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大原幽学の発見 -「日本的産業組合」の創出と歴史叙述の転換を巡って-

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大原幽学の発見 -「日本的産業組合」の創出と歴史

叙述の転換を巡って-著者

河内 聡子

雑誌名

日本文芸論稿

36

ページ

13-25

発行年

2013-03-31

URL

http://hdl.handle.net/10097/56411

(2)

大原幽学の発見

- 「日本的産業組合」 の創出と歴史叙述の転換を巡って

一はじめに   一 大原幽学は、江戸後期の農民指導者として'二宮尊徳とも並び称 される近世の思想家であるが、一方で、農業協同組合の創始者とし ても語り出されることのある人物である。それは'天保年間に先祖 株組合という機構を発案し組織したことによるが、必ずしも産業組 合 (農協の前身) の設立当初から始祖として語られていたわけでは ない。そこには、日本の産業組合が 「日本的」 なものとして転換し ていく段階における思惑があったと考えられるのである。 (-) 日本の産業組合は、西欧の理念や思想を基底としながら明治期に 成立したものであり、当然ながらその歴史は西欧に根源を持つもの として叙述されてきた。しかし、時局の変化と体制の転換に伴い、" その叙述の有り方は変容を遂げていくこととなる。 本論では、産業組合の中央組織における 「産業組合論」 の展開に (2) ついて、機関誌『産業組合』の記事などを中心に整理し、どのよう な思想的転換が生じているのか見ていき、さらに、その叙述的変遷

河内 聡子

を辿って行きたい。そして、その中で 「日本的産業組合」 のシンボ ルとして大原幽学が発見され、新たに語り出されていく経緯を明ら かにすることを試みたいと思う。 一一初期における産業組合論 日本の産業組合は、品川弥二郎、平田東助らの官僚が中心になっ て設立されたものであり、その際に範となったのは、ドイツやイギ (3) リスなどの組合制度であった。ただ、日本の産業組合と、ドイツを 始めとした西欧の産業組合とは、大きな違いがあった。それは、西 欧の組合は、民衆の自立的要求から発生したものであって、下から の盛り上がりであったのに対し'日本は官僚的・制度的に始まった ものであり、上からの働きかけであったということである。しかし ながら、初期の産業組合における理想は、西欧のあり方に求められ ている。次に例示するのは、初代副会頭・小松原英太郎の産業組合 論である。 13

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欧履巴に於ける産業組合に在っては、其根本の精神とする処は 自助、和治の掛朴である、此精神を以て各自勤勉力行得たる資

金を貯蓄し互に徳義を重んじ、iL助''和治の掛朴を以て組合の

運用を全ふするのである、(-) 独逸国の産業組合の萌芽した当 時の有様は、(・・・)益々囲矧由圃加速工旧聞工国劇小勢阿川「。"却図割 治体に依頼し或は資産家に訴ふる等'元気なく自助独立の力な き状態に陥り'随つて自治体も国家も疲弊衰亡の外なきに至つ 相。鼓に於てかシュルツ工、デーリッチ氏又はライフアイゼン 氏の如き人々出で、国民は白から労働し自己の力に依って社会 / に立ち、各自恒産を造り'之に依って恒心を得て事業を経営し' 一家の繁栄を図り、一地方の産業の発達を図る (傍点・傍線引 用者) (小松原英太郎「教育と産業組合」『産業組合』大正元年九月) 以上のような、西欧の産業組合を理想的なものとして考える傾向 は初期の言説に散見される。その中でも、特に多用されるのが 「自 助、自治の精神」 という言葉である。産業組合は、スローガンであ (4) る 「共存同栄」 という言葉が示すように、経済的弱者が協同するこ とで利益を共有しようというものである。しかし、それはあくまで 「自助、自治の精神」 を根本とすることが、初期の産業組合論では 強調される。また、傍線部のように 「依頼心を起L L 「自治体に依 頼」するのは、「自治体も国家も疲弊衰亡」 することにつながるとさ れている。これは、西欧のあり方を理想化する一方で、日本の産業 組合の持つ官僚依存の体質を否定的に見ていると解釈できる。 このような産業組合論を、ほぼ踏襲する形で強く押し出したのが、 (5) 二代目会頭の志村源太郎であった。志村は、前述したような「自助、 自治の精神」 を強調した産業組合論を、持論も織り交ぜながら展開 していく。 独立自尊の各人が、協同の力を利用して各自の進路を開拓する 手段を採るものである。ゆえに組合は'利用すべきものにして 依頼すべきものにあらず。組合を用ゐて自ら助くべきもので、 組合に助けられ'またはこれに救わるべきものにあらず。出樹剰 組合宮川Hud古里同月tL掛の粉砕を発揮して、組合に臨むの 細面勤や割引。(傍点・傍線引用者) (志村源太郎 「産業組合の使命」『産業組合』大正十四年九月) このように述べており、その趣旨が初期の産業組合論を受け継い だものであることがわかる。しかしながら、志村の産業組合論には 初期のものと比べて新たに強調される点が加えられている。それは、 組合は「自由の集まり」であり、「個人の心から発して成り立つもの」 (志村、1925.6) という見解に表れた、個人主義・自由主義的な思 想である。志村は、自身の産業組合論において「個人の自由を尊重」 (志村、1925.9)すべきことを繰り返し述べており、この主義に則っ た事業の展開を指向していく。 個人主義・自由主義に立脚した産業組合のあり方を目指すために は、まず「経済上に於ても、思想上に於ても独立」 (志村、1928) ることが第一の課題であるとした。「思想上」 の問題は、教育・宣伝 活動の強化・徹底によることとし、一方の 「経済上」 の問題は、官 14

