Title
[巻頭論考]一七世紀末期における琉球国の動向
Author(s)
上原, 兼善
Citation
琉球王国評定所文書, 6: 6-34
Issue Date
1991-03-26
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/19227
Rights
浦添市立図書館
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一七世紀末期における琉球国の動向
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原 兼 善 は じ め に 日本近世史の分野で、昨今の大きな収穫のひとつは、幕藩制国家が外交の窓口としてかかえ持った四つの口(長崎 ・ 薩摩 ・ 対馬 ・ 松前)に対する支配の検討を通じて、幕藩制国家論の議論が深められた点にあるといって過言ではなか ろ 、 っ 。 四つの口の 一 つ 、 薩摩において、直接的に東アジア通交の窓口となった琉球口に対する﹁押え﹂の実態についてち 詳細な 側面が明 らかにされてきたという点で評 価の跨外ではない 。しかし、こと薩摩口に関していえば、そうした﹁ 押 え﹂の実態の解明を急ぐあまり、これまで ﹁ 押 え﹂の対象となった琉球口の動向は見落されてきた感がないではない。 支配国家による被支配国家に対する政策過程そのものの分析が第一義的でなくてはならないが、しかし、支配関係は 被支配国 ( 者 ) の対応によって規定されるものであるかぎり、またこの点を明らかにしなければならないであろう 。 一 四世紀の段階において、中国を中心とする朝貢システムの中に入りこんだ琉球国は、 一 六O
九年(慶長一 四 ) の 島津氏の侵入を契機に、幕藩 制国家を中心とする鎖国 システムのなかに組みこまれ、 いわば二重の朝貢国としての位 置を保つこととなった 。 この体制は近代にいたるまで続くことになるのは周知の事実である 。 しかし朝貢システムそのものは浜下武志がいうように、 ナショナリズムを惹起させたのであり、琉球固においても 一 定のナ シ ョナリズムの の過程においてみ ら れた 一 連の動向に明らかであろう 。 こ 形成をみたことは、たとえば明治政府による H 琉球処分 H うした琉球国の自己主張は近代国家の政治的編成に際してのみあらわれたのではなくして、すでに幕藩制国家による 国家的編成の過程において繰り返しみ ら れたものと見たい 。 小稿は幕府の対外貿易政策の重要な画期をなす貞 享令 の 発布後の琉球国の動向に焦点をあてて、この点を検証しようとしたものである 。 も っ ともここで取りあげたいく つ か の事実については折に触れて指摘したことがあることをまずお断りしておかねばな ら な い 。 発表誌の紙幅の都 合 や 、 企画の意図とそぐわない面があ っ て十分検討できなかったそれらを具体的にし、これに 二 、 三 の新たな事実を補って 考えを構成し直してみたい 。 貞亨令と琉球国 周知のように、幕府は一六八四年 ( 貞享元 ) 一 一一月に、市法売買を廃止して糸割符の再興を令し、翌八五年には長 崎口における貿易額を、中国船銀六、
000
貫目 ( 一O
万両)、オランダ船金五万両 ( 銀 三 、 四O
O
貫目 ) に制限す る定高仕法を定めたが、八六年には、対馬の宗氏に対して、朝鮮との貿易額を一万八、000
両 ( 銀 一 、O
八O
貫目 ) 考を定額とすべきことが申渡された 。 つ い で 同 一 二 月には薩摩藩に対しても薩琉聞の商売高を三、000
両から 二 、0
論 山 頭00
両に減額することを命じ、琉球国よりの渡唐銀高についても翌八七年 ( 貞享四 ) には進貢料 一 万 三 、 四O
O
両 ( 銀 八O
四貫 )、接貢料はその半額を目安とすることが申渡されるにいた っ たのであ針 。 巻 このように、金銀の海外流失の抑止という幕藩制国家の経済政策が琉球貿易を射程距離に入れたという点で、これ 七J¥ らの貞享令は大きな意味をもつが、琉球口については単に貿易額の制限にとどまらなかったこともまた重要である。 すなわち、まず第一は京都における琉球唐物定問屋の設置である 。 それまで琉球唐物は長崎 ・ 上方において﹁心次 第売払﹂われてきたが、八九年(元禄二)を期して京都の原善兵衛庖の封印をもって販売されることとなった 。 こ の 定問屋は、八六年(貞享三)に長崎において琉球唐物の売行き不振という事態が起こり、琉球側の迷惑を見かねた薩 摩市精が幕府に願い出て設置の運びとなったものであった。この限りでは、薩摩藩は上方に公認の唐物販売ル l トを確 保することに成功したということになろうが、しかし幕府の立場にたてば、これは別の意味をもっていたとみること ができる 。幕 府はすでに市法中に長崎よりの仕入糸や絹織物や薬種類を京・大坂 ・ 堺の長崎問屋へ荷受けさせ、販売 させる仕組みをつくり上げていたが、貞享期以後は、これら上方の長崎問屋は抜荷抑止の機能を発揮していった。す なわち、登荷には、糸割年寄が手板(送り状) に裏書 ・ 割印して長崎から送り出し、陸荷は小倉で荷改めを行ない、 荷受地で再査した 。 手板でもって荷受けした長崎問屋は、道中において抜荷のなかった旨をその手板に裏書して長崎 へ返送されたが、生糸・反物・上薬種は入日記を添えて長崎問屋へ送り込まれるようになってい だ 。 こうしてみると、 京都における琉球唐物の定問屋の設置およびその封印制による流通統制は、不正唐物の排除という貞享令の完成をね らったものということができよう。 たとえば八八年 (元禄元 ) 十月十日付の肝付久兼ら滞家老連箸の﹁覚﹂ ( 写 ) 第二は、こうした唐物販路の明確化とともに、琉球現地に対する不正唐物対策の強化がはかられている点である。 は次の如くである 。 覚写 一 琉球より大清 b 差渡候金高之儀 公義 b 被害出候付、被 仰渡候趣有之、且又大清より買渡候品 E 挽 方 之 儀 品 問 、
