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真宗教学研究 第26号(2005)

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ISSN 1346-2156

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教化と教学

講 演 教学は教化の学 池 田 勇 諦 1 教義と教化の循環 藤 本 浮 彦 13 宗門人の課題 研究発表 真宗学と「教化」の学 木 越 康 28 大谷大学「宗教教化学研究会jに学ぶー 『観経疏』における「学解」・「学行」の 意義について 藤 元 雅 文 42 『教行信証Jにおける引文としての意義 親鷲における「海

J

についての考察 義 盛 幸 規 53 日本浄土教における曇驚著述の 受容と展開 本 明 義 樹 64 親鴛思想形成に関する一考察ー 真宗教学学会講演会一歴史のなかの親鷲ー 親驚聖人伝再考 草 野 顕 之 81 若き日の親驚 平 雅 行 107 真宗教学学会大阪大会記念講演ー今、求められる真宗の教化ー 今、真宗は{可を教化すべきか 加 藤 智 見 127 “生きる力”の回復を願って 浅 見 定 雄 144 2004年度教学大会発表要旨 163

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真 宗 教 学 学

Aム 云

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講演 真宗大谷派教学大会 J

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同年度

教学は教化の学

教学は教化の学 失礼いたします。貴重な時間をいただいたことであり ますが、﹁教化と教学﹂という統一テ

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マのもとで、極 めて基本的な確かめを一言申しあげたいと思い、ここに 立ったことでございます。今ほどは﹁教義と教化﹂の関 係について、大変精綴な藤本先生のご見解を聞かせてい ただきながら、いろいろと考えさせられる問題をあたえ ていただきました。 今年の春、ある教区へ伺いました。そこには﹁教化研 究会﹂という組織がありまして、その方々のお集まりが あったのですが、そのなかのお一人がこんなことをおっ しゃったのです。﹁ご本山の教学研究所は、どうして教 学研究所なのでしょうか。もとは教化研究所であったと 山 山

思いますし、そのほうがどうも自分はふさわしいと思っ ているのですが、なぜ教学研究所なのですか?﹂こうい うことをもらされたのです。このことは皆さん方すでに ご承知でしょうが、確かに以前、教化研究所から教学研 究所に変更されるということがありました。この名称変 更は、私の記憶では宮谷内局の時であったと思いますが、 その頃には、このような疑問をよく耳にしたことであり ました。この春、あらためてそういうことをお聞きしま して、今でもそういう疑問というか﹁ひっかかり﹂のよ うなものが、引きずられているのだなということを感じ たことでございます。 それにつけても、日頃私たちは、この教学や教化とい

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2 う概念を白明のこととして言ったり聞いたりしておりま すけれども、果たして自明なのかということを私は反省 させられるわけです。ですから、今のようなご指摘も、 教学なら教学、教化なら教化に対する意味理解の異なり によって、適切な表現だとおっしゃる方もありましょう し、反対にこれはどうもおかしいのではないかとおっし ゃる方もでてくるだろう。そのように思えることです。 そうすると、当学会も﹁同学会﹂から﹁真宗教学学 会﹂に改名され、新しい出発をしたことでありましたが、 それではこの﹁真宗教学学会﹂においても、この﹁教 学﹂ということが自明のことと言えるのかどうか、この ことも併せ私は考えさせられるわけであります。確かに、 この教学という言葉が別いる人や用い方によって、意味 あるいはニュアンス上の異なりがあるということは、ど うも否めないように思えます。しかし、一見多義に思え るような教学という言葉も、要は﹁学﹂の意味理解の差 異によるのではないかと思うときに、やはり基本的には 丈宇どおり﹁教えを学ぶ﹂と解読することが自然であり、 そこから白ずと性格も浮き彫りにされてくるのではない か と 思 い ま す 。 手方、この教化という概念についても、 教 学 と い う 一 f 叶 葉と同じように、私たちは自明のこととして日頃使って いるわけですが、どうもそのように言えないのではない かと思えます。なぜかと申しますと、教化という場合、 とかく真宗の応用的機能と見なされている感じがするか らです。したがって真宗教化などと言えば、真宗の応用 部門という開解が支配的でないかと考えられるのであり ます。しかし教化ということは、その基本義からは決し てそういうものではないはずでありまして、かえってこ の真宗の本質に関わる最も根源的、かつ直接的な事柄と 言わなければならないのではないかと思うのです。 実際のところ真宗を、真宗とはこれこれであると、抽 象的・概念的に云々したものが真宗であるかといえば、 もちろんそうではないのであります。ですから真宗とい うものは、それこそ真に時機︵時代と人間︶を問い、時 機の課題に応答する作用性、つまり教化作用としてのみ 生きた真宗ということが一行えるわけであります。その点 はご承知のとおり、宗祖が﹁教行信証﹄において、 大 耐 熱 量 寿 経 十 日 一 八 % の 教 浄 上 京 市 市 ︵ ﹁ 教 巻 ﹂ ・ 百 万 一 小 町 血 ハ ﹄ 五 O 一 員 ︶ と 高 ら か に 宣 言 さ れ て お り ま す が 、 な ぜ ﹃ 大 無 円 一 甲 寿 経 ﹄

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が真実の教なのかという理由については、何の弁証も論 理も展開されておりません。ただ、﹃大無量寿経﹂発起 序の経丈をもってのみ、証文として一不されているのであ ります。そのことが表しているものは、仏陀釈尊と仏弟 子阿難との千載一遇の出遇い、つまり釈尊によって教化 せられた阿難の目覚めの事実に、真実の教、浄土真宗の 具体的姿を読みきられたからです。ゆえに、これこそが 真実教である浄土真宗の根本教証と言わなければならな い の で あ り ま し ょ う 。 教学は教化の学 こうした意味で、教学というものを丈字どおり﹁教え を学ぶこと﹂と了解いたしますと、それは仏の教化を学ぶ ことであるといえます。つまり教学は、仏によって教化 せられることの意義を学ぶことの他にはないわけであり ます。その意味から言えば、真宗学と言っても真宗教化 の学なのであります。つまり真宗が仏の教化作用を内実 とするものである限り、如来の教化としての真宗の学び の外に、真宗学の本質というものはないからであります。 ですから、ここで当然﹁学﹂の意味が注目されなけれ ばならないのですが、この場合単にサイエンスとしての 対象の学ではなくて、本質的には学ぶ主体を抜きにして は成り立たないような、主体の学を意味するものでなく 3 てはならないのであります。もちろん対象の学としての 真宗学は、言、つまでもなく近代仏教学の系譜ですから、そ の成果が尊重されなくてはならないことは言、つまでもあ りません。しかしながら、真宗学がそれのみに留まると すれば、真宗を対象とした科学ではあっても、真に真宗 を学ぶということにはならないのではないか。この点は 先ほどの藤本先牛のお話しからも感じたことであります。 周知のことでありますが、ここで思い合わされますの は、善導大師の﹃観経疏﹄三心釈・回向発願心釈のとこ ろにある、この指摘であります。 行者当に知るべし、もし解を学ばんと欲わば、凡よ り聖に至るまで、乃至仏果まで、一切碍なし、みな 学ぶことを得るとなり。もし行を学ばんと欲わば、 必ず有縁の法に籍れ、少しき功労を用いるに多く益 を 得 れ ば な り と 。 ︵ ﹃ 教 行 信 証 ﹂ ﹁ 信 巻 ﹂ 所 引 ・ ﹃ 真 宗 聖 典 ﹄ 一 二 九 頁 ︶ このように解の学・行の学と言って、いずれも﹁学﹂で ありますけれども、ここに﹁解﹂と﹁行﹂の差異のある ことが注目されるわけであります。 ところで、私はこの解学・行学ということを考えると きに、かの王陽明が提唱した﹁知行合こということが、

