16520144
平成
16
年度
平成
19
年度科学研究費補助金
(基盤研究
(
C
)
)研究成果報告書
平成 2 0年 3月
-山山山山川 仙 船 川 山 川 川 川 川 川川川口
│
剛 山 川 川 川川川 山剛山山山剛守 刷 刷 剛 剛 M M 川 川研究代表者
岩 上 は る 子
滋賀大学教育学部教授
? , 山
、
α i η 1・
.
内m i l-v
k
s
ハ 吋 l ' l l n u vブロンテ受容史研究
目 次
1
.明治期のブ、ロンテ姉妹(上) .
.
.
・
H・
.
.
一一シャーロット・プロンテを中心に一一
2
.
明治期のブ、ロンテ姉妹(下)…...・
H・
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・
H・
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H・
-
…
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H・
-
…
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・
H・
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・
H・
-
…
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7
一一水谷不倒「理想佳人Jをめぐって一一
3.水谷不倒「理想佳人Jの研究.
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1
3
一一『ジェイン・エア』の抄訳をめぐって一一
4.
大正・昭和初期のブロンテ姉妹…...・
H・
-
…
…
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・
H・
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・
H・
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・
H・
-
…
H・
H・
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・
H・
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2
2
一一『ジェイン・エア』の受容に向けて一一
5
.
岡田みっと
JaneE
戸.
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3
0
一一研究社英文学叢書について一一
6.
十一谷義三郎とみ
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Y2
・
'e.…………..
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・
H・
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H・
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3
9
一一全訳『ジェイン・エア』の誕生一一
7
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The Bront
谷sinJapan:
…
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…
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5
0
本報告書は、文部科学省により平成
16
年 度 か ら 平 成19
年 度 の4
年 間 に わ た り、基盤研究(
C
)
の 研 究 費 補 助 金 に よ っ て 行 っ た ブ ロ ン テ 受 容 史 研 究 の 成 果 を まとめたものである。 研究の全体像を示すために、研究に着手した2002
年 ( 平 成1
4
)
か ら の 研 究 成 果 に も 新 た に 手 を 加 え て 収 録 し た 。 ま た ブ ロ ン テ 学 会 ( イ ギ リ ス ) の 学 会 誌Bronte S
t
u
d
i
e
s
に掲載された論文も、一般には入手しにくいものとの判断から 収録した。 ( 1 ) 研 究 組 織 研 究 代 表 者交付決定額(配分額)
岩 上 はる子(滋賀大学教育学部教授) 直接経費 間接経費 合計 平成16
年度 平成17
年度 平成18
年度 平成19
年度 総計(2
) 研 究 発 表 <雑誌論文> 1.0
0
0
.
0
0
0
円7
0
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0
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円6
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円6
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0
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円 O円 1.α
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円1
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円3
.
0
8
0
.
0
0
0
円 1.岩上はる子「大正・昭和初期のプロンテ姉妹ー『ジェイン・エア』の受容に向けてJ
研究社『英語青年』、第149
巻第1
0
号、p
p
.
2
2
-
2
6
,48
、2004
2
.
岩上はる子「水谷不倒「理想佳人J
の研究一『ジェイン・エア』の抄訳をめぐってJ
滋賀大学英文学会『滋賀英文学会論集』、第1
2
号、pp
.
40
・56
、2004
3
.
岩上はる子「岡田みっとゐne砂
mー研究社英文学叢書についてJ
滋賀大学英文学会『滋賀英文学会論集』、第13
号、p
p
.
1
-
1
9
、2006
4.
岩上はる子「十一谷義三郎とゐne砂
m
ー全訳『ジェイン・エア』の誕生J 滋賀大学教育学部紀要、第57
号、校正中、2007
<出版物〉
1.岩上はる子 「垂直の時の彼方へー『フランス海軍大尉の女』の謎を追うJ
W
<
私>の境界一二O
世紀イギリス小説にみる主体の所在』鷹書房弓プレス、pp.261
・277
、2007
o
英語青年』第148巻第4号,224・228,2002)明治期のプロンテ姉妹(上)
一一シャーロット・ブロンテを中心に一一 (序) 日本におけるプロンテ紹介はすでに明治20年代初頭に始まり、 『女学雑誌』や『国民之 友』などの雑誌に姉妹の名が散見される。これらの啓蒙雑誌は、それまでの封建時代の中 心的なイデオロギーであった儒教思想に代わる新しい指針を示すべく、欧米の先進的な思 潮や文学の紹介を積極的に行った。 シャーロット・プロンテの名は欧米の主要な女性作家の一人として、しばしばジョージ ・エリオットと並んで挙げられている。だが当時、原書を読めるのはごく限られた数の知 識人に過ぎなかった。欧米の文学作品が一般大衆に読まれるためには翻訳の出版が欠かせ ない。プロンテが広く読まれるようになったのは、 『ジェイン・エア』の完訳が出版され た昭和に入ってからである。 1930<昭和5>年に遠藤寿子訳が改造社から、翌年には十一谷義 三郎訳が新潮社から、いずれも『世界文学全集』の形で出版された。 1932年には『嵐がl