公義ゐ被 仰上、於京都問屋被 仰付筈ニ相済候、依之右之趣可申 仰付、他方之貰買物二不紛様以封印商買被 渡旨御意候付ぁ、委細 三 司官 b 以覚書申渡儀有之候問、無緩相守候様可被申越之事、 一 渡唐松ニ遣候銀高之儀、琉球在番之 奉 行へ申断、以検使相改之、銀高定之員数於相違 S師 、 三 司官より 奉 行へ申 談 、 差 図次第出松申付候様ニ可被申渡事、 ア 渡唐松帰帆之節在番之奉行 ・ 三 司官立合被相改之由候得共、向後猶以入念、琉球用物ニ残置品ミ之外御首地へ荷 物 差 越候時分 s h 、 弥鑑⋮緩様有之可然候、且又於琉球舵頭 ・ 水手へ唐買物之品密ミ相挑候儀 一 切令停止候、若相背 致貰買者於令露顕 S旬 、 双方共-一急度可及沙汰之燦 此 旨相鰯置候様ニ可被申渡之事、 一 琉球 b 御首地近付之方より直ニ買物頼遣之由候、向後無用ニ申付之問、銀子遣候人難有之相返候様可申遣之事、 一於御嘗地脇とより仮屋方へ用物之頼有之、唐-一あ相調遺儀ゑ承届可被 差 免候、心安相調進候儀無用可被申付事、 附銀高之儀ハ、相定申渡候外ニハ曲目ゐ不 差 渡 筈 -一 候 問 、 右鉢之品調候代銀之儀残琉球方銀高之内ニ可被相加事、 一 書籍之類於買渡 s h 、 古来より有之書籍ゑ不苦候、新作之蓄を買渡候儀無用可被申付候、切支丹之蓄を漢字ニ相直 し候書唐松より長崎へ持波、及御口能候事共有之由候、不案内ニあ右式之儀ゑ可有之事-一候問、其心得仕可然候 事 、 一 毛織之儀、前方市波候通私用之外為商貰買渡候儀無用可被申付事、 考 右僚主堅相守之候様可被申渡候、以上 。 号ι 白岡 貞享五年 辰 十月十日 頭 ( 久兼 ) 主殿 (久 了 ) 新納又左衛門 巻 目 干 付 九
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季 向 島 津 嶋 j掌 自 宅i
宰 ( 久 辰 ) 新納近江殿 図京中京大志縫~ 書笠務理学き殿草。
まず史料の第 一 条 目は、京都定問屋を通じての封印販売の趣旨を厳守すべきことを定めたものであるが、第 二条 目 は渡唐銀高について、琉球在番奉行の承認を経て検使が改め、銀高が定高と相違する際は三司官から奉行へ伺いを立 て、その差図を得次第出船すべきこととしている 。つ まり、渡唐銀高に関して琉球側が主体的に操作する余地を排除 し、琉球在番奉行に集中的に管理せしめる方向を明確にしたものということができよう 。 第三条目は、琉球用物とし て残し置く以外の荷に対する鹿児島表へ送る際の荷改めの徹底、琉球船頭 ・ 水手への唐物売渡しの禁止を内容として おり、琉球側から不正唐物の発生する要因を摘み取ろうとしている意図は明らかである 。 第四条目は、島津家と親交 のある大名などの買付依頼を受けることの禁止、第五条目は、脇々よりの用物買受けの依頼は安易に認めることを禁 止したもので、藩御用以外の買い物の規制に動いていることを示していよう 。 また、第六条の新作書籍の買付け禁止 徹底させようとしたものであることは史料の語る通りである 。 は、キリスト教関係の漠訳書の流入に対処しようとしたものであり、第七条目は商売用としての毛織物の輸入禁止を 以上のように、各条自のなかに、総体として琉球における不正唐物対策が強化の方向へ向か っ ている事実が明らか になるが、それは琉球における唐物貿易の集中管理を委ねられた当の在番衆に対する心得覚となってより具体化され ている 。 たとえば 一 六八八年 (元禄元 )三 月に 三 原次郎左衛門 ( 重 儀 ) に宛てられた種子島久時ほか家老連署の、十七ケ条にもおよぶその内容はおよそ次の如くである 。 川琉球は遠島で﹁別あ御気遣﹂思召される故に在番が派遣されているが、﹁遊山翫水﹂﹁酒宴遊興﹂を専らにし、 ﹁職事忘却﹂とのよしで、許しがたいところである 。 明暦 三年 九月十 一 日の係書の趣意を厳守のこと 。
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右の係書七ケ条目の唐人の道具改めは近年禁止と改められたにつき、その 心 得 の こ と 。ω
キリシタン宗門は大清国において流布とのことに つ き、島々浦々の取締りを入念にし、とくに進貢船の往来の節、 飛乗りの者なき様に固く申達すべきこと 。 山 間 琉球三司官衆より用事の際、取次の者をもってそれを承ることは毎物滞り、また用事の旨趣も達し兼ねるので、 以後奉行が直談の︾﹂と 。 同唐御買物は年々高値になり、諸物も品あしきにつき、 以後唐行きの儀は池城親方 ( 安憲)が差配のこと 。 附琉球よりの帰帆船が時期遅れとなり、先年も船数が過分の破損となったのは、在香の怠慢につけこんで船頭・水 手共が気ままを申したがため 。 この点とくに念を入れ、遅々なきょう申付くべきこと 。 川在番役衆は付衆にいたるまで私欲がましき儀は堅く停止のこと。 附奉行より国司(国王)を接待することは国許も倹約 中に つき、禁止のこと。 考 問付衆が 他に道具持ちを従え、国司の下へ太万目録などを進上することは不似 合につき 、無用のこと 。 帥在番役衆が城下首里へ 出向く際は用向きと場所を 奉行へ伺い、その許しを得べきこと。 論ω
鹿児島の船頭 ・ 水手が奉行の家来に取入り、﹁国司之不勝手、所之支障﹂もかまい無く自由がましき所業をなす E頁 巻 のは不屈につき、入念のうえ取締るべきこと 。 M M奉行ならびに 付衆の家来共が入札に加わり、しめ買いなどを行な っ て ﹁町人同前ニ商貰﹂にいそしみ、または国司へ借物などを申出て諸事の妨げになっているとのよし、以後きびしく禁止いたすべき事 。 同付衆ならびに家来下々にいたるまで無作法の所業なきょう入念に取締るべきこと 。 凶奉行ならびに付衆が在番中 J 不慮に家来を欠くようになった時は鹿児島より呼寄せるようにし、それがかなわな い時には琉球人を傭い置き、召仕うべき事 。 同鹿児島よりの渡島衆のなかには質物を取置き 、 琉球人に物を借す者がいるよしであるが、許されざることである 。 奉行配下の者は軽きことでも﹁商売かましき儀 ﹂ は停止のこと 。 同船改めに際し、船頭より酒肴を馳走することは 、 遠国のことゆえとくに停止のこと 。 同在番の面々が船頭 ・ 加子・町人等の振舞いに出かけることは停止 。 また松遊び・野遊び等に船頭らが酒肴を持参 してもこれを受けざること 。 以上、内容は種々の点にわたっているが、大きく 言 えば、第一は在香衆の役務怠慢、分不相応な恐意的行為、その 他非法行為等の是正、取締りであり
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阿川附則 側同 )、第 二 は在番衆の商業・高利貸活動など、種々の﹁私欲かま しき﹂行為の禁止 ( 問問問)、第三はそれを醸成する条件となる鹿児島船頭・加子などとの癒着や琉球地下の者との 主従関係の排除 ( 側同同開)である 。 そして第四に新たなキリスト教対策の徹底 ( 山川)、第五は輸入唐物の高価格・ 品質粗悪という事態への対応 ( 同 ) などにまとめることができよう 。 すなわち、琉球在番奉行の統制を強化して、私 的唐物取引が発生する余地を排除し、あわせて不調な琉球貿易の現実打開を目途していることは明らかである 。 こうした在番衆に対する統制の強化は、奉行や付衆に対する用物代銀の限定という事実にもあらわれている 。 すな わち、藩はそれを進貢時に銀 二 貫目、接貢時に 一 貫目ずっと定め、それぞれ琉球方銀高に加えることとしている 。 い うなれば貞享令によ っ て定められた渡唐定銀高の枠内にそれはまた限定されたものとなっていったのである 。