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4 い つ も 思 い 合 わ さ れ る こ と で あ り ま す 。 そ こ か ら 三 一 ヲ ん ば 、 解の学というものは知行不同でありましょうし、行の学 は知行相応の学であるといえましょう。知は理解・行は 実習として、知ることと成ることとの関係であります。 知と行とが分離して知が行を内容としないとき、いわゆ る対象の学と言われてまいります。知り得たことと知り 得た自己とは無関係でありますから、いかに知っても、 知った自己はなんら変わりません。それに対し、知行合 一して知と行と相応し、知ることが成ることであるとき、 それは主体の学として対象と主体が相応する。つまり、 知り得たことは知り得た白己の変革を音 このことが、学としての対象に、主体自身を学ぶことに 他ならないと一一日われる。つまり善導大師が、解の学であ れば一切の法門は自由に知ることができるが、行の学で あろうとする限りは必ず有縁の法に依れ、と示教される 所以でありましょう。 しかしこのように中しましでも、信心と学とを混同す ることではありません。彼の固に生まれんと願ずること は、知性を超えた如来の願心に基礎づけられた信なる事 実でありますが、それがそのまま学であるのではありま せん。なぜなら、学である限りそれはどこまでも知性の 営みだからです。したがって、それは認識を必然的方法 とすることであります。ゆえに私たち人間の知性を超え た信なる出来事を、人間に与えられている知性に乗せる ところに信の学の音山味があるのです。それはどこまでも 本願を信じ念仏を申さば仏になるという、行を学ぶこと の内面的・実践的意味を、知性的思惟をもって明確化し ていく作業であります。これがまさに信の認識行為と言 われる所以でありましょう。このように仏の教化を学ぶ ことが教学であるならば、真宗を学ぶことは必然的に仏 弟子の道であると言わねばなりません。経に対し、論・ 釈と言われるものが常に経教に対する帰敬の言葉で始ま っていることは、それを雄弁に物語っていると三守えまし ト ﹂ 晶 、 つ ノ 。 こうした教化の基本的意義を確認しますとき、 うな教化としての真宗を広く時機︵時代と人間︶に伝え 広めていく営みとして、具体的な教化の現実義があるこ とを指摘しなければなりません。つまり、真宗が常に時 機の課題に応答する機能性においてのみ、その現在性を 持つ限り、それ白らに時機に対する応答性、つまり時機 の課題との接点を、不断に具体的な現実の場で担ってい かなければならないからであります。 そのよ

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教学は教化の学 このように、基本義と具体義という教化の二義は、も とより一教化の重畳的二義として、その意味的構造を示 しているものと言わなければならないと思います。つま り具体義は基本義に依止し、基本義は具体義によって具 現化する。教化の基本義の常なる反復確認を怠るならば、 必然的にその具体義は単に真宗の応用的機能として教学 と教化の実体化をきたし、教学の固定化・教化の世俗化 というかたちで教化と教学の希離を招く他はないでしょ う。こうした見極めにおいて、具体的教化の取り組みを 課題とするときに、あらためて私は次の二点を確認・指 摘したいのであります。一つは、先ほどから申しており ますように、教化の基本義からして、教化の実践に取り 組むことは、取り組む者自身が仏に教化せられていくも のであること。つまり、真宗仏教に生きる姿勢でなけれ ばならないということであります。もう一つは、同時に 教化に取り組もうとする者が、現代という歴史的・社会 的状況において、それを客観化していく視点を常に持た なければならないということであります。 まず第一は、教化がどこで成り立つかという問題であ りまして、その原理的構造を尋ねなければならないと思 いますが、その点について講演要旨の最後の方に図示し ておりますので、ご覧いただきたいと思います。教化に ついて、ここでは﹁教える﹂という一つの動詞として捉 えて考えてみたいわけであります。教えるという一つの 事柄が成り立つには、そこに一一一つの契機が必須でありま す。と言いますのも、教えるという動詞にはそこに必ず 誰かが教えるという主体を予想いたしますし、また同時 に一つの他動詞として、何かを教えるという内容を示し ております。さらにまた一つの与格動詞として、誰かに 教えるという客体を持つことを表しています。ですから、 ﹁誰かが﹂という主体は師の位、﹁何かを﹂は教える内 容で、これは法であります。それから﹁誰かに﹂教える は、客体でありまして、これは資︵弟子︶であります。 師匠と法と弟子であります。この三つの契機というもの がそこに見られるわけでありまして、それを﹃教行信 証﹂の教相に照らしましたときに、教える、主体は誰なの かといえば、どこまでも諸仏である。教える内容は何か といえば、名号である。教える客体は誰なのかといえば、 衆生としての私である、となります。 そうしますと、この諸仏と名号というところに第十七 諸仏称名の願成就の事実がありますし、名号と衆生、つ まり衆生聞名のところに第十八願成就があると舌

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6 でしょう。この二願の相即的出遇いこそ、教化の成立で あります。その出遇いの内容を見ますときに、そこに三 点記してありますが、衆生と名号の出遇いは教化の目的 原理、諸仏と衆生の出遇いは教化の方法原理、諸仏と名 号の出遇いは前二つの相即的原理と言えるでしょう。こ れによってヨ一守えますことは、私たちにとって教化、教え るということを問題にしますとき、どこまでも衆生開名 の座、つまり弟子の位ということであります。この衆生 聞名の座に諸仏称名の徳が与えられていく。つまり、衆 生聞名は必然的に諸仏称名に参/加させられていく。よく 教えられていく人のみによく教える徳が与えられていく。 この厳粛なる事実を他にして、教化の成り立つところは ないと言えましょう。 このことを踏まえ、二点目に入っていきますが、それ は現実の諸問題をとおして、仏に教化せられていくこと を証ししていくことでありまして、何よりもそれは真宗 と時機︵時代と人間︶の接点を明らかにすることと言え ましょう。しかもその内容として、真宗と時機の関係構 造を言えば、切り結ぶ、この一三一口が表すあり方と言える の で は な い か と 思 い ま す 。 二 一 目 、 つ ま で も あ り ま せ ん が 、 単 に﹁切る﹂であれば、それは真宗と時機との断絶化であ り、それこそ仏教者側の自己満足、孤高化でしかありま せん。また単に﹁結ぶ﹂ということであれば、真宗が時 機との妥協、あるいは迎合でしかない。ですから私たち におきましては、常に時機を無視した観念化、もしくは 時機に追随した外道化かというところで揺れ動いている。 これが私たちの現実でありましょう。 しかしながら、考えてみますと、仏の教化、つまり真 宗は人間の立場の延長上に何か役立つものを掴むという ことではありません。むしろ人間の立場に対する問い返 し、翻転に成り立つ、王体の獲得であります。その意味で 具体的教化の展開は、時機に対する対処療法的な発想で はありません。したがって、いわゆる処方筆を書くこと ではありません。はっきり言いますと、それは状況の変 化ではなく、立脚地の転換を促す事柄であります。この ことは、聖教に尋ねますと様々なお示しが見られますが、 身近なところで周知されているのは、﹁歎異抄﹂の第四 条 で あ り ま す 。 慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。 ︵ ﹃ 真 宗 聖 典 ﹄ 六 二 八 頁 ︶ この有名な一条です。これはまさに﹁聖道・浄土のかわ りめ﹂とありますから、一つの慈悲に二つの立場がある

