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「円教」の意味 : 円頓章釈

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Academic year: 2021

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全文

(1)

と。中の﹁専﹂Ⅱ﹁純﹂である。 では、円教とは何か、その意味を包括的に認知することが天台思想の特徴、引いては法華経の特徴を知る所以であ る。そこで周知の﹁円頓章﹂を手掛りとして、このことを調べてみることにする。 天台智顎によると、法華経は﹁純円﹂の経である。例えば ナリニシテスト 当し知華厳兼、三蔵但、方等対、般若群、此経無シ復謂但対帯一専是正直無上之道。故称為二妙法一也︵玄義、会 うし

叶帆背机・綴一実璽・篝境既藍菱貢夷了壁警塁。ど一壽涜塁。一色一盆額圭刺直・部界及依

ナレハシ 界衆生界亦然。陰入皆如無二苦可鯵捨、無明塵労嬰智樋蝿一集臥恥辺邪皆中正無二道可画修、生死即浬築無こ

そリ

ナレハクノキツ ナレハクノキス 本一上7︶ ﹁円教﹂の意味︵浅井︶

﹁円教﹂の意味

1円頓章釈I

はじめに

浅井円道

(I3)

(2)

①の﹁縁﹂﹁造﹂は﹁観ずる﹂の意味。﹁実相﹂、﹁中﹂、﹁真実﹂は妙境である。﹁初めより実相を縁ず﹂とは 初心から実相を所観とするの謂、﹁境に造るに即ち中にして真実ならざるなし﹂とは円教の所観の境は中道であり、 従って一切が真実であるの謂である。つまり別教では地前は従仮入空・従空入仮の二観を修し、これを方便道として 地上に進み中道観を修するが︵類文多出︶、円教では初心から後心まで一貫して中道を観ずるのである。 そのことは法華玄義で宗︵因果︶玄義を明すとき、はじめに宗玄義と体玄義︵諸法実相︶との同異を考えるが、な

ノキスクキーク

滅可ロ証。無し苦無レ集故無二世間一、無し道無し滅故無二出世間一・組一実柤莞福外更頚一別法一・脚性寂為智咳止、

ク牛ニシ

寂腋鴬嚥鴛亀駿一臺初懲捜二穣別。是名二円頓止観一︵止観、会本一ノー9∼u︶ ヲク はじめに﹁円頓﹂とは止観第四摂法章の中で漸頓を明すところによれば 甑君。次第一、籍幽浅酎四策匪頓智。頓足頓極一︵略︶三教止観悉皆是漸、円教止観名し之為し頓︵会本三ノ四詔︶ 一 一

ノハクレ

ノハチワスト

ノニ

シテハニズP一シテハハチハ〆ノースキズルハ

と、妙楽の説明によれば﹁足極二名有し通有し別、通則倶通二初後一、別則極後足初、初心所観萬法具足、惑尽徳満 リテ二二マル 至レ後方極﹂︵同︶と。故に蔵通別三教の止観は空仮二観を方便として中道観に入る︵特に通別二教︶次第の漸次止 観であるが、円教の止観は初心より司職暦足り頓に極まる﹂止観であるという意味である。 ノ 次にまた妙楽によって円頓章を分段すれば、①は﹁所観妙境﹂、②は﹁能観﹂、③は﹁無作︵四︶諦﹂④は﹁結無 ニルモ 作諦﹂、⑤は﹁功用有二浅深一性徳行依婚終無レニ﹂を謂うという。以下順を追って天台・妙楽の更らなる説明を窺お ︾っ。 ﹁円教﹂の意味︵浅井︶ 一一 (狸)

(3)