琉球団における不正唐物対策は、このようにそれを生み出す内的諸状況への対応と同時に、さらにまた唐船漂着と 一 六八七年 ( 貞享四 ) 十一月に琉球本島 中部の勝連沖の浜島に寄港した南京船に琉球がとった処置と、それについての薩摩藩の指示は次の如くであ っ た 。 同 いう外的要因への対処をともな っ ていたことはいうまでもない 。 た と え ば 、 船は長崎 一 二 六番帰唐船で琉球国への寄港は商売を求めてのことであ っ たが、琉球側ではこれを断り、ただ船の修補 および諸用物の要求に応じたうえ、客唐人の用物代として薬種少々請取り、船主の用物代と船修補料は来年進 貢 使が 渡唐した折決済する約束をした 。 これに対し、落は、すでに同船が奄美大島・徳之島に寄港した際に、老中大久保忠 朝より唐商船が漂着した時はこれを追い返し、藩にこのことを注進するよう琉球へ申付けよという指示があったこと を伝え、その趣意を厳守するよう諭している 。 つぎに用物の代償として銀でなく薬穫を受取ったことについて、﹁乍 然唐人貨物此方へ取候儀ハ、別あ御大禁之事候 e 一 付 、 太守様ニも御念遣-一被思召上候得共、琉球ハ A田 園 地 と は 各 別 之 儀候故、此節之儀も於長崎無御口能候、乍此上御大禁之儀候条、向後ハケ様之儀可有遠慮候﹂と、唐人より貨物を受 け取ることが大禁とされているゆえに藩主綱貴も気をもんでいることを述べ、以後そうしたことは遠慮すべきことと している 。 また、船修補料については、唐人の書付通り、必ず来年の進貢使に請取らしめるよう諭している 。 ﹁ 来 年 ぷハ長崎へも唐松七拾般之外ハ御追帰被成筈之由候へハ、其元へ松を寄せ違乱申儀可有之候、左候ハ、別ゐ挨拶ニ行 迫可被申事候﹂と指摘するように、琉球側の安易な対応は、翌年の長崎における唐船の制限と相侠っていかなる事態 考をもたらすか、はかり知れないものがあったからであった 。 琉球国が、進貢貿易という公貿易のほかに私貿易の拠点 ι 聞 に変ずることを阻止するために、漂着唐船とのかかわりが強く規制された事実がわかろう 。 ~J{ 以上のごとく、貞享令の発布は、単に貿易銀高の制限ばかりでなく、京都定問屋の設置による唐物販売ル l トの統 巻 制 、 琉球在香衆による貿易管理体制の強化、そして彼ら自身による不正唐物取引発生条件の排除、漂着唐船への対応
四 規制などの形をとって、琉球口の唐物貿易に対する統制強化の方向へむかわせたのである 。 琉 球 国 に お け る 抜 荷 の 展 開 a 元 禄 の抜荷 事 件 これまでの検討によって、貞享令は琉球唐物を含めて輸入物流通体制の再編をめざした点で重要な意義をもつもの であったと評価できよう 。 しかし、そうした幕藩制国家の貿易編成策に対して、当の琉球側ではそれを空洞化させて いく動向が生じていた 。 す な わ ち 、 一 六九一年 ( 元禄四 ) には、琉球より鹿児島表に送られた唐荷物のなかに送手形 以外の荷物が﹁大分﹂含まれていることが発覚するにいたった 。 この一件は、九月 一 一 六日付の新納近江あての家老連 候、其段令露顕 署の諭逮が、﹁右之通抜荷有之儀ゑ、於琉球申付様大方故ニゐ候、抜荷之儀上方 b 持上、脇 E d 一ゐ密主可致貰買儀 4 一 公義より及御詮議、此御方検御不念之筋ニ成立候得ゑ笑止之儀 4 一候﹂と述べるように、抜荷物が上 方へ流れることによって藩主綱貴に札聞が及ぶことになるのではという危倶を抱かせるものだ っ たのである 。 そして藩側にとってさらに衝撃的であったのは、琉球側が藩の銀高増額の要求に難色を示すような態度を示しなが ら 、こうした事件が起こったことであった 。 すなわち、務は前年に上回してきた唐買物宰領人に対し、これまで渡唐 銀高が幕府より認められた定高に達していないことを指摘して、その増額を打信したところ、大量の買荷は不可能で あるうえに、船聞が狭陸であることを理由に増銀を断られた 。 しかしそれは流球方の勝手にもなると説得し、 ょうや
く定銀高まで増額して渡唐の運びとなったところでの結果だったのである 。 藩の 言 い方は﹁然時 s h 絵計之荷物不得積 筈候慮 4一、嘗年之儀大分之抜荷有之候段、右之申分ニゑ致相違側﹂というところにつきる 。 つ まり、買物が自由にな らず、船問が狭陸ならば、増額した定銀高以外の余計の買い物は不可能のはずにもかかわらず、他に多くの買荷があっ たことに、薩摩藩は琉球側の背信を感じとっていたのである 。 事実琉球側が薩摩藩に対して示した態度とはうらはらに、清朝との進貢貿易は安定的に展開され、買荷も予想以上 に行なわれていたことを窺わしめる傍証史料は散見できる 。 たとえば長崎入港 二 六番福州船の 一 六八九年 (元禄二 ) の唐人申口によれば、﹁前廉は琉球貢種之船は 二 年に 一 度宛福州へ参申候所に、近年は毎年武般宛参申候﹂と、流球 船の毎次入貢を伝えており、また 二 七番船の唐人申口も同じことを伝えて﹁畢寛は貢植に事ょせ商貰之勝手にも罷成 り申候に付、前年差渡候貢積船之迎船と名付け参申事に御座候﹂と、明代と同様に、この頃清朝との聞に進貢・接貢 制による毎歳渡唐体制が軌道に乗っていた様子を知らしめる 。 それに、﹁聖祖実録﹂巻 一 四 二 によれば、この年に接 貢船に付搭貨物の免税処置が許され、かつ渡唐員数を一五
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人から五O
人多くして二O
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人とすることが認められて おり、これらの特恵処置が流球側の買荷高を大きく膨張させることにつながったことが考えられよう 。 一 六九三年 (元 禄六) の唐人申口にいたると、その点はやや具体的である。たとえば四九番福 州 船のそれは、﹁扱又福州台は、従琉 球之使官船査二般宛罷渡り申候、去冬も二綬福州へ参、金銀高千貫目鈴も持渡り 、 福州にあ糸端物買取申候、首春は 考 例年に無之、古物道具類井に古繕なども方々尋出し、銀高武百貫目程も買取申候 、何 之用に諸道具求申候とも、其段 は存不申候﹂と指摘する。すなわち琉球側のもたらす渡唐金銀高はおよそ一000