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教学は教化の学 ということでしょう。これは、人間の立場から念仏の立 場への転換を提起されている一条に違いない、と読ませ ていただいています。つまり立脚地の転換を縦糸として、 時機の諸問題との関わりを生きていかなければならない こ と で あ り ま す 。 そ こ で 、 も う 一 一 一 一 日 申 し た い こ と は 、 一 つ の 例 と し て 、 今日特に際だった問題として生命の問題がございます。 生命といえば、私たちの日常意識からはいわゆる生命科 学で云々され、取り扱われる生命しか考えられません。 それは物理的・量的・長さで量られるような生命でしか ありません。ですから、生命とは何かという生命の本質 を問うことがなければ、物理的・量的な長さで考えられ るような生命は、長ければ長いほど悲劇ではないか、と いうのがむしろ今日の状況であろうと思われます。した がって、生命の尊厳・生命の輝きといわれるような事柄 というのは、どこまでも思想的領域・宗教的領域の課題 として質的であり、深さで表現される生命に違いありま せん。そういう生命を共有していく努力こそ、現代にお ける生命観の問題に対する、真宗仏教からのアプローチ と言えるのではないでしょうか。 こういう形で教化と教学の問題を尋ねていくときに、 私はここで宗祖にこの問題を返して、教化論ないし教化 像、あるいは人間像ということについて、宗祖の御持言 の な か か ら 一 一 一 一 H 注目をさせていただきたいと思います。 この﹁御持言﹂というのは、丈字からして親驚聖人に憶 念執持された言葉です。その音山昧から言えば、私は身体 語・生活語であると受け止めておりますが、そうした言 葉のなかから、私共にとって親驚聖人の教化像、あるい は親鷲聖人の生き方を読み取らせていただくことであり ます。この御持言といわれるもののなかには、広い意味 で言えば﹃御消息集﹂などのような書簡集、とりわけ ﹁ 所 レ 留 − 一 耳 底 ﹂ 柳 注 レ 之 o ﹂ ︵ ﹃ 真 宗 聖 典 ﹄ ︶ か ら 始 ま る ﹁ 歎 異抄﹂の前半部分にある、口伝の法語などを挙げること ができるかと思われます。しかし、今ここで御持言と言 いますのは、文面に﹁つねのおおせ﹂と明記されてある ものについて、実は注目いたしたい。 この点については、同朋大学の学祖である住田智見先 生が、宗祖における三つの御持言を早くからご指摘にな り、非常に大切にいただいておられまして、それを門下 の山上正尊先生が採りあげて、今から数十年前になりま すが、名古屋の其弘堂書店から﹃愚禿親驚教義の精要﹄ という書名で出版されています。これは四六判三

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8 ほどの本でありまして、あまり知られていないのではな いかと思いますが、隠れた名著と言、つべきものだと思い ます。その内容というのは、恩師住田智見先生が指摘・ 注目なさっていた三つの御持言を取り上げて、実に精般 に史的考察をふまえて論を展開しておられまして、読む たびに教えられることです。もちろん今は絶版になって おりまして、手に入るものではありません。最近送られ てくる古書目録などを見ておりますと、稀にこの書物が 出ておりまして、随分高価な本になっているようですが、 ご縁がありましたら是非一度お読みいただくとよろしい か と 思 い ま す 。 そこで、この三つのお言葉についてですが、第一は ﹁歎異抄﹄の後序にある次の言葉であります。 聖人のつねのおおせには、﹁弥陀の五劫思惟の願を よくよく案ずれば、ひとえに親驚一人がためなりけ り。されば、そくばくの業をもちける身にでありけ るを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじ け な さ よ ﹂ ︵ 吉 川 宗 聖 典 ﹂ 六 四 O 頁 ︶ これが一つ目であります。それから二つ目は﹃改邪紗﹄ の 第 三 条 で あ り ま す 。 つ ね の 御 持 一 一 一 百 に は 、 ﹁ わ れ は こ れ 賀 古 の 教 信 沙 弥 こ の 沙 弥 の 様 禅 林 の 永 観 の ﹁ 十 因 ﹄ ︵ 往 生 十 因 ︶ に み え た り の ︷ 疋 なり﹂と云々 そして三番目ですが、これは み え て い る 言 葉 で す 。 恒に門徒に語りて日わく、﹁信誘、共に因と為りて、 同じく往生浄土の縁を成ず﹂と ︵ ﹃ 真 宗 聖 典 ﹂ 六 八 O 頁 ︶ ﹃報恩講私記﹄の第二段に ︵ ﹃ 真 宗 聖 典 、 ﹄ 七 四 O 頁 ︶ こ れ ら 一 二 つ の お 言 葉 で ご ざ い ま す 。 ご覧いただけば、よく知られているものばかりですが、 この一つ目の﹁歎異抄﹄後序の御持言というのは、一読 して明らかに﹁建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰 す 。 ﹂ ︵ ﹁ 教 行 信 証 ﹄ ﹁ 化 身 土 巻 ﹂ ・ ﹃ 真 宗 聖 典 ﹂ 三 九 九 頁 ︶ と い う、あの入信の感動の内実を表していると言えましょう。 しかもその感動の心をもって、ひそかにおもんみられた 悠久なる法の歴史の上に見出された、その一人性の歓喜 です。したがって、それは全人性に即する一人性の披涯 であって、ここに親驚聖人の信仰と教学の原点というも のを感じるのであります。 それから二つ日の﹁改邪紗﹄のお言葉でありますが、 これも一読して窺えるように、親驚聖人にとっては、承 元の法難によって自ら確認された﹁僧にあらず、俗にあ

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教学は教化の学 らず﹂ということ、つまり愚禿の名のりの内容としての 生活的実践行動を表すものである。そのように言えるか と 思 い ま す 。 そして、一二つ目の﹁報思議私記﹄のお言葉を読みます と 、 ﹁ 教 行 信 証 ﹄ の 後 序 の お − 一 一 一 口 葉 や 、 聖 覚 法 印 の ﹃ 唯 信 紗﹂のお言葉が類文として思い合わされるのですが、こ れについて今は置きますが、ここに宗祖における僧伽の 生成、つまり信に聞かれた人聞の交わりの発見というも のが表現されておるのでないか、ということが感ぜられ ま す 。 特にこの三つ目の御持言を読むたびに思うのですが、 同朋会運動が始まって間もない頃に、﹁光はみちて l 同 朋会の歌﹂という歌が制定されたのです。自坊でも、あ の歌を門徒さんに歌ってもらい、覚えていただいたとい うことがありましたが、最近は京都へ来ましでもあの同 朋会の歌があまり聞けないようですが、それはともかく、 この﹁光は満ちて﹂という同朋会の歌はとても歌詞がい いですね。私が特に好きなのは三番目なのです。 花は今咲けどさかねど みなともにあおぐみ教え いのちをここに 9 同朋よ あたらしき 道こそひらけ つ よ き あ あ 信心のまことに生きんわれら 特に﹁花は今咲けどさかねどみなともにあおぐみ教 え﹂という出だしのところからは、﹁信誇、共に因と為 りて、同じく往生浄土の縁を成ず﹂という親驚聖人の僧 伽の生成のお心が端的に歌われているのではないか、と いう感銘を私は強く受けるものですから、いつもこの式 文と同朋会の歌とを思い合わせております。 先ほどから二百ずつ申した三つの御持言でありますが、 宗祖の七五

