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幕末・明治前期、圓珠院貫忠と地域の民衆・名望家 : 徳川系紀州天台寺院の近代化

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Academic year: 2021

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(1)

幕末・明治前期、圓珠院貫忠

地域

民衆・名望家

︱徳川系紀州天台寺院

近代化︱

      

清二郎

はじめに 愛 宕 社・圓 珠 院 は 、近 世 の 和 歌 山 城 と 城 下 町 和 歌 山 の 南 方 郊 外、同 時 に 近 世 村 和 歌 浦︵ = 和 歌 村︶ 領 の 北 端 に 位 置 す る (( ( 。 この 寺社 に 関 する 研究 は 、境内石造物調 査 (( ( を 除 いてほぼ 皆無 であるが 、二〇一九年庫裏等 の 建替計画 に 関 わ っ て 、建 造 物、古 文 書、仏 像 ・ 絵 画 等 美 術 品 の 調 査 が 同 年 か ら 二 〇 二 〇 年 に か け て 急 ぎ 行 わ れ た 。本 稿 で 使 用 す る 史料 は 、 とくに 断 らない 限 り 今回発見 された 史料 である ︵元 の 保管場所﹁棚﹂ ・ ﹁蔵﹂ の 区別 と 整理番号 を 示 す ︶。 圓珠院 は 近世紀伊徳川家 と 深 く 関 わる 天台寺院 であるが 、最近 の 調査 された 古文書 の 検討 から 、近世前期 におけ る 京都愛宕社 との 関係 や 近世後期 の 寺院経営 の 具体相 などが 解明 され 、従来 の 頼宣・重倫・治宝等 の 藩主 の 支援 と い う イ メ ー ジ だ け で な く 、 圓珠院 の 固有 の 経営基盤 、 変容過程 が 具体化 さ れ つ つ あ り 、﹃ 南紀徳川史 ﹄ の 解説 を 乗 り 越 えてゆく 動向 が 生 じてい る (( ( 。本稿 では 、 その 調査 で 発見 された 諸史料 と 境内石造物 の 再調査等 の 成果 を 活用 し 、

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幕末期 から 明治末期 まで 住職 を 勤 めた 第一三代貫忠 に 焦点 を 当 て 、江戸期以来 の 民衆的 な 信仰、支持基盤 を 持 ちつ つも 、領主制 の 廃棄 の 中 で 経済基盤 が 名望家層 に 移行 して 行 く 過程、 つまり 徳川系寺院 からの 脱皮、近代化 を 解明 する 。 明治前期 における 地域社会 の 動向 を 理解 するため 、﹁名望家﹂ に 注目 する 必要 があることは 近代史 の 常識 であり 、 これまで 近代行政 との 関係 に 焦点 が 当 てられてきた 。地方都市 の 寺院 や 信仰・文化 に 目配 りする 必要 があるのでは ないかと 思 われ 、本稿 はその 論点 を 検討 する 研究 ノートであ る (( ( 。 【一】圓珠院の代々住僧と第一三代貫忠 はじめに 江戸期 の 代々 の 住僧 の 名前 と 没年、関連事項 を 表 に 示 す 。第 1表 は 天保一二年 ︵一八四一︶ の 圓珠院 の 記 録 と 墓石 の 刻印文字 から 作成 したものであ る (( ( 。 江 戸 期 の 愛 宕 社・圓 珠 院 は 景 観 の 観 点 か ら 、創 設 期︵初 代 藩 主 頼 宣 代︶ 、再 建 期︵六 代 宗 直 代︶ 、拡 充 期︵八 代 重 倫 代 ︶と お お む ね 区分 さ れ る が (( ( 、 そ れ ぞ れ の 時代 の 住職 は 、 顕栄 ・ 亮厳 ・ 貫珠 で あ り 、 幕末明治期 の 住職 は 貫忠 で あ っ た 。 なお 墓石 ︵顕彰碑︶ には 顕栄 は 二世 とある 。 ここでは 混乱 を 避 けるため 、後 に 通用 する 代数 を 使用 する 。 江戸期、圓珠院 は 一三代 の 僧 が 住職 を 勤 めたが 、三代目亮海・八代目慧厳・九代目貫珠・一三代目貫忠 の 在職 が 長 い 。六代目光憲・七代目亮厳・一二代目貫光 も 短 いということではない 。一八世紀初 めや 一九世紀初 め 頃 はやや 短 く 、 この 時期 を 除 いて 、江戸期 を 通 してある 程度安定 した 寺院経営 が 行 われていた 証拠 であろう 。 ちなみに 、七 代 目 ・ 八 代 目 の 僧 名 は 同 じ ﹁厳﹂ を 使 用 し 、九 代 目 以 降 は 頭 に ﹁貫﹂ の 文 字 を 付 け て い る 。 い わ ば 子 弟 を 含 む 法 縁 による 継承 があるようであ る (( ( 。九代目貫珠 は 雲蓋院貫春 の 弟子 で 、佐渡国相川出身者 が 法縁 で 圓珠院 に 来 た 。 さら

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に 一二代目貫光 も 佐渡国相川 の 出身 で 、地縁 ︵同郷︶ によ る 抜 ︵推薦︶ があったと 見 られる 。九∼一三代目 はいず れ も 在家出身 で 、 寺院 の 子息 が 継承 す る こ と は な か っ た 。 江戸期一三代 は 妻帯 せず 、血縁 による 寺相続 は 無 いと 判 断 される 。 本稿 で 検討対象 と す る 一三代貫忠 は 、 文政一一年 ︵ 一八 二八 ︶三月二二日生 ま れ で (( ( 、︵ 堀田 ︶幸右衛門五男 で 、 天保 九 年︵一 八 三 八︶ 一 一 歳 の 時、圓 珠 院 貫 光 の 弟 子 と な っ た (( ( 。 ついで 、明治八年 ︵一八七五︶ に 貫忠 は ﹁西浜村百十 八番地士族岡本重太郎方江同居、本籍相定置候処、勝手 都合 ニ 付、当村九番地之内江本籍相定申度奉存候﹂ と 復 籍願 を 提出 し て い る ((1 ( 。﹁ 当村 ﹂ は 和歌村 で 、 九番地 は 圓珠 院 の 地番 である 。 すなわち 、貫忠 はもと 岡本重太郎方 に 寄 留 し て お り 、 そ の 後 明 治 八 年 に 本 籍 を 圓 珠 院 に 定 め た 。明治初期 、 戸籍作成時 に 貫忠 は 、︵ 明治初期 の 神仏分 離 へ 対応 で あ ろ う か ︶戸籍 は 圓珠院 を 避 け 、 い っ た ん 岡本 家寄留 とした 。 このように 後 に 圓珠院 に 戸籍地 を 復 したが 、弟子入 りに 際 して 、岡本重太郎 の 斡旋 など 関与 があっ たのかも 知 れない 。 なお 、岡本重太郎 は 明治期 に 士族 と 記 されているが 、江戸期 の 岡本 重 ︵十︶ 太郎 は 西浜村居住 の 、西 浜﹁御殿御部屋様﹂ ︵側室附︶ の ﹁伊賀役﹂ であっ た ((( ( 。 代 法名 没年 西暦 月 日 在職年数 備考、院号等 墓石 開山 顕榮 慶安3 1 6 5 0 4 25 墓碑には二代目 ○ 2 榮願 寛文4 1 6 6 4 6 10 14 3 亮海 元禄10 1 6 9 7 3 23 33 雲蓋院へ転出か 4 清顕 元禄13 1 7 0 0 7 4 3 5 豪 元禄15 1 7 0 2 8 13 2 ○ 6 光憲 享保9 1 7 2 4 4 8 22 7 亮厳 延享元 1 7 4 4 正 朔 20 ○ 8 慧厳 安永4 1 7 7 5 9 16 29 戒定院 ○ 9 貫珠 文化8 1 8 1 1 2 21 36 珠王院、順道、貫春弟子、 生国佐州相川松永氏二男 ○ 10 貫鎮 文政6 1 8 2 3 12 17 12 (俗世寒川弥五太夫男) ○ 11 貫瑞 天保6 1 8 3 5 5 28 12 俗姓藤本伴次郎三男 ○ 12 貫光 安政元 1 8 5 4 11 8 19 真乗院、生国佐州相川四丁目 衣笠氏二男 ○ 13 貫忠 大正2 1 9 1 3 4 18 59 高照房、一雨院 ○ 〔代々書上〕(棚58―11)、墓石から作成 第1表 江戸・明治期の円珠院暦代住職

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っ て 、 貫忠 が 圓珠院住職 と な る の は 二七歳 の 時 、 幕末期 の 安政元年 ︵ 一八五四 ︶で 、 死去 す る の は 大正二年 ︵ 一九 一三 ︶で あ る 。在職期間 は 五九年 と 、 他 の 先住職 に 比 べ て 極 め て 長 い こ と が わ か る 。長命 ︵ 八五歳 ︶で あ っ た こ と に よ るが 、貫忠 は 江戸時代 と 明治近代 を 生 きたことになる 。近代 への 移行期、時代 が 大 きく 変 わる 時期 に 住職 を 勤 め 、 近世徳川寺院 の 近代化、民衆化 を 成 し 遂 げた 。 ここに 特徴 がある 。 それは 僧侶人生 の 一生 を 要 した 一大事業 であっ た 。貫忠 は 、日本 の 近代化、地域社会 の 近代化 に 天台寺院僧侶 と して 関 わった 人物 であることが 注目 され 、同時 に 、貫忠 の 人生、 事績 から 地域社会 の 変化 を 見 ることも 可能 であろう 。 次 に 、圓珠院 の 代々住職 の ﹁縁﹂ ︵出自的人的環境︶ を 概観 する ことによって 、貫忠 の 人的 な 系譜 の 特徴 を 検討 しておく 。圓珠院 境内 には 、代々住職 の 墓石 の 他、圓珠院住職 ではない 僧 の 墓石 も ある 。第 1表 2のように 一二人 の 僧名 と 没年 が 分 かる 。古 い 時代 の 1∼ 3は 除 き 、備考 に 記 した 関連情報 が 少 し 知 られる 。墓石 の 記事 からは 、 まず 墓石 の 僧 と 圓珠院住職 との 血縁関係 が 見 られる ことが 注目 される 。 4真海 は 和歌浦宝蔵院住職 で 、圓珠院第九代 貫珠 の 実 の 兄 であった ︵何故宝蔵院 に 墓石 が 無 いのかは 不詳︶ 。実 の 兄弟 が 和歌浦雲蓋院末寺中 の 住職 を 分担 し た ((1 ( 。 また 5貫浄 は 圓 珠院第一〇代貫鎮 の 俗﹁弟﹂ であった 。兄弟 で 圓珠院 に 務 め 、弟 は 住職 と 成 らず 、圓珠院 に 葬 られたのであろう 。同 じく 10貫仲 は 第九代貫珠 の 血縁末弟 であった 。 番号 尊号 僧名 没年 西暦 備考 1 法印 徳順 寛永13 1 6 3 6 2 大法師 泉識 寛永17 1 6 4 0 3 廣海 元禄4 1 6 9 1 正光院 4 沙弥 真海 天明8 1 7 8 8 九世貫珠俗兄、和歌宝蔵院第十世 5 大徳 貫浄 文政2 1 8 1 9 十世貫鎮弟、俗世寒川弥五太夫二男 6 法印 貫純 ? 貫鎮法弟 7 鎮修 ? 貫鎮弟子 8 大徳 泰尊 文政11 1 8 2 8 9 権律師 實真 天保7 1 8 3 3 10 二﨟法印 貫仲 安政6 1 8 5 9 九世貫珠末弟 11 大和尚 恵澄 文久2 1 8 6 2 粉河十禅院輪番(棚58―14) 12 権律師 貫恕 明治31 1 8 9 8 一妙房(貫忠妻) *墓石より作成 第1表2 住職以外の墓石僧名