貫目にのぼり、買荷は糸端物のほ 号迫ぉ 長岡 頭 巻 か、古道具・古絵の類にまで及んでいるというのであるが、これは五一番 ・ 五五番の各福州船唐人申口がともに一致 して指摘するところであり 、 この通りだとすれば、琉球渡唐銀高は幕府はおろか、薩摩藩の認識をはるかに越えてい 五ム ノ 、 たことになろう 。 いうまでもなくその買物免銀その他隠投銀の膨張を物語る 。 A 剖) 一 六 九 一年(元禄四)九月晦日付けで新 納近江が琉球 三司官衆宛の ﹁ 覚 ﹂ で﹁定 ゐ抜荷物ゑ琉球地方 b 、唐買物免銀 琉球渡唐銀高が貞享令の定高を大きく上回ったのは、 有之、買渡り私用と号、ン残置品ニあ候哉、又ハ於其地密と銀子ヲ唐へ持渡候事有之候敗、何れ之筋二否決其地へ止品 二あ社可有之儀ニ候﹂としているのはその 一端をついている。そして新納はそうした琉球 側が投下した銀で輸入され た唐物が定法の如く手形でもって鹿児島表の琉球仮屋(館)に送られれば何の問題もないものの、﹁如何様勝手好可 相梯と存、背御法様上国之人弁舵頭水主之類ニゐ密ミ申合差上﹂せていると指摘する 。 琉球王府役人自身による、あ るいは鹿児島船頭・水主を通じての上せ荷という形の不正唐物の流通経路の一端がやはりここで明らかになるが、 六九三年(元禄六)九月二六日付の﹁渡唐松蹄帆之節覚語之覚﹂の次の 一 条はそれ以前の密流入ル l トを伝えるもの で あ る 。 一帰唐松慶良間嶋へ船を繋、夜中-一 小 舟 漕 出 、 隠荷物を積移 、 唐松 より先達あ那覇 湊近遺瀬長浦迄差遣、垣花村へ 荷物を下置、密 E 為相挑儀共有之由其開得候 ( 以下略) すなわち、渡唐船の出 帆・帰帆に際して の繋留場となる慶良間島で隠荷物を小舟で積み込み、渡唐船に先じて那覇 湊近くの瀬長浦まで逃れ、湾口南岸の垣花村に荷を下す、というル l ト が指摘されている。琉球国における隠投銀も 慶良間島およびそれにいたる洋上で行なわれたことは疑いない 。 琉球国の抜荷は、こうして進貢貿易に深く寄生する 形で行なわれたという特徴ゆえに、またその根絶は容易ではなかったのである 。 b 寛永通宝の流通拡大
ところで、琉球固における不正唐物の流通は銀だけで支えられていたとは限らない 。 銀貨の流通がなかった琉球団 においては、唐物や砂糖・欝金などの貿易品および特産品を幕藩制市場に投下してはじめて入手できるものであった から、その流入量は限られていた 。 そこで、これを補うために求められたのが銅製の寛永通宝であった 。 一 六九四年 (元禄七)には新銭一万貫の鋳造が訴えられているが 、これに対する次の薩摩藩家老等が連署で新納近江 ( 久辰 ) に あてた十一月二六日付の﹁覚﹂は次の如くであ封 。 覚 琉球之儀銭不自由候之問、新銭壱万貫鋳調之儀御免被下度由、北谷按司・三司宮殿之趣承届候、銭不自由之由被申 立儀候得共、首国中近年秋冬之比銭致沸底、御蔵方又ゑ脇 E ニあも銭遣難成、国中之不自由罷成候、何様之儀 4 一 高右式候哉と連と承届候慮、琉球 b 大分之銭買越候放令梯底之由候、右之銭琉球 b 大分入用可有之儀無心許候付吾、 内と遂余議候慮、渡唐松之節、右之銭大清国あ差渡儀も可有之哉之由其聞得候、ヨ矢田 b 銭遣候儀 t L 公義之御制禁 ニ候、大清国 b 差渡銀高波 公義之御定有之、兼と申渡趣共有之候慮、銀銭根取交差渡候事不届之至候、役所 b tむ 不承渡唐之者共密 E 持渡儀後可有之候得共、其段不存知鉢候段も大形之儀-一候、向後一切寛永銭大清 b 不差渡様堅 可被申渡之、万 一 隠 便-一銭差渡候事顕候ハ¥大清国へ通路故障も可令出来候開可被入念候、大清台後差渡候儀相 止候ハ、、琉球ゑ小国候之保有合候鳩目銭 ・ 寛永銭を以取遺可相済候、依之於琉球銭鋳調候儀如願申渡ニ不及候、 考 右 之
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ヰ 可 被 申 越 候 以 上 論 E員 巻 十 一 月 廿六日 平田新左衛門 七J¥ 月 干 イ 寸 主 殿 種 子 嶋 歳入 喜入 又兵衛 嶋 津 縫 殿 ( 久辰 ) 新納近江殿 すなわち、史料の語るところによれば、薩摩藩領内において秋冬の頃になると急に銭不足となり 、 藩蔵方はもちろ ん脇方においても銭遣いが困難となって国中が不自由となったため 、 原因を究明したところ、琉球に買越されていた ことがわかった 。 さらに内々に余議したところ 、 それらは、渡唐の節に清国へ携行されていることが 判明 した、とい うのである 。 そこで平田ら藩家老は、渡唐銀高に定高が決められたにもかかわらず、銀銭取交ぜて差渡すことは不届 とし、琉球仮屋の監督不備を責めつつ、新銭の鋳造を認めるどころか、琉球へ今後 一 切寛永銭の輸出を禁止すべき旨 の厳諭を新納に申渡している 。 琉球側が寛永通宝をもって貿易運用にあてていたことは、以上のように明らかであり、新銭鋳造まではかつている ( 回 } 事実は、寛永通宝が貿易通貨として広く定着していたことを示している 。 が認められたのを契機に、 ちなみに、長崎口において伏見屋四郎兵衛に、定高商売の終了後に残り荷物と銀 一
000
貫に相当する銅との交換 A 剖 ヨ のことである 。 しかし間もなく いわゆる銅代物替が開始されたのは一六九五年 ( 元禄八 ) 輸出銅は不足をきたし、長崎口においても寛永通宝の輸出が行なわれはじめた 。 一 七O
一 年 ( 元禄 一 四 ) には、寛永 通宝銭の裏に﹁文﹂の字を付して輸出したといわれるが、本格的な輸出が検討されたのは翌年のことであ っ た 。 すな わ ち 、 一 七O
二 年 ( 元禄一五 ) 六月、伏見屋四郎兵衛より、川寛永通宝 一 貫文につき銀 一 三 匁五分の換算率とすれば、銅三
O
O
万斤ほどをつぶせばおよそ八O
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万斤の銅代物替ができる勘定となる 。 間唐人たちが長崎において雑用のた め費消するいわゆる﹁遣捨﹂には銭を与え、その代償に唐物を受取るようにすれば、その利潤はおよそ一四、五OO
貫目にも及ぶはずであり、その内の 二O
O
貫目分を銭で代物替をすることを認めてもらいたい、との訴えがなされた 。 伏見屋としては銅の不足に寛永通宝の代物替えで対処しようとしたのである 。 この案については、唐船船頭たちはし ぶる傾向をみせているが、しかし寛永通宝が中国の商業市場において、銀貨とならぶ流通貨幣となりつつあったこと は疑えない 。 少しくだるが、﹃高宗賓録﹄巻四 一 九の乾隆 一 七年 ( 一 七五 二 ) 七月己未朔の条には﹁又開.江准以南 米市堕場 . 行使尤多 . 毎銀一両所易制銭内.此頃銭文幾及其半.既鋒成銭文.又入市行使則必有閑鐘発貰之庭 . 無難 A 部 } 査緋﹂とあって、揚子江および准河以南の米市 ・ 塩市では 一 両を制銭に易えれば寛永通宝が半分をしめ、それは中国 圏内において鋳造さえ行なわれるまでにいたっていたことがうかがえる。同じ条にはまた予継善 ・ 荘有恭の奏として ﹁寛永銭文乃東洋倭地所鋳由内地商船帯回.江蘇之上海淵江寧波 . 乍浦等海口.行使尤針﹂という記事が見える ことから、この頃寛永通宝は東アジア世界では無視できない流通量をみていたことが理解できよう 。 ここまでにいた るには、長崎口における寛永通宝による代物替の進行があろうが、しかし先にみた早い時期からの琉球口を通じての それもあずかつて力があったとみて誤りはあるまい。 前近代の東アジア世界は銀貨でもって経済的紐帯が取結ばれていたことは事実である 。 しかし、寛永通宝の流通と 考 いう事実に注目すると、そこには公的な紐帯を越えた民衆レベルでの紐帯を見通すことができるのではあるまいか 。 論 元禄 ・ 享保期以降の抜荷の盛行とこの問題とを関係づける根拠はいまのところ示しえないが、しかしすくなくともこ 頭 巻 の庶民貨幣の流通を東アジア世界に拡大させていくなかで、琉球国における公貿易の自律的展開は可能となり、また 不正唐物の流通もその基盤を得ていったにちがいない 。 九。
