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一普通学校労働教育史3一

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(1)

就学率向上期における手工と農業の問題

一普通学校労働教育史3一

技術科教育研究室 永 島 利 明

問題の所在        これはともかくとして・裁縫は女子の就学率と比例して

実施校は増加している。

1893(明治25)年より1902(明治35)年までの時期は  つぎにいわゆる加設教科のおもな履習状況を示す。

産業革命が進行し,男女ともに就学率が大幅に向上した。

特に女子の場合,1893(明治26)年7月22日の文部省訓令   表3 主要加設教科の履習状況(尋手は尋常小学の手

「女子就学並裁縫教員二関スル件」が出されてより各地     工,高手は高等小学の手工,ほかは高小の教科で で裁縫が加設され就学が向上した。尋常小学校の就学     ある。×印は英語との兼修を示す。実施校が10校 率は1892年に男71β6%,女3α46%,1893年には男7476%    以下の手工・農業と手工・商業を省略。文部省年 女4α57%であるが就学率と裁縫履習の関係は,表1に示

報より作成)。

す通りである。高等小学の就学率は表2に示した。表中

フ裁縫手工とは刺しゅうや編物などの手芸のことである。   教科

N号

尋手 高手 農業

商業

農商

農手商

英語

表1 就学率と裁縫等の履修状況(就学率は日本近代 1895

8

14

154 44 4 0 不明

教育史辞典,履習状況は文部省年報よ り作成) 1896 7 6 216 49

13 29 不明 内容

就 学 率

裁縫実

裁縫

1897 3 17 265 39 16 0 不明

年号

施校数

手工

1898

4

22

297 49 21 0 不明

1895 7α65

43.87

3β93 56

1899

7

16

329 38

10 16 不明

1896

79.00 47.53 4,550

41 1900

8 44

430

16 9 1

346

1897

80β7 5086

4,782

84 x4 x14 x4

1898 8242 5a73

5,406

11

1901 14 19

676

43

5

0 445 1899 85.06

5904

6,475 8

1900 9055

71!73 6,966 16

x29 ×14 『 一 一

1901 93.78

8180

7,713

4

1902

26

29

1125

60 9

0

517

1902

9580 8乞00 8β62

39

x34

x11 ×2

表2 小学校令以後の高等小学校就学者・率の推移 表2によれば,尋常小学校の手工や高等小学校の手工

(緻は帝国統計鴇就学都文部省年軸こよ署1

および商業は横ばいを続け,農業は徴増している。しか 西暦 該当年齢人口総数 就学者 就学率 し,高等小学校ほ1895年には3590校あったものが。1902

男 女 男

1886 P893

1,556ユ26

P774β16

1,515,142 P,741,986

8β26 U0,335

1452 Pag60

0.54

≠S0 α10

O80

年には8281校と倍増しているので,相対的には減少して     1)いるといえる。しかも,手工や商業のこの低い数字すら

1896 1,758,439 1,730,773

431,316 107,408

24.53

621 も水増され七いるという証拠がある。1900(明治33)年

1898

1,783β89

1,744,641

540,676 149,409 3031 &56 に中川謙二郎が東京の手工および商業を視察したことを

1903 1,821,439 1,777,381

748ρ43 295,930

41.07 1(L65

つぎのように報告しているのがそれであ銑

1908 998ρ56

975,389 433,548 193,901 4a40 1a88 「東京市公立小学校中商業科を加設させるもの二十校

1913 1,083,018 1,041,787

266ρ13 123292 24β5 1183 手工を加設せるもの十校あり。文部省は自今益々実業教

(2)

160      茨城大学教育学部紀要 第26号

育の普及発達を計るの方針より,是等低度の学校に於  場のような傾向があったという。

ける実業教育の実況を視察する必要を感じ,過般特に   従来の研究では「手工科の製作は専ら実用上の価値の 中川謙二郎を兼任視学官となし,去る十六日より前記  みを目的として行われ,常にその収益の如何を問題とし,

小学校を巡視せしめしに,案外にも各校自儘にその教  その製作に伴う価値に留意しなく」なったことが,手工 授を中止し,只僅かに形式のみの教授を施し居るもの 科を衰退させた理由であるという。この見解は1905年 は,商業科に浅草,育英,精華,城東の四校,手工科  に棚橋源太郎や岡山秀吉によって手工教育が職業教育化 に赤城の一校あるに過ぎざる有様(後略)」     したことが不振の原因であると主張されて以来通説にな このような実態であったので,表3の数字もかなり割  っている。当時,石川県を視察したある教師は「同県師 引いて考えないと,実際に程遠いものとなるであろう。  範学校其他三四ノ小学校ノ実業ハ確乎タル目的モ立チ教

この研究はどうして学校労働教育が不振であったのか, 授ノ方法モ整備セリト錐モ,其他一般ノ実業二至リテハ 政府はどんな対策をしたか,国民はどのように反応を示  世間ニモ言ハヤス程盛ニモァラズ,教授ノ方法ノ整備セ したか,を解明する。まず手工の不振感をみよう。   ルニモアラズ.又普通教育本分ノ区域ヲ踏ミ越エテ徒弟

      7)

@      学校ノ構内二進入」したとのべている。このように実業実業教育の不振観

が徒弟学校のような職業教育をしていたことは肯定でき 明治時代の小学校における手工科の不振の理由を解明  るが,しかし,この通説は単に教科の性格にのみとらわ する方法として普通行われているのは,1887(明治20) れているせますぎる見解である。また,棚橋や岡山は高 年前後に最も盛んであった石川県の実態を検討すること 等師範学校に在職し,教員養成の中心人物であったので,

によって行われている。ここでも同じ方法によって行う。 教育行財政に関係したことは批判できない立場にあった。

石川県ではある学校のみが課している特別実業と少数の  そのため教科の性格に限定した発言しかできなかったの       3−4)

w校だけではなく広く行われていた普通実業があった。      であろう。つぎにあげる奥山無言の説の方がより適切で

特別実業としては石川郡鶴来小の巻煙草,同郡保,宮  ある。

の白墨,同郡笠間学校のワラ細工,江沿郡大聖寺錦城京   「過去に於て手工科が失敗せる源(ママ)因は次の如し。

達両学校の陶器画,同郡山中学校のロクロ細工,塗物,   1 小学校を以って智識道徳の学を授くる場所となし まき絵のようなものである。普通実業としては農作業,   教師は只教授書を完全に授くるを以て唯一の理想と 養蚕が広く行われた。また,女子にのみ課するものとし   して,児童とそれが他日生活すべき社会との関係,

ては機械,編物,胸当,エリ飾り,エリ,カフス等の洋    教育と国家経済との関係を顧みず凡て近視眼的教育 服用品の製作や洗たく法があった。また,手工科も1888   法を以てし手工科の如き大工を養成する課業は小学