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墓石 の 僧 と 圓珠院住職 との 間 に 法縁 の 子弟関係 も 見 られる 。 6貫純・ 7鎮修 は 圓珠院第一〇代貫鎮 の ﹁法 第 ︵弟︶ ﹂ と 記 されている 。 11恵澄 は 粉河十禅院 ︵現十禅律院︶ に 所属 するが 、江戸東叡山寛永寺輪番 を 務 め 、江戸 で 就業中 に 没 し た と 記 さ れ て い る 。圓珠院 に 墓石 ︵ 供養塔 ︶が 建 て ら れ た の は 、 学僧 に 対 す る 敬意 と 天保期 、 圓珠院 の 財政改革 ︵ 東 叡山預金﹁府庫﹂ ︶に 貢献 した 功 によると 推測 される 。 つ い で 12貫恕 に つ い て み て お く 。 こ の 時期 の ﹁ 日次記 ﹂︵ 棚 58 ((1 ( は 正確 に は 、 明治一九年 ︵ 一八八六 ︶﹁ 日並雑誌   貫 恕 ﹂、 明治二一年 ﹁ 日並雑記   恕庵秘記 ﹂ と あ り 、 両筆跡 は 一致 す る 。 つ ま り 12貫恕 = 恕庵 で あ る が 、 明治三一年 に 没 している 。貫恕筆﹁日次記﹂ は 明治三一年 でおわり 、三二年 は 別筆 ︵ おそらく 貫忠自身︶ である 。墓石 にある 権律 師 という 僧 の 称号 の 格 は 低 く 、僧正・僧都 の 下 に 位置 し 、権 は 副官 をさし 律師 は 僧尼 を 統轄 する 僧位 である 。墓石 は 千手観音坐像 で 、台石 に 没年、供養 が 記 されている 。 その 坐像 は 貫忠 ︵大正二年没︶ の 墓碑 の 隣 にあり 、近代元号 が 二 つ 並 んでいる 。 この 位置 は 貫恕没後 に 貫忠自身 が 決 めた 可能性 もあろう 。 ともあれ 貫恕 は 信頼 の 下 に 貫忠 に 寄 り 添 うという 関係 が 推測 される 。 ち な み に 、﹁ 日次記 ﹂ に は ﹁ 一妙房 ﹂ と の 名 が 見 え る 。明治三年一月一九日 の 記事 に ﹁ 一妙房民政局江松木願書持 参﹂ ﹁未時⋮一妙房髙松引取﹂ 、六月一〇日﹁院主⋮黄昏比帰院、一妙房来 ル ﹂ などとあり 、髙松 の 某所 から 通 いで 圓珠院 に 詰 め 、 住職貫忠 の 代理 と し て 手助 け を し て い る が 、 名前 か ら 判断 し て こ れ は 女性 で あ る 。﹁ 日次記 ﹂ に は そ の 後 も ﹁ 一妙房大相院江地蔵堂 ノ 移転添書下付願書 、 宗務庁江持行 ﹂︵ 明治一六年一〇月二五日 ︶、﹁ 午前一妙房出 町﹂ ︵明治二一年一〇月二〇日︶ というように 頻出 する 。貫恕 は 明治三一年 に 没 するが ﹁一妙房貫恕法師葬儀之控﹂ ︵ 棚 58 29︶と 題 す る 史料 が あ り 、 貫恕 = 一妙房 で あ る こ と が わ か る 。 す な わ ち 、 あ る 時期 か ら 同居 し て お り 、 貫忠 の 事実上 の 妻 で あ っ た と 推定 さ れ る 。貫恕 が 得度 し た 時期 は 、﹁ 日次記 ﹂ を 記録 す る よ う に な っ た 明治一九年頃 で あ ろ う 。

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貫忠 の 住僧環境、経過 は 以上 のようであるが 、次 にその 住職時代 における 地域 の 民衆・名望家 とのつながりにつ いて 検討 しよう 。 【二】名望家 ・ 民衆の愛宕社・圓珠院支援 ︵ 1︶ 貫忠入院進物 と 貫光遷化葬式 ①入院進物配 り 貫忠 が 住職 となったのは 嘉永六年 ︵一八五三︶ で 、 その 翌年同七年 ︵安政元年︶ に 先代住職貫光 がなくなった 。 ここ で は 、 嘉永六年五月 の ﹁ 貫忠法印入院進物配覚帳 ﹂︵ 棚 58 | 28︶に 記 さ れ た 、 進物 の 送 り 先 を 検討 す る こ と に よ っ て 、 ま た 翌年一一月 の ﹁ 当院十二世真乗院貫光法印遷化一件 ﹂︵ 棚 58 | 24︶を 検討 す る こ と に よ っ て 、 当時 の 圓珠院 ・ 貫忠 の 交流 の 範囲 とその 特徴 を 考察 する 。 まず ﹁貫忠法印入院進物配覚帳﹂ に 記 された 進物 の 送 り 先 は 、大 きく 分 けると a元西浜御殿大奥関係、b本坊雲 蓋院・同末六 ヶ 坊関係、c紀州・勢州天台寺院、d城下有力神社関係、e紀伊徳川家家臣、f近隣 の 村方関係、g 出入 りの 商人・職人、h寺社奉行所関係 と 区分 される 。 また 、譲恭院 ︵側室︶ へ 一箱、本坊 へ 金二〇〇疋・紅葉狩 ︵酒 の 隠語 か ︶五升 という 進物品 は 別格 で 、以外 は 延 紙 ((1 ( ・風呂敷・扇子・手拭 い 、及 び 金・銀 ︵少額︶ であり 、風呂敷 は 大 か 小 の 区別、扇子 は 三本 か 二本 の 区別 がある 。扇子 が 最 も 多 い 。 a に 関 しては 先代貫光時代 からの 支援・交誼 に 配慮 したものであろう 。治宝死去後 に 西浜御殿 は 解体 されるが 、 未 だ 存続 している 。次 に b本坊雲蓋院 が 重視 されるのは 当然 のことである 。従来 から 天台寺院 との 交流 により c坂 田了法寺、吹上明王院 へ 延紙三束・扇子三本 が 贈 られているが 、 さほどの 特別扱 いではない 。 ちなみに 寺名不詳 で

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あるが ﹁下寺侍﹂川村熊七 にも 扇子二本 が 贈 られている 。 d関係 で は 、 近 く の 神社神主 、 つ ま り 髙松河内守 ︵ 玉津島社 ︶、 安田能登守 ︵ 東照宮 ・ 天満天神社 ︶、 矢田主殿 ︵ 矢宮 社︶ ら の 名 が 見 え る 。 な お 、和 歌 御 宮 下 男 友 右 衛 門︿銀 五 匁 ・ 扇 子 二 本﹀ 、同 人 娘︿大 風 呂 敷 一・扇 子 二 本﹀ と い う 下級職務者 への 配慮 が 注目 される 。 e有姓 の 紀伊家家臣 と 判明 するものがかなり 数 えられる 。記 されている 順序 で 列挙 すると 、嶋田藤馬・塩谷弥左 衛門・津村長右衛門・高儀右衛門・久保良右衛門・佐伯三郎兵衛・板橋万右衛門・宇都宮弥惣・林 昌 ︵尚︶ 謙︵奥医師︶ ・ 本居弥四郎 ︵内遠︶ ・加納兵部 というようである 。彼等 の 当時 の 職名 は 不詳 であるが 、記 されていないことから 職務 上 の 関係 ではなく 、以前 からの 私的 な 交流 と 見 られる 。本居弥四郎 ︵内遠︶ は ﹃紀伊続風土記﹄編纂 に 携 わった 儒学 者 であり 、文化的交流 が 想定 される 。板橋以下 は 扇子五本 と 特別扱 いである 。 f の 人名 が 圧倒的多数 を 占 め る が 、 村 ご と に 整理 し て 検討 す る 。 ま ず 帰属村和歌村 に つ い て は 庄屋 七左衛門 の み で あ る ︿ 扇子二本 ﹀。 こ れ に 続 い て 記 さ れ る 永安 、 表具屋 源助 は 和歌村 か も 知 れ な い ︿ 扇子二本 ﹀。 つ い で 関戸村 に つ い て は 関 戸 村 地 士 関 加 ︵掃部︶ 茂 四 郎︿扇 子 三 本﹀ 、 関 戸 庄 屋 勘 兵 衛︿扇 子 二 本﹀ 、 髙 松 小 川 万 助︿扇 子 三 本﹀ 、 同 茶 屋 五 軒︿同 三 本 ツヽ ﹀ が 記 されている 。髙松茶屋五軒 に 対 して 丁重 な 扱 いをしていることがわかる 。 圓 珠 院 の 山 越 え 東 側、和 歌 川 沿 い の 塩 屋 村 に つ い て は 、 塩 屋 光 明 寺︵黄 檗 宗︶ 、真 成 寺︵真 宗 真 乗 寺︶ 、 同 村 庄 屋 新 兵 衛 、 同村肝 喜八 、 同村年番 五人組三人 ︿ 以上扇子三本宛 ﹀、 同村 元次郎 、 同 吉右衛門 、 同 久兵衛 、 同 繁八 ︿ 以上扇子二本 宛﹀ 、 同 村 投 世 話 人 若 者 中︿諸 白︵砂 糖︶ ﹀、同 村 民 で ﹁出 入 之 筋﹂ 同 長 四 郎、 同 兵 蔵 へ は ︿同 二 本・銀 二 匁﹀ 、 そ の ほ か 同 八蔵 ︿ 扇子二本 ﹀、 同 歩行 ︿ 鳥目一〇〇文 ﹀、 同 非人番 ︿ 銀二匁 ﹀ と い う よ う で あ っ た 。 な お 、 塩屋村 に は 藩 の 煙硝蔵 があったが 煙硝蔵組頭三人 へも 扇子二本宛 が 配 られている 。 塩 屋 村 の 北 西 に 位 置 す る 打 越 村︵圓 珠 院 の 北 東、山 越 え ︶に つ い て は 、 打 越 村 保 田 作 之 右 衛 門︵地 士、元 大 庄 屋︶ に