C 貿易運営の管理強化 ﹂とはいうまでもない。まず一ムハ九一年(元禄四) さて、琉球国の貞享令を空洞化させる動きが顕在化するや、これに対する島津氏の対応は一層峻厳さを加えていく 一O
月四日付の新納近江宛禰寝清雄・平田宗正連署の﹁覚﹂は、 川流球よりの藩御用物ならびに琉球方唐物に対する琉球三司官衆による封印送状制、ω
琉球渡海の船頭 ・ 水手等によ る琉球人の名をかりた登荷の取締り強化、ω
中国において買荷に当る宰府役の人選の厳正化、同琉球在番奉行および 付衆の買物銀吉岡、買荷に関する 三司官 よりの藩国遣座あての報告制、 同国司ならびに 流球諸士の買本物銀高、買荷の 内容・用物および鹿児島払用高の明細に関する国遣座への報告制などを定めている 。 すなわち、八八年(元禄元)十 月令に比して制度的な強化の点に注目すれば、まず第 一 は 鹿児島への送荷が 三司官に よる封印のうえに送状が付され るようになったことであろう 。 そして第二は、琉球在番衆 ・ 付衆・琉球国司・琉球諸士のいわゆる 二番方に含められ る銀高・買荷の詳細を藩国遣座が掌握する体制がとられるようになったことである。この点は次の史料によっていっ そう明確になる 。 党写 一 銀 子 何程 琉球地頭 同 何 程 右問中取 同 何 程 右同仮屋守 同 何 程 右同蔵役人同 何 程 右同仮屋筆者 同 何 程 鹿児嶋諸士方 ぷ 仮屋台内頼 合銀何拾貫目 右 t L 琉球国司唐買物銀高之内二被召加、頼之品ミ於唐買誠之由候、依之御方 b 右銀高被開届被差免筈ニ貞享五年 辰 十 月被仰渡置候、然庭ニ右銀高御国遺座不相知候ニ付、問付之、見合 芳考難成候 問、向後ゑ右銀高賦付帳琉球 b 差下候、前以御国造座 b 可被害出之事 一 唐 荷物買元之直成脇 Eb 致露顕候問、自今以後唐買元之直成琉球人弁仮屋付ミ之諸役人、世間向就中町人共へ、 噂 不 致 様 ニ 堅 可 被 申 渡 候 、 右 買 元 直 成 他 方 相 聞 得 候 奇 ハ 、 往 と 差 窒 儀 共 可 有 之 候 問 、 曽 司 他 言 不 仕 様 ニ 可 被 申 渡 候 、
E
又前ミより琉球為用事御嘗地 ぷ毎年 差渡候銀高、公義より御定有之故、先年仮屋方より其段被仰渡置候、 弥以御定之外ニ銀子差渡儀禁制候係、居友許ぷ差下候現銀井国司諸士ぷ諸物御嘗地へ召上せ、貰挽代銀差下候員数、 年 E 御国遣座 b 仮屋ぷ書出候様ニ可被申渡候事、 右之趣仮屋在番之親方弁仮屋守堅固ニ相守之 、付と之諸役人必も申渡候様可被申付候、以上、 元禄四年 来 ノ 十月四日 八郎右衛門印 考 新 左 衛 門 印 言 命 新納近江殿 頭 巻 すなわち第一条目では 一六八八年(貞享五 、元禄元 )に琉球地頭から鹿児鳥藩士にいたるまで許された買物銀は、 以後はそれを琉球国へ送る以前に、銀高を記した﹁賦付帳﹂を国遣座に提出すべきこととし、第 二条 目は唐物の荷捌き不振の原因となる元値に関する噂の禁止とともに、鹿児島よりの送銀現高および国司 ・ 琉球諸士の諸物売払代銀高 に関する報告を 、 琉球仮屋に義務付けるべきこととしている 。 藩は八八年の琉球現地における在番役衆を介しての抜 荷取締強化の方針を 一 歩すすめて、新たに国遣座を通じての貿易資金の管理統制に踏みこんでい っ たということが指 摘できよう 。 ︹ 却 -このほか、藩では横目 二 人を琉球に派遣し、い っ ぽう、琉球王府も渡唐船の繋留場となる慶良問 ・ 久米島の両島に 大和横目・首里横目各 一 人を派遣するなどの点において、現地における取締体制の補強も窺える 。 一 六九 一 年の抜荷事件の発覚は 、 薩摩藩をして琉球貿易の管理統 制 を 一 層強化させていく方向へむか わせた 。 それは右の十月四日付の﹁覚写﹂に﹁公義より御定有之故、先年俄屋方 b 其段被仰渡置候、弥以御定之外 4
一
﹂ の よ う に 、 銀子差渡儀禁制候候﹂とあるように、幕府貞享令の徹底をめざしたものであ っ た 。 したがって、この幕令の貫徹に成 功するかどうかが、幕藩制国家にと っ て 、 以後琉球支配を内実あるものとしえるか否かの重要な鍵とな っ たといえよ 、 ハ ノ 。 対 清 通 交 の 自 律 的 展 開 a 進 貢 品の変更問題 一 六 九 一 年の抜荷事件の検討を通して、琉球国が進 貢 貿易運 営 に対する 二 疋の主体性を回復していた事 実 を明らか にして き たが、ここではさ ら に別の点か ら この頃の琉球の自律的動向を明 ら かにしてみたい 。まずとりあげたい事実の 一 つ は 、進貢品の変更問題である 。すなわちそれは康 照 二 九年 ( 一 六 九
O
、元禄 三)に耳 目官温允傑、正議大夫金元達らが入貢した折、伝統的な進貢品の 一 つ で ある海螺殻 ( 三000
個 ) が免ぜられるにい たり、以後その代替物として錫三000
斤の進貢を約して帰国に及んだことに絡む問題である 。 両進貢使の帰国の報 告を、つけて、王府では、錫の調達を薩摩藩に依頼したが、この一件に関する島津氏の反応が興味深い。一六九二年(元 { 担 } 禄五)九月一一一一日付の﹁口上覚﹂はまず次のようにいう。 ( 前略 ) 螺殻之代ニ錫 三 千斤差渡度之由被申出趣達 貴開候慮、大清 b 差渡品と之儀ハ嘗時被入御念御事候、三千 斤之錫差渡儀ゑ 公儀 b 被相伺御差図次第被仰付筈候得共、江戸 b 被 仰越候ゐハ嘗年進貢之問ニ不合儀候、錫ハ 琉球之土産ニあ決無之、 日本 b 致才覚事候得ハ、嘗年ゑ断申候る渋可相済候得共、於大清内約仕置候儀内約仕置候 儀共法有之、相違ニ罷成、自然挨拶悪敷儀法可有之候係、此節込先錫千斤可相渡之候、向後之儀ゑ被相伺候上願之 通可被仰付儀も可有之候、又ゑ被差留儀渋可有之候、此節 s h 大清二る之挨拶迄-一、右之通被仰付候係、此旨可承置 候、自今以後差渡品と儀、此方必不相伺内於大清内約又ハ噂ニゐ残仕候儀、致無用候様ニ可申渡由被仰出候、(以 下略) つまり要約すれば、川三000
斤の錫を差渡す一件は本来ならば公儀へ伺い、その許しを得るべきであるが 、それ では進貢に間にあわない 。 錫は琉球に産せず、 日本で才覚するのであるから、当年は断っても構わないが、すでに清 考 固に内約してあることでもあり、国交の悪化も鑑みて一00
0
斤だけの錫を相渡す。ω