(明治21)年より行われた。       教育の無用とする所なりと思惟せること。

実業を課する時間は尋常科では正規の授業後に課した。  2 人民も一般に精神的学問的のことを学び実業的労 高等科では正規の時間では加設教科の1科目を加えると   働的の業は最も卑下して顧みざりしこと。

きは男子は6時間女子は3時間を限界とし,2科目以上   3 手工をもって農商業と同一の価値を有するものと を加えるときは男子は3時間,女子は2時間を限界とす    し工業と同一視し手工の真正の目的価値を認識する るという規定があったが,正規あ授業以外にも課されて   に至らざりしこと。

いた。その教育に必要な費用は寄附金,学校の職員が申   4 手工教育の方法不完全にして,徒らに困難にして 合せにより運営費を出して資本とするもの(寄附金では   壱個の物品に数十時間を費すが如き工業的製作を課 ない),父兄や商人より原料を供給してもらい加工して    したりしこと。

工賃の支払をうけて経費とするもの,学校費のなかに実   5 従って,手工を小学校に課せんとするには非常の 業費をもうけて支弁するという方法があり,それは一様   経費を要したりしこと。

ではなかった。       6 手工教員の不完全なりしこと。

ついで1889(明治22)年になると,手工も盛んになり,  7 手工教員の待遇悪しく従って其教員に乏しかりし 森有礼文相も巡視の際激賞したと、航ところが実際 こ2」

にこれを行う側では農業や手工を純然たる職業教育と解  奥山の不振観はほぼ妥当であるが,問題もある。その

釈し,極端な「もの作り」学習になり,学校が一種の工  ひとつは③の「手工をもって農商工と同一の価値を有す

(3)

るもの」と誤認されているとしている点である。小学校   である,(中略)手工といふものは殆んど図画と同様 の農商工の教育が職業教育であるか,または,普通教育   に専ら教育上の価を有っているもので実用上の価を持 であるかという問題は古くから問題になっていた。例え   っているものではない,普通に手工,農業,商業と何 ば,愛知県教育会は1893(明治26)年に,        時も三科を並べていうから一寸考えると三科同様の価

巨」・学校ノ実業教育二就キテハ方今世上二二様,見解ヲ   を持っているようにおもはれるかも知れぬが,農業,

下スモノアリーハ以テ農商工ノ実業二資セシムベキ専   商業はむしろ実用を目的としていると云ってよかろう 門的特殊教育ノ謂ナリトシ ーハ以テ人生日常ノ用二   けれど,手工は主として教育上の目的の為めに課せ       12)

K実ナラシムベキ実用的普通教育ノ謂ナリトス」     られるものである」。

とし,このように職業教育であるとするものと普通教育  とのべている。しかしながら,こどもが学習した農業や であるものと主張するものがいて,実業教育の方針が定  商業がただちに実用に役立つものではなく,その基本を まらないので,議題として討議している。この結論がど  学び,職業的教養を豊かにすることにあることは明かで うなったかは明らかではない。      ある。文部省がそれを実用的なものであると解釈を変え

1893年に当時の教育界を代表する人物であった西村正  た結果,「農業や商業は職業教育である」という誤解が 三郎,嘉納治五郎,野尻精一,能勢栄,国府寺新作,後  現場の教師の間に広がった。さらに手工の教師はこの2 藤牧太,三宅米吉,篠田利英の8人によって「実業教育  教科を職業教育として排斥し,図画と手工を合科させ,

施設二関スル意見」が公表された。そのなかで小学校で  労働や技術に関する教科を非科学的な芸術的なものにす 手工科を教えて器具を作り,農園を作って栽培を学ぶこ  る遠因を作った。後に沢柳が関係した成城小学校が図画 とは,必ずしも農民や労働者を養成するのではないが,  と手工を合科させた実践をしたことによって,この考え これも実業教育であると世間では言っている。このこと  方は広がっていった。(しかし,文部省は1906年には手 から考えると実業教育というのは,「必ズシモ実業二従  農商を同一に取扱っている)。

事スル者ヲ養成スル教育ノミヲ云フニアラズ・総テ実業     商品の製作実習と教材費を 者,地位ヲ高尚ニシ,一般ノ国民ヲシテ実業ノ貴重ニシ

      保障しない制度テ賎ムベキ者ニァラザルコトヲ知ラシムベキ教育ハ,皆

      lo)

Vヲ実業教育卜称スルナリ」とのべている。そして実業   つぎに岡山,棚橋,奥山等が主張した実用的価値のあ 教育の種類として小学校や中学校で行う「一般生徒二実  る品物を作ったために,手工が不振になったという見解 業ヲ車ズル精神ヲ養フ」ものと「実業者ヲ教フル」もの  が問題にされなければならないであろう。当時の手工を とふたつをあげている。前者は今日でいう普通教育の技  運営するための費用が一部は教育費として予算化された 術教育,後者は職業教育であることはいうまでもない。  とはいえ,不安定な寄附金や教師の投資した資本によっ

1900年の小学校令施行規則では「手工ハ簡易ナル物品  て運営されていたという事実は重要である。

ヲ製作スルノ能ヲ得シメ勤労ヲ好ムノ習慣ヲ養フヲ以テ   学制をしいたとき,政府は小学校費を町村が負担する 要旨トス」(後略)と規定していたのに,「農業ハ農業  ことを原則とした。しかし,いくらかの国庫補助金を府

二関スル普通ノ知識ヲ得シメ農業ノ趣味ヲ長シ勤勉利用  県に委託して町村に交付していたが,これを1881(明治

ノ心ヲ養フヲ以テ要旨トス」と規定し,「商業・商業二関スル  14)年に廃止した。1886(明治19)年になると,政府は

普通ノ知識ヲ得シメ勤勉敏捷ニシテ旦信用ヲ重スルノ習  地主を懐柔するために,土地に課税する町村費は地租の 慣ヲ養フヲ以テ要旨トス」と規定している。すなわち,  7分の1をこえてはならないと定めた。この地主の負担 手工には「普通ノ知識ヲ得シメ」ということばがないの  軽減により生じた教育費不足分を補うため,授業料制を に,農業や工業にあるのは,この分野の教育が職業教育  実施した。それまて授業料をとるところはあったが,全 であるという誤解が強かったからであろう。しかし,農  国の公立小学校の6割は無月謝であった。ところが米価 業と商業が普通教育より職業教育であるという解釈は,  は1881(明治14)年を頂点として下落し,1888(明治21)

1903年の小学校の改正から行われるようになった。当時  年には最低となった。したがって手工や農業を寄附金に の文部省学務局長沢柳政太郎は,       たよっている学校ではそうした寄附金を続いてうけるこ

匡工科というものは諜もしく膿業科と雑趣を殊 とは困魁なるはずで誌!

