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〈近畿の民俗・文化〉和歌山県における櫨の民俗 ―紀美野町の栽培・採取を中心に―

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(1)

  和歌山県の櫨生産・製蝋に関する先行研究 櫨 はぜ はウルシ科の植物であり、和歌山県に自生していたが、近世まで産業とし て注目されることはなかったようである。江戸中期、有田郡箕島村(現在の有 田市)の田中善吉が紀州藩の命を受け、薩摩(現在の鹿児島県)から甘蔗(サ ト ウ キ ビ ) 苗 と と も に 櫨 の 苗 を 持 ち 帰 っ た。 藩 の 殖 産 政 策 に よ り、 海 あ ま 士 ・ 名 な ぐ さ 草 ・ 那 な が 賀 郡の各地に櫨の苗が配布され、櫨の栽培が拡大し、櫨の実から 蝋 ろうそく 燭 などの原料を製造する 製 せい 蝋 ろう 業が発展した。こうした紀州における製蝋業の歴史 的 な 展 開 に つ い て は、 紀 州 近 世 史 研 究 者 の 笠 原 正 夫 が 注 目 し〔 笠 原   一 九 七 三〕 、『有田市誌』 、『下津町史』 、『野上町誌』などに取り上げられた〔有田市誌 編集委員会   一九七四、下津町史編集委員会   一九七六、野上町誌編さん委員 会   一九八五、貴志川町史編集委員会   一九八六、清水町誌編さん委員会   一 九 九 八、 砂 川   二 〇 一 六 〕。 ま た、 海 南 市 の 製 蝋 業 者 に つ い て も 報 告 が あ る 〔海南市立歴史民俗資料館   一九九一〕 。 しかしながら、櫨の生産地の民俗、つまり栽培、採取に関する研究はほとん どおこなわれていないのが実情である。先行研究のなかで、櫨の生産という項 目を立てて紹介しているのは『野上町誌』である。ここでは第 4章「工業」第 3節「 櫨 と 製 蝋 」 と し て 取 り 上 げ ら れ て お り、 「 櫨 の 栽 培 」、 「 ブ ド ウ 櫨 の 発 見」 、「ブドウ櫨の原木」 、「野上における櫨の生産」 、「野上の製蝋業」という項 目を立てている。それでも、櫨生産の具体的な作業工程などはまったく記され ていな い )1 ( 。 筆者は櫨栽培の中心地のひとつであった和歌山県紀美野町において、町内各 地の生業などを平成二三年(二〇一一)から二六年(二〇一四)にかけて調査 し た )2 ( 。このなかで、おもに平成二五年(二〇一三)に紀美野町内の複数の地域 で 櫨 の こ と を 聞 い た。 ま た、 近 畿 大 学 文 芸 学 部 の 民 俗 学 実 習 を、 平 成 二 四 年 ( 二 〇 一 二 ) か ら 現 在 に 至 る ま で 紀 美 野 町 で 実 施 し て い る。 こ の な か で、 櫨 に つ い て も 聞 き 取 り を 継 続 し て き た。 そ う し た 調 査 の 中 で、 志 賀 野 地 区 に お い て、 現 在 で も 櫨 採 り を し て い る 方 が い る と 聞 き、 聞 き 取 り を す る こ と が で き た )3 ( 。 一方、りら創造芸術高等学校(紀美野町真国宮)では地域デザインの授業の なかで、地元の文化を聞き取り、発信する取り組みをおこなっている。近畿大 学の民俗学実習と交流するなかで、志賀野地区の櫨農家に注目し、櫨採りをす る様子を撮影してきた。そして、文献調査、聞き取り調査、現地踏査をおこな い、かつて県指定の天然記念物に指定されていた「 葡 ぶ ど う 萄 櫨 はぜ 」の原木を見つけ出 した。和歌山県海草振興局農林水産振興部林務課・近畿大学生物理工学部・和 歌山県立向陽高等学校などの協力を得て、樹齢調査・ D N A調査を実施し、天 然 記 念 物 へ の 再 登 録 に 向 け て 活 動 を 展 開 し て い る〔 鞍   二 〇 一 八、 神 山 ほ か   二 〇 一 九、 三 木 ほ か   二 〇 一 九 〕。 そ の 活 動 は メ デ ィ ア に も 取 り 上 げ ら れ、 地 域の活性化につながっているとして、令和元年(二〇一九)五月には、第三二

和歌山県における櫨の民俗

―紀美野町の栽培・採取を中心に―

  井

  弘

  章

(2)

