という立場からと らえる ζ とができる。地理学習は、小・中・高の 各校種目 IH乙完結されるものではない乙とは暁らか である。今回の改訂でも、小・中・ さけばれている ζ とから、また、地誌学習を継続 的に進めるという考え方からも、小学校の学習の うえにたって(今回小学校では、 「特色ある気候 的条件のもとで生活している世界の人々の様子J を省略している)、中学較の最初(第 l 学年 H乙 世界の諸地域を学習させる ζ とで効果をあげる乙 とができると考えられる。 第三に、教科構造から、歴史分野との関連を配 慮する乙とによって社会科のねらいにせまる ζ と ができる。罷史分野との関連をはかるために、世 界1出現先習は重要な意味をもっている。 もちろん、 ζ うした披界地理先習のとらえ方に は、指摘されているような問題点、疑問点もある 0 {7IJ えば、学習が身近でないだけに内容が高度とな りやすく、第 l 学年の生徒には困難である。また、 関心円的地震学習に慣れてきた ζ とからくるので あろうか、 「自閣の地理を毘解せずして世界は理 解ーできないJ という意見もある。しかし、いずれ も、新しい指導要領の主旨を十分理解した意見と はいえないのではなかろうか。新しい教育課程の 主旨を十分生かすためには、私達の中 I乙定着して いた内容構成 i乙対して、発想の転換が必要となっ てきていると患う。

3

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I 世界の諾地域 j の指導にあた

って 新しい教育課程の主旨を生かし、大きな発想の 転換をはかるには、内容を吟味し、どのように位 霞づけるかが課題である。 世界の諸地域の指導計画をたてるにあたっては -7 ー

(10)

⑪ その根底となる社会科および地理的分野の指 導を通して、生徒にどんな力をつけてやりたいの かを明確にしておく

@

社会科の目襟、地理的 分野の目標を分析し発達段簡に応じた指導の中心 課題を明らかにしておく一 ζ とが大切である。 @については、社会科指導の基本にかかわる ζ とであり、教師の構えとして明確にしておく必要 がある。そこで、わたしたちは、社会科を通して どんな力をつけてやりたいと思っているのかを、 より細分化し、具体的にとらえてみる ζ とにした。 ζ の乙とについて、わたしたちは、ひとつの提案 を試みている。 そのうち、地理的分野でつけたい力をどのよう にとらえているかを以円ζ 例示してみる。(詳し くは、附属山口中研究紀要 25 号参照の乙と) ①地理的分野でつけたいカ 「地理的見方・考え方の基底を培う J そのためには、「地方的特殊性の背後に隠れ ている一般的共通性を理解する能力を養う j 乙 とが大切でゐる。 ζ れをさらに、次の二面に分 けてあげてみる。 <特殊性の側面から> ア 地援の特色を他地域との比較・関連で とらえる。 。位鐙が明確にいえる。 ll) 。分布から特色がいえる。(1) 。景観の特色がいえる。(1) 。白然(地形、気候[)の特色がいえる。(1) イ 地域の諸事象の特色を生み出した地理 的な諸条件について考える。 。自然的な諸条件があげられる。 (1) 。自然的な制約があげられる o (2) O ÍÎi.認についてのつながりがあげられる。 (2) 。絞史的なものとのつながりがあげられる。 (股がなく、(1)

)

(2) 。経済原目 1) とのつながりがあげられる。 (自授がなく、 (1)) (2) 。政策との関係に般がむく。 (2) く一般性の倶tl 道iから> ア 地域間の招互依存関係や競合関係について 考える。 イ 自然及び社会的条件と人間との関係につい て考える。 。生活の安定、向上との関係でとらえる。 (2) o 異体的 l乙生活体験が怨起できる。 (2) ウ 地域の変容に気付き、その動向や意味につ いて考える。 。地域を流動的な見方でとらえようとする。 (2)

(

{

I

)

主とじて I 鞘向山\ (2) ……主として 2 年時につけたいカ/ ζ のつけたい力を背景におきながら、世界の各 地域の内容を扱う ζ とが大切と,思う。 ⑬については、生徒の社会認識の仕方、相違点、 特 lζ 、地理的な克万・考え方の発達 i乙学年差より も個人差が大きく、多くの困難点がある。第 1 学 年で世界の諸地域を扱うという ζ とからすれば、 地理的分野の包際、(4) を重点化した指導がよいので はないか(上出英昭:東京教予言研究所)といわれ ている。即ち、地球の表面 I乙住仕様々な人々の生 活様式と自然とのかかわりで重点化し指導してい く ζ とによって、中心諜題が明らかにできるとい う ζ とである。それは、小学校で省路された内容 も継承できるし、学習を通して世界の国々の特殊 性や共通性の理解が詫進できると考えられる。そ の結菜、地践的見方・考え方の基礎を培う乙とが できる。 そのf1~1ζ も、指導計画をたてるにあたっては、 地域の重点化やその配列の問題、震史的分野との 欝速なども考えなければならない ζ とはいうまで もない。

&

士宮詳の諮地域

一東高アジアの罰々の指

「世界の諸地域」の扱いにあたっては、前記の 乙とをふまえたうえで、① 国土認識に基本があ る乙と @ 地域の特色を明らかにする乙と の二点から、 1 年生では臼本との関連を考えてみ る乙とが大切であると考えている。では、具体的 。他地域の特色と原則がいえる。 (2)