i
J
も大和資雄訳が春陽堂世界名作文庫から出版された。いわゆる「円本時代Jという文学の 大衆化時代が到来し、大量生産方式により当時1冊1円という廉価で売り出された。これ によって日本におけるプロンテの読者は一気に拡大するのである。 実はこれより早く『ジェイン・エア』の翻訳は明治中期に試みられていた。本国イギリ スで 1847年に出版されてから約半世紀後の 1896<明治29>年、国文学者の水谷不倒によって 「理想佳人jの邦題で抄訳が『文書倶楽部』に連載されていたのである。だがこの連載は 4回、 14章で中止になり未完に終わった。その理由はいくつか考えられる。一つには抄訳 という翻訳の方法それ自体の問題もあっただろう。また一つには日本の文壇の状況や読者 の受容の問題も挙げられよう。 本稿では、はじめに『女学雑誌』におけるプロンテの紹介記事、明治の女性たちの文筆 活動をめぐる言説を拾いあげ、明治期における女性の自己表現について考察する。続いて 明治期の翻訳を概観し、若松賎子訳『小公子』の成功を通して当時の読者の意識を探って みたい。また次稿では「理想佳人J翻訳の背景を踏まえ訳文を仔細に検討し、翻訳の問題 点、文体の形成、小説という新ジャンルの確立の問題などを絡めながら、明治期のプロン テ受容について考察する。 (一)r
女学雑誌』におけるプロンテ 日本の近代文学の成立に対し、西欧文学の与えた影響は計り知れないものがある。むし ろ西欧文学の移入なしに、近代文学とりわけ小説の誕生はありえなかったと言うべきであ ろう。明治以前には戯作と呼ばれる庶民の娯楽物語はあったが、近代的な意味での小説は 存在しなかった。英語の novelに対して「小説Jの訳語を与えたのは坪内遁遁である。 1885 〈明治18>年、日本における最初の小説理論となる『小説神髄』が発表された。これはイギ リスでウォルター・ベザントが1万eArt 01Fictionと(1884)と題した講演録を発表し、それ に対してへンリー・ジェイムズが反論を加え、小説の理論や技法をめぐる議論の口火が切 られた時期である。遁遁は自著の上巻において、馬琴などの儒教道徳に基づく勧善懲悪の 物語を厳しく批判し、 「小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐJとして、人情すな わち「人間内部の模写(写実) J を主張した。それまでは「単に市中の出来事や話題を記 述するための散文体の文章Jとしづ意味にすぎなかった「小説Jに対して、 「作家の想像 力・構想力に基づき、人間性や社会の姿などを登場人物の心理・性格・筋の発展などを通 して表現した散文体の文学j として、新しい生命を与えたのである。 遣準の小説論の上梓とともに、一般大衆向けの新聞・雑誌に「小説」が姿を現し始める。続々と登場した雑誌の先鞭を着けたのが、女性向けの啓蒙誌『女学雑誌』であった。これ は巌本善治を主幹として、
1
8
8
5
<
明治1
8
>
年7
月に前誌『女学新誌』から独立発展したもので、1
9
0
4
<
明治3
7
>
年に廃刊になるまでのおよそ1
8
年半のあいだに合計5
2
6
冊を発行した。その創 刊号(18
8
5
年7
月2
0
日、以下8
5
.
7
.
2
0
と表記する)には、発刊の主旨が「専ら婦女改良の事に勉 め蒋ふ所は欧米の女権と者同従来の女徳とを合わせて完全の模範を作り為さんとするに在 りJ (旧漢字は常用漢字に改めた。以下同様)と述べている。w
女学雑誌』の中心的な理 念がキリスト教に立脚していたことは大きな意味をもっ。神の前に人はみな平等であると いう思想が、長らく女性たちを苦しめてきた男尊女卑の思想から彼女たちを解放する思想 的基盤となった。w
女学雑誌』が取り上げたテーマは結婚、育児、出産、家事、家政など の家庭問題から、廃娼運動、禁酒運動といった社会運動、婦人参政権、女子教育などの婦 人問題、外国事情、文学や欧米の新しい思想の紹介など多岐にわたっていた。その目指す ところは、家制度に縛られてきた日本の女性たちに、欧米の先進的な思想や自立した女性 たちの社会活動を紹介することによって、明治の女性たちに新しいモデルを提示すること にあった。 女性の啓蒙は文明開化の一つの象徴であり、 『女学雑誌』が女性の文筆活動に早くから 肯定的な姿勢を明らかにしていた理由もそこにあった。r
女子と小説J と題した社説が2
7
号(
8
6
.
6
.
2
5
)
、2
9
号(
8
6
.
7
.
1
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)
、3
2
号(
8
6
.
8
.
1
5
)
の 3回にわたって連載され、女性にとっ て小説の創作がし、かに適しているかを論じ、また日本における女性作家の出現を待望して いる。こうした文脈の中で、欧米の女性作家の紹介が積極的に行われたのである。以下で は1
8
8
5
<
明治1
8
>
年から1
8
8
9<明治2
2
>
年までのプロンテ関連記事を中心に見てみたい。 『女学雑誌』でプロンテ姉妹の名前が最初に見られるのは、3
2
号(
8
6
.
8
.l5
)
における「叢 話」の欄である。r
女子の投票権J と題されたその記事は、日本ではまだ話題となってい ない婦人参政権に関する欧米での議論をいち早く紹介している。反対論としてNineteenth Centuryに掲載されたチャップマン夫人の意見を要約した後、それに対する反論として婦人 参政権運動の指導者ミリセント・フォーセット夫人の意見を載せている。フォーセット夫 人は、1
7
9
2
年に女権の主張がなされた〔メアリ・ウルストンクラフトの『女性の権利の擁 護』の出版のこと〕からこそ、その1世紀後に優れた女性作家を輩出するに至ったのだと 主張し、例としてオースティン、プロンテ姉妹、プラウニング夫人、ジョージ・エリオッ トの名を挙げている。プロンテ姉妹に対するこの評価と位置づけは、 『女学雑誌』におけ る後の紹介記事の基調となっていく。 シャーロット・プロンテの名前が現れるのは、3
7
号(
8
6
.
1
0
.
5
)
の九、へのともJと題され た読者欄である。r
文学者坪内雄蔵〔誼遁〕君が小説の改良を促すと題して御論ありしう ちゼヲヂェy
ヲット女史(英国現存の大家)の事相見へ候が右は知何なる人に候や'尚箕芥女 に有名の小説家もす芝うぽ等窄障草遠循磐を仰ぐJという読者の質問に対し、回答者は次 のように答えている。 有名の女小説家は前号にも相掲げ候が先づミツセス、ブローニング。ミツセス、ピーチ ェルストウ。ミツセス、ヲリファント。ハンナ、モウル。チャーロッテ、プロンテ。ゼ ヲヂ、サンド等の諸子と記臆致候 ここで言及されている前号とは、上に述べた3
2
号の社説「女子と小説J (下)および叢話 と思われる。だが、そこにシャーロットの名前は見あたらない。 この3
7
号には別の読者からの次のような質問も寄せられている。r
私娘長の病気や=快 方に赴き候より医師の御す=めにより少しづ=慰みの小説など読ませたく存候娘によませ て差支なく且面白き小説は知何ゃうの者に候やJそれに対する回答が3
9
号(
8
6
.l0
.
