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ドキュメント内 ブロンテ受容史研究 (ページ 33-59)

本稿では『ジェイン・エア』翻訳前夜に出現した註釈の意義を考えてみたい。とくに研 究社英米文学叢書における岡田みつの仕事に注目したい。岡田が示した訳註のかなりの部 分が、後の遠藤寿子(昭和5年)や十一谷義三郎(昭和 6年)の全訳で採用されているこ とからも、岡田の註釈が果たした役割の大きさが伺われる。また岡田の懇切な訳註は、語 学的に正確というに留まらず、共感あふれる解説に見られるように、何より『ジェイン・

エア』の良き女性読者であったことが感じられる。

(二)註釈の出現

大正期における『ジェイン・エア』の訳註で注目される一つは、深津由次郎によるJane砂m 第28章の対訳である。『英語青年』第32巻(大正3)から、 '百leHomeless Wanderer' 

r

落 塊Jのタイトルで全10回にわたって連載された。懇切な注釈は単語や成句の意味にとどま

らず、文法事項についても話法、倒置法、反語の解説など多岐にわたっている。その訳文 は生硬ながらも正確である。

深津由次郎(明治5年生まれ)は1899く明治32>年に東京専門学校(早稲田大学の前身) を卒業後、第五高等学校(熊本大学の前身)の教授を経て、 1920<大正9>年に母校の早稲田 大学教授に就任した201897<明治 30>年に『フランクリン自伝』講訳(静寿館)、 1902<明 治 35>年にトロロープ『富村邸の基督降誕祭』の翻訳を太平洋館から出版した他、 1918<大 正7>年刊行の『応用英文解釈法

J

(有明堂書庖)は版を重ね、 1930<昭和5>年には英文週報

社から改訂6版が出されている。また1.S.ミル『自由論

J

(前篇)、『訳註ポオ全集

J

(昭和 8年、外国語研究社)などがある。研究社英文学叢書では、 1922<大正 11>年にホーソンの 1万eScartLetterを担当している。

ホーソンの序文の次の一文から、深津の姿勢を伺うことができょう。「本書の註釈は語句 よりは構文の説明に重きを置き、一般読者にや〉難解と思はる〉所は全文を訳出した上、

その中の語句を説明すること〉とした。Jこの方針はJaneE)何 第28章の註釈ではいっそう 顕著で、作品についての解説よりも、原文を正しく解釈することがより重要視されている。

これは深津自身の方針というだけでなく、研究社の編集方針でもあった。

1921<大正 10>年、研究社は英文学研究の大御所であった市河三喜、斉藤勇、福原麟太郎 を主幹として、英米文学叢書の刊行を開始し、その後、 13年間にわたって英米の名作 117 巻の詳注を完成した。プロンテ姉妹については、 1923<大正 12>年に豊田実によるli'Wuthering HeightsJが、さらに5年後の 1928<昭和3>年に岡田みつによるfJaneEyreJが出された。

岡田みつの註釈が登場するのは、深津から 14年後の1928<昭和3>年である。深津が取り 上げたのは28章(ジェインがセント・ジョンに救出される直前まで)のみであったが、岡

田は全38章くまなく詳細な註釈を施している。 26ページにわたる優れた解説につづき、本 文が全体で806ページ(内 162ページが註釈)という大冊である。

ここでは第 2章でお仕置きに「赤い部屋Jに閉じこめられたジェインが部屋の鏡に映っ た自分の姿を幽霊と思い怯える場面を取り上げ、岡田の註釈、遠藤寿子訳、十一谷義三郎 訳を紹介する。

Retuming

, 

1 had to  cross  bef4町ethe  looking‑gls;my 

C D t 1

ascinad2lanc~ involuntarily  explored②thed回 出itrevealed. Alllooked colder and dar~町③mthat visionarv hollo'w than in  reali帆 andthe  angelitt1e figure there gazing at me, with a white fa andarms ④盟旦短堕

生金足盟盟,and glittering eyes of fear moving ⑤where all else was stil1, had the effect of a real  spiri1thought it  like one ofetiny phtoms,...