I

にどのような扱いをしているかぞ、東南アジアの

。事象の底に流れている原則がいえる。

(2)

I

霞々の第 2 時、さかんな稲作(タイ)の実践例で

8

(11)

-報告してみよう。 東南アジアの人々の生活は、日本と異なる地域 的環境の中で営まれている。しかも、熱帯という 日本にはない自然環境の地域を初めて( 1 年生の 5 月中旬)扱う乙とになる。そ乙で、前記 3 の@ をふまえて、東南アジアのそンス…ン気候やデル タの生活を稲作農業(タイ)との関連でとりあげ、 臼本の自然や揺作農業とも比較させながら箆解さ せる ζ とを震設してみた。それは、東南アジアが、 日本と貿易や経済で比較的結びつきが強い ζ と、 地理的 iこも jlr い ζ と、陪じモンスーンに属し、 作文化簡を形成するとと。しかも、日本と異なる 熱帯地域にあるという乙とから、日本と比較する ζ とによって、わが患の国土に対する認識を探め るでがかりとする ζ とができると考えたからであ る。また、日本と還った環境条件のもとで生活し ている人々を援解し地理的な見万 e 考え方の基礎 を培ううえで有効である。 乙の授業のねらいにせまるには、小学校 5 年時 の学翠指 したわが国の農業とも比較、関連させなが ら、気候と土地などの結びつきを明らかにする ζ とが大切となる。地理的介野でつけたい力もふま

えながら、事実の確認をし、話'作の条件との関係

を具体を通して考察させ、自然と強く結びついて いる乙とをおさえる。 従来、 2 年時で扱っていた時には、タイの稲作 の特色を、総合的に理解させる ζ とに力点をおい ていた。つまり、より地域らしさが明磁になるよ うに心がけていた。 WII えば、筆備の経済支詑や留 民性、さらに農民の生産;意欲といった ζ とにも触 れて、総合的に考察させるようにしていた。 1 年 時で扱う場合、複雑、高度になりすぎることをさ げながら、地域性を究明させる中で、地盤的な昆 方@考え万の基i透与を培う乙と をおくように している。そこで、さかんな稲作(タイ)の翠業 では、主銀および援'業の遜患を次のようにしてみ 7こ。 (1)

:

t

緩 タイ ζ の地域のそンスーン気設と沖讃平野などの自然環境と強く結びつ いているととらえ、日本の稲作とも比較・関連させながら、説明する ζ とができるよう ;こする。 (2) 授業の過程

日筒寺

学習的容 子旨 導 過 程 指導 j二の留意点、

5

'

① 東濡アジアの ① 東南アジアの国々の産業の中心が縫主義 ① 地域の人々の生活と強く結びつ 国々 である ζ とぞみよう。 いている稲作をとりあげる ζ とを -米が主産物 -代表的な農産物とその生産がさかんな おさえる。

ð かんな稲作 地域を調べてみよう。 <地図様> -資料からもタイの産業の中心が -タイ・ヒツレマ -タイの稲作農業は、日本の稲作とちが 稲作である ζ と κ 気づかせる。 うのだろうか。 -臼本とのちがい与を予想主せ、本 (本時の諜題) -どんな ζ とを調べたら解決できるか。 時の課題を意識化させ、意欲を 高めたい。

1

0

'

② さかんなタイ ② タイでさかんな穏作のようすを調べて ② タイでさかんな穏作のようすを、 の稲'作 みよう。 資料や写真でできるだけ具体的に -米の生産高 -どれくらい、ど ζ でさかんなのか認ベ つかませたい。その際、できるだ -メナムデルタ ょう。

<OHP>

け、日本の稲作についても思いお -雨季 -どんな稲作農業がおとなわれているか ζ させておきたい。 -一期作中心 調べよう。 -稲作地域の{佼鐙・分布・景観与を -浮き稲 -タイの農翠騰や浮き穏について説明を, はっきりつかませたい。 力日える。 <資料> - 9

(12)

草寺 学習内容 指 導 過 程 指導上の留意点 筒

2

0

1 ③ タイの穏作と ③ どんな理由があって、タイでは穏作が ③ 生徒の思いつきだけでなく、稲 自然条件 さかんなのか考えてみよう。 の栽培条件との関係から考察させ -穏の栽培条件 -メナムデルタで稲作がさかんなのはど る。そして、空イの稲作が自然と -タイの自然 うしてだろう。 強く結びついているととをつかま -栽培条件とタ -穏の栽培条件を説明しておζう。 せたい。 イの自然との

.