2
5
)
と4
0
号(
8
6
.ll.5)に掲載された。3
9
号の回答者は、後に『女学雑誌』主幹の巌本と結婚し、フ ランシス・パーネットのLittleLord Fauntleroy(邦題『小公子~ )の翻訳で知られるように なる若松媛字(18
ω
・9
6
)
である。彼女は自分の読書経験から1
1
名の小説家と2
9
点の作品、および 6巻からなる古典文学全集と恩われる書名を揚げている。そこにジョージ・エリオ ットの名はあるが、シャーロットの名はない。 40号の回答者は木村ゅうである。彼女は英 字新聞の投書記事にあった
1
0
0
点の小説の題名を原題で列挙している。そこにlaneEyreの書 名が含まれている。ちなみにめぼしい女性作家の作品では、ジョージ・エリオットのAdamBede, Middlemarch, The Mill on theFloss、ジェイン・オースティンのPrideand Prり,iudice,Sense
and Sensibili砂、ストウ夫人の UncleTom's Cabinの書名が並んでいる。 翌月の
4
3
号(
8
6
.
1
2
5
)
の社説にシャーロットの名前がふたたび登場する。r
女子の参政 及高等教育J と題されたその社説は、 「東京インディベンデント紙J編集長のイーストレ ーキの賛成論と、反対意見としてへーリング医師の見解を紹介し、筆者自身は参政権につ いては立場を保留しながらも、女子の高等教育を禁じるのは間違いであり、大学も女子の 入学を認めるべきであると主張している。なぜなら「例へば妻となり母となるとも尚ほ高 等の教育を受るを良とす演やハンナモアとなり、ミスパー争ーとなり、ミセスマコーレー となり、マダムダシーアとなり、マダムラーフエットとなり、チャーロッテプロンテ、ピー チェルストウェ、ゼヲヂエリヲツトの流亜たらんとするに於てをやJと、その理由を述べ ている。すなわち女子に高等教育を授けることは妻・母となることへの障害にはならず、 むしろ西洋の女性作家が日本にも誕生するかもしれないという主旨である。あくまで女性 の性役割に抵触しない限りにおいて執筆活動は奨励されるものであって、女性の自己表現 としての創作という視点ではない その後も女性の文筆活動を奨励する記事がつづく。7
9
号(
8
7
.10
.
8
)
の社説「女子と文筆 の業Jは、文筆業が婦女子に適していると述べ、紫式部や清少納言らと共に西欧女性作家 の一人としてシャーロットの名を挙げている。他に、ここで新たに加えられた女性作家は アン・ラドクリッフ、メアリ・ウルストンクラフト、ハリエット・マーティノウなどであ る。筆者は、 「蓋し吾人は家族を以て婦人の管轄領と為せども家屋を以て女子の境界を限 ぎるものにあらずJ として、女を家に閉じ込めるつもりはないと述べる一方で、男子に伍 して働くことは容易でないので、女子にとって最適の仕事は文筆であると主張する。西洋 では女性が工場で働いたり、賃金の不平等を同盟して訴えたり、投票権を要求するという 社会運動がある現実を認めながらも、日本女性には家事と両立しうる仕事として文筆業を 推奨しているのである。 『女学雑誌』は発行所が万春堂から女学雑誌社に代わった1
1
号(
8
5
.
1
2
.
2
0
)
以来「佳伝j 欄を設け、古今東西を問わず後世に良き感化を与え道徳上の手本となる、と思われる有名 無名の女性の伝記を紹介した。 77号(
8
7
及2
4
)
の佳伝欄は「女丈夫Jの意味を「女にして丈 夫の知くなるを云えるなり Jと説明し、さらに「世に生れ出づる男女の数すでにして同じ からずして寡婦、独女の数反って無妻の男子より多きを見れば世上の婦女必ずしも皆な家 を修め子を育つるの義務あるものにあらずJ と男女数の不均衡という現実を認識し、女性 の活動の場を家庭だけに限定できないとしている。日本においてもイギリスと同じように 「余った女Jの問題が存在していたのである。筆者は女丈夫が輩出することを望むもので はないが、 1つには女性を軽んずる男子への戒めに、 2つには女性に奮起を促すためとし て、西洋の古今の女丈夫の例を挙げている。 この「佳伝J欄で、ジョージ・エリオットが取り上げられた。1
0
9
号(
8
8
.
5
.
1
2
)
の冒頭で、 著者の平野はま子はウォルター・スコット以降の作家で後世に残る作家としてウィリアム ・サッカレー、チャールズ・ディケンズ、ジョージ・エリオットの 3名を挙げている。シ ャーロット・プロンテの名前が見られるのは1
1
0
号(
8
8
5
.
1
9
)
で、ジョージ・エリオットの 慎重な創作態度について「宛もチャロッテ、プロンテ夫人の如く J と引き合いに出されて いる。だがエリオットの洞察に富んだ細密でリアリティのある人物描写は「彼の性急事を 叙するに周密ならざるプロンテ夫人の得て及ぶ所に非ず」と、プロンテへの評価は低い。 平野がエリオットを評価する理由は、一つには当時の市民生活を描き出しているその写実 性にあり、また一つには人間としての義務の重要性と倫理的な選択の重要性を説いたその 道徳性にあった。『女学雑誌』におけるブロンテへの言及は他にも見られる。特に重要なものとしては
1
0
8
号(
8
8
.
5
.5)の社説「理想之佳人J (第五)における『ジェイン・エア』のヒロイン像につ いての議論である。これは次回、水谷不倒訳「理想佳人Jを論じる際に詳しく紹介したい。 また1
5
2
号(
8
9
.3.
9
)
の叢話「女小説家Jは、昨今の女作者の出現は喜ばしいことながら、 その作品は稚拙で執筆の動機も安易である。にも拘わらず女ゆえの珍しさからもてはやさ れ、かつて英国では「彼のハルリエットマルチノウ、カーラーベル、ミセスガスケルなど の作の知何に厳しく取扱はれたるかを恩はるべしJ と苦言を呈している。1
7
3
号(
8
9
.
8
.
3
)
の 雑録「家族と(の)幸福Jは、さらに興味深い議論を含んでいる。筆者は若松賎子で、1
7
1
号(
8
9
.
7
.