回 特 用 林 産 功 労 者 特 別 賞 を 受 賞 し て い る。 原 木 調 査 の 成 果 の 一 部 は、 『 民 俗 文 化』三一号(本紀要)にまとめている。 本稿では、これまでの筆者による紀美野町の調査のなかで、櫨に関して聞き 取りできたことを列記し、和歌山県の櫨生産地における栽培・採取など具体的 な櫨とのかかわりについて提示する。   紀美野町の概要 紀 き 美 み の 野 町 ちょう は 和 歌 山 県 北 部 の 山 間 部 に 位 置 し、 東 西 に 細 長 い 町 域 と な っ て い る。東から 貴 き し が わ 志川 ・ 真 ま 国 くに 川 がわ という二つの河川が流れていて、二つの河川沿いに わずかな平地が存在する。この流域は地元では 野 の 上 かみだに 谷 と呼ばれてきた。東側は 旧 伊 い と 都 郡(かつらぎ町・九度山町・橋本市・高野町)である。歴史的・宗教的 につながりの深い高野山が立地していて、山が高い地域である。西側の沿岸部 は旧海士郡・名草郡(合併して 海 かいそう 草 郡)で、現在は和歌山市・海南市の市街地 が存在する。北側は旧那賀郡(紀の川市・岩出市)で、紀の川に沿って東西に 平野が広がっている。南側は 長 ながみね 峰 山脈が東西に連なっていて、その山脈の南に は有田川が流れている。この地域は旧 有 あ り だ 田 郡(有田市・有田川町)になる。紀 美野町は歴史的には紀の川流域と同じ那賀郡に属していたが、昭和二六年(一 九五一)に、沿岸部の海草郡に編入されている。和歌山県北部の文化圏として は、旧郡単位で伊都・那賀・海草・有田というまとまりが認められる。紀美野 町の町域は、これら四つの郡の中間に位置し、大きく見ると山間部と沿岸部の 中間でもある。 櫨栽培が広まった江戸時代、紀美野町の西部は紀伊藩領、中部・東部は高野 山領であった。明治二二年(一八八九)の町村制施行時には、 東 ひがしのかみ 野上 村(のち 東野上町) ・ 小 お が わ 川 村・ 下 し も こ う の 神野 村・ 上 か み こ う の 神野 村・ 猿 さる 川 かわ 村(のち 国 くによし 吉 村) ・ 志 し が 賀 野 の 村・ 真 ま 国 くに 村・ 細 ほ そ の 野 村( の ち に 旧 桃 山 町 と 分 村 )・ 長 は せ 谷 毛 け ば ら 原 村 が 成 立 し た。 昭 和 三 〇 年( 一 九 五 五 ) 四 月、 東 野 上 町・ 志 賀 野 村・ 小 川 村 が 合 併 し て 野 の か み ち ょ う 上 町 が 成 立 し、同年六月に下神野村・上神野村・国吉村・長谷毛原村が合併して 美 みさとちょう 里町 が 成立した。さらに昭和三二年(一九五七)八月には那賀郡細野村の一部(現在 の 円 えん 明 みょうじ 寺 ・ 四 よ ご う 郷 ・ 勝 か ち や 谷 )が編入した。平成一八年(二〇〇六)一月一日に、野 上町と美里町が合併して紀美野町が誕生した。 現在の紀美野町では、昭和初期まで存在していた行政村が地区の単位として 機能している。たとえば、旧志賀野村は志賀野地区、旧真国村は真国地区とい うまとまりがみられる。以下では、本稿において重要な志賀野地区・下神野地 区・上神野地区・真国地区のみ詳細を紹介しておく。 志賀野地区は真国川沿いを中心に、 松 ま つ せ 瀬 ・ 釜 かま 滝 たき ・ 西 に し の 野 ・ 東 ひがしの 野 ・ 国 くに 木 き は ら 原 という 五つの集落が点在する。近世には高野山領、近代には野上町であった。このう ち、東野・西野は真国川沿いの平地に人家が集中し、地区全体の神社や公民館 も こ れ ら の 集 落 に 立 地 し て い る。 東 野 の 北 東 部 に は 標 高 四 七 七 mの 雨 あ め や ま 山 が あ る。国木原は紀の川市貴志川町を見下ろす山の上に立地しており、貴志川町方 面とのつながりが深い。真国川と貴志川は、松瀬において合流する。 下神野地区は貴志川沿いに位置する。志賀野地区の南東に隣接した地区であ る。 福 田・ 神 こ う の 野 市 い ち ば 場 ・ 樋 ひ の し た 下 ・ 安 井・ 野 中・ 南 畑・ 箕 み ろ く 六 ・ 永 な が た に 谷 と い う 集 落 が あ る。このうち、神野市場は中世から山間部の物資が集まる拠点として栄えたと いい、現在まで人家が多く、旧美里町の役場があったところである。下神野地 区の福田・神野市場・安井・野中・樋下付近に平地が広がる。 上 神 野 地 区 は 下 神 野 の 上 流 に 位 置 す る。 大 お お す み 角 ・ 三 み 尾 お か わ 川 ・ 上 あ げ ヶ 井 い ・ 津 つ が わ 川 ・ 鎌 かまたき 滝 ・赤木・高畑・ 桂 かつらせ 瀬 という集落がある。下神野・上神野ともに近世には高 野山領、近代には美里町であった。下神野地区の箕六、上神野地区の上ヶ井は この上(家の上の方、真国川の南側)にも櫨ばっかりの山がある。南側の 櫨は一軒ぐらい。雨山には東野じゅうの人が櫨を持っていた。ほとんど持っ ていた。雨山櫨は有名だった。 志 賀 野 で は 櫨 を 作 る だ け( 製 品 に は し な い )。 終 戦 後 は、 ( こ の 辺 り に は ) みな櫨の木があった。今は櫨を採るのは自分一人になった。安くなってみな 採らんようになった。櫨が減ったのは、物価に比べて安くなったから。以前 は、 人 を 雇 っ て も、 ( 人 件 費 は ) 一 割 だ っ た。 昭 和 二 〇 年 か ら 一 〇 年 ぐ ら い はよかった。 全盛期には、櫨を搾って製品にする会社が、海南市内、有田に一〇軒ぐら いあった。有田にも櫨はあった。今は、海南の 且 あっ 来 そ に一軒だけある。吉田製 蝋 所。 自 分 は そ こ に 売 っ て い る。 今 は そ こ し か な い。 県 内 に 一 軒 し か な い。 かつては番頭役をする仲買人が土地土地にいた。仲買人が買いに来た。今は 直接、吉田から買いに来る。正月前と二月の末と、二回採りに来る。昔は人 を三・四人雇って櫨を搾っていた。櫨屋というと分かる。昔はろうそくにし て い た。 櫨 の ろ う は、 羊 羹 み た い な も ん。 自 分 は 櫨 を 作 っ て 売 る だ け な の で、あとのことは詳しくない。今は、石油の副産物でろうそくができてしま うので、櫨でろうそくを作ると勘定に合わない。今は、医薬品、化粧品、相 撲取りのびんつけ油などを作っている。 櫨の実生は実が小さい。収穫がない。半値でも買ってくれない。種を植え て、三年ぐらいたつと親指ぐらいになる。そこに接ぎ木をする。実生に接ぎ 木 を し て 葡 萄 櫨 を 作 る。 ブ ド ウ の よ う な の で 葡 萄 櫨 と い う。 も っ と 大 き く なっても、接ぎ木はできる。ハラツギという。春か秋に接ぎ木をする。 冬に収穫する。一一月から紅葉する。真っ赤になってきれい。モミジより も葉が大きいので目立つ。葉が一月に落ちる。実は一二月から採る。葉が落 長峰山脈の標高四〇〇 m付近まで家々が点在する。上神野地区の津川は、貴志 川と真国川の間に挟まれた東西に細長い谷あいの集落である。 真 国 地 区 は、 真 国 川 沿 い に 位 置 し、 志 賀 野 地 区 の 上 流 に 当 た る。 井 い せ き 堰 ・ 蓑 みの 垣 が い と 内 ・ 真 ま 国 く に み や 宮 ・ 蓑 み の つ 津 呂 ろ ・ 花 野 原・ 初 う い 生 谷 だに ・ 北 野 と い う 集 落 が あ る。 こ の う ち、 現在では、井堰・蓑垣内・真国宮・蓑津呂は下真国、花野原・初生谷・北野は 上 真 国 と 呼 ば れ て い る。 真 国 地 区 は、 近 世 に は 高 野 山 領、 近 代 に は 美 里 町 で あった。下真国には平地が広がっている。蓑津呂から花野原に入ると、平地が なくなり、山が深くなってくる。かつて細野村に属していた円明寺・四郷・勝 谷については、真国地区のさらに上流に当たる。これらの集落は、現在では真 国地区に含められており、奥真国などと呼ばれることもある。なお、真国宮に は真国丹生神社があり、りら創造芸術高等学校が存在する。   紀美野町における櫨に関する民俗事例   志賀野地区の事例 事例 1 何代も前から櫨を作っている。徳川時代から作っている。今は三〇〇本あ る。 お じ い さ ん の こ ろ は 一 〇 〇 〇 本 ぐ ら い あ っ た。 家 族 で よ う 採 ら ん の で、 人を雇って採っていた。終戦後は一番よかった。人件費も安かったので、人 を雇って採っていた。終戦直後は、兵隊に行っていた人が戻ってきて仕事が なかった。そのときは、工場も焼かれてやっていない。一日日稼ぎの労働は 安 く て も 人 が 集 ま っ た。 人 を 雇 っ て も 人 件 費 が 安 か っ た の で、 櫨 の 収 入 は、 普通の労働者の一日の賃金の三倍も五倍ももうかった。櫨は九州に多い。福 岡・ 大 分 な ど。 四 国 に も 多 い。 値 段 が 安 く な っ て、 柿・ み か ん に 切 り 替 え た。

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この上(家の上の方、真国川の南側)にも櫨ばっかりの山がある。南側の 櫨は一軒ぐらい。雨山には東野じゅうの人が櫨を持っていた。ほとんど持っ ていた。雨山櫨は有名だった。 志 賀 野 で は 櫨 を 作 る だ け( 製 品 に は し な い )。 終 戦 後 は、 ( こ の 辺 り に は ) みな櫨の木があった。今は櫨を採るのは自分一人になった。安くなってみな 採らんようになった。櫨が減ったのは、物価に比べて安くなったから。以前 は、 人 を 雇 っ て も、 ( 人 件 費 は ) 一 割 だ っ た。 昭 和 二 〇 年 か ら 一 〇 年 ぐ ら い はよかった。 全盛期には、櫨を搾って製品にする会社が、海南市内、有田に一〇軒ぐら いあった。有田にも櫨はあった。今は、海南の 且 あっ 来 そ に一軒だけある。吉田製 蝋 所。 自 分 は そ こ に 売 っ て い る。 今 は そ こ し か な い。 県 内 に 一 軒 し か な い。 かつては番頭役をする仲買人が土地土地にいた。仲買人が買いに来た。今は 直接、吉田から買いに来る。正月前と二月の末と、二回採りに来る。昔は人 を三・四人雇って櫨を搾っていた。櫨屋というと分かる。昔はろうそくにし て い た。 櫨 の ろ う は、 羊 羹 み た い な も ん。 自 分 は 櫨 を 作 っ て 売 る だ け な の で、あとのことは詳しくない。今は、石油の副産物でろうそくができてしま うので、櫨でろうそくを作ると勘定に合わない。今は、医薬品、化粧品、相 撲取りのびんつけ油などを作っている。 櫨の実生は実が小さい。収穫がない。半値でも買ってくれない。種を植え て、三年ぐらいたつと親指ぐらいになる。そこに接ぎ木をする。実生に接ぎ 木 を し て 葡 萄 櫨 を 作 る。 ブ ド ウ の よ う な の で 葡 萄 櫨 と い う。 も っ と 大 き く なっても、接ぎ木はできる。ハラツギという。春か秋に接ぎ木をする。 冬に収穫する。一一月から紅葉する。真っ赤になってきれい。モミジより も葉が大きいので目立つ。葉が一月に落ちる。実は一二月から採る。葉が落 長峰山脈の標高四〇〇 m付近まで家々が点在する。上神野地区の津川は、貴志 川と真国川の間に挟まれた東西に細長い谷あいの集落である。 真 国 地 区 は、 真 国 川 沿 い に 位 置 し、 志 賀 野 地 区 の 上 流 に 当 た る。 井 い せ き 堰 ・ 蓑 みの 垣 が い と 内 ・ 真 ま 国 く に み や 宮 ・ 蓑 み の つ 津 呂 ろ ・ 花 野 原・ 初 う い 生 谷 だに ・ 北 野 と い う 集 落 が あ る。 こ の う ち、 現在では、井堰・蓑垣内・真国宮・蓑津呂は下真国、花野原・初生谷・北野は 上 真 国 と 呼 ば れ て い る。 真 国 地 区 は、 近 世 に は 高 野 山 領、 近 代 に は 美 里 町 で あった。下真国には平地が広がっている。蓑津呂から花野原に入ると、平地が なくなり、山が深くなってくる。かつて細野村に属していた円明寺・四郷・勝 谷については、真国地区のさらに上流に当たる。これらの集落は、現在では真 国地区に含められており、奥真国などと呼ばれることもある。なお、真国宮に は真国丹生神社があり、りら創造芸術高等学校が存在する。   紀美野町における櫨に関する民俗事例   志賀野地区の事例 事例 1 何代も前から櫨を作っている。徳川時代から作っている。今は三〇〇本あ る。 お じ い さ ん の こ ろ は 一 〇 〇 〇 本 ぐ ら い あ っ た。 家 族 で よ う 採 ら ん の で、 人を雇って採っていた。終戦後は一番よかった。人件費も安かったので、人 を雇って採っていた。終戦直後は、兵隊に行っていた人が戻ってきて仕事が なかった。そのときは、工場も焼かれてやっていない。一日日稼ぎの労働は 安 く て も 人 が 集 ま っ た。 人 を 雇 っ て も 人 件 費 が 安 か っ た の で、 櫨 の 収 入 は、 普通の労働者の一日の賃金の三倍も五倍ももうかった。櫨は九州に多い。福 岡・ 大 分 な ど。 四 国 に も 多 い。 値 段 が 安 く な っ て、 柿・ み か ん に 切 り 替 え た。