_;Iナムデルタとバンコクの気候との関 -栽培条件は、簡潔に説明する。 関係 係から考えてみよう。

<OHP>

-②での学習をふまえて考察して 年中高重量 -メナムデルタと土地条件との関係から いるか令チェックする。 モンスーン 考えてみよう。

<OHP>

沖積平野など

1

0

1 稲作の問題点 ③ タイ(メナムデルタ)の稲作の問題点 ③ タイの稲作の問題点を、②、③ と自然 を考えてみよう。 で学習したζとをもとに自然との j)> んカf い -どうして一期作なのか。 結びつきそ中心に考えさせる。 @低い技術 -どうして単位扇積あたりの奴王室が日本、 -社会的条件にはあまり深入りし -めぐまれすぎ 韓国と比べてほいのだろう。 ない。 ている自然 -他にも問題がある ζ とを補説する。 5 1 ⑤ タイの稲作農 ⑤ タイの穏作農業は、臼本の稲作と比べ ③ ②、③、③の学習号をふりかえり、 業の特色 て、どんな特色があるといえるか。それ 日本との抱違点、共通点を明らか まとめ はどうしてカ〉まとめよう。 にしながら、自然との関連を中心 -次E寺の予告、最近の動向についてもふ にまとめる。 れる。 授業をふりかえってみると、多くの問題点や罰 難点もある。 例えば、地域の特色を明らかにするといいなが らも、社会的、謹史的条件には軽くしかふれてい ない。自然とのかかわりに重点をおいた指導は、 指導上、担点がはっきりして都合はよいが、地域 性の究明において恩難点も多い。また、 l 年生で 扱う場合、社会的、歴史的条件をど ζ までとりあ げるのがよいのか。あまり深入りする、あるいは 多くの条件をとりあげると複雑、高度な地理学曹 となりやすく、生徒に地理はむつかしいという気 持ちをもたせてしまう危険性もある。 さらに、 1 年生においても、偶人差が大きく、 乙れまでにもっている知識はさまままである。そ の差の大きい生徒を授業の中でいかに扱えばよい のか。とりわけ、世界の人々の生活や自然などに ついての知識・興味・関心の個人差は大きいよう に思われる。一方、内容の精選との関連で、内容 を削りすぎていないか、あるいは逆に、加えすぎ ていないかという不安もある。なお、土lh域らしさ の究明と地理的な見方・考え方の基礎を培うとの 関連をどうとらえるかといった ζ とも考えてみる 必要がある。 乙の指導を通して、生徒は、日本の稲作と比較 .関連させてとらえる ζ とはかなりできたものと 思う。しかし、タイの稲作らしさぞ充分理解しえ たかという ζ とについては疑問が残った。しかも、 東南アジアのタイという障の地誌的な把握には問 題が残ったように思う。位界の諸地主棄を指導する とき、はたしてどのような観点でとらえていけば よいのか迷っていると乙ろである。 世界の諸地域をどのような扱い万をするのが、 改訂の主旨を生かし、しかも地開教育の立場から みて望ましいのか、実援を進めるなかで究明して いきたい。(本報告は山口地理学会 136 回大会で 発表したものをまとめたものである。)

-

10 ー

(13)

(紀 行〕

^

1

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中国への逮 「東南アジアより多大の成果を土産にと帰国の ζ とと存じます。エリア山口のため是非紀行文を 顕います。 J と私の録松と同時に繍集係より手紙 が閥きました。今聞は文部省 352 教育視察聞の短 期派遼渉外係として、中国、マレーシア、シンガ ボールのコースに参加させて戴く栄誉に浴したわ けですが、地理的な研究視察には限度があり、回 として全体の雰由気を作りあげる役目もあ ったので、自分の等門をある程度遠慮せぎるを得 ず、よって気が重いまま、拙いペンをあえてとる にしました。 実は今屈の旅は北緯 36 。の済南市から赤道まで 南北道のある旅諒でしたので資料の多くを持歩く ζ ともできず、今ペナンから船使で送られている 途中なのです。地頭人としての関心疑問は各所で 持っていましたが質問にしろあまり等間的なもの は遠慮しましたし ζ の紀行文の掲載については何 となく恥かしい気持ちで一杯です。とかく地混入 は讃極的、行動的であるように思えます。そうい う;意味では一歩引下る人生修養の研修であったよ うに私には思えるのですが、他の人から見ると地 理への新知識主主求める飽かぬ探究心が出ていたよ うで、マイクを通して説明した乙ともあり、国員 の現象理解が深まった笛もあるようです。文部省 では義務制教員を中心 i乙全国で毎年 5.000 名弱を 海外に派遣されているようですが中国への公式の 教育視察罰派遣は山口燥が初めてで、ド関一青 島、山口県一山東省の友好関係の実績があった のも一民 Tごと思われます。

2

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戦争の残したもの

間員 26 名は二度の研修を終え、それぞれの役目 を帯びて出発の前夜揺開 しました。時あた かも芸術祭参加作品の「マリ子j についての放映 や批評がマスコミを賑わしていました。マリ子は *山口 エリア山口第 11 号

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1

松村高

*

私より数年前上海で日米間の子として生れ、離は 戦前の臼本帝留の中国 i乙対する外交、箪奉行動も 扱っていました。実は初めて公にするのですが私 の父は散戦縫い、昭和 19 年 5 丹補充兵として 40 才近くで召集され、山口の連隊よりすぐ博多~釜 山~満州経由で中支万面に送られあらゆる病気をー した後、上海の購読に送られ終戦後の 11丹にその 地で患を引きとった ζ とになっています。その地 i乙行って見たい強い籍望がありました。長江iζ導 く上海市を震流する策滞在の船旅で船のともに立 ち父の好きであった酒、妙大立、かき鋭と井戸71< を人知れず詞に供えました。兄弟の瀕いも ζ めて 自分が果したかった頴いが果され安堵の気持ちに なり、若い船員と青島産ビールを中間語を交えで は飲み交わしました。一体大東頭戦争とは伺だっ たのでしょうか?マレーシアでもシンガポールで も戦争中の事件について語られました。否私の方 からそういう話も仕向けたのかも知れません。通 訳を介せず話せたからかもしれませんが、たとえ tlt代が代っても伺となく過去の日本の罪を背負っ て歩き続けた感もあります。般、視察克学のみし ていれば用件は足りたかもしれません。ユネスコ 人として少しでも戦争を体験している「血J が私 を許さなかったのでしょう。ーすでも現地の人の 生活、体験、暮らしの中氏入り ζ もうと努めたつ もりです。対話の終りに「歴史は盤史です。退去 にいろいろ迷惑な乙と残念な ζ とがあっ 実です。私達はそれを踏み越え、新しい世代のア ジアをつくりましょう。そのためにはまず教育が 必要だと思います。 J とどールを傾けた記穏も少 なくありません。そうした過去に脅える必要もな いかもしれませんがアジアで札ピラを切りまくる 間胞人の観光客 K はーす頭をかしげたくなります。