かにおいて先ず種々の異見を述べ、次いで クニシテモナリシテ

ニモスヲ二ルトトークシレテハヲクトトーク

今言不異而異、約二非因非果一而論二因果一、故有二宗体之別一耳。釈論云若離二諸法実相一皆名二魔事一、普賢観云 ノトハ ノトハ ナリトチ

ノハジテルモニノメニシヲノリニスヲ

大乗因者諸法実相、大乗果者亦諸法実相、即其義也。当し知実相体通而非二因果一、行始弁し因、行終論し果︵略︶ クヲ

ヲケト

スルヲヲク卜

開二仏知見一名二円因一、究二寛妙覚一名二円果一︵会本九下4∼5︶

シニスノヲ

ノトハ ナリ という。中において普賢観経の本文は﹁汝今応三当観二大乗因一、大乗因者諸法実相﹂︵平楽寺本、真訓両読開結六三 一頁︶であるが、天台はこれに﹁大乗果者亦諸法実相﹂の一句を添加したわけである。 法華の宗と体とは﹁不異而異﹂である。なぜなら法華の宗は非因非果なる実相中道の理体に約して因果を論じるか らであると。さすれば法華の行は初心より後心に至るまで諸法実相を所観の妙境とすることになる。唯仏与仏乃能究 尽の諸法実相を法説周では仏知見と称し、仏知見の開示悟入を行相とするから、また換言して初心の円因から後心の 円果まですべて仏知見の開発に外ならないともいう。 同様のことは法華玄義の位妙のところでも述べられる。 ニシテ

ルヲ二スルニヲノカアランシニスルハヲクノノシニズルハヲシル二

今実相平等雛し無二次位一見二実相一者判二次位一何舎︵略︶若見真判レ位如一江河深浅一、若実相判し位如二入し海深

ノ二

浅一、故普賢観云大乗因者諸法実相、大乗果者亦諸法実相︵会本五上7︶ と、中道実相の理は非因非果であり平等である。その理を初心から後心に至るまで観じるのであるから、元来は位次 の隔たりはない。しかし実相の見え方には浅深の差があるから、位次を設けても矛盾にはならない。空の見え方での 判位︵蔵・通︶は江河の浅深の如く深みがない。実相中道の見え方での判位は大海の浅深の如く淵底を極めると。 法華玄義の最初︵七番共解の標章段︶に妙宗とは何ぞやということについて、

ノノヲテスト

仏自行因果以為レ宗︵会本一上Ⅳ︶ ﹁円教﹂の意味︵浅井︶ (I5)

(4)

②は能観。﹁法界﹂とは妙楽によると﹁中道即法界﹂である。つまり法界とは実相中道の拡がりであり、中道のま まの界差別である。万差の法界を中道として観ることを﹁繋縁法界一念法界﹂と表現したものと思う。すると﹁一色 一香無非中道﹂という観方が生れる。 妙楽はこれを一色一香にも皆仏性があるという意味に拡大解釈して、ここで﹁無情仏性惑耳驚心﹂の名句を発し、 以下十義を立てて無情有仏性を論じたことは有名である。要は、中道において一切の存在価値を認めるということで セハノヲ

ニズヲ

ノナルモルレハセチナリヤヲヤシテヲ

セハル 開一稜行一者低頭挙手、歌詠散心皆已成二仏道一、三蔵最浅尚被レ開即妙、況通別等、可二以レ意得一、開下依二小 一 一

ノヲノモシトシテルコトセ

乗一常行等方法上小小微善無三不二成仏一︵会本九上記︶ と。要をとっていえば、低頭挙手︵方便品の人天開会の文︶、著法之衆︵不軽々穀衆︶、散善微因︵人天開会︶、歌 詠散心︵人天開会︶等の小々の微善もこれを﹁決了﹂﹁開決﹂﹁開﹂すれば皆妙因となるという。法華に開会されれ ば、いかなる小善も皆妙因となる。開会とは実相中道観による法界観に外ならない。このことは亦のべる。 因みに﹁横行﹂とは守脱の講義によると﹁横該二所行一﹂つまり、横に広く大小の諸行を該括するの謂である。 体玄義の末尾にも と銘打っているのも同意である。 では初心より実相を観じるというのは、一体どういう行棺なのか。宗玄義で緯妙を明すところでは

スルニワシクジワスルニノヲクズヲニ

モ そジヲニシズトイウコトノー 戸一 決二了麓因一同成二妙因一決二諸麓果一同成二妙果一、故低頭挙手著法之衆皆成二仏道一更無し非二仏道因一、仏道既

ズゾン*ルヲ

ノモ

スルニクレナリヤヲヤヤヲヤ

成、那得三猶有二非仏之果一、散善微因今皆開決悉是円因、何況二乗行、何況菩薩行︵会本九下皿︶ ﹁円教﹂の意味︵浅井︶ 三 (16)

(5)