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僚依存的な体質の改善から図ることとする。 志村は、会頭として 「徒に政府や政党に依頼して、社会的の各種 の設備をして呉れるであらう、低利資金を融通して呉れるであらう と云ふやうな観念を根本から除去する事に向つて御努力を頼ひたい」 (志村、1928) と呼びかけ、官僚 【表1】産業組合中央会の収支内訳(昭和3-7年度) 実 劔- 竰 乖Hリr3 3年 的D 5年 妬D 7年 D 4年 添D 6年 土D 会費 都 73414 田イ 11124 3s 40 鼎" 42 鉄B 49 二重= 事業収入 テS3 13,605 湯テCr 17,13 Rテ 2 6 唐 6 唐 15 交付金 鉄bテS 55,50 鉄 テC 43,07 づS" 32 31 17 その他 津 " ー33,983 2テ b 34,92 鼎2テs2 22 21 r 19 汁 sbテ##2 176,50 c テCb 206,37 3 テ r (注) 「産業組合年制(第-回一第五回)を基に作成した. なお、 「その他」には、基本財産収入、寄附金.雑収入が含まれる. 制から脱却し、産業組合の経済的 ・思想的自立に向けた動きを押し 進めていった。具体的な方策とし て、昭和三年 (一九二八) に中央 /会の会費増額を協議し、農林省か らの交付金への依存度を減らして いくことが検討される。その理由 は、以下のように説明される。 会頭に就任して、予算を見ると非 常に貧弱に感じた。これでは十分 な事業は出来ないと思ふたのであ る。組合は自治団体であるから、 当然会員が負担すると考へた。(-) 組合の間に自治の観念を養ふこと は常に深く考へて戴きたい。政府 の補助金は補助されるものは受け てもい1が、それを当にしてはな らない。政党政治の現代にあって、 其の発達の未だ円熟してをらない 我国の現状では兎角政治が一方に偏重する様な嫌があるか ら、或る場合には党派的観念から産業組合にも影響を及ぼす 様なことが地方によりてはないとも限らない。 (『産業組合』昭和四年二月) ここでは、政府から援助を受けることで、政治的な影響を受けて しまうことが危惧されており、政治からは距離を置こうとする姿勢 が見られる。経済・思想、両面からの自立を図り、官僚制に依存し ない組織の方向性が強く指向されていることがわかる。その方向性 を示すものか、協議会を境とした数年は会費収入が増額し、一方で 交付金の漸次減額が見られる。(【表1】参照) この時期の産業組合 は、官製団体としての性格から離れへ 独立した組織として踏み出そ

うとしていたように見える。しかし、志半ばにして会頭就任中の昭 15

和五年 (一九三〇) に志村が逝去すると、昭和恐慌などの時局を背 景にしながら、産業組合の動勢はまた大きく転換していくこととな る。 三 拡充期に見る産業組合諭 次に、産業組合が著しい発展を遂げた拡充期の産業組合論を見て いきたい。拡充期とは、産業組合が 「拡充計画」 を開始した昭和七 年末から十五年までの期間を指し、この時期に産業組合は普及・拡 大を企図した活動を本格化させ、計画の最終年には農業者の全戸加 入がほぼ実現した。 次の文章は、拡充計画の実施にあたって、当時の中央会理事で、

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(6) 中心的な指導者の一人である千石興太郎が著した論文の一節である。 明治大正の時代に設立せられたる多くの組合は、組合員が産業 組合の必要を認識したる結果、自発的に生れ出でたるものでな いから、独立か41の掛朴に基因する相互協同の組合的観念に欠 如してをり、只組合に依頼して自己の経済状態の救済を受けん とする、他力観念のみが発達して、熱烈なる産業組合意識の発 露を見なかったのであると共に、組合の経営も亦其の宜しきを 得ざるが為め、組合事業の進展が期待に背くこと甚だ多かつた