2
0
)
の巌本による社説「犠牲献身Jにおける「ホームには幸福を求めるよりも道 の為に働くことを目的とせよJ としづ意見に疑問を呈している。この時すでに巌本と結婚 していた若松は、ジェイン・エアが伝道に身を献げようとするリパースに対して「只だ其 の道に犠牲し身を捧げて善を成すとの一事を以ては身を許しがたくJ罪を犯し今は失明し た弱点の多いロチェスターに心惹かれたのは人の真情であるとして評判を得たことを挙げ ている。 以上、1
8
8
9
<
明治22>
年までのプロンテ紹介の状況を『女学雑誌』に追ってみた。この段 階ではエミリの名前はなく、シャーロットも欧米女性作家の一人として名前を連ねている 程度で、伝記や作品についての具体的な情報はほとんど見られない。評価もまだ欧米のそ れを紹介したもので、本格的な研究がなされるには9
0
年代を待たねばならない。 女性の啓蒙を目指した『女学雑誌』が根底に父親温情主義的なスタンスをもち、大きく は良妻賢母という国家的なイデオロギーの中に位置づけられていたとしても、当時まだ女 性作家が存在しなかった日本において、いち早く欧米における職業的な女性作家の存在を 知らせたことの意義は極めて大きい。これによって、小説の読み手として、また書き手と しての女性の存在が、初めて明治の日本に出現することになるのである。 (二)明治期の翻訳 『ジェイン・エア』の翻訳の検討に入る前に、明治期の翻訳の状況について概観したい。 明治初期に翻訳のベストセラーになったのは、維新からわずか3
年後の1
8
7
1
<
明治4>
年に翻 訳出版された『西国立志編J
(Samuel Smiles,S
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and
C
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d
u
c
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,1
8
5
8
)
であった。これは当時としては驚異的な100万部を売り尽くし、新しい時代 における生き方の指針を求めていた明治の若者たちのパイプル的な存在になった。訳者の 中村敬宇(正直)はスマイルズの作品をこの他に2点、および『自由之理J
(J.S. Mi11,OnL
i
b
e
r
t
y
,1
8
5
9
)
を訳出している。この時期に翻訳された作家は、他にスベンサー、エマソン、 ノレソ一、パニヤンなどで、哲学、社会科学、自然科学、宗教書といった明治の人々の近代 意識を啓発する書物が歓迎されたのである。 小説の翻訳が始まるのは1
8
7
0
年代の後半からで、今日では文学的評価が必ずしも高いと は言えないブルワー・リットンやベンジャミン・ディズレーリの小説が人気を博した。リ ットンではE
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を含む1
4
点が、ディズレイリで はC
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などの5点が次々と翻訳された。これらは政治家による小説であった ことから「政治小説Jと呼ばれ、明治1
0
年代の自由民権運動の高まり、国会開設を控えた 政治熱、政治が一般国民に身近なものになったことなどを背景に、一般読者に広く読まれ た。彼らについで多く訳されたのは、スコット シェイクスピア、ユーゴ一、デュマ、ジ ュール・ヴェルヌ、セルパンテスなどであった。小説に馴染みのなかった当時の日本人に とって、娯楽的な異国の読み物が興味を引し、たのである。 女性作家の翻訳はさらに遅れた。すでに見たように、欧米の女性作家の紹介は1
8
8
5
く明治1
8
>
年頃から雑誌などで行われていたが、翻訳が出たのは遅くその数も少ない。フランシス ・パーネットの『小公子J
(Francis Bumett,L
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、マライア・エッジ ワースの「千人会J(Maria Edgeworth,原題不明)、ピーチャー・ストウの 『トムの茅屋』 (Beacher Stowe,U
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、ジョージ・エリオットの『アダム・ピヰド』(G回>rgeEliot
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Adam Bede,
1859)など数えるほどしかない。だが若松賎子による『小公子』 は、 1892く明治25>年に出版されるとたちまち評判となり、大正時代には 100刷を越えるベス トセラーになった。閉じように雑誌の連載から始まった『ジェイン・エア』が読者の反応 が鈍く、連載4回で中止せざるを得なかったのとは対照的に、 『小公子』は最初の6回分 だけで前編として単行本となる人気であった。何がこの違いを生んだのか。w
小公子』の 受容を検討することは、日本の近代読者の意識について考える上で重要な手がかりとなる。 『小公子』は『女学雑誌J
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1890<明治23>年7月から 1892<明治25>年5月まで45回にわた って連載された。翻訳の完全版の出版は彼女の死後の 1897<明30>年であった。本国アメリ カで 1886<明19>年に出版されたLittleLord Fauntleroyを、若松はわずか4年後に翻訳してい る。彼女がこれを選んだ理由はアメリカでの人気というより、純真な主人公の少年が頑な 祖父の心を聞かせたそのヒューマニズ、ムの物語に心打たれたからであった。訳者は次のよ うな主旨の序文を載せている。 心なき人こそ、幼子を目し、生ひ立ちて人となるまでは真に数に足らぬ無益の邪魔者の 様に申しませうが、幼子は世に生まれたる其日とは言はず、其前父母がいついつにはと、 待設ける時分から、はや自から天職を備へて居りまして、決して不完全な端た物では御 座りません。されば私どもが濁世の選花、家瑳の実便とも推すべき彼の幼子の天職は、 いとも軽からぬことで御座ります。・…・・婦這に陥らうとする父の足をとばめ、卑屈に流 れ行く母の心に高潔の徳を思ひ起させるのは、神聖なるミッションを担ひたる可愛の幼 子に限るので、是に代って其任を果すものは他に何も有りません。 封建的な家制度しかなかった当時の日本に、子供や家庭という概念は存在しなかった。 家庭という言葉は英語のホームに充てられた新語である。先に紹介した『女学雑誌J