にしておって簡易なる工業と見ることは出来ないもの   また,1886(明治19)年より1887(明治20)年にかけ

(4)

162       茨城大学教育学部紀要第26号

ては教員の整理が行われた。教員1人につき生徒数は   み依頼すべきにあらす,教科書は膏に彼等の参考とす 1886(明治19)年には3518人であったものが翌年には   べきのみ,然らは教科書は客たり,之の主たるものは 47.74人となり,1892(明治25)年にけ5295人となり,    何ぞ,日前陳の如く農業は各地方に依りて習慣とする 1894(明治27)年には紙55人となった。明治20年代には  処あり 教育者は此習慣を知らざるべから魂従来失 50人代を維持し,ようやく1898(明治31)年には4&62人  敗せし処の多くは此の習慣を知らずして空理的の教授

と減少している.このようなすし詰め編成は教師1人当  をなせし故に,一方には父母の軽侮を招き,一方には り20人以下の生徒を教育することを最適とする技術教育  生徒をして嫌忌せしむるに至りしなり。教員たるもの にとっては不適当なものであった。       克く其土地の習慣を察し,以て該科教授の基礎となさ

さらに,1892(明治22)年4月より自治制が実施され,  は恐くは斯る患なからん。

教員の給与は町村の首長や議会によって自由に定められ   三、児戯的試験農業をなせし事。空理的教授をなす固 るようになった。このために税収が不足した町村は予算   より不可なり。故に学田を有する,学校杯にては,教 のなかでもっとも大きな割合を占める土木費と教育費の  師自鍬梨を執り,生徒をして実地に栽培をなさしたる

うちで,特に後者を圧縮した。そのため町村は教員給与   あり。之の為に大に父兄の信用を得しものもあるべし を削減しはじめた。このような環境のなかで教員が苦し  然り其多くは信用を失せり。何の故ぞ日農業は容易の

い俸料のなかから手工に資本を投下したとすれば,それ  業にあらず,見よ生涯専門に従事する人すら,尚旦作 を回収するのは当然であろう。      物に向て充分の看護をなす能はさるを,況んや片手業 もし,この教科を続けていこうとするならば,(経済  に之を為すをや,其児戯的たる宣免るるを得んや。寧 学的には再生産をしようとするならば),寄附金や資本   ろ他の一笑を買うべきのみ。否地方農業をして学校事

      15)

ニ同額以上の利潤をあげなければならない。そこにはも  業の如何に児戯に等しきものの感を抱かしむへきのみ」。

はや教育め論理はなく,利潤追求の道しかなくなる。教  と,3点をあげている。

科を維持していくためには実用的価値のある品物を作っ   農業の教科書は1875年頃から1890年頃までに民間から       16)

ト売らざるをえない。生徒の製作した作品を商品として 多く出版されている。その特色は外国の農業書を翻訳し 売ったのはそのためである。そうして「実業教育をもっ たものが多く,わが国の実情にあわなかった。しかもそ て普通教育を害する勿れ」といわれるほど時間をこれに れを読本として利用したので,農業の教科書というより あてざるをえなかった。生徒は反復し製作しなければ上  も,国語の教科書に近かった。また,その内容もこども 達しない。このことは教科の罪ではなく,教材費を保障  の発達を無視した難解なものであったから,教師から強 しない制度の欠陥である。現在でも農業高校の過度の才  く批判された。例えぽ,1890(明治23)年に香川県教育

入の問題や大学農場にも同じ問題をもっている。    会は「農学路志留遍及初学商業書ヲ廃スルノ議」を討議      17)

@  農業の不振,特に教科書について    している。

「小学読本農学路志留遍」は提正勝著で初・続の2冊 高等小学校の農業は手工より広く行われていたが,   からなり初版は1878(明治11)年であり,再版されその 1901(明治31)年までは学校総数の10%未満でありやは 手引まで発行されているところからみると,かなり普及

      14)

阨s振であった.その理由につ〜・て谷中長吉は,    していたと推定される。この教科書は洋書の翻訳ではな 一、実用に縁遠き教科書のみに依頼せし事。凡そ教科  かったが,変体仮名を多数使用している。初編の内容は 書なるものは,其何たるを問はず之にのみ依頼すべき  「田畠尺度の名目,五穀の名目,三草四本の名目,時令,

ものにあらず,殊に農業の教科書に至っては殊に然り 農具,播種の気節(ママ),気味を察する法,種子を撰 農業の各地方に大差あること決して一教科書に依り律  ぶ法,肥培を用いる法,苗代を仕立つる法,穀類を作る すべからざればなり。況んや現行の教科書の如き彼農 法(稲米,畠稲,大麦,小麦,粟,キビ,トウモロコシ,

学士等の欧米の農業学説を直に記せるもの甚多くして  大豆,小豆,蚕豆)の12章からなっているよ蚕豆とはそ 土地の広狭気候の異同によりて行はるべからざるもの  らまめのことである。)続編の内容は「三草の類を作る 多けれぽなり。之れ蕾に農業改良の参考となすべき而  法(カラムシ,アイ,紅花,木綿,麻,アカネ,煙草,

己。      イクサ,席草),四木を作る法(茶,桑,コウゾ,漆)

二、農業上地方の習慣を知らざりし事。実に教科書の  葉類を作る法(ラフクー大根のこと,カブ及油葉,茄,

(5)

バンショーさつまいものこと,甘庶一さとうきびのこと) カタ仮名で書いたのはそうした漢字で書かれたものであ 果木を作る法(梨,柿,柑類,ブドウ),家畜の類を養  る。どうしてこうした難解な教科書を書いたのであろう ふ法(牛,鶏,アヒル,密蜂,山蚕,塚蚕)の5章から  か。それには著者たちを知る必要があろう。つぎに1880 なっている。       年頃から1901年までに出版された主要な小学生用の教科

「初学商業書」は三原国一郎著で前後2冊からなり,  書をみよう。(1880〜1893年までに再版されたものだ 初版は1886(明治19)年であり,2年後に再版されてい  けをあげた。)

る。前編は27章からなっている。その内容は①通商貿易, ①提正勝 小学読本農学路志留遍初版五879年 再版

②卸売・小売及仲買商人,③通商貿易の効益,④商人の  1880年変体仮名使用 士族。

勉強すべき箇条⑤破産⑥利潤,⑦愛敬,⑧開店,⑨  ②塚原苔園校刻小学農業書初再版とも1881年変体 酒掃(清掃のこと),⑩広告,⑪商業学楓⑫貨弊,⑬  かな使用 士族。

度量衡⑭ドル・ポンド・フィート(英尺)・米 仏尺) ③爾師応 農学読本初版1880年再版1882年変体か 担(清量、・封度・トン等,⑮同業組合,⑯保険⑰保  な使用 平民。