のであるo (・・・)農村が徒らに習工割付

依頼するが如きことあれば、独立自主の精神は農村より一掃せ られ、農村の将来に大なる暗影を投ずることとなるのである。(倭 点・傍線引用者) (千石興太郎「農村産業組合拡充運動」 『産業組合』昭和七年十一月) 傍点・傍線を付した部分に注目すると、「独立自主の精神」 の提唱 や、「国家の保護による他力主義」批判がなされ、千石の論が志村源 太郎の産業組合論を踏襲した内容であることがわかる。千石興太郎 は、「強烈な個性でもって産業組合陣営をひきいた人物」 (野本、-①① 2) で、後に 「産租界の独裁王」 (式守、)937) とも呼ばれるほどの ・(7) 存在感を示した。また、拡充計画の基本理念となる「産業組合主義」 を提唱したことでも知られている。千石は、昭和四年の著作の中で も 「組合員は独立自助の精神に塞く、相互協同の組合的観念を持っ て居らない者が多い。唯組合に依頼して自己の経済状態の救済を受 けんとする、他力観念のみが発達して居る」 (『産業組合主義経済組 織の話』) と述べており、志村の論と同様に、自治的組織としての産 業組合の理想を強調している。 このような言説は、拡充計画の前期に散見され、当時の副会頭で (8) ある志立鉄次郎も次のように述べている。

薗剰組曹山側園到習国司引、個性あってこそ

初めて国家社会が隆盛に赴き健全なる発達を遂げるものである。

(・・・)個性を無視して、功浦山日劇で引綱渕上畳U

個性の啓発を抑圧して国家の力を以て之を統制して行くと言ふ 日月uJ拍割判謝凹矧罰も十割引と思ふ。(・・・)初めより蟄旧

習、組合員自身の和治、かかの掛朴より湧出で、発

達したならば、外面は今の如き隆盛を見ることは出来なかった のであらうけれども、内容は余程充実し基礎も輩園となったで あらうと思ふ。どうしても此点を理解し、独立の此精神に依つ 16 て進むと言ふことでなければ、将来いつまで経っても健全なる 組合側到溺割習周期U。同と思ふ。(傍点・傍線引用者) (志立鉄次郎 「我等の立場」『産業組合』昭和八年九月) ここには、個人主義・自由主義を基調とした主張が見られ、やは り志村がかつて論じたところの 「自治、自助の精神」 を要とする産 業組合論に通じる内容であることがわかる。中央会の幹部である千 石・志立が主唱していることから、国家に依頼せず、自治的な組織 として独立することが、拡充期の始めには産業組合の方向性として 引き続き強調されていたと考えられる。

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四 産業組合の国家傾倒と内部における思想対立 しかし、当時は昭和恐慌を背景として、政府による農村経済に対 する救済政策である農山漁村経済更生運動が実施されており、状況 として産業組合は国の交付金に頼らざるを得なかった。そのため、 現実的には産業組合の外郭団体としての性格は強まっており、経済 的・思想的な独立というのは砂上の空論となりつつあった。 (9) さらに、昭和八年頃より本格化する反産業組合運動によって、官 僚依存の傾向はより高まることとなる。昭和八年十一月、産業組合 側は、反産業組合運動の連合組織である商権擁護連盟に対抗する策 のiつとして、「組合運動に理解ある代議士との連絡を密にすること」 (『産業組合中央会史』) との方針を打ち出す。また、翌年一月の役 員協議会において、「反産業組合運動の根本目標」(同前)を提示し、 その中の一つとして「産業組合に対する国家の保護助長政策の拡充」 を挙げている。ここにきて、産業組合の国家への傾倒は、ほぼ決定 的なものとなる。この動きの中で、千石の産業組合の理念も大きく 変化していった。

萄血副詞由

対す割切矧割判親日言動到。即ち国家の農村政策を産業組合を通 じて施設したのであって、我国に於て農村の基礎を堅実になし、 農業者の経済を快適ならしめて、名実共に農村を国家の礎石た らしむるの必要を認める以上は、劇相薗菊判割付目刺廿日別間凋工卸側 国頭悶囲圃問詰図四閉Ⅲ陸田甥画面閉園謎離幅堅田薩間脳閣議 ともつと農村の協同的経済活動に対して、積極的政矧』脅碧蛸引 十割前月細工到。(傍線引用者) (千石興太郎『反産業組合運動批判』昭和九年) 千石は、自立的な経済システムを理想としていた産業組合論を転 換させ、時局を見極めた対応をしていく。それは、産業組合の組織 的な利益を守るために、国の財政に頗るという道を選択することで あった。当時の理論的支柱であった千石の方向転換は、産業組合の 組織全体に大きな影響を及ぼしえた。産業組合の国政との関わりは、 この時期を画期としてどんどん深化していくこととなる。 昭和十年には、産業組合の政治進出に向けた動きが本格化し、そ の年の府県議会議員選挙、翌年の衆議院議員選挙の際には、独自の 政党である「産業組合党」 の立ち上げが検討されたほか、「組合運動 に理解ある代議士」を選出するための選挙運動などを展開していく (10) こととなる。 このような産業組合の傾向に対して警鐘を鳴らしたのがへ 当時、 会頭に就任していた志立鉄次郎であった。志立は、産業組合が政治 に積極的に介入しようとすることに対し、「産業組合党を組織するの 可否に就いては、(-)斯る政党の組織は実現困難なるのみならず、 実効極めて少かるべきを以て、断然思ひ止まるべきことを勧告する」 と述べて、従来通りの産業組合論を再び強調した。