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回御遠忌に向かって今宗門が歩んでおりま す折、この三つの御持言というもののなかに、宗祖親驚 聖人の生き様・生き方がよく表れているという感銘を強 くもちます。そして、それがそのまま親驚聖人の信仰像 であり、また教化像なわけですから、この三つの御持言 というものを、私たちは深く注目していくべきではない かと考えております。今日は詳しく申し上げられません ので、指摘するに止どめますが、このことは、あらため て考えさせていただきたい課題でございます。 そこで、こういう御持言に注目いたします時に、是非 申し上げておきたいこととして、この三つがバラバラで

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10 あるのか、あるいはそれぞれが深い内面的な関連を持っ ているのかということであります。もちろんバラバラで ないことは容易に考えられるのですが、それでは、どう いう繋がりを持っているのかということになりますと、 次の指摘に注目したいのです。それは二

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世紀のプロテ スタント神学者の代表的なお一人といわれる著名な、パ ウル・ティリッヒです。最初の日本語訳だと聞いており ます、﹃信仰の本質と動態﹄︵新教出版社︶という本があ ります。これはお読みになっている方も随分多いようで すが、書名のとおり、真の信仰とは一体何なのかという ことを、徹底して問うている内容になっております。そ のなかの第五章に﹁信仰の真理﹂という箇所があり、そ してこの第五章の最後に第 5 節として﹁信仰の真理とそ の基準﹂という一節がございます。そのなかに、私が注 目させられている言葉があります。 信仰はそれが究極的な関わりを適切に表現している 限りにおいて真理である、究極的なものの力が人間 において応答と行動と共同体とを生み出すような仕 方で表現されているとき、その表現は適切である 一読してお分かりのように、﹁応答と行動と共同体﹂ という三つの指摘でありますが、これに導かれますとき、 先ほどから申しております親驚聖人の三つの御持言とい うのが、照応しているよう思われるのです。﹁歎異抄﹄ の後序のお言葉は、まさに﹁応答﹂であり、そして﹁改 邪秒﹄の﹁われはこれ加古の教信沙弥の定なり﹂という のは、その応答が必然的に﹁行動﹂となるということで しょう。そして三つ目の﹃報恩講私記﹂のお言葉という ものが、応答と行動によって必然的に﹁共同体﹂が生成 され、見出されることを表しています。ですから真の信 仰というもののあり方は、この応答・行動・共同体とい う必然的な展開を持つのであり、そのときにはじめてそ の信仰は真理であるといえる。このようにティリッヒは 一言っているわけでありまして、親驚聖人の三つの御持言 を学、はさせていただく上での大切な方向を、この了解か らうかがうことができるように思います。 端折って申し上げまして不十分なことでありましたが、 本日の統一テ

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マ﹁教化と教学﹂というもとで、一点基 本的な確認をさせていただこうと思い、講題を﹁教学は 教化の学﹂としてお話しさせていただきました。私が申 しあげようとしたことは、一口で言えば、教学と教化の 呼応的不離性であります。教化と教学は実体化されれば、 当然両者の託離を招くほかはない。それはもちろん、教

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化と教学の固定化にほかならないからです。教学は現実 と結びつかない観念化したものになり、また一方におい て教化の世俗化をきたすほかはないからでございます。 ですから、私どもにおきましてはどこまでも仏の教化 を学ぶ、つまり真宗の学びは、如来の教化を明らかに学 んでいくことが、その最も重要な内実として、私たちは これを常に反復することを怠つてはならない。そこにお いてはじめて、私は教化の具体的な方法ということも教 学することの他には無い。教学していくことこそが、教 化の唯一の具体的な方法ではないかと受け止めているこ とでございます。不備な点お許しをいただきまして、時 間になりましたので、以上で終わらせていただきます。 講演要旨 教学は教化の学

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﹁教化﹂の概念については、日ごろ自明のこととして 用いているが、かならずしもそうでないことを反省させ られる。なぜなら、﹁教化﹂と言えば、とかく真宗の応 用機能視されがちであるが、その基本義からは決してそ うではなく、却って真宗の本質にかかわる最も根源的か 11 つ直接的な事柄だからである。 事実、真宗とはこれこれであると抽象化乃至概念化し たものが真宗ではなく、真に時機の課題に応答する作用 性、つまり教化作用としてのみ真宗であろう。その点、 宗祖が、﹃大無旦一寿経﹄発起序にみる仏陀釈尊と仏弟子 阿難との千載一遇の出遇いのうえに、つまり釈尊によっ て教化せられた阿難の自覚の事実に、真実教・浄土真宗 の具体的すがたを読みとられたことは、それを雄弁に台 げる根本教証と言えよう。 その意味で﹃大無量寿経﹄は即浄土真宗教化の書、原 典であり、であれば﹁真宗﹂は即﹁真宗教化﹂の意味に ほかならない。ならば、﹁真宗学﹂あるいは﹁教学﹂と いっても、真宗即﹁仏の教化﹂の真宗の学びであり、教 学も同じく、教即﹁仏の教化﹂の教の学びであろう。

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しかしこうした教化の基本義は、それゆえに却って即 教化としての真宗を時機に開示していく直接的営為とし て、教化伝道という具体義を展開しなければならない。 それは真宗が不断に時機の課題に応答する機能性にその 現在性をもつかぎり、それ自らに時機に対する応答性を、 つまり時機の課題との接点をつねに具体的現実の場で荷

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12 負されていかねばならぬからである。

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このような教化の二義は、もとより一教化の重畳的二 義としてその意味的構造を示している。すなわち、具体 義は基本義に依止し、基本義は具体義に依って具現化す る。ということは、教化の基本義のつねなる反復を怠れ ば、必然的にその具体義は単に真宗の応用機能として教 学と教化の実体化となり、教学の固定化、教化の世俗化 ︵世俗への追随迎合︶として、教化と教学の話離を招く ほ か は な い 。 立 に 成 い の 遇化 出教 \/ 願 願 第 第 名 名 称 聞 仏 生 諸 衆 \/\/ 仏 号 生 諸 名 衆 師 法 資 体 容 体 主 内 客 が を に A U , 刀 、 ヵ 誰 何 誰

t

る 動 、 え 契 借 入 一 a 一 j ︵ このような見極めにおいて、その具体的教化の取り組 みを課題とするとき、改めて次の二点を指摘確認したい。 一つは、﹁教化﹂の基本義からして教化の実践に取り 組むことは、取り組む者自身が仏に教化せられていく者 であること、つまり真宗仏教に生きる姿勢でなければな ら な い こ と 。 いま一つは、同時にそれが現代という歴史的・社会的 状況において、それを客観化していく視点をつねにもた ねばならないこと。 こうした教化の取り組みは、現代において真宗仏教に あ か 生きようとする者の具体的客観的証しにはかならない。 衆生と名号の出遇い……教化の日的原理 諸イムと衆生の出遇い……教化の方法原理 諸仏と名号の出遇い……前二の相即原理 ︵講師・同朋大学特別任用教授︶