今後については願の通り認め 自 命 E買 る場合もあり、差留めることもある 。 今回は清国への儀礼のためである 。ω
今後進貢品については、島津氏の伺いを 巻 経ずして清国と内約はおろか噂をすることすら禁ずるとの藩主綱貴の仰せである、ということになる 。 以上から明ら かになる通り、島津氏には事前にその内諾を経ずして清朝との聞に進貢品の変更をとり決めた琉球国の行為は、島津四 氏の領主支配権を無視したものと映じていたのである 。 海螺殻にかわる代替品が産出量の少ない錫であったため、島 津氏が強くこだわ ったとも言えようが、しかし引用史料の後続部分でも﹁大清必差渡品ミ前と被申出候節、不遣之 ( M m -候る不叶筋段と申上、 此 節之儀渋其通候、於大清太抵致内諾置被申出事之様-一相聞得候、右林之仕形不可然事候﹂と、 かつて同様の件では事前に島津氏に打診があったにもかかわらず、今回はその先例に違背していると問責している点 からしても 、問 題の中心は琉球側の独断専行にあったことが理解できる 。 そして次第に進貢物を銅 ・ 錫などの﹁勝手 能品﹂に替えていく清国は﹁近比申立過 L ぎと批判しつつ、﹁其外琉球より申出候儀ニ右林之事共有之﹂と指摘する くだりには、琉球国が対清外交を一定の主導性をもって展開し 、 それが島津氏にとって軽視できないものとなってい たことが語られていよう 。 b 漂流民直送体制の意義 元禄期の琉球の動向として、また見過ごすことができないのは幕藩制国家による漂流民送還体制からの離脱という 事実である 。 すでに荒野泰典が明らかにするように、 一 六 三
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年代において、琉球国は幕藩制国家のもとでの漂流民 { 却 } 送還体 制 に組みこまれ、国内への外国漂流民は長崎へ送還することを義務付けられるにいたっていたが、しかし、 六八八年 ( 元禄元 ) の宮古鳥への漂着異国人の処理問題を契機として、この制度に変 化があ らわれる 。 いまその経緯 { 幻 -について簡単に示すと次の如くである 。 すなわち、その年の六月に宮古島友利村に異国人六人が漂着したため、琉球 はこれを鹿児島に送り、 いっぽう薩摩藩では長崎に送還する手はずを整えたが 、山川港に滞船中に漂着人のうち四人 が病死したため、遺骸を塩付けにして生残った 二 人とともに長崎奉行所へ届けた 。 ところが藩よりの漂着人送付の案内に対して、長崎奉行より藩長崎附人に伝えられたのは﹁ 言語 不通何回之者共不相知者を長崎へ被請取置、何之坪も 不明無早晩被召置儀御厄害ニ候、若此方於舵中皆共死去仕候へハ幸之由﹂という意外な 言葉で あった 。 そこで落は次 -担 } の よ 、 つ に い 、 っ 。 然主閉山賀邪宗門之外失国人長崎へ送届候儀不宜思召候様子ニ承得候、右之通思召候者を被差越候へハ長崎御奉行御 苦労ニ罷成、第一此方様御厄害国司も御不勝手之儀、努以無調法成儀ニ候、琉球目矢田之儀候へハ、外国之松毎度致 漂着事候問、向後右林之松漂泊之節ハ失国人陸へ不下、地下人松ニ不乗様ニ堅固陵地二番を付置、米・水・薪等於 梯底ハ少 E 為取之、尤馳走かましき儀不申付之 、 早と為致帰帆、其趣委細御嘗地へ可被申上候、勿論 此 節 之 様 -一 致破損可令帰帆様於無之ハ、失国人御首地へ被差越ニゐ可有之候、 すなわち、言語も通じず、対応のままならないキリシタン宗門以外の異国人の送付を﹁厄害﹂とまでいい切る長崎 奉行の本音を知った薩摩藩は、同様にその﹁厄窓口﹂と琉球国王の﹁不勝手﹂を解消すべく、漂着異国人の上陸を許さ ず、薪水 ・ 食料を給して退去せしめ、その委細について藩あてに報告すること、ただし帰帆のかなわない破損船の異 国人については鹿児島へ送還することを琉球側に諭達したのである 。 こうして、琉球国も鎖国制のなかに繋ぎ留める長崎を中 心 とした漂着人送還体 制 は 、 一歩弛緩の方向へむかつた。 この点について注意しておきたいのは、長崎奉行は漂着人の処理という﹁厄筈﹂が島津氏のもとで処理され 、 ハつま l l 考う島津氏はそれが琉球国で処理されることを望んだことであって、ここに幕藩 制 国家が﹁役﹂の徹底を通じて、異国 論 頭 (人)と直接関わることから遠ざかろうとする側面が見出されよう。 巻 そうした幕藩 制 国家の異国社会との接触忌避志向もあって、漂着人送遺体 制 は一六九四年(元禄七)には、琉球国 よりの直接送還体制の要求によってさらに大きく変質せしめられていく 。 そのきっかけは、なお決め手を欠く部分も 五
一 一 ム ハ あるが、おそらくは一六九 二 年 ( 元禄五)に宮古島に属する永良部島へ漂着した術江船の処置をめぐる薩摩藩との応 酬の中にあったのではないかと目される 。 すなわち、九四年九月二六日付の琉球在番奉行 川 上右京宛の平田宗正ら家 老連署の御用状によれば、この時、琉球側では唐人達の要求に応じて、風難のために破損した船舶の修補を許してそ のまま帰帆せしめ、あえて長崎へ送還することはしていない 。 これに対し、琉球国より報を、つけた藩では藩主島津綱 資の命を、つけて漂流船の 一 件を長崎奉行へ通知し、さらに綱貴自身が老中大久保加賀守へ報告に及び、この詳細につ いて琉球国の北谷按司および三司官衆へ申達すべきことを命じている 。 このほか御用状では、宮古島在番が幕令通り 漂着船に関する詳細な書付を数通作成しながら、 川 上の許へ届けていない事実を指摘して、以後定規通りその送付を 徹底させるよう、北谷らへの示達を促している 。 これに対し、琉球国側では琉球よりの漂着船直送体制を訴えたもの とみられ、そしてそれを、つけての藩の立場を明らかにしたものと思われるものが、次の十 一 月二六日付の新納近江宛 平田宗正ら連署の﹁覚写﹂である 。 覚写 一 琉球 b 唐松漂着之儀候ハ、、馳走仕、進貢使之節本国 b 可送遣候、朝鮮国 b 漂来之者有之、致馳走送越、於大清 国御褒美被下候、其例相守様ニと甲子年種部之以苔文申渡有之候付ゐ、去年北谷按司 ・ 三 司官より被申出趣承届、 右之儀嘗年決又と被申出之段令承知候、漂着之唐松致馳走候儀ゑ 公義之御禁止候、琉球之儀ゑ寓端富国之御仕 置不被相 { 寸 候ぁ不叶事候問、失国松漂着候ハ、不飢様仕置候迄ニあ可然候、不飢様介抱候得ゑ、大清之申渡致違 背 筋 -一 品 同 銀 ⋮ 之 候 、 進 貢 之使松ニ高大清 b 可送遣之由ゑ 公 義 よ ね 被 得 御 差 図追あ可申越候、其内ゑ有来通被相心得 尤 候 、 一 右之杏文十ヶ年以前到来写之儀ゑ、其節為被 差 出由候得共、何様可仕哉之由 sh 噂浅不仕、去年漸被申出段大形之
儀ニ候、且又去年被申出候節問届趣有之候慮、右苔文之御請ゑ子今不申達候、此方之御仕置之様可仕と存罷在候 自答被申候処、骨回年琉球より申越候書物ゑ、大清之仰渡琉球国中 b 申渡候旨、翌丑年御請之奏文差上候由相見得 候、相違之申分無心許候、御径目可有之儀 4 一候得共、北谷按司ゑ近年之役儀、 三 司官漁十ヶ年巳来段、︿役替有之 候故、此節ゑ右之趣達 御聴、相違之申分御用捨被成候問、向後被入念可然候、 朱 キ右 7c Z