組合員各自に自労自活の精神なく、組合に独立自助の気性なく

は、如何にして組合を維持することを得べさぞ。(-)甜箇剤矧割

判蟄謁冨山別

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到割判割引由、私の断言して慣らざる所にして、深く組合指 導者の猛省を頼ふものである。(-)組合は民衆の自由意思に由

り、卦同園他用Ju寸Yii団罫樹

ガ督寸周智甲。(・・・)自由主義の理

論適用が如何に変つても自由主義は依然たる自由主義で、国家 主義ではない。(傍点・傍線引用者) (志立鉄次郎「産業組合の精神」『産業組合』昭和十年九月) 志立は、時勢の変化にあっても、あくまで独立の精神、個人主義 ・自由主義を主張し、産業組合が 「政府に依頼する」 ことで 「国家 主義」に傾倒していくことを戒めた。これに続けて、志立は国家主 義に流れつつある世の状勢を、個人主義を標梼する立場として批判 する。

何曲例]引例掴同盟圏坤図回轡田園川幽明中丸切倒別当周智甲。時流に

引かれず、俗論に阿らず、道理と自信とに由り、毅然として不 人望な意見を公にするは国家のため最も望ましいことで、私の 国家主義に反対する主なる理由は弦に存する。(-)産業組合の 統制なる語は後者即ち国家権力の発動に依て産業の自由を抑制 するの義にあらざるか、果して然らば産業組合の本質によりて 私は固く反対するものであって、斯くの如きは習目測 4相当姐封印国劇同胞嗣川口期日可到則甲骨個別。宿縁引用董 繰り返し個性の重視を強調する志立は、個人を単位とした、いわ ば民主的な産業組合論を展開しており、それとは逆に「国家権力の 発動」によって「自由を抑制」されることが、「ファシズムの組合国 家」につながることを指摘する。国家主義・全体主義に傾きつつあ る産業組合の現状に対し、中央会の長たる会頭として危惧を表した のであった。 以上のような志立の産業組合論に賛同し、同様の立場から論述す る例があるが、いずれも組織内部ではなく外部有識者からの意見と なっている。次は、経済学者から寄せられた主張の一部である。 私が主張して居るのは前にも屡々明言した通り組合民主々義 の実現であって決して単なる自由主義ではない。現在の可倒 詔閣圏開園臨醒随薩田腫腹囲蛭の田 園詔棚囲閤題詞帽頭語

判例「割田詰問国利甲寸

川口豊川当園村中。今の組合制度の根拠を改革する

ところの厨司工副署刑割鍋諸岡uJU居るのである。(傍線引用者) (沢村康「産業組合民主々義を論ず」『産業組合』昭和十年十二月) これら民主主義的な性格を帯びた産業組合論が、中央会の内部か ら発現することは、当時の『産業組合』誌上を見る限りにおいて、 志立を除いて他にいない。当時の中央会において圧倒的に優位を占 めるのは、前述したような産業組合が国政に依存することを容認し、 外郭団体としての組織のあり方を肯定する意見であり、会頭である 志立は、思想的に孤立した状況となっていた。そのことは、先に引 用した論文「産業組合の精神」 の中央に、論を押しのけるような形 で重ねて掲載された 「産業組合ノ政治二対スル態度」 の告知が露骨 に物語っているようである。(【図1】参照) 18

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昭和十一年の五月を以て志立がその座を退くと、次の中央会会頭 lr=r=-軍 として貴族院議員の有馬頼事が就任する。このことは、産業組合が 自治的組織から官僚的組織へ、そして民主主義から国家主義へと、 その方向性を確定させたことを象徴的に意味していた。

録岬

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ける、思想的対立の燐烈さと混乱の様子を垣間見ることが出来る話 19