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れるとき、手袋をしていると実を落とす。 櫨を入れる籠は櫨採り籠という。竹で作っていた。二貫目入る。籠に鉤を つけて、枝へ掛けている。いっぱいになると、ロープで下へ下ろす。竹籠は だいたい自分とこ(自分の家)で作った。竹が自分とこにあるので。手先の 器用な人でないとええものはよう作らん。器用な人は野上のほうの店へ卸し ていた。東野にも一軒ぐらいいた。 籠からドンゴロスへ入れる。ドンゴロスは麻の袋。一〇貫目入る。籠に五 杯分入る。吉田から秋に袋を持ってくる。 以 前 は 雨 山 ま で 弁 当 を 持 っ て 採 り に 行 っ た。 オ ウ コ( 天 秤 棒 ) で い の て ( 担 い で ) 持 っ て き た。 前、 後 ろ へ ぶ ら 下 げ て 運 ん だ。 前 と 後 ろ と 同 じ ぐ ら い( の 量 ) に し な い と い け な い。 し ん ど く な る と、 肩 を 替 え た。 右 に し て、 左にして、一服して歩いた。歩いて一時間かかる。午前中に一袋、午後に一 袋採った。前、後ろに袋をぶら下げた。 櫨は今でも貫目で売る。去年は三〇〇貫ほど採った。一トンあった。生は 重いけど、乾燥して売った。水分を取るために倉庫に置いておく。何年も前 のもののほうがいい。雨に濡れたら広げて乾かす。お日さんに当てる。そう でなければ、ドンゴロスで倉庫に置いている。 櫨は四月の末ごろに花が咲く。白いというか黄色の花。蜜が多いので、蜂 が 飛 ん で き て 蜜 を 吸 う。 こ の へ ん も、 戦 後 は 養 蜂 の 人 が 蜜 箱 を 置 き に 来 た。 櫨の蜜もええという。自分の家でも蜂を飼っていた。一箱とか二箱。商売で は な い。 ニ ホ ン バ チ。 五 月 に ワ カ レ を し て、 櫨 な ど に た か る。 今 は 洋 蜂。 (櫨の花は農耕の目印にならないか、という問いに) 「八十八夜やから、籾蒔 か ん な ん ぞ 」、 と い う。 春 に な る と み な 花 が 咲 く の で 櫨 は そ う い う 言 い 方 は ない。梅はちょっと早いけど。 ちて実だけになったときに採る。もいで採る。冬なので日は短い。採る時間 が短い。朝は霜が降りている。日が出るのも遅いので寒い。八時回らんとお 日さん(太陽)は出ない。遠いところに行っていると、四時過ぎに木から降 りないと帰れない。今は車なので暗くなっても大丈夫。 採るのは二か月ぐらいかかる。一月中ごろから、ヒヨ・ツグミなどの小鳥 が食べにくる。真ん中に種がある。種の中の実を食べている。小鳥も食べる もんがない時期。柿・みかんなど秋の果物をつつきに来る。一月になると食 べるものがないので、櫨の実を食べにくる。それまでに採らんと、高い木に 登っても、実がないようになる。以前は一月に一〇日ほど雪が降った。最近 は 降 れ へ ん( 降 ら な い )。 雪 が 降 っ た ら 採 れ な い。 風 が 吹 く 日 も あ か ん。 振 り落とされる。 木 へ 登 っ て 採 る。 高 い 木 は 一 〇 メ ー ト ル も あ る。 て っ ぺ ん ま で 登 っ て 採 る。サーカス師みたいなことせんなん(サーカス師のようなことをしないと いけない) 。ロープを持って行って引っ掛けて採る。 櫨 の 枝 を 引 き 寄 せ る 棒 は 鉤 と い う。 と く に 何 の 木 と い う こ と は な い。 雑 木。二股になっているものはあんまりない。股のところが弱いので針金を入 れている。裂けたら仕事にならない。何本か持っている。太い木はロープで 引 っ 張 る。 木 は 折 れ や ん( ロ ー プ で 引 っ 張 っ て も 枝 は 折 れ な い )。 真 ん 中 へ 寄せる。 前は人も雇って採ったが、今では自分一人で採っている。自分は学校上が りから六〇何年採っている。長年のかん、こつで採る。一日中、木に登って 櫨を採っているので、胸のポケットに小さなラジオを入れて聞いている。採 りながら歌も歌う。 櫨 は か ぶ れ る。 手 袋 を す る と、 ど ん く さ い( 採 り に く い )。 採 っ て 籠 に 入 自分は櫨は採っていない。 この上(家の上の方)の伊南さんはうまかった。ロープを掛けるのがうま い。伊南さんは自分よりも四つほど上だった。もう亡くなっている。普通は 一日に一〇貫採るところ、伊南さんは二〇貫も四〇貫も採った。人の三倍も 四倍も採った。いのてくんの(担いで帰るのが)難儀するほどだった。伊南 さんは大きな手をしていた。きれいに採った。七良浴さんもうまい。ロープ をうまく張る。 櫨は継いだら強い。実生だと成長が遅い。上に伸びる。枝を張らない。七 良浴さんの家の裏の櫨は継いでいるので枝が張っている。 こ の あ た り は も と も と 細 か い 櫨 だ っ た。 松 瀬 に あ る 葡 萄 櫨 を 継 い だ。 ( い つごろ継ぎましたか、という問いに)昭和一六・七年ぐらいに継いだ。自分 は一年生だった。葡萄櫨は松瀬の吉瀬という家にあった。みんな、枝を折っ てきて、櫨を継いだ。幹を二つに割って、間へ葡萄櫨の枝を差し込んで、赤 土 を 練 っ た や つ で 回 し た。 ( 赤 阪 さ ん も 行 っ た こ と が あ る ん で す か、 と い う 問いに)子どものころ、吉瀬の家では、蚕を飼っていた。授業せんと、学校 から桑の木をむきに行かされた。繊維を取って、軍服にした。生の桑だとい いが、蚕にやって枯れた木をむいたので、むきにくかった。吉瀬には大きな 櫨があった。元じょ(あの木は、このあたりの櫨の元だ) 。 葡萄櫨は普通の櫨と違う。葡萄櫨は赤い。自然と生える櫨に継ぐと成長が 早い。櫨採りはロープに鉤をつけて、ぎゅーっと寄せてきて採る。自分が採 りやすいように櫨の木の形を作る。 櫨 は 今 ご ろ の 時 期( 冬 ) に 触 っ て も か ぶ れ へ ん( か ぶ れ な い )。 四 月 ご ろ は一番危ない。はた(近く)を通っただけでもかぶれる人がいる。芽が出る 時期はかぶれる。 櫨はカズラに巻かれて枯れてしまう。一年に二回ぐらい下草を刈る。日が 当 た ら ん し、 窒 息 死 す る。 柿・ み か ん は 消 毒 す る が、 櫨 は 消 毒 は い ら な い。 肥料としては、昔は人糞をやった。畑の防風林をかねて櫨を植えていた。野 菜、果物に肥料をやるので、櫨もよくできた。葉が落ちて肥料になる。それ が 自 然。 自 然 の も の は、 一 年 実 を つ け る と、 あ く る 年 は 休 む。 オ モ テ バ ン ( 表 番 )、 ウ ラ バ ン( 裏 番 ) と い う。 「 今 年 は ウ ラ バ ン で あ ん ま り な っ て な い ぞ 」、 と い う 言 い 方 を す る。 ウ ス ナ リ や っ た ら 半 分 も 採 れ な い。 六 〇 歳 ご ろ のころ、櫨を採っているところを取材されて、新聞に載った。 野 上 谷 は シ ュ ウ ロ( 棕 櫚 ) で 生 計 を 立 て て い た。 シ ュ ウ ロ の あ る 家 は 多 い。自分の家もシュウロはあった。櫨もシュウロもよかった。シュウロは年 中収穫できる。タワシ、蓑にした。このへんで原料を作って、野上(紀美野 町 西 部・ 海 南 市 東 部 )、 阪 井( 海 南 市 ) で 加 工 し て、 全 国 に 売 っ た。 一 日 シュウロを採ると、サラリーマンの一月の賃金と同じになった。シンバ(新 葉)ができたときにも刈り取った。草履にした。ビニール、ナイロンがでて きて売れなくなった。自然のものは科学が発達すると負けてしまう。 田んぼは五反あった。櫨とシュウロが収入源だった。 紀美野町東野、 七 しちりょうざこ 良 浴 正(昭和五年生まれ、この年は八四歳) 、二〇一四 年九月一一日聞き取り(鞍雄介氏、竹村悠氏も同行) 事例 2 七 良 浴 さ ん( 事 例 1 ) の よ う に 大 き な 家 の 人 は 勤 め ず に、 米・ み か ん・ 柿・野菜・櫨などを作って暮らしていた。七良浴さんの櫨の畑は家の南側の 山のてっぺんにある。南側。今年もぬくい(暖かい)日には木に登って櫨を 採っている。この前も、家の裏の櫨を採っていたので見ていた。