79号 (87.10.8)の社説「女子と文筆の業Jでは、家庭(ホーム)と家屋(ハウス)を区別する ためにルピをふっている。r
家J とは夫婦が協力して作り上げる家庭ではなく、男性戸主 を中心とした家父長制の下で運営される血縁者の共同体である。妻は結婚によって夫の家 に入札その支配下に置かれる。財産の管理も子の親権も父親にあり、妻は法的には何の 力もなく、女性は男性に絶対服従であった。明治になっても、江戸時代以来の「家J制度 は一般家庭においては続いていた。このように、夫婦・親子を中心にした生活というイメ ージのなかった 19世紀末の日本に、若松は『小公子』の翻訳を通じて西洋的な個人の家庭 生活とキリスト教的倫理観を紹介したのである。そしてそれが広く読まれ受け入れられた ことは、一方で当時の読者の意識が変化しつつあったことの顕れとも言えるであろう。 すでに見たように、明治20年代には婦人をターゲットとした雑誌が次々と発刊された。 そこでは女性の趣味や家事などの関心事と並んで、家庭を主題とした記事が頻繁に掲載さ れている。r
家庭Jr
ホームJというタームを用いて、家庭の団禦や夫婦・親子のあいだ の細やかな愛情を強調し、 「家庭」を理想の場として高く評価するディスクールが現れる のである。さらに 19世紀末から20世紀初頭にかけては、 「家庭Jというコンセプトは家庭 小説と呼ばれる通俗的な読み物を通じて、より下の階層へも普及・浸透した。その例とし て尾崎紅葉の『金色夜文.B (r読売新聞J 明治30年)や、徳富蓮花の『不如帰~ (r国民 新聞j明治31年)などが挙げられるが、代表作は明治32年から33年にかけて f大阪毎日j に連載された菊地幽芳の『己が罪』である。 家庭小説は、多くは封建的な家族関係のひずみの中に苦悩する女性を主人公とし、キリ スト教的あるいは儒教的思想を借りながら、愛情の勝利を描くというプロットをとってい る。ハッピー・エンドにしろ悲劇に終わるにしろ、ストーリーの底流には、夫婦の相愛や 家族の愛情が望ましい価値であり、女性はそうした価値を実現するために努力・献身する ことで幸福が得られるというメッセージがあった。家庭小説の目標について、菊池は『乳 兄弟J
(明37、春陽堂)のはしがきで、次のように述べている。r
今の一般の小説よりは 最少し通俗に、最少し気取らない、そして趣味のある上品なものを載せて見たい。一家団嘆のむしろの中で読れて、誰にも解し易く、また顔を赤らめ合ふといふような事もなく、 家庭の和楽に資し、趣味を助長し得るようなものを作ってみたいものであると考えて居ま したJ~o 愛情溢れる理想の家庭像を求める時代風潮の中にあって、明るく誰からも愛さ れる少年セドリックがその純真さで祖父の愛を得る善意の物語は、明治読者にとって受け 入れやすいものであっただろう。 『小公子』が広く読まれたもう一つの理由はその訳文にあった。若松はそれまで小説の 言語として一般的であった文語体ではなく、一般市民が日常生活で用いる平易な口語体を 用いた。二葉亭四迷が『浮雲~ 0887-89)において初めて実践した「言文一致体Jを、 『小 公子』はいち早く採用したのである。会話も地の文に組み入れる従来の方法ではなく、各 人物の個性が表れる言葉使いが工夫されていた。小説の中の登場人物たちが読者市民と同 じ言葉を使っていることが、翻訳物の『小公子』の世界を読者に身近なものに感じさせた ことだろう。それまでの日本には、普通の庶民の生活に取材し、庶民の感情を庶民の言葉 で描いた小説というものは存在しなかったのである。 当時の専門家たちの評価も高かった。坪内遣準は『小公子』のような「純潔無垢な良小 説Jを選んだ『女学雑誌jの見識を称えた上で、訳文が平易で流暢であること、会話の訳 し方が巧みであることを『早稲田文学』第4号(明治24.11)において称賛した。英文学者で 人気翻訳家でもあった森田,思軒も、その訳文について「之を原文に惨じ考るに敢えて一字 を増さず一字を損せずただ忠誠に謹勅に原文を模せるなりJとその轍密さに感服し、 「世 間の謂ゆる言文一致体に由る者にして余が心より服せるもの唯た「浮雲jありしのみ今日 此書を獲てことなれり J (W報知新聞』明治24.11)と絶賛した。 W小公子』の翻訳が原文 に忠実であることが評価された背景には、それまでの翻訳が抄訳と呼ばれる方法を取るこ とが多かった事情がある。初期の翻訳には読者の興味に訴えることを優先して、あらすじ の紹介に力点をおき、原文を大幅に省略したものもあった。時には翻案、さらには豪傑訳 と呼ばれるように、原作が大胆に脚色されて、まるで別の作品となってしまうような場合 さえあったのである。二葉亭四迷が「余が翻訳の標準Jと題したエッセイにおいて、作家 によって文体が異なることを最初に指摘したのは1906く明治39>年であり、それまでは文体 の概念さえなかったとも言える。こうした状態から出発しながらも、明治の日本は急速に 翻訳技術を発展させ、明治30、40年代には翻訳文学の隆盛期を迎えるのである。
q英語青年』第148巻第s.Jき,30牛308,2002)
明治期のプロンテ姉妹(下)
一一水谷不倒「理想佳人j をめぐって一一 (一)翻訳の背景 『ジェイン・エア』の抄訳は「理想佳人Jの邦題で、 1896<明治29>年 7月から 11月にわ たって『文芸倶楽部』第 2巻第8、11、12、14編において連載された。訳者は水谷不倒(本 名、弓彦)である。水谷は 1858<安政5>年に、国学者・水谷民彦の子に生まれた。 1888<明 治21>年、 30歳で東京専門学校(早稲田大学の前身)に入学し、翌年、文学科に移籍して第 1回卒業生となった。在学中は坪内遁遁の下で近松を研究し、卒業後は金子馬治らと共に 『早稲田文学』の編集に携わる一方、小説や江戸文学関連の論文を発表した。r
理想佳人J はこの時期の仕事で、不倒は当時38歳であった。 1899<明治32>年から大毎日新聞社で文芸 部副部長として編集を担当したが、 47歳で退社した後は近世文学研究者として著述生活に 入った。 今日では水谷不倒は近世文学、なかでも浄瑠璃の研究者として知られている。その彼が 『ジェイン・エア』を翻訳したのは一見奇妙に思われるが、誼遁の門下生であったこと、 当時の不倒は新進の小説家であったことからそれほど意外ではない。前号で述べたように プロンテ姉妹の名は早くから知られ、明治25年以降になると『早稲田文学J