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︿延 紙 二 束﹀ と 別 格、 同 村 林 蔵・文 四 郎、 同 村 年 行 事 二 人 に ︿扇 子 二 本﹀ 、塩 屋 村 の 和 歌 川 向 か い 側 に あ る 小 雑 賀 村 に つ い て は 、 小 雑 賀 村 庄 屋 元︿扇 子 三 本﹀ 、 同 村 小 山 善 兵 衛、 同 村 茂 兵 衛、 同 村 善 助、 同 村 元 右 衛 門、 同 村 猪 之 助、 大 工 嘉 助、 車力 梅 ノ 丞︵角力世話人︶ ︿扇子二本﹀ というようである 。 以上 のように 、村関係 では 地理的 に 最 も 近 い 塩屋村 が 圧倒的 に 多 い 。圓珠院 が 塩屋村 を 含 む 地域社会 ︵西 は 髙松、 東 は 小雑賀村 の 範囲︶ の 一員 であることを 示 している 。 つ い で g に つ い て 。 八百屋 右衛門 ︿ 大風呂敷一 ・ 扇子三本 ﹀、 西浜 岡本十太郎 ︿ 小風呂敷一 ・ 扇子二本 ﹀、 同村 山本 善太郎︿扇子三本﹀ の 名 が 見 えるが 、圓珠院 との 個別 の 出入 り 関係 をもつ 西浜御殿雇傭人等 が 存在 した 。筆頭 であ る 岡本十太郎 は 圓珠院 にとって 先代貫光時代 からの 要人 であることはすでに 触 れた 。 それ 以上 に 重要視 されている の が 八 百 屋 右 衛 門 で あ る が 、圓 珠 院 の 小 回 り 雑 用 を 勤 め て い る 。城 下 の 商 人 と み ら れ る 貝 屋 源 十 郎、 冨 吉 屋 久 右 衛 門、 出嶋 中楠 へ は ︿扇子三本﹀ で あ っ た 。 こ の 他、 肩書 き 無 し の 直道、 九八郎、 藤之助 ︿銀八匁 ・ 扇子二本﹀ 、 幸兵 衛︿銀三匁・扇二本﹀ に 破格 の 進物 を 行 っている 。出入 りの 雇用者 であろうか 。 京都 の 商人﹁ いせ 利﹂ には 別種 の 物 を 贈 っている ︿湯一・扇子上一本﹀ 。 また 江戸上野寛永寺出張中 の 恵澄 ︵粉 河十禅院︶ 、松林院、妙道子 へ ︿金五〇疋﹀ 、 さらに 京都 の 飛鳥井雅久大納言、歌道掛 り 三人 へ ︿金五〇疋﹀ を 贈 っ ている 。飛鳥井家 との 関係 がすでにあったことが 注目 され る ((1 ( 。 h について 。当時 の 寺社奉行垣屋十郎兵衛・薗田彦兵衛 へ 扇子三本宛、吟味役人四人 へ 扇子三本宛、両役所同心 八人 にそれぞれに 扇子二本宛 であった 。上下 の 格差 はあまりなかった 。 なお 、寺社奉行 へは 三 ヶ 月遅 く 八月一四日 に 贈 られた 。武家 の 藩世界、藩 の 組織 をさほど 重視 していないことが 理解 される 。 以上 の 分析 から 、寺院 はもとより 、武家世界 への 配慮 もあったが 、 それ 以上 に 寺院 が 位置 する 地域社会 への 配慮 を 優先 していたことが 分 かる 。 この 点 は 特徴的 である 。 また 、貫忠 はこの 地域社会 にすでに 一五年生活 しており 、

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寺院経営 にとって 誰 との 関係 が 重要 かを 熟知 していた 。 このような 認識 が 地域 を 支 える 人々、寺院社会 を 末端 でさ さえる 下男等 への 配慮 を 生 んだといえよう 。 ②葬式参列者 つ い で 、﹁ 当院十二世真乗院貫光法印遷化一件 ﹂︵ 棚 58 24︶に よ っ て 翌年 の 貫光葬式 に お け る 圓珠院 と 関係 す る 人 々 と の 交流 を み て お こ う 。葬式 は 嘉永七年 ︵ 一八五四 ︶一一月一一日 に 行 わ れ た 。当然主役 は 天台寺院 の 僧達 で あ る が 、 弔問者受付 や 台所方・給仕等﹁手伝人﹂ として 以下 の 名前 が 挙 がっている ︵役割 は 省略︶ 。   山東孫左衛門・木村晴吉・佐伯三郎兵衛・石井猪久之丞・箕島   譲・富上時之助・木村信吉・尾村為三郎・ 尾村郡左衛門 この 内、山東・佐伯・箕島・尾村 は 紀伊徳川家家臣 であることが 確認 され る ((1 ( 。 おそらくその 他 の 人物 も 家臣 であ ろ う 。葬式 の 給仕 を 手伝 う の で あ る か ら 、 ほ と ん ど は 下級家臣 で あ ろ う 。﹁ 懇意之面 々 、 且随身之者 ﹂ に 形見 が 贈 ら れ た が 、 寺院以外 は 列挙 す る と 、︿ 家臣 ﹀ 山東孫左衛門 、 木村晴吉 、 富上時之助 、 尾村郡左衛門 、 尾村為三郎 、 箕島 譲、高儀右衛門、立石弥太郎、佐伯三郎兵衛、津村長右衛門、天野与七郎、 ︵以下未確認、推測︶ 石井猪久之丞、石 井幾之助 、 田中啓次郎 、︿ そ の 他 ﹀ 八百屋右衛門 、 真乗寺 、 保田作之右衛門 、 藤本宗次郎 、 岡本十太郎 、 貝屋源十 郎、右同人母、富吉屋源十郎、岩吉、 いせや 利兵衛 ︵京、 いせ 利︶ 、 というようである 。岡本十太郎 は 軸物一幅、貝 屋源十郎 は 掛 もの 一幅 を 貰 っている 。 その 他香奠 を 持参 し 、法事 に 招 かれた 人名 として 、家臣 は 板橋万右衛門、藤本宗次郎、宇都宮勇次郎、松村楠之 丞、小川万助、 それ 以外 は 塩屋村元次郎、同村又吉、真乗寺 ︵真宗︶ 、小雑賀角力世話人中 の 名 が 見 える 。家臣 の 内 小川 は 弘化二年 ︵一八四七︶ 段階 で ﹁一位様御台所人﹂ であったことが 分 か る ((1 ( 。 おそらく 貫光 が 西浜御殿 との 関係 を 深 めた 際 に 知 りあった 人々 と 推測 されるが 、他 の 家臣 も 同様 な 場合 が 多 かったであろう 。

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この 葬式 に 際 して 見 られる 人名 は 貫忠住職進物 リストの 人名 と 重 なる 場合 が 多 いが 、全体 として 、貫光 との 関係 を 示 す 葬式関係者 は 家臣 が 多 く 、近隣 の 人々住居 の 人々 は 余 り 見 えない 。一方貫忠 の 進物 リストは 圧倒的 に 地域 の 人 々 割合 が 高 い 。貫光時代 の 西浜御殿 へ の 依存 、 貫忠 の 地域社会依存 と い う 違 い が 表現 さ れ て い る よ う に 思 わ れ る 。 ︵ 2︶ 地蔵堂再建・書院屋根修覆・本堂再建 の 寄附 明治一七年 、 住職貫忠 は 地蔵堂 を 再建 し た 。現在 、 圓珠院内仏 に 木造地蔵菩 が 二体祀 ら れ て い る が 、 江戸期 ﹃ 紀 伊続風土記﹄ の 記載 では 、初代頼宣 と 六代宗直 が 奉納 したと 伝 え 、山上愛宕本社 の 内 に 安置 されてい た ((1 ( 。当院 の 地 蔵菩信仰 は 、藩主 が 地蔵尊 を 寄進 したことに 始 まるが 、少 なくとも 一七世紀末 には 民衆 からの 信仰 もあっ た ((1 ( 。 さ て 、 こ の 地 蔵 堂 は 現 三 天 堂︵明 治 三 二 年 ま で 本 堂︶ の 南 側 に 建 設 さ れ た が 、﹁地 蔵 堂 再 建 寄 附 金 控 帳﹂ ︵棚 58 | 30 によると 、財源 は 第 2表 のように 広 く 寄附 された 資金一一円余 で 賄 われた 。三五件 の 人々 から 寄附 されたが 、一件 当 たり 三〇銭 で 、 それ 自身少額 である 。 さら 一件 の 内容 を 見 ると 、 1は ﹁役場中﹂ 、 2和歌村﹁中﹂ 、 というように 相対的 に 多額 の 場合 も 複数者 の 寄金 で あ り 、 ま た 14・ 15・ 16・ 19・ 22・ 33に は 誰 々 ﹁ 取次 ﹂ と い う 記載 が み ら れ る 。 こ れ は 複数者 か ら 集 め た も の を 代表 し て 手渡 し た と い う こ と で あ る 。 ま た 32は 人名不詳 ﹁ 魚売女 ﹂︵ お そ ら く 和歌浦 居 住︶ は 少 額 で あ る が 浄 財 三 銭 を 寄 附 し た 。比 較 的 高 額 寄 附 は 3長 保 寺・ 35十 河 武 蔵︵旧 城 下 商 人︶ で あ り 、 4大 相 院・ 6髙松利助・ 7岩橋楠松等 の 日常的交流 のある 人々 はさほど 多 くない 。 また 29山東武右衛門 は 元家臣 と 推測 さ れるが 、大 きな 金額 ではない 。 地理的 な 範囲 を 見 ると 、和歌村・塩屋村 をはじめ 、 17北田辺町・ 18御通 り 丁・ 34万町・ 35本町二丁目 という 旧城 下町、鳴神村 ︵城下東方郡部︶ ・井辺村 ︵名草山 の 東部︶ という 拡 がりを 見 せている 。 このように 長保寺 や 名望家・有力商人等 から 比較的多額 の 寄附 と 、極 めて 少額 の 寄附 が 旧城下 や 周辺村 から 寄 せ

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られた 。記録 された 三五件 に 数倍 する 人々 からの 寄附 によって 地蔵堂 が 建設 された 。明治初期 の 激動 が 一段落 した 段階 で 、貫忠 のかねてからの 心願 により 、 ようやく 設置 が 実現 したと 推測 される 。 翌々明治一九年 には 書院屋根修理 が 大々的 に 行 われたが 、 この 費用 は 寄附 に 依 らず 、掛 け 軸等 の 寺宝 を 売 り 払 い 工面 した 。明治一九年三月一日 の ﹁日次記﹂ に ﹁屋根替 ニ 付兼而所持之 ノ 掛物売払決定 ニ 付、岩崎兄弟・谷井勘蔵 一覧 ニ 来 ル 、沼野 も 同断﹂ 、四日﹁清水平右衛門入来、掛物 ト 炉縁持帰﹂ 、二二日﹁岩橋楠松入来、掛物持帰﹂ とい うような 記事 が 見 られる 。信仰対象 のお 堂 は 寄進対象 となるが 、書院 は 寄進対象外 と 理解 される 。 ついで 、一〇数年後 の 明治三二年 には 本堂・弁天堂 の 建 て 替 え 計画 が 実行 された 。申請願書 の ﹁工事費金収支計 算書﹂ では 支出見積四九九円二五銭 ︵木材費・大工手間等︶ に 対 し 、総収入高 は 五〇〇円 で 、 その 内訳 は ﹁護摩講積 番号 人名等 銭 1 和歌村戸長役場中 50 2 和歌村中 159.6 3 長保寺 100 4 大相院 20 5 平畑藤八郎 20 6 髙松利助 *1 40 7 岩橋楠松 23.4 8 玉置佐市 10 9 三尾彦右衛門 10 10 同 惣三郎 10 11 酒井長九郎 10 12 米屋久右衛門 5 13 橘本村中 3 14 榎本吉兵衛取次 19 15 久嶋久蔵取次 20 16 坂口常吉取次 17 17 北田辺町千原氏 10 18 御通り丁岡本氏 10 19 玉川禎助取次 53 20 玉川禎助 30 21 浜田徳右衛門 10 22 渡辺仁兵衛取次 *2 184 23 鳴神村何五郎 5 24 青井万吉 10 25 神崎氏 10 26 井辺村中 9 27 塩屋村山口源蔵 20 28 同人取次 12 29 山東武右衛門 10 30 湯川菊枝 弓場取次 5 31 大工又吉 10 32 魚売女 3 33 簑島氏取次 100 34 万町阿波屋 15 35 本町二丁目十河武蔵 85 合計 *3 1108 *1 手水手拭沢山 *2 別に障子一組  *3 この他に真一心講中 提灯 2 張 「地蔵堂再建寄附金控帳」(棚 58―30)より作成。 第2表 明治17年地蔵堂再建寄附者