3

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出発、喪黙の日翠変更

福間で待機中の我々に旅行社より実はピザが昨 日 16 時 30 分 l乙降り、日程が変要され明日中に香 港絞白上海入閣の乙と、出題は広州より鉄路 iζ よ

(14)

-11-る出器という条件が示されました。すべては上海 に着くまで不明ですとの ζ と。私にとっては ζ の

(CX)

万が大変興味ある ζ とでした。翌臼キャセイ航空 511 便で台北を経由して香港に飛びました。機中 台湾の医学生と同席し、中国側の話を伝えました が全然という位中盟内のニュースは知っていない、 いや知らされていないのではという感を受けたの です。機中のスチュワーデスはそれぞれの国意を 付けて乗客に言葉のサーピスを行っていて、 シンガポール華僑、マレ一入、フィワッピン人そ れに日本人で飛行機の中がまさに国際社会でかつ 満席でした。フィリヴピン人のリサ嬢は愛矯がよ く、各種の便宜ぞ計ってくれ、日本人スチュワ デスはいろいろな国の人の集りでの仕事は気を使 う ζ とが多々ありますと語っていた。今の世界を 小さくしたような社会が機中で感じられ以後各使 ごとにスチュワーデスの国籍7.l1J人数に関心を持ち はじめた。いかに各国人が協調して行くかが飛行 機の運航であり、我ら地球号の行き方であるよう にも感じた。香港の英字紙は秋たけなわ旅行シ ズン、各ホテル満塁さと報じていた。上海行きの、

CX

300 便も 295 名の満席でフランス、西独、オ ーストラワア、アメリカの旅行間で私の隣はアメ リカの老婦人達で年金で余生を楽しんでいるのだ と話していた。 í 上海らしい。それにしては街が 箔いJ と窓際の客の戸互につられてのぞき見る。 し歩いてターミナルへ散々吾々急ぐ。誰れ かが写真与を撮ろうとすると解放軍に注意される もあった。入雷管理事務所前で先議にいた夜、に 旅券と税関申告書を集めるよう係官に指示され、 「旅券は預ります。あなただけ残りなさいj とい って係官は退席してしまった。不安と機中のワイ ンの作用で緊張したのかついに努廊と書いて見守 っているお:顔の係官に見せると一階の左と指留す る。しかも入管を堂々と通してくれての便宜であ る。また帰って硬い精子に座って待たされる。長 い時間 iζ感じられた。上司がやって来て全部 OK Tごと 27 冊の線券を託され、混雑する待合室の本隊 をやっと見つける。間畏の中には私が入賞に取ら 郎が放映されるので惇テレビに集っています。日 常 ζ んなものではありません。 J と話す。自転準 iζ リヤカを付け野菜を山積し更にその上 lζ青年が 乗り力一杯踏んでいる。上海という大筒袋も ζ の ような手段で賄なわれているのだろうか?唯一の 市民の足はトロリーパスで超満員の二較連結であ る。 í皆さんは南京路の国際飯自に泊ります。明 日は少年宮と午後賞浦江下りです J とやっと と日程が示される。乙れが中国式のやり方のよう である。美味な上海料理に舌鼓ぞ打ち、上海チー ムのサッカーに勝った喜びのデモの声を耳にしな がら深い眠りに入る。………早朝よりガヤガヤ人 の声、 ζζ は I Eltil界地の一角で!日上海競馬場の前 で今は人民広場となり市毘の憩の場で、大極拳 l乙 要望じている。 5 円の入場料で散策する。さすがttI 界一の人口をもっ都市、中心地は入、人、人、で それもゆっくりと歩を進めている。 上海、外灘(パンド)と箆滞江 太朗から 80 kmで、長汀j乙合流する業滞江の線 lζ 外灘(パンド)より観光船にのり ζ ù'。呉討会口の 合流点でも対岸は見えない。広い大きな)1 1 である。 「あの燦突が宝山製鉄所です」とのみ説明される。 しかも個人的にである。宝山は上海特別市の宝山 県 K属し、 ζ の製鉄所は日中経済簡の問題となっ ていたが 85 年中 lé 300 万 t の生産に入る計画と 11月 18 日上海側より発表された。 尚スポーツ戦 勝デモは愛爵心の表われであるが不平分子に悪用 されるとして近臼禁止された。資滞在両岸は工都 れたのではないかと話していたとも開いた。 上海のゆ心部で、上下する外航船、ジヤンク(腕 簿騒い街灯、繁るポプラ並木、無灯の自転車群、 船)、伺隻もの船を連結して引くタグボート。さ ライトをつけない 8 動車、何と多い通行人、それ に繋いていると通訳の少さんは上手な日本語で 「今日は土曜日で少ない万です。 8 時から姿三三四 すが中国ーの間際滋ではあるが国内船や社会主義 露籍が自立ち、小船の多くには忘炭が積まれ、岸 壁にはl 高く荷上げされ、火力発電所、棉、毛織物、