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講演 真宗大谷派教学大会 二

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四年度

教義と教化の循環

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教義と教化の循環 皆さんこんにちは。ただいまご紹介をいただきました 藤本です。皆様方にとって大事なこの教学大会という場 に、私のような者が立たせていただいていることを恐縮 至極に思いますし、またありがたく思います。 先ほどのご紹介にもありましたように、私は五年間こ の大谷大学で学んだ者であります。少し大げさですが、 人生の若い暗閣の時代を過ごしたと言っていいかもしれ ません。しかしその時代には、ちょうど曽我量深先生、 金子大栄先生、そして西谷啓治先生などが大谷大学にお いでになりました。その先生方のお姿を拝見し、また授 業を聴聞するだけで、今申したような私の暗い気持ちが、 徐々に喜びに変わっていった若き時代であったと、懐か 13

しく思い出しております。そういう先生方の授業を受け たり、またこの大学の雰囲気のなかで考えていたことに よって、本日掲げさせていただきました﹁教義と教化の 循環﹂ということが、現在の私自身の大きな課題になり つつあり、今日に至っております。 これはどういうことかと申しますと、宗門は違います が私も浄土宗の僧侶でありまして、その立場から、私に とっては宗派の学である浄土宗学と、それから僧侶とし ての教化︵きょうか︶が、どうあるべきかということが 常なる課題だからです。そういうわけで、ここに掲げた ようなテ

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マを一応提出させていただきました。このよ うな問題は定まった意見というのはないのではないかと

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14 思いますので、これはどこまでも私のごく個人的な意見 ということに止まります。このことをお許しいただきな がら、今日の講演をお聞きいただければと思いますし、 そしてまた﹁教義と教化の循環﹂ということが、何を意 味しているのかということについても、私のなかではま だ熟しておりません。しかし一方でこの問題は、宗門人 の課題として大変大事なことでありますから、このよう な認識のもとで本論へ入っていきたいと思います。お手 元のレジュメに、四点ほどゴシックで書き出しておりま すことを中心に、お話しをさせていただきたいと思いま す。今日は私が前座を勤めるのですが、その後で重厚な ご講演をなさいます池田勇諦先生のレジュメを拝見いた しますと、私のお話しする内容は、本当に若気の至りの ようなものだと感じるのですが、そのことをお許しくだ さ い 。 まず一つ目は、教義それから教化というように捉えて みました。今大会の中心テ l マは、﹁教化と教学﹂とい うことでありますが、教義学や教化学というようなこと を話題にする場合に、やはり先に教義・教学があるだろ うと思います。そして、そのうえに現実の問題として、 教化というものが機能を果たすのであろうと思います。 ところがこの両者は、同じレベルを持っていることをま ず確認する必要があるというのが、講演要旨一に挙げま した﹁問題の所在﹂ということです。つまり、本日お話 しすることのなかに、すでに前提としていることがある のです。この前提のなかには、どこまでも宗祖を始源と しながら、歴史を通じて培い、伝えてきた信仰・制度・ 儀礼・思想・学問、およびそれらの中心となる精神的な あり方などがあると思うのです。つまりそれは、宗門・ 宗団・教団・宗派の形成の原理であると言ってもいいと 思います。そして、講演要旨には﹁時代﹂ということだ けしか書き出しておりませんが、具体的には﹁時代﹂と ﹁人﹂に接していくということがあるように思われます。 このように原理というように捉えますと、非常に抽象的 になりますが、宗団・教団・宗派が形成されているとこ ろにある核︵コア︶のことを、私どもは決して忘れては いけないという意味です。しかもそれが時代を超えて、 それぞれの時代、そしてやはり人に接するということで あ る と 思 い ま す 。 その場合に、今申しあげました﹁教義﹂という側から 捉えていきますと、次のような現象を指摘することがで きると思います。それは一宗の教義を﹁宗乗﹂と呼んで

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教義と教化の循環 いた時代があります。それが

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一 小 学 ﹂ と 呼 ば れ る に 至 る 歴史があります。現代では、例えば真宗学・浄土宗学と 呼びますけれども、以前には宗乗という言葉があったと 思います。この宗乗から宗学へという変容と、教義と教 化の分離ということが、顕著に現れてくるようになった のではないかというように捉えてみます。それはどうい うことかと言いますと、元々、宗門人の教育養成は宗乗、 すなわち﹁自らが宗︵中心として重んじる︶として乗り 込む︵目的へと運ぶこということであったのです。そ してその他を、﹁余乗﹂というように位置付けたという ことがあると思います。 一方で、近代における学問のサークル形成のなかで呼 称される﹁宗学﹂というのは、どういう要素を持ってい るのかという問いかけができると思います。それはやは り宗学というふうに呼称されるに及んで、いわゆる知識 ︵ 印 口 H 店 内 巾 H 学︶という性格をきわめて濃厚にしてきで いると言えます。宗学が知識の学となっている。そして ﹁自らが宗として︵中心として重んじる︶その教えに乗 り込む︵目的へと運ぶ︶﹂という信仰・実践、そして人 間形成というような観点・特質がどちらかといえば希薄 化されている。知識の問題としての比重が大変高くなる 15 なかで、教義という言葉が概念化され、一方で教化が信 仰実践として捉えられる。このような分離現象が、かな り顕著になってきているのではないかという問いが立て られます。これはあくまで一つの仮説でありますし、私 がそのように受け止めているということです。そ h つ い た しますと、概念化としての教義・教学に、いかなる存在 意義があるのかと言われてしまうかもしれません。いさ さか乱暴な方向で捉えているかもしれませんが、教義と 教化、あるいは教学と教化というように並べますと、今 申しているような問題があろうかと思います。 そこで、講演要旨一の③にあるようなレベルで考えて みたいと思います。私どもはそれぞれ宗祖および列祖に ついて、その方々が仏道を実践するということと、その 方々が生きた現実と精神が言語化された言葉というレベ ルがあることを、注目する必要があるのではないかと思 います。例えば、真宗の宗祖であります親驚聖人の場合、 または浄土宗の宗祖である法然上人の場合についても、 宗祖の言葉が概念化されていくという方向よりも、むし ろそこに、宗祖自身の仏道における現実と精神が言語化 されているという受け止め方について、注目をすること が必要ではないだろうかと思います。この仮説は、 私 ど

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16 もが戦後の近代諸科学・諸学問のなかで位置付けながら、 例えば大学で学ぶ宗学ということと、宗門における宗乗 実践の場面としての教化が、どこで重なり合うのかとい うことをかなり意識しながら、このようなことを申して いるわけであります。 このことを、私は次のような指摘から重要視したいと 思っています。いささか異質なことなのですが、実は、 私が大谷大学の大学院で学んだのは宗教哲学なのです。 そういうなかからの発想が一つありまして、ある言葉を 紹介しておくことによって、今申していることについて、 その課題の方向を示すことができるのではないかと思う のです。例えばキエルケゴ

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ルという人が、次のように 語 っ て お り ま す 。 もろもろの概念はもろもろの個人と同じようにその 生まれ故郷への郷愁をもっている これを見ますと、どんな言葉であっても、その言葉には 生まれ故郷があると言うことができるかと思います。ま た、ハイデガ!という哲学者は次のように言っています。 ことばは存在の家である。それを語る人がそこに住 む このような指摘であります。我々が宗祖の言葉を受領し、 またそれぞれが宗祖の精神に基づく宗門人としてのあり 方について思うときに、ここで二人のヨーロッパの哲学 者達が指摘するような姿勢というのは、とても大事なこ とではなかろうかと思います。 例えば、浄土宗の法然上人の場合で申しますと、﹃選 択集﹄という書物の努頭には、まず﹁南無阿弥陀仏、往 生之業、念仏為先﹂と書かれています。これを見ますと、 ﹃選択集﹂を﹁せんちゃくしゅう﹂と読むか、﹁せんじ ゃくしゅう﹂と読むかということや、﹁為先﹂であるか、 ﹁為本﹂であるかという問題があります。しかしながら、 そういうことはさておきまして、やはりこの十四丈字に 法然という人の言葉が語られる大きな背景が読み取られ たなかで、﹃選択集﹂の第一章段から十六章段までを、 解釈していかなければならないと思うのです。それから、 我々が﹁御遺訓﹂と申しております﹁一枚起請文﹂の結 語は、﹁ただ一向に念仏すべし﹂というように結ぼれて います。このような言葉を、我々はただ書き表された言 葉だけのレベルで理解しようとするのか、またはその言 葉の出所、つまりそれぞれの生まれ故郷への郷愁を持っ て、またそれを語る人がそこに住むというような事柄へ と切り込んでいく姿勢で、その一言葉を読み込んでいくの