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立金﹂二〇〇円、 ﹁信徒中 ヨリ 寄附金﹂一〇〇円、 ﹁現住職寄附﹂一〇〇円 であった 。建物 の 大 きさは 、明治二七年 段階 で は 元山上 に あ っ た 愛宕社本社 と 同 じ 三間四面 を 構想 し て い た が︵ ﹁ 愛宕山護摩講人名録 ﹂ 前書規約 ︶、 明治三二 年、実際 の 計画 では 二間半×二間 とやや 小振 りとなっている ︵元本堂 の 大 きさ ︶。 住職貫忠 は 明治二七年 に 本堂再建 ︵移動︶ の 構想 を 実行 に 移 した 。先 ず 建設資金 を 確保 するために 明治二七年一一 月 に ﹁ 愛宕山護摩講 ﹂ が 実施 さ れ た 。﹁ 護摩講人名録 ﹂︵ 棚 53 (11 ( に よ る と 、 こ の 護摩講 は 岩崎茂兵衛 ︵ 卜半町 ︶・ 津田正 臣︵ 欠作 ︶・ 倉田積 ︵ 西 ノ 店 ︶・ 桑山茂平治 ︵ 安原村桑山 ︶・ 谷井勘蔵 ︵ 関戸村 ︶・ 五斗信吉 ︵ 北町医師 ︶・ 清水平右衛門 ︵ 橋 丁︶ の 七 人 が 発 起 人 と な り 、菊 池 万 蔵︵本 町 三 丁 目 か ︶・岩 根 藤 十 郎︵岡 北 之 丁 か ︶・和 中 範 一 郎︵和 歌 村︶ ・田 中 栄 松 ︵駕 町︶ ・髙 松 利 助︵和 歌 村︶ ・岩 橋 楠 松︵小 松 原 通 七 丁 目、駿 河 屋 弟︶ ・瀬 崎 茂 兵 衛︵本 町 三 丁 目︶ ・湯 川 亀 次 郎︵卜 半 町︶ の 八人 が 世話人 となった 。 発起人 の 内 、 津田 は 初代県知事 と い う 県政 の 重鎮 で あ る が 、 二年後 に 亡 く な り 、 圓珠院 の 墓地 に 葬 ら れ る と い う 、 当院 と 深 い 関係 にある 人物 である 。倉田積 は 著名 な 漢学者 である 。 また 桑山家 は 江戸期大庄屋 を 務 めた 家柄 であり 茂平次 は 県会議員等 を 経験 し 、明治一二年地租四四六円持大地主 ︵県下第七位︶ であ る (1( ( 。谷関戸村井勘蔵 は 同年地租 二一一円持 の 大地主 で 、 明治二二年 の ﹁ 貴族院多額納税者議員互選人 ﹂ で あ る (11 ( 。明治二八年発行 ﹃ 帝国名望家大全 ﹄ ︵吉野民司編︶ には 津田正臣・和中範一郎 の 名 が 載 っている 。岩崎・清水 は 旧城下町域和歌山市 の 有力商人 とみられ る 。 いずれも 圓珠院 に 頻繁 に 出入 りしている 社会的 な 地位 のある 名望家 である 。世話人 の 内、和中・髙松 は 和歌浦 ︵当時和歌村︶ 在住 で 、以外 は 和歌山市旧城下町 の 居住 である 。彼等 の 多 くは 圓珠院 に 出入 りする 文化人 で 、資産 の ある 和歌山市・和歌村 の 名望家 である ︵後述︶ 。 ﹁護摩講人名録﹂ の 冒頭 に 記 された ﹁規約﹂ には ﹁日供 を 合併 して 月々御膳料三銭﹂ とあり 、参加者 が 負担 する 護摩料一株 とは ﹁日供﹂合計月三銭 ︵年三六銭︶ を 指 すと 見 られる 。本堂 ︵本社︶ 再建五 ヶ 年計画 の 財政政策 であり 、

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毎年一月 に 催 される 護摩講 での 配札 を 受 け る (11 ( 。発起人等 は 五株 から 三株 が 多 いが 、一年 に 一円八〇銭、五 ヶ 年 では 九円 の 護摩料 となる 。三株 の 場合 は 一円八〇銭、二株 では 七二銭、一株三六銭 の 奉納 となる 。 一〇株 は 二人、五株 は 一一人、三株 は 一一人、二株 は 二八人、一株 は 三四六人、株数合計 は 五〇〇株 である 。 す なわち 、一年 に 一八〇円 が 得 られ 、五 ヶ 年 そのまま 継続 すれば 九〇〇円 が 見積 もられるが 、一年分 の 奉納 と 見 られ る︵ ごく 一部、四年、五年 の 記載 がある ︶。 さ ら に 、﹁ 護摩講人名録 ﹂ か ら は 護摩供料 を 納 め た 人 々 の 居住地 が わ か る の で 、 こ れ を 整理 す る と 第 3表 の よ う で あ る 。Ⅰ は 城東 の 旧 の 新地 ︵ 北之新地他 、 真田堀 ・ 和歌川以東 ︶︿ 和歌山市域 ﹀、 Ⅱ は 和歌山城 の 北 ・ 東︵ 真田堀 ・ 和歌 川以西 ︶の 旧内町 ・ 岡地域 ︿ 和歌山市域 ﹀、 Ⅲ は 城西 の 旧城下町湊地域 ︵ 南限 は 今福 を 含 む ︶︿湊村域﹀ 、Ⅳ は 城下南部地域︿和歌山市域﹀ 、Ⅴ は 近代和歌村・ 関戸村 ・ 安原村 ・ 紀三井寺村等海部郡 ・ 名草郡地域 ︵ 一部 、 有田郡 ・ 日高郡 を 含 む ︶の 一部 、 Ⅵ は 大阪市 や 比叡山 ︵ 滋賀県 ︶等 で あ る 。居住地記載 の あ る 全体 は 二九五人 ︵件︶ で 、Ⅰ地区 が 一〇五人 ︵三六%︶ 最 も 多 く 、 ついで Ⅱ地区 が 八 〇人 ︵二七%︶ と 多 い 。圓珠院 の 所在地 である 和歌村等郡部 は 四五人 ︵一五%︶ である 。 これらの 数字 から 、愛宕社 の 護摩供参加 する 人々 は 旧城下町 のほぼ 全域 に 及 び 、 かつ 旧城下町 ︵新地 を 含 む ︶の 他、周辺郡部 の 人々 にも 拡 がっており 、 これらの 人々 の 火除 け 信仰 に 依存 していることがわかる 。翌々明治二九年 に は ﹁ 今日内町 ・ 新町講中参詣 、 午后院主護摩供修行 、 講中弐百人参集 ﹂︵ 同 ・ 四 ・ 一二 ︶と の 記事 も み ら れ 、 護摩供 は 毎年興行 さ れ 、 二〇〇人規模 の 人 々 が 番号 地区の区別 人 Ⅰ 東部地区(北新・新通り・新中通等) 105 Ⅱ 城北・城東地区(旧内町・本町・岡) 80 Ⅲ 城西地区(旧湊町・長町筋・今福) 40 Ⅳ 城南地区(小松原・新堀) 18 Ⅴ 海部郡・名草郡等(和歌村他) 45 Ⅵ 他府県(大阪市・滋賀県等) 7 所在区分不詳 4 記載なし 89 合計 283 *「護摩講人名録」(棚 53)より作成。 第3表 明治27年護摩供講参加者(寄附者)

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集 っていることが 分 かる 。 ところで 、圓珠院 には ﹁本社葺替万人講﹂ と 題 する 帳︵仮綴︶ が ﹁日供米施入名帳﹂ という 題名 を 付 した 黒塗木箱 に 保管 されてい る (11 ( 。 この 帳 は 藩政時代、本社 の 屋根葺 き 替 えに 際 し 、享保七年 ︵一七二二︶ に 日供米施入 を 募集 し 、 参加 した 人々 の 人名 を 記 している 。 この 日供米施入 には 町方・在方・諸士 の 区別 がなく 、身分 が 入 り 交 じって 施入 ︵寄進︶ 額 と 肩書・人名 が 記 されている 。合計二六一筆記 されているが 、一件 は ﹁某取   志﹂ と 取 り 集 めた 代表者名 の み 記 さ れ て い る の で 、 実際 の 寄進者 は 数倍 に 及 ぶ で あ ろ う 。身分別 に 数 え て み る と 、 町方一四三件 、 在方六九件 、 諸士四六件、寺三軒、泉州谷川瓦業者一名 も 含 まれる 。在方 の 内 には ﹁海部郡中志﹂銀一貫四六〇目 という 一筆 が 見 られるが 、 これは 海部郡 が 圓珠院 のある 郡 ということで 、同郡大庄屋六人 が 組織的 に 集 めたものである 。多 くは 数匁 から 鳥目五〇〇文 という 程度 のものもある 。合計銀額 にして 一六貫二七二匁余 が 集 まった 。一件平均六二匁余 で 多額 の 寄進 であった 。江戸中期 において 愛宕社 の 集金力、城下・在方、 さらに 諸士方 への 影響力 は 相当大 きかっ たことが 分 かる 。 この 帳面 が 大切 に 保管 されているところを 見 ると 、貫忠住職 が 明治二七年 の 護摩講 はこの 江戸中期 の 日供米施入 を 参考 と し た 可能性 が あ る 。江戸期以来 の 都市防火 の 意識 、 愛宕社信仰 の 継続 が 基盤 に 存在 し た こ と が 注目 さ れ る 。 ただし 、江戸期 には 藩主 ︵ この 時 は 着任早々 の 六代藩主宗直︶ ・寺社奉行所 が 後 にいたが 、近代 にはそのような 存在 がなくなった 。和歌山市・和歌浦町・関戸村 の 名望家 が 呼 びかけ 人、世話人 を 勤 めることで 牽引力 となり 、株募集 が 実体化 したと 見 られる 。 明治三二年 の 本堂再建 のためには 護摩講 の 他 に 、寄附金 を 集 めることが 予定 されていた 。明治三二年 の ﹁本堂再 建 募 疏﹂ ︵募 金 帳︶ ︵棚 41︶に は 寄 附 者 の 名 前 と 金 額 が 記 さ れ て お り 、合 計 一 〇 六 人 か ら 六 〇 五 円 が 寄 附 さ れ た こ と が わかる 。大口 では 谷井勘蔵・堀田佐右衛門 ︵大阪︶ が 五〇円、和中金助 ︵範一郎 と 同一人物 か 、和歌浦町︶ ・桑山模平