W国民之友』 などが評伝や評価を詳しく紹介していた。若松賎子訳『小公子J
(明治25年)の成功も『ジ ェイン・エア』翻訳の一つの原動力となったであろう。 ところが「理想佳人Jの連載はわずか4回で中止になった。理由は翻訳それ自体の問題、 小説に馴染みのなかった当時の読者の受容の問題など様々に考えられよう。本稿では「理 想佳人Jの訳文を検討し、翻訳によって何が失われたのか、その原因はどこにあるのか、 さらに文化史的な背景から受容の問題を議論したい。これは近代日本文学における文体の 問題、小説という新ジャンルの確立の問題とも重なり合うのである。 「理想佳人Jの第1回目には序文とシャーロット・プロンテの小伝が掲載された。序文 の日付が翻訳発表 2年前の明治27年7月になっていることから、不倒は遅くも 1894<明治27> 年初頭には翻訳に着手していたと考えられる。序文において、不倒は「理想佳人Jの邦題 を用いた理由を次のように説明している。 此書原名を『ジェーン、エール』といふ、シャーロットプロンテが傑作なり、其『理想 佳人』と題したるは、形も美、心も善なる完全の淑女といふ義にあらず、蓋し編中の副 主人公ロチェスタルが所謂理想の佳人、即ち気質、好尚等の適合する資格の淑女といふ に採れり、ロチェスタル嘗て欧州大陸を経巡り、理想の佳人 Odea11拘r)を求むること十 年一日の如し、然るに彼は大陸に得ずして、たまたま我家の筒語話に発見す、是ジェー ン、エール其人なり、そもそもプロンテは理想派の作家にして、またロチェスタルの 意味にて、ジェーン、エールを理想の佳人と認めたること疑なし、故に『ジェーン、エ ール』の原名を『理想の佳人』とは題したるなり。(旧漢字は常用漢字に改め、ルピは 最小限に留めた。) 佳人は美人の意味ではなく、ロチェスターが探し求めていた理想の女性という意味であり、 またプロンテが理想派【ロマン派の意】の作家であったことも合わせて、 「理想佳人J と 題したという主旨である。原題『ジェイン・エア』を「理想佳人Jとあえて'翻訳'した中に は、訳者の解釈が反映されていると考えられる。だがジェイン・エアを理想の女性と捉え ることで、作品の視点は彼女を選んだロチェスターに移行し、ジェインを主人公とした恋 愛物語の重心が微妙にずれてしまう。ジェインはロチェスターが示す男性による理想の女 性像に反発し、男性の庇護を脱し自由を選び取る女性である。男性の価値観が反映された「理想佳人Jのタイトルからは『ジェイン・エア』本来が持つ女性による主体的な愛の物 語というメッセージは伝わりにくいのである。 「理想佳人J とし、う語は不倒の造語ではない。不倒訳を遡る 8年ほど前から「佳人」とい う語は、この時代の一つの流行語になっていた。その発端は、 1885く明治 18>年から 1897<明 治30>年にかけて刊行された東海散士の『佳人之奇遇』と恩われる。
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女学雑誌』は第99号 (1888年3月3日、以下88.3.3と略記)で散士の『東洋之佳人J
(88.1)を批評欄で取り上げたの を皮切りに、その後、社説で「理想之佳人Jr
理想之紳士」を連載し、明治期における新 しい女性像や男性像を論じ、文明国における理想的な男女のあり方として男女同権にまで 議論を進めている。 第108号 (88.5.5)の社説は「美人必ずしも佳人に非ずJと述べ、容貌の美しさではなく「心 志高潔、愛情濃密なる佳人Jこそ愛すべきものであると主張している。作家はそうした真 の「佳人Jを造形すべきであり、 「ジェーン、アイルの一小説、余り美しからぬ佳人を以 て立物と為すは、真に是れ非常の卓見にである也j と賞賛している。明治20年代のキーワ ード「理想佳人Jを、不倒が自身の翻訳の邦題に用いたのは、一つにはこうした時代背景 があったのである。 序文に続く 7ページほどの「シャーロット、プロンテ小樽Jは、ギャスケル夫人の『シ ャーロット・プロンテ伝J
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185η
に依ったと 思われる。同書はすでに文芸雑誌「少年文庫J第10巻 第3号 (93.10)に掲載された「小説世 界J中の「シャーロット、プロンテ女史Jのソースとなっている。筆者の山豚五十雄は作 品の詳しい梗概、評価、さらにシャーロットとロチェスターの再会の場面を感動的に訳出 している。不倒がこの記事を読んだ可能性は考えられる。 不倒は自らの「小伝Jに他にいくつかの伝記事項を付け加え、さらに『ジェーン、エー ル』に関する批評家の評価として次のような要約を載せている。 女史[シャーロット】が心理的観察はジョージ、エリオットに比すペく、市かもエリオ ットは分析的にして、シャーロットは直覚的なり、また超自然を利用したる小説家とし ては、ヲルタル、スコットと女史とは実に其代表者なりき、・…・・彼[シャーロット】に とりては前兆、夢、幻影をはじめとして反響する足音、楓々の風声に至るまで皆活たる 力なり、彼故に日く『我等が知る所によれば、所謂徴候は自然が人間に示す同情に外な らず』・・・結局に至りて此二人の居る所は、E
に数里を隔てたりしにも拘はらず、ロ チェスタルが『ジェーンよ、ジェーンよ、ジェーンよJ、と呼びし三声は、不思議にも 「待ち玉へ、やがて参り侍らん、何処に在すにやJ、といふジェーンが答に呼応しき、 要するにプロンテは真に超自然の作用を信じたりしならん、吾人はスコットの詩歌的想 像を美とすると同時にプロンテが想像強く鋭きを称ぜざるを得ず云々。 この批評が誰によるものかは不明である。だが、この文章はすでに別のところで紹介され ていた。r
早稲田文学』第26号 (92.10.30)r