空豊
年 議
b 可 被 申 越 候 以 上 十 一 月廿六日 平田新左衛門 肝 付 主 殿 種 子 嶋 蔵人 喜 入 又兵衛 嶋i
掌 縫 殿 新納近江殿 すなわち史料の第一条目の語るところでは、まず甲子年(一六八四 ・ 貞享元)に清国より﹁漂着船を馳走した朝鮮 固には褒美を下賜しており、琉球もその例を守るように﹂との苔文が与えられ、これを根拠に琉球側が直送体制を主 考 張 し た と み ら れ る 点 が ま ず は 注 目 さ れ る と ころである 。 これについては﹁漂着之唐松致馳走候儀ゑ公義之御禁止候、 。 岡i
琉 球 之 儀 s h 省内端嘗国之御仕置不被相守候b
不 叶 事 候 問 、 桑 田 船 漂 着 候 ハ 、 不 飢 様 仕 置候迄 ニ る可然候﹂﹁公義b
被 得 頭 巻 御 差 図 追 必可申越 候 、 其 内 s h 有来通被 相心得尤候﹂な どのくだりに、公儀法度 、 島津氏の﹁仕置﹂から逸脱する行為 を許すまいとする藩の気迫を読みとることが可能であろう。 七J¥ 第二条自によれば、さらに右の杏文が一
O
年前に到来した時には琉球側よりは写を差出しただけで何の伺いも立て ず 、 翌年になって突然苔文の存在を主張し出したこと、しかも苔文に拠らず藩の﹁仕置﹂を遵守するとしながら、清 朝には脊文を受容する奏文を土呈していたことがわかるが、これについても﹁相違之申分無心許候﹂という一節に島 津氏のおだやかならざる心情が集約されていよう 。 以上の点から明らかなように、琉球側の漂流民直送体制の確立は島津氏の反応から逆に窺い知れるように、琉球国 の島津﹁仕置﹂から 一 歩離脱することを意味していたのであり、それゆえに幕藩制国家にとっても決断の分かれ目と なったと思われるが、しかし幕府は最終的には琉球国の要求を容認するにいたっている 。 す な わ ち 、 一 六九六年 ( 元 禄九)六月廿八日、老中大久保忠朝らは島津綱貴に対し、従来の琉球国への漂着唐船のうち破船の場合唐人を長崎へ 送還し、破船なき時は琉球国より帰着せしめ、このことを長崎へ島津氏が報ずるという制度を止め、以後は漂着唐人 はもちろん﹁出所不相知候異国松﹂が破船しでも福州へ送還することを許し、ただし、南蛮船はいうにおよばず、キ リシタン宗門の疑いがある異国船の破船に際してのみ唐人も荷物も長崎へ送還させるものとする、という制度の改変 を申している 。 このように幕府が琉球からの漂流民の直送体制を認めた理由について、荒野は、 一 六八四年の選海令の撤廃後日本 への中国船の直接来航が増えるようになり、中国漂流民の長崎送還によ っ て隠弊した日琉関係が清国に知れることを 恐れなければならなくな っ たためだとしているのが、送還体制が改変されてい っ たのには、幕藩制国家の鎖国体制よ りも清朝との冊封体制を国家編成の秩序として選択しようとする琉球団側の主張があずかつて力があったといえるで あろう 。 そしてまたかかる琉球国の国家的主張を幕府が受け容れたのは、それこそ荒野のいう幕藩制国家の﹁役﹂の 徹底による対外関係の編成が志向されたためだと考える 。C 島 津氏 の貿 易拡張要求 と 王府 最後に注目しておきたいのは、この期に島津氏の貿易介入を拒否しようとする琉球国の 姿 勢が強固にな っ ている 点 である 。 その第 一 は元禄の貨幣改悪にともなう貿易定高の補填問題にみることができる 。 周知のように幕府は 一 六 九 五年 ( 元禄八 ) に貨幣の改鋳の出目を確保するために 金 銀貨を改悪したが、銀貨は銀含有 率 が 一
000
分の八OO
か ら六四O
に下 っ たため、現実には琉球貿易定高も引入れの形とならざるを得なか っ た 。 そこで藩は 一 七O
二 年 (元禄 に な っ て 、 ﹁ 新 金 銀之位引入候あ 残 波唐方ハ相調筋相聞得候得共、前後相障儀有之候問、此節増 金 之願国司 ぷ 可被仰出時節ニ候﹂と、新銀でも渡唐には影響はなか っ たものの、先のことを考慮して引入部 分 の増 高 を幕府に願い 一 五 ) 出るように琉球国王尚貞に促したのである 。 しかし、これについて検討を委ねられた通事たちは、 川 これまで渡唐船 は 一 般につき銀五O
貫目ず つ 差 出し、唐人たちへは琉球国は不自由な小国ゆえにわずかの銀高しか帯び 来 ることがで きないと説明している、凶その後渡唐銀高は増大したが、中国の官人に過分の遣銀を強要されるか、運上を掛けられ ることになるので、大分の銀は船中に隠し置いている 。 また太荷を福州琉球館に買置くこともできず、官人たちの査 { 判 } 察の眼をようやく逃れている有様であるので 、 これ以上の増銀は了簡致し難い、と具申している 。 考 第二は藩の錫による代物替要求および買物銀増額要求について窺える 。 すなわち一七O
五年 ( 宝 永 二 ) 、 藩 よ り錫 論 一O
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斤をもって糸端物を購入することを打珍された長史 ・ 諸大夫ら渡唐役人らは、 ﹁ 錫之儀進貢物ニ候処、貰買仕 候儀如 何 可有之哉、念遣之事候﹂と、錫は 中 国皇帝への進貢物であることをもって 一 般の売買の対象とすることに懸 頭 巻 念を表明し 、 さらに次のようにも述べている 。 ﹁ 此 中唐奉行衆 ぷ 琉球土産物之儀被相尋候節 ゑ 、 小 国之事ニ あ 重宝成 九。
品物無御座候、銅錫之類多ゑ無之ニ付ゐ、漸銅三千斤錫千斤乍軽少進貢仕候由致返答置候得ゑ、脇より商売持渡儀宜 ケ間敷候、其上品替共隙取出帆之支ニも可罷成哉努と以念遣奉存候﹂ 。 つまり、中国の宮人に対し、琉球固において 銅錫の類の鉱産は乏しいと述べてきた言辞に組舗を来たし 、ま た品替えに隙取って出帆の支えにもなることを主張し ているが、先の進貢物の品替え一件の経緯がこの問題には大きく影を落していたことが、行論から感じとれる 。 また、藩では右の一件とともに、 一O
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貫目の御物銀の増額を検討させていたことがわかるが、これについても、 が 中 や 固 ま の な 官 い 人 と は を 渡 指 唐 摘 銀 し 高 て は 五銀♀