12

(15)

-食品工場が克うけられる。若い船員逮は揚子江で はなく長江が現在の名称だといい、溺れに驚いて いるとパケツで一杯汲んでくれ、それをどールコ ップにとって濁れを誌す。相当な溺れである。外 (バンド)の建物は音のまま名称 ζ そ変えられ そのまま使用されているようだ。上海は中患の新 文化炭j化の町、腕を組む若い恋人詞志、女性の上 も伺となく明るくパーマらしき髪型さえ毘受け られるが会員ズ Jff ン姿である。工業製品では上海 との評があり大一百貨患の地下、自 ミシン売場の製品は売約済が多く見かけられた。

4

.

;可

と水田地帯

〈議蕎市郊外絡文〉

山 (会)済南市は 2600 年の霞史のある 、校済鉄道の中 く ζ と ;ζ なった。郊外に出ると途中広い水田地帯に出くわ し、人員公社員は目下鋭穀仁村で中には足踏脱機も いは答で山のように掃き集められている。その上: をパスが走るのであ yc せいぜい馬車に出合う佼 である。どうして ζζ に水白地帯があるのか一寸 済南郊外人民公社の泣く箱脱穀作業風景 疑う。上海一寵京一済南聞の機仁ゃからもだい たい翠策平野の中央付近、准間線で耕作景観が変 北して行くのがわかり授業では小麦地帯と教えて いたはずなのに………。突は謎は黄荷揚泣くによっ てもたらされたものであり、済南の案内書を訳す と主農産物は揺、麦、穀物、とうもろ ζ し、野菜、 果物で解放後生産量が 2、{告になり工業生産(治念、 自動車、化学、訪績、計器、製紙)は29倍 になった。戦前の消費都市から完全に生産都市に - 13 変貌したと記載されている。 ζ の季節減多 K 降らない雨が昨夜降り未舗装の 道路に水溶りができぬかるみ、ついにパスが動け なくなってしまった。レスの堆積でd対P一つ含ん でいない土壌である。やっと抜け出しJ.ll]の道路を 黄河堤筋へと急ぐ。見えた黄河がえ/ 真黄な*~ 恐ろしい程締まいて流れる護荷。将に黄色い河、 黄河である。一椀水王手続泥と中国の地理の教科書 にあり毎年 10cmづっ111床が上昇するという ばつで減水していたが秋口になり増水してき たと老所長の説明。図のような万法で揚水し沈澱 させて耕地に配水するのである。 ζζ 絡口7l<文所 では l 2

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も 黄河絡臼揚水場 土砂の沈澱で今の/1 1床は 2~5m 平函より高く、 よって堤訪は 7~10 m の高さになっている。仰向 いて白帆を看る理天井川である。 500 t 位の船は という。経一筆帆船がゆっくり遡って いた。中国では解放後 2台湾治水が最重要視され、 毎年 100 万人の人民が黄河治水のために汗し以降 堤防は無事で人誌の安全と生命を守り、逆に人民 は水資源を利用する立場になったという。今日も 多くの労働者が堤防の石霞をしており、我々のパ スに多くの人が近-寄ってきた。 1956 年以降サイホ 14 ケ所、サイホン水留場 11 ケ所を造り済 南郊外の沈澱池は 13.000 ha でその泥土は客土とし て利用され、 ζ の泥土では水稲 7.5 t (中国平均

3

.

7

t 、日本 6, 2

t

1979 年)の収穫があったと説 明される。大陸性気候で平均 600 慨でも水さえあ れば気温は上昇するし耕作可能なのである。帰路、 梨、ぶどう、リンゴ、ビート、アスパラ、野菜類 も晃うけられ人民公社の人々が長い鍬を持って働 いている。そうした類の済南西部人民公社東方紅 大隊を見学させて頂く。 11 嫁よりなり乙の隊は、

1

.

700 世俗、 7.700 人で街頭 2.200 毛(

1

ha= 1

5

(16)

毛(ムウ) )、で野菜畑1. 700 毛、食糧関係 600 南駅の夕刻!の動向にも接した。日中の町角では自 毛、リンゴ 7.500 株で 1 毛で 750k9収穫し 50万k9 留地で生産したのか農民遥が綿服を着て、それぞ にたっし野菜は 1 モ 5.000 k9 をあげかっ生産向上 れの生産物を売っている。中には血のついた生の 中で 5 つの小学校、 1.700 人の生徒がいるという。 羊の生体もあった。山東省名物妙蕗花主主そ買おう 済南郊外の耕地風景{水田と畑作) 特産のワンゴぞ供され、小学校と{住宅を克学させ ていただく。今中国では住宅問題が一審大きな社 会問題になりそうな気がする。各地でレンガ造り の住宅が建設やである。政府は人口抑制に晩婚政 と子供 l 人政策をとっている。夕食に黄河名物 の鰹とスッポンの料理、小麦地帯だけにギ、ョウザ、 しパン、銀頭など小麦類がふえてくる。山東料 理の特長であろうか? 中慣の料理は地域が異な ると材料がちがい味も変ってきて美味のである。 それ以上に材料で鳥や亀や魚を表現したあの技術 はすばらしいの一語につき、箸がっけにくい程で あっ?こ。