時文批評」欄の「小説に於ける二勢力J とい う無署名の記事の中である。これは前書きから外国雑誌の論文の抄訳と思われるが、訳者 の名は記されていない。これが不倒によるものとは考えられないだろうか。不倒が『早稲 田文学』の編集委員になったのは卒業した 1893(明26)年とされているが、在学中に師の雑誌 に関わった可能性がないとは言えない。たとえ無署名の記事でも、他人の文章を自らの翻 訳の前書きに無断で借用することは考えにくいのである。この推測が正しければ、不倒は 翻訳を発表するおよそ4年以上前から『ジェイン・エア』に関わっていたことになる。 (二)翻訳の検証 「理想佳人Jは原作の 14章までを掲載している。オックスフォード版で 170ページのもの が、不倒訳では73ページに圧縮されている。全38章579ページの大作を全訳することは初め から不倒の念頭にはなかったらしく、抄訳を織り交ぜながら物語のあらすじを紹介する方法が採られている。 『ジェイン・エア』は10歳の主人公ジェインが冷たい雨の降る戸外を見つめている場面 で始まる。ジェインは叔母リード夫人と子供たちの団無から一人閉め出されるが、なぜ自 分だけが疎んじられるのかわからない。原作では4パラグラフにわたる書き出しを、不倒は 次の 3つの文章で要約している。 其日は散歩も最早出来かたく思はれけり、されと朝のうちは衆々と一時間も枯野を遊行 しが、午餐過ぐる頃より、空曇りて風寒く、雨さへ降出したれば、問ふまでもなく戸外の 運動は止みぬ。嬉しや、我はあまり散歩の長きを好まず、殊に寒き日の夕暮近く、手足 の指は凍えて落んばかりなるに、家に帰れば従兄姉のエリザ、ジョン、ジョージアナな ど、我身体の虚弱を侮り、乳母なるベッシイまでが、好きこと〉として叱り、我一人虐待 らる〉かと恩へば、悲しさいはんばかりなり。エリザ、ジョン、ジョージアナは、今客間 に在りて、母親の傍らに集り、いと楽げに遊べる様子なれど、我ばかりは其仲間へ伴は れず、伯母のいふを聞けば、我と一所に置かれぬ訳あり、そは我の執劫なるが故なり、 もし小児らしく素直に、愛想をよくすれは兎も角、燃らざれば我を彼等とは遊ばせかた しとなり。 ジェインの1人称は「我」と訳され、 「ぬ、けり、なり J といった文語体の文末表現が用 いられている。
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虚弱Jr
虐待Jr
執劫Jといった抽象的な漢語には、その意味を示す口 語的なルピがふられている。序文で「成るべく訳文の解し易からんことを欲して有来の普 通文体を採用したJ と述べていたように、 『花柳春話J
(8叫W釘 L戸to,
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Emest Maltraversと Aliceの邦訳)などの片仮名混じりの漢文直訳体に比べれば読みやすい文体と言えよう。だ が、すでに 1887<明治20>年に二葉亭四迷が実践し、若松賎子も『小公子』の翻訳で取り入 れていた言文一致体を、不倒は採用しなかった。 冒頭の風景描写は、原文では"sin,関dinn,ぽ…thecold win町 windhad brought with it clouds sosombre
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and a rain so penetra白19,
that furth釘 outdoorexercise was now out ofthe question"となっ ている。 'sombre'は単に空が暗いというだけでなくジェインの心が暗く陰惨であること、 'penetra白19'は冷たい刺すような雨によって、孤独なジェインを取り巻く状況の厳しさを暗示 している。荒涼とした 11月の戸外の風景は、それを見つめるジェインの暗く閉ざされた心 の風景でもある。それが不倒訳では「空雲りて風寒く、雨さえ降り出しJとあっさりした 訳になっている。 またジェインと叔母の対話が不倒訳では地の文に組み入れられている。そのことで叔母 の語り口が感じさせる冷たく偽善的な人物像が薄らいでいる。その一方、原文では夫人は 直接話法でありながら自分を 'she'として、その判断の客観性と正当性を暗示しているとこ ろを、不倒は「伯母のいふを聞けばJという挿入句によって、ジェインが伯母の偽善を見 抜いていることを巧みに反映させている。 この後、ジェインは窓際に座りカーテンの陰に隠れ、本を膝に窓の外に眼をやる。 Folds of scarlet dra戸 町shutin my view to the right hand; to the left were the clear p祖 国ofglass,
protecting,
but not separa也19me企omthe drear November day. At interva1s,
while turning over the leaves of my book,
1 studied the出pectof that winter aft町noon.Mar,
it offered a pa1e blank ofmist and cloud; near
,
a scene of wet lawn and storm-beat shrub,
wi曲 ceaselessrain sw民pmg away wild1y before a long and lamentable blast.外には、伯母に叱られたジェインの内面と呼応する寒々しい陰気な風景が広がっている。 だがそれ以上に印象深いのはジェインの視点である。荒涼とした風景を見つめる、孤立し た主人公の存在そのものである。不倒の要約を見てみよう。
右方は真紅の織物我姿を隠し、左方は十一月の寒気を防ぐには由なけれど、清らなる 硝子板は我身体を支へぬ、少時書物を反転つ〉窓外を見やれば、風はますます猛に荒れ て雨瞬時も止まず、いと物凄しき景色なりけり。 ジェインの眼が捉えた遠近感はすっかり消え、風景描写も、それを見つめる人聞が誰であ っても大差のない、没個性的な描写になっている。こうした漢文調の型にはまった常套的 な表現では、その風景を見つめるジェイン・エアという個人の眼が感じられないのである。 第1章で不倒が力点をおいたのはジェインとジョンの衝突の場面である。身体も大きく 一家の暴君であるジョンに対して、誰の庇護も期待できない貧弱な体躯のジェインが抱く 恐怖感を、不倒は原作を単に逐語的に訳すだけではなく解釈を加えて訳出している。 John had not much afI田tionfor his moth町 佃dsisters, and an antipathy for me. He bullied佃 d punished me: not twひor白r民 timesin出ewee,knor once or twice in出eday, but continually:
every nerve 1 had feared him, and every morsel off1esh on my bones shrank when he came near.