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教義と教化の循環 かによって、まったく深まりが違ってくるのではないか ということなのです。 先ほど、私は概念化としての教義が、いかなる存在意 義を持っかという問いかけをしましたが、そういうこと と結びついていると思いますとともに、実は教義と教化 が共有すべき根本性格の再確認ということを、我々は求 められているように思います。そこで、私は浄土宗学を 学んでおり、また浄土宗門人の一人でありますので、少 し私どものほうに話題を引き付けて、今の問題を少し語 っ て い き た い と 思 い ま す 。 そこで私は、教義︵教学︶を不変性を持つものとして 捉え、それから教化ということを、次のように受け止め ています。それは教︵育︶・化︵育︶というように、﹁育 てる﹂ということをそこにおきながら考えてみますと、 教︵育︶・化︵育︶が可変性を持つものとして見えてく るわけです。それらは、変わらざるものと変わるものと いう言い方もできますし、一方でわかったようなわから ないような事例ですが、﹁月と月を指すゆぴ﹂というよ うにイメージしてみることもできるでしょう。このよう な提案のもとで三点ほど話題にいたします。 先ほど申しましたように、それぞれの宗派・宗団は、 17 伝統的に変わらざるものの伝承を現に誇示しています。 そして、その変わらざるものとはどういう意味を持つの か、またそれが時代の変化とか人々の多様な考え方にど のように対応していくのか。この二つに問題が集約され ると言っても、過言ではないだろうと思います。浄土宗 義の場合にも、その問題は常に今日に至るまで存在して おりまして、講演要旨に書き出しておきましたように、 浄土宗義の伝承という場合、大きく﹁祖述﹂と﹁顕彰﹂ という言い方をしております。 ﹁祖述﹂ということを端的に言えば、﹁一器の水を一 器に移すが如し﹂というように一言えますし、または﹁口 伝﹂と言い得るかとも思います。このことを、浄土宗に おいては二祖三代ということが言われまして、高祖善導 大師、そして浄土宗元祖法然上人、二祖聖光房弁長上人、 三祖記主禅師良忠上人というようにその教判があります。 これは教義の領域で不変的、つまり変わらざるという性 格を持つものとして伝統的に扱われてきました。 そして一方で﹁顕彰﹂という言葉があります。これは 講演要旨を見ていただきますと、﹁時機相応性﹂、または ﹁祖述されたものの練磨﹂という言葉を出しておりまし て、これは祖述されたものが、それぞれの時代・人によ

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18 って練磨されていくというような意味合いを持っている わ け で す 。 このように考えますと、この二つが別個のことである のか、またはどのような関係にあるのかということが、 本日の教学大会における話題であります、﹁教化と教学﹂ という問題でもあるように思われます。今は大きなスパ ンで、このことを話題にしていると考えていただきたい と思います。そ、ついたしますと、実は教学・教化と区分 けし、固定化していくことではなくて、むしろ次のよう な捉え方ができるのではないかと思います。それは宗祖 法然および列祖の教行、つまり信仰実践や念仏行をとお して理解するとき、例えば宗祖の中に祖述と顕彰を指摘 できないかという意味なのです。 皆様方であれば、大谷派宗門の宗祖親鷺聖人の行実を とおして、不変的なものと可変的なものが捉えられるは ず で す 。 も つ と ニ = にできない大事なことと、そしてまたいろんな方にお出 会いになりながら、いろんな方に一一言葉をかけながら教え 導いておいでになる、その言葉があるでしょう。このよ うに捉えることができるのではないかと思います。宗祖 というのは、そういう幅を持っておられる方のように私 は感じます。もちろん列祖もそうであります。そういう 点において、実は今申しているように、教学・教義の側 面と教化の側面が、宗祖において連続していると見なさ ざるをえない宗祖観というのも、大事なことではなかろ うかと思います。しかしながら、後世になりますと、こ れが徐々に分析・整理、また体系化されていきまして、 それぞれがどんどん離れていくわけですね。ちょうど一扇 子のようになるということですね。要︵かなめ︶のとこ ろは一緒なのですが、それがどんどん離れていって、こ ちら側が教学、あちら側が教化というように思ってしま う。しかし、本当はつなぐものがあるから、二つの関係 が成り立っているということを我々は忘れてしまうわけ です。ただし、このような言い方をすれば分かりゃすい のですが、実際は何も解決しないのです。しかしこのよ うな点において、浄土宗義の伝承というようなことと、 各宗派の教学教義の伝承ということについては、必ずや 符合するものがあるのではないかと思います。 そのようななかで、講演要旨二の②にありますように、 浄土宗におきましては第七祖聖同︵しようげい︶という 方による、諸宗超過の法門の組成ということが提示され ます。つまり、浄土宗というものが、他の宗派を超え出

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教義と教化の循環 ている優れた法門だということを、組み立てていくとい うことがなされます。 ここには一つ理由があります。それは浄土宗宗団また は教団が、その当時一宗としてまだ認知されていなかっ たという、日本仏教史上の状況があると言わなければな りません。その取り組みにあたりまして、すでに申しま した宗祖法然、二祖弁長、二一祖記主の著述である三巻七 書に基く、伝宗と慈覚大師正流の円頓戒の伝戒とを具備 した、﹁伝宗伝戒制度﹂を確立することによりまして、 内外ともに浄土宗教団の成立に至るという歴史がありま す。そこで、具体的にどういう一歩を踏み出したかと申 しますと、﹁五重相伝﹂という相伝を制定していくこと になり、そこにおいて教義の統一化がなされ、そして後 世には、在家の方々への教化として展開していく取り組 みを提示していくことになるわけです。したがって、こ の転換点からは、教義と教化を繋ぐ役割をこの﹁五重相 伝﹂が果たしており、今日でも大変大きな意味を持って おります。実はこの聖同という方が、真宗教団における 蓮如上人にあたる方ではないかと私は思っておりまして、 数年前にこの大谷大学で日本印度学仏教学会が開催され た際に、﹁教団中興﹂という関心のもとで、蓮如上人と 19 聖向上人とを話題にして発表したことがあります。しか しながら、それ以後はこの研究は全く進んでおりません。 このような流れのなかで見ますと、やはり教義と教化、 教学と教化という問題において、それぞれの宗派で取り 組んでこられた伝統的な先輩たちの積み重ねがあるよう に思います。こういうところに、先ほど申しました不変 性と可変性ということの重なり合いや、さらには﹁月と 月を指すゆび﹂という発想のなかで、事柄が展開してい る一例を見ることができると思います。 講演要旨二の③に、﹁浄土宗教義の綱格﹂ということ を記しておりまして、浄土宗における教義という問題を、 非常に簡明に削りあげたところで捉えていく綱格であり ます。そこでは概念として、浄土・阿弥陀仏・念仏とい うように特徴づけていきます。浄土は指方立相であり、 阿弥陀仏は報身であり、念仏は口称であるということに なります。これは変わらざる事柄として、浄土宗教義の 綱格をなしています。そして、これらは次のような別の 呼称を持っています。先ず、浄土については、所求︵し ょぐ︶と言いまして、求める所として浄土を捉えます。 それから、所帰︵しよき︶と言いまして、帰依する所と して阿弥陀仏を捉え、そして﹁去行﹂︵こぎょう︶という、