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自分は櫨は採っていない。 この上(家の上の方)の伊南さんはうまかった。ロープを掛けるのがうま い。伊南さんは自分よりも四つほど上だった。もう亡くなっている。普通は 一日に一〇貫採るところ、伊南さんは二〇貫も四〇貫も採った。人の三倍も 四倍も採った。いのてくんの(担いで帰るのが)難儀するほどだった。伊南 さんは大きな手をしていた。きれいに採った。七良浴さんもうまい。ロープ をうまく張る。 櫨は継いだら強い。実生だと成長が遅い。上に伸びる。枝を張らない。七 良浴さんの家の裏の櫨は継いでいるので枝が張っている。 こ の あ た り は も と も と 細 か い 櫨 だ っ た。 松 瀬 に あ る 葡 萄 櫨 を 継 い だ。 ( い つごろ継ぎましたか、という問いに)昭和一六・七年ぐらいに継いだ。自分 は一年生だった。葡萄櫨は松瀬の吉瀬という家にあった。みんな、枝を折っ てきて、櫨を継いだ。幹を二つに割って、間へ葡萄櫨の枝を差し込んで、赤 土 を 練 っ た や つ で 回 し た。 ( 赤 阪 さ ん も 行 っ た こ と が あ る ん で す か、 と い う 問いに)子どものころ、吉瀬の家では、蚕を飼っていた。授業せんと、学校 から桑の木をむきに行かされた。繊維を取って、軍服にした。生の桑だとい いが、蚕にやって枯れた木をむいたので、むきにくかった。吉瀬には大きな 櫨があった。元じょ(あの木は、このあたりの櫨の元だ) 。 葡萄櫨は普通の櫨と違う。葡萄櫨は赤い。自然と生える櫨に継ぐと成長が 早い。櫨採りはロープに鉤をつけて、ぎゅーっと寄せてきて採る。自分が採 りやすいように櫨の木の形を作る。 櫨 は 今 ご ろ の 時 期( 冬 ) に 触 っ て も か ぶ れ へ ん( か ぶ れ な い )。 四 月 ご ろ は一番危ない。はた(近く)を通っただけでもかぶれる人がいる。芽が出る 時期はかぶれる。 櫨はカズラに巻かれて枯れてしまう。一年に二回ぐらい下草を刈る。日が 当 た ら ん し、 窒 息 死 す る。 柿・ み か ん は 消 毒 す る が、 櫨 は 消 毒 は い ら な い。 肥料としては、昔は人糞をやった。畑の防風林をかねて櫨を植えていた。野 菜、果物に肥料をやるので、櫨もよくできた。葉が落ちて肥料になる。それ が 自 然。 自 然 の も の は、 一 年 実 を つ け る と、 あ く る 年 は 休 む。 オ モ テ バ ン ( 表 番 )、 ウ ラ バ ン( 裏 番 ) と い う。 「 今 年 は ウ ラ バ ン で あ ん ま り な っ て な い ぞ 」、 と い う 言 い 方 を す る。 ウ ス ナ リ や っ た ら 半 分 も 採 れ な い。 六 〇 歳 ご ろ のころ、櫨を採っているところを取材されて、新聞に載った。 野 上 谷 は シ ュ ウ ロ( 棕 櫚 ) で 生 計 を 立 て て い た。 シ ュ ウ ロ の あ る 家 は 多 い。自分の家もシュウロはあった。櫨もシュウロもよかった。シュウロは年 中収穫できる。タワシ、蓑にした。このへんで原料を作って、野上(紀美野 町 西 部・ 海 南 市 東 部 )、 阪 井( 海 南 市 ) で 加 工 し て、 全 国 に 売 っ た。 一 日 シュウロを採ると、サラリーマンの一月の賃金と同じになった。シンバ(新 葉)ができたときにも刈り取った。草履にした。ビニール、ナイロンがでて きて売れなくなった。自然のものは科学が発達すると負けてしまう。 田んぼは五反あった。櫨とシュウロが収入源だった。 紀美野町東野、 七 しちりょうざこ 良 浴 正(昭和五年生まれ、この年は八四歳) 、二〇一四 年九月一一日聞き取り(鞍雄介氏、竹村悠氏も同行) 事例 2 七 良 浴 さ ん( 事 例 1 ) の よ う に 大 き な 家 の 人 は 勤 め ず に、 米・ み か ん・ 柿・野菜・櫨などを作って暮らしていた。七良浴さんの櫨の畑は家の南側の 山のてっぺんにある。南側。今年もぬくい(暖かい)日には木に登って櫨を 採っている。この前も、家の裏の櫨を採っていたので見ていた。

