• 検索結果がありません。

内房尼についての一考察

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "内房尼についての一考察"

Copied!
8
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

内房厄についての一考察 i¥.

内房尼

r h

いての

-

=

-内長尼は建治四年の春﹁氏榊詣でのついで﹂とて身延の御草庵を訪れ、室副から本来を誤るものとして迫ひ返され た 有 名 主 老 尼 で る る 。 然しその俗姓については、古来異説粉々﹁孜異﹂の如きは﹁一老尼不詳何人也﹂と匙を投げてゐる。 が然し五日人は仮令、最後に玉って匙乞投げるとし℃も、出来得るだけその範園を狭めて見たいと忠ふ。 二 、 内 房 尼 入 信 の 時 と 因 縁 内房尼の入信の時を知る確質たポイントとたるものは‘やはり三樺紗である。何となれば身延詣で己前の入信は明 で あ る か ら で あ る 。 然しとの三樺紗の御述作年次に多少の異設が見られる。即ち﹁諦目﹂及び﹁境目﹂は弘安元年とし、﹁統紀﹂は拡安 三年としてゐる。今且く﹁遺文録﹂に従って建治凶年二月の御堂月と見た。 ﹃又内長ノ御事ハ御年ヨラセ給ヒテ御ワグリアリシ‘痛ハシク思ヒマイラセ候シカドモ.氏紳ヘマイリテアルツイデ ト候シカパ、見参−一入ルナラパ定メテ罪フカカルベシ・共故ハ榊ハ所従ナリ法華経ハ主震ナリ‘所従ノツイデ−一主

(2)

君へノ見 49 ハ世間ユモオソレ候・共上尼ノ御身一一ナり給ヒテハマヅ悌ヲサキトスベシ、カタガタノ御トガアリシカ パ見参セズ候。此叉尼御前一人ニハカギラズ、共外ノ人々モ下部ノユ ︵祖泉︶ノツイデト巾ス者ヲアマタ遁返シテ 候尼御前ハ親ノゴトクノ御トシナリ、御ナヂキイタワシク候シカドモ、此義ヲ知ラセマイラセンタメナリ﹄︵っきさ と

既にこの御書が二月とすると、尼の身延参詣の事買は、それ己前の正月ではなかったと思ふ、若し然らぽ氏神参り の事は、ズツト軽い意味で氏子としての正月の棺参拝で、宜は宗祖への年同の挨拶が主ではなかったかと考へられる。 で、・なければ内房から身延まで八里の遣程であるから、氏一脚の所在が問題になる。 然し何れにしても、尼が敬神奉仰の人であった事は明かで、而も尼御前と敬梯さてれゐる点から見て、相営身分も あった人と見るべきであらう。市も亦﹃共上尼ノ御身−一ナリ給ヒテハ﹄とあって、﹃榊ハ所従ナリ法華経ハ主計ナリ﹄ の大義を断乎として示されてゐる所から推して、入信の程も察せられるのである。 内房本成寺の﹁寺侍﹂に依ると ﹃正嘉二年駿州岩本質相寺=趣キ支ヒテ:::逢ニ門外ユ一揖出セラレ玉フ、愛一一一川閑庵原郡内房殴トイヘルハ窪尼御 前ノ長子=シテ、岩本ノ領主上野殿ノ郡代宵ナリ。共日偶一人ノ族併−一合見共筑高キ威容ヲ見テ、意哀ヨレ凡侶一一 アラズト思ヒ供奉シテ我邸二師ヘルミ果セル哉捜一二重夜一一シテ法義ヲ聞テ師依信伏ス﹄ と、記してゐる。 と L には窪尼と内房尼を同一人として扱ってゐるのであるが、未だ岩本入蔵己前に内房に入られたと一匹ふ他の詑録 4 L 見 ・ な い 、 のみならや弐下に 内 一 跨 U 出についての一考察 ノL

(3)