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い ご と .4 る A iι て このように一瞥する限り、元禄末期から藩が自己資本を増枠して、唐物貿易を拡張しようとしていたことがわかる 。 しかし、琉球側は藩あての要求については容易に受け容れる態度を示さなかったのであり、島津氏の貿易介入を排除 しようとする琉球の姿勢には強固なものがあったことが理解できよう 。 むすび 以 上 、 一 七世紀末期の琉球国の動向について検討してきたが、これまで明らかにな っ た点をまとめると次のように なる 。 第 一 は貞享令の発布は琉球国に貿易銀高の制限だけでなく、京都への定問屋の設置による琉球唐物販売ル 1 ト の規制をもたらし、さらに護摩藩を通じて琉球固に対する私貿易の統制が促されていった事実である 。 この点では、 貞享令は琉球口を含めて対外貿易の編成を意図したもので、画期的意義をもつものであったということができる 。 第 二 は、しかし、そうした貞享令はいち早く琉球固においては実体なきものにする現実が存在していたことである 。すなわち定銀高は遵守されず、多額の隠投銀が持ち渡られ、それによ っ て 輸入された物が不正唐物として鹿児島市場 へ 抜 け て い た 。 一 六 九 一 年 ( 元禄四 ) の抜荷事件がその事 実 を象徴するものであ っ たが、それを 支え る流通手段とし て、寛永通 宝 の存在があ っ たことは重要である 。 この庶民貨幣が中国市場で交換機能を発煙したとするな ら ば 、不正 唐物の販売および流通はさらに東アジア的規模で底辺に拡大していく可能性をもったことを意味するからである 。 第 三 は、海螺殻より錫への進 貢 品の品替え問題および 一 六 九六年 ( 元禄九 ) の長崎への漂流民送還体制か ら の 離 脱 、 そして元禄末年から宝永にかけての藩の貿易拡張要求に対する否定的な対応等々に、 一 定の琉球国の自律的な動向が 窺えたということである 。 進貢品の品替え 一 件は、島津氏の態度にいみじくも示されたように、琉球出兵を機にして 同氏のもとに吸摂されていた尚氏の外交権のなしくずし的な復活を意味するものであ っ たし、長崎への漂流民送還体 制か らの離脱は、漂流民の送還を通じての国家的主権の国際的承認の途を得ることにつながるものであった。そして 、 薩摩藩の一連の貿易拡張策をたやすく容認しようとしない姿勢こそは、そうした琉球の自律性回復の意識的反映で あったとみれるのである 。 以上が小論の簡単なまとめであるが、こうしてみると、 一 七 世紀末は、琉球国は幕藩制国家の編成原理としての鎖 国制に抗する形でむしろ自律性を深めつつあった 。 いいかえるならば、中国を中心とした冊封体制を国家編成の基盤 とする方向を明確にしつつあった時期ということができる 。 周知のように、 考封体制秩序の打ち壊しにかかるが、近代化の過程で新たな国際関係の再編を目ざす明治国家によって克服の対象とさ 一 八七九年 ( 明治 二 一 ) に明治政府は冊 論 れたそれは、この期以降、強固に打ち固められていったという見通しをここでは示しておきたい 。 頭 いっぽうこの期において注目されるのは幕府の態度である 。 漂着民送還体制に関しては、琉球側の要求を受け容れ 巻 る柔軟な姿勢を示していた 。 これは一七
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九年 ( 宝 永六 ) の家宣の将軍即位の慶賀使派遣にこだわっていない点とあわせて考えてみると、 一つの琉球支配の変化を意味するものといえよう。幕藩制国家権力の圏内社会からの遊離がす すむこの時期、﹁厄害﹂を忌避すべく、国際社会からの撤退も志向されていたといえるのではあるまいか 。 ︹ 注 ︺ ( 1 ) 浜下武志﹃近代中国の国際的契機﹄(東京大学出版会、 一 九 九
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年 ) 、 三 五 頁 。 ( 2 ) ﹁琉球処分﹂については金城正篤 ﹃ 琉球処分論 ﹄( 沖 縄 タ イ ム ス 社 、 一 九七八年)、我部政男 ﹃ 明治国家と沖 縄 ﹄ さ = 書 房 、 一 九七九年)、安良城盛昭 ﹃ 新 ・ 沖 縄 史 論 ﹄ ( 沖 縄 タ イ ム ス 社 、 一 九 八O
年)、西里喜行﹃沖縄 近 代 史 研 究 ﹄ ( 沖 縄 時 事 出 版 、 一 九八一年 )等 を参照されたい 。 ( 3 ) 拙稿﹁琉球の支配﹂ ( 加藤栄 一 ・山田忠雄編 ﹃ 講座日本近世史 2 鎖 国 ﹄ 、 有 斐 閣 、 一 九 八 一 年 )、 ﹃ 鎖 ( 4 ) 固 と 藩 貿 易 ﹄ ( 八 重 岳 書 房 、 一 九 八 一 年 ) 。 ( 5 ) ﹁列朝制度﹂巻之 二 十 ( ﹃ 藩法集 ﹄八 ・ 上 ) 、 一 二 四 七 号 。 ( 6 ) 注 ( 3 ) 拙 稿 参 照 。 ( 7 ) 山脇悌 二 郎 ﹃ 長 崎の唐人貿易 ﹄ ( 吉 川 弘 文 館 、 一 九 五 四 年 ) 、 六 八 頁 。 ( 8 ) ﹁旧記雑録追録﹂巻 一 八 ( ﹃ 鹿児島県史料 ﹄ 一 ) 、 一 二 三 九号 ( 以 下 ﹁ 追 録 ﹂と略記する ) 。 ( 9 ) 右 同 巻 一 七 、 一 一 一 一 一 号 。 ( 叩 ) 右同巻一七、二二ハ一号。 ( 日 ) 右同巻一八、二一六三号。(
ロ
)
右 同 巻 一 九 、 一 二 三 一 一 号 。考 論 頭 巻 ( 日 ) ( は ) 右同巻一九 、 二 三 二 四 号 。 (日 ) ﹃ 華 夷 嬰 態 ﹄ 巻 十 六 。 ( 日 ) 右同巻十六 。 ( 口 ) ﹃ 日 本 史 料 集 成 、清 実 録 之 部 付 ﹄ 。 ( 日 ) ﹃ 華 夷 嬰 態 ﹄ 巻 二 十 。 ( 日 ) 右同巻二十 。 ( 却 ) ﹁ 追 録 ﹂ 巻 一 九 、 二 三 二 二 号 。 ( 幻 ) 右同巻二
O
、二四O
六号 ( 2 ) 。 ( 詑 ) 右同巻二O
、 二 四 六 三 号 。 ( お ) ﹂の点については岩生成 ﹁江戸時代に於ける銅銭の海外輸出に就いて﹂ ( ﹃ 史 学 雑誌 ﹄第三 九編第 一 一 号 、 一 九 八 二年)が示唆に富 む 。 ( 出 ) 山 脇 前 掲 書 、一
OO
頁 。 ( お ) ﹁唐通事会所日録 L 三 ( ﹃ 大 日本近世史料 ﹄ ) 。 ( お ) ( 幻 ) 注(口)に同じ。 ( お ) ﹁ 追 録 ﹂ 第 一 九 、 二 三 二 四 号 。 ( 却 ) 右同巻一九 二 三 二 五 口 方 。 (却 ) 右同巻 一 九 二 三 七 一 号 、 二 三 七 二 号 。 ( 出 ) 二 四O
六号 ( 1 ) ( 2 )。
右同巻二O
一
一
( 詑 ) 注 (却 ) に同じ 。 ( お ) ( 泊 ) ( お ) ﹁ 追 録 ﹂ 巻 一 九 、 二 三 六九号 。 ( 珂 ) 荒野泰典 ﹃ 近世日本と東アジア ﹄( 東京大学出版会 アジア﹂参照 。 ( 幻 ) ( お ) ﹁ 追 録 ﹂ 巻 一 八 、 一 一 一 ム ハ コ 一 口 方 。 ( 却 ) 右同巻 二