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でようできる。大事においていた(井本) 。 実から生えたのはあかん。実生の山櫨はあかん。継がなあかん(下野尻・ 井本) 。 西山さんは櫨採りをした。 雨山の山は櫨ばっかりだった。海南の且来に蝋屋がある。今でも買いに来 る。今は化粧品にする(井本) 。 ダムの奥に櫨ばっかりのところがある。その間にシュウロを植えていた。 専門に採ってくれる人がいた。身の軽い人が採った。だいぶ枝の先まで行 かないと実が採れない。ロープをかけて採った。櫨はかぶれる。 晩方、いのて(担いで)持ってくる。下野尻さんは一五貫ぐらいドンゴロ スへ入れて持ってきた。前後で一五貫。大きな家は人を雇った。井本さんは 四〇キロはいのた(担いだ) 。西山さんもいのた。 漆は櫨ほどなかった。海南から買いに来た。 井 本 さ ん は 鉄 砲 で ヒ ヨ を 撃 っ た。 村 田 銃 で 撃 っ た。 雨 降 り に 玉 を つ め た。 櫨の木にヒヨはよう来る。ピーと笛を吹いたら寄ってくる。子どものじゅう は、オシをかけて捕った。木を曲げて捕った。 紀 美 野 町 志 賀 野 地 区、 西 山 一 太( 昭 和 九 年 生 ま れ、 西 野 )・ 下 野 尻 貫 一 ( 昭 和 三 年 生 ま れ、 西 野 )・ 赤 阪 恵 子( 西 野 )・ 井 本 兆 員( 昭 和 一 二 年 生 ま れ、松瀬) ・井本晴子(昭和一五年生まれ、松瀬、西野出身) 、二〇一四年 一月四日聞き取 り )4 ( 事例 5   櫨 は あ っ た。 戦 後、 採 っ た。 え え 日 当 に な っ た( い い 収 入 に な っ た )。 木 さ く い( 裂 け や す い ) の で 木 か ら ま く れ 落 ち る( 転 が り 落 ち る )。 重 根( 海 紀美野町東野(西野出身) 、赤阪智勇(昭和九年生まれ) 、二〇一七年一二 月二七日聞き取り 事例 3 櫨 は 秋 に き れ い に 紅 葉 す る。 小 さ い 実 が な る。 ( 櫨 の ) 下 へ 行 く と か ぶ れ る。 実 を つ ぶ し て ろ う そ く に し た。 高 野 山 で は 今 も 櫨 で 作 っ た ろ う そ く を 使 っ て い る。 櫨 の ろ う そ く は、 風 が 吹 い て 消 え へ ん( 消 え な い )。 こ の へ ん に は ろ う そ く を 作 る 人 は い な か っ た。 実 を 売 る だ け だ っ た。 田 の 畔、 畑 の 畔、 ど こ に で も 植 え ら れ た。 櫨 山( 櫨 を 集 中 的 に 植 え た 山 ) は 作 っ て い な かった。亀川小学校(海南市)のはたにろうそくを作っている人がいた。戦 時 中 に み か ん は 切 ら れ て、 戦 後 に ま た 植 え た。 父 は 食 糧 事 務 所 に 勤 め て い た。櫨・シュウロ・みかんを植えて、金を取ったほうがいいといっていた。 紀 美 野 町 西 野、 赤 阪 恵 子( 昭 和 一 八 年 生 ま れ )、 二 〇 一 三 年 八 月 一 日・ 二 〇一七年一月六日聞き取り 事例 4    旧暦の正月は昭和二八年の水害の二・三年後までしてた。新正月は暖かい し、みかん採り、櫨採りが終わっていないので嫌った。しばらくは新と旧と 二回正月をやっていた(井本) 。 山にはシュウロと櫨を植えていた。ワルキ、炭もした。西山さんは四〇町 の山があった(西山) 。 志賀野は櫨が多かった。志賀野小学校の校歌にも櫨とシュウロがある(赤 阪恵子) 。 畑のはた(近く)に櫨があった。畔などにあった。畑のはたは肥えてるの モーチを木にまきつけてメジロを捕った。オシは櫨やナルテン(南天)を 餌において鳥を捕った。柿の採り残しにヒヨなどが来る。 紀 美 野 町 松 瀬、 前 村 勲( 昭 和 二 一 年 生 ま れ )、 二 〇 一 七 年 一 月 六 日 聞 き 取 り )5 ( 事例 8 櫨は自分の山やみかん畑の傍に植えていて、おじいさんとお父さんが冬に みかん取りをした後に、実をとっていた。和歌山からろう屋さんが来て買っ て い っ た。 今 は 畑 の 櫨 は も う 切 っ て し ま っ た。 山 の 櫨 は そ の ま ま に し て い る。 紀美野町西野、薮本やす子(昭和一一年生まれ) 、竹村悠氏聞き取り   下神野地区の事例 事例 9   シュウロ山に櫨の木がある。実を採って売った。山や田んぼのふちに櫨を 植えた人はいる。櫨の実は自分で採る。細い端に実がなっている。上の方か らロープで吊り上げて、鉤で引っ掛けて採る。山の端に生えているから採る のは怖い。 父は櫨がいらんようになってから、櫨を炭にしたことがあった。ハゼるの で(櫨は火に入れるとはじける) 、ズボンに穴が開いた。 紀 美 野 町 福 田、 谷 垣 内 和 夫( 大 正 一 四 年 生 ま れ )、 二 〇 一 三 年 一 一 月 一 四 日聞き取り 南 市 ) に ろ う そ く に す る と こ ろ が あ っ た。 そ こ で ろ う に し た。 父 は 持 っ て 行った。商売した。自分の家には今でも大きな櫨の木がある。ブドウとナミ がある。ナミは細こい。安かった。海南からも 山 さんどう 東 (和歌山市)からもよう 買いに来た。 ( 家 の 前 の ) 櫨 は 何 百 年 も た っ て い る。 伸 び て い た。 枯 れ こ ん で 枝 を 切 っ た。今は小鳥の餌。紅葉するときれい。この木がなかったら暑いので切れな い(木で覆われなくなって、家の中が暑くなるので切れない) 。 紀 美 野 町 国 木 原、 大 浦 龍 三( 昭 和 五 年 生 ま れ )、 二 〇 一 三 年 八 月 八 日・ 一 四日聞き取り 事例 6    櫨は若干あった。櫨採り専門の人がいた。採りにきてもらった。櫨はもの すごく大きくなるので、採ってもらった。小さいころは採っていた。 紀 美 野 町 松 瀬、 結 城 嗣 郎( 昭 和 一 七 年 生 ま れ )、 二 〇 一 三 年 八 月 一 日 聞 き 取り 事例 7   柳 沢 さ ん の 家 の 櫨 は、 静 代 さ ん が こ の 家 に 嫁 に 来 て か ら は 収 穫 し て い な い。鳥はみかんが好き。みかんがないようになると櫨を食べにくる。 紀美野町松瀬、柳沢静代、二〇一七年一月六日聞き取り 柳沢さんの家の櫨は、子どものころからあまり変わっていない。六〇年前 でも同じような感じだった。原木に近いと思う。櫨の最盛期は秋ごろ。正月 まで。春は白い花が咲く。秋には真っ赤に紅葉する。 櫨山はない。櫨はシュウロ山にぽつんぽつんとあった。

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モーチを木にまきつけてメジロを捕った。オシは櫨やナルテン(南天)を 餌において鳥を捕った。柿の採り残しにヒヨなどが来る。 紀 美 野 町 松 瀬、 前 村 勲( 昭 和 二 一 年 生 ま れ )、 二 〇 一 七 年 一 月 六 日 聞 き 取 り )5 ( 事例 8 櫨は自分の山やみかん畑の傍に植えていて、おじいさんとお父さんが冬に みかん取りをした後に、実をとっていた。和歌山からろう屋さんが来て買っ て い っ た。 今 は 畑 の 櫨 は も う 切 っ て し ま っ た。 山 の 櫨 は そ の ま ま に し て い る。 紀美野町西野、薮本やす子(昭和一一年生まれ) 、竹村悠氏聞き取り   下神野地区の事例 事例 9   シュウロ山に櫨の木がある。実を採って売った。山や田んぼのふちに櫨を 植えた人はいる。櫨の実は自分で採る。細い端に実がなっている。上の方か らロープで吊り上げて、鉤で引っ掛けて採る。山の端に生えているから採る のは怖い。 父は櫨がいらんようになってから、櫨を炭にしたことがあった。ハゼるの で(櫨は火に入れるとはじける) 、ズボンに穴が開いた。 紀 美 野 町 福 田、 谷 垣 内 和 夫( 大 正 一 四 年 生 ま れ )、 二 〇 一 三 年 一 一 月 一 四 日聞き取り 南 市 ) に ろ う そ く に す る と こ ろ が あ っ た。 そ こ で ろ う に し た。 父 は 持 っ て 行った。商売した。自分の家には今でも大きな櫨の木がある。ブドウとナミ がある。ナミは細こい。安かった。海南からも 山 さんどう 東 (和歌山市)からもよう 買いに来た。 ( 家 の 前 の ) 櫨 は 何 百 年 も た っ て い る。 伸 び て い た。 枯 れ こ ん で 枝 を 切 っ た。今は小鳥の餌。紅葉するときれい。この木がなかったら暑いので切れな い(木で覆われなくなって、家の中が暑くなるので切れない) 。 紀 美 野 町 国 木 原、 大 浦 龍 三( 昭 和 五 年 生 ま れ )、 二 〇 一 三 年 八 月 八 日・ 一 四日聞き取り 事例 6    櫨は若干あった。櫨採り専門の人がいた。採りにきてもらった。櫨はもの すごく大きくなるので、採ってもらった。小さいころは採っていた。 紀 美 野 町 松 瀬、 結 城 嗣 郎( 昭 和 一 七 年 生 ま れ )、 二 〇 一 三 年 八 月 一 日 聞 き 取り 事例 7   柳 沢 さ ん の 家 の 櫨 は、 静 代 さ ん が こ の 家 に 嫁 に 来 て か ら は 収 穫 し て い な い。鳥はみかんが好き。みかんがないようになると櫨を食べにくる。 紀美野町松瀬、柳沢静代、二〇一七年一月六日聞き取り 柳沢さんの家の櫨は、子どものころからあまり変わっていない。六〇年前 でも同じような感じだった。原木に近いと思う。櫨の最盛期は秋ごろ。正月 まで。春は白い花が咲く。秋には真っ赤に紅葉する。 櫨山はない。櫨はシュウロ山にぽつんぽつんとあった。