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次︵ 茂平次 、 和歌山市桑山 ︶・ 堀田左七 ︵ 大阪 ︶が 三〇円 、 中野文左衛門 ・ 木村五郎兵衛 ︵ 和歌浦町 ︶、 津田耕二郎 ︵ 津田 正臣長男 ︶ら が 二〇円 で あ っ た 。﹁ 卜半町中 ﹂ は 江戸期 よ り 深 い 関係 に あ り 、 二〇円 を 寄進 し て い る (11 ( 。﹁ 和歌浦町許多 人﹂九円余、 ﹁出島浦若干人﹂三円六七銭、 ﹁塩屋村有志者中﹂三円六〇銭、 ﹁匠町有志者中﹂七円余、 ﹁︵和歌山市︶ 安原村有志者中﹂九円余 という 旧村 ︵大字︶ 有志 の 募金 も 含 まれている 。英国 から 帰国 した 南方熊楠 も 三円 を 寄附 し ている 。 建設資金 の 不足 もあり 、明治三三年 の 別途寄附金 は 五五人 から 二五〇円余、同年 の 護摩供講 では 一七八人 から 二 一四株 ︵一株一年六〇銭︶ が 集 められた 。明治三八年 には 二八五人、三一二株 ︵同前︶ が 集 められた 。募金 や 護摩供講 の 呼 びかけ 人・世話人 は︵一部入 れ 替 わりはあるが ︶おおむね 和歌山市 と 近隣 の 名望家層 であり 、募金者・日供施入 者 は 諸階層 に 及 び 、地域 も 和歌山市 を 中心 に 郡部 にも 広 く 拡 がっていた 。 なお 、明治二七年 の 護摩供講、同三二年 の 募金、同三八年 の 護摩供講 の 発起人 あるいは 賛成人 と 世話人 はそれぞ れ 一五人・二一人・一八人 であるが 、岩崎茂兵衛・岩根藤十郎・岩橋楠松・倉田積・桑山茂平次・清水平右衛門・ 田中栄松・谷井勘蔵・和中範一郎 ︵金助︶ は 続 けて 名 を 連 ねており 、中心的 な 存在 で 、重要 な 役割 を 果 たしている 。 いずれも 圓珠院 に 常 に 出入 りしている 和歌山市・関戸村・和歌村 ︵和歌浦町︶ の 名望家 である 。三度 の 募金・講 には この 他大阪 の 堀田佐右衛門 などが 協力 している 。彼等 の 募金額、講株数 は 他 の 一般 の 人々 より 多額 であることはい うまでもない 。 以上 のように 、江戸期 の 藩主支援 に 替 わり 、明治期 になると 名望家層 の 支援 が 圓珠院 の 維持継続 に 不可欠 となっ たことが 理解 されよう 。

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【三】幕末・明治初期の地域文化構造 ︵ 1︶ 明治前期 の 圓珠院訪問者 明治三年 から 同三二年 の ﹁日次記﹂ には 、日々圓珠院 を 訪問 した 人名 と 、 おおよその 来訪時間、辞去時間、 もて なし 内容等 が 克明 に 記 されている 。以下 にその 訪問者 の 特徴 を 考 えてみる 。 ①旧紀伊徳川家臣 旧藩士 かつ 文化人 で 最 も 著名 なのは 伊達宗広 ︵藤二郎・千広・自得︶ であろう 。宗広 は 陸奥宗光 の 実父 で 、徳川家 藩士、徳川治宝 の 側近経済官僚 であり 、 かつ 国学者・歌人・歴史学者 である 。例 えば ﹁初夜比、伊達自得先生社 中廿人程入来、九半比引取、自得翁・若尾止宿﹂ ︵明治四・八・一五︶ 、﹁四 つ 半比伊達翁引取﹂ ︵翌一六日︶ 、﹁伊達 隠居、秋葉山亀院江移住 ニ 付、若尾何程雑具借 ニ 参候 ニ 付 か ︵貸︶ ス ﹂︵同・一一・二七︶ とあり 、弟子 と 共 に 夜 に 来訪 し 、 止宿 し て 、 翌日昼頃圓珠院 を 出 た こ と や 、 同年 、 伊達 が 秋葉山 に 移 り 、 家具 を 借 り に 来 る と い う 間柄 で あ っ た (11 ( 。 宗広 は 暫 く し て 大阪夕陽岡自在庵 に 移 る が 、 明治五年東京 の 宗光方 に 移 り 、 明治一〇年五月一八日 に 死亡 し た 。﹁ 日 次記 ﹂ の 同年七月 に は ﹁ 谷井惣右衛門来 ル 、 直 ニ 引取 、 自得先生預 り 有之碧巌録相渡 ﹂︵ 一二日 ︶、 ﹁ 今日於秋葉山 自得翁追善歌会 ニ 付、跡院主出席﹂ ︵二一日︶ とある 。宗広 は 和歌山 における 最後 を 圓珠院近 くですごし 、 また 貫 忠 の 手 を 経 て 谷井惣右衛門 に 遺品書籍 が 渡 された 。愛宕山・秋葉山 は 伊達宗広 の 紀州最後 の 縁 の 地 である 。 ﹁九半比、伊達五郎殿入来﹂ ︵明治三・四・一五︶ という 記事 があるが 、 これは 伊達宗興 のことである 。宗広 の 養 子 で 伊達家跡継 ぎ 、宗光 の 義兄 にあたる 。明治元年 に 執政 となり 、明治四年 には 広島県参事 となり 移住 するが 、 そ の 間 の 時期 のことである 。

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旧重臣 の 水野多 門 (11 ( は ﹁ 水野御隠居四人連 れ ニ 而入来 、 夕方遊帰 ル ﹂︵ 明治三 ・ 三 ・ 二三 ︶、 ﹁ 水野隠居入来 、 ニ 骨董家壱人同道也﹂ ︵同・一〇・一四︶ と 隠居生活 の 中 で 圓珠院 に 出入 りした 。明治四年八月 に 死去 したが 、明治一 八年七月末 に ﹁ 水野氏碑面建設 ﹂ が 図 ら れ︵ 七 ・ 三〇 ︶、 ﹁ 今日水野 ノ 碑建設 ニ 付 、 開式相営 、 水野氏家内旧臣 ノ 面々参集﹂ ︵八・一︶ とある 。同二〇年 には ﹁早朝木下宗次郎来 ル 、今日水野故林山居士十七回忌 ニ 付、当地 ニ 而祭 典 致 度 旨、此 程 彼 党 派 一 同 よ り 申 出 候 付、聞 及 候 処、午 前 十 一 時 頃 一 同 参 集 に ぎ 〳〵 敷 相 勤 め ﹂云 々︵八・二 一︶ と 見 える 。 政治家 として 筆頭 に 上 げられるのは 津田正臣 である 。﹁午時比津田五位殿入来﹂ ︵明治三・四・一三︶ 、﹁七半比 和歌津田公御入来 ﹂︵ 同四 ・ 七 ・ 一一 ︶、 ﹁ 巳時比 、 砂之丸従五位殿 ﹂﹁ 遊 ニ 被参候 ﹂︵ 同 ・ 八 ・ 二四 ︶、 ﹁ 午前津田正 臣君来 ル ﹂︵同一〇・一・一二︶ ﹁午前十時比、津田五位公入﹂ ︵同・一〇・九・六︶ 、﹁今日仲秋望月清光也、午前十 一 時 過 津 田 正 臣 来 ル 、止 宿﹂ ︵同 二 五・一 〇・五︶ と 見 え る 。津 田 は 明 治 四 年 一 一 月 二 五 日 初 代 和 歌 山 県 知 事︵ ﹁権 令 ﹂︶ 、﹁ 従五位 ﹂ と 称 さ れ た 。明治三年五月 か ら 玉津島社地西端 ︵ 和歌浦町 、 現和歌山県公館 ︶に 別荘 を 持 っ た の で 圓 珠院 で は こ の よ う に 呼 ん だ (11 ( 。権令以前 ・ 引退後 の 記事 で あ る が 、 正 に 遊 び に 来 て い る 。﹁ 砂之丸 ﹂ に は 新政府下藩 の 役所 があり 、勤務後 の 訪問 があった 。住職貫忠 と 親 しい 関係 であるが 、多 くの 場合尊称﹁公﹂ を 付 け 、 また ﹁君﹂ 付 けの 場合 もある ︵貫忠 との 年齢差 によるのかも 知 れない ︶。明治二七年 には 欠作 に 居住 しているが 、同二九年 に 没 し 、圓珠院境内墓地 に 埋葬 された 。 渥美源五郎 は 一〇代藩主治宝 の 側近 であった 渥美源五郎 の 子 であろう 。親源五郎 は 西浜御屋敷御用 を 勤 め (11 ( 、 おそ ら く そ の 当時 か ら 圓珠院 と 親交 が あ り 、 明治期 に は そ の 子 が 出入 り し て い る 。﹁ 今日和田得度 ニ 付 、 ・・・ 渥美源五郎 入来﹂ ︵明治一七・七・二五︶ とある 。 明治二〇年代末 に な る と 、 旧藩士 で 陸軍少将 ︵ 後中将 ︶の 岡本兵四郎 が 明治二七年頃 ︵ 休職中 ︶か ら 出入 り し 始 め る 。

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﹁ 院主谷井江岡本少将被参候 ニ 付出張 ﹂︵ 明治二七 ・ 五 ・ 三 ︶、 ﹁ 岡本少将入来 ﹂︵ 同 ・ 六 ・ 二 ︶と あ り 、 さ ら に 明治二 九年五月一九日再 び 休職 し 、帰国 して 圓珠院 に 出入 りするようになる 。﹁岡本兵四郎殿帰県 ニ 付貫恕歓 ニ 遣 ス ﹂︵明 治二九・五・一〇︶ 、﹁一時比岡本少将入来、夕方引取﹂ ︵同・一七日︶ とある 。藩士時代 からの 出入 り 、親交 があっ たと 見 られる 。日清戦争 に 従軍 しているが 、明治二八年一月 には 仙台松島 から 平泉 を 旅行 して 紀行文 を 記 し 、和歌 を 詠 んで 、圓珠院貫忠 の 下 へ 送 ってきている ︵圓珠院所蔵︶ 。軍人 ではあるが 文化人 である 。 以上、江戸期徳川家関係者 の 一部 が 圓珠院 と 長 く 親交 を 保 っていたことを 確認 できる 。 ②学者・画家・歌人 学者・文化人 に 関 しては 、江戸期以来 の 交流 を 継承 しつつも 、明治期 の 和歌山地域 における 新 しい 交流 が 始 まっ ている 。 まず 倉田績 は 文政一〇年 ︵一八二七︶ 生 まれで 、安政五年 ︵一八五七︶ より 城下中之店 に 居住 した 。漢学者 で あるが 、歌・禅・能楽 にも 堪能 で 、明治六年 ︵一八七三︶ より 和歌山水門神社神官、同二三年 から 竃山神社神主 を 勤 め た︵ ﹃ 紀州郷土芸術家小伝 ﹄︶ 。圓珠院 へ は 常 に 出入 り し 、 貫忠 の 片腕 の よ う な 存在 で あ っ た 。例 え ば ﹁ 早朝倉田 ・ 岡重・弘白展観之拵 ニ 来﹂ ︵明治三・四・一三︶ 。 また 明治三二年本堂再建寄附帳 の 序文起草 を 貫忠 から 依頼 されて いる ︵明治三二・七・一四︶ 。 古屋管賢 は 、加納諸平 の 弟子 で 、幕末期藩抱 えの 国学者 である 。明治初期 は 日高郡 にいたが 、明治一七年 に 和歌 山市 に 移 り 、歌道 を 教授 した ︵同前︶ 。﹁古屋管賢岡儀兵衛・岩橋楠松入来﹂ ︵明治二〇・四・一〇︶ 、﹁吉田南涯・ 古屋管賢来﹂ ︵明治二〇・一〇・三一︶ と 見 える 。市川霞洞 は 細工町 に 私塾 を 開 く 儒学者 で 、多 くの 学生 を 養成 した ︵同前︶ 。﹁今日市川霞洞門弟同伴 ニ 而展観致度旨申来、書院座敷明渡候事﹂ ︵明治七・四・一二︶ と 見 える 。 画家 では 、紀伊徳川家 のお 抱 え 絵師 であった 岩瀬広隆・笹川遊原 を 始 め 、岡本緑邨・稲垣南洲・吉田南涯・石本 雪渓等 が 圓珠院 に 出入 り し て い る 。例 え ば 、﹁ 岡本緑邨 ・ 笹川遊原来 ル ﹂︵ 明治三 ・ 六 ・ 五 ︶、 ﹁ 笹川遊原入来 ﹂︵ 明治