険会社,⑱利子,⑲銀行,⑳手形,⑳証券,⑫印紙㊧  ④関澄蔵小学農業捷径初版1882年再版1889年士 商標,⑳専売,⑳郵便,⑳通信⑳電報とその料金であ  族。

った。後編は16章からなり,その内容はつぎの通りであ  ⑤中根寿 新選農業書初再版とも1886年 士族。

る。①会社,②利益配分,③雇主と雇人の関係を深くす  ⑥古沢角次郎 小学用農業書 初再版とも1887年 平民 ること,④商業の目的,⑤需要と供絵⑥簿記,⑦運輸  変体仮名使用。

交通,⑧商業博物館,⑨報告統計,⑩荷為替,⑪手形交  ⑦横井時敬 農業小学初版1887年再版1888年士族。

換所,⑫商法会議所,⑬共立商社,⑭取引所,⑮租税,⑯  ⑧村尾憧t郎小学農業教程 1895年出版 変体仮名使 登記と貸借であった。変体仮名を用いていた。当時の教  用 族籍不明 横井時敬校閣。

科書には著者の族籍が書かれていたが,三原の場合は不  ⑨片山熊太郎 小学校農業書1892年出版小学校教則 明である。       六綱16条にもとづき出版したとのべている。

香川県教育会における1農学路志留遍及初学商業書ヲ  ⑩佐々木祐太郎 小学農業書 1901年出版 高等師範学 廃スルノ議」についての議論からみると,この教科書は  校教授。

3年生以上に使われていたらしい。廃止論者は変体仮名   1879(明治12)年より1887(明治20)年までに発行し を用いていて学習が困難である。本来教科書は児童の能  再版されたものは7種類あり,そのうち4種類が変体仮 力にふさわしい文字や事実を選ぶべきなのに,このふた  名を使用している。また,著者は士族が5人であり,平 つの本は要点をかき,児童の負担にたえないというもの  民は2人である。繁体字のむつかしい漢字を使い,民衆 であった。これに対して反対論者は実業上の思想を起す  のあいだで広く親しまれていたことばを使用せず,変体 のは,この本があるだけである。民間には俳句や和歌  仮名を使用しなかったのは,教科書が武士の出身者によ などに変体仮名が使われているので,児童もそれを知る  って書かれたことと関係している。当時の士族は教育を 必要があるというのであった。採決した結果,廃止賛成  うけ文字を知っているインテリとして尊敬されていた。

13名,反対5名で可決されている。      だから,平民出身の筆者すら変体仮名を使用して士族の 当時の農業や商業の教科書は非常に難解であった。初  書いた文章をまねていた。士族は教科書を売るためのセ 学商業書の内容は現在では高校生を対象とした内容であ  一ルスポイントであった。

るが,それを小学生に教えるのであるから,その能力を   一方,提が「近世栽培ノ法。多クコレオ欧米ヨリ伝フ。

こえているといわれているのは当然であった。農学路志  然レトモ辺僻ノ民二至リテハ.唯二其良法アルコトヲ知 留遍も変体仮名を用いているだけではなく,民間で広く  ラサルノミナラス。我邦旧法ノ善ナル者ト錐。尚或ハ知 使われていることばが用いられていない。例えば,大根  ルニ及ハズ。」とのべているように,西洋の農業知識を と書かれていれは,誰れにもわかるが,ラフクと書けば  非常に重視している.どの教科書も共通してプラオ,カ 何んのことか大部分の人が理解できないであろう。しか  ルチベートというような外国の耕運機がさし絵とともに

もそれが解放前の中国で用いられていた繁体字の漢字で  のっている。このような農業機械け当時の農村では使用

書かれている。前記の農学路志留遍を説明したところで, されていず,耕運び機械化は1955年以後日本でははじま

(6)

164       茨塊大学教育学部紀要 第26号

ったのである。新撰農業書には牧草として「テモシイ,  用ノ節減ヲ図ラサルヘカラス」ということから専科の教 レットトップ,ナーチャド,ライクラッス,ブルーグラ 員や教科目を増やさない方針をとった。(実際には尋常 ス」などがあげrれ,果樹としては「カーラント,クー  小学校にもかなりの数の専科教師がいた)。専科教員の スベレイ,ラスプレイ」などが書かれている。これらの 試験科目は図画,音楽,体操,家事,手工,農業,商業,

植物はそのころの日本にはまったくなかったので,著者  外国語の1科目もしくは数科目とされた。専科の教科と が外国の農業書を引用したものであろう。       して手工,農業,商業の処遇はこれらの教科の発達に大

このように当時の農業の教科書は変体仮名の使用,繁  きな影響をおよぼした。

体字による難解か用語の使用と日常使用語の無視,外国   教師の処遇のなかでもっとも重要な位置をしめるのは,

書の魏訳という3つの点で,こどもの発達の能力を無視  給与である。1890(明治23)年改正小学校令60条は「市 したものであった。このような教科書が教育界から批判  町村立小学校教員ノ給料額及旅費額ノ標準並二給料旅費 されるのは当然のことであった。筆者の多くは教育や農  其他諸給与ノ支給方法ハ府県知事二於テ之ヲ規定シ,文 業の実態を知らない「武家の農法」であったといえみう。 部大臣ノ許可ヲ受クヘシ」となっていたように,教員の

しかし,再版されたものは,さし絵を多くいれ,視覚に  給与・旅費の標準は府県知事が規定し,文部大臣の許可        19)

iえて読者に読みやすいという感じを与えていた。それ  をうけることになっていたが,給与は町村費から支給された。

でもなおそうした批判が出されたのである。       この規定にもとづき,1892(明治25)年から各県で給 1887(明治⑳)年から1901(明治34)年までは再版さ  与表が作られた。そのなかには専科教員の給与標準がの れたものがなく,教科書の出版にも農業教育の不振が反  せてある県とない県があった。例えば,青森県,愛媛県,

映している.発行された教科書も旧態依然たるものであ  富山県で作られた同年の給与表には専科教員の給与がの った。村尾の小学農業教程(1895年刊)は変体仮名を使  せられていない。これらの県では専科教員数が少く,ま 用していたし,片山の小学農業書(1892年刊)はむつか  た専科教師の担当する教科が十分普及していなかったか

      20)

オい漢字を多くしているなど(例えばじゃがいもを爪畦  らであろう。福島県,神奈川県,石川県,静岡県等の給 署,うどを土当帰と書いている∂編集面に改善がみられ  与表には専科の給与表がのせられている。

なかった.そのなかで比較的よいのは横井時敬の農業小  つぎに福島県町村立小学校教育の月俸額標準をみよう。

学で簡潔に書かれ・難解な漢字を省いている・また・    第4表 1892年の福島県給与表(福島県教育史 1892(明治25)年頃から書かれたものは平民や士族など      第1巻1258頁より引用)