といえよう。 五 「協同主義」の意味的変換 昭和十二年五月に開催された第三十二回全国産業組合大会の席で、 千石は「産業組合運動が、国家全体の利益を念として、産業組合の機鰭 の発揚に向つて積極的に邁進しよう」(「産業組合状勢報告」『産業組合』 昭和十二年七月)と宣言し、国家主義を基調とする産業組合の方向性 を、全面的に打ち出した。また、同年より第二次拡充計画が施行される ことになるが、その要綱の序文には、五年前の第一次拡充計画の時とは様 変わりした世の状勢と、それに応じた組織の姿とがはっきり表れている。 ところで、志立の辞任に関しては、当時の人々の間に様々な憶測

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産業組合ハ宜シク本来ノ使命タル民衆生活ノ安定ヲ実現スルガ

為大二蟄矧劇真剣刈

(・・・)三千万民衆ノ干与スル全組織ヲシテ議団十割日月日刊訓的掴

習二全力ヲ傾倒セサルベカラズ。(・・・)抜二第

二次産業組合拡充三ケ年計画樹立ノ重大ナル意義ヲ開明シ、全 国組合員ノ断乎タル決意卜軍団ナル団結トニ依り全計画ヲ完全 二遂行センコトヲ誓約シ以テ刻下ノ重大時局二応処シ剰言月月日剣 陶器刊引力古川田園月刊羽目日計。(傍線引用者) (「第二次産業組合拡充三ケ年計画」『産業組合』昭和十二年十月) / 「協同精神ノ作興」 が 「挙国一致」、「国家ノ興隆」 へとつながる 論理からは、かつて説かれていた個人を基調とする民主主義的な協 同の幻想など跡形もないことがわかる。また、この計画の項目とし て立てられた「産業組合教育及宣伝二関スル事項」 では、「産業組令 精神ノ強調」を第一要点として掲げ、次のように述べられている。 産業組合ハ共存同栄ノ精神ヲ基礎トシ (-)社会道徳ノ基調タ ル協同精神ノ発揚二依り個人主義思潮二流レタル民衆ノ人格ヲ 革新向上セシムル倫理的意図ヲ有ス。英二協同精神ノ酒養ハ社 会ノ発展へ国家ノ興隆二対シ重大ナル意義ヲ有スル 第二次拡充計画の中にある「協同精神」、「共存同栄」の言葉は、÷個 人主義思潮二流レタル民衆ノ人格ヲ革新向上」させへ 「国家ノ興隆」 のために一致団結することであり、あくまで国家という一大組織の 利益を意図した、全体主義的な概念として意味づけられている。も ともと産業組合は、その事業の性格上、個性・自由を尊重しながら も、一方で協調や、相互扶助といった組織を優先する思想も基本理 念として抱えている。そのため、「協同精神」、「共存同栄」 といった 思想を、全体主義の論理に当てはめ、改めて組合員に説明すること は、比較的に容易であった。 閤髄弼蓑撞閑閲弱国語感間脳艶聞嬰醒蟹閏閣随喜劉閏画題龍一

顎引。同工圃相聞村日脚。かく考へ来れば詞

団。"劃し産業組合教育と国民教育の目標も亦相一致

するものといはねばならぬ。過去の産業組合運動は資本主義を 母胎として発生し発達して来た、精神的には自由主義個人主義 を背景として共同主義の意義を強調して来た(-)劃ヨ園側

憩イ寸羽村(傍線引用者)

(I-こ (奥原潔「産業組合教育の目標」『産業組合』昭和十三年四月) 時局を背景として、産業組合の提唱してきた 「協同精神」、「共荏 同栄」は、農村大衆を全体主義へと誘引する文脈の中に置き換えら れるのである。 六 「日本的産業組合」の創出-大原幽学の発見 産業組合の思想的転換は、その内容的な変質をもたらしただけで はなかった。既に述べてきたように、日本の産業組合は、ライフア イゼンなどといった西欧にその起源を持つものであり、ドイツやイ ギリスの組合制度を手本としながら、日本の産業組合は成長してき 20

(10)