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六 ・ 四 ・ 二一 ︶、 ﹁ 夕方稲垣南洲入来 、 直 ニ 引取 ﹂︵ 明治六 ・ 五 ・ 一九 ︶、 午后 ・・・ 石本雪渓 ト 云画人 も 同行 ﹂︵ 明治二 九・四・二六︶ 、﹁市川霞洞・吉田南涯同道 ニ 而来 ル ﹂︵明治二一・四・六︶ 。 岩瀬広隆 は 明治一〇年 に 亡 くなるが 、明治四年 の 記事 に ﹁岩瀬広隆倅入来﹂ ︵明治四・七・一一︶ とある 。子息 の 出入 りから 広隆自身 の 出入 りを 想定 できよう 。稲垣南洲 は ﹁稲垣南洲入来、小之画認貰候事﹂ ︵同五・八・五︶ と い う よ う に 書院内小 の 絵 を 書 き 、 吉田南涯 は 明治一九年書院修覆後 、 上之間 の 絵 を 描 き 、﹃ 展観図録 ﹄ 挿絵 も 描 いている ︵後述︶ 。 また 、西京人沢井石芸、大坂 の 長坂雲在 ︵元長保寺、和歌浦︶ 等 が 来訪 している 。﹁午前西京人沢井石芸入来﹂ ︵明 治一九 ・ 八 ・ 一一 ︶、 ﹁ 大坂画工長坂雲在入来 ﹂︵ 明治二〇 ・ 二 ・ 二一 ︶。 さ ら に ﹁ 南都東大寺僧画修行者来 ル 、 止宿 ﹂ ﹁院主同道 ニ 而画僧和歌行﹂ ︵明治四・一・一三・一四︶ というように 無名 の 画僧 への 対応 も 見 られる 。江戸期 から の 伝統 であろう 。 歌人 で は 、 前田水穂 と そ の 社中 、 志賀武洋 ︵ 延年 カ︶ 松原 遊 (有 ( 積 ・ 野田大次郎 ・ 和田九内 ・ 養老社中 ・ ︵ 西京 ︶ 北村四郎 兵衛 の 名 が 見 える ︵歌会 については 後述︶ 。 ︵ 2︶ 文化活動 次 に 圓珠院 の 書院 ︵座敷︶ において 展開 した 文化活動 について 見 ておこう 。 ①書画展観会 例 えば 明治一三年三月﹁早朝郭始新堀連入来、大相院・明王院来 ル 、午前十時比三浦始銀行社中入来、茶会 に 展観会至而盛会 ナ リ ﹂︵ 明治一三 ・ 三 ・ 一四 ︶と い う よ う に 茶会 ・ 書画展観会 が 開催 さ れ て い る 。 こ の 前 々 日 ﹁ 午 後郭百輔・三尾・岡武殿平・楠松、十四日展観 ニ 付見分 ニ 来 ル 、夕方引取、院主所々掃除﹂ ︵三・一二︶ と 、準備 に

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は 近隣 の 知人 ︵郭百輔 は 今福 で 開業 の 医師︶ が 駆 けつけている 。明治二〇年四月﹁今朝 ヨリ 清水平右衛門、今日抹茶 席持呉候 ニ 付、拵 ニ 来 ル 、立客凡弐百三十人余、当院江 も 古書画展観二十幅余﹂ ︵明治二〇・四・二四︶ とある 。協 力者 を 岡東館 で 慰労 している 記事 もある ︵同・四・二八︶ 。 このような 春 の 展観会 の 記録 は 、﹁展観見物人群集﹂ ︵明 治三 ・ 四 ・ 一三 ︶、 ﹁ 今日書画展観会相催候付 、 諸方 ヨ リ 持参四 、 五十人入来 、﹂ ︵ 明治一〇 ・ 五 ・ 二五 ︶と い う よ う で ある 。 ま た 明 治 二 〇 年 代 に は 秋、重 陽 の 節 に 開 催 さ れ て い る 。﹁今 日 旧 重 陽 書 画 展 観 会 興 行、八 百 万・三 尾 文 次 郎・楠 松 ・ 田虎手伝 、 縦覧人凡百余人 ﹂︵ 明治二〇 ・ 一〇 ・ 二五 ︶、 ﹁ 今日旧暦重九 に 正当 、 今日美術画展会 ニ 付 、 午前川 島文峯 ・ 岡儀兵衛 ・ 同良助 ・ 樫井時彦 ・ 岩崎楠松 ・ 三尾 ・ 岡武手伝 、 貴賤群集 、 至而盛会 、 夕方相終 ﹂︵ 明治二一 ・ 一〇 ・ 一三 ︶、 ﹁ 今日展観会 ニ 付 、 早朝楠松手伝 い ニ 来 ル 、 九時比秋山 ・ 岩崎 ・ 平田 ・ 岸等入来 、 清水 ・ 谷井 ・ 桑 山其外縦覧人多分来 ル 、大盛会也﹂ ︵明治二三・一〇・一二︶ とある 。多 くの 知人 が 手伝 っている 。 展観会 は 祝 い や 供養 と し て も 開催 さ れ た 。書院 の 修築完成祝 い と し て ﹁ 今日普請出来 、 祝 ニ 書画展観会相催候事 ﹂ ﹁今日展観幅出 シ 候人数三拾名余、大盛会也、見物人弐百人計﹂ ︵明治一九・一〇・一七︶ 、法事 の 際 にも ﹁明日 ハ 頼母子岩崎追善会書画展観会 ニ 付所 々 掃除拵等致 ﹂︵ 明治一八 ・ 四 ・ 一五 ︶、 ﹁ 今日岩崎追善会相営 、 津田君初岩崎 兄弟諸君五十人計参集﹂ ︵同・一六︶ と 見 える 。 この 他、例 えば ﹁根来家内・中嶋米太郎書画小道具、車 ニて 持 込 、 見物人夫 々 参集 ﹂︵ 明治二四 ・ 六 ・ 七 ︶と い う よ う に 展観会 が 随時開催 さ れ た 。書画展観会 は 圓珠院 だ け で な く 、 和歌山市内 の 寺院・個人宅等 で 頻 りに 開催 され 、関係者 が 交流 している ︵次述︶ 。 ちなみに 、明治一九年 の 記念書画展観会 には 、圓珠院 はもとより 、島村安兵衛 ︵新通四︶ ・清水平右衛門 ︵橋丁︶ ・ 吉田南涯 ︵畑屋敷榎丁︶ ・谷井勘蔵・津田正臣・沼野六兵衛 ︵橋丁︶ ・岡本善右衛門 ︵駿河町︶ ・桑山茂平次・岩崎茂兵 衛︵卜 半 町︶ ・川 島 文 峯︵郭 内 京 橋 畔︶ ・弓 場 武 助︵新 堀︶ 他 か ら 掛 軸 五 一 幅 が 出 陳 さ れ た︵ ﹃展 観 図 録﹄棚 58 20︶。 こ れ

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ら の 人 々 は ﹁ 圓山応挙水墨登瀑鯉魚図 ﹂ や ﹁ 狩野探幽着色霊猫図 ﹂ な ど 銘品 を 所有 し て お り 、 相互 の 交流 が 図 ら れ 、 その りにも 同種 の 関心 と 作品等 を 持 つ 人々 がいた 。 ある 規模 の 文化人 ネットワークが 存在 した 。 ②歌会・漢詩会 歌会 に 関 し て は 次 の よ う な 記事 が あ る 。﹁ 午後二時比前田水穂社中 ・ 志賀武伴外 ニ 四 、 五人歌会 ニ 来 ル 、﹂︵ 明治 一六 ・ 五 ・ 二七 ︶、 ﹁ 今日歌連中座敷 カ リ ニ 来 ﹂︵ 明治一九 ・ 一一 ・ 九 ︶、 ﹁ 午后前田水穂 ・ 松原有積 ・ 野田大次郎 ・ 和 田九内等来、右者歌会也﹂ ︵明治二〇・三・一五︶ 、﹁今日午后前田連中拾人程寄合 ニ 付来 ル 、八名也﹂ ︵明治二一・ 五 ・ 一五 ︶、 ﹁ 午后 、 前田水穂初八人程歌会 ニ 座敷借 ニ 来 ル 、 則貸 ﹂︵ 明治二二 ・ 七 ・ 二一 ︶、 ﹁ 前田水穂連中入来 、 歌 会﹂ ︵明治二五・一一・二五︶ と 前田水穂社 の 歌会 が 圓珠院書院座敷 で 頻繁 に 行 われた 。﹁養老社中歌会 ニ 来 ル ﹂︵明 治二三・一一・八︶ というように 養老社 もここを 利用 した 。 ま た 漢詩会 も 開催 さ れ た 。﹁ 午後二時頃詩会連中津田 ・ 渡辺 ・ 山本 ・ 倉田 ・ 岩橋 ・ 奥村 ・ 赤星等入来 ﹂︵ 明治二一 ・ 五・二︶ 、﹁二時比、津田父子、山本・水嶋、外 ニ 両人詩会 ニ 来 ル ﹂︵明治二三・九・七︶ 。両会 に 津田正臣 が 出席 し ており 、倉田績 も 関係 したと 見 られる 。倉田 は 歌会 にも 参加 しており 、明治期和歌山 の 和漢 の 文化 を 支 えた 。 ③住職貫忠 の 書画展・歌会見学 貫忠 は 、圓珠院 で 書画展観会 を 定期的 に 開催 しただけでなく 、次 の 記事 のように 和歌山市 や 近辺 での 展観会 をか な り の 頻 度 で 見 学 し て い る 。院 主 は 貫 忠 の こ と で あ り 、﹁院 主 吹 上 寺 江 書 画 展 観 ニ 付 見 物 ニ 行﹂ ︵明 治 六・二・二 二 ︶、 ﹁ 院主新 ほ (掘 ( り 連 と 同伴 ニ 而丸之内千種園 エ 珍書画展観会 ニ 付見物 ニ 行 ﹂︵ 明治九 ・ 四 ・ 三 ︶、 ﹁ 今日護国院 ニ テ 書 画展観会﹂ ︵明治一〇・六・一︶ 、﹁倉田・清水同伴 ニ 而関戸谷井書画一覧 ニ 行﹂ ︵明治一九・四・九︶ 、﹁今日護念寺 介石書画展観会 ニ 付、院主出張﹂ ︵明治二一・一一・一八︶ 、﹁今日於報恩寺書画展観会 ニ 付、院主見物 ニ 行﹂ ︵明治 二二 ・ 四 ・ 一四 ︶、 ﹁ 午后院主今日於大立寺展観 絵 (会カ ( ニ 付出張 ﹂︵ 明治二三 ・ 一一 ・ 一六 ︶、 ﹁ 早朝院主雲蓋院江書画展