の族籍は書かれておらず,筆者の学歴が記載されるよう

になっている。すでに士族であることが重要な筆者の条 訓導

本科教員

四十円 三五円 三十円 二七円 件ではなくなっているのである。谷中の論じた二〜三に

ノ資格ヲ

二五円 二三円 二十円 十八円

ついては他目に論じたい。

有スルモ 十七円 十六円 十五円 十四円

十三円 十二円 十一椚  十円

専科教師の待遇 九円  八円  七円

すでにみたように手工の不振は担当教師の待遇がわる 訓導

専科教員

二十円 十九円 十八円 十七円 く,よい教師が得られなかっだことにある。事情は農業 ノ資格ヲ 十六円 十五円.十四円 十三円 でも同様であった。手工や農業のように労働をともなう 有スル者 十二円 十一円  十円  九円 教科の教師として担任教師がよいか,専科教師がよいか 七円  六円  五円  四円 は問題のある点である。ここでは教科の専門性を重視す

准訓 本科教員

十五円 十四円 十三円 十二円

るという立場からもっとも専科教師が教育することが望       18)ましいと考えその処遇をみたい。

ノ資格ヲ

Lスルモ

十一円  十円  九円  八円

@七円  六円  五円  四円 わが国において専科制度が出来たのは,1890(明治2⑳

年の小学校令の改正からであった。この改正によって小

学校教師であるものは,すべて検定に合格しなければな 専科教員 m資格ヲ

八円  七円  六円  五円 l円  三円

らなかったが,尋常小学校は「僅カニーニノ随意学科等 有スル者

ノ為メニ特殊ノ教員ヲ使用スルカ如キコトヲ避ケ以テ費

(7)

各県の教散にのせられている1892年の俸給表の最高 需要が増加したのを蝕こ教職を去る者が多くなっ幾

および最低をつぎの表に示す。      政府は1896(明治29)年に勅令2号を布いて教員の増給 表5 俸給表の最高と最低

をはかった。 「専科教員(中略)ノ俸給額ハ地方長官二

翼e市参事会町村長ノ意見ヲ聞キ之ヲ定ムヘシ(後略】

本科正教員

専科正教員

(第5条)と定めた。従って専科に理解のある市町村長

県 名 最高 最低 最高 最低

福 島 40

7

20

4 のいるところではそれほど低給でないところもあったと

石 川 50 8

6 5

推測される。

神奈川 30 10 15 5

しかしながら政府は1900年になると,小学校令を改正 静 岡

35 8 20

6 した。その施行規則148条において「教員ノ月給額ハ左 表二依リ定ムヘシ」として給与表を全国一律に画一化し もっともひくい石川県を例外とす再ば,専科正教員は  た(表6)。専科正教員の給与は本科正教員の48〜57%

本科正教員の50、75%の給与しかうけていないことがわ  となった。こうして国が差別を正当化したことは専科教 かる・専科教師は月給の上から大きく差別されていた。  師を必要とする教科の発達をいちじるしく妨げた。専科 日清戦争によって物価が騰貴したのに待遇が改められな  教師にはふたつの影響があらわれた。(同時に専科准教 いので,かねてから待遇に不満であった教員や免許状の  員制度を廃止している。その理由については将来解明し 有効期限が切れたものは,各種の事業が勃興して人材の  たい)。

表6 1900年の小学校教員俸給表 (単位円)

職 名

  級上 1 三

本科正

七五 六〇 五〇 四〇 三〇 二四 二〇 一六 一三

一  一

教 員

六五 五五 四五 三五 二七 二二

一八

一四 一二 一〇 専科正

四〇 三〇 二四 二〇

一六

一三

一  一

教 員

三五 二七 二二

一八 一一l

一二 一〇

准教員

二〇 一六 一五

一 一

一八

一一l 一→

一〇

第1に,専科教員の収入がひくいとすれば,この給与

年度

男 女

合計

だけで満足できる者しか専科教員にならないということ

1896

116

114

230

279 262 541 771

である。専科教員といえば,裁縫教師の代名詞となって

1897

109

139

248

334 299

633

  ●W81

いたように,女性が増加したことである。専科が低給で 18{B

107

143 250

386 366

752 1002 あったとはいえ,女性の労働が低い評価しかうけていな

1899 107

202 309

414 427 841

1150 かった当時では,専科の給与は婦人にとっては高い給与

ナあったであろう。このことは専科教師の男女の割合か

1900 P901

P902

85 P4 P26

392

P65 P306

477

P79

P432

496

P46 V63

791

Q96

Q302

1287 S42 R069

1764

U21

らも推測できる。表7に示したように,1895(明治28) 1903

125

1432 1557

654

2550 3204 S497

4761

年から1898(明治32)年までほぼ男女の割合が1:1で

1904 88

1302

1390 591

2643 3234

4624

あったものが1900年を境に女子が圧倒的に増加していく 1905

105

1305 1410 649

2585

3234 4644

ことで明かである。 1906 141 1242

1383

719

2594 3313 4696

表7 明治時代における専科正教員の性別(文部省 1907

171 1281 1452 745

2513 3253 4710

年報より作成)

1908

358

2446 2804 594 2007 2601 5405

尋常小学(A) 高等小学(B) A十B

1909 560

2980 3540

548

1636 2184 5724

年度

男 女

合計 1910 714

3596

4310 506 1213

1719 6029

1895 117 117 234 246 235 481 715 1911 831 3704

4535

602 1280

1882 6117

1912 920

3914 4834

646 1283

1229 6763

(8)

166       茨城大学教育学部紀要 第26号

第2には専科正教員より給与のたかい本科正教員に転  「尋常師範学校教諭助教諭及訓導ノ俸給ハ其授業ノ時間 科するものが多くなったことである。せっかく,専科教員  及学科ノ軽重難易二依リー号表及二号表二掲クル俸給等       28)

ノなっても検定試験をうけて本科正教員に移って行くも 級相当ノ額ヲ滅給スルコトヲ得」と定めていた。すなわ のが続出した。また,転職するものも多かったらしい。  ち,社会的評価のひくい遜科の教師の俸給は県議会の手

小学校の農業科訓導の理想としては「五ヶ年以上勤続  によって思うままにひきさげられた。

差支なき人物たること」といわれたのは,逆にいえぽ5  例えぽ,この年に千葉県議会では手工科教員給を減額

      22)       29)

N以上勤務するものが少かったことを物語っている。各  することが提案されている。その理由として「小学校ノ 地の農業教育研究会では待遇改善の話し合いが大正時代  教員ヲ養成スルニ如斯別科目ヲ設ケテ教習スル程ノ必要」

にされている。1914(大3)年には愛知県では「農業科  がないし,手工科を廃止すれば病室を新築しなくても手 教員の待遇をよくすること」,1917年には「待遇を進め  工科の跡を使えばよいというものであった。また,手工 農業に関する素養深くして教授に堪能なる専門教員を招  科の助手を廃止すべきであるという意見も出た。役人が