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20 去︵ゆ︶くべき行として念仏を捉えていきます。この所 求・所帰・去行という概念ですが、これは今申しました ように、求める所、帰依する所、行うことというように、 実践の項目としてそれぞれの概念が意味を持つという捉 え方をしております。このように所求・所帰・去行と捉 えていくなかで、浄土宗の教義として、浄土は指方立相 の西方極楽浄土、つまり西方に有相的︵形あるもの︶に 説かれる浄土であり、阿弥陀仏は法身ではなく報身の阿 弥陀仏である。そして念仏は、口に称える念仏であると いうように宗義がおさめられています。このことは、 ﹁求めるところはこれなのだ、帰依するところはこれな のだ、行うところはこれなのだ﹂というような単なる概 念化でなくて、ム 7 申したような実践するということを想 定しながら、そういうレベルをもって浄土宗義の綱格が 伝えられています。 それから、所求・所帰・去行というこれらの概念を、 先年亡くなられました藤堂恭俊先生は、今日的な用語と して、﹁信仰の目的、信仰の対象、信仰の方法﹂という ように表現されています。このように、先程から話題に している事柄を、時代と重なり合うこととして捉えよう とする方向を見ることができます。 このことをもっと具体的に考えてみますと、 私たちの日常生活のなかでこんなことが言えるのではな いかと思っております。私たちは誰でも﹁あなたは何を 求めているのですか。あなたは何を拠り所としているの ですか。そのために何を行うのですか。﹂という問いを 持っているように思います。これは、どんな人でも、ど ういう場合にでも抱いている問いだと思います。ただそ の問いは、非常に相対的な問いなのですね。その求めら れているものが手に入ったら、それはまた次の求めがや って来るのです。ですから、それは一面で言えば欲望な のかもしれません。このように私どもは日常の意識のな かで、何かを求め、何かを拠り所とし、何かを行うとい うような意識の芽生えを持つ。これが凡夫の仏教である と思います。凡夫というところに立つ指し示しというの は、こういう内容ではないかなと個人的に思います。そ して、この欲求が相対的な求めに終わるのではなくて、 究根的、絶対的最終的に、先程から申しておりますよう に、往生浄土を求め、阿弥陀仏を拠り所としながら念仏 を行、っ。そういう在りょうへと教育・化育されるところ に関連付けられていく。このような大変特徴ある着想が、 私どもの日本浄土教にはあると言うことができると思い し か し 、

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ま す 。 教義と教化の循環 そうしますと、相対的に我々が日常性のなかで求めて いることは、常に同じところで循環しているわけで、こ れが究極的なところに向くためには飛躍、あるいは断絶 があるのですね。連続面で捉えようとしても、それは非 常に困難だと思われます。そういうところに、か信仰 d とかグ実践 μ というときの大事な要素が込められている。 この信仰や実践という要素こそが、教学・教化のコアで あると言うことができるのではないかと思います。もっ と極端な言い方をすれば、教学と教化は、信仰と信仰の 実践ということを共通に持っていると位置づけられるこ とにおいて、私どもそれぞれの宗派における宗祖、そし てまた今日における私たち一人ひとりの役割が方向付け られていくと考えるのです。私自身は浄土宗学、法然浄 土教の研究を進めており、一方で浄土宗の僧侶でありま すが、今申したような事柄が、日本仏教における我々の 宗派の特徴であり、また今日的な大きな役割ではないだ ろうかと考えています。 次に、教学と教化をどのように捉えるかを考える際に、 ﹁教義と教化の循環﹂ということを提起しておきます。 これは私自身がここ十数年間課題にしておりまして、教 21 義と教化がどういう間柄で、いかに機能的に、そしてど のように今日的な役割を相互に発揮し得るかということ から捉えていく視点なのです。宗祖の仏道、つまり白行 化他を起源・基本として教義を理解する。このようなレ ベルで考えることが可能ではないかと思います。これは どういうことかと申しますと、例えば道元禅師が﹁古仏 の学︵まね︶ぴ﹂ということを言っておられますが、学 ぶ側の私たちが﹁宗祖への学︵まね︶び﹂、つまり宗祖 の生き方の学︵まね︶びというような姿勢を持続するこ とが、教学においては大事だと思いますし、もちろん教 化においても言わずもがなだと思います。このような姿 勢が保持されるときに、教学が近代の学問のサークルに ありながら、宗学としての大切な特色を発揮していくの であろうと思います。 なぜここまで指摘するのかということについては、講 演要旨三の②に示しております。これは私の偏見かもし れませんが、宗派の学は近代諸学への同化傾向によって 発生する様々な長短について、あらためて聞い直すべき だと考えるからです。つまり、﹁宗学﹂・﹁教学﹂とい う も の が 、 ﹁ 印 口 広 ロ ロ 巾 H H ﹂ と し て 一 不 さ れ て い る よ う に 、 これが近代諸学とどういう関係にあるのかを確かめ直さ

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22 なければ、単に近代諸学へ同化していく傾向が顕著にな ってしまうのではないかということです。このことに無 反省のままですと、宗派の学は必ずや知識の学になって しまうのではないでしょうか。ですから、このような同 化傾向によって発生する良い面と悪い面を、冷静に聞い 直すことが大事なのではないかと思います。 例えば文献学・古文書学・歴史学・宗教学・哲学とい った様々な諸学から、その学問の方法を援用するのはい いのですが、﹁援用﹂ということを超えて、教学自身が 飲み込まれていくということが発生しがちなのです。例 えば諸学のなかに位置するものとしての浄土宗学、真宗 学も同じだと思います。ですから、その﹁学﹂自身の特 徴はどこにあるのかという問いが、内側から出てくる必 要があるのではないかと思うのです。その点に、この教 義や教化という課題は関わっているように思いますので、 宗学や教学自身の根本的な特徴を自覚し強調すべき時期 ではなかろうかと思うわけです。ただし宗派の学は、教 義を中核・コアとする、先ほど私が﹁信仰の学﹂という 言い方をした主体的な学、仏道ですので、そういう独自 の特質をもった学びというのは、近代的な学問とは言え ないという指摘が一方から起こるかもしれません。しか し、そのように区別して考えることのできない特色を、 先ほど申しました﹁宗乗﹂という言葉で培い、含蓄深く 営んできた歴史があるということを忘れてはいけないの ではないでしょうか。教学の根本的な特徴を確かめ直す ことが、このような宗派の学の歩みを、再度見直す契機 にも結びつくと思います。 そして、このような独自の学的特質を保持するには、 方法と対象、または信仰と教行というような実践を堅持 していくことが、重要であろうかと思います。今申して いるようなことに立ちますと、多分皆様方が持っておら れる教学のイメージとは若干違うような事柄を、私が申 しているようにお感じかもしれません。しかしながら、 宗派の仏教研究そのもののなかでは、やはり﹁仏道﹂と いう観点においてずっと脈絡してきた長い歴史があると 思います。そしてその長い歴史のなかで、その仏道を ﹁ 印 己 巾 ロ ロ 巾 H 学﹂として捉えようとする近代の学の特徴 があることを勘案いたしますと、やはり宗祖および宗祖 以後の列祖方が培ってきた大事な事柄は一体何なのかと いうことを無視していては、私たちの宗派・宗団、また はそのことを背景とする学問は成立し得ないのではない か。少し極端かもしれませんが、私はこのように考えて