中園、議謂アジアへの架議

大陸の町済構は夕刻になると急 i乙芸撃さが下りて くる感じがする。 10月 21 日すでに氷が張り、!日日 本領事録で今中国鹿捺旅行社済南分室のある済南 飯店の長い歴史の移り変りを知る銀奇の木の葉が 一風毎 i 乙小鳥の群のように飛んで行く。タ器と冷 気迫る 印象は 忘れが たいも ので近 くの郵 便局へ 通い、 タクシ ーで済 済蔚飯活( ,日日本領事館) としても外国人の私達と市民の通う余がちがう制 度になっていて我々の税換券は受取らない。 を撮られるのを大変警戒している婦人もいる。 f オマエニホンジンカ ?J と肉売の老人が i!i ずい てきた c 日本人 fごと答え筆談しようとしたが成功 しなかった。まだ 30 9誌は文留の人がいるという。 今都会から新教育鰐夜、徳 a 智。体を目指して 8 、 3 、 3 、 4 市Ijのお7制j立が大都会から導入されつつ ある。都会と地方では諮格差が自につく。師 範大学の日本語専攻生の王ーさんの脇、日本を知り たい臼ヱドを学びたい日本語が上手になりたいとい う熱心さが会誌に民わって来る。済南で持ってい た資料だけは郵送してあげた。帰国と期を同じく して上手な文字で脅かれたずa紙が送られてきた。 会話の中で話された先生の話が印象に強く残って います。……どうか正式な日本文となるよう添削 して送ってくれませんかと。 敬語の使用法が大変むつかしいようだ。関語の 先生 l 乙頼み赤ぺンを入れていただき生徒の手紙も 同封して送った。青宮I の主主れで 4 人兄弟とか。将 来日中閣の架慌の仕事にたず会わってくれる 顕いながら……。シンガポールのガイドやマレ一 人夫婦からも日本語を勉強したい。日本語の基礎 を学べるよい本はないかと依頼された。中国の王 さんは将来のために、マレーシアのリ一氏は臼本 占領時代強制的に日本語を学ばされ、その想い出 lζ 、シンガポールの楊さんは今生活の為に必要な のである。三人三様目的が違うと ζ ろにおもしろ さがあり、今田の旅は ζ うした過去に"lr.ち現在の 東南アジアを知り将来どうあるべきかの三態を握 な旅であったような、深く考えれば重震の旅であ ったのである。へ九九九~6 時間かけて広州駅より 雑踏の深別を経て九竜釈についた。そ ζl乙は自由 と貧富の差が間居していた。 (次臨機会があればマレーシアの社会とブミト ラ政策について記してみたいと怒っています。カ ットはすべて光高 3 年間中淑江さんにお願いした。)

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-(学会史) エリア山口第 11 号

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地理学会史余話 (3)

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コこりアと のころ 地方学会が特色をもちながら、 LE しく生き続けるためには、常;乙3ヰ包与を中央の学 界;乙向けている ζ とも肝要である。山口では関西 じて内外の情報を学ぶ ζ とが多 かった。学会創立の翌昭和 23年秋器予し らの{受りには、 「出 口地理学会の名簿、動静御報せ下さいまして予言難

う翻箆います。山口地理学会の ζ とは第 3 号1) に

します。なお創刊号は乙ちらも初めての ζ とで…… j とある。日本地理学会や東京地学協会、

東大や京大、東京文理大など2)の地理学教室へは、

学会の創立主主報じ連絡をしたものである。東大地

題学教案の多聞文努劫教護3) からも 25 年 f山口に

も立派な地理学会があって、皆様と活翠の状与を拘 って鶴間霞qζ 存じて廃ります。新制大学も出来て お忙しい事と存じます。 J との便りを頂いている。 山大の経済学部に経済地理の集中講義に ζ られ ていた神戸大の山崎禎一助教授に「中国の鉄道の 近況J ぞ話してもらったのは 27 年の 2 月であっ た。東大の辻村太郎教授から「問中蒸教授が多忙、 ÚJ 斡助教授が代って議義にゆくからよろしく」と いった消息を得ていて、無箆にお額いしたのをよ く覚えている。エリアぬ 3 の巻頭にその要旨がの っている。山埼さんの f学界もあまり中央集権に 過ぎる臼本で、地方地理学会のベテランとしての 御活騒を Regional Conference の開かれる の年頭 ;ζ切に祈り上げます。 1957 年元旦J の賀 状が残っている。また f地理j の古今誉院の厚意 もうけて、東京教育大の浅香さ宗主義助教授に来山顕 い、 29 年春の学術大会で「監史地理学の研究法一 近世を例として」の講演を騒った上、山口市教委 と共催で「新社会科地理教育j の公器講演会も開 いたのだった。さらに 30 年春の大会には、立命館 大学山口平四郎教授の「交通地理学の課題」、 31 年春の静関大学佐々木清治教授の「新田開発につ *篠山大学