岡田の註釈は以下の通りである。①「我知らず引き寄せられてその方をちらりと見ることJ

②「鏡の面の奥底をJ(敵きさぐった)③「鏡に映っている実質のない空の影の方がJ

④ほの白い顔と腕が一面の「薄聞に点を打ったやうになってJ⑤「他のものがみなひそま りかへっている中でJ(眼玉のみが動いているのを見たら凄いことであらう)

遠藤訳は「我知らず引き寄せられた私の目は、思わず鏡の面の奥底を探り見た。そこに 映っている実態のない空の影の方が、実際に見るよりも冷やかに薄暗く見えた。そしてそ こに、一人の奇妙な子供の姿が、ほの白い顔と腕とを、点をうったように浮きだして、あ たりのものは、皆ひそまり返っている中に、恐怖におびえた目を光らせて私を凝視してい るさまは、ほんとうの幽霊のように見えた。J

十一谷義三郎訳は、「私の幻惑された眼は、われ知らず、鏡の深みをさぐった。その幻の 虚影のなかでは、何もかもが、現実より一層冷たく陰惨に思われた。白い顔と両腕が暗闇 の汚点のようで、一切が静まり返っている中で、恐怖の眼を光り動かして、私を凝視して いる、不思議な子供の姿が、本当の幽霊のように見えた。J

遠藤訳には岡田の表現をそのまま使っているところが見られ、十一谷の方が小説家であ るだけに文章がこなれている感じがある。だが訳文の優劣はともかく、両者が岡田の註釈 を参照したであろうことは、他の多くの例からも明らかに思われる。岡田の註釈が優れて いるのは、それが語学的な説明に終わらず、文脈を深く正確に読み込み、作品鑑賞への道 筋を示している点にあると言えよう。

(三)岡田みつ紹介

ここで大正・昭和初期の数少ない女a性英文学研究者の一人であった岡田の経歴を紹介し

ておきたい30 1875く明治8>年東京生まれ。 1894く明治27>年、女子学院を卒業。 1898<明治 31>年に東京女子高等師範学校(お茶の水女子大学の前身)を卒業後、ただちに母校の教壇 に立つ。 1902<明治35>年2月に文部省留学生として、ウェルズリー・カレッジにおいて英 語・英文学を専攻、 1905く明治38>年 10月に帰国し教授となる。 1932く昭和7>年、同校退職。

1940<昭和 15>年9月、胃癌のため64歳で他界した。

『英語青年』は84巻 (November1

, 

1940)で追悼特集を組んでいる。帰朝まもない岡田に 教えられた学生の一人が「教室に於ける岡田美津先生Jとして、次のように思い出を語っ ている。

実に道を楽しんだ方で、独り居の楽しみも第一は読書、年(ママ)の英文学叢書の訳註などの あの丁寧親切なのも、一面学生の実力をよく識つての上の親心であるが、他方仕事を楽 しんで些かも苦とせられないからの事であろう。

御授業は実に面白かった。豊富な学識が明断なおつむりを透って諸島出されるのである。

承はるとやうやう学齢の七歳位の時からもう厳父が二人の教師をつけて英語を仕込まれ、

女高師御在学当時は英語だけ同級生とは別のクラスといふ扱を受けられたさうで、文字 通り緬養された学力なのである。その上にチャキチャキの江戸っ子のwitユーモアをさへ 加へての訳は縦横自在で学生は殆ど魅せられて了ふのであった。(旧漢字は改めた、以下

同様)

岡田の実力と人となりが伺えるような回想である。閉じ特集中のY.T.生なる人物による「岡 田美津女史小伝Jにも、やはり次のような記述が見られる。

女史の英語は知何にも自然で、英語を m出御したといふのは此のやうな境を云ふのであ らうと思はせるものであった。明断な頭脳、鋭い才智、人としての情と腹等天輿の素質 に恵まれた一方、非常な読書家であった為、自らなる高い教養が晩年は特に清高な風格 となっていた。

追悼文の性格上、故人への賛美に傾くのは当然であるにしても、岡田の実力を客観的に示 すものとして、 1902<明治 35>年に文部省留学生としてボストンのウェルズリー大学に派遣 されたことがあげられるだろう。当時 26歳であった岡田は名門女子大として知られる Wellesl Collegeにおいて、 3カ年にわたって英語と英文学の講義を受けた。

女子高等師範学校に提出された申報書4によれば、 1902<明治 35>年2月に出国した岡田 は、 4月から 6月末日まで「英語及び英文学の講義Jに出席した他、「英文の研究Jとして 英作文の指導を受け、半年間の授業料として 23 ドル支払った旨の報告がされている。翌 1903<明治35>年9月には大学に入学し、「英作文科Jと「英文学科Jを受講し、 l年分の授 業料として 75ドルを納めた。これとは別に英作文の指導を受け、この授業料として 18ド ル支払っている。岡田の学業は順調に進んだものらしく、 1904く明治 36>年にはより上級の 授業を受講し、留学2年目が終わるころには、「明治三六年六月学年末ノ試験ヲウクソノ成 績優等Jと報告している。また、 1905<明治 37>年にはさらにラテン語まで学び、年度末試 験においても好成績を収めたことが記されている。