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観会 ニ 付出張﹂ ︵明治二五・一一・二六︶ ﹁午后院主谷井氏 ト 伊勢 や 佐次兵衛方 え 書画見 ニ 行﹂ ︵明治二七・五・一︶ 、 ﹁院主四華館江書画展覧 ニ 付行﹂ ︵明治二八・六・二三︶ と 見 える 。 また 貫忠 は 和歌 への 関心 があり 、江戸期 より 飛鳥井家 と 交流 があった ︵前述︶ 。﹁日次記﹂ によると 、﹁午後 ヨリ 院 主出町、今日千種庵 ニて 双松蔭社中歌会 ニ 付出頭﹂ ︵明治九・五・五︶ ﹁午后院主倉田歌会 ニ 行﹂ ︵明治一六・三・一 〇 ︶、 ﹁ 院主前田 ノ 歌会 ニ 行 ﹂︵ 明治一六 ・ 三 ・ 一〇 ︶﹁ 和歌村松原別荘 ニ 而歌会 ニ 付同道致 ﹂︵ 明治一七 ・ 七 ・ 六 ︶と い う よ う に 各地 の 歌会 に 参加 し て い る 。 ま た 漢詩 の 会 に も 参加 し て い る 。﹁ 今日山本詩会 ニ 付終日同家 ニ 暮 、 夜 ニ 入院 主帰院 ﹂︵ 明治二六 ・ 一 ・ 八 ︶。 ち な み に ﹁ 長保寺 ・ 雲蓋院同道紡績初見物 ニ 行 ﹂︵ 明治二三 ・ 五 ・ 三〇 ︶、 ﹁ 院主 、 雲 蓋院同伴 ニ 而宇須村中村別荘見物 ニ 行﹂ ︵同・九・七︶ というように 、貫忠住職 は 文化人 で 、新 しい 物 へも 関心 が 高 かった 。   ④名望家 の 交流 と 多様 な 書院利用 明治三年∼同三二年 の ﹁日次記﹂ ︵欠本 あり ︶に 記 された 、圓珠院訪問者 の 名前 ︵寺院関係・職人等 を 除 く ︶を 抜 き だ し て み る と 、約 一 八 〇 人 の 名 前 が 確 認 で き る 。例 え ば ﹁午 后 岡 山 学 校 先 生 達 五 人 遊 ニ 来 ル 、夕 方 引 取﹂ ︵明 治 一 八・六・一三︶ や ﹁女学校教員廿七人遊 ニ 来 ル 、夕方引取﹂ ︵明治二七・四・二一︶ や ﹁妻﹂ ﹁家内﹂ などの 名 の 記 さ れない 人数 を 入 れると 約二〇〇人 を 遙 かに 超 える 人 が 圓珠院 に 出入 りしていた ︵約二五年間 の 記録︶ 。 これは 一〇回 出入 りした 人 も 一人 と 数 える 実数 である ︵延 べ 人数 ではない ︶。 圓珠院 への 訪問 は 、年始礼、 ﹁午后頼母子会 ニ 付、根来・岩崎・三尾・弓場入来、夕方仕舞引取﹂ ︵明治二〇・一 二・二〇︶ というように 特定 の 用件 で 訪 れる 場合、例 えば ﹁桑山父子来 ル 、夕方谷井勘蔵来 ル ﹂︵明治二〇・四・一 七︶ と 何 と な く 訪 問 す る 場 合、 さ ら に 玉 津 島 社 神 主 の 髙 松 房 生 は 明 治 一 六 年 三 月 六 日﹁夕 方 院 主 帰 院、髙 松 房 生 来 ル ﹂、翌日﹁早朝髙松房生来 ル 、午時頃引取﹂ 、 さらに 同一〇日 には ﹁午后院主倉田歌会 ニ 行、夜十時比髙松房生同

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道 ニ 而帰院、房生止宿﹂ というように 、 いわば 入 り 浸 っている 場合 もある 。 このような 多様 な 訪問 がみられるが 、岩崎茂兵衛・岩橋楠松・岡武・岡本十太郎・倉田績・桑山茂平次・清水平 右衛門・髙松房生・髙松利助・津田正臣 ︵↓津田耕次郎︶ ・中野文左衛門 ︵関戸村、豪商・紀南山林地主、 ﹁帝国名望 家 ﹂︶ ・ 沼野六兵衛 ︵ 江戸期質商 、﹁ 同前 ﹂︶ ・ 根来義方 ・ 和中金助 ︵ 先代 、 和歌村 ︶・ 平畑藤八郎 ︵ 和歌村 、 士族 、 質屋地 主 ︶・ 古屋管賢 ・ 三尾文次郎 ・ 谷井勘蔵 ︵ 関戸村 、 銀行頭取 、 地主 ︶と い う 人 た ち は ﹁ 日次記 ﹂ に 頻出 す る 訪問者 で あ る 。他 に 、数 回 名 が 見 え る 南 川 十 郎 左 衛 門 は 明 治 一 二 年 湊 中 組 戸 長︵直 ぐ 辞 任︶ で あ り 、弓 場 武 助︵新 堀 五 丁 目、油 商 ︶は 明治二二年和歌山市議会 の 当選者 で あ り 、 坂上伝吉 は 明治二二年史参事会員 で あ る 。前述 の よ う に 、 彼等 は 和 歌山市・和歌村 ︵和歌浦町︶ ・関戸村 に 居住 する 名望家 であ る (11 ( 。名前 が 一度限 り 登場 する 名 は 約七〇人 なので 、二回 以上 の 来訪者 は 一〇〇人 を 超 える 。明治前期、圓珠院 には 多数 の 多様 な 訪問者 があった 。 圓珠院 では 明治一〇年代 の 境内整備 で 積極的 に 桜 の 植樹 を 図 った 。 この 結果、毎年春 には 花見客 が 訪 れている 。 例 え ば ﹁ 森部 ・ 田中花見 ニ 来 ル 、 三尾楠松来 ル ﹂︵ 明治二一 ・ 四 ・ 二 ︶、 ﹁ 今日午后新堀連中妻女子拾四 、 五人花見 ニ 被招候事、古屋管賢来 ル ﹂︵同・同・一一︶ などと 見 える 。女性 も 圓珠院境内 へ 足 を 運 んでいることがわかる 。 一 方、明 治 二 二 年 八 月・九 月 の 水 害 に 際 し て は 、﹁早 朝 塩 屋 村 人 民 入 込、焚 出 ニ 貸 渡 候 事、夜 分 は 止 宿 人 も 有 之﹂ ︵同・九・一二︶ と 書院 が 利用 され 、﹁塩屋議員水害之節 ノ 礼 ニ 来 ル 、金五円持参﹂ ︵同・一〇・一四︶ と 見 える 。 ﹁木戸照陽家内近隣 ノ 人拾人計座敷 カリニ 来 ル 、則相 カス ﹂︵明治二九・六・五︶ というように 日常的 に 書院座敷 を 提 供 し て い た 。 ま た 、﹁今 日 矢 野 熊 彦 ト 云 仁 病 気 用 (養生 ( 状 ニ 入 込、止 宿﹂ ︵明 治 二 九・八・二 五︶ 、﹁夕 方 矢 野 帰 宅﹂ ︵同・同・二 六︶ 、﹁昨 夕 方 細 井 三 郎 病 気 用 (養生 ( 状 ニ 来 ル ﹂︵同・同・二 五︶ 、﹁午 后 細 井 三 郎 病 気 全 快 致 引 取﹂ ︵同・一 一・一 〇︶ と い う よ う に 、病 人 の 一 時 療 養 所 と も な っ て い た 。﹁夕 方、丹 波 ノ 旅 僧 来、止 宿 為 致 候 事﹂ ︵明 治 二 八・ 七・一︶ と 見 え 、不時 の 旅僧 への 宿提供 もあった 。英国 から 帰国 した 南方熊楠 もこの 書院 で 暫 く 生活 し た (1( ( 。

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明治期 の ﹁日次記﹂ からは 、以上 のような 圓珠院 を 核 とする 近代和歌山 ︵和歌山市・和歌浦町・関戸村等︶ の 文化 人・名望家 の 文化交流 を 知 ることができる 。圓珠院 は 地域 の 文化交流 サロンであり 、書院 は 美術館・博物館 であっ た 。本堂再建 を 資金的 に 支 えたのは 和歌村・和歌山市 の 住民 ︵名望家、民衆︶ であったが 、火除 け 信仰 だけでなく 、 文化交流 の 側面 が 重要 な 役割 を 果 たしたといえよう 。 むすびにかえて 以上 に 述 べた 本稿 の 要旨 は 次 の 通 りである 。 一、貫忠 は 幕末期 から 明治全期 におよび 圓珠院 の 住職 を 勤 めたが 、圓珠院 が 従来 の 徳川系天台寺院 という 特質 を 継 承 し 、体現 しつつも 、少年期 から 同院 で 過 ごし 、地域社会 の 構成、人的関係 を 体得 し 、広 く 隅々 に 心配 りできる 人 格 を 有 した 。 また 宗教人 であるとともに 、書画 に 対 する 造詣、和歌・漢詩 に 対 する 関心 を 持 つ 教養人 であった 。 二 、 江戸期、圓珠院経営 のため 、紀伊徳川藩政時代 の 藩主関係者 からの 支援 だけでなく 、火除 けという 愛宕権現社 に 由来 する 普遍的 な 宗教活動 ︵護摩供講等︶ や 、阿弥陀信仰 と 関 わる 地蔵菩信仰 の 寺院 としても 存続 し 、城下町 や その 周辺村落 という 地域社会 の 民衆的支持 をえていた 。 三 、 明治初 め 以降 、 寺社経営 の た め 数度 の 護摩供講 や 寄附金募金活動 を 行 っ た が 、 明治一〇年代半 ば ∼ 三〇年代 に 、 和歌山市、関戸村・和歌村等 の 地主利益等 を 集積 した 名望家 と 都市・農村 の︵火除 け 信仰 を 持 つ ︶広範 な 民衆 とで 構 成 される 地域社会 が 形成 され 、双方 が 圓珠院 をささえた 。 四 、 圓珠院 は 、上記 の 名望家 の 持 つ 文化的側面 のネットワークの 核的 な 位置 にあり 、地域 の 文化的 なサロン 、美術 館・博物館的 な 存在 であった 。 そこには 経済的 に 豊 かな 名望家 に 限 らず 、文化 と 信仰 でつながる 広範 で 多様 な 人々