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浜毘 -:::!:::'本I=l いて J 、また乙れも来 UJ の識をとらえてではある が、 34 年秋葉大小堀巌劫教授の「南米アンデス地 方」、 37 年衰の立命館大谷間武雄教援の「フラン スの地理学界J などの講演をして頂いた。 ζ うし のものはもちろんであるが、その前後や 宿所での「学界よもやま j がまた貴重なもので、 くの啓発をうけたものである。 東大の辻村教授も秋吉台の巡検かたがた行くと の ζ とであったが、秋吉台の爆撃問題が起り、急 で多忙な在来はあったが、山口地理学会への縁は A 、に、 却って絶ち消えてしまったγ 策大の佐藤久場教授υJ もまた ζ れと同じようなしだいで学会へ迎える ζ とはできなかった。と ζ ろが、東京文原大から立 っておられた田中啓調教護は、 35 年 6 月ついに学会にきて下さった。 3 月 7 臼の手紙で 早くも「都合がつけば開いたいと準備ーを始めてい ます。 j といい、 5 丹 5 臼には f先日は下関・小 野田・宇部@防府・徳山・下松・光(室覆)・柳 井。岩患などを巡りました。(道路公簡の旅のつ いでに)。今度は夜行で七日に東京をたち、八日 午前について午後萩に行き、夜は湯由民需りまし ょう。翌八日は山口市内を巡検し、九日は午前宿 で準備し、午後講演携に行きましょう。 J といっ た本格的な取っくみようで、湯田の婦人会館を会 場に公開とした学術大会の中での韓日IJ講演「地域 的な見方一山口県の実例と日本の新しい動きに よって j で、学者・講演者のあり方をも含め、一 間が多大の啓蒙をうけたものである。閑静なホテ ル山7l<鼠の f陛下御泊j という特別室で、ゆった りと疲れもいやされ「 ζ れで約束をはたした」と 喰 6) おだやかな微笑をたたえられたものだった。 大学を育祭に 山大初代学長松山基範博士は、 山口地理学会の歩みを熱心に関かれ「私も応譲に ゆくよ、しっかりやり絵え」と、大学もスタート したばかりの昭和 25 年 4 月「璃潟島について J を、国捺的なま血球物理学者の体験をふまえてまじ といえ さった。ただ、山大の地理学 とた分校の小野忠熊講師

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のみで、 「小寺さん J のゆかれたあと成立ーした経 済学部に専任者なく、一般教育をも担当する文現 学部にあった 10.5 J という地理学教官の席もい つしかなくなり、教育学部で…般教育の地理学を も担当するほかなかった。それでも、山口地顔学 会にとっては、山大教育学部地理学研究室は大き な背景であったと思う。学会の事務局はそ ζ にお かれ、運営もまたそ ζ の地理学教官と地理学選修 学生によって推進されたのである。 ft主面、学会と 教室との混 ζ うを避ける意味も ζ めて、山口大学 地理学談話会も選修学生ができるとともに創り、 その会報のラピエも第 3 期卒業生の巣立った 30年

秋から発行7) した。 ζ れと共 l乙地理学選修学生は

同時に学会の学生会員となる ζ とで、教室と学会 は不即不離の形で依存し寄与しあうという道行き をしたのであった。筆者の停年退官で教育学部の は二人に援したが、 34 理学に田嶋久助教授(現諮問大教授)、ついで、山 大学へ転出の小野教授のあとをつぐ JJI村博忠勤教 授と併せて 3 人の LLiじ!大学地理学教宮の存夜は、 学会にとって絶大な背景となっている ζ とを更め て思うものである。 対講義金{こ患う 既にかいた「小寺さんと岩綬 さん」や「恵務会んと小111 さん j のほかにも、学 ミをあたたかく支えて下さった先 ひかれた人たちで、 f老 しながらも、よく学会に 造検会に顔を出して演いた人遠の顔が思い浮ぶ。 私たちも前僚や年鈴喜子聞くなどの失礼はしないで、 人生の愛憶にあまえたものであった。財j稀秀ま在、 三三好十六、渡辺貞隣といった方々である。ミ三好さ んは大擦で活躍されたま虫学関係の技術やさんで、 今も健翠の洋甑・美術史の三好正吉氏の実兄だっ た ζ とは、いつとはなく自然にわかったもので、 ご逝去のあと後河原のお家へ焼香に上ったのだっ た。渡辺さんは高根高原の巡検あたりからの緩で あったと思うが、観光開発にも発想、の豊かな人で、 天文や地理への関心が大きく 90 才を ζ された今 も、ハツラツとした大宇宙の物語を新聞に寄稿さ

れたりしている均満さんは長府から迷路わ Sわ

さfζ られ、その発表も昭和 25 年春の「中間新垣 の土地と人 J Iζ始まり「古代歌亜の交通路の復活J 「下関冬期混度の特色J I マニラとその周辺の概 観J I京大探検鍔のゆくカラコロム J I チベット 争乱と中印国境問題 J

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35 年春)など海外に関 したものが多く、またそうした関書類の寄贈もう けたものである。なお、 f学会への基金 j をとの 取し出も財満ーさんが最初であり、忘れがたい感銘 をうけたものである。たしか f不二越の株券 50株J であったと思う。証券の ζ とぞ研究したりして、 運よく高値で現金化でき、 「財j筒基金J の名で銀 行の定期預金にしてホットした ζ とをありありと えている。学会の名で感認申しあげと冥福を祈 り?こいと思う。 独立の務衿 自主自立の立場、自由と独立の精 神 ζ そ学会の生命である。 昭和 31 年秋吉台爆撃