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紀 美 野 町 大 角、 窪 田 旭( 昭 和 一 六 年 生 ま れ )、 二 〇 一 三 年 九 月 二 日 聞 き 取 り 事例 13  隣 の 家 は シ ュ ウ ロ と 櫨 で 金 を 取 っ た。 櫨 と シ ュ ウ ロ を 同 じ 山 に 植 え て い た。櫨は大きくなる。シュウロは日陰になるが、両方で金が取れる。隣の人 は医学博士になった。シュウロのおかげやといった。その家の仕事を父親は させてもらった。櫨採りをした。シュウロの皮剥きもした。自分の家は、畑 の周りにちっと(少し)あった。日が当たるので品質はよかった。 紀 美 野 町 三 尾 川、 梶 谷 弘( 大 正 一 四 年 生 ま れ )、 二 〇 一 三 年 八 月 七 日 聞 き 取り 事例 14  櫨はだいぶ採っていた。大きな木があった。買いに来た。上ヶ井でも採っ た。夫も採った。山道は砂が流れるので、砂を止めるところがある。砂止め に 櫨 を 植 え て い た。 道 の 岸 が 高 か っ た。 岸 の 横 に 砂 を た め る と こ ろ が あ っ た。 紀 美 野 町 上 ヶ 井、 横 山 美 枝( 大 正 一 三 年 生 ま れ )、 二 〇 一 三 年 一 一 月 五 日 聞き取り 事例 15  櫨もあった。今でも大きな木がある。実を採った。よう売れた。よその人 に採ってもらった。買いに来た。子どものじゅう。嫁いでからはあんまりな かった。 事例 10  二月一一日ごろ。ヤマハゼの皮を剥いて、一週間ほど乾かして、野中のお 寺に供えた。その棒で「ナレナレ柿の木ならな正月の・・・」などと言いな がら柿の木を叩いた。 この辺りは棕櫚、櫨の実の売買がすごかった。ドンゴロスへ金を入れたと いう。 紀 美 野 町 神 野 市 場、 伊 南 陽 弘( 満 福 寺 住 職 )、 二 〇 一 二 年 五 月 一 七 日 聞 き 取り 事例 11  ( 下 神 野 か ら ) 上 神 野 へ か け て 櫨 が 多 か っ た。 大 き な 木 が あ っ た。 櫨 は 自 然に山に生えている。鳥が糞をして生えてくる。実生ばっかり。ええ実がな らん。自然に生えたのを継いで作った。継いで作った櫨をブドウという。粒 が大きい。実生より油が取れる。実生でも油は取れる。一一月に葉が落ちて から実を採った。実を採ると四・五日かい(かゆい) 。かぶれた感じがする。 一 週 間 も し た ら 慣 れ て し ま う。 ろ う そ く を 作 る。 搾 る 設 備 の あ る と こ ろ へ 持 っ て 行 く。 四 国 あ た り で 作 っ た。 仲 買 の 人 が、 四 国 へ 出 す と 言 っ て い た。 仲買は市場(神野市場) 、福田あたりの人だった。 紀 美 野 町 樋 下、 紺 谷 忠 雄( 昭 和 三 年 生 ま れ )、 二 〇 一 三 年 一 一 月 一 四 日 聞 き取り   上神野地区の事例 事例 12  櫨は採りにきた。かぶれる。 取り 事例 19 櫨はようけあった。実はろうそくの原料になった。自分の家では売ったこ と は な い。 櫨 は か ぶ れ る。 漆・ 山 椒・ 櫨 な ど は あ っ た け ど、 売 る ほ ど は な かった。桂瀬でも櫨を売る家もあった。 紀美野町桂瀬(出身) 、山路武治(昭和三年生まれ) 、二〇一九年八月一六 日聞き取り   真国地区の事例 事例 20  櫨は採った。自分で縄をかけて登った。親は身が軽くて、縄を簡単にかけ て登った。自分は身が重かったけど、登って採った。かぶれなかった。山東 (和歌山市)よりも向こうの人、 吉 き 礼 れ (和歌山市)あたりの人が買いに来た。 おもに、ろうそくやろうけど。接ぎ木するのに、パラピン蝋を使う。自然に 採らんようになった。木はある。ミシロ(筵)に詰めて、踏みつけて、一袋 二五貫にした。袋は蓋が両方についていた。買う人が持ってきた。 紀 美 野 町 井 堰、 中 家 喜 久 司( 昭 和 四 年 生 ま れ )、 二 〇 一 三 年 九 月 二 日 聞 き 取り 事例 21  おもに生活の基盤はシュウロと櫨だった。だいたいの家にシュウロと櫨が あった。 志 賀 野 は 真 国 よ り も 櫨 が 多 い。 シ ュ ウ ロ は 志 賀 野 よ り も 真 国 の ほ う が 多 紀 美 野 町 上 ヶ 井、 中 尾 ス ミ 子( 大 正 一 二 年 生 ま れ )、 二 〇 一 三 年 一 二 月 二 六日聞き取り 事例 16  櫨はシュウロ山にあった。植えたのか。櫨は折ったらあかん。なった実を 採らんとあかん。木へ上って、ロープを渡して枝を寄せてきて実を採った。 紀 美 野 町 津 川、 岡 大 和( 大 正 一 三 年 生 ま れ )、 二 〇 一 三 年 一 一 月 五 日 聞 き 取り 事例 17  櫨は自分で採る人もある。一軒の家にちょこっとずつあった。ようけ(た くさん)ある家はない。植えたんやろう。畑の端に大きな木があった。うち も 五・ 六 本 あ っ た。 そ こ に は 何 十 年 も 行 け へ ん。 木 に 上 が っ て よ う 採 ら ん か っ た( 採 る こ と が で き な か っ た )。 商 売 で 採 る 人 が い た。 買 う て も う た (買ってもらった)と思う。 紀 美 野 町 鎌 滝、 上 岡 旭( 大 正 一 五 年 生 ま れ )、 二 〇 一 三 年 一 一 月 二 九 日 聞 き取り 事例 18  櫨は大きな木はあったけど商売にしている人はなかった。漆は自然に生え ていた。 採る人がいた。下神野の人だった。櫨を採るのと同じような人だった。高 い木へ上がって採った。溝をつけて採った。技術がいる。 紀 美 野 町 桂 瀬、 東 克 彦( 昭 和 七 年 生 ま れ )、 二 〇 一 三 年 一 一 月 二 九 日 聞 き

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取り 事例 19 櫨はようけあった。実はろうそくの原料になった。自分の家では売ったこ と は な い。 櫨 は か ぶ れ る。 漆・ 山 椒・ 櫨 な ど は あ っ た け ど、 売 る ほ ど は な かった。桂瀬でも櫨を売る家もあった。 紀美野町桂瀬(出身) 、山路武治(昭和三年生まれ) 、二〇一九年八月一六 日聞き取り   真国地区の事例 事例 20  櫨は採った。自分で縄をかけて登った。親は身が軽くて、縄を簡単にかけ て登った。自分は身が重かったけど、登って採った。かぶれなかった。山東 (和歌山市)よりも向こうの人、 吉 き 礼 れ (和歌山市)あたりの人が買いに来た。 おもに、ろうそくやろうけど。接ぎ木するのに、パラピン蝋を使う。自然に 採らんようになった。木はある。ミシロ(筵)に詰めて、踏みつけて、一袋 二五貫にした。袋は蓋が両方についていた。買う人が持ってきた。 紀 美 野 町 井 堰、 中 家 喜 久 司( 昭 和 四 年 生 ま れ )、 二 〇 一 三 年 九 月 二 日 聞 き 取り 事例 21  おもに生活の基盤はシュウロと櫨だった。だいたいの家にシュウロと櫨が あった。 志 賀 野 は 真 国 よ り も 櫨 が 多 い。 シ ュ ウ ロ は 志 賀 野 よ り も 真 国 の ほ う が 多 紀 美 野 町 上 ヶ 井、 中 尾 ス ミ 子( 大 正 一 二 年 生 ま れ )、 二 〇 一 三 年 一 二 月 二 六日聞き取り 事例 16  櫨はシュウロ山にあった。植えたのか。櫨は折ったらあかん。なった実を 採らんとあかん。木へ上って、ロープを渡して枝を寄せてきて実を採った。 紀 美 野 町 津 川、 岡 大 和( 大 正 一 三 年 生 ま れ )、 二 〇 一 三 年 一 一 月 五 日 聞 き 取り 事例 17  櫨は自分で採る人もある。一軒の家にちょこっとずつあった。ようけ(た くさん)ある家はない。植えたんやろう。畑の端に大きな木があった。うち も 五・ 六 本 あ っ た。 そ こ に は 何 十 年 も 行 け へ ん。 木 に 上 が っ て よ う 採 ら ん か っ た( 採 る こ と が で き な か っ た )。 商 売 で 採 る 人 が い た。 買 う て も う た (買ってもらった)と思う。 紀 美 野 町 鎌 滝、 上 岡 旭( 大 正 一 五 年 生 ま れ )、 二 〇 一 三 年 一 一 月 二 九 日 聞 き取り 事例 18  櫨は大きな木はあったけど商売にしている人はなかった。漆は自然に生え ていた。 採る人がいた。下神野の人だった。櫨を採るのと同じような人だった。高 い木へ上がって採った。溝をつけて採った。技術がいる。 紀 美 野 町 桂 瀬、 東 克 彦( 昭 和 七 年 生 ま れ )、 二 〇 一 三 年 一 一 月 二 九 日 聞 き