③は無作四諦。五﹁陰﹂・十二﹁入﹂も﹁無明塵労﹂も﹁辺邪﹂も﹁生死﹂もみな真﹁如﹂﹁菩提﹂﹁中正﹂﹁浬 桑﹂であるから、捨っべき﹁苦﹂も、断ずべき﹁集﹂︵煩悩︶も、修すべき﹁道﹂も、証すべき﹁滅﹂もない。故に 迷の﹁世間﹂と悟の﹁出世間﹂との差もない。一切は﹁純ら一実相﹂であり、実相以外には何もないと。 このことを最も簡明に表現しているのが、法華玄義の境妙段において四諦を説くところである ある。そこに円教の立場がある。

迷理尚議羅剛Ⅱ

無作四諦

霞尚纈鰹脊

無無 量生 四四 諦諦

| |

別通 教教

生滅四諦l三蔵教

註摩訶止観第一大意章の発大心の顕是︵会本一ノ三妬∼配︶

オオオ

大本四教義第一章釈四教名︵卍続三三ノ五妬∼焔︶・第四章明判位不同︵同、四灯︶

444

﹁円教﹂の意味︵浅井︶ 四 ︵会本二下妬∼弘、私に図示︶ にも見える。 (17)

(6)

煩悩即菩提であるならば煩悩は断じなくてもよい。生死即浬桑であるならば生死の苦から出離したいと念願する必 要はない。諸教においては煩悩を断じたところに菩提がある、出離生死したところに浬桑があると教導するから、我 等凡夫は一体どうすればよいのか、我々は煩悩を断じることなど到底不可能である、仏教を信仰する資格は我々には ないのではないかと思い悩む︵菩提是煩悩︶。ところが円教では煩悩は断じなくてもよいというのであるから、我々 にとっては大変親しみやすい、大いに心丈夫である。 信解品第四に、幼稚にして父城を逃逝した窮子が﹁五十余年﹂にわたって四方に衣食を求めて傭昏罵藤Eたあげく、 ﹁遂に其の父の所止の城に到りい﹂という。どういう偶然から父城の前を通ることになり、而も父の目にとまること になったのかということについて、天台は法華文句で ヲニフ 従二退大一已後処々遊腿撤蕊玉華苦一︵略︶以レ苦為レ機扣二於大悲一故言二遂到父城一︵会本十六財 リ テヲシテトク 4畳 つぷ 他国の処々を遊歴して備さに辛苦をなめた、その苦が機感を育てたのが縁となって仏の応を克ちとることができたの であるという。苦は捨離の対象であるよりは機の熟成の資けである。﹁かわいい子には旅させよ﹂というか、生死即 浬藥とはこの謂である。決して中古天台のそれではない。 円五口撃拠甑一五欲流麗一諸哩、具肩悩箪能蹴一如来秘密之蔵一︵玄義智妙、会本三上翌 ヲ

、スヲ

ハラテニモリ

テニモハ、

シテセヲリニシテ

ニ乗怖二畏生死一︵略︶菩薩不し爾、於二生死一而有レ勇、於二浬桑一而不レ味︵略︶不し断二煩悩一而入一連藥一、不し ろでは、浬唾 位している。 うでは、浬桑即生死・菩提即煩悩は理即、生死即浬藥・煩悩即菩提を﹁知﹂るは名字即以上である︵同岬ウ下︶と判 つまり簡単にいえば煩悩即菩提・生死即浬梁を円教教理の特色とするわけである。なお大本四教義の四教判位のとこ ﹁円教﹂の意味︵浅井︶ (I8)

(7)

ヲ 体性この釈文に 道滅即苦集、苦集即道蹴釧︵玄義行妙、会本四上翌 と﹁不断五欲﹂﹁不断而断﹂﹁苦集即道滅﹂等と説くところは、すべて煩悩即菩提・生死即浬桑の円教意である。な お摩訶止観第一大意章・修大行の中の非行非坐三昧のところで観悪を説くところ︵会本ニノ四1︶も往見のこと。 種善一這這一穂秘叩浄名︵仏道品︶云一切煩悩之儒為二如来種一、此明下由二煩悩道一即有中般若上也。又︵弟マ曹叩︶

ヲストトレステ

ニチルコトヲ

ズトノヲレテニルノハチノニシテトカラスレ

云五無間皆生二解脱相一、此由二不善一即有一書法解脱一也。︵又菩薩品云︶一切衆生即浬桑相不レ可二復滅一、此

シテニスト

レテニスヲ

即二生死一為二法身一也。此就二相対一論し種︵会本十九焔︶ ここに﹁煩悩道﹂、﹁五無間﹂業道、﹁一切衆生﹂の﹁生死﹂苦道が法身・般若・解脱と相即することを﹁相対種﹂