岡田が留学時代を充実のうちに過ごしたことは、後に研究社英米文学叢書で E.ギャスケ ルのCra!舟rdの註釈をはじめて担当した際に、「はしがき」でこの頃の思い出を懐かしく語 っていることからも伺われる。

Cranfordは私にとって懐しい書物であります。もう二十年も昔 1902年の秋、私が米国の Boston付近に、恩師

s

様と閉じ家に部屋借りをして居た時分、日本を離れて間のなかっ た私は、夜など淋しくなると S様の室を訪れて、執筆の疲れ休めに編物などして居られ る傍で種々の話を聞かせて頂くのでした。或る時どうした話の続きからか、先生が、一

週二回位練習の為、之を読んで聞かせては知何ですかとて出されたのがCranfordでした。

この S様というのは、岡田が一貫して英作文の指導を受け、ラテン語の手ほどきを受けた Edith A. Seuyer教授である。岡田は恩師から記念にと Cranfordの一冊をプレゼントされたこ とを語り、最後に「はしがきJを記した大正十一年九月二十八日の二週間前に恩師が来日 したことを告げ、「この書を御覧に入れたいとそれをせめてもの楽しみに・して居りますJと 結んでいる。

岡田が留学した1902く明治35>年の前後に洋行した文人や研究者の顔ぶれを見てみよう三 激石がロンドンに出発したのが明治 33年で、翌 34年には岡倉天心、岡倉由三郎、土井晩 翠など、また 1903<明治36>年には有島武郎、永井荷風、平田禿木らの名前がある。岡田と 同時期には、島村抱月や二葉亭四迷が私費で渡航している。

明治期の女子の留学といえば、 1871<明治4>年に岩倉使節団と共に当時9歳の津田梅子を 含む5人の派遣に始まるが、明治期全体を通じての女子留学生の数はきわめて少ない。1875<

明治 8>年に「文部省貸費留学生規則Jが制定されたものの、女子の第一号となる加藤錦子

6が渡米したのは 1885<明治 18>年になってからである。その後、定員の改訂などを経て、

1899<明治32>年に人数制限が撤廃されたことで、この年は女性1名を含む59名にのぼった。

岡田は1902<明治34>年度派遣の42名のうち唯一の女性で、文部省の女子留学生としては5 人目である。翌年度には大江(旧姓・宮)11)スミ 7がつづくが、その後は小此木マリ sを含 む女性 2名が派遣されただけである。明治期に文部省留学生として渡航した女性は合計 8 名に留まるというきわめて狭き円だったのである。

(四)岡田みつの仕事

英文学研究者としての岡田の仕事ぶりをもっとも如実に示しているものは、研究社英米 文学叢書の註釈であろう。ギャスケル夫人のCranford(1922)を皮切りに、ジェイン・オー スティンのPrideandP

l(iice(1923)、シャーロット・プロンテのJaneEyre (1928)、ジョー ジ・エリオットの1ちeMiI/ on the F/oss (1931)を担当した。その後「現代英文学叢書Jでは Katherine Manポeld's劫ortStories、オルコツトのLittlemenおよび GωdWivesがある。教 育関係では、『女子英語教育論

J

(研究社、昭和 11年)がある。

岡田がもっとも愛着をもって取り組んだと恩われるのがJaneEyreである。はしがきに 好きな本"としづ副題をつけ、LittleWomenとJaneEyreをあげている。長くなるがJane砂're についての部分を引用する。

この本は私が米国Bos伽 付 近 のcollegetownに下宿していたその家の本棚をあさって偶然 取り出したものであった。自分の室に持ち帰って読み出すと、初めは少女Janeが無慈悲 な叔母の家で人々に虐められるところだった。私は子供を材料にした話が由来好きなの で、之にも興を唆られ、これからの Janeの身の上いかにと胸を痛めつ〉読みつYけた。

だんだん場面が変って、成長したJaneがRoches町家の家庭教師となり、こ〉に Janeと R

hesterとの恋ものがたりが始まった。二人の情熱がしゃにむに私の心を駆ってその中

に没入せしめ、かれらの喜憂か私の喜憂か分らなくさせてしまった。やがて話は急転直 下し、 JaneはR

hesterを捨て去ることになった。淋しい心を抱へて荒原をさまよふJane の心を実感して、私は到底よみつゾけられなくなって本を閉ぢてしまった。さて、さう

したもの>Janeの行末が気にか〉って何ともしょうがないので、また本を開いて読みつ ゾけてゆき Ferndeanの家でJaneがR

:hesterと再会の悦びに浸るところに至って、はじ めて安堵したのであった。生れて以来あれ程に惹きつけられ、魅せられ、有頂天にさせ られた物語はかつて無かったのである。

一読者としての感動が忌樺なく語られている。しかし、同種の物語を期待して劫irleyを読

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