      23)へいすること」という協議をしている。昭和に入ると噂  「手工科ヲ置キ追々生徒二工業心ヲ発達セシムルコトガ

群馬県では1928年に「専任教員は長く一つ学校に勤むる  必要」という説明があったが,原案が通過して手工科は こと・専任教員の地位安定を講ぜられたし」と協議して  廃止された。後に高等師範学校教授となり手工の権威と

24)

いる。       いわれた岡山秀吉は1893(明治26)年3月より1896(明

「血みどろになって働いても一向に認められず,いつ 治29)年3月まで千葉師範学校に在職していたが,彼の        30)

煢コ積にされ校長にも主席にもなれないせいか,はた又  手工は僅かしか教えず音楽を教えていた。このような状 教師自ら勤労を嫌ふせいか,折角農業に対する見識も養 況であったから,師範学校には手工科の教師はほとんど はれ技術も出来るやうになると,却って普通科の教師 皆無でけなかったかと推測される。

         25)

ノ転ずるものがある」。       そのようななかで小学校で実業教育を進めようとして こうした認識は教育界に広がっていった。1927年に東  も困難である。1899(明治32)年,文部省および高等師 京高等師範学校で開かれた全国訓導協議会(高等小学問  範学校長嘉納治五郎は手工教員の養成機関として高等師 題)では「専科正教員ノ待遇ヲ本科正教員卜同一ナラシ 範学校に2年4ヶ月制の官費手工専修科を作った。専修 ムル様法規ヲ改正スルコト」という建議案を文部大臣に  科は1894(明治27)年の高等師範学校規定が改正されたと 提出したが,1926年に手工や実業が必修となり,差別待  きからもうけられるようになった。この規定によれば,

遇では教員が集まらないことがはじめて公けの場で認め 専修科は臨時におかれるものであった。従って1904年頃 られたのである。しかし,それまでになるまでには,ま  までの中等学校が勃興した頃までは必要に応じて各種の だ,通らねばならないけわしい道があった.明治後半の  専修科が設置されたが,大正以後は体操および図画手工 教員養成に話をもどそう。       専修科のみをおいた。専修科の年限は短かいのは1年6

       31)

P月,長いのは3年位であった。

゜   高等師範学校の手工専修科

日清戦争後富国強兵・殖産興業をスローガンとして,       32)

¥8 手工専修科の教育課程

日本資本主義の発達に順応する労働者や農民が求められ

学科    惑年

第1学年 第2学年 第3学年

た。その点から,小学校の農業や手工が一・部では重視さ

倫    理

ウ  育  学

12 14

(4学期)

れた。しかしながら,すでに1892(明治25)年に師範学 国     語

2

実屯授業 校の手工科は随意科となり,選択する生徒が減少したた 物     理 3

めであろうが,師範学校で手工を担当した教師は工業学 数    学

3

     27)

Zに転職した。また他教科に転科したものが多かったと 手     工    2

タ修12   3 タ修12

推測される。 図画(用器画) 10 10

まえに専科教師として手工科教師の待遇がひくかった (自在画)

ことはのべたが,事情は師範学校でも同様であった。

体     操

@  計

323 324

1892年4月30日に「尋常師範学校職員ノ俸額ヲ定ムル事1 実修12 実修12

(文部省令第6号)が定められたが,その第3条には

(9)

手工専修科は教授上原六四郎・助教授岡山秀吉が担当し, に作られた。これについてのべる前にまず実業補習学校 教育課程は上に示す通りである。この科では手工のほか  についてふれねばならない。実業補習学校は尋常小学校 に図画の教員免許も与えた。この専修科からは奥山新次  卒業者で職業に徒事している青年に対してその職業に必 郎,斉藤金造,山主重作,阿部七五三吉など後の手工教  要な知識技能を授ける定時制の学校補充的な社会教育機 育の指導者が出てくる。彼等は手工に熱心な人たちであ  関であった。実業補習学校は1893(明治26)年の実業補習 った。つぎのエピソードはそのことをよく示している。  学校規程によってはじめて制度化された。この規定に関

1900(明治33)年に小学校令が改正されたが,そ治、と同  する訓冷では,

時に鱗学校令の改正しようという意見力咄され摺1こ 「我国.坊或明,進歩ヲ見,レニ拘ラスコノ科学的.知 の年の秋文部省は師範学校長会議に改正に関する諮問を   識能力ハ未タ普通人民二浸潤セス 教育ト労働トハ画 した。ところが知育中心主義の校長たちは手工科不要論   然トシテ特別ノ界域二立チ農工諸般ノ事情ハソノ大部 を可決した。さらに文部省はその決議を文部大臣の諮問   分二於テ,傍旧習二沈澱スルコトヲ免レス 今二於テ 機関であった高等教育会議に諮問した。高等教育会議で   国家将来ノ富力ヲ進メントセパ国民ノ子弟二向テ科学 は手島精一,後藤牧太によって手工科存続支持説が主   及技術ト実業トー致配合スルノ教育ヲ施スコトヲ務メ 張されたが,結局師範学校長会議の決議を重視し,手工   サルヘカラス 殊二普通教育補習二於テ実業二須要ナ 科の廃止を決認た.その決謙、9。、(明治34)年、月 ル知謙能ヲ授クルコトヲ務.サ,レヘカラ碧

の新聞紙に発表された。      とのべている。この文章から国力を富ますこと,つまり 新聞によって決議を知った手工専修科の生徒は,ただ  資本主義を発達させるためには,尋常小学校程度の学力 ちに手工の復活運動を開始した。彼等は普通学務局長兼  では不十分であるので,それを補うため実業に関する知 高等師範学校長の沢柳政太郎をはじめ高等教育会議員を  識技能を教育しなければならないという国家権力の意図 訪問して決議の誤りを指摘し手工の必要性を説いた。そ  をよみとることができる。換言すれば,この時代はわが の結果,師範学校令の改正は実現しなかった。      国の産業資本が確立するときであり,国家は産業資本段 師範学校長が手工科の不要論を可決するほど手工科軽  階に相応する労働者,農民,商人に国民を再教育するた 視が強かったから,専修科の生徒が卒業しても手工科教  めに,実業補習学校を創設したのである。

員の需要は少く,図画の教師として赴任するものが多か   実業補習学校の修業年限は3ケ年以内であり,日曜日・

った。例えば越佐教育雑誌や信濃教育雑誌などの地方教  夜間・季節等に応じて聞くことができるようになってい 育雑誌に手工に関する論文をのせた斉藤金造は,図画の  た。また,教員は「小学校教員又ハ其ノ資格アル者,又 教師として柏崎中学に赴任し,後に長野師範で手工を教  ハ相等ノ普通教育ヲ受ケ実業ノ知識又ハ経験ヲ有シ地方 え,東京の視学や高小の校長を歴任した。この経歴が示  長官ノ許可ヲ得タル者」となっていた。