ジョンは彼の母及び妹にも愛情濃ならざれば、まして我に対する憎悪は盤丞銀三、 我を恐嚇し、我を苛責すること獄卒も帝ならず、少なき時も一週に両三回、多きは日に 一二度、甚しきに至りては無法の責罰終日絶ゆることなし、されば我神経の各織緯も彼 を恐れ、我が肉の一片、骨の節々もまた、彼が近き来らんには戦懐して生きたる心地更 になし(遮線は引用者) 遮線の部分は原文にはなく、不倒の解釈によるものである。
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獄卒帝ならずJ といった同 時代読者に聞11染みの比輪、 「無法の責罰Jr
生きたる心地更になしJなどの誇張表現を用 い、 「少なき時もJr
多きはJr
甚しきに至りてはJと畳みかけ、 「肉の一片Jr
骨の節 々」なr
といった具合に、独特のリズムが生み出されている。 ジョンが投げつけた本を避けようとしてドアで頭を打ち出血した場面は、原文では 'the volume was f1ung, it hit me, and 1 fell, s佐ikingmy head against the door and印 刷ngit.百ecut bled,the pain was shar予:my terror had passed its climax: otherf記lingssu∞ 関ded'と抑制の利し、た文 章である。それが不倒訳では「巻は飛んで我を撃ち、倒る〉塗炭に頭は戸と衝突、皮肉破 れ、鮮血造り、痛鋭く、我恐怖も度を超えてJ と、歌舞伎か浄瑠璃の一場面を思わせる ような文体になっている。ジェインが無我夢中でジョンに掴みかかる状況も、 「窮鼠却て 猫を噛の勇気を性じJ と和文脈に置き換えられている。だが、これではジェインの中で恐 怖がじわじわと怒りへと変わっていく心の動きが、あまりにも分かりやすい外面の変化に 置き換えられてしまうのである。 第2章は「赤い部屋Jに閉じ込められたジェインの独自が大半を占めている。怒りに駆ら れたジェインは「話訟に我のみ常に苦しめられ、乱打せられ、折櫨せられ、懲罰を受けざ るべからざるかJ と叫び、この「忍ぶべからざる J
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不保理」に対して、家出か飢え死に よって抗議することを決意する。原作ではこの後に "1 could not answ釘 theceaselessquestion--why 1 thus suffered: now
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at the distance of--I will not say how many years,
1 see it clearly."とし、う、現在の成人した語り手の視点が挿入される。ところが、訳文ではこの一文を含むパラグラフ全体が省略されている。
後年、 「赤い部屋」での恐怖体験が心の傷として残り、長らくジェインを苦しめたこと を回想する第3章の一節についても、 "Yes
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Mr
s.&田d,
to you 1 owe some fearful pangs of mental suffering. But 1 ought to forgive you, for you knew not what you did: while rending my heart-s仕mgs,you thought you were only up-rooting my bad propensities"とし、う文章がカットされて、「此出来 事は我体の健康には障らざりしが、爾来我心の上に一種いふべからざる激動を与へて、今 に至り恐るべき神経質となりしは、全く伯母の所為に帰せざるを得ずJと要約されている。
『ジェイン・エア』は、主人公ジェインが自らの半生を回想して語る自伝形式の小説で ある。ジェインの語りは物語の中の幼いジェインと、大人になって回想するジェインの二 重の視点で構成されている。ところが不倒訳は、二重の視点とそれを構築する二重の時間 を切り捨て、幼いジェインの視点に絞って物語内部の時間軸に添って展開するストーリー を優先したのである。つまり不倒訳では、一人称小説がはらんでいる、回想される<私> と回想する<私>という自己の二重化された構造、さらに、回想される<今>と回想を記 述する<今>という二重の時間構造が削除されてしまったのである。この結果、 「理想佳 人Jに残ったのは単なるストーリーだけになり、原作『ジェイン・エア』の秘めた物語内 容が失われてしまったと言えるだろう。 だが、これは水谷不倒ひとりの問題ではない。読者が読みやすい文体を最大限に心がけ た結果がこれであった。明治の日本人たちが周11れ親しんできた漢文調や雅文体といった表 現スタイルは、彼らが初めて接した欧米のリアリズム小説を構成する日常生活のディテー ルや、等身大の人物の内面描写には不向きであったということなのだろう。小説における 風景もまた、和歌などの花鳥調詠の世界における既に出来上がった風景の観念ではなく、 実在する風景を個人が見たままに描くこと、つまり個人の眼のフィルターを通した風景で ある。そうしたいわば個人の意識の反映としての風景は、明治の日本人にとっては未知の 領域のものだったのである。 不倒訳が掬いきれなかった視点と風景の問題の背景にあるのは、個人の意識と言えよう。 自分は他者とは異なる存在であるというルソーの個の観念が日本に紹介されたのは、 『民 約論』が訳された明治10年のことであった。それはやがて自由民権運動の思想基盤となっ ていくものの、政治とは無縁の一般庶民にとって個人や自由の観念が一人一人に固有の権 利と感じられるまでには時間が必要であった。周囲との違和を感じ恥撲を生じる主人公ジ ェインの個としての意識は、訳者と読者の双方にとって受容しにくいものであったのかも しれない。自らの主体を他者に侵されることへのジェインの怒りと悲しみが理解されるま でには、日本の読者が真に個人の意識に目覚める 20世紀を待たねばならなかったのである。 (三)恋愛のテーマ 「理想佳人Jの抄訳が出た 1896<明治29>年当時、松山の高校教師であった夏目激石は原 書で『ジェイン・エア』を読み、同校の雑誌にエッセイを載せている。激石が興味を覚え たのは、ジェインが遠く離れたロチェスターの声を聞いた超自然現象であった。後に激石 は「文学論ノート Jでもこれに触れ、愛するが故に届かないはずの声が聞こえるという人 間の深層心理に関心を寄せている。むろん激石はジェインの情熱的な愛に対する本国での 様々な議論を知っていたが、彼は恋愛を主要なテーマとは捉えていなかったようである。 水谷不倒はどうであったか。翻訳に先立つおよそ2年前に、不倒は「恋愛小説J と題し た論文を『太陽』第8号(1894.8)に発表し、次のように説いている。
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女は実に小説の命、 女なき小説は小説にあらずといふも不可なし。蓋し女は愛情の本源、而して此の愛情を本 としたるは恋愛小説なり。恋愛小説は男女の恋を主題とし、現時の世態人情を写せる小説 をいふ。……即ち恋愛小説はまた写実小説にして、小説の最も進歩したる形といふを得ベ しJ と。恋愛という言葉も写実という概念もそれまでの日本には無かったものであり、新 進小説家の不倒は小説という新しい形式を用いて恋愛という新しいテーマに挑む野心に燃 えたことだろう。w
ジェイン・エア』翻訳に取り組んだのも、そうした小説家としての模 索の一環であったのかもしれない。 だが「理想佳人Jに対する読者の反応は鈍かった。最終回となった第2巻 第 14編では不倒 は「未だ小説の本題に入らずして、あまり枝葉の点を長く述んには読者の倦み困れんかと、 ゆえに愛を割てこ〉にはその梗概を示したるJとして8章と 9章は要約で済ませ、さらに読 者に向かって「梅山は前に横たわれり、是迄の乾燥を必ず失望するなかれJと励ましてい る。だがこの呼びかけも空しく、ジェインとロチェスターがようやく出会った第14章で連載は中止になった。およそ半年後、不倒は『ジェイン・エア』を下敷きにした「藤栄克j という短編を『新著月刊~ (1897.4)に発表した。だが、これは状況設定を借りているだけ で、ジェインとロチェスターのような強い恋愛感情は描けていない。つまり不倒も恋愛を 小説のテーマとして結実できなかったということなのである。 日本の近代文学に恋愛観念を初めて登場させたのは北村透谷とされている。むろんそれ までの日本文学に愛がなかったわけではない。だが『源氏物語』は宮廷を舞台にした貴族 たちの恋愛遊戯であり、そこでは「色好みJが人生の理想とされている。