ていた。しかし、産業組合のあり方において西欧的な個人主義・自 由主義が否定され、加えて英国などに対する敵国意識が高まるよう になると、次の文章に見られるような、今まで正統とされてきた歴 史を見直そうという声が出てきた。 もう日本の産業組合運動も日本らしいものになって好い時期が 到来して居る、今更ロバート・オウエンやロッチデールやライ フアイゼンやシュルツエ・デーリッチでもあるまい (奥原潔「産業組合教育の目標」『産業組合』昭和十三年四月) 一 このような意見も背景となって脚光を浴びることになったのが、 「大原幽学」 の存在であった。大原幽学は、天保十一年(一八四〇) に千葉県香取郡長部村の地において 「先祖株組合」 を結成した人物 である。先祖株組合は、加入者が先祖株として地株代を出し合って、 農地の共同管理を行うものであった。また、幽学は消費組合も作っ たとされ、江戸時代に零細資本の結集による農村協同組合を設立さ せたことで知られていた。その創設年が、ロッチデールやライフア イゼンよりも先であったことから、世界的な産業組合の創始者とし て取り上げられることになったのである。以下は、当時、大原幽学 について最も旺盛な執筆活動を行った、高倉テルの『大原幽学』に 見られる一節である。 長都の「先祖株組合」は、天保九年(一八三八年)に提唱され、 天保十一年(一八四〇年) に成立した。一般にこれまで信用組 合の祖と云われていた、ドイツのライフアイゼンが、初めてワ イヤブツシに 「パン組合」 を作ったのが一八四七年で、次のフ ラマスフェルトの 「貧農救済組合」 が一八四九年、へッデスド ルフの 「慈善組合」が一八五四年、今の 「ライフアイゼン銀行」 の起源であるヘッデスドルフの 「農業中央貸付金庫」 の生れた のが一八七六年だ。また、ロッチデールに 「ロッチデール先駆 者組合」 の名で初めてイギリス消費組合の生れたのが一八四四 年、フランスで、ルイ・ブランによって消費組合運動が提唱さ れたのが、やっと一八四八年の二月革命以後の事であり、ドイ ツのシユルチエがデーリッツに指物屋と靴屋のために原料購買 組合を作ったのが一八四九年だ。 (高倉テル『大原幽学』昭和十四年) 大原幽学が、世界で最初の産業組合を作った人物であるというこ とは、かつて祖とされてきた数々の事例と並べられることで、より (-3) 強調して語られている。当時の産業組合は、幽学の存在を見出すこ とによって、「日本の産業組合」 としての新たな歴史を紡ぎだそうと していたと考えられる。西欧の概念を導入することで発展してきた 産業組合は、思想を転換させることに伴って、その歴史的な認識も 転換していく必要が生じたと思われる。それを象徴するのが、産業 組合の創始者としての、大原幽学の発見であった。

鶉甲州早耳で、最近俄かにでの各

を知かれ出しだ対劇団刊は、既に百四十年前千葉県中和村に産 業組合と同じ制度ともいふべき 「先祖株組合」 を創設し、農業 生産計画から、生活用品の共同購入まで実行したが、この先祖 21

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株組合は非常に理想主義的な組合で、農民の教育に最も力を注 いでゐたやうである。(傍白∵傍輩 (「産業組合教育雑感」『産業組合』昭和十七年六月) 幽学の存在は、この時期になって 「俄かにその名を知られ」 るよ うになったのであり、日本の産業組合の歴史叙述において、突如と して語り出された印象を与えるものであった。幽学が産業組合を創 設したとされる天保十一年から、ちょうど百年目にあたる昭和十五 年 (一九四〇) 以降は、幽学を扱った小説や戯曲などが数多く刊行 (-4) され、産業組合の新たな歴史は人々に享受されていくこととなる。 / 七 おわりに 本論では、産業組合の思想的な潮流を辿り、個人主義・自由主義 に立脚した組織の理念から転向していく経緯を見ていき、その展開 の中で、「協同精神」や 「共存同栄」 といったスローガンが新たな文 脈に置き換えられることで意味的な変質を遂げたことを明らかにし た。その上で、「日本的」な産業組合における象徴的存在として大原 幽学を見出し、新たな歴史を叙述していったということを指摘した。 大原幽学の発見は、日本の産業組合が、独自の思想と体制を持った' 真に 「日本的」 なものとして新たな道を歩んでいく上での'象徴的 な出来事であったと考えられる。産業組合の拡充期の末(昭和十五 年頃) には、産業組合の思想は国粋的な方向に転換しており、その 性質は、国家主義・全体主義的なものへと変容していた。 日本の産業組合は、時局の変化に伴って、初期的展開において基 底となった西欧の理念を没却することを選択し、改めて歴史を語り 直すことが必要となった。そのために新たなイコンの創出を企図し たのであり、それこそが大原幽学であった。「協同組合の世界的創始 者」 として語られる大原幽学は、産業組合における歴史・伝統の再 生産という営為の中で発見された、いわば新生のシンボルだったの である。 《注) (1) 産業組合とは、明治三十三年(一九〇〇) に公布された産業組合法に もとづいて設立された協同組合であり、現在の農業協同組合 (農 協) の前身組織にあたる。その組織展開は、明治末から昭和初期 にかけて活発に行われ、大正九年(一九二〇) に組合数が対市町村数 比にして一一〇%を超え、また昭和十五年 (一九四〇) には農業者 組合員数が全農家戸数と同じ約五六〇万に達し、農村地域における全 戸加入がほぼ実現された。産業組合は、昭和前期までに形成された、 農村社会における一大組織であった。 (2) 『産業組合』は'産業組合の機関誌であり、主な読者は組合の役員及 び組合員であった。明治三十八年十一月に創刊し、昭和十八年九月に 農業団体の統合によって中央会が解消されるまで中断することなく刊 行された。創刊号は三千部であったが、大正未以降は全国に一万五千 部ほどを発行していたとされる。内容は、産業組合論'産業組合運動 輪、産業組合時評に及び、中央・地方の産業組合の動静から農政の動 向へ 海外産業組合事情まで、産業組合全般の情報が掲載されている。 22