テノミしりノノ

この円教相即論のことを天台は亦﹁相対種﹂の開会とも呼んだ。法華文句の薬草聡品﹁唯有二如来一知二此衆生種相

ヲストヲ

愛一起二於明脱一。︵同邨︶ 所豐一隊背義耽多泌w略説蔵八、一教円、二理円、二一智円、四断円、五行円、六位円、七因円、八果円︵略︶ 断一五欲一而浄二諸根一︵止観、観煩悩境ノ観不思議境、会本八ノー別∼躯︶

セワムヲ

一一 断円背不眺流噸無明惑断也︵大本四教義、卍続三五ノ五轡

シセハニクテニスヲレシニセハワククワシナセモストハ

若約二別教一多就二実相一論し断、即是思議智断明峰シ︾大乗之拙度也。若円教明レ義多説二不断一、不し断而断者即 レ

ニシテズシテニテスヲニレ

ナリ二

二クノ

ナリトクシテセ 是不思議断非二次位一以明一一次位一、正是大乗巧度之義。故此︵維摩︶経云婬怒凝性即是解脱、又云不レ断二痴 ﹁円教﹂の意味︵浅井︶ 五 (I9)

(8)

④は且く措く。⑤は﹁功用有浅深、性徳行体始終無二﹂だから位妙に相当すると考えてよい。円頓章の﹁初後﹂は 初心と後心、その﹁無二無別﹂が円教法華の位妙である。 ﹁円教﹂の意味︵浅井︶ ノミシ と呼んでいる。なお妙楽はここで相対種のことを﹁敵対相翻﹂と呼び、﹁別教哺乱富類之種一而無相対一﹂﹁蔵通 ニハクシ 両教全無一此義一﹂とて敵対種の開会は円教にのみ有ることを念注している。いうところの﹁種類種﹂とは、天台は ﹁就類種﹂と呼び、小善即大善と開会することを指す。 これをさらに実例を挙げてわかり易く解説するのが、法華玄義の三法妙の中の類通三道のくだりである。 テノニ センヲ

フガヲ二ニプヲ

資成即業碁恩息葛驫慧亦頼零文一憲鬼入二其心罵一冒穀三辱我一、我等言仏故皆箒忍二是事一・悪

レハリヘ

フルヲワフルハワルノハルニ、テノワスルカ二二テフ

不二来加一不し得し用し念、用し念由二於悪加一云云。又威音王仏所普法之衆聞二不軽言一罵腎打拍、由悪業一故還値二 一一 スルニクリヲ

ハレナリトズヤチナルニ

不軽一、不軽教化皆得二不退一・又提婆達多是善知識。豈非二悪即資成一︵会本五下訂︶ 勧持品の偶によれば強敵が罵晉殴辱の悪を加えるということが、行者に仏を念う信心を発させるのであるから、これ は他の悪が自の善を資けたわけである。不軽々殴衆は不軽菩薩への加害、聞法が縁となって遂に不退を得たというこ とは、自の悪が自の善の資成となった例である。提婆の生々世々にわたる加悪が釈尊にとっては睾昂識であったとは、 他の悪が自の善を資けたことになる。提婆の﹁悪即資成﹂論は弘決二之四u、浄名疏九8等にも見える。 ここに純円教の生死苦即浬桑減の真面目がある。日蓮聖人がこの教学を常に心に抱いて日常の克苦に活現しておら れたことについては日蓮宗事典の﹁相対種・就類種﹂の項等に述べておいた通りである。 一ハ (20)

(9)

等、﹁畢寛発心二不師 とて初後不二を詠う。 もし謂うところのもし謂うところの 同じく騒定円教のところでは ノ 如来行意也︵会本 また位妙のところでも ﹁初発心時﹂﹁発心﹂が初発心住の意味であって、必ずしも名字、初随喜品の初心の意味ではな いというのであるならば、同じく法華玄義の位妙のところに ノーチズトヲ ニサクリ