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た。 自 分 も 櫨 採 り を し た。 植 え て 作 っ て い た。 苗 木 か ら 育 て た こ と は な い。 ( 自 分 が 知 っ て い る の は ) す で に 成 木 だ っ た。 生 育 す る こ と は な か っ た。 洋 蝋のほうがきれいといって、櫨で作った和蝋は売れなくなった。 紀 美 野 町 花 野 原、 森 下 富 夫( 大 正 一 五 年 生 ま れ )、 二 〇 一 三 年 八 月 三 〇 日 聞き取り 事例 24  櫨は学校を卒業してからも採りに行った。ようけあるとこがあった(たく さんあるところがあった) 。ええ値した(いい値段で売れた) 。買いに来てい た。どこの人か知らない。昔の人は植えたらしい。 紀 美 野 町 初 生 谷、 坂 明 雄( 昭 和 九 年 生 ま れ )、 二 〇 一 三 年 八 月 三 〇 日 聞 き 取り 事例 25  櫨も作った。実をろうそくにする。だいぶあった。大正のころか。自分が 一・二年のころには櫨はあった。実を採るのに高いところに上がらなあかん (登らないと採れない) 。専門の人があった。土地の者は植えてるだけ。真国 (蓑垣内)の芝さんは、櫨の実を買いにきた。 紀 美 野 町 円 明 寺、 田 中 惇 元( 昭 和 一 〇 年 生 ま れ )、 二 〇 一 三 年 七 月 一 九 日 聞き取り 事例 26  櫨はうちも実を採って売った。父親が採って売っていた。大きな木があっ た。採りに上がっているのを見た。 い。 シ ュ ウ ロ は 土 地 の 肥 え た 場 所。 赤 土 は 痩 せ て い る。 黒 土 は 肥 え て い る。 シ ュ ウ ロ は 肥 え た と こ ろ で な い と で き や ん( で き な い )。 櫨 は 肥 を や っ た。 柿を植えたのと同じ。実生から継いで育てた。下肥をやった。櫨は多い家だ と 一 〇 〇 〇 貫 あ っ た。 冬 に 採 る。 紅 葉 し た 葉 が 落 ち て 実 だ け に な る と 採 る。 一月すんだら採る。本数ある。今も山に残っている。櫨を採ったのはもう自 分ぐらいしかいないのではないか。サーカスみたいに、ロープを持って行っ て上がって採った。 紀 美 野 町 蓑 垣 内、 芝 待 雄( 昭 和 一 二 年 生 ま れ )、 二 〇 一 四 年 一 月 八 日 聞 き 取り 事例 22  櫨はちっと(少し)あった。採りにきた。自分では採れへん(採らない) 。 しれてた(量は少なかった) 。 紀 美 野 町 蓑 津 呂、 前 坊 秀 子( 昭 和 五 年 生 ま れ )、 二 〇 一 三 年 一 二 月 二 五 日 聞き取り 櫨 は ろ う そ く に し た。 東 さ ん と こ で 採 っ て い た。 ろ う が 売 れ や ん よ う に な っ て( 売 れ な く な っ て )、 倉 庫 に 積 ん で い た。 一 旦 売 れ や ん よ う に な っ た が、積んでいたのが売れて、もうけたという。 紀 美 野 町 蓑 津 呂、 森 谷 昌 子( 大 正 一 二 年 生 ま れ )・ 宮 西 美 恵 子( 昭 和 四 年 生まれ) ・前坊秀子、二〇一三年一二月二五日聞き取り 事例 23  櫨はけっこう山にあった。採って出すだけ。野上か和歌山の人が買いに来 事例 30  櫨はない。高野山から護摩を焚く木を取りに来た。櫨ではなかったか。 紀 美 野 町 谷、 西 谷 道 子( 昭 和 一 二 年 生 ま れ )、 二 〇 一 九 年 九 月 一 〇 日 聞 き 取り 事例 31 櫨はあったけど少なかった。 紀美野町谷、森本正永(昭和三年生まれ) ・千代(昭和五年生まれ) 、二〇 一六年一月六日聞き取り   毛原・長谷地区の事例 事例 32  櫨 は ち っ と は あ っ た( 少 し は あ っ た )。 う ち に は な か っ た。 家 に よ っ て は あったか。 紀 美 野 町 毛 原 中、 神 崎 博 介( 昭 和 一 四 年 生 ま れ )、 二 〇 一 四 年 八 月 二 二 日 聞き取り 事例 33  櫨 は 少 し あ っ た。 売 る 人 も あ っ た。 一・ 二 軒 だ っ た。 ( 志 賀 野 で は 櫨 が か なり売ったということを聞いたと伝えると)志賀野はぬくい(暖かいから櫨 が多い) 。 紀 美 野 町 長 谷 宮、 大 和 公 明( 昭 和 七 年 生 ま れ )、 二 〇 一 四 年 八 月 八 日 聞 き 取り 紀 美 野 町 勝 谷、 前 代 清 子( 昭 和 四 年 生 ま れ )、 二 〇 一 三 年 九 月 一 一 日 聞 き 取り 事例 27 櫨も売った。自分の家はなかった。井堰にもあった。 紀 美 野 町 四 郷、 部 屋 浦 ハ マ 子( 昭 和 一 七 年 生 ま れ )、 二 〇 一 三 年 九 月 一 〇 日聞き取り(竹村悠氏も同行)   国吉地区の事例 事例 28  櫨はかぶれる。売れへん(売らない) 。谷にはない。 紀美野町谷、浦宏子(昭和九年生まれ) 、二〇一五年八月一〇日聞き取り 事例 29  山櫨はいくらでもある。接ぎ木で大きならす(接ぎ木して大きく育てる) 。 園 芸 種。 海 南 あ た り は ず っ と あ っ た。 川 の 土 手 と か。 こ っ ち も た ま に あ っ た。ちょいちょいあるので、仲買人が買いに来た。且来に(櫨を扱うところ が)二軒あった。もうやってないか。 仲買人は櫨・ぜんまい・フシなど、山で採れるものを買った。おばあさん の小遣い稼ぎ。 紀 美 野 町 谷、 福 岡 正 富( 昭 和 一 三 年 生 ま れ )、 二 〇 一 五 年 九 月 八 日 聞 き 取 り

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事例 30  櫨はない。高野山から護摩を焚く木を取りに来た。櫨ではなかったか。 紀 美 野 町 谷、 西 谷 道 子( 昭 和 一 二 年 生 ま れ )、 二 〇 一 九 年 九 月 一 〇 日 聞 き 取り 事例 31 櫨はあったけど少なかった。 紀美野町谷、森本正永(昭和三年生まれ) ・千代(昭和五年生まれ) 、二〇 一六年一月六日聞き取り   毛原・長谷地区の事例 事例 32  櫨 は ち っ と は あ っ た( 少 し は あ っ た )。 う ち に は な か っ た。 家 に よ っ て は あったか。 紀 美 野 町 毛 原 中、 神 崎 博 介( 昭 和 一 四 年 生 ま れ )、 二 〇 一 四 年 八 月 二 二 日 聞き取り 事例 33  櫨 は 少 し あ っ た。 売 る 人 も あ っ た。 一・ 二 軒 だ っ た。 ( 志 賀 野 で は 櫨 が か なり売ったということを聞いたと伝えると)志賀野はぬくい(暖かいから櫨 が多い) 。 紀 美 野 町 長 谷 宮、 大 和 公 明( 昭 和 七 年 生 ま れ )、 二 〇 一 四 年 八 月 八 日 聞 き 取り 紀 美 野 町 勝 谷、 前 代 清 子( 昭 和 四 年 生 ま れ )、 二 〇 一 三 年 九 月 一 一 日 聞 き 取り 事例 27 櫨も売った。自分の家はなかった。井堰にもあった。 紀 美 野 町 四 郷、 部 屋 浦 ハ マ 子( 昭 和 一 七 年 生 ま れ )、 二 〇 一 三 年 九 月 一 〇 日聞き取り(竹村悠氏も同行)   国吉地区の事例 事例 28  櫨はかぶれる。売れへん(売らない) 。谷にはない。 紀美野町谷、浦宏子(昭和九年生まれ) 、二〇一五年八月一〇日聞き取り 事例 29  山櫨はいくらでもある。接ぎ木で大きならす(接ぎ木して大きく育てる) 。 園 芸 種。 海 南 あ た り は ず っ と あ っ た。 川 の 土 手 と か。 こ っ ち も た ま に あ っ た。ちょいちょいあるので、仲買人が買いに来た。且来に(櫨を扱うところ が)二軒あった。もうやってないか。 仲買人は櫨・ぜんまい・フシなど、山で採れるものを買った。おばあさん の小遣い稼ぎ。 紀 美 野 町 谷、 福 岡 正 富( 昭 和 一 三 年 生 ま れ )、 二 〇 一 五 年 九 月 八 日 聞 き 取 り