演習指題が起った時、小沢知事9) の室に、 ζ とさ

ら LlJ白地E理学会長と書き ζ んだ名家IJ ぞもって行っ た ζ とがあった。既 ;ζ 臼ヱド地理学会の名が知事の 頭;こやきついていたと頁とて、更めて山口 の応護も額まれたのだった。 38 年の山口居体の!祭 10) も続本知事 ノ ;ζ 同じようなしぐさをした覚えが ある。 ζ の時は聖火をもとめる山口県議自の llJと しての寂地 III の所在と舘高をはっきりさせるため、 地E堅調査所へ知事自身直接依頼されるよう 蔭でお手 (L; いもし、五万分の一地形関上 i乙;鼠地I1J とその標高を記した新地形留ができた時だったと 思う。伺れも、地方学会の自主性においての地域 社会への学術奉仕である ζ とをはっきりさせるた めのものであった。お二人とも「真意」をいち早 くのみ ζ まれた総明さには、却って恐縮したもの である。また現職中梼をえて亡くなられた熊野教 11) 庁長 ノが「大学 i乙地現学がなかったので臼本史 民行ったが、地理は好きで…… J と山口地盟学会 員を最後まで続け、会費もちゃんと届け、学会の 欠席も E童話してくるというまじめさで「県下の地 周の先生たちが救われていますJ と、よくネしもい って頂いたものである。 ζ うした知事や教育長の 高所からの理解と声援はやはり学会には大きな後 だてだったのである。伺れにしても、会員の会費 のみで立つという山口地理学会創立の趣旨を重き 逸していた「独立 ω精神J にかかわるささやかな 工ピソードの例である。 継続は力なり 小さくとも、地味であっても、 学会の目的をめざし理想に生き続ける。 5震情 ;ζ あ わせ無理なく公平然私、誠実に運営してゆく。山 一回一

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口地理学会議11立の精神である。世界の中の臼本の 地理学界の波動の中で、地方社会の要望と課題を 見出し、それに積磁的に取っくんでゆく道、それ が山口地理学会の歩な道である。 出口地理学会史余話は、筆者が山口大学停年退 を機に会長を辞した昭和 45 年をめどに綴ってき た。 32 年創立十局年の山口地盟学会年報(第 1 号) の「山口地震学会の回顧J と、 52 年の創立三十潟 年記念のこにりア山口(第 S 号)の「山口地理学会 の三十年j という、いわば山口地理学会正史の肉 付けとして、 ζ のささやかな余話が少しでも役立会 つならば乙の上ない喜びである。 にしてわが山口地理学会は、 もふえ、世 代も若返って、機関誌としての「エリア山口」も 軌道にのって既に第 10 号に及び、 海外巡検も該 みられるようになれその f 北アメワカ西部一 地理巡検報告 -J も好評を博した。山口県教育 会編集の山口県百科事典の「地理地名 j の執筆に

も数十名に及ぶ会員の力が尽きれている J2) 山口

地理学会のいよいよの発農を心からお祈りする。 まさに、継続は力である。 〔註〕 1)京都大学の地理学教室に事務局をおいて昭和 23 年創立された全包本を諾う人文地理学会の 機関誌 f人文地理J の第 3 号の ζ とである。 2) 大塚地理学会や策北地理学会、策北大学の地 の報 i乙接しながら実現しないでいた。九大の地 質学の鳥山隆三教捜と共に秋吉台を案内し指導 もうけたし、湯田のホテルで、は山口地理学会の 勤務もくわしくお話し、色々な高教を得た。 5) 秋吉台爆撃問題にちなむ来往の前後などに、 学会でのお話をお騒いした乙ともあったが、結 局一度もその機を得なかった。なお、のちの佐 藤久教授のもとへ、やはり若き日の三三浦肇会長 が内地留学をお翻いしたのであった。 6) 邸中慾蔚教授には、カルストの平尾台や秋吉 台のある土地の福岡師範や山口女子師範へ推せ ん頂いたという菌綾もあった。 6

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4 臼には秋 吉台と萩に案内し、かつての平尾台についで秋 吉台の現地説明も聞いて頂いた。萩では萩商工 高の田中売会員も案内にさ当って下さった。 7) 山口大学地理学談話会の不定期干IJ の機関誌ラ ピエ(

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)は、昭和 39 年 9 月の第 5 まで刊行した。 8) 渡辺貞樹氏の現住所は山口市久保小路22 であ る。 9) 元衆議院議員、現参議院議員小沢太郎氏、現 住所は山口市滝町 2-5 。 10) 元衆議院議員、今は亡き機本正之氏、遺族は ÙJ 口市後河原 225 21é 在住。 11) IL 鳥文理科大学出身、徳山高等学校長より山 口県教育長に就任の熊野一氏、遺族は山口市下 市 5 21ζ在住。 理学教室や立命館大学の地理学教室などをさす。 12) 山口県教育会の特別企題i で、発行は東京の大 3) のちの多国文男教授のもとへ、若き尽の小野 忠煎前会長が内地留学をお競いしたのであった。 4) 筆者は辻村教授からカルスト研究の課題を演 いて山口県入りしていただけに、しばしば西下 17 一 和書房担当。地域社会への学会の協力として鶴 接的ではあるが山口地理学会会員有志で世話を し、分担して執筆した。

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表 3 山林苗木の販売規格基準 樹種 続格 1959  1976  苗令区分 苗 長 根元荏 単価 一回 +子ー 長 根フじ径 単価 3 0  c m  5 . 5  c m  2.60 内 3 5

参照

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