チシニシナヲストヲ

︵十住位︶華厳︵旧経八泥︶云初発心時便成二正覚一︵略︶大品明従二初発心一即坐二道場一転二法輪一度二衆生一、

ノヲスシトノ

ナリル チレノナリメンカワシテカ ヲ

レノテ

当し知此菩薩為し如レ仏、亦是阿字門所謂一切法初不生也、即是今経為し令三衆生開二仏知見一、亦是龍女於二刹 ノニシ ヲズト

ヲチレニスナリ

ト 那頃一発二菩提心一成二等正覚一、即是浬梁明二発心畢寛二不別一︵会本五上別︶ このことは大本四教義の釈円教名のところでも 錐三復初臨鋭溌後喝表謂。曽塞︵卍続、同畑右下︶ 毛 この面を天台に広く求めると、まず法華玄義の行妙のところでは 円五瓜へ病行・嬰児行・天行・梵行・聖行︶者大経云復有二一行一是如来行所謂大乗大般浬桑︵略︶如二大論云一

二クリ

レナリル

ナリトシニカ

ニシテヲズトヲシニカリ

従二初発心一常観二浬桑一行し道。亦如二大品云一従二初発心一徹里傾乃至坐萱場赤侃壁曙畢寛謂些祇辿皆 ノ 如来行意也︵会本四下1∼2︶ 、シテ

ニズ

クルハ二 円教所説戒定智慧皆約二真如実相仏性浬薬一而弁︵略︶種々法門位行階級無し不下与二実相一相応上摂二一切法一、従ニ ノ セス

ヲリ

シルハ七

初一地一無し不し具二足一切諸地聿︵同畑左上︶ ﹁畢寛発心二不別﹂﹁初発心時便成正覚﹂﹁発心畢寛二不別﹂﹁初臨後臨本未曽異﹂﹁位行階級錘令与実相相応﹂ ﹁円教﹂の意味︵浅井︶ (2I)

(10)

以上、円頓章の指示をたよりに、天台章疏の中から名玄義・迩門十妙の中の境妙・行妙・位妙・三法妙および宗玄 義の文を検索して円教の何たるかを略説したが、類文は甚だ多い。またまだこれで充全だというわけにもゆかぬが、 天台の円教理論は大体において以上のような筋で一貫している。 最後に煩悩即菩提を円教の極意とした天台の意趣を窺うに足りると思われる言葉を出して締めたい。摩訶止観第一 大意章において修大行を締めくくって、仏意に達しないで悪意に﹁非道即解脱道﹂を解釈し実行に移した場合の悪例 を挙げ終り、次にこれを誠めて

タマフハテヲシメシテノニシテシテハテノニスルコトヲ.シセハニキヲムコト

仏説二貧欲即是道一者仏見二機宜一知乙一種衆生底下薄福決不レ能下於二善中一修上し道、若任二其罪一流転無甲し已、

ムテニセヲメテルカムヲニタマフヲ

令下於二貧欲一修中習止観上、極不し得し止故作二此説一︵会本ニノ五吃︶

ハカニスヲ、シワハシテワスヲレノナリ

初品円信二法界一、上信二諸仏一下信二衆生一皆起二随喜一、是円家慈停心︵同皿︶ ノ 五品已円解二一実︵無作︶四諦一、其心念々与二法界諸波羅蜜一相応宰偏体無二︵二乗︶邪︵僻︶、︵蔵通菩薩迂︶ 二ニカニスノ ヲ ー ー ノ ク 曲、︵別菩薩︶偏︵依仏界︶等倒一、円伏二枝客根本︵惑︶一、故名二伏忍一、諸教初心無一一此気分一︵同調︶ ノ ノ カンス ヲ

クト

レハ

ワデス卜

*リニヤワ

円教謂心畷し未し入し位︵Ⅱ名字即︶能知二如来秘密之蔵一即喚作し仏、初心尚然、何況後位乎︵同的︶ 等というところには、明かに初後不二の初は名字、初随喜品位にも亘ることを示している。 ︵会本五上9︶ ﹁円教﹂の意味︵浅井︶ トハ ナリ ク ニシテ

スンデガヲヲハぷス二

円行者一行一切行︵略︶謂一念平等具足不し可二思議一、傷二己昏沈一慈及一二切一︵略︶是名二円教初随喜品位一

(22)

(11)

と。中に﹁一種の衆生﹂とあるが、省みれば全衆生が底下薄福であり罪障持ちである。そこで貧欲即是道の仏説が大

きな意味を持つことになる。それは教弥実位弥下の建前である。︿以上﹀

﹁円教﹂の意味︵浅井︶

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