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  考察 三章では紀美野町各地における櫨に関する聞き取り内容を列記した。話者の 特徴としては、現在も櫨採りをおこなっている人、過去に櫨採りをしたことが ある人、家族が櫨採りをしていた人という人、櫨の実を採ってもらって販売し て い た 人、 家 に は 櫨 が な い が 見 聞 き し て 櫨 の こ と を 知 っ て る 人、 に 分 か れ る。 これらの事例を総合すると、これまで実態が不明であった紀美野町における櫨 栽培・採取の具体的な様子がうかがえる。   民俗知識 紀美野町には櫨に関する民俗知識が豊富にあったことが分かった。事例を総 合すると、以下のような民俗知識がみられた。自生の櫨と葡萄櫨という種類を 区 別 し て い る。 自 生 の 櫨 の こ と は ヤ マ ハ ゼ( 山 櫨 )・ ミ シ ョ ウ( 実 生 )・ ナ ミ ( 並 ) な ど と 呼 ん で い る。 こ れ は 実 が 小 さ い。 そ れ に 対 し て、 葡 萄 櫨 と い う の は、実が葡萄のようになるために、そのように呼ばれているという。これは実 が大きい。ただし、葡萄櫨は種から育てることはできず、接ぎ木をしないとい けないという。 櫨は四月末から黄色い花が咲き、一一月から紅葉し、一二月ごろ実を収穫で きる。実のなり方は年によってて違いがあり、オモテバン(表番)とウラバン ( 裏 番 ) が あ る。 櫨 の み は ヒ ヨ・ ツ グ ミ な ど の 小 鳥 が 食 べ に く る。 櫨 の 実 を 食 べくるところを狙って鳥を捕ることもあった。 このような櫨に関する民俗知識については、櫨採りをしてきた人から語られ る場合が多かった。ただし、地域によって民俗知識には差異が認められる。志 賀野地区および、下神野地区・上神野地区・真国地区においては、家族が櫨採 りをしてきた人や、見聞きして知っている人でもある程度の民俗知識は有して   紀美野町東野上・小川地区 事例 34  櫨 の 量 は し れ て る( 量 は 少 な い )。 貴 志 川( 紀 の 川 市 貴 志 川 町 ) か ら 採 り に来た。海南ではなかった。売った。櫨はもうない。 紀 美 野 町 柴 目、 上 田 幹 雄( 昭 和 六 年 生 ま れ )、 二 〇 一 三 年 八 月 八 日 聞 き 取 り 事例 35  櫨は小川とか美里にあった。吉野はない。 紀 美 野 町 吉 野、 中 家 俊( 昭 和 八 年 生 ま れ )、 二 〇 一 四 年 八 月 二 二 日 聞 き 取 り 事例 36 ( 小 川 で 作 っ て い た も の は 何 で す か、 と い う 問 い に ) 棕 櫚・ 柿・ お 茶・ フ シ・櫨・山椒。櫨は秋に紅葉するので分かる。フシはかぶれる。戦前には棕 櫚が多かった。 自 分 の 家 に は 櫨 は 数 え る ほ ど し か な か っ た。 や せ た と こ に い い。 か ぶ れ る。小川地区の中でも坂本・西福井・奥佐々はやせ地。櫨があった。目立つ ほどもなかった。一本あったらだいぶ(かなりの実が)採れる。防風林に櫨 を植えていた。 紀 美 野 町 西 福 井、 田 尻 章( 昭 和 四 年 生 ま れ )、 二 〇 一 九 年 九 月 一 一 日 聞 き 取り 地区において聞き取ることができた。 櫨の実の採取時期は一二月から一月である。平均五 mほどある櫨の木に登っ て採取する。技術が必要なため、だれでもできるものではなかった。したがっ て、家族が採れない場合は、専門の人に採ってもらうということになる。事例 1の 七 しち 良 りょうざこ 浴 正氏の妻は、正氏は櫨採りが好きだと語る。 櫨は触れるとかぶれるが、手袋をしないで採っていた。採り始めたときはか ゆくなっても、しばらくすると慣れてくるという。実は枝の先についているた め、枝を引き寄せて採る。枝を引き寄せる道具は鉤という。太い枝はロープで 引き寄せてから実を採る。事例 1の七良浴氏の場合、採取した実を入れる籠を 木の上に載せておく。この籠は二貫程度(約七・五 kg)入る。籠を木から下ろ し、実をドンゴロスという袋に入れる。山からはオウコ(天秤棒)で袋を前後 に担いで持ち帰る。人によって異なるが、一五貫前後(約五六 kg前後)担いで 持ち帰ったという。午前に一回、午後に一回運び、一日に三〇貫程度(約一一 二 kg)山から下ろした人もいた。 家に持ち帰った櫨の実はしばらく小屋で保管する。乾燥して水分を取ってか ら売る。海南市や紀の川市貴志川町などの製蝋屋に販売してきた。事例 1の七 良 浴 氏 の 場 合、 現 在 は 櫨 が 三 〇 〇 本 あ り、 一 年 に 三 〇 〇 貫 程 度( 一 一 二 五 kg) 収穫しているという。昭和初期までは、多い家で櫨が一〇〇〇本あり、一年に 一〇〇〇貫程度収穫していたという。こうした数字を総合すると、おおよそ一 本 の 櫨 か ら 一 年 に 一 貫( 三・ 七 五 kg) 程 度 の 実 を 収 穫 で き る と い う こ と に な る。   家ごとの差異 紀美野町における櫨に関する事例を総合すると、昭和初期での紀美野町にお いる。これらは、櫨採りを積極的におこなってきた地域であるため、櫨に関す る知識が蓄積されたと思われる。反対に、櫨採りを積極的にしていなかった地 域では、櫨のことはあまり語られなかった。   栽培技術 栽培技術に関しては、志賀野地区を中心に、下神野地区・上神野地区・真国 地区において聞き取ることができた。 紀 美 野 町 で は 櫨 は 一 般 的 に 山 に 自 生 し て い る。 し か し、 櫨 採 り を お こ な う 人々は、積極的に櫨を植えてきたことが分かった。櫨を植える場合、種や苗を 植え、接ぎ木をして葡萄櫨を育てた。葡萄櫨は自生の櫨よりも実が大きく、高 く売れるからであった。多い家では一〇〇〇本ほど櫨を植えている場合もあっ た。 植える場所は、山・畑の畔・山道、などであった。山に植える場合は、自分 の家の山の一部に植えていることが多い。そのうえ、家から行き来しやすい山 に植えていたようである。ただし、志賀野地区では雨山に多くの家が櫨を植え ていた。畑の畔に植える場合は、防風林をかねていたという。山道に植える場 合は、砂留に植えたという。なお、 棕 し ゅ ろ 櫚 の場合も、畑の周囲や山道にも櫨と同 じように植えていた。 櫨の手入れとしては、下草を刈り、肥料を与える程度であった。典型的な半 栽培植物といえる。肥料は人糞を与えたという。畑の周囲の櫨は、畑の肥料の ためによくできた。櫨は消毒はいらないという。   採取方法 採取方法についても、志賀野地区を中心に、下神野地区・上神野地区・真国

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地区において聞き取ることができた。 櫨の実の採取時期は一二月から一月である。平均五 mほどある櫨の木に登っ て採取する。技術が必要なため、だれでもできるものではなかった。したがっ て、家族が採れない場合は、専門の人に採ってもらうということになる。事例 1の 七 しち 良 りょうざこ 浴 正氏の妻は、正氏は櫨採りが好きだと語る。 櫨は触れるとかぶれるが、手袋をしないで採っていた。採り始めたときはか ゆくなっても、しばらくすると慣れてくるという。実は枝の先についているた め、枝を引き寄せて採る。枝を引き寄せる道具は鉤という。太い枝はロープで 引き寄せてから実を採る。事例 1の七良浴氏の場合、採取した実を入れる籠を 木の上に載せておく。この籠は二貫程度(約七・五 kg)入る。籠を木から下ろ し、実をドンゴロスという袋に入れる。山からはオウコ(天秤棒)で袋を前後 に担いで持ち帰る。人によって異なるが、一五貫前後(約五六 kg前後)担いで 持ち帰ったという。午前に一回、午後に一回運び、一日に三〇貫程度(約一一 二 kg)山から下ろした人もいた。 家に持ち帰った櫨の実はしばらく小屋で保管する。乾燥して水分を取ってか ら売る。海南市や紀の川市貴志川町などの製蝋屋に販売してきた。事例 1の七 良 浴 氏 の 場 合、 現 在 は 櫨 が 三 〇 〇 本 あ り、 一 年 に 三 〇 〇 貫 程 度( 一 一 二 五 kg) 収穫しているという。昭和初期までは、多い家で櫨が一〇〇〇本あり、一年に 一〇〇〇貫程度収穫していたという。こうした数字を総合すると、おおよそ一 本 の 櫨 か ら 一 年 に 一 貫( 三・ 七 五 kg) 程 度 の 実 を 収 穫 で き る と い う こ と に な る。   家ごとの差異 紀美野町における櫨に関する事例を総合すると、昭和初期での紀美野町にお いる。これらは、櫨採りを積極的におこなってきた地域であるため、櫨に関す る知識が蓄積されたと思われる。反対に、櫨採りを積極的にしていなかった地 域では、櫨のことはあまり語られなかった。   栽培技術 栽培技術に関しては、志賀野地区を中心に、下神野地区・上神野地区・真国 地区において聞き取ることができた。 紀 美 野 町 で は 櫨 は 一 般 的 に 山 に 自 生 し て い る。 し か し、 櫨 採 り を お こ な う 人々は、積極的に櫨を植えてきたことが分かった。櫨を植える場合、種や苗を 植え、接ぎ木をして葡萄櫨を育てた。葡萄櫨は自生の櫨よりも実が大きく、高 く売れるからであった。多い家では一〇〇〇本ほど櫨を植えている場合もあっ た。 植える場所は、山・畑の畔・山道、などであった。山に植える場合は、自分 の家の山の一部に植えていることが多い。そのうえ、家から行き来しやすい山 に植えていたようである。ただし、志賀野地区では雨山に多くの家が櫨を植え ていた。畑の畔に植える場合は、防風林をかねていたという。山道に植える場 合は、砂留に植えたという。なお、 棕 し ゅ ろ 櫚 の場合も、畑の周囲や山道にも櫨と同 じように植えていた。 櫨の手入れとしては、下草を刈り、肥料を与える程度であった。典型的な半 栽培植物といえる。肥料は人糞を与えたという。畑の周囲の櫨は、畑の肥料の ためによくできた。櫨は消毒はいらないという。   採取方法 採取方法についても、志賀野地区を中心に、下神野地区・上神野地区・真国

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