内房厄についての一考察 i¥. l'LJ ﹃ 共 同 真 一 宮 寺 一 一 シ テ 胎 鏡 ヰ ザ ト イ ヘ ル ア 可 、 住 持 ハ 同 ジ ク 窪 尼 御 前 ノ 子 息 = シ テ 、 共 兄 弟 モ マ グ 出 家 シ 一 ア 兄 ヲ 東 林 法 印 弟 ヲ 伸 像 法 印 ト 競 ス 、 等 シ ク 員 一 一 一 口 ノ 奥 義 ヲ 極 メ タ ル 風 一 良 ナ リ シ ガ 母 兄 ト モ ニ 既 一 一 高 岨 − 一 信 伏 セ シ ヲ 見 テ 憤 リ − 一 端 ズ 屋高祖−一詰難ヲ試ミタレドモ選三詑キ破ラレテ法弟トナル:::寺蹴ヲカヘテ長遠山本成寺トナシ﹄ ム ﹂ 、 連 ぺ て ゐ る 。 とれを﹁本成寺歴代相承﹂に検して見ると、兄の東林房は永仁元年七月十三日四十九歳で化し、弟の伸像房は延慶 三年八月朔日六十三歳で退化してゐる。而してとれを逆算すると正嘉二年は、賓に東林一対十四歳、悌像房十一歳とな る。如何に天分に恵まれたとしても、との年齢にして真言の曲学匠とは背けない。且つその後の救線にも名が見えない のは不審とすべきであらう。 そとで﹁統紀﹂を見ると ﹃ 叉 上 野 邑 主 族 = 有 = 内 房 ノ 阿 摩 一 。 居 晶 子 巷 原 郡 内 房 邑 一 、 別 z 築 = 新 室 ↓ 介 勺 庄 司 入 道 ザ 態 懇 − 一 敬 作

t

高 組 不 拒 十 六 円 宿 パ 窓 2 ・ 阿 摩 喝 レ 誠 ヲ 轄 レ 抽 何 ヲ 饗 膳 器 内 , 美 突 ﹄ と云って、文永十一年五月、聖組身延御入山の向りの結縁としてゐる。 ﹁年譜﹂はとれを受けて ﹃ 十 六 日 強 = 千 内 房 − 有 二 老 尼 一 供 健 ﹄ ム ﹂ 記 し 、 ﹁ 孜 具 ﹂ は 認 め て ﹃ 内 房 在 一 一 庵 原 郡 司 共 地 後 人 建 寺 蹴 = 長 選 山 本 成 寺 − ﹄ と . 一 去 っ て ゐ る 。

(4)

要するに﹁寺傍﹂の正喜二年入信設は‘種々の点から受賞を快くもの L 如くである。恐らく身延御入山の時に敬化 に浴し、後に尼となったものであらう。

次に﹁寺侍﹂が内房尼と同一人として扱ってゐる窪尼について考詮しゃう。 窪尼が頂いた御堂百として現存するものに前後七通ある。最初の弘安元年五月の御堂百には ﹃サテハ熱原ノ事‘ コンドヲモツテヲポシメセ、サキモ虚事ナリ:::佐渡ノ園−一一アモ、ソ一フミヂウソ︵虚御歌書︶ ヲ三度マデックリテ候シゾ﹄︵一、七二六﹀ と 、 熟 原 法 難 や 佐 渡 三 度 の 宰 御 教 室 同 一 の 例 を 引 い て ﹃師子ノ中ノムシノ師子ヲ食ヒウシナフヤウて守殿ノ御恩−一テスグル人人ガ、守殿ノ御威ヲカリテ一切ノ人人ヲヲ ドシナヤマシワヅラハシ候ウコ上ノ仰トテ法華経ヲ失ヒテ閤モヤプレ、主ヲモ失フテ、返ツテ各各ガ身ヲホロボ サシアサマシサヨ﹄ と、時宗の戚を借る家人共を難ぜられてゐる。更に同年の六月二十七日には ﹃世ノ中=イカ−一今マデ御信用候ケル不思議サョ‘根フカケレパ葉カレズ、泉支アレパ水タヱズト申スヤウエ御信心 ノネフカ夕、ィサギヨキ支ノウチ=ワタラセ給フ欺﹄ ハ 一 、 七

O

四 ︶ ム ﹂ ・ 越 べ ら れ て ゐ る 。 と れ 等 A U 御文から推察して.窪尼は鈍合御在住の時からの入信であり、殊に時宗との縁者ではないかと思はれる。 内房尼についての一考察 A 五