       34)

キようにはじめから手工を教えるものは少かった。    東京帝国大学附属農業教員養成所は1899(明治32)年 1906(明治39)年に手工専修科は改称されて,図画手  にこの農業実業複習学校教員養成を目的として創立され 工専修科となった。その教育課程では図画の授業時間を  た1年制の学校であった。(同時に,商業学校および商業 増やしたほかは第、回のものと大差なかったとい夢1こ 網学校の獺養成のために東京高舗業学校附設商業 の改称の第1の理由は図画のほうが教師の需要が多かっ  教員養成所が作られた)。農業教員養成所の学科目は倫 たという点にあると思われる。第2の理由は図画と手工  理,農業汎論,農芸化学,耕種,畜産,農業,経済,教 を合科させることが望ましいという考え方が広がってき  育学,教授法,体操であった。目的は前述の通りであっ たことにある。上原六四郎と岡山秀吉が手工を担当した  たか,1933(明治33)年文部省令第10号教員検定に関す が,上原は「仏蘭西の如きは已に小学校に於て,手工と  る規定第5条第1項第1号により無試験検定資格が与え 図画と云ふものを全く混同して図画とも附かず,手工科  られ,師範学校教員ならびに農学校の教員になることが とも附かず,全く同一にして同時に授けて居る」と紹介  できた。

して、銑このよう酬国での事情も影響した。   囎学校の教員養成を目的としながら,師範学校膿 学校の教員免許状を与えたのは,ふたつの理由がある。

農業教員養成所      第1に,実業学校が増加し,札幌農学校や農科大学など

農業教員養成所は農業実業補習学校の教員養成のため  の高等教育機関だけでは師範学校および農学校の教員が

(10)

168      茨城大学教育学部紀要 第26号

不足したことである。第2に,「師範学校の農業科は義  を明かにしようとしたのである。

務的に設けたるものと云ふて不可なく,教員にも高給を   従来の先行研究では教科の目標や内容に重点がおかれ 払わず之を継子視して顧みざるが常なり鉱、われたよてきた.そして制度的な側面が軽視されてきた.小学校

うに,農業科の教師は低給であったので,高等教育をう 令の制定の頃の石川県における実業教育が職業教育的で けた人たちが敬遠した。これをうめあわせるために,学  あるという教科の性格からではなく,教育費を保障しな 歴をひきさげたのである。札幌農学校は本科4年,予科 い制度のために失敗したことをみた。また,ノ』・学校の実

3年制,帝国大学農科大学は3年制で,高等中学(旧制  業教育を実業学校のかわりにおかれたという見解がある。し

高校の前身)は,2年制であり,大学を卒業するには5  かし農業の教帥のなかには,農業を普通教育とみるもの 年が必要であった。これと比較すれば,1年制の農業教  が多かった。教師の実業教育観を解明することがつぎの 員養成所は修学年限を非常に知縮したことがわかるであ 課題である。

ろう。1900(明治33)年から1903(明治36)年までの就   また専科教員の待遇がひくく,教師を確保する条件が 職先をあげると,       なかったことをみた.この点で特に感じたことは,現在

一、師範学校に奉職せらるN者   二十名     の職業高校の産業教育手当の問題がある。一部にはこの 一、高等女学校及中学校に奉職せらる工者 一名づっ 手当が職業高校を民主化するガンであるという批判があ

・一

A甲乙種農学校に奉職せらるx者 七十二名     る。しかし,困難な状況のなかで他教科と比較にならな 一、農業補習学校に奉職せらるx者 三十五名    い程の準備や後始末に時間を必要とするにもかかわらず,

一、普通の小学校に奉職せらる工者 七名      この点を見逃してガンと批判するというには問題がある。

一、帝国大学農科大学助手     三名      社会から低評価をうけているものが,高い待遇を受けな 一、地方巡回教師        五名      ければ,その藪科は発達しないことを専科教師の例は示 一、軍籍にある者        五名      している。

一、米国遊学中の者        一名       引用文献および注

一、台湾に居る者         一名

其他諸官省に奉職せるもの    9名(筆者による)  1.原正敏・内田糺編 技術教育の歴史と展望(講座現

         39)

イ業生総計 百六十名」       代技術と教育8)1975年 54頁。

という状況であった。実業補習学校に就職するものより  2.教育公論26号 1900(明33.2)年。

も農学校就職者が多かった。農学校72名(40%),実業  a滝沢菊太郎 石川県の実業 上野教育会雑誌10号

補習学校35名(219%),師範学校20名(12.5%)の順に多   1888(明21.8)年。東大教育学部図書館所蔵。

い。      也不振の理由が研究されはじめたのは,1903年以後で 1905(明治38)年になると,教員の需要が減退したら  あった。これはその理由を克服するためであった。

しく,翌年より1912(大正元)年までは隔年にしか卒業  5.細谷俊夫技術教育 1944年134頁。細谷は「23 生を出していない。卒業生のいない年度は明治時代では   4年の交は盛況を極め,森文相の巡視の際,激賞」と 1906(明治39),1908(同41),1910(明治43),1912  書いているが,森は憲法発布の日,すなわち明治22年

(大正元)の各年度であった。      2月11日に刺客におそわれ後死亡するので,1〜2年 このように就学率が向上した時代にようやく手工や農  間の誤りがあるように推測される。

業のための教師養成機関ができあがったのであった。   6.棚橋源太郎・岡山秀吉手工科教授書1905年92頁。

7.滝沢菊太郎 石川県の実業(承前)・上野教育会雑

おわり に         誌1888(明2L9)年・

&奥山無言 小学校に於ける手工教育(下) 山梨教 この研究を日本教育学会の1976年度大会で発表したと  育103号1903(明36.6)年東京教育大学図書館所蔵。

ころ, 「農業の研究が目的なのか,手工の研究が目的な   著者は奥山新次郎と推測される。

のか」という質問をうけた。従来の研究では農業や手工  α愛知県教育連合会議題 教育報知379号 1893(明 のちがいが強調されてきたが,ここでは共通点をとらえ  26.7.22)年。

て,あらゆる職業に準備する技術や労働の教育の問題点  10.実業教育施設二関スル意見 教育時論2961893

(11)

(明26・7・5、年。この論文は同年に発行された茨城教  24.第3回農業教育大会状況 新上野 1928(昭3.5)

育協会雑誌113号(8月号),香川県教育会報告48号   年9巻5号。

(同上),奈良県教育会雑誌8号(11月号)等に掲載  25.前田政吉 小学校農業教師論 神奈川教育265 されているので,影響は大きかったと思われる。    1930(昭5.5)年。

1L明治以降教育制度発達史 3巻 102頁。      26。川崎寅吉 高等小学に関する問題(全国訓導協議会 12・沢柳政太郎 小学校令の改正について 上野教育会   に出席して)越佐教育421 1927年11月号。