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各種協議会・講習会・諸会合などの概況が記録されていることから、 産業組合の内部における動向を詳細に明らかにしていく資料として有 益である。また、本誌は 「収録された記事を追うとおのずとこの国の 産業組合運動史、産業組合中央会史の詳細にふれることができる」 (古 桑、]995) とされ、産業組合の通史を詳しく見ていく上で必携の資料 と位置づけられる。 産業組合は、すでに西欧では広く展開しており、一八四四年にイギリ スで成立したロッチデール公正開拓者組合が世界的な哺矢とされる。 ドイツでは、一八七四年にライフアイゼンが『信用組合論』を書き、 農村における信用組合を提唱した。 産業組合の標語として多用される 「共存同業」 は'大正十年五月大分 市で開催された協議会において決議されたという。(奥谷、○○の①) ド

イツ協同組合の標語である rETNERFUR ALLE ALLE FUR ETNEN (EachforaltaJJtoreach)」を平田京助が意訳したものであるとされる。 設定されると、産業組合のシンボルとして、嫌やバッチに刻印された ほか、産業組合の取扱物品の商標にも用いられた。 志村源太郎(一八六七-一九三〇) は、山梨県南都留郡西桂村に生ま れ、明治二十二年 (一八八九) に東京帝国大学法科を主席で卒業した 後、農商務省に入省。農商務大臣・後藤象二郎の秘書官となり、その 知遇を得て、岩崎弥太郎の姪である直子と結婚した。農商務省工務局 長、日本勧業銀行総裁などを歴任後、明治四十二年(一九〇九).に産 業組合中央会監事に着任し、副会頭を経て大正十一年 (一九二二) に 会頭に就任した。志村の為人について、当時の副会頭であった千石興 太郎は「円満な性格ではあるが、その思想はなかなか進歩的であって、 ときには予期せざるほどの徹底した意見を主張された」 (『志村源太 (6) (7) 郎』) と回顧している。例えば志村は、農商務省の工務局長の時、底 辺に働く女子工員や鉱工業労働者のための保護制度として工場法の制 定に取り組んだほか、日本勧銀時代には、中小産者に低利融資が受け られるように銀行法の改正に尽力したこともあった。 千石興太郎 (一八七四-一九五〇) は、東京府に生まれる。明治二十 八年に札幌農学校農学科を卒業、同二十九年に農商務省農事試験場技 師補佐となり、その役職で熊本・愛媛などに転勤する。後に、農学校 教諭、島根県展会技師兼幹事長を務め、明治三十九年に産業組合中央 会島根支会理事に就任した。それからは長い間'産業組合運動の第一 線で働き'中央会に留まらず組織のほとんど (信用部門以外) の最高 責任者として活接した。中央会の会頭にも二度なっており、第七代会 頭を昭和十四年(一九三九)一月∼五月、第九代会頭を昭和十六年(一 九四一) 四月∼昭和二十年 (一九四五) まで務めた。昭和十三年 (一 九三八) には貴族院議員に勅遷され、翌年には国民精神総動員中央連 盟理事`昭和十六年には大政翼賛会総務などを務め、体制への関わり を強めていった。また、終戦直後に組閣された東久遷宮稔彦内閣にお いては、農林大臣を短期つとめている。 「産業組合主義」 について、千石はその著書『産業組合主義経済組織 の請』(昭和四年) で、「相互協同の経済制度たる産業組合組織を完成 し、其の機能を拡充することに依りて、一般民衆の福利の増進を計り、 生活を安定し、進んで社会の借和協調を実現することを主張するので あって'比の主張を産業組合主義と称」 すると説明している。なお、 本書は 「産業組合運動の目標としての産業組合主義経済組織を平易に 口述したもの」 (例言) であり'組合員に広く読ませるものとして発 行された。 23