(5)

内房厄についての一考察 ﹂ Z F J ノ ﹁ 極 書 詮 議 論 ﹂ 酬 は 既 に ﹁ 時 宗 所 縁 の 人 か ﹂ と 一 再 っ て ゐ る 。 然し弘安二年五月の御書には ﹃叉御心ザシモスグレテ候、サレパ故入道殿モ伸=ナラセ給フベシ。叉一人ヲハスル姫御前モイノチナガク幸モアリ テ、サル人ノ娘ナリト聞ヱサセ給フベシ﹄ ハ 一 、 八 五

O

︶ と、見えてゐるから、此頃は一人の娘と共に位びしく夫の伸事を蹴んでゐた事は明かである。 何れにしても鎌倉で相営身分のあった人の妻と思はれるが、とれについても諸偉各々所見を異にしてゐる。 然し﹁孜異﹂が ﹃ 持 妙 戒 披 也 以 レ 底 呼 L 日 = 窪 尼 一 、 駿 州 富 士 郡 久 保 村 有 = 尼 公 J 家 ↓ ﹄ と云ってゐる如く‘窪の持妙尼たる事は大体間連ひがない。放に内房に住む内長尼とは全然関係がない。 然るに﹁寺倖﹂がこれを混同したのは、﹁統紀﹂が﹁内房窪奏者上野豪族松野氏ノ妻﹂と一言﹁雪山﹂︵担持続開 蛾炉問一範一︶が窪尼を以て松野六郎左衛門の室とした事に混同されたものと岡山ふ。

内房尼と同じく駿河の内房に一んで、弘安三年八月に聖一粗から直接御警を頂戴した人に、内長女房がある。 即ち﹁内房女房御返事﹂には ﹃内房ヨリノ御消息−一云夕、八月九日父−一テ候シ人ノ百筒日ェ相営リテ候、御布施ノ料二十貫マイラセ候

J

ア ナ カ シ コ / \ 。 御 願 文 ノ 紙 − 一 云 ク ・ 奉 山 一 弔 問 調 斗 妙 法 蓮 華 経 一 部 . 奉 主 調 諦 ・ ∼ 方 便 事 量 品 三 十 品 位 、 奉 副 議 諦 ↓ 自 我 偽 三 十 品 位 奉 叫

(6)

bJF ギ 唱 妙 法 蓮 華 経 題 名 丘 寓 返 云 云 同 紙 三 勺 伏 メ 惟 ミ レ パ 先 考 幽 謹 生 存 ノ 之 時 、 弟 子 遁

Z

凌 = 千 里 ノ 山 河 て 親 9 受 計 妙 法 ノ 題 名 ↓ 然 ん 後 チ 不 日 経 = 三 十 日 ↓ 永 ク 告 さ 生 ノ 之 格 寸 等 云 一 国 ・ : ・ : 又 云 グ 弘 安 三 年 女 弟 子 大 中 臣 氏 敬 白 等 ピ 乃 理 此 五 字 ハ 凡 夫 ヲ 悌 ト ナ ス、サレバ過去ノ慈父隼霊ハ存生−一南無妙法蓮華経ト唱ヘシカパ即身成働ノ人也﹄ ︵ 一 、 九 七 一 ﹀ と 即ち内長女房は亡父の百箇日迫一輔の布施として金十貫文を献じ‘且つ願文を添へて﹃女弟子大中臣民敬白﹄と云ふ。 布施の料、並に願文の内容によって凡そ身分と救護の卑しからぬ事は判臨出来る。而も亦、大中臣氏を名乗る以上紳 祇 に 閥 係 あ る 事 は 一 足 ふ ま で も な い 。 国に内房の村枇千限神世門捕時間/古名︶の神体は本成寺から米洞した首婦の木札である向。又宮ノ下相沼に瓶先以来浅間の山首司 をしてゐる家がある。同家の古記録には藤原朝区、中民朝民館干の詑名も見え、四百年来鈴木刑都大夫と稀してゐる。 と L に於て内房尼と内房女房の特殊闘係が考へられ‘﹁聖典樹林﹂は ﹃内長尼御前トハ母子ノ闘係ナルペク弘安三年卒去セル女房御前ノ父ハ此尼御前ノ夫−一ハプラザルカ﹄ ︿ 五 一 七 ﹀ と云ってゐる。若し然らぽ尼は大中臣氏で共に敬紳奉備の人でるった事に不思議はたい。又営時の脅慣として入誼及 び尼は必十しも家庭生活を離れてはゐないから、老日唱の夫が弘安三年四月に寂したと見る事も出来る。且つ聖耐の慣 用例として母を尼と呼び、嫁を女房と稿せら・札た事からも背けるのである。 そとで﹁御害時註﹂は内長女房は内房日住蹄門白妻で、三樺藤弐の娘だといひ﹁旭堂日詮義論﹂は‘日住開門を内房 殿として妙最の孫、日源の兄弟だと一五ふ設が出で‘故島智艮削も亦、妙厳 bL 内長女房の父とし.尼を母として舎過を 試みてゐるのである。 内房厄についての一考察 八 七