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お り ま す 。 教義と教化の循環 そうすると、今のように教義と教化の循環ということ より、むしろ﹁教化学﹂というところで、全てが押さえ られていくべき性格を有しているのかもしれません。た だし、現代の学問の状況でいきますと、﹁学問的なこと と学問的でないこと﹂というような区分けの仕方が、平 気でなされてしまう時代ですから、今私がしようとして いることは、学問的だと言われているものに、少し問い を投げかけてみるということでもあります。 それでは、教義と教化ということについて、先程申し ましたもう一つの視点によって、現在私たちが立ち、ま た私たちの使命としてある役割を、次のように一言うこと ができるのではないかと思います。このことを提起して おります講演要旨四のところを見ていただきます。ここ では不変不動なる大地を教義と考える。そういう大地が あるゆえに打ち寄せてくる潮流が、波打ち際を形成して いくということです。不変にして不動なる大地を﹁教 義﹂、そして打ち寄せてくる潮流を﹁時代﹂というよう に考えますと、そこに実は波打ち際としての﹁教化﹂が できる。このような現象として、これまで見てきました ﹁教義と教化﹂の問題を捉えてみたらどうかと思うので 23 す 。 実はさきほどご紹介にありましたように、私は山口県 にある瀬戸内の周防大島というところに生まれ、海辺で 育ちました。したがって、海に関する色々な現象を小さ いときから経験しています。例えば港に浮かべてある桟 橋を見ていると、桟橋が動きますから波が打ち寄せても 波打ち際はできないのです。ところが、波が大地に打ち 寄せてくると波打ち際ができるのですね。大地が動かな いから波打ち際ができるということを、大変興味深く経 験してきました。今私が何を言おうとしているかと言い ますと、私たちが波打ち際を﹁ああ締麗だな﹂と高みの 見物をするのか、そこに足をつけて踏ん張るのか。その 違いが重要だということです。その波打ち際を遠くから 見ると締麗です。これを私は評論や解説のレベルだと思 っています。やはり私どもが教化と言うときの教団の役 割というのは、その波打ち際を眺めて評論するのではな くて、そこに足を踏み入れていくべきであるということ なのです。そういうアプローチの仕方をしますと、その ことによって分かってくることがたくさんある。そうい うことのなかに、私は血肉化とか、教育・化育というよ うなレベルでの﹁十育てる﹂ということが、見えてくると

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24 思 い ま す 。 そして、講演要旨四の②にありますように、﹁教義は 濃縮された理念﹂というように受け止められるのではな いかと思います。この濃縮された理念は、濃縮果汁のジ ュースのようなものだと理解してみたらわかると思いま す。例えば、お客さんに濃縮ジュースをそのまま出して も喜んでくれないでしょう。やはりそこに塩梅して、あ る程度相手の好みに合うように薄め、そして差し出すと いうことは常識です。これと同じことだと思います。相 手に応じてその教義を提供していくことが﹁対機﹂とい うことであり、これが相手に応じて説法をするというこ とでしょう。これこそが、教義を具現して教え、導き、 育むという営みだと思います。 したがって、私自身が法然浄土教を学び、宗学の事柄 を学問のこととしている。一方で私は、浄土宗の僧侶と して自坊でいろんな方々に出会います。一方でその折に は、﹁教化﹂というのはどういうことなのかを考えざる を得ませんし、そのことで役割を果たさなければ、私が 一方で成している﹁学﹂という事柄は意味がない。この ような現実を自分自身に見ることもあるくらいです。よ って、理念を現実へと応用するということではなくて、 現実を理念へと高めることが必要になってくるでしょう。 これは先ほども申しましたように、﹁あなたは何を求 め・何を拠り所にし、何を行いますか?﹂という我々の 日常的な聞いを媒介としながら、先ほど申しましたよう に、往生浄土・阿弥陀仏・念仏という方向へと高めてい くことが、﹁教化﹂の中身ではなかろうかと思います。 そうすると、今から言います表現はいささか語弊があ るかもわかりませんし、また適当ではないかもわかりま せんが、このように言えるかと思います。﹁教義なき教 化は盲目的であり、教化なき教義は空虚である﹂という 関係です。これを私たちは常に背負っていると言い得る でしょう。どうしても盲目的になりがちだし、どうして も空虚になりがちである。しかし、盲目であること、空 虚であることに気がつかずに、白己満足に陥つている状 況 で あ る と も ニ Z たは宗団.宗派の構成者の持つ役割というのは、こうい う状況にアプローチするところにあると思います。 そういたしますと、最後に講演要旨四の③のところに ありますように、教義と教化というものはまさに重なり 合い、そして循環する。このような考え方を取ってみる ことができるのではないかと思います。このことは、日

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教義と教化の循環 本仏教を支えてきた宗祖たちの生き方のなかに、すでに 一不されているというような宗祖観を持つことも大事なこ とだと思います。そういう宗祖観が、やはり現代に至っ てどうなっているのだろうかと私自身反省させられます し、このことが﹁教義と教化の循環﹂というような問題 に連なっていくのではないだろうかと思います。そうい う意味でこの教義と教化の問題は、日本の仏教宗派、ま たは宗門人にとって、実は、古くて新しい課題であると いうように捉えられるわけです。 したがって、宗派の違いなどは全く関係なく、それぞ れの宗門人が同じように課題としていかなければならな い話題として、先ほどから申しているような事柄が指摘 できると思います。また、そういうところから宗学・教 学のあり方、そしてまた教団における教化のあり方が、 表面的なところではなく、根っこの基本的なところでど っしりと取り組まれていくような状況が、望まれるので はなかろうかと思います。 先ほどから、私は﹁思います、思います﹂という言葉 ばかりを重ねています。こういう問題に関しましては、 決して断定することのできないことであり、それぞれの 方において深いところで受け止めていく、宗教の本質に 25 関わる大事な問題であると思います。そういう大事なこ とをテ

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マとして、去年に引き続き今年も教学大会が開 催され、真宗大谷派が教学・教化のあり方を確かめ直そ うと考え、問題提起をなさっていることに、私は学ぶと ころが大変多く、大いに考えさせていただきました。 いろんな点でゴツゴツして、消化できていないことが たくさんあります。また、私自身の問題意識が前面に出 すぎまして、非常にお聞き苦しい点があったかもしれま せんが、どうかそのことをお許しいただきまして、本日 の私の講演は終わりにさせていただきます。はじめから 終わりまでご清聴いただきまして、大変感謝いたします。 どうもありがとうございました。 講演要旨 一.問題の所在 ! 教 義 と 教 化 が 問 題 と な る レ ベ ル の 確 認 | ①教義︵学︶と教化︵学︶とが前提としていること← 宗祖を始源として歴史を通じて培い伝えてきた信仰・制 度・儀礼・思想・学問など、及びそれらの中心となる精 神的在り方 H 宗門・宗団・教団・宗派の形成原理←それ

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