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8 志立鉄次郎 (一八六五-一九四六) は'島根県松江市 (一説に東京) に生まれ、明治二十二年に東京帝国大学法科を卒業 (志村とは同窓) した後、日本銀行に勤務した。九州鉄道会社経理局長(明治三十二年)、 住友銀行本店支配人 (明治三十六年)、日本興業銀行総裁 (大正二年) 等の要職を歴任した。また、大正十年には日本勧業銀行参与理事とな り、翌年に産業組合中央会監事、昭和五年に同副会頭'昭和九年に同 会頭に就任しており、同窓の志村と似た経歴を歩むことになる。なお、 鉄次郎の妻は福沢諭吉の娘であるが、長女・多代が岩崎弥太郎の孫で ある木内侶胤と結婚したことで、志村とは遠戚関係となっている。志 立は、昭和二年にスイス∴ンユネーブで開催された国際経済会議本邦 代表委員として出張しており)当時の日本における経済識者の第一人 者であった。 産業粗合には、国から多くの支援政策が施され、所得税、営業収益税 等のあらゆる国税を免除された上に、各種の補助金、助成金も交付さ れていた。この優遇によって地方経済における存在感を増した産業組 合は、地方商業者を圧迫することとなり、結果、反動勢力を生むこと となった。それが反産業組合運動であり、昭和七年に全日本商権擁護 連盟が結成されると、その広まりは全国的な展開を見せる。 その結果の一端を、長野県の事例で示すと、その時の長野県議会義貞 選挙の当選者はほとんどが産業組合関係者であり、「県下四、五十名 の県議中、産業組合の役員に非らざるものは、たった六名にすぎない」 (「長野県下の産業組合に関する調査」商工省、昭和十四年)とい. '〇 状況であったという。 有馬頼寧 (一八八四-一九五七) は'昭和十一年五月、第五代会頭に 就任するが、翌年六月に斉藤実内閣の農林次官に任命されたことに伴 い辞任する。しかし、昭和十四年五月に再び第八代会頭として中央会 の長となっている。近衛文麿内閣の時には、農林大臣を勤め、その側 近として大政翼賛会の設立に関わるなど'政府中枢の一人として政治 的権力を有した。 (12) 奥原潔は、当時の長野県産業組合課長であった人物で、県内では産莱 組合の論客として知られている。『産業組合』にも多数寄稿している ほか、『奥原潔論文集』も編まれるほど、その思想は全国的にも注目 されていた。(『人から見た産業組合』) (1 3) この時期の以前より幽学に関する研究はなされており、明治四十四年 の 『大原幽学』 (千葉県内務部) を始め、致冊の関連書籍も発行され ている。その中でも、昭和九年の飯田伝一『大原幽学の事績』は、文 部省認定を受けた本で、幽学について平易に叙述された最初の一般向 け読本である。その中で強調されるのは、「社会改善の先駆者」 で 「道 徳と経済の調和者」である幽学の、道徳的・経済的な知恵の豊富さと、 その重要性であり'産業組合の創始者という言及はなされていない。 (1 4) この時期に刊行された大原幽学の関係書籍は、藤森成吉『大原幽学』 (戯曲) (昭和十五年)、高倉テル 『大原幽学』(同年)、中和国民学校 『大原幽学言行録』 (昭和十六年)、後藤文夫『大原幽学を語る』(同 年)、千葉県教育会『大原幽学全集 (昭和十八年)、杉田宏二『大原幽 学の生涯』(昭和十九年) など。なお、映画化もされている。 《引用文献) 小松原英太郎 「教育と産業組合し『産業組合』産業組合中央会、19)2.9 志村源太郎「産業組合の使命」『産業組合』産業組合中央会、1925.6 24

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志村源太郎 「産業組合の粕神」『産業組合』産業組合中央会、)925.9 『日本産業組合史』産業組合中央会、)926 志村源太郎 「産業組合学校生徒に対する訓話」 『産業組合』産業組合中央会、 )928.5 志村源太郎 「独立自存の粕神」『家の光』産業組合中央会、)9302 奥谷松治「日本産業組合教育史序説」『産業組合』】①∽?∽ 『志村源太郎-その人と業績-』家の光協会、)970 野本京子 「千石興太郎の 「産業組合主義」 論」『東京外国語大学論集』44、)992 式守公平『人から見た産業組合』高揚書院、】①∽『 産業組合宣伝叢書第十集・千石興太郎『産業組合主義経済組織の話』産業組 合中央会、)929 千石興太郎『反産業組合運動批判』全国農村産業組合協会、〕濠の 高倉テル『大原幽学』京都書院、]939 『産業組合年鑑』(第一∼十五回)、産業組合中央会、)928-1942 『産業組合』(復刻版) 日本経済評論社、)977 『家の光』(復刻版) 不二出版、-①畠∼-①①① 『産業組合中央会史』全国農業協同組合中央会、1988 藤森成吉『大原幽学』筑摩書房、1940 飯田伝一『大原幽学の事績』刀江書院、)934(初版)・)941 (改訂版) 古乗実 「産業組合と『産業組合』誌の誕生」『月刊J>』482号(JA全中、)995) *本稿は、日本学術振興会科学研究費(特別研究員奨励費) による研究成果 の一部である。 - かわち・さとこ/博士課程後期三年 -25

参照

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