雑誌188号1903(明36.6)年。この論文は実科教育8  27.東京工業大学60年史 1940年430頁。

号より転載されたものである.      2a文部省教育調査部 師範教育関係法令の沿革 13.石戸谷哲夫 日本教員史研究 1958年159頁以下。   1938年 125頁。

14.原正敏・内田糺編 技術教育の歴史と展望 1975年  29.千葉県議会史第2巻 1969年 528頁。

54頁。       30.千葉師範学校沿革史 1934年 253頁。岡山秀吉が 15.谷中長吉 農業科の失敗及救治策 千葉教育雑誌    手工を少ししか教え・なかったことについては富田馨吾 1893(明26.10)年。      氏の指摘による。富田氏は岡山の千葉師範時代につい

16.海後宗臣・仲新編 近代日本教科書総監解説解説篇   て雑誌手ユニ研究に書いている。

1969年 697頁以下。       31.横山健堂 嘉納先生伝 1946年 99頁。

17農学路志留遍及初学商業書ヲ廃スルノ議香川県教  32東京文理科大学・東京高等師範学校 創立60年 育会雑誌8号 1890(明治23.4)年。      1931年 256頁。

農学路志留遍 国立教育研究所および東書文庫所蔵。  3a阿部七五三吉 手工教育原論1936年 385〜386頁。

初学商業書 国立教育研究所所蔵,後篇は東書文庫に  鉱手工科創設時代の思い出 手工研究205 もある。教科書類は国立教育研究所所蔵本を参照した。  1937(昭12.7)。

18牧昌見 日本教員資格制度史研究 1971年 180頁。 35.32の258頁.

1α福島県教育史 第1巻 1972年 1256〜1259頁。   訟上原六四郎講述市川半四郎速記 手工に就て 大阪 訟青森県教育史第3巻 1970年 596頁。       府教育会報204 1903(明3α6)年。

愛媛県教育史第1巻 1971年 772頁。       3乳実業教育50年史 1934年 228頁。

富山県教育史上巻  1971年 708頁。       3&社説「農業教員の養成」日本農業雑誌 7巻5号 21.石川県教育史第1巻 1974年 721頁。       1902(明45.5)年。

神奈川県教育史資料篇第1巻 1973年 409頁。   39.荒川銀太郎 養成所の状況 山形県教育雑誌175 静岡県教育史資料篇上 1973年 409頁。      1904(明37.10)年。

2213の222頁。      40.帝国統計年艦は1886(明治19)年・7回,1893        ・

蜊]正多理想之小学校農業科 大分県教育雑誌    (明治26)・14回,1896(明治29)年・17回,

1917(大6.7)年。      1893(明治31)年・19回,1903(明治36)年28 2a第9回農業教育打合会愛知教育雑誌3311914    回,1908(明治41)年・33回,1913(大正2)年・

(大a5)年。第2回愛知県初等農業教育研究会状況   35回の人口篇によっている。

同誌3561917(大6,6)年。

(12)

170      茨城大学教育学部紀要 第26号

The Crucible of Manual and Agricultural Education1892−1902

Tosiaki Nagasima

Abstract

From l892 to 1902 the Japanese people had accepted the concept of universal public elemen一

ta}y education. The following tabulation shows the percentage of school attendance.

1893      1903

boy  gi把l   boy  gir1 compulsory school    7476 40.57  9659 8958

high primary schoo1     3・40  0・80  4107 16b5

〕As japanese thought that women must not edugate・but learn sewing and marry early,few girls went to school.The Ministry of Education encouraged school to add sewing. This was prosperous,

but manual and agricultural educatiQn were stagnant・The next table shows the n㎜ber m田dm㎜aPd minimum of schools addi㎎three subjects.

1895    1896    1897    1900    1902

sewing of compulsory schooL  .      3693   4550  4782  6966  8562 manual work of compulsory school.       8    7    3   8   26 manual work of higher primary school.    14    6    17   44   29 agriculture of higher primary schoo1・    154   216   265   430  1125 This study analyzed the cause of stagnation in mamla 戟@work and agriculture. This subjects were wide−spread from 1887 to 1889 in Isi㎏wa Prefecture. But,they were inactive in the next year.

As the eost of them depended on the money contributi㎎by parents, the capital that teachers were imp・sed・n,th・p・y・f・elli・g P・pills p・。d・・t・and the sch・・1…t・f…ati・n1・d・・ati・n・th・y were not fixed the s㎜. Teachers and pupils overwOrked to make the upkeep・Isikawa Prefecture

didrlt make the budget ststem of vocational education for the elementary education.

Some scholars。f manual work tho㎎ht that agricultural and co㎜ercial education i忌the subject

of vocational education in higher primary schooI. But, the imperial ordinance of primary school in 1900 prescrib・d th・t・g・i・ulture and・・mmerce l・a・n th・g・・eral㎞・w1・g・・f th・m・Th・・pi・i・n・n v・ca一

tional education which eight famous scholars wrote in l89$said that r口amlal work and agriculture

i。prim・・y sch・・l trai・th・・pi・it t・m・k・m・・h・f・・cati・n・Th・n th・y m・d・di・ti・・ti・n m・皿・1 w。rk。。d・g・i・ult・・e b・tween・d・・ati・n・f f・㎜er and h・ndi・raftman・B・t・m・町t・a・her・mi・md・・一

stood that the former was°equal to the latter.

恥pil・1・a・n・d・g・i・ulture m・re than manual w・rk・H・w・ver・・g・i・ulture h・d bee・・t・即ant・There

were some textbooks on agriculture. But,it was very difficult for bqys to understand them,as

f。ll。w,. lb th, fi,,t place,m。ny auth。rs cam・f・・m th・・lasse・・f warri・r,・・th・y di猷㎞・w

real farm, Seeondly,they wrote them with old type of chinese apd cursive character that many peoples of those days was hardly to read. Thirdly,they introdueed foreign agriculture such as

,ultiv。t。r and、t。,k−f。,mi㎎whi・h J・pan・・e・・uldHt w・t・h・It w・・nat・・al th・t・ther t・a・her・

thought agriculture in primary school useless.

Article 1480f the regulations for the enforcement of imperial ordinance of primary school in 1900prescribed that the salary of special teacher such as manul work・agriculture and sewing was from 48%to 57%of regular teacher in the salary schedu真e。 As a result,special teachers became

(13)

almost wqman of sewi㎎,so then she underestimated the labor.

Manual work and agriculture cha㎎ed selective subject in the junior normal school in 1892, so there were very few teaehers of them・The Extraordinary Cource of Manua I Work at Higher Normal School was established in 1899 to train teacher of manual wofk for juniOr normal 5chool・At the

same time the Traini㎎School for Agriculture Teacher attached Tokyo Imperial University was

founded to educate teacher of eontinuation school for agricul ture.

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