(7)

内 房 厄 に ワ い て の 一 考 察 A l¥. 然しとれ等は要するに内耳尼と内長女房‘及び三禅肢との闘係づけの努力に過ぎない。結局﹁孜異﹂の如く﹁一老 尼不詳何人也﹂と匙を投げるべきであらう。

最後にとれを綜合して考へるとき‘内長厄は内長女房と母子、或は姑嫁の闘係で共に大中臣氏として、敬紳奉仰の 人と見る事が出来ゃうと思ふっ而して﹁御書略註﹂が内一民女房を三樺氏の娘とするのも﹁民貨偉﹂が内長尼を三樺氏 の伯母としてゐるのも‘共に﹁一ニ樺紗﹂によって通家たらんとの想像からと思はれるが、その袖書に 司カヘスガヘス駿河ノ人人ミナ同シ御心ト申サセ給ヒ候へ﹄ ハ 一 、 七

O

二 ︶

とある御文から拝して、三樺氏は駿河一固の蝿頭の如きものではたかったかとも考へられるのである。 又諸俸に多く尼を上野邑主族とし、松野ムハ郎左衛門の妻としてゐるが、若し然らば六老借日持上人や上野尼の母で あるべきである。が然しその事も見えたいし、御雪の上から見ても別人とすべきでるらう。 ー 昭 和 十 一 一 、 十 て 十 一

l

(8)

弘 安 三 年 四 月 死 一 | 東 林 房 一

l

夫︿内房女房ノ父︶一|内房殿日住開門

i

l

l

l

− 一 一

l

一 三 湾 入 選 娘

TT

悌 像 房 ﹁ 内 房 尼 ﹁ 内 百 万 女 房 ︿ 大 中 臣 民 ︶ − 一 ﹁ l 日 源

「寸一

松 松 呈

野野??

殿 六 : 後 郎 え

| 門ヅ

||空

日 上 松 松

野支実

尼 房 郎 ヘ文永建治ノ交愛子 J f ヲ 失 ヒ テ 入 信 ﹂ ︵ 南 保 兵 衛 七 郎 = 一 嫁 ス ︶ 持 丈 永 一 二 平 死 一 |

l

l

女 ︵ 石 川 新 兵 衛 − 一 一 蹴 ス ﹀ ︵ 輿 金 八 一 ﹀ 一 | 上 野 南 保 兵 衛 七 郎 | 一 一 一 一

1Ji

南保七郎次郎時光 ﹁ 上 野 尼 | 一 二 一﹁上野女房 ﹁||同七郎元郎 弘 安 一 一 一 年 九 月 五 日 死 十 六 歳 内 目 W M についての一考察 A )L

参照

関連したドキュメント

これらの先行研究はアイデアスケッチを実施 する際の思考について着目しており,アイデア

  The aim of this paper is to find out that the Religious Knowledge education ( hereinafter called RK ) in Denmark and the Moral Education ( hereinafter called MR )

[r]

私はその様なことは初耳であるし,すでに昨年度入学の時,夜尿症に入用の持物を用

■■ 1.1 梱包内容について ■

[r]

Levin, Real Estate Agent Liabili- ty for Creative Financing Failures, ῏῕ U.MIAMI L.REV... Hollywood Travel & Tours,

Arriba Soft Corp., ΐΐ F.Supp... Google