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が 出入 りした 。南方熊楠 の 一時居住 はそのような 圓珠院文化 の 象徴 である 。 五 、 圓珠院 と 僧貫忠 の 生 き 様 は 地域社会、徳川系天台寺院 の 近代化 の 過程 を 具体的 に 示 している 。 注 ︵ 1︶古代以来 の 和歌 の 浦 の 北辺 はずれに 位置 する 。同時 に 城下町和歌山 を 一望 できる 、城下町 の 少 し 南 に 位置 し 、愛宕社 の 火除 に 注目 することが 重要 であり 、和歌浦 の 北東鬼門 という 理解 は 一面的 であろう 。 ︵ 2︶海津一朗﹁和歌浦・愛宕山 の 石造物調査︱近世和歌山城下町災害史研究事始 め ︱﹂ ︵﹃和歌山大学教育学部紀要︱人文科学︱﹄第六 三集、二〇一三年︶ 。 ︵ 3︶和歌山地方史研究会主催 シンポジウム ︵二〇二〇・八・三〇︶ の 成果 が ﹃和歌山地方史研究﹄第八〇号 ︵二〇二〇年一二月︶ に 特集 さ れ て い る 。栗原正東 ﹁ 圓珠院 の 成立 と 展開︱由緒 ・ 宗派 ・ 本末関係 を 中心 に ︱ ﹂、 糸川風太 ﹁ 江戸期 の 圓珠院︱無禄 ・ 無旦寺院 の 運 営︱﹂ 、拙稿﹁近世∼近代、圓珠院境内 の 景観変遷﹂ など 。 ︵ 4︶郡部 の 近代地主 で あ る ﹁ 地方名望家 ﹂ に 関 す る 研究史 、﹁ 都市名望家 ﹂ に 関 す る 研究史 が 併存 す る 。本稿 で は 都市 と そ の 近郊 に お け る 地域 の 、 裕福 で 社会的上層 の 文化的 な 階層 を さ し て 漠然 と 用 い る 。 さ し あ た り 山中永之祐 ﹃ 近代市制 と 都市名望家 ﹄︵ 大阪大学出 版会 、 一九九五年 ︶、 丑木幸男 ﹃ 地方名望家 の 成長 ﹄︵ 柏書房 、 二〇〇〇年 ︶を あ げ て お く 。最近 で は 、︵ 本稿 と の 接点 は 薄 い が ︶飯塚 一幸﹃明治期 の 地方制度 と 名望家﹄ ︵吉川弘文館、二〇一七年︶ がある 。 ︵ 5︶ ﹁ 公儀御代 々 ・ 当院暦代他代 々 名前書上 ︺﹂︵ 棚 58 24︶。本文末 に 参照資料 と し て 境内墓地 の 大正期以前 の 墓碑 に つ い て 調査 し た 結 果 を 示 し 置 く 。 ︵ 6︶拙稿﹁近世∼近代、圓珠院境内 の 景観変遷﹂ ︵﹃和歌山地方史研究﹄第八〇号、二〇二〇年︶ 。

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︵ 7︶本寺 にあたる 雲蓋院 では 、一八世紀初 め 頃、四世憲海・五世宗海・六世亮海 が ﹁海﹂ を 継承 し 、末掲圓珠院境内墓碑 にある 一七世 紀末 の 3廣海 もその 系統 であろう 。 ︵ 8︶ ﹁日 次 記﹂明 治 九 年 四 月 の 記 事 の あ る 丁 の 袋 綴 じ 料 紙 内 に 挿 入 さ れ た 紙 片 に ﹁文 政 十 一 子 年 三 月 二 十 二 日 生﹂ と あ る 。﹁日 次 記﹂ ︵ 棚 58︶は ﹁ 年中日次雑誌 ﹂﹁ 日次雑誌 ﹂ 等 の 総称 で 、 貫忠代 に 記 さ れ た 圓珠院 の 日記 で あ る 。明治三年 ∼ 同三二年 ま で が 残 さ れ て い る︵途中欠年 あり ︶。 ︵ 9︶嘉永七年 ︵ 一八五四 ︶﹁ 当院十二世真乗院貫光法印遷化一件 ﹂ に 貫忠二七歳 、﹁ 戒 ﹂ 一七歳 と あ る︵ 棚 58 | 24︶。一方 、 嘉永六年五月 ﹁ 当 院十三世貫忠法印住職一件記 ﹂ に よ る と 、 海士郡加茂組小畑村文右衛門六男亀之助 、 三〇歳 、 戒一七年 と 記 し て い る 。三年 の ず れ 、 親名 の 違 いがある 。﹁日次記﹂ の 記事 に 小畑村 の 人物 が 頻出 するので 、 こちらが 正 しいかも 知 れないが 、結論 は 留保 する 。 ︵ 10︶ ﹁日次記﹂明治八年一一月一一日 の 記事。 ︵ 11︶天保七年 ︵一八三六︶ の 棟札 に ﹁西浜御広敷伊賀役﹂ とある 。﹁伊賀﹂ については ﹃南紀徳川史﹄ ︵第八冊五三八頁︶ 参照。 ﹁貫瑞法印 遷化一件﹂ ︵棚 58 | 43︶に ﹁善助 ハ 御部屋様御附之陸尺二而十太郎仲間﹂ ともみえる 。 ︵ 12︶貫珠 は 雲蓋院貫春 の 弟子 であるが 、兄真海 が 先 に 仏門 にあった 可能性 がある ︵僧名﹁海﹂ は 雲蓋院 の 系統 を 示 す ︶。 ︵ 13︶以降、煩瑣 なので 明治元号 にいちいち 西暦 を 付 すことはしない 。 ︵ 14︶老女衆三人 に 延紙三束宛 と 比 べ 、御使番 には 延紙五束 というように 、窓口担当者 に 対 する 配慮 が 見 える 。 ︵ 15︶ 明日香 ︵ 飛鳥 ︶井雅久御詠歌 ﹂︵ 軸装箱入 ︶︵ 棚 38 1︶が あ る 。嘉永六年 ︵ 一八五三 ︶貫忠 に 寄贈 さ れ て い る 。住職 に な る 嘉永六年以前 から 貫忠 は 雅久 の 歌道 に 入門 していたことが 推測 される 。 ︵ 16︶和歌山県立文書館編﹃収蔵資料目録十   紀州家中系譜並 に 親類書上 げ︵上︶ ︵下︶ ﹄ の 該当箇所 に 同名 が 見 える 。 ︵ 17︶注 16︶同前。 ︵ 18︶ ﹁圓珠院文化財目録﹂ ︵和歌山県文化遺産課松原瑞枝作成︶ 彫 8・彫 9、前者 は 江戸期作、後者 は 南北朝時代作 とされている 。

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︵ 19︶現在 の 圓珠院境内 に 元禄一一年 ︵一六九八︶ の 石造地蔵尊 があるが 、 その 台座 に 記 された 寄進者 は 一二名 で 、無姓 の 城下町人 か 近隣 村民 である 。前掲注 ︵ 2︶海津一朗論文参照。 ︵ 20︶ ﹁護摩講人名録﹂ は 美装表紙 が 付 され 、木製箱 に 納 められている ︵棚 53︶。 ︵ 21︶明治一三年七月刊 ︵ 明治一二年二月調査 ︶﹁ 和歌山県下地租持一覧表 ﹂︵ 圓珠院所蔵 ︶に よ る 。津田正臣 は 第四位 、 五四〇円地租持 で あ る 。谷井勘右衛門 は 六〇五円 である ︵谷井勘蔵 との 関係不詳︶ 。 ︵ 22︶高嶋雅明﹁和歌山県貴族院議員多額納税者議員互選人名簿 ⑴﹂︵﹃紀州経済史研究叢書﹄第二六輯、一九七九︶ ︵ 23︶例 えば ﹁院主町方護摩講 担 ︵檀︶ 家江配札、年礼 ニ 行﹂ ︵明治二九・一・二四︶ とある 。 ︵ 24︶その 箱内 には 、 この 帳 の 他 に ﹁日供米施入名帳   在方﹂ ﹁︵同︶ 町方﹂ ﹁︵同︶ 諸士﹂ に 題 した 三冊 ︵美装製本︶ が 納 められている 。 この 三冊 は 先 の 一冊 ︵原本︶ を 整理 し 、元文三年 ︵一七三八︶ 本殿修覆 の 日供米施入 の 記録 を 加 えて 清書 したものである 。 ︵ 25︶卜半町 へは 個別 の 出入 り 関係 が 存続 していた 。例 えば ﹁卜半町火防御祈祷致、午後院主御札・御洗米等持参、御神・酒御鏡等者彼 方 ヨリ 持参也、御初穂金五十銭﹂ ︵明治一二・五・二一︶ とある 。 ︵ 26︶ ﹁亀院﹂ とは 山麓 にある 亀遊岩 に 因 んで 名付 けられた 居宅 のことであろうか 。 ︵ 27︶慶応三年 ︵一八六七︶ ﹁伊呂波寄惣姓名帳﹂ ︵和歌山県立図書館所蔵︶ によると 一五〇〇石、学習館奉行。 ︵ 28︶明治三年五月 ﹁ 取替一礼 [ 境内地貸与 に つ き ]﹂︵ 玉津島社文書 ︶に ﹁ 当社境内之内西側 蝦 ︵ がま ︶ 蟆 之岩陽照院 下 ︵大相院︶ 寺際之地形 、 此度御 別荘御取建被成候﹂ ﹁右之地形御貸申上候﹂ とある 。 ︵ 29︶天 保 一 二 年︵一 八 四 一︶ ﹁御 影 諸 頼 母 子 一 件 控 帳﹂ ︵棚 58 37︶。親 源 五 郎 は 白 圭 と の 号 を も つ 画 家 で も あ り 、嘉 永 六 年︵一 八 五 三︶ に 没 ︵﹃紀州郷土芸術家小伝﹄ ︶。 ︵ 30︶ ﹃和歌山市議会史   第一巻﹄ ︵三一∼四八頁︶ 、﹃和歌山市史 第三巻﹄ ︵七六∼七九頁︶ で 補 った 。 ︵ 31︶飯倉照平﹃南方熊楠﹄ ミネルヴァ 書房、一五八頁。一一月一九日 から 居付 いた ︵﹃南方熊楠日記 2﹄、八坂書房、一七八頁︶ 。

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〔参考資料   圓珠院境内墓地墓石一覧〕           二〇二〇年六∼七月調査 ︿東側奥﹀   南三 つ 目 から 1   寛永十七□辰十一月十日   徳西禅定︿門﹀            ︵一石五輪塔︶ 2   寛永十[   ]六月十[   ]妙連︿禅定尼﹀            ︵一石五輪塔︶ 3   寛永十三年七月十八日    徳順法印霊意        ︵板碑︶ 4   元禄四年未[     ]   正光院   廣海 ︿東側手前﹀   南 から 5         常楽我浄禅定門   下男平田安吉 6   寛永十七年二月十二日    大法師泉識   霊位 7   万治元年七月        月窓姉秋禅定尼   霊位 8   明治三十一年六月十三日滅   権律師貫恕   行年五十一歳     ︿千手観音座像﹀ 9   大正二年四月十八日     一雨院権僧正貫忠塔 10   文久二年三月二日      恵澄大和尚塔   施主法春貫忠造立 11   元禄十二年二月廿四日        ︿地蔵立像﹀ 12   ︱︱︱︱︱︱︱︱      当寺二世顕榮 13   元禄十五年八月十三日    瑞雲寺五世権大僧都法印豪   建立逆修一基 14   寛保四年正月朔日      権大僧都法印亮巌 15   安永四年九月十六日     権大僧都法印慧巌 16   文政六年十二月十七日    